第3章 第31 話 「見覚えのない記憶」
翌朝、灰都の西門では、昨日より早く人が動き始めていた。
帰還者たち――そう一括りに呼ぶこと自体をイリスは嫌がっていたが、他に適当な呼び方もまだない――が使っている旧採石場には、日の出前から大鍋が運び込まれている。
今朝の献立は麦粥だった。
昨日の野菜スープより腹持ちがよく、大鍋一つで人数分を作りやすい。配給係の女が「肉を入れろと言ったら追い出すよ」と先に宣言したため、レイラが何か言いかけて口を閉じた。
その代わり、昨日の残りの豆が少し入っている。
灰都側の住民にも同じものが配られていた。
「同じなんだ」
ノアが、自分の器と採石場へ運ばれていく鍋を見比べて言った。
「何が?」
ヴェスパーは石段に腰を下ろし、まだ熱い麦粥を匙でかき混ぜている。
「ご飯。向こうの人たちだけ違うものじゃない」
「配給のおばさんが決めたらしい」
「どうして?」
「知らない」
答えたのはヴェスパーではなく、近くで立ったまま食べていたガルムだった。
「昨日、『余りものを食わせてるみたいで気分が悪い』って怒ってたぞ」
「誰に?」
「ハルトに」
「ハルト、また怒られたの?」
「最近あいつ、だいたい誰かに怒られてるな」
ノアが少し笑った。
当のハルトは門の上にいる。
昨夜から門外に残っている少年を確認し、それから採石場の人数を数え、朝の交代要員へ指示を出していた。
少年はまだ外にいた。
焚き火の近くで毛布を肩まで被り、丸くなって眠っている。
夜中に何度か起きたらしいが、それでも採石場へ移るとは言わなかった。
門衛たちも無理には動かしていない。
ただ、風向きが変わるたびに見張りの一人が薪を足しに行ったらしい。
知らない人間に。
帰る場所すら分からない少年に。
門は開かなかった。
それでも火だけは、一晩中消えなかった。
「ヴェスパー」
ノアが小声で呼んだ。
「ん?」
「あの子、まだ向こうに戻りたいのかな」
ヴェスパーは少年を見る。
「たぶん」
「聞いてみる?」
「本人が話したくなったらでいいんじゃないか」
「そっか」
ノアは麦粥を一口食べる。
熱かったらしく、耳がぴんと立った。
「熱っ」
「冷まして食べろ」
ガルムが言う。
「ガルムも熱そう」
「熱くねえ」
「耳ないから分かりにくい」
「耳で判断するな」
ヴェスパーが横を見ると、ガルムは本当に平然と食べている。
ただし、匙を口へ運ぶ間隔が妙に長かった。
「熱いんだろ」
「違う」
「無理するところ?」
「黙って食え」
そんな会話をしている間にも、灰都はいつもの朝を始めていた。
工房へ向かう職人たち。
荷車を引く商人。
西門の様子が気になるのか、遠回りをして採石場を覗いていく子どもたち。
帰還者たちの存在は、一晩で街の風景へ馴染んだわけではない。
何人かは遠巻きに見ている。
露骨に嫌そうな顔をする者もいる。
逆に、昨日の聞き取りを手伝わせてほしいと申し出た住民もいた。
変わったのは。
そこに彼らがいることを、街が知ったことだった。
昨日までは、存在すら知らなかった。
今日は、いる。
それだけで人は考えなければならなくなる。
「ヴェスパーさん」
背後からセレスに呼ばれた。
振り返る。
彼女はいつもの治療鞄を肩に掛けている。
隣にはアステル。
二人とも西門ではなく、灰都の内側から歩いてきた。
「食事が終わったら、少しいいですか?」
「俺?」
「いえ」
セレスは一度言葉を切った。
「昨日から検査区画にいる彼のことで」
誰のことか。
聞き返す必要はなかった。
ヴェスパーは器を持ったまま、灰都の内側へ目を向けた。
外から帰ってきた四十七人とは。
少し違う。
最初に灰都へ現れた者。
オルディスが作ったと考えられる、人の形をした身体。
生きている。
心臓も動いている。
呼吸もする。
食べる。
熱いスープが好きだと言った。
自分のことを「俺」と呼び始めた。
けれど。
まだ名前はない。
「何かあった?」
ヴェスパーが尋ねる。
答えたのはアステルだった。
「本人が、外へ行きたいと言っています」
「外?」
「採石場へ」
ヴェスパーの匙が止まった。
セレスが続ける。
「帰ってきた人たちに会ってみたいそうです」
ノアの耳が立つ。
「どうして?」
「それを」
アステルが言った。
「私たちにも上手く説明できないようです」
◇
灰都の検査区画は、病院というより古い宿泊所を改装した建物だった。
遠方から来た商人や、星脈事故で一時的な隔離が必要になった者を受け入れるために使われていたらしい。
今はその一室を、名前のない彼が使っている。
窓は開けられる。
扉も外から施錠されてはいない。
ただし廊下には門衛が一人。
本人もそのことを知っている。
最初の頃は、自分が監視されているという意味すら分からなかった。
今は分かる。
そして。
嫌だということも。
少しずつ分かり始めていた。
ヴェスパーたちが部屋へ入ると、彼は窓際の椅子に座っていた。
黒髪。
人工的に整えられた顔立ち。
人として不自然なほど傷のない皮膚。
