第3章 第32話 「星脈の王都」
旧採石場の朝は、灰都の中より少しだけ早い。
日が昇る前から風が外壁にぶつかり、掘り下げられた石場へ冷たい空気を落としてくるからだ。昨夜使った毛布には夜露が染み込み、屋根代わりに張られた防水布の端からは、ときおり溜まった雫が落ちた。
昨日までは、灰都から来た人間がほとんどの作業をしていた。
今朝は違った。
帰ってきた者たちの中から、自分で仕事を探す者が出始めている。
水桶を運ぶ老人がいる。
乾かすための毛布を抱えた若い女がいる。
昨日、幼い子を抱いていた男は、その子を背負ったまま鍋を洗っていた。
彼らがどこの時代から来たのか。
本当にこちら側の人間なのか。
そもそも「帰ってきた」という言葉が正しいのか。
分からないことは、昨日と何も変わっていない。
それでも腹は減るし、毛布は乾かさなければならない。
灰都から手伝いに来た職人の老人が、屋根の補強材を持ち上げながら不機嫌そうに声を上げた。
「そこ、突っ立ってないで反対側持ってくれ。俺一人じゃ腰が死ぬ」
声を掛けられた角持ちの男が、自分のことかと胸を指した。
「俺?」
「他に誰がいるんだよ」
「触っていいのか?」
「何で聞く」
「昨日、勝手に触るなって言われた」
「あれは崩れる柱だ。これは持つための木だ」
「違いが分からない」
「見りゃ分かるだろ」
「分からない」
「……お前、アルドと気が合いそうだな」
老人はぶつぶつ言いながら木材の端を男へ渡した。
その横では、昨日まで互いの存在すら知らなかった二人が、一枚の毛布を広げようとしていた。
「そっち、もう少し引いて」
「そっちって?」
「あなたの方」
「私から見たら、あなたもそっち」
「……じゃあ右」
「どっちから見た右?」
「もういい、一回置こう」
そんなやり取りを、少し離れた場所からノアが眺めていた。
兎耳を風に揺らしながら、手には自分の朝食のパンを持っている。
「昨日より、うるさくなったね」
隣に立っていたヴェスパーが笑った。
「いいことなんじゃないか」
「昨日はみんな静かだった」
「静かすぎたな」
「うん」
ノアは一口パンを齧る。
「今は、いろんな声がする」
「聞きすぎるなよ」
「聞いてないよ。普通に聞こえるだけ」
「それならいい」
ヴェスパーも採石場の中へ視線を向けた。
生活の音が増えている。
桶が石に当たる。
誰かが咳をする。
子どもが走って大人に叱られる。
火に掛けられた鍋が小さく鳴る。
昨日、ここにいた四十七人は「向こう側から来た者たち」だった。
今朝は少しだけ。
毛布を干す人。
鍋を洗う人。
朝が苦手な人。
そういう、別々の人間に見えた。
「ヴェスパー」
ノアが採石場の端を指差した。
「何か落ちた」
黒い灰だった。
干していた毛布の表面に付着していた一片が、風に煽られて地面へ落ちたらしい。
今では珍しくもない。
黒い灰は、この数日で灰都のどこにでも入り込むようになった。石畳の隙間にも、屋根瓦の上にも、洗濯物にも付く。
ヴェスパーが目を逸らしかけた時だった。
「あれ?」
近くにいた少女が声を上げた。
小さな角を持つ、七つか八つほどの子どもだった。
少女はしゃがみ込み、地面に落ちた灰を拾おうとする。
「触らない方がいい」
ヴェスパーが呼び止めると、少女の指が寸前で止まった。
「駄目なの?」
「危ないかもしれないから」
「でも、変だよ」
「何が?」
少女は地面を指差した。
「白いのがある」
ヴェスパーは近寄った。
灰は表を向いている。
黒い。
普通の灰にしか見えない。
「どこ?」
「裏」
少女が言う。
「さっき、落ちた時にひっくり返った。裏だけ白かった」
