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灰の星  作者: ウルフルマル


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第3章 第30話 「帰る資格」

 夜明けには、まだ少し早かった。


 灰都の西外壁に立つと、街の中と外とでは、夜の色がまるで違って見えた。


 内側には灯りがある。


 夜通し火を落とさない鍛冶場の炉、巡回兵が提げた油灯、夜番のために炊かれた湯のかすかな湯気。遠くではパン焼き窯に火を入れ始めたらしく、風向きが変わるたびに焦げた麦の匂いまで運ばれてくる。


 いつもの灰都の夜明け前だった。


 だが、外壁を一枚隔てた向こうには、その日常が一つもなかった。


 黒い灰が降っている。


 月明かりを吸い込むような暗い街道の上に、三十七人。


 星見が六百年以上を過ごしたという「向こう側」から帰ってきた者たちが、互いに寄り添うでもなく、かといって散り散りになるでもなく、灰都の門を見上げていた。


 座り込んでいる者もいる。


 腕を抱えて立っている者もいる。


 古びた外套を子どもへ掛けてやっている老人もいた。


 服装も年齢も種族も違う。


 唯一、共通しているように見えるものがあるとすれば――誰もが、自分がここにいていいのか分からない顔をしていることくらいだった。


「また増えた」


 ノアの声に、壁上にいた者たちが一斉に西へ目を向けた。


 兎耳を風上へ向けたまま、ノアは外壁の胸壁へ両手を置いている。


 まだ姿は見えない。


 けれど、少年には聞こえているらしい。


 ハルトが古い双眼鏡を目に押し当てた。


「何人だ?」


「……待って」


 ノアは目を閉じた。


 風。


 灰。


 三十七人の呼吸と衣擦れ。


 そのさらに向こう側から、一定ではない足音が重なってくる。


「十人。たぶん」


「走ってるか?」


「ううん。歩いてる。急いではないと思う」


「武器は?」


「そこまでは分からない」


「十分だ」


 ハルトは双眼鏡を下ろすと、横にいた門衛へ顎をしゃくった。


「西の見張りを二人増やせ。弓は持たせろ。ただし、俺が言うまで弦を引くな」


「了解」


 若い門衛が走り去る。


 その背中を見送ってから、レイラが壁の外へ身を乗り出した。


「敵なら、ずいぶんのんびりした攻め方だな」


「そう見えることと、安全なことは別だ」


 ガルムが言った。


 灰断ちは鞘に納まったままだが、右手はすぐ届く位置にある。


「分かってるよ。ただ、あれを見て『今すぐ斬ろう』とは思えないって話」


「珍しくまともだな」


「朝から喧嘩売ってんのか?」


「事実を言った」


 レイラが睨む。


 ガルムは知らない顔をした。


 少し離れたところで、ヴェスパーは二人のやり取りを聞きながら街道の先を見ていた。


 やがて、灰の中に十の影が浮かんだ。


 先頭を歩くのは、背の低い老人だった。左脚を引きずっている。


 その後ろに二人の若者。


 さらに、角のある亜人の女と、小さな子どもを背負った男。


 軍勢ではない。


 少なくとも、並び方だけを見ればそうだった。


 十人は三十七人のところまで来ると、誰かに命じられた様子もなく歩みを止めた。


 挨拶を交わす者はいない。


 初対面なのかもしれない。


 それでも、誰も離れようとはしなかった。


「四十七」


 ノアが呟いた。


「増えたな」


 レイラが言う。


 軽口に聞こえたが、その声にはいつもの勢いがなかった。


 ヴェスパーは彼女の横顔を一度見てから、もう一度門外へ視線を戻した。


「ノア。みんな同じように聞こえるか?」


「ううん」


「どう違う?」


 ノアは少し考えた。


 こういう時、以前なら聞こえたものを全部言おうとしただろう。


 だが今は、一つずつ拾うように言葉を選んだ。


「怖い人がいる。すごく疲れてる人も。怒ってる人もいるし……泣いてないけど、ずっと泣いてるみたいな音の人もいる」


「それはどんな音だ」


 ハルトが尋ねた。


 ノアは困ったように眉を寄せた。


「上手く言えない。胸の音が、ずっと同じところで引っかかってる感じ」


「そうか」


「あと、帰りたい人」


 ハルトの目が外へ向く。


「灰都へ?」


「分からない」


 ノアは首を振った。


「それと……帰りたくない人もいる」


 今度は誰もすぐに口を開かなかった。


 門の外へ来たのだから、中へ入りたい。


 そう決めつけるのが一番簡単だった。


 けれど、すでに星見がそうではなかった。


 六百年以上向こう側に残り続けた男でさえ、灰都の門前で最初に口にしたのは「入れてくれ」ではなく――帰っていいのか、だった。


「厄介だな」


 ハルトが低く言った。


 ヴェスパーが隣を見る。


「何が?」


「敵なら閉める。味方なら開ける。どっちか決められるなら、門番の仕事なんて楽なもんだ」


 彼は腕を組んだまま、四十七人を眺めた。


「こういうのが一番困る」


「正直だな」


「格好つけて門は守れん」


 ハルトはそう言ってから、ヴェスパーへ目を向けた。


「王都じゃ、こういう時どうした」


「もっと面倒だった」


「参考にならんな」


「でも、一つだけ」


「何だ」


「分からないまま決めることはあった」


 ハルトは鼻を鳴らした。


「それなら、いつもの仕事だ」


 門の下から鐘が一度鳴った。


 外への警告ではない。


 内側へ、門前の状況が変化したことを知らせる合図だった。


 街が起き始める。


 そして、街が起きれば。


 門の外に四十七人いることを、いつまでも隠しておくことはできない。


     ◇


「入れろって言ってるんじゃない。ただ、あそこに朝まで立たせとくのか?」


 レイラは、西外門の詰所にある長机へ両手をついていた。


 石造りの詰所は大人数で使うことを想定していない。門衛に加え、ヴェスパーたちまで入ったせいで、壁際まで椅子が追いやられている。


 中央には灰都西側の簡易図。


 その上に、ハルトが門外の四十七人を表す小石を置いていた。


「俺だって嫌だ」


 ハルトは答えた。


「だが全員入れるのも無理だ。素性が分からない。身体に何が起きてるかも分からん。黒火がある奴とない奴がいる。昨日までは存在すら知らなかった連中だぞ」


「子どももいます」


 セレスが言った。


「高齢者もいます。外の気温はさらに下がりますから、少なくとも身体の弱い人については早めに対応した方がいいでしょう」


「分かってる」


 ハルトは額を押さえた。


「分かってるから困ってる」


「食料は?」


 ヴェスパーが尋ねる。


「今朝一食なら問題ない」


 答えたのは、詰所まで呼ばれていた配給係の年配女性だった。


 腕ほどの太さがある帳簿を抱え、いかにも寝起きと分かる髪のまま立っている。


「でも昼、夜、その次となれば話は変わるよ。灰都だって冬越しの備蓄に手を付け始めてる。四十七人増えるだけなら一日二日でどうこうはならないけど、明日百人になったら?」