それでも、以前ほど「人形」には見えない。
理由は簡単だった。
不機嫌そうな顔をしていたからだ。
「何だ、その顔」
レイラが言った。
「嫌」
返事は早い。
「何が?」
「ここ」
「部屋?」
「違う」
彼は扉の外を指差した。
「人」
門衛。
「見られてるのが嫌?」
ノアが尋ねる。
「嫌」
「言った?」
「言った」
「何て返された?」
「仕事だからって」
レイラが思わず笑った。
「ハルトのところの奴だな」
「笑うこと?」
「いや。ごめんごめん」
アステルは彼の向かいへ座った。
「昨日も説明しましたが、あなたを閉じ込めたいから監視しているわけではありません。黒火がどういう反応を起こすか、こちらもまだ分からないからです」
「分かってる」
彼は答えた。
「分かってるけど、嫌」
「はい」
アステルはすぐに頷く。
「両方でいいと思います」
彼は少しだけ目を瞬いた。
昨日一日、門の外でも何度も聞いた言葉だった。
分かる。
でも嫌。
帰りたい。
でも戻りたい。
一つに決められないもの。
「それで」
ヴェスパーは壁際に寄り掛かる。
「採石場へ行きたいって?」
「ああ」
「何で?」
彼は窓の外を見た。
そこから西門は見えない。
けれど。
胸の中にある黒火は。
時々。
そちらへ向かって、僅かに揺れる。
「いるから」
「誰が」
「分からない」
「……もう少し説明できる?」
イリスが椅子を引きながら尋ねる。
彼は困ったように眉を寄せた。
以前はほとんど変化しなかった表情が。
今では少しずつ。
分かるようになってきている。
「昨日から」
彼は胸へ手を置いた。
「外に人がいると」
「うん」
「ここが」
指先が胸骨の中央へ触れる。
黒火が宿る場所。
「知ってるって言う」
部屋の空気が少し変わった。
ガルムが壁から背を離す。
「黒火が?」
「たぶん」
「何を知ってる」
「分からない」
「人を?」
「分からない」
「向こう側を?」
「……分からない」
ガルムが息を吐く。
苛立ったわけではない。
むしろ。
質問の仕方が悪かったと自分で気付いたらしい。
「悪い。続けろ」
彼は少しだけガルムを見た。
「音じゃない」
今度は言葉を探しながら話す。
「ノアみたいに聞こえるんじゃない。思い出す感じ。でも俺は知らない」
「知らないのに、思い出す?」
イリスの筆が紙の上で止まった。
「それ、かなり重要かも」
「だから」
彼はイリスを見る。
「見たい」
「何を?」
「誰を知ってるのか」
その言葉に。
アステルが少しだけ目を伏せた。
誰を知っているのか。
自分の身体が。
自分より先に。
何を知っているのか。
研究所で「器」と呼ばれていた彼にとって。
それはただの調査ではない。
自分の中にあるものが。
どこまで自分なのか。
確かめたい。
「危険はあります」
セレスが言った。
「あなたの黒火は、ヴェスパーさんのものと一部が似ています。ただ、完全に同じではありません。帰還した人たちに近付くことで、何が起こるか予測できません」
「うん」
「それでも行きたい?」
彼はすぐには答えなかった。
窓の外。
灰都の屋根を眺める。
「ここにいても」
やがて言った。
「分からないままだから」
セレスは何も言わない。
「嫌なら」
彼が少し言いにくそうに続ける。
「戻る」
「誰が?」
「俺が」
「他の人が嫌がった場合は?」
そこで。
彼は止まった。
考える。
以前なら。
自分以外の人間が「嫌だ」と感じる可能性まで、思考の中に入らなかったかもしれない。
「……戻る」
「それなら」
セレスが頷いた。
「私は反対しません」
「私も」
アステルが言う。
それからヴェスパーを見る。
「同行してもらえますか?」
「俺?」
「黒火に変化があった時、比較できる人がいた方がいい」
イリスが口を挟む。
「私も行く」
「それは調べたいだけだろ」
レイラが言う。
「否定はしない」
「正直だな」
「でも、記録は必要」
ヴェスパーは窓際の彼を見る。
「お前は?」
「何」
「俺たちが一緒でもいい?」
彼は少し不思議そうにヴェスパーを見た。
「来るんじゃないの?」
「お前が嫌なら来ない」
「何で?」
「お前が行く話だから」
沈黙。
彼はヴェスパーを見る。
それから。
ほんの少しだけ。
口元を緩めた。
「来て」
「ああ」
「ノアも」
ノアが自分を指差す。
「僕?」
「聞いてほしい」
「何を?」
「分からない」
ノアは困った顔をした。
けれど。
「分かった」
と答えた。
セレスがすぐに振り返る。
「ただし、全部聞こうとしないこと」
「分かってる」
「具合が悪くなったら?」
「やめる」
「返事が早くなりましたね」
「前にいっぱい言われたから」
「覚えていて偉いです」
「子ども扱い?」
「褒めています」
「……ならいい」
◇
採石場へ向かう途中。
灰都の街を歩く彼は、何度も足を止めた。
最初はヴェスパーも、黒火に何か起きたのかと思った。
違った。
「何してる?」
レイラが尋ねる。
彼は通りの向こうを見ている。
焼き菓子を並べる露店だった。
「匂い」
「食いたいのか?」