ヴェスパーはすぐに触らなかった。
「ノア」
「うん」
「イリス呼んできて」
ノアがパンを咥えたまま走り出す。
少女は不思議そうにヴェスパーを見上げた。
「怒られる?」
「何で?」
「見つけたから」
「見つけただけだろ」
「触ろうとした」
「次から触らなければいい」
少女は少し考え、それから頷いた。
「じゃあ、怒られない?」
「たぶん」
「たぶん?」
「イリスは変なもの見つけると興奮するから、別の意味で怖いかもしれない」
少女が真顔になる。
「怖い人?」
「いや」
ヴェスパーは首を傾げた。
「……たぶん違う」
「また、たぶん」
◇
「どこ!?」
イリスは、本当に走ってきた。
片手に小さな道具箱を抱え、長い髪も十分に整っていない。
後ろからノアとセレスが追ってくる。
「ほらね」
ヴェスパーが少女へ言う。
「本当に怖いかも」
「聞こえてるんだけど?」
イリスは足を止めるなりヴェスパーを睨み、それから地面の灰へ視線を落とした。
表情が変わる。
「……これ?」
「ああ」
「誰も触ってない?」
「この子が触ろうとしたけど、止めた」
「触ってないよ」
少女が慌てて両手を見せる。
イリスはしゃがみ込んだ。
「大丈夫。怒ってないから」
「本当?」
「本当」
イリスは灰へ顔を近付ける。
「ただ、次に見つけても拾わないで。私か、近くの大人を呼んで」
「どうして?」
「これが何なのか、私にも分からないから」
「詳しい人なのに?」
「詳しい人でも分からないことはあるよ」
少女は少し意外そうな顔をした。
「大人なのに?」
「大人はそんなに何でも分からない」
ノアが横から言う。
「ヴェスパーもよく分からないって言うよ」
「何で俺が例なんだ」
「ガルムも言う」
「それならまだいい」
「何がいいの」
イリスが呆れながら道具箱を開ける。
中から細い金属製の挟み具を取り出した。
直接灰へ触れないよう、慎重に端を持ち上げる。
ゆっくり裏返す。
その瞬間。
ヴェスパーにも見えた。
「……本当に白いな」
黒い灰の裏側。
そこに、髪の毛よりわずかに太い白線が走っている。
自然に生まれた亀裂ではない。
一本の線が途中で折れ、別の線と交差していた。
小さすぎて意味までは分からない。
けれど。
偶然そうなったとは考えにくい形だった。
「文字?」
ノアが尋ねる。
「まだ分からない」
「星脈文字?」
「似てない」
「じゃあ、昔の文字?」
「それも今は言えない」
イリスは答えながら、道具箱から厚手の白紙を取り出した。
灰をその上へ置く。
次に透明な薄板を被せ、直接空気へ触れる面積を減らした。
「測らないの?」
ヴェスパーが訊いた。
「星脈式の器具ではね」
「どうして?」
「この灰、星脈へ触れた時に消える可能性がある。それに観測そのものへ反応するなら、いきなり強い器具を向けるのは嫌」
「じゃあどうする」
「見る」
「今も見てる」
「もっと普通に見る」
イリスは白紙へ簡単な線を描き始めた。
灰に付いている模様を、そのまま写し取っているらしい。
「最初は目。それから紙。必要なら拡大鏡。星脈は最後」
「意外と慎重だな」
後ろからガルムが言った。
いつの間にか来ていた。
イリスが顔を上げる。
「私を何だと思ってるの?」
「面白いものを見つけると周りが消える奴」
「そこまでじゃない」
セレスが黙ってイリスを見る。
「……何?」
「いえ」
「セレスまで?」
「何も言っていません」
「顔が言ってる」
ガルムは灰を覗き込んだが、それ以上近付かなかった。
「見覚えは?」
イリスが尋ねる。
「ない」
「即答だね」
「知らんものを知ってるとは言わん」
「星見にも見せたい」