「それも分からない」


 イリスが答える。


「門の向こうから何人戻れるのか、こちらへ来られる条件が何なのか、今のところ規則性は見つかってない」


「じゃあ全部食わせるなんて約束はできないね」


「しなくていいと思います」


 セレスが静かに返した。


「今日できることと、明日できることは分けて考えましょう」


「それなら今朝は出せる」


 配給係の女は即座に言った。


「ただし、街の分を勝手に削るなら私は止めるよ。余りから出せる範囲まで」


 ハルトが頷く。


「それで頼む」


「何人分?」


「四十七」


「増えない?」


「聞くな」


「それを決めるのがそっちの仕事だろ」


「俺に向こう側の人数まで管理させるな」


 女は呆れたように鼻を鳴らしたが、帳簿を開きながら詰所を出ていった。


 レイラがその背中を見送る。


「強いな、あの人」


「この街で配給握ってる奴に逆らうなよ」


 ハルトが言う。


「ガルムより?」


「比べるな」


「何で俺が出る」


 ガルムが嫌そうに眉を寄せた。


 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 その間に、アルドは地図を引き寄せていた。


「門の外で雨風を凌げる場所なら、ここがあります」


 太い指が、西外壁から少し北へ外れた区画を示す。


「旧採石場?」


 セリカが覗き込む。


「二年前に閉じたところ」


「屋根が残ってる?」


「資材置き場だった建物が一棟。ただ、東側の柱が傷んでる」


「使える?」


「補強すれば」


 ハルトが身を乗り出した。


「四十七人入るか?」


「詰めれば。寝床まで作るなら厳しい」


「雨避けと休憩だけでいい。今は」


 アルドは地図を見たまま、しばらく計算するように黙った。


「木材があれば一時間」


「遅い」


 セリカが言った。


「四十分」


「四十分でやると、たぶん屋根が一度落ちる」


「じゃあ落ちないようにやって」


「それを一時間と言ってる」


 横で聞いていたレイラが首を突っ込む。


「重いものなら私が運ぶぞ」


 アルドが初めて顔を上げた。


 レイラの腕を見る。


 次に地図。


「……三十五分」


「急に縮んだな」


 ハルトが呆れる。


「運搬に時間が掛かるから」


「おい」


 レイラが笑った。


「私、便利だな」


「便利」


「言い方」


「褒めてる」


「絶対違うだろ」


「それ、私も手伝う」


 セリカが図面を畳んだ。


「古い防水布なら北倉庫に余ってたはず。住民から借りられるものも確認する」


「借りる時、門外の人間に使うって説明しろ」


 ハルトが釘を刺す。


「後で『聞いてない』は面倒だ」


「了解」


 セリカとアルドが出ていく。


 レイラもその後を追いかけようとして、扉の手前で振り返った。


「ヴェスパーは?」


「こっちにいる」


「何で?」


「俺が聞きたい」


「珍しいな。力仕事なのに」


「お前がいるなら十分だろ」


「それもそうか」


 妙に納得して、レイラは出ていった。


 扉が閉じたあと、ガルムがぽつりと言う。


「単純で助かる」


 廊下の向こうから。


「聞こえてるぞ!」


 返ってきた。


     ◇


 門外の者たちへ、灰都の決定を伝える役はハルト自身が引き受けた。


 西外門に設けられた小さな観察口を開く。


 人が通れるほどではない。


 向こうから手を差し込むことも難しい細長い隙間だ。


 そこから流れ込んできた空気は冷たく、灰の匂いがした。


「聞こえるか!」


 ハルトが声を張る。


 四十七人のうち、何人かが顔を上げた。


 全員ではない。


 自分に向けられた言葉だと思わなかったのかもしれない。


「今すぐ、この門を開けることはできない!」


 言葉が届いた途端、外側の空気が変わった。


 落胆した者。


 目を閉じた者。


 最初から期待していなかったように座り直した者。


 一方で、どこか安心したように肩の力を抜いた者までいた。


 ノアが小さく息を呑む。


 同じ言葉を聞いても、反応は同じではない。


「ただし!」


 ハルトは続けた。


「追い返すつもりもない。少し北に、休める場所を用意する。水と、今朝の食事も出す」


 ざわめきが起こった。


 大きくはない。


 そもそも、外にいる者たちは驚くほど声を上げない。


 その静けさの方が、ヴェスパーには気になった。


 やがて、一人の女が人の間を抜けて前へ出てきた。


 昨日、最初に「帰っていいのか」と尋ねた女だった。


 四十歳前後に見える。


 長い髪は灰で色を失い、裸足の足には細かな傷がいくつもある。


 それでも歩き方はしっかりしていた。


「入れないの?」


 女が訊いた。


「今は」


 ハルトは答える。


 曖昧に期待を持たせるでもなく、必要以上に拒絶するでもない。


「私たち、何もしてない」


「そう見える」


「じゃあ」


「そう見えることと、安全だと分かってることは違う」


 女の眉が寄った。


「私たちが危険だって言うの?」


「危険かもしれないし、危険じゃないかもしれない。こっちにはまだ判断する材料がない」


「だったら、いつまで待てばいいの」


「分からん」


 ハルトが正直に答えると、女は少し呆気に取られた顔をした。


「門を守ってる人なのに?」


「門を守ってるから分からんものを分かったとは言えないんだ」


 言い方はぶっきらぼうだった。


 けれど、女は怒らなかった。


 しばらくハルトを見上げたあと、視線をその後ろへ移した。


 星見がいた。


 女の顔が、わずかに変わる。


「……星を見てた人」


 星見も彼女を見た。


「向こうで会ったな」


「覚えてる?」


「顔だけ」