「分からない」
「昨日スープ二杯飲んでたじゃん」
「スープとは違う」
「そりゃそうだ」
店主がこちらに気付き、少し警戒した顔をする。
黒火を持つ名前のない者について、噂はすでに街へ広がっているらしい。
だが。
彼が焼き菓子を見ているだけだと分かると、店主は少し考え。
小さな欠けた一枚を取った。
「割れたやつで良けりゃ食うか」
彼は店主を見る。
「俺に?」
「他に誰がいる」
「何で」
「何でって……」
店主が逆に困る。
「見てるからだよ」
「お金」
「割れ物に金取れるか」
彼はヴェスパーを見る。
「どうすればいい」
「俺に聞くの?」
「こういう時」
「貰いたいなら貰えばいいんじゃないか」
「嫌なら?」
「断ればいい」
また。
考える。
そして。
「欲しい」
店主へ。
自分で言った。
「じゃあ持ってけ」
焼き菓子が一枚。
手の上へ乗る。
彼は匂いを確かめ。
小さく齧った。
しばらく噛む。
レイラが隣から覗き込む。
「どう?」
「固い」
店主の眉が動く。
「おい」
「でも」
彼はもう一度齧った。
「好き」
店主は。
文句を言おうと開きかけた口を。
そのまま閉じた。
「……そうかよ」
どこか照れ臭そうに店の奥へ戻る。
レイラが笑いを堪えている。
「お前、すげえな」
「何が」
「いや。何でもない」
焼き菓子を持ったまま。
彼はまた歩き始める。
ヴェスパーも隣へ並んだ。
「スープ以外にも増えたな」
「何が」
「好きなもの」
彼は手の中の菓子を見る。
「増えていい?」
「何で駄目なんだ」
「分からない」
「じゃあ増やせばいい」
彼は少し考えて。
「ヴェスパーは?」
「何が」
「好きなもの」
予想外の質問だった。
ヴェスパーの足が少し遅れる。
「急に聞くな」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
レイラがすぐに会話へ入る。
「こいつ、こういう質問弱いぞ」
「何で」
「戦いのことならすぐ答えるくせに、自分のこと聞かれると考え込む」
「レイラ」
「何だ」
「お前は?」
「肉」
即答だった。
彼がレイラを見る。
「早い」
「好きなものなんて、考えて答えるもんでもないだろ」
ヴェスパーは少し呆れる。
「他には?」
「酒」
「他」
「強い奴と戦う」
「もういい」
「何でだよ」
彼は。
小さく笑った。
本当に。
小さな笑いだった。
でも。
以前にはなかった。
ヴェスパーはそれを見たが。
何も言わなかった。
◇
旧採石場へ着く頃には、朝の配給が終わっていた。
四十六人のうち、何人かは屋根の補修を手伝っている。
昨日まで向こう側にいた人間に働かせるのか、と一度揉めたらしい。
しかし本人たちが「何もせず座っている方が嫌だ」と言ったため、アルドが危険のない作業だけ任せていた。
木材を運ぶ者。
食器を洗う者。
昨日貸し出された毛布を干す者。
何をしていいか分からず座っている者。
全員違う。
イリスの紙に書かれた一文が。
そのまま景色になっている。
彼が採石場へ入った時。
最初に反応したのは。
人間ではなかった。
胸の黒火だった。
「……っ」
彼の足が止まる。
ヴェスパーも同時に胸元へ手を当てた。
自分の黒陽炎。
反応している。
強くはない。
けれど。
水面の下を何かが通った時のように。
一度だけ。
深く。
揺れた。
「ヴェスパー?」
レイラが声を落とす。
「大丈夫」
「本当に?」
「ああ」
セレスはすでに二人の様子を見ていた。
「痛みは?」
「ない」
彼も首を横に振る。
「ない」
「息苦しさ」
「ない」
「分かりました。少しでも変化があれば言ってください」
採石場にいた人々も。
こちらへ気付き始めた。
視線が集まる。
当然だった。
ヴェスパーたちと一緒に。
見知らぬ男が来た。
胸の奥に。
黒い火。
薄い衣服越しでも。
時折。
それが滲む。
一人の老人が立ち上がった。
別の女が後ろへ下がる。
子どもを抱いている男は、反射的にその子を胸へ引き寄せた。
誰も。
同じ反応ではない。
「説明した方がいいな」
ヴェスパーが言う。
ハルトがいない。
今日は自分たちが連れてきた。
なら。
自分たちが話すしかない。
「この人は」
ヴェスパーが言いかけて。
止まった。
何と呼ぶ。
帰還者。
しかし。
目の前の四十六人も。
帰還者。
空の器。
それは本人が嫌う。
名前。
まだない。
ヴェスパーが言葉に詰まったことへ。
本人が気付いた。
「俺は」
自分で口を開く。
四十六人の視線が集まる。
「名前は」
少し。
迷う。
「まだない」
ざわめき。
彼は自分の胸へ手を置いた。
「ここに黒い火がある」
説明。
上手くない。
それでも続ける。
「この人たちを」
四十六人を見る。
「知ってる気がした」
一人の男が眉を寄せる。
「俺たちを?」
「分からない」
「知ってるんじゃないのか」
「知ってる感じがする。でも、俺は知らない」
男が露骨に困る。
レイラが小声で言った。
「説明すると余計分からなくなるな」
「本人が一番困ってるんだから言うな」