「呼んである」
「早い」
「お前が走ってるのを見たからな」
少しして。
星見と空白が採石場へ姿を見せた。
星見はまだ完全に灰都の服装へ馴染んでいない。
六百年前の衣服は傷みすぎていたため、今は灰都で借りた濃灰色の上着を着ている。それでも歩き方や立ち方には、どこか時代の違いが残っていた。
「朝から騒がしいと思ったら」
星見が言う。
「今度は灰か」
「見て」
イリスは紙に載せた灰を差し出した。
星見は腰を曲げる。
数秒。
十数秒。
答えない。
「どう?」
「急かすな」
「見覚えがある?」
「それを考えてる」
さらに少し。
星見の眉間へ皺が寄る。
「……分からない」
レイラが遠くから「出た」と言った。
水桶を持ったままこちらへ来る。
「お前、本当にその答え好きだな」
「好きで言ってるわけじゃない」
「六百年いたんだろ?」
「六百年いたから、分からないものを分かったと言う気がなくなったんだよ」
「便利な言い訳にも聞こえるけどな」
「そう思うなら、お前が答えを出せ」
レイラも灰を見る。
「……分からん」
「ほらな」
「私は六百年いなかったからいいんだ」
「どういう理屈だ」
いつものようなやり取り。
ただし。
星見は笑っていなかった。
灰から目を離しても、何かを探るように指先を擦っている。
空白が気付いた。
「身体が覚えてるのか」
「それが自分でも分からない」
「嫌な感覚は?」
「ある」
その一言で。
周囲の空気が僅かに変わった。
イリスはすぐに尋ね返さなかった。
星見が自分から続ける。
「この線を見ていると、長く見ない方がいい気がする。向こう側で何度かあった。形や景色を追いすぎると、いつの間にか別のものを見せられていることが」
「この模様がそうだと?」
「そこまでは言ってない」
「分かってる」
イリスは白紙を折り、灰そのものを視界から隠した。
星見が僅かに意外そうな顔をする。
「素直だな」
「最近、私を何だと思ってる人が多すぎない?」
「知りたいことがあると止まらない人」
ノアが答えた。
「ノアまで……」
ヴェスパーは笑いを堪えた。
だが。
イリス自身も。
今回は反論しなかった。
「一つずつ調べる」
彼女は折った紙を道具箱へ収める。
「この一枚から、いきなり灰星の正体まで考えない。まず、この線と似た記号が既存の記録にあるかだけ確認する」
「それがいい」
空白が言う。
「見つからなかったら?」
「見つからなかった、と記録する」
「それで?」
「終わり」
「珍しい」
「空白まで!」
今度こそイリスが声を上げた。
◇
午前中。
灰都の古い記録保管所では、紙を捲る音だけが続いていた。
保管所といっても、王都の記録殿のような整った場所ではない。
昔の商人組合が使っていた石造りの倉庫をそのまま流用しているらしく、棚の高さも不揃いだった。古い帳簿、工房の図面、街道補修の記録、廃棄予定だった星脈器具の設計書まで、時代も用途もばらばらに詰め込まれている。
イリスはそこへ、黒翼から回収された写本の一部を持ち込んでいた。
全部ではない。
今必要なのは、観測技術に関わる記録だけ。
ヴェスパーはしばらく資料を眺めていたが、三枚目で諦めた。
「字が小さい」
「読めるでしょ」
「読めることと、読みたいことは別だ」
「手伝って」
「何を探せばいい?」
「白線と似た図」
「全部同じに見える」
「……やっぱりいい」
「早いな」
机の向かいでは、名前のない帰還者が紙を見ていた。
昨日の聞き取りで。
向こう側に、自分と同じ顔をした何かがいた。
それを三人が別々の場所で見た。
その事実を知ったばかりだ。
それでも彼は、今日は自分からここへ来た。