「私は、あなたの名前を知らない」


「俺もお前の名は知らない」


 女が、何かを懐かしむように笑った。


「それなら同じだね」


 笑顔は長く続かなかった。


「あなたは帰れたんだ」


 星見の目が僅かに揺れた。


「ああ」


「じゃあ、私も帰れる?」


 その問いに。


 星見は答えなかった。


 答えられなかった。


 昨日まで、自分自身が同じことを尋ねていた。


 それを知っている空白も、横から口を挟まない。


 沈黙に耐えかねたように、女は門へ一歩近付いた。


 門衛の肩が僅かに強張る。


 ハルトは片手だけを上げ、弓兵を制した。


「誰が決めるの」


 女が尋ねた。


「私が帰っていいか」


「それを俺に決めさせるな」


「でも、あなたが門を開けるんでしょ」


「ああ。中へ入れて大丈夫かどうかは俺が考える」


 ハルトは門板へ手を置いた。


「だが、お前がどこを帰る場所だと思うかまで、俺の仕事にするな。重すぎる」


 女は返事をしなかった。


「そんなの……」


 やがて掠れた声が漏れた。


「私だって分からないよ」


 ハルトもすぐには答えない。


 少し離れたところにいたヴェスパーは、その言葉を聞いた。


 帰っていいのか。


 帰りたいのか。


 どこへ帰るのか。


 全部同じ問いに見えて、たぶん違う。


「とりあえず」


 ハルトが言った。


「朝飯は食え」


 女が顔を上げる。


「それから考えろ。こっちも考える」


「……それでいいの?」


「よくはない」


「じゃあ」


「よくないままでも、腹は減るだろ」


 女はしばらくきょとんとしていた。


 それから、今度はほんの少しだけ。


 本当に笑った。


     ◇


 旧採石場の資材庫は、予想以上に酷い状態だった。


「レイラ! その柱に触るな!」


「これか?」


「持ち上げるな!」


「まだ持ってない!」


「持とうとしただろ!」


 アルドの声が、採石場に響く。


 レイラの両手は、まさに太い支柱を抱えようとしていた。


「曲がってるから直そうかと」


「それは屋根を支えてる」


「でも曲がってるぞ」


「曲がった状態で均衡してる。今抜いたら半分落ちる」


 レイラが屋根を見上げた。


 崩れかけた木組みが、風に軋んでいる。


「……先に言えよ」


「今言った」


「触る前に」


「触る前だった」


「細かいなあ」


「建物は細かくないと落ちる」


 その横で、灰都の職人らしい老人が笑った。


「兄ちゃん、正しいぞ。そこの姉ちゃんに好きにさせたら、屋根じゃなくて更地になる」


「誰が更地だ!」


「力だけで建物が直るなら俺たちゃいらん」


 老人はそう言いながら、持ってきた木箱を地面へ置いた。


 中には大小さまざまな釘と金具が詰まっている。


 セリカがそれを見た。


「これ、かなり良いやつじゃない?」


「古い在庫だ」


「門外の人に使うって聞いてます?」


「聞いた」


「それでも?」


 老人は面倒そうに肩をすくめた。


「ボロい釘で屋根落としたら、助けたのか殺したのか分からんだろ」


 それだけ言うと、アルドの横へしゃがみ込む。


「東側はこっちから当て木した方が早い。上へ登れるか?」


「登れる」


「じゃあ俺が下を留める」


「助かります」


「礼は終わってから言え」


 少し離れたところでは、セリカが住民から借りてきた防水布を広げている。


「これ、穴がある」


 手伝いに来た若い門衛が言った。


「縫えば使える」


「俺、縫えません」


「私も上手くない」


「じゃあ誰が」


「探して」


「そこから?」


「そこから」


 結局、近くの染物屋から女性が二人呼ばれ、布の補修まで始まった。


 四十七人を一時的に休ませるだけの場所。


 それだけのために。


 気が付けば、灰都の人間が十数人働いている。


 文句を言う者もいた。


「ほんとに何者なんだ、あいつら」


「知らない」


「知らない奴にこれ貸すのかよ」


「嫌なら持って帰っていい」


「そこまで言ってねえ」


「じゃあ持って」


「お前、言い方が冷たいな」


 セリカは淡々としている。


 それでも男は、結局最後まで木材を運んだ。


 レイラが大きな石を両腕に抱えながら、面白そうにその様子を眺める。


「灰都って、変な街だな」


「どこが」


 アルドが梁の高さを測りながら答えた。


「嫌だ嫌だって言いながら、みんな手伝う」


 老人が釘を打ちながら笑う。


「嫌なもんは嫌だ。助けるのとは別だろ」


 レイラは一瞬ぽかんとして。


「なるほど」


 そう言って、また石を運び始めた。


     ◇


 朝日が外壁の上へ届く頃には、簡易の避難場所が出来ていた。


 立派とは言えない。


 屋根は継ぎ接ぎ。


 防水布も色が揃っていない。


 床には採石場時代の石屑が残っており、寝転べば背中が痛くなるだろう。


 それでも。


 風は防げる。


 座れる。


 火を焚ける。


 四十七人は門衛に案内され、一人ずつ採石場へ移った。


 走る者はいない。


 押し合う者もいない。


 あまりにも静かだった。


 ヴェスパーは、その列を門壁の上から見ていた。


「変ですね」


 隣のセレスが言った。


「何が?」


「誰も『早くしろ』と言わない」


 確かにそうだった。


 普通なら、寒さから逃れられる場所が出来たと聞けば、多少なりとも急ぐはずだ。


 けれど彼らは、自分の順番が来るまで立っている。


 子どもすら騒がない。


「向こうでは」


 星見が少し離れた場所から言った。


「急いでも、助けが早く来ることはなかった」


 誰も返さなかった。


「叫んでも同じだった。誰かに何かを頼んでも、そもそも相手が本物なのか分からない。だから、そのうち待つようになる」