ヴェスパーが返す。
星見が。
採石場の奥から歩いてきた。
彼も今朝からここにいた。
帰ってきた者たちの様子を見ながら。
必要な時だけ話を聞いている。
「無理に答えを出す必要はない」
星見が言った。
「こいつが何者かも。お前たちがこいつを知っているかも。見覚えがなければ、それでいい」
彼は星見を見る。
「見たことある?」
「俺が?」
「ああ」
星見はしばらくその顔を眺めた。
昨日までなら。
六百年向こう側にいた自分の記憶を。
必死に探したかもしれない。
しかし。
今は。
ゆっくり首を振った。
「分からない」
「また?」
レイラが言う。
「悪いか」
「いや。なんか安心するようになってきた」
「それは喜んでいいのか?」
「たぶん」
その時だった。
「……知ってる」
小さな声。
採石場の奥。
全員が。
そちらを見る。
声を発したのは。
昨日。
最初に門前へ来た女性だった。
娘を探している。
向こう側で。
自分より年上になった娘へ会ったという人。
手にしていた洗い物の器を。
落としそうになるほど強く握っている。
「あなた」
女が。
彼を見る。
「見たことがある」
彼の顔が。
動かなくなった。
◇
すぐには。
話を聞かなかった。
まず女性を座らせた。
本人の手が震えていたからだ。
セレスが脈を確認し、少し水を飲ませる。
「話せそうですか?」
「大丈夫」
「急がなくていいですよ」
「でも」
女は向かいに座る彼を見る。
「忘れる前に言いたい」
「向こう側のことを?」
「うん」
イリスは紙を用意したが。
書き始めない。
女がそれを見て少し不思議そうな顔をした。
「書かないの?」
「必要なところだけ後で書く」
「どうして」
「記録すると危ないことがあるから。それと」
イリスは少し考え。
「記録を始めると、私が記録しやすい話を聞こうとするから」
女は意味を考えるように彼女を見る。
「今は」
イリスが続ける。
「あなたが覚えている順番で話して」
女は頷いた。
その場にいるのは。
ヴェスパー。
イリス。
セレス。
アステル。
ノア。
星見。
そして。
名前のない彼。
ガルムとレイラは少し離れた入口付近。
他の帰還者たちも気にはしている。
だが。
囲まないよう、ハルトの門衛が距離を取らせていた。
「どこで見た?」
彼自身が尋ねた。
女は。
少し戸惑う。
「向こう」
「いつ」
「分からない」
「どのくらい前」
「それも……」
「ごめん」
彼はすぐに口を閉じた。
質問を重ねすぎた。
女が苦笑する。
「こっちに帰ってきてから、みんな同じこと聞くね」
「嫌だった?」
「ちょっとだけ」
「なら」
「でも聞きたいんでしょ」
彼は正直に頷いた。
「聞きたい」
「じゃあ話す」
女性は膝の上で両手を重ねた。
「向こうで、娘に会う前」
目を閉じる。
記憶を。
無理に掴もうとせず。
浮かぶのを待つ。
「白い場所を歩いてた」
「白い?」
ノアが尋ねる。
「灰がいっぱいで。空も地面も白く見えた。そこに、黒いものがあった」
星見の視線が僅かに鋭くなる。
「門か?」
「分からない」
「形は」
「縦に長かった。でも見てると形が変わったから……扉にも見えたし、穴にも見えた」
星見はそれ以上口を挟まない。
「その前に」
女性が彼を見る。
「あなたが立ってた」
彼の指先が。
膝の上で僅かに動いた。
「俺が?」
「同じ顔だった」
「服は?」
「今と違う」
「どんな」
「白い」
女は胸元を指す。
「ここまで何もなかった。布も、傷も……」
「黒火は」
ヴェスパーが尋ねる。
「見えなかった?」
「黒い火?」
「この人の胸にある」
女は彼の胸を見る。
ゆっくり。
首を横に振る。
「なかったと思う」
イリスが初めて紙へ短く書き込む。
黒火なし。
「何してた?」
彼が尋ねる。
女の表情が曇った。
「立ってた」
「それだけ?」
「うん」
「話した?」
「話しかけた」
「何て」
『ここはどこ?』
女性は。
当時の自分の言葉を思い出す。
「でも」
「俺は?」
「何も言わなかった」
彼の顔に。
落胆に似たものが浮かぶ。
「じゃあ」
「ただ」
女が続けた。
「私が近付いたら」
自分の手首へ触れる。
「腕を掴んだ」
全員。
少し緊張する。
「強く?」
セレスが尋ねる。
「ううん」
「痛くないくらい?」
「うん」
「それから」
女性は。
目を閉じた。
その記憶だけ。
妙に。
鮮明なのだろう。
「首を横に振った」
「何を止めた?」
「分からない」
「その後」
「私の後ろを指した」
「後ろ?」
「振り返ったら」
女性の呼吸が。
少し。
速くなる。
セレスが手を出しかけ。
止める。
まだ本人は話そうとしている。
「娘がいた」
誰も。
言葉を挟まない。
「大人になった娘が」
女は。
唇を噛む。
「だから」
「私は娘の方へ行った」
少し。
笑う。
「あなたのことなんて」
「すぐ忘れた」
「そう」
彼は答えた。
傷付いた様子はない。
むしろ。
自分がその場にいたという事実を。
どう受け止めればいいか分からない顔。
「もう一度」
イリスが慎重に尋ねた。
