第3章 第29話 「向こう側の六百年」
「灰星は」
星見が。
夜空を見上げた。
一つ。
消えた星。
その場所だけ。
空に。
穴が開いている。
「星じゃない」
黒い灰が。
静かに。
降る。
「門の向こう側にある」
「もう一つの――」
星見の声が。
一度。
途切れた。
「世界だ」
---
誰も。
すぐには。
何も言わなかった。
灰都。
西外門。
壁の向こう。
黒い灰。
検査区画。
名前のない帰還者。
リク。
そして。
六百四十年。
門の向こう側にいたと語る男。
情報が。
多すぎた。
「世界」
レイラが。
最初に口を開いた。
「って」
「この世界みたいな?」
星見が。
答えない。
「山があって」
「海があって」
「街があって」
「人が住んでる?」
「……分からない」
レイラの眉間。
深い皺。
「お前」
「六百年いたんだろ」
「ああ」
「なのに?」
「ああ」
「何してたんだ」
星見は。
本気で。
少し考えた。
「帰ろうとしていた」
「六百年?」
「たぶん」
「たぶん?」
ノアが。
星見を見る。
「向こうでは」
「時間」
「分からないの?」
星見の目が。
少年へ向く。
「こちらへ戻ってから」
「六百年以上経っていると」
「初めて知った」
空白が。
小さく。
息を呑む。
「向こうでは」
「何年だった」
「分からない」
「百年?」
「分からない」
「十年?」
「分からない」
レイラが。
顔をしかめる。
「またそれか」
イリスが。
すぐに紙を開いた。
「じゃあ」
「時間を」
「測る方法が」
「なかった?」
星見。
少し考える。
「最初は」
「あった」
「最初?」
「俺は」
「日を数えた」
「門へ入った日を」
「一日目」
「次に目を覚ました時を」
「二日目」
「それから」
男の指が。
僅かに震える。
「三百七十二日まで」
「数えた」
「じゃあ」
「一年以上は」
「確実?」
「こちらの一日と」
「同じならな」
イリスの筆が。
止まる。
「違う可能性が?」
「ああ」
星見は。
灰都の石壁へ。
指を触れた。
本物の石。
ざらつき。
冷たさ。
それを。
確かめるように。
「向こうでは」
「眠った」
「目を覚ました」
「歩いた」
「腹も減った」
セレスが。
表情を変える。
「食事は?」
「必要だった」
「何を」
「食べました?」
星見の目が。
遠くなる。
「覚えているものを」
全員。
静かになる。
「どういう意味」
ノアが尋ねる。
星見は。
目を閉じた。
---
向こう側。
最初。
そこには。
灰しかなかった。
地面。
灰。
空。
灰。
遠く。
黒。
星。
ない。
月。
ない。
風。
ある。
だが。
どこから。
吹いているのか。
分からない。
星見は。
一人。
立っていた。
門。
後ろ。
閉じた。
戻れない。
胸。
鼓動。
一つ。
もう一つ。
遠く。
門の鼓動。
「……成功した?」
声。
返らない。
星見は。
歩いた。
一歩。
二歩。
十歩。
百歩。
振り返る。
門。
ない。
「……」
走る。
戻る。
足跡。
ある。
だが。
自分が。
どこから来たのか。
分からない。
灰。
同じ。
景色。
同じ。
「空白!」
名前。
呼ぶ。
返事。
ない。
「聞こえるか!」
誰も。
いない。
「門は閉じた!」
声。
灰へ。
吸われる。
それでも。
星見は。
笑った。
「なら」
「いい」
三人。
こちら側。
生きている。
空白。
観測所。
守れた。
世界。
繋がらなかった。
自分一人。