イリスが誘ったわけではない。
「俺のことを調べるなら、聞きたい」
そう言った。
アステルは彼の隣に座っている。
少し離れたところにはセレス。
リクもいた。
まだ体力は戻り切っていないため、アルドが作った背もたれ付きの簡易椅子に身体を預けている。
「疲れたら言って」
イリスが、紙を見たままリクへ言った。
「分かってる」
「頭痛も」
「言う」
「思い出そうとしすぎない」
「それも分かってる」
リクは少し笑った。
「昨日も言われた」
「昨日言ったから今日も覚えてるとは限らないでしょ」
「覚えてる」
「ならいい」
「イリス」
「何?」
「心配しすぎ」
一瞬。
イリスの手が止まった。
「……それ、誰に習った?」
「みんな」
ヴェスパーが吹き出す。
「強くなったな、リク」
「笑わないで」
イリスは不満そうだったが。
少し安心した顔でもあった。
その時。
名前のない彼が一枚の紙を持ち上げた。
「これ」
「何?」
「朝のに似てる」
イリスがすぐ近付いた。
黒翼の古い技術資料。
人型素体の胸部断面。
周囲に細かな星脈回路が描かれている。
その横。
注釈とともに、小さな幾何学図があった。
円を中心に。
数本の線が伸びている。
朝の灰に刻まれた模様と。
同じではない。
だが。
似ている。
「……観測系統?」
イリスが資料を自分の方へ向ける。
「これ、何の図?」
ヴェスパーが覗く。
「遠隔観測用の感覚同期構造」
「分からない」
「早い」
「最初から俺に分かるように話して」
イリスは少し考え。
机に置いてあった空の茶杯を取った。
「この杯を、目だと思って」
「また変な例えが始まった」
「聞く?」
「聞く」
「人間の目そのものを遠くへ持っていくことはできない。でも、遠くに同じ形の『受け口』を作って、入ってきた情報だけこちらへ流すことはできる」
「穴を作る?」
「大雑把に言えば」
「その穴が」
名前のない彼が、自分の胸へ手を置く。
「人?」
イリスはすぐに答えなかった。
「人型の素体を使っていた。黒翼は、その方が人間の感覚を処理しやすいと考えたらしい」
「俺みたいな」
「……そう」
彼の目が資料へ戻る。
「見るために作った?」
「少なくとも、同じ研究系列の中にはそういう目的の素体があった」
「俺も?」
「分からない」
彼は黙った。
アステルが横顔を見る。
「ここで止めますか?」
「止めない」
「嫌では?」
「嫌」
返事が早い。
それから。
彼はもう一度紙を見る。
「嫌だけど、自分のことだから知りたい」
アステルはしばらく彼を見て。
「分かりました」
それだけ答えた。
以前なら。
「あなたは器ではありません」
とすぐに言っていたかもしれない。
今は。
本人が続きを望んでいる。
その選択を、先に否定しない。
イリスも。
すぐ説明を再開しなかった。
「この研究は完成したの?」
ヴェスパーが尋ねる。
「資料上では失敗が多い。星脈越しの情報が混ざる。距離が伸びるほど映像と記憶の区別がつかなくなる。それに……」
イリスが次の紙を探す。
「観測側の人格へ影響が出た例もある」
アステルの眉が寄る。
「どういう影響ですか」
「他人の記憶を自分のものだと思い込む。見ていない景色を見たと錯覚する。眠っている時に、観測対象の場所へいる夢を見る」
名前のない彼の指が。
僅かに動いた。
「白いところ」
イリスが顔を上げる。
「昨日言ってた?」
「ああ」
「夢?」
「分からない。目を閉じた時に、たまに出る」
「今、詳しく思い出そうとしなくていい」
「でも」
「今日は資料の確認だけ」
彼が。
イリスを見た。
「聞かないの?」
「聞きたいよ」
素直だった。