「確認したい。今ここにいるこの人と、顔は同じだった?」
「同じ」
「似ている、じゃなくて?」
「同じだと思う」
「身体は?」
「たぶん同じ」
「黒火は見えなかった」
「うん」
「名前を聞いた?」
「聞いてない」
「向こうの彼から何か言われた?」
「一言も」
イリスは筆を置いた。
「ありがとう」
「これだけ?」
「今は」
「もっと聞かないの?」
「聞きたいことはいっぱいある」
「じゃあ」
「いっぱいあるから」
イリスは紙を折る。
「一度止める」
女性は。
少しだけ安心したように息を吐いた。
◇
「あり得ない」
採石場から少し離れた。
昨日補修した資材庫の裏。
イリスは、さっき自分で書いた紙を睨んでいた。
「言いたいことは分かるけど」
ヴェスパーが言う。
「何が一番あり得ない?」
「全部」
「それじゃ分からない」
「まず」
イリスが指を一本立てる。
「あの身体が作られたのは、少なくとも黒翼の現在の研究体系が成立してから。六百年前じゃない」
「その女が六百年前の人間とは限らない」
「そう。そこはまだ分からない」
「じゃあ」
「でも」
イリスは二本目の指を立てる。
「本人は向こう側へ行った覚えがない」
名前のない彼は。
少し離れた木箱へ座っている。
本人の前で話していいか。
イリスは最初に確認した。
彼は「聞きたい」と答えた。
「目を覚ましたのは」
イリスが彼を見る。
「オルディスの観測塔」
「ああ」
「それ以前の記憶は?」
「ない」
「夢は」
「ある」
「四人の観測者」
「ああ」
「他には?」
彼は考える。
「白いところ」
全員。
少し止まる。
イリスの表情が変わった。
「前に聞いた?」
「言ってない」
「何で」
「分からなかったから」
ガルムが額へ手を当てる。
「今話せ」
「白いところにいた」
「誰と」
「分からない」
「何をしてた」
「歩いてた気がする」
「顔は」
「自分の?」
彼は。
そこで止まった。
「分からない」
イリスが大きく息を吐いた。
「質問を一個ずつにしよう」
ガルムが黙る。
「あなたが見た白い場所は、さっきの女性が話した場所と同じだと思う?」
「分からない。でも」
「でも?」
「聞いたら」
胸へ手を置く。
「ここが動いた」
「黒火が?」
「ああ」
ノアが。
彼の近くへ座る。
「今も?」
「少し」
「聞いていい?」
「うん」
ノアは目を閉じた。
セレスが横で見守る。
彼自身の心臓。
正常。
少し早い。
黒火。
音とは違う。
けれど。
ノアにとっては。
火にも。
人にも。
それぞれ。
揺れがある。
「……変」
「何が」
ヴェスパーが尋ねる。
「前より」
ノアは言葉を探す。
「いっぱい」
「何が」
「声じゃない」
一度。
耳を伏せる。
「足跡みたい」
イリスが眉を寄せる。
「音なの?」
「違う」
「じゃあ」
「僕も上手く言えない」
ノアは少し悔しそうに唇を尖らせた。
「黒い火の中に、同じところを何回も通った跡がある感じ」
「誰が通った」
「分からない」
「ヴェスパーと同じ?」
ノアはヴェスパーの胸へ耳を向ける。
少しだけ。
聞く。
すぐ戻す。
「違う」
「どこが」
「ヴェスパーは」
少年は自分の指で一本の線を描く。
「切れてる」
次に。
名前のない彼。
「こっちは」
何本も。
重ねる。
「重なってる」
空気が静かになる。
「何本」
イリスが訊いた。
「数えない」
ノアはすぐに答えた。
セレスが少しだけ笑う。
「正解です」
「数えたら」
ノアが続ける。
「全部聞きそうだから」
「それでいい」
ヴェスパーも言った。
ノアは頷く。
イリスは。
しばらく黙っていた。
それから。
「仮説を言っていい?」
「仮説ならな」
ガルムが釘を刺す。
「もう分かってる」
イリスは一度、彼を見る。
「あなたの身体が向こう側へ行った、とはまだ考えない方がいい」
「何で」
「証拠がないから」
「でも見たって」
「その人が見たのは、あなたと同じ顔をした何か」
「俺じゃない?」
「分からない」
「……星見と同じこと言う」
少し離れたところから。
「悪かったな」
星見が返してきた。
イリスは続ける。
「ただ、あなたの黒火がヴェスパーから切り取られたものだけじゃないことは、前から分かってる」
約六割。
共通している。
残り。
説明できない。
「もし」
イリスが慎重に言葉を選ぶ。
「黒火そのものじゃなく、黒火を通じて何かが向こう側へ先に届いていたとしたら」
彼は黙って聞く。
「何が?」
「例えば」
イリスは。
彼の顔を見る。
「あなたが作られる前の設計」
レイラが腕を組む。
「身体より先に顔だけ向こうへ行ったってこと?」
「分かりやすく言いすぎ」
「分かりにくく言われても困る」
「黒翼が使った素体設計、観測記録、星脈を使った情報――何かが先に向こう側へ写った可能性」
「写った」
彼がその言葉を繰り返す。
「俺は」
自分の手を見る。
「写し?」
アステルの顔が。
変わった。
「違います」
即座だった。
イリスが口を開く前に。
アステルは彼の正面へ立った。