 星見の視線が、列の中の者たちを追う。


「黙って」


 空白が横から彼を見る。


「お前も?」


「たぶんな」


 星見は苦笑した。


「今、自分がどんな顔をしてたかも思い出せない」


 ノアが彼を見上げる。


「昨日は怖そうだった」


「そうか」


「あと、ちょっと泣きそうだった」


「そこまで言うか」


「聞こえたから」


「便利だな、その耳」


「嫌な時もあるよ」


 ノアが素直に返すと、星見は「そうだな」とだけ答えた。


 その言葉には、六百年の経験を説明するような重さはなかった。


 ただ。


 本当にそう思ったように聞こえた。


     ◇


 朝食には、温かい野菜のスープが出た。


 豪華ではない。


 豆と根菜が多く、肉は一人の器に二切れ入ればいい方だ。


 パンも昨日焼いた固いもの。


 それでも、湯気が立つ。


 最初に門前へ来た女は、器を両手で受け取ると、すぐには口を付けなかった。


 セレスが少し離れて見ていたが、しばらくして彼女の前へ腰を下ろした。


「食べられませんか?」


「……違う」


 女はスープを見つめたまま答える。


「こういう匂いが、久しぶりで」


「向こう側では食事がなかった?」


「食べたことはある」


「なら」


「でも、同じじゃない」


 女は器へ顔を近づけた。


 湯気が頬に触れる。


「向こうでも、家で出ることがあった。台所も、鍋も、食べ物も。食べればお腹もいっぱいになった」


 セレスは続きを急かさない。


「でも?」


「匂いを嗅ぐたびに考えた。これは私が覚えてる匂いなのか、それとも……本当に誰かが作ったものなのかって」


 少し離れたところで聞いていた星見が目を伏せる。


 自分にも覚えがあるのだろう。


 女は匙を持った。


 一口。


 ゆっくりと飲む。


 喉が動いた。


 そのまま二口目。


 三口目。


 やがて、目元から涙が落ちた。


「熱いですか?」


 ノアが訊く。


 女性は泣きながら笑った。


「熱いよ」


「美味しい?」


「……美味しい」


 それだけだった。


 だが、ノアは嬉しそうに笑った。


 外壁の上から様子を見ていた灰都の子どもが、突然声を上げる。


「それ、うちの母ちゃんの!」


 女が驚いて顔を上げた。


 子どもの横にいた母親が慌てて口を塞ごうとする。


「こら!」


「だって母ちゃん作ったんだろ?」


「そうだけど、叫ばないの!」


 女は壁の上を見た。


「……ありがとう」


 小さな声。


 けれど。


 門の外から内側へ。


 確かに届いた。


 母親の方は、どう返していいか迷ったようだった。


 結局。


「味、薄かったらごめんね」


 と答えた。


 女が少し笑う。


「十分です」


 門は閉じている。


 それでも。


 全部が閉じているわけではなかった。


     ◇


 聞き取りは、一人ずつ行うことになった。


 最初に話を聞いたのは、先ほどの女だった。


 場所は採石場の端に設けた小さな天幕。


 ハルト、ヴェスパー、イリス、セレス、ノア、星見。


 ガルムは少し離れた入口付近に立っている。


 武器を抜いてはいない。


 ただ、何かあればすぐ動ける位置だった。


「名前は聞かない」


 ハルトが最初に言った。


「言いたくなっても、今は言わないでくれ」


「星に拾われるから?」


 女が尋ねる。


 星見が頷く。


「可能性がある。少なくとも今は避けた方がいい」


「分かった」


「覚えてることを、話せる範囲で話してほしい」


 ハルトは椅子の背へ寄りかからず、少し前かがみになった。


「嫌なことは答えなくていい。話したくなくなったら終わりにする」


 女は少し意外そうに彼を見る。


「尋問じゃないの?」


「尋問が必要になればそう言う。今は話を聞いてるだけだ」


 しばらくして。


 女は語り始めた。


「家があった」


「こちら側に?」


「たぶん」


「どんな場所?」


「小さい村。畑が多くて、冬になると風が強いところ」


 イリスは紙へ書き込むが、地名を尋ねない。


「家族は?」


「娘が一人」


 女の指先が、膝の上で僅かに動いた。


「向こう側で会った」


 ノアの耳が動く。


「娘さんに?」


「そう思った」


「違ったかもしれない?」


「分からない」


 女は目を伏せた。


「顔は同じだった。癖も。小さい頃、眠くなると左の耳を触る癖があって……大人になってもやってた」


「大人?」


 ヴェスパーが初めて口を挟んだ。


 女は彼を見る。


「私が最後に見た時、七歳だった」


「向こうでは?」


「私より年上だった」


 天幕の中が静かになる。


 イリスの筆も止まった。


「どのくらい?」


「分からない。四十……五十くらいかもしれない」


「あなたは?」


「変わってない」


 女は自分の手を見る。


「たぶん」


 ノアが慎重に尋ねた。


「その人は、お母さんって呼んだ?」


 女は頷いた。


「呼んだ」


「嬉しかった?」


「嬉しかったよ」


 答えは早かった。


 けれど、続く言葉は出てこない。


 ノアは少し待った。


「怖かった?」


 女の目が少年へ向く。


 そして。


「怖かった」


「どっち?」


 ハルトが思わず口にする。


 女の表情が変わった。


 怒った。


 ほんの少し。


「私だって分からないよ」


 ハルトが口を閉じる。


「娘に会えたと思った。大人になった顔を見られた。嬉しいに決まってる」


 女の声は次第に強くなる。


「でも私は、その時間を知らない。あの子がどうやって育ったのかも、誰と暮らしたのかも知らない。七歳だった子が、いきなり私より年上になって『お母さん』って呼ぶんだよ」