「すごく聞きたい。でも、今ここで一気にやったら、あなたが話したことと資料に書いてあることを私が勝手に繋げるかもしれない」
「繋げたら駄目?」
「繋がってるならいい。でも、繋がってないものを『似てるから同じだ』って決めるのが一番危ない」
「昨日の人たちみたいに?」
「そう」
向こう側で。
同じ顔を見た三人。
三人が同じようなことを言った。
だからといって。
そこにいたのが、今ここにいる彼本人だったとはまだ言えない。
「分からないまま?」
「しばらくは」
彼は少し嫌そうにする。
「嫌?」
「嫌」
「私も」
「イリスも?」
「分からないまま待つの、かなり苦手」
ヴェスパーが小さく笑う。
「知ってる」
「だから練習中」
「何の」
「待つ練習」
彼は。
少し考えたあと。
「俺もやる」
「何を?」
「分からないまま待つ」
イリスが。
わずかに笑った。
「一緒に頑張ろうか」
「そんなに難しい?」
「私には難しい」
◇
しばらくして。
リクが紙へ手を伸ばした。
古い資料。
星脈観測系統の図面。
彼はそこへ書かれた小さな文字を指差している。
「これ」
イリスが横から読む。
「……逆観測?」
ヴェスパーがリクを見る。
「覚えてる?」
「言葉だけ」
「どこで?」
「研究所」
リクの顔が少し強張る。
セレスがすぐに椅子を近付けた。
「無理をしなくていいですよ」
「大丈夫」
「今の大丈夫は、本当に大丈夫ですか?」
リクは一度。
自分の身体へ意識を向ける。
「少し胸が重い。でも話せる」
「頭痛は?」
「ない」
「では、短くしましょう」
リクは頷いた。
誰も。
「思い出せ」
とは言わない。
そのことが。
まだリクには不思議そうだった。
「オルディスが」
彼はゆっくり言う。
「この言葉を嫌ってた」
「逆観測を?」
「うん」
「どうして」
「失敗だから」
少し。
間が空く。
「……先生は、失敗した研究の話をする時、すごく機嫌が悪かった」
妙に具体的で。
ヴェスパーはその場面を想像できた。
「何が失敗だった?」
「見るはずだったのに」
「うん」
「見られた」
イリスの表情が。
変わる。
けれど。
すぐには食いつかなかった。
「誰がそう言ったの?」
「別の人」
「研究者?」
「たぶん」
「オルディスじゃない?」
「違う」
リクは目を閉じる。
「その人は、先生とよく喧嘩してた」
以前。
リクの記憶に出てきた人物。
「空の人間など作れるものか」と。
黒翼の考え方そのものへ疑問を口にした者。
ただし。
名前はまだ出ていない。
「何て言ってた?」
イリスは声を抑える。
リクは。
ほんの少し眉を寄せた。
「窓を開けて」
ゆっくり。
古い記憶を。
自分の速度で拾う。
「こっちだけが見られると思う方がおかしいって」
部屋が。
静かになった。
「それ以上は?」
「……分からない」
「十分」
イリスはすぐに言った。
「ありがとう」
「もういいの?」
「うん」
「でも」
リクが。
少し戸惑う。
「続きがあるかもしれない」
「あるかもしれないね」
「思い出さなくていい?」
「今、無理に思い出して頭を痛めるくらいなら」
イリスは資料を閉じた。
「その続きを思い出すことより、リクが今日の昼飯をちゃんと食べる方が大事」
「研究者なのに?」
「研究者だから」
「……そうなの?」
「たぶん」
ヴェスパーが呟く。
「そこは自信ないんだな」
「うるさい」
けれど。
リクは少し笑った。
◇
昼を過ぎた頃。
名前のない彼は、一人で記録保管所の外へ出た。
正確には。
廊下まで。
扉の向こうには門衛がいる。
相変わらず。
監視は嫌だった。
けれど。
昨日ほど腹は立たなかった。