「今のは、向こう側に何があったかという話です。あなたが今何者かという話ではありません」
「でも」
「身体の設計が誰かのものでも、黒火がヴェスパー由来でも、記憶の一部が向こう側から来たとしても」
アステルの声は。
いつもより。
少し強い。
「それで、あなたが誰かの所有物になるわけではありません」
彼は。
アステルを見上げる。
「俺が」
「はい」
「誰かの写しでも?」
「もしそうだったとしても」
アステルは迷わない。
「あなたが焼き菓子を好きだと言ったのは、誰の命令ですか」
彼が。
手の中を見る。
半分残った。
焼き菓子。
「……俺」
「監視されるのが嫌だと言ったのは」
「俺」
「ここへ来たいと言ったのは」
「俺」
「なら」
アステルは言う。
「少なくとも、その三つはあなたのものです」
長い。
沈黙。
彼は。
残った焼き菓子を一口齧る。
硬い。
何度も噛む。
「これも」
「はい」
「好き」
「それも」
「俺?」
「私はそう思います」
彼は。
今度は。
はっきり。
少し笑った。
◇
話は。
それで終わらなかった。
午後。
二人目が現れた。
名前のない彼を。
向こう側で見たという人間。
六十を越えているように見える老人だった。
こちら側では、かつて北方の鉱山で働いていたという。
いつ向こうへ行ったのかは覚えていない。
彼も。
同じ顔を見た。
ただし。
場所が違った。
「水の中だ」
老人は言った。
「水?」
イリスが尋ねる。
「ああ。海じゃない。川でもない。上も下も水みたいに揺れてる場所だった」
「彼は何をしていました?」
「沈んでた」
名前のない彼の表情が。
少し変わる。
「死んでた?」
「分からん」
老人は彼を遠慮なく眺めた。
「目は開いてた。こっち見てたから、死んでないと思った」
「話した?」
「いや」
「近付いた?」
「近付こうとしたら」
老人は自分の胸を指した。
「息ができなくなった」
水の中だからではない。
本人の話では。
そこには水などなかった。
ただ。
近付くほど。
自分の名前を忘れた。
「最初に母親の名前を忘れた」
老人は。
淡々と話した。
「次に村。それから、自分の顔が分からなくなった」
「それで離れた?」
「ああ」
「彼は?」
「そのままだ」
「服は」
「着てなかったと思う」
「黒火は」
「知らん。胸は……」
老人が目を細める。
「あったような」
「何が」
「穴」
彼は。
自分の胸を見る。
「火じゃない?」
「黒かった」
「傷?」
「分からん」
また。
同じ言葉。
だが。
一人目と。
細部は一致しない。
白い場所。
黒い扉。
黒火のない彼。
水のような場所。
胸に黒い穴。
「同じ場面じゃない」
イリスが呟く。
「違う場所で」
ヴェスパーが言う。
「何度も見られてる?」
「少なくとも、二人はそう言ってる」
「二人だけ?」
「今は」
その言葉が終わる前に。
採石場の端から。
「俺も見た」
声がした。
全員。
そちらを見る。
昨日。
何も話したくないと言った若い女だった。
今日も聞き取りを拒んでいる。
イリスは。
無意識に紙へ手を伸ばし。
止めた。
「話したくなければ」
「それだけ言いに来た」
女は少し不機嫌そうに答えた。
「どこで見たかは言いたくない」
「分かった」
「顔は同じ」
彼女は名前のない彼を見る。
「でも」
一瞬。
目を逸らす。
「あっちの方が」
「何」
「怖かった」
彼が尋ねる。
女は答えない。
「何で」
「言いたくない」
「俺のことでも?」
「私のことだから」
彼は。
口を閉じる。
少し。
悔しそうに。
それでも。
「……分かった」
若い女は。
ほんの少し意外そうな顔をした。
「それだけ」
踵を返す。
「待って」
イリスが呼び止める。
女の肩が強張る。
「何」
「ありがとう」
「……」
「言いたくないところまで話さなくていい」
女は振り返らず。
「変な人たち」
それだけ言って。
戻っていった。
◇
三人。
同じ顔。
違う場所。
違う状況。
そして。
本人に記憶はない。
普通なら。
三人が同じ幻を見た。
誰かが記憶を植え付けた。
同じ記録を見せられた。
そういう可能性を疑う。
だが。
ここでは。
向こう側。
という場所そのものが。
記憶と観測の境界を曖昧にする。
「だからこそ」
星見が。
夕方になってから言った。
「三人が言ったから本当だ、とは考えるな」
イリスが珍しく反論しなかった。
「分かってる」
「同じものを三人が見たなら」
星見は資材庫の壁へ背を預けたまま続ける。
「三人が本当に見た可能性は上がる。でも、それが今ここにいるこいつだったかは別だ」
「向こうが同じ顔を作った可能性」
「ある」
「黒火が顔を見せた可能性」
「ある」
「黒翼の何かが先に届いた可能性」
「ある」
「未来の――」
「そこまで行くな」
ガルムが止めた。
「何で」
「分からんものに」
「時間まで足すと」
「余計分からなくなる」
星見が。
僅かに笑った。
「それは正しい」
「お前に認められると腹立つな」
「何でだ」
「知らん」
レイラが横から言う。