 女は自分の腕を抱いた。


「嬉しいよ。怖いよ。どっちもだよ」


 しばらく誰も喋らなかった。


 ハルトが頭を掻く。


「悪かった」


「……何が」


「どっちか聞いた」


 女は少しだけ目を丸くし。


 やがて肩から力を抜いた。


「こっちの人は、謝るんだね」


「向こうじゃ謝らないのか」


「謝る人もいた」


「じゃあ」


「でも、本当にその人が謝ってたのか分からない」


 また。


 向こう側の話になる。


 分からない。


 本物か。


 記憶か。


 誰かの願いが形になったものか。


「あなたは」


 ヴェスパーが尋ねた。


「灰都へ帰りたい?」


 女は少し考えた。


「灰都は知らない」


「じゃあ、こちら側へ?」


「昨日まではそう思ってた」


「今は?」


 彼女は答えなかった。


 外。


 遠くから石を割る音がした。


 採石場ではもう使われない音。


 今はアルドたちが補修を続けている。


「娘が」


 女は小さく言った。


「本当に向こうにいるなら」


 指が震える。


「戻りたい」


 ハルトが僅かに眉を寄せた。


「でもさっき、帰れるかって」


「だから!」


 女が顔を上げる。


「分からないって言ってるでしょ」


 その声が。


 天幕の布を震わせた。


 誰も怒らなかった。


 女自身が一番驚いている。


「……ごめん」


「謝らなくていい」


 セレスが言った。


「少なくとも、今は決めなくていいでしょう」


「決めなくていい?」


「今日中に答えを出さなければ命が失われる状況ではありません。なら、急いで一つに決める必要はありません」


 女はしばらくセレスを見た。


「そういうの」


「何ですか」


「慣れてない」


 セレスは僅かに笑った。


「私たちも、最近ようやく覚え始めたところです」


 ヴェスパーは何も言わなかった。


 けれど。


 その意味はよく分かった。


     ◇


 二人目に話を聞いたのは、十二、三歳ほどの少年だった。


 髪は短く、海辺の民がよく着るような薄い上着を何枚も重ねている。袖は破れ、片方の靴紐は別の布で代用していた。


「海を覚えてる」


 少年は言った。


「すごく青かった」


「海都?」


 イリスが尋ねる。


「知らない」


「大きな港は?」


「船はあった」


「どんな船?」


 少年が両手で大きさを示そうとして。


 途中でやめた。


「分からない。普通の船」


「普通は人によって違う」


「じゃあ分からない」


 イリスが苦笑する。


「ごめん。聞き方が悪かった」


 少年は少しだけ警戒を解いた。


「家族は?」


 ハルトが尋ねる。


「妹」


「向こうで会った?」


 少年は頷く。


「俺より年上だった」


 最初の女性と同じ。


 だが。


 反応は違った。


 少年は泣いていない。


 怒っていた。


「妹は俺に帰れって言った」


「どっちへ?」


「こっち」


「理由は」


「教えてくれなかった」


 少年は拳を握る。


「『ここはお兄ちゃんがいる場所じゃない』って、それだけ」


「それで来た?」


「追い出された」


「無理やり?」


「違う」


 少年は唇を噛む。


「俺が、言うこと聞いた」


「どうして」


 ノアが尋ねた。


「妹が泣いたから」


 少年はそこで初めて。


 少しだけ。


 子どもの顔になった。


「なのに」


 声が掠れる。


「帰ってきたら、妹いない」


 誰も。


 軽い慰めを口にしなかった。


「灰都に入りたい?」


 ヴェスパーが尋ねる。


 少年は首を横に振った。


「入らない」


「どうして」


「戻るから」


 ガルムの視線が鋭くなる。


 だが、ヴェスパーは止めなかった。


「向こうへ?」


「うん」


「戻り方は知ってる?」


「知らない」


「危険かもしれない」


「分かってる」


「本当に戻れないかもしれない」


 少年はヴェスパーを睨んだ。


「それも分かってる」


 その目を見て。


 ヴェスパーはしばらく黙った。


 自分なら。


 母親が向こうにいるかもしれないと知ったら。


 どうする。


 答えは、簡単には出せなかった。


「……そうか」


 それだけ言った。


 少年の方が少し驚いた。


「止めないの」


「危ないことは言う」


「今言った」


「ああ」


「それだけ?」


「今は」


 少年はヴェスパーを疑うように見た。


「変なの」


「よく言われる」


 横からレイラの声。


「誰に?」


 彼女は聞き取りの途中から、食事を運んだついでに天幕の外へ座り込んでいた。


「いろんな奴」


「お前が言うな」


 ヴェスパーが返す。


 少年は少しだけ笑った。


 ほんの少しだったが。