門衛の顔を知ったからだ。
朝、焼いた芋を食べながら欠伸していた男。
自分を見張る「門衛」ではなく。
食べる時、口の端を汚す男。
「外、行っていい?」
彼が尋ねた。
門衛は少し驚く。
「どこまで?」
「分からない」
「それじゃ許可しづらいな」
「じゃあ」
考える。
「昨日の菓子の店」
「西通りか」
「たぶん」
「一人は駄目だぞ」
「監視?」
「護衛ってことにしてくれ」
「何が違う?」
「俺の気分が違う」
「……変」
「よく言われる」
彼は。
少しだけ笑った。
結局。
門衛一人と。
後から合流したアステル。
その二人と一緒に。
西通りまで歩いた。
昨日の焼き菓子屋は今日も開いている。
店主は彼を見るなり。
「あ」
と言った。
「固い菓子が好きな兄ちゃん」
彼は少し考え。
「好き」
「そこは否定しねえのか」
「昨日より柔らかい?」
「今日は失敗してねえよ」
店主は焼き上がったばかりの薄焼き菓子を一枚持ち上げる。
昨日の割れ物とは違う。
きちんと商品として並べられているもの。
「欲しい?」
彼が尋ねた。
店主が変な顔をする。
「それ、こっちの台詞だろ」
「俺が欲しい」
「ああ」
「でも昨日、お金」
「今日は商品だから取るぞ」
「持ってない」
「じゃあ今日は食えんな」
あっさりしている。
彼は焼き菓子を見る。
少し残念そうな顔。
アステルが財布を出しかけた。
彼が止めた。
「いい」
「欲しいのでは?」
「欲しい」
「なら」
「でも俺のお金じゃない」
アステルは手を止める。
店主も。
少しだけ彼を見る目を変えた。
「仕事するか?」
「仕事?」
「昼過ぎ、箱運ぶの手伝え。菓子一枚分払う」
「俺が?」
「嫌ならやらなくていい」
彼は。
店の奥。
積まれた小箱を見る。
その後。
焼き菓子。
「やる」
「即決だな」
「欲しいから」
「分かりやすくて助かる」
アステルの口元が僅かに緩む。
「どうした?」
彼が尋ねる。
「いえ」
「笑った?」
「少し」
「何で」
「あなたが、働いてお金を得ようとしているので」
「変?」
「いいえ」
アステルは少し考えてから言った。
「普通だと思って」
その言葉。
彼は。
気に入ったらしい。
「普通」
「嫌ですか?」
「分からない」
「そうですか」
「でも」
店の箱へ歩いていく。
「嫌じゃない」
◇
午後。
イリスは再び、朝の灰を調べていた。
ただし。
今度は一人ではない。
空白が隣にいる。
星見も少し離れた椅子へ座っている。
ガルムは扉の近く。
何かあった時に。
というより。
イリスが変なことをしないか見張っているようにも見える。
「そんなに見ないで」
「何もしてない」
「視線がうるさい」
「視線に音はない」
「ある」
「ノアみたいなこと言うな」
イリスは朝描いた線を、黒翼資料にあった「逆観測」の図と並べた。
完全には同じではない。
灰の線は欠けている。
おそらく一片だけでは、図全体の一部しか見えていない。
「似てるな」
星見が言った。
「でも同じとは言えない」
「分かってる」
「念のため」
「今日はみんなそれ言う」
「お前が前科持ちだからだろ」
ガルムが口を挟む。
「何の前科よ」
「仮説三つ立てて、四つ目の仮説で全部繋ごうとした」
「あれは必要だった」
「その結果、夜中まで寝なかった」
「……必要だった」
「二回言っても変わらん」
空白は二人を無視し。
紙を自分の方へ寄せた。
「この線」
「何?」
「黒翼の図では」
指先でなぞる。
「中心から外へ伸びている」
「観測する側から、対象へ」
「そう」
「灰の方は?」
「方向が分からない」
「線に矢印はない」
「うん」
イリスも。