「二人とも『分からない』の使い方が上手くなってきたな」
「褒めてねえだろ」
「半分は」
「残りは?」
「言わない」
どこかで聞いた会話。
イリスがレイラを見る。
「人の台詞取らないで」
「便利だった」
「便利なものほど疑って」
「そこまでセットなのかよ」
笑いが。
ほんの少し。
起こった。
名前のない彼は。
その輪から少し離れた場所。
座っている。
笑ってはいない。
自分と同じ顔。
自分が生まれる前かもしれない場所。
自分の知らない自分。
「怖い?」
ノアが。
隣へ座った。
「分からない」
「それ便利な言葉?」
「星見が使ってる」
少し離れたところから。
「聞こえてるぞ」
星見が言う。
ノアが笑う。
彼も。
少しだけ笑う。
でも。
すぐに。
手を見る。
「俺が」
ぽつり。
言った。
「俺じゃなかったら」
「何が?」
「向こうにいた俺」
「うん」
「俺じゃなかったら」
言葉を探す。
「良かったって思っていい?」
ノアは。
すぐに答えなかった。
「怖かった?」
「知らない俺が」
「うん」
「知らないところにいる」
「うん」
「何してたかも知らない」
「うん」
「嫌」
ノアは。
少しだけ。
彼へ近付く。
「じゃあ」
「嫌でいいんじゃない?」
「でも」
「何」
「本当に俺だったら」
ノアは。
考える。
大人のように。
難しい言葉で答えることもできない。
それでも。
「今の君が」
「嫌だって思ってるのは」
「今の君でしょ」
彼がノアを見る。
「向こうにいたのが誰でも」
ノアは自分の木彫りの狼を指でなぞる。
「今ここにいる君が嫌なのは」
「変わらないと思う」
「……そう?」
「たぶん」
「分からない?」
「僕も分からないことあるよ」
彼は。
少し考え。
「ノアも」
「うん」
「なら」
ほんの少し。
肩の力を抜く。
「いい」
◇
夕刻。
西門の外。
昨日から残っている少年は。
結局。
今日も中へは入らなかった。
ただし。
場所は少し変わった。
昨夜より。
門へ近い。
ほんの数歩。
本人は。
「火がこっちの方が暖かいから」
と言った。
ハルトは何も言わなかった。
ノアも何も言わない。
数歩。
それでいい。
夕方の食事を持って。
ヴェスパーは門外へ出た。
もちろん一人ではない。
ハルト。
レイラ。
そして。
名前のない彼も。
本人が少年を見たいと言ったからだ。
第一門だけを通る。
第二門は閉じたまま。
灰都の安全策は変わらない。
「何」
少年が。
彼を見る。
「新しい人?」
「たぶん」
彼が答える。
「たぶんって何だよ」
「俺も分からない」
「変なの」
少年が笑う。
少し前まで。
他人へ笑う余裕などなかった顔。
彼は少年の向かいへ座る。
「向こうに」
突然。
言った。
「戻りたい?」
ハルトが眉を寄せる。
だが。
止めない。
少年も。
怒らなかった。
「戻りたい」
「妹」
「そう」
「会いたい?」
「当たり前だろ」
彼は。
少し。
考える。
「当たり前」
「何だよ」
「俺には」
自分の膝を見る。
「会いたい人が」
いない」
少年。
少しだけ。
表情を変える。
「家族は?」
「分からない」
「友達」
「分からない」
「誰も?」
「今は」
少年は。
しばらく。
何も言わない。
「じゃあ」
「何」
「これから作れば」
彼の顔が上がる。
「何を」
「会いたい人」
少年は。
何でもないことのように言った。
「いないなら」
「作ればいいじゃん」
「作れる?」
「知らない」
「知らないの」
「俺だって友達そんなにいないし」
レイラが後ろで。
小さく吹き出した。
少年が睨む。
「何だよ」
「いや。いいこと言うなと思って」
「笑ったじゃん」
「ごめんって」
「絶対思ってない」
彼は。
少年を見る。
次に。
ヴェスパー。
レイラ。
ハルト。
閉じた門。
その向こうにいる。
アステル。
ノア。
セレス。
イリス。
リク。
知らない。
自分が。
彼らを。
何と呼ぶのか。
まだ。
分からない。
「友達」
小さく。
言ってみる。
ヴェスパーが聞く。
「何?」
「分からない」
「そう」
「でも」
彼は。
少年から。
灰都へ。
視線を移す。
「嫌じゃない」
ヴェスパーは。
それだけ聞いて。
「ならいいんじゃないか」
と答えた。
◇
夜。
検査区画へ戻る前に。
彼は一度だけ。
西外壁の上へ登った。
許可したのはハルトだった。
「落ちるなよ」
「落ちない」
「そういう意味じゃねえ」
「どういう意味」
「もういい」
灰都の灯り。
採石場の灯り。
門外。
少年の小さな焚き火。
遠く。
黒い灰の残る街道。
彼は。
しばらく。
全部を見ていた。
ヴェスパーが。
少し離れた場所から。
声を掛ける。
「今日」
「うん」
「何か分かった?」
彼は。
すぐには答えない。
「向こうに」
「俺と同じ顔がいた」
「ああ」
「三人が見た」
「ああ」
「でも」
「うん」
「俺かどうか」
「分からない」
「そうだな」
「黒い火が」
胸へ。
手を置く。
「何か知ってる」
「たぶん」
「でも俺は知らない」