 初めてだった。


     ◇


 一人。


 また一人。


 話を聞く。


 全員を詳しく聞くことはできない。


 身体の具合。


 こちら側で覚えている場所。


 向こう側で何を見たか。


 今、どこへ行きたいか。


 必要なことだけ。


 それでも。


 四十七人を一つの言葉でまとめるのが、だんだん難しくなっていった。


 老人は「帰ったつもりだ」と言った。


「どこへ?」


「知らん」


「知らないのに?」


「土が固い。飯が熱い。それで十分だ」


 角のある亜人の女は、


「今日はここにいたい。でも明日は分からない」


 と言った。


 幼い子を背負った男は、子どもが自分の子なのか分からないと告白した。


「向こうで抱いていた。泣いていたから抱いた。それだけだ」


「下ろしたいですか?」


 セレスが尋ねると。


 男は長く迷って。


「……嫌だ」


 と答えた。


 その一言を聞いて、セレスはそれ以上何も訊かなかった。


 一人の若い女は、何も話したくないと言った。


 ハルトが「分かった」と言うと、逆に彼女の方が驚いた。


「本当に?」


「嫌なんだろ」


「……うん」


「じゃあ今日は終わりだ」


「疑わないの?」


「疑ってる」


 ハルトは平然と答えた。


「だからって、無理に喋らせた話を信用する気もない」


 女はしばらく彼を見たあと。


「変な門番」


 と呟いた。


「最近よく言われる」


 ヴェスパーが吹き出しかける。


 ハルトが睨んできた。


「誰のせいだ」


「知らない」


「お前だ」


 昼を過ぎる頃。


 イリスの紙は何枚にも増えていた。


 しかし。


 最後に彼女が一番上へ書いたのは。


 細かな分類でも。


 年代の仮説でもなかった。


 大きく。


 一行。


『一人ずつ違う』


 レイラが肩越しに覗く。


「随分当たり前のこと書いたな」


「当たり前のことほど、後で忘れるから書くの」


「忘れるか?」


「人は人数が増えると、すぐ『あの人たち』って呼び始める」


 イリスは四十七人へ目を向けた。


「私もそうしてた」


「帰還者」


「うん」


「便利だもんな」


「便利」


 イリスは筆先を紙の上で止める。


「だから、便利な言葉ほど疑った方がいい」


 レイラは少し考え。


「難しいな」


「レイラはそのままでいいと思う」


「それ褒めてる?」


「半分」


「残り半分は?」


「言わない」


     ◇


 問題は、門の外だけではなかった。


 昼前には灰都の住民にも話が広まり、西門の内側には人が集まり始めていた。


「何者かも分からねえ奴らを、いつまで食わせる気だ!」


「子どもだっているんだぞ!」


「だからって街へ入れて、何か起きたら誰が責任取る!」


「何かって何だよ!」


「知らねえから言ってんだ!」


 怒鳴り声。


 反論。


 不安。


 好奇心。


 誰かが一言言えば、別の誰かが被せる。


 ハルトは演台など使わなかった。


 そもそも灰都に、こんな時のための立派な広場はない。


 西門脇の荷降ろし場に立ち、木箱へ片足を乗せて話を聞いている。


「静かにしろとは言わん!」


 ハルトの声が飛ぶ。


「でも一人ずつ喋れ! 聞こえねえ!」


「お前が一番声でけえよ!」


 誰かが言い返し、笑いが起こった。


 少しだけ。


 場が落ち着く。


 最初に声を上げた獣人の男が前へ出た。


「俺は反対だ。今朝一食ならともかく、このまま何日も居座られたら困る。こっちだって余裕があるわけじゃない」


「その通り」


 ハルトが答えた。


「え?」


「余裕はない」


「じゃあ」


「だから今日一日で、明後日の約束まではしない」


 配給係の年配女性が横から帳簿を掲げる。


「今朝出した分は余剰だよ。今日の住民配給は減らしてない」


「明日は?」


「明日は明日の人数見て決める」


「また集まったら?」


「その時決める」


「全部その時かよ!」


「未来の人数を今決めろって方が無茶だろ!」


 ハルトも言い返す。


 別の女性が手を上げた。


「私は、子どもだけでも中に入れた方がいいと思う」


 すぐ別の男が反論する。


「子どもなら安全って誰が決めた。向こうから来たんだぞ」


「じゃあ子どもを外で凍えさせるの?」


「そういう話じゃ――」


「そういう話にもなるでしょ!」


 また声が重なる。


 ヴェスパーは少し離れた石段へ座り、その光景を眺めていた。


 隣にはノア。


「王都みたい」


 ノアが言った。


「少し違う」


「何が?」


「もっと騒がしい」


「うん」


「王都は、こうなる前に誰かが決めてた」


 ヴェスパーは、住民の中心で頭を抱えるハルトを見る。


「こっちは、決まらないまま喋ってる」


「大変そう」