帰れない。
それだけ。
「……それで」
「いい」
一度。
口にした。
その瞬間。
前方。
景色が。
変わった。
---
小さな家。
木。
石。
窓。
煙突。
星見が。
動けなくなる。
「……何で」
知っている。
故郷。
子どもの頃。
住んでいた家。
既に。
こちら側でも。
失われた場所。
扉。
開く。
「遅かったね」
女。
母親。
十年前に。
死んだ。
「……母さん?」
女が。
笑う。
「何してるの」
「早く入んな」
匂い。
煮込み。
パン。
薪。
全部。
知っている。
「違う」
星見が。
後ろへ下がる。
女の顔。
笑み。
崩れない。
「何が?」
「死んだ」
「誰が」
「母さんが」
「そう?」
女が。
首を傾ける。
「じゃあ」
「今」
「ここにいる私は?」
星見。
答えられない。
腹が。
鳴った。
女が。
笑う。
「ほら」
「食べな」
---
現在。
「食べたの?」
ノアが。
驚く。
星見。
頷く。
「最初は」
「食べなかった」
「何で」
「偽物だと思った」
「でも」
「三日」
「たぶん三日」
「何も食べずに」
「歩いた」
「死にそうになった?」
セレスが尋ねる。
「ああ」
「向こうでも」
「身体は」
「普通に弱る?」
「俺は」
「そうだった」
「それで」
星見。
少し。
苦く笑う。
「戻った」
「家に?」
「ああ」
「残ってた?」
「同じ場所に」
「でも」
「そこが」
「同じ場所だったか」
「今でも分からない」
「食べ物は」
「本物だった?」
セレス。
医者として。
純粋な問い。
「腹は」
「満たされた」
「身体も」
「戻った」
「なら」
「栄養としては」
「作用した」
「ただ」
星見が。
自分の腹へ手を置く。
「後で」
「家が消えた時」
「食べたものが」
「何だったのか」
「分からなくなった」
レイラが。
嫌そうな顔。
「怖い話になってきたな」
「最初から」
ガルムが言う。
「怖い話だ」
---
「その母親は」
ヴェスパーが尋ねる。
星見。
彼を見る。
「本人だったと思う?」
男は。
すぐには。
答えない。
「六百年」
「考えた」
「それで」
「分からない」
ヴェスパーの眉が。
僅かに動く。
「声」
「顔」
「癖」
「俺しか知らないこと」
「全部」
「同じだった」
「じゃあ」
「本物かも」
ノアが言う。
「そう思った」
星見が答える。
「だから」
「聞いた」
「何を」
「死んだ時のこと」
空白の目が。
僅かに揺れる。
「母は」
星見の声が。
低くなる。
「答えた」
『川の近く』
『雨が降ってた』
『最後に』
『あんたのこと考えた』
「全部」
「正しかった」
ノア。
息を呑む。
「じゃあ」
「本物?」
「問題は」
星見が。
少年を見る。
「その記憶を」
「俺も知っていた」
ノアの耳が。
僅かに下がる。
「どういう」
「母が死んだ時」
「俺は」
「近くにいた」
「雨も」
「川も」
「最後に」
「俺の手を握ったことも」
「知っていた」
「だから」
「向こうが」
「俺の記憶から」
「作っただけかもしれない」
「でも」
「本当に」
「死んだ人が」
「向こうに残る可能性も」
「捨てられない」
「そうだ」
星見は。
静かに答えた。
「捨てられない」
---
ヴェスパー。
母親。
門の向こう。
『ちび狼』
声。
暖かい。
自分は。
幼すぎた。
母の。
死を。
見ていない。
だから。
もし。
自分の知らないことを。
向こうの母親が言えば。
本物だと。
証明できる?