「ああ」
「変?」
ヴェスパーは。
少し考えた。
「変ではある」
彼が。
少し嫌そうな顔をする。
「でも」
ヴェスパーは続ける。
「俺も似たようなもんだから」
「ヴェスパーも?」
「俺の中にも」
黒陽炎。
「俺が知らないことを知ってるものがある」
「名前?」
ヴェスパーの目が。
少しだけ。
細くなる。
「それも」
「知りたい?」
「知りたい」
少し。
間。
「怖いけど」
彼は。
ヴェスパーを見る。
「俺も」
「何が」
「知りたい」
自分の顔を。
向こう側で。
誰が使っていたのか。
自分の黒火が。
どこを通ってきたのか。
自分が。
目を開ける前。
何だったのか。
「でも」
彼は。
今日。
覚えたことを。
一つずつ。
思い出すように言った。
「焼いたやつ」
「焼き菓子」
「それ」
「うん」
「好き」
「知ってる」
「監視は嫌」
「それも知ってる」
「採石場に」
「行ってよかった」
「ああ」
「あと」
少し。
言葉に詰まる。
「友達」
ヴェスパーは。
急かさない。
「まだ」
彼が続ける。
「分からない」
「そう」
「でも」
灰都の灯りを見る。
「欲しいかもしれない」
ヴェスパーは。
少しだけ。
笑った。
「それなら」
言葉を。
一度。
止める。
本人へ。
答えを。
渡しすぎないように。
「見つかるといいな」
彼は。
意外そうに。
ヴェスパーを見る。
「作れって」
「言わない?」
「作りたくなったら作ればいいだろ」
「……そう」
彼は。
また。
街を見る。
それから。
かなり長い間。
二人とも。
何も言わなかった。
静かな時間だった。
だが。
悪くない。
少なくとも。
彼は。
そう感じていた。
◇
同じ頃。
旧採石場。
星見は。
一人目の女性がいた場所に立っていた。
地面。
何度も。
見ている。
空白が。
後ろから近付く。
「何をしてる」
「考えてた」
「珍しいな」
「ひどくないか」
「六百年考えて、分からないばかりだった」
「だから今度こそ考えてるんだろ」
空白は。
隣へ立つ。
「何が気になる」
「今日の男」
「名前のない」
「ああ」
星見は。
西の空を見る。
「俺は」
「向こうで」
「同じ顔を見た記憶がない」
「三人は見た」
「そうらしい」
「それが」
「気になる?」
「違う」
空白が彼を見る。
「なら何だ」
星見は。
少し。
言いにくそうに。
眉を寄せる。
「思い出せないことが」
「増えた」
空白の表情が。
変わった。
「何を」
「分からない」
「それでは分からない」
「俺も困ってる」
「どういう感覚だ」
星見は。
自分の額へ手を当てる。
「今日」
「あいつの顔を見て」
「見たことがないと思った」
「ああ」
「でも」
言葉を探す。
「見たことがないことを」
「知っている気がした」
空白は。
何も言わない。
「おかしいだろ」
「……ああ」
「六百年」
星見の声が。
少し。
低くなる。
「俺は向こうで」
「忘れたことも」
「思い出したこともある」
「どれが自分の記憶か」
「分からなくなったこともある」
それでも。
「今日のは」
胸の奥に。
嫌な。
空洞。
「違う」
空白が尋ねる。
「何が」
「忘れているんじゃない」
星見は。
ゆっくり。
採石場の四十六人を見る。
「最初から」
「俺の中に」
「入っていない」
「記憶がある気がする」
「……」
「なのに」
男は。
自分の胸へ手を置いた。
「そこに」
「何かがあったことだけ」
「分かる」
風が吹いた。
黒い灰が。
地面を。
薄く滑る。
空白は。
その言葉を。
すぐに記録しようとはしなかった。
六百年前なら。
そうしたかもしれない。
記録。
比較。
観測。
だが。
今は。
「星見」
「何だ」
「今夜は寝ろ」
男が。
目を瞬く。
「何だ急に」
「疲れてる」
「六百年ぶりに帰ったんだぞ。今さら一晩寝たくらいで――」
「だから寝ろ」
「話を聞いてたか?」
「聞いた」
「なら」
「明日も考えられる」
星見は。
少し。
口を開く。
そして。
閉じた。
「……お前」
「何だ」
「変わったな」
空白の眉が。
僅かに動く。
「悪い意味?」
「いや」
星見は。
小さく笑った。
「たぶん」
「良い意味だ」
空白は。
返事をしない。
ただ。
先に歩き始めた。
「どこ行く」
「寝床」
「俺の?」
「違う。私のだ」
「じゃあ何で呼んだ」
「お前も来い」
「一緒の部屋?」
空白が。
無言で振り返る。
「冗談だ」
「六百年で」
「冗談が下手になったな」
「そこまで言うか」
二人の声が。
夜の採石場へ。
少しずつ。
遠ざかっていく。
その背後。
誰もいなくなった場所へ。
黒い灰が。
一枚。
落ちた。
すぐには。
何も起こらない。
ただ。
風で。
半分だけ。
裏返る。
灰の裏側。
本来なら。
何もないはずの面に。
細い。
白い線が。
一瞬だけ。
浮かんでいた。
人の顔にも。
門にも。
読めない文字にも見える。
曖昧な形。
けれど。
それを。
見ている者は。
誰もいない。
だから。
その夜。
記録には。
何も残らなかった。