「すごく」


 ノアが少し笑う。


「でも、誰も黙ってない」


「ああ」


 王都では。


 誰かに任せることが、楽だった。


 答えを一つにすることが、安心だった。


 灰都のやり方が正しいかは分からない。


 ただ。


 正しくなさそうな意見まで口に出せる。


 それを誰かが聞く。


 その面倒さを。


 街が引き受けている。


 やがてハルトが両手を上げた。


「今日のところは今のままだ!」


 不満の声。


「聞け!」


 さらに大きな声。


「門は開けない。ただし追い返さない。今夜までは食事を出す。明日以降については、人数と備蓄を見てもう一度話す」


「また話すのかよ!」


「状況変わってんだから仕方ねえだろ!」


 笑いが起きる。


 獣人の男が渋い顔のまま腕を組んだ。


「……勝手に配給減らすなよ」


「減らす時は先に言う」


「減らすなって言ってんだ」


「そこは明日話す!」


 また笑い。


 結論と言えるほど綺麗なものではなかった。


 それでも。


 人々は少しずつ散っていった。


「決まった?」


 ノアが尋ねる。


 ヴェスパーは首を傾ける。


「半分くらい」


「半分?」


「今日のことだけ」


「明日は?」


「明日決めるらしい」


 ノアは少し考えて。


「それでもいいんだ」


「たぶん」


 ヴェスパーは立ち上がった。


「全部、今日決めなくても」


     ◇


 夕方。


 空から降る灰は一時的に弱まった。


 採石場の仮設区画では、昼より少しだけ人の声が増えていた。


 大声ではない。


 隣に座った者同士が、ぽつぽつ話す程度だ。


 誰かが笑う。


 すぐ静かになる。


 また別のところで話し始める。


 四十七人は、一つの集団ではなかった。


 けれど。


 少なくとも。


 全員が完全に一人でもなくなりつつあった。


 星見は少し離れた石壁に腰掛け、その様子を眺めている。


 空白が隣へ来た。


「何を見てる」


「人」


「それは分かる」


「六百年ぶりに、俺が見ても増えない人間を見てる」


 空白の顔が僅かに曇る。


「向こうでは」


「見ていると増えることがあった」


「自分も?」


「何人も」


「そうだったな」


 星見は苦笑した。


 少し沈黙が続く。


 夕日が西の灰を赤く染める。


「俺も」


 星見が言った。


「昨日、あんな顔をしてたか」


 空白は門前に最初に来た女を見る。


 彼女はスープの器を洗っている。


「もっと酷かった」


「そうか」


「今にも逃げそうだった」


「帰ってきたのに?」


「だからだろ」


 星見は一度目を伏せた。


「帰ったら、楽になると思ってた」


「なったか?」


「少し」


「少しか」


「思ったより、こっちも面倒だった」


 空白の口元が。


 ほんの少し。


 緩んだ。


「六百年ぶりなんだ。諦めろ」


「ひどいな」


「お互い様だ」


 星見が夕焼けを見る。


「帰る場所って」


 そこで。


 一度言葉を止めた。


「門を越えれば出来るもんじゃないんだな」


 空白はしばらく答えなかった。


「知らん」


「お前」


「私は六百年、帰ったことがない」


 星見が振り向く。


 空白も自分で言った後に気付いたらしい。


「……そうだった」


「今度」


 星見が少し笑う。


「一緒に探すか」


「何を」


「帰る場所」


 空白は何も答えなかった。


 ただ。


 席を立たなかった。


     ◇


 夜になった。


 今日一日で。


 四十七人のうち四十六人は、仮設区画で夜を越すことにした。


 一人だけ。


 少年が門の近くに残っていた。


 妹のいる向こう側へ戻りたいと言った少年だ。


 採石場へ行くことも拒んだわけではない。


 けれど、灰都へ近付きすぎるのが嫌だと言った。


「ここにいたら戻れる気がする」


 それが理由だった。


 誰も。


 それが本当かどうか分からない。


 だからハルトは、門から見える範囲にいること、焚き火から離れすぎないこと、その二つだけ条件にした。


 夜番になったノアは、壁の隙間から少年を見下ろしていた。


「寒くない?」


 少年が上を見る。


「寒い」


「中、来ない?」


「行かない」


「そっか」


 それで会話が終わる。


 ノアは何も説得しなかった。


 しばらく。


 二人とも黙っていた。


 壁の上と下。


 距離は近い。


 けれど門がある。


「お前」


 少年が言った。


「何でそこにいるの」


「見張り」


「兵士?」


「違うよ」


「じゃあ何」


 ノアは少し考えた。


「ノア」


 少年が変な顔をする。


「名前聞いてない」


「僕の名前」


「ああ」


「君のは聞かない」