紙を見つめる。
「黒翼は、これを自分たちから外へ伸ばすための回路だと考えた」
「記録上は」
「でも」
空白が。
そこで止めた。
「何?」
「逆でも」
言葉を。
急がない。
「成立するんじゃないか」
イリスの目が。
少しずつ。
細くなる。
「向こうから」
言いかけて。
止める。
自分の中で。
一度整理する。
「待って」
「待ってる」
「黒翼は、素体を観測窓として使った。遠くを見るために」
「ああ」
「でも、リクの記憶に出た研究者は『窓を開けば見られる』と言っていた」
「そうらしい」
「朝の模様が逆観測系統の図だと仮定して」
「仮定だ」
「分かってる」
イリスは。
指を。
線の外側から。
中心へ滑らせる。
「これ」
声。
少し低くなる。
「こっちから向こうを見るための線じゃなくて」
空白。
黙っている。
「向こうから」
中心へ。
指先。
止まる。
「こちらを見るための線にも見える」
ガルムの表情から。
軽い呆れが消えた。
星見も。
椅子から身体を起こす。
「見えるだけだな」
ガルムが言う。
「ああ」
イリスは。
すぐ頷いた。
「まだ、それだけ」
「じゃあ今日はそれ以上進めるな」
「進めない」
「本当に?」
「進めないって!」
ガルムは。
少しだけ口元を緩めた。
「ならいい」
イリスは不満そうに彼を睨んだが。
もう紙へ新しい線を書き足さなかった。
ただ。
端へ。
小さく。
『方向不明』
と書いた。
そして。
その下。
『観測/被観測の区別を再検討』
それだけ。
紙を閉じる。
星見がその様子を見ていた。
「終わりか?」
「終わり」
「まだ昼過ぎだぞ」
「何?」
「いや」
星見は少し笑った。
「本当に待つ練習してるんだな」
「今日もう三人目だからね、それ言うの」
◇
夕方。
名前のない彼は。
約束通り。
菓子屋の箱運びを終えた。
仕事と呼ぶには。
ほんの少しの時間。
小箱を裏口から表の棚へ運んだだけ。
それでも。
店主は。
最初に約束した通り。
硬くない焼き菓子を一枚渡した。
「これ」
彼は。
両手で受け取る。
「俺の?」
「お前が働いた分だ」
「貰ったんじゃない?」
「違う」
「拾った?」
「違う」
「俺が」
一度。
言葉を探す。
「やったから?」
「そう」
店主が笑う。
「お前が運んだから、お前のだ」
彼は。
しばらく。
焼き菓子を見ていた。
「変なこと言った?」
店主が尋ねる。
「違う」
「じゃあ何だ」
「俺のもの」
「そうだって言ってるだろ」
「初めて」
「……何が?」
彼は。
うまく説明できなかった。
持っている身体は。
誰かが作った。
黒火は。
ヴェスパーから採られたものと。
知らない何かが混ざっている。
自分の顔は。
目を覚ますより前に。
向こう側で誰かに見られていたらしい。
自分が。
何のために作られたのか。
まだ分からない。
でも。
今。
手の中にある菓子だけは。
自分が。
箱を運んだ。
その結果。
自分へ渡された。
「何でもない」
彼は言った。
一口。
齧る。
昨日より柔らかい。
焼きたての香ばしい匂い。
少し甘い。
「どうだ?」
店主が訊く。
彼は。
ちゃんと考えた。
「昨日のも好き」
「今日のは?」
「今日の方が好き」
「昨日、固いって言いやがったからな」
「固かった」
「分かったって」
彼は二口目を食べる。
「また仕事したら」
「うん?」
「買える?」
「働けば金が貰える。その金で買えばいい」
「ここじゃなくても?」
「別のところで働いて稼いだ金でも、うちで使える」
彼は。
少し驚いた顔をする。
「すごい」
「何がだよ」
「分からない」
「お前、それよく言うな」
「星見も言う」
「誰だそれ」
「六百年帰れなかった人」
店主の手が止まる。
「話が急に重い」
彼は。
少し笑った。
◇
日が落ちる頃。
ヴェスパーは、西通りの終わりで彼を見つけた。
店先の石段に座っている。
手には。
半分食べた焼き菓子。
「今日はちゃんと買ったらしいな」
「買ってない」
「え?」
「働いた」
少し。
誇らしそうだった。
「箱、運んだ」
「それで貰った?」
「違う」
「違うの?」
「働いた分」
「……ああ」
ヴェスパーは彼の隣へ腰を下ろした。
「そういうことか」
「違う?」
「合ってる」
夕方の灰都。
店を閉める音。
荷車。
家へ帰る職人。
夕食の準備。
どこからか。
煮込んだ肉の匂い。
彼は。
通りを歩く人を。
じっと見ていた。
「今日」
ヴェスパーが言う。
「自分のこと、何か分かった?」
彼は。
すぐには答えなかった。
「何のために作られたか」
焼き菓子を見る。
「分からない」
「ああ」
「俺と同じ顔が、向こうにいた理由も」
「分からない」
「黒い火も」
「まだな」
「それと」
「何?」
彼は。
通りの向こう。
店主が。
看板を片付けている姿を見る。
「俺が」
「見るために作られたかもしれないって」
「聞いた」
「逆に」
「向こうから見られてたかもしれないって」
ヴェスパーは。
少しだけ。
彼を見る。
「イリスが言った?」
「本人はまだ仮説って言った」
「偉いな」
「みんな言ってた」
「何を?」
「イリスが成長したって」
ヴェスパーが。
堪えきれず笑った。
「本人の前で言うなよ」
「嫌がる?」
「たぶん」
「じゃあ言わない」
少し。
沈黙。
「怖い?」
ヴェスパーが尋ねた。
彼は。
今日は。
すぐ「分からない」と言わなかった。
しばらく。
自分の中を。
確かめる。
「怖い」
やがて。
そう答えた。
「俺の目を」
自分の目元へ。
指を近付ける。
「俺じゃない何かが使ってたなら」
「ああ」
「嫌」
「そうだな」
「でも」
彼は。
夕方の街を見る。
子どもが。
母親に手を引かれて歩く。
店主が。
最後の木箱を中へ入れる。
遠く。
鐘。
「今は」
言う。
「俺が見てる」
ヴェスパーは。
その横顔を見る。
答えを。
足さない。
「何を?」
それだけ尋ねる。
彼は。
少しだけ。
考えた。
「店」
「うん」
「人」
「うん」
「夕方」
「そうだな」
「あと」
ヴェスパーを見る。
「ヴェスパー」
「俺も?」
「見える」
「そりゃいるからな」
「そういうの」
「何が」
「いるから見えるの」
ヴェスパーは。
少し。
言葉を失った。
彼は。
もう一度。
街へ目を戻す。
「向こうで見たものは」
静かに言う。
「本当にいたのか分からない」
「うん」
「昨日の人たちも」
「自分の娘とか、妹とか」
「本物か分からないって言ってた」
「ああ」
「でも」
手の中。
焼き菓子。
「これは」
一口齧る。
「俺が運んだ箱の分」
「そうだな」
「店の人もいた」
「いた」
「ヴェスパーも」
「いる」
そこで。
彼は。
少し笑った。
「じゃあ今日は」
夕日の残りが。
灰都の屋根を。
赤く照らしていた。
「自分で見た」
ヴェスパーは。
何も言わず。
一度だけ。
頷いた。
名前は。
まだない。
過去も。
分からない。
何のために作られた身体なのかさえ。
決まっていない。
けれど。
その日の夕方。
彼が見ていたものを。
誰かが代わりに選んでいたわけではなかった。
閉店する菓子屋。
帰っていく人々。
赤く染まった灰都。
隣に座るヴェスパー。
そして。
自分の手に残った。
半分の焼き菓子。
それらを。
彼は。
自分の目で。
最後まで見ていた。