「……変なの」


「最近よく言われる」


 少年が笑った。


「あの狼の人と同じこと言ってる」


「ヴェスパー?」


「そう」


「一緒にいるからかな」


 少し離れた壁上。


 本人は聞こえている。


 だが何も言わない。


 ハルトと共に次の夜番への引き継ぎをしているふりをしていた。


 少年が焚き火へ小枝を一本投げる。


「明日も」


「うん?」


「ここにいていい?」


 ノアは答えようとして。


 やめた。


 後ろを見る。


「ハルト」


「何だ」


「明日もここにいていいって」


「誰が」


「あの子」


 ハルトは下を覗いた。


 少年と目が合う。


「お前、帰らないのか」


「帰りたいからここにいる」


「ややこしいな」


「知らない」


 少年が少し不機嫌そうに答えた。


 ハルトは額を掻く。


「明日の朝に決める」


「また?」


「まただ」


「そればっかり」


「悪いか」


 少年は焚き火を見た。


「別に」


「今日はそこにいろ。夜番には話を通しておく」


「分かった」


「火、消すなよ」


「分かってる」


「眠くなったら採石場へ行け」


「分かってるって」


「ならいい」


 ハルトは観察口を閉じようとして。


 少年がもう一度口を開いた。


「門番」


「何だ」


「ありがとう」


 ハルトの手が止まる。


「まだ何もしてねえよ」


「追い返さなかった」


「……」


 少し。


 間。


「寝ろ」


「まだ寝ない」


「好きにしろ」


 観察口が閉じる。


 ノアがハルトを見る。


「照れてる?」


「違う」


「顔」


「暗いから見えんだろ」


「音で分かる」


「その耳、たまに面倒だな」


「よく言われる」


 今度こそ。


 ノアが笑った。


     ◇


 ヴェスパーは、西外壁の端に立っていた。


 下には少年の焚き火。


 少し離れた旧採石場には、四十六人分の灯り。


 その向こうには。


 まだ黒い灰の残る街道。


 こちら側へ来たからといって。


 全員が帰ってきたわけではない。


 門を越えたからといって。


 そこが帰る場所になるわけでもない。


 帰りたいと言いながら。


 向こうへ戻りたい者もいる。


 帰りたくないと言いながら。


 どこへ行けばいいか分からない者もいる。


 矛盾している。


 でも。


 たぶん人間は。


 そういうものなのだろう。


「何考えてる」


 隣から声がした。


 レイラだった。


 両手に湯気の立つ木杯を持っている。


 一つをヴェスパーへ差し出す。


「酒?」


「スープ」


「何で」


「余った」


「本当に?」


「……少し貰った」


「だと思った」


 受け取る。


 温かい。


 昼間と同じ野菜のスープ。


 少し冷えている。


「で」


 レイラが壁へ背を預けた。


「何考えてた」


 ヴェスパーは少しだけ迷ってから答える。


「帰る場所って」


「うん」


「誰かに決めてもらうものじゃないんだなって」


 レイラはスープを一口飲んだ。


「当たり前じゃない?」


 ヴェスパーが彼女を見る。


「……そう?」


「私は嫌だぞ。知らない奴に『お前の家は今日からここだ』って言われたら」


「それは嫌だな」


「だろ」


「でも」


「何」


「帰っていいって言ってほしい時もあるんじゃないか」


 レイラは少し考えた。


「あるんじゃない?」


「どっちだ」


「両方でいいだろ」


 その言い方が。


 昼間の女と。


 少しだけ重なった。


 ヴェスパーは笑う。


「今日、それ何回も聞いた」


「じゃあ覚えろ」


「覚えた」


 二人の下。


 少年の焚き火が揺れる。


 少し先。


 採石場の灯りが一つ。


 消えた。


 誰かが眠ったのだろう。


 次。


 もう一つ。


 すべてが落ち着いたわけではない。


 門は閉じたまま。


 灰星の正体も。


 向こう側で何が起きているのかも。


 何一つ解決していない。


 それでも。


 今夜だけは。


 追い返されない場所がある。


 温かい食事がある。


 明日のことを。


 明日考えてもいいと言ってくれる者がいる。


 ヴェスパーは木杯を両手で包んだ。


 スープの熱が。


 指先へ。


 ゆっくり移ってくる。


 門の外から来た女が。


 今朝、この温度に泣いた理由が。


 少しだけ。


 分かる気がした。


 帰る資格が。


 あるのか。


 ないのか。


 そんな答えを。


 誰かが一晩で決めなくてもいい。


 少なくとも。


 今夜の灰都は。


 そういう場所だった。

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