違う。
ガルムが。
知っている記憶を。
向こうが。
拾えるなら。
同じ。
「考えるな」
ガルムが。
突然言った。
ヴェスパーが。
顔を上げる。
「何」
「今」
「母親を」
「どうやって」
「本物だと確かめるか」
「考えただろ」
「……ああ」
「やめろ」
ヴェスパーの顔が。
険しくなる。
「また」
「決める?」
ガルム。
一瞬。
黙る。
そして。
首を横に振った。
「違う」
「提案だ」
「理由は」
「考えた内容そのものを」
「向こうが」
「拾う可能性がある」
イリスが。
目を細める。
「思考まで?」
星見が。
答える。
「全部ではない」
「少なくとも」
「俺は」
「強く思い出したものほど」
「向こうへ出やすかった」
「だから」
空白が。
呟く。
「観測するほど」
「観測される」
「そうだ」
星見が頷いた。
「こちらから」
「向こうを知ろうとすれば」
「向こうも」
「こちらを知る」
---
「じゃあ」
レイラが言う。
「何も考えない方がいい?」
「無理だ」
ガルム。
即答。
「お前は」
「できそう」
「喧嘩売ってるか」
「少し」
「ヴェスパー」
「師匠を止めろ」
「今日は」
「レイラ側」
「何でだ」
ノアが。
少し笑う。
緊張が。
一瞬。
ほどける。
星見が。
その光景を見る。
不思議そうに。
「何だ」
レイラが尋ねる。
「六百年」
「こういうの」
「なかった?」
星見。
少し考える。
「途中から」
「あった」
全員。
笑いが。
止まる。
「誰と」
ノアが尋ねる。
男。
しばらく。
黙る。
「俺と」
「俺」
誰も。
言葉を返せない。
---
向こう側。
何日。
何年。
何十年。
星見は。
一人。
歩いた。
故郷。
消えた。
母親も。
ある朝。
いなくなった。
代わりに。
観測所。
現れた。
六百年前。
そのまま。
空白席。
ある。
三人。
黒火保持者。
いる。
「おい」
一人が。
振り返る。
「遅い」
星見。
止まる。
「お前」
「こちら側に」
「いるはず」
「何の話だ」
「門を」
「閉じただろ」
「これからだ」
時間。
戻った?
違う。
同じ。
瞬間。
繰り返す。
「空白は」
「いる」
奥。
空白。
若い。
六百年前。
星見を見る。
「何してる」
本物?
記憶?
「俺は」
「向こう側に」
「行った」
「まだだ」
空白が。
怪訝そうな顔。
「これから」
「お前が行く」
星見の身体が。
震える。
「なら」
「今いる俺は」
誰。
その時。
後ろ。
声。
「俺だ」
星見が。
振り返る。
自分。
同じ顔。
同じ観測札。
同じ傷。
「……」
もう一人。
星見。
笑う。
「遅かったな」
さらに。
背後。
「お前もか」
一人。
二人。
三人。
自分。
「どれが」
「俺だ」
誰かが。
言う。
全員。
同じ声。
『俺だ』
---
現在。
ノアが。
自分の腕を。
抱く。
「怖い」
星見。
頷く。
「俺も」
「どうしたの」
「最初は」
「斬った」
ガルムの目が。
僅かに動く。
「自分を?」
「ああ」
「死んだ?」
「一人は」
「消えた」
「もう一人は」
「血を流した」
「血?」
セレス。
強く反応。
「あなたと同じように」
「身体が?」
「同じだった」
「じゃあ」
「本物?」
「だから」
「分からない」
星見の声に。
疲れ。
六百年。
答えが。
ない。
「次に」
「話した」
「何を」
レイラが尋ねる。
「俺しか知らないこと」
「全員」
「知ってた」
「そりゃ」
「自分なら」
「そうだな」
「そのうち」
「俺の知らないことを」
「知ってる俺も」
「現れた」
全員。
黙る。
「どういうこと」
イリスが。
筆を止めた。
「俺が」
「忘れていたこと」
「子どもの頃」
「父親に」
「何を言われたか」
「俺は」
「覚えてなかった」
「でも」
「もう一人の俺は」
「覚えてた」
「本当だった?」
「後で」
「別の記憶が」
「戻って」
「一致した」
「じゃあ」
イリスの顔が。
さらに険しくなる。
「向こう側は」
「本人より」
「本人の記憶を」
「持ってる可能性がある?」
「ある」
星見が答える。
「俺は」
「そう思った」
「でも」
「誰の記憶だったか」
「分からない」
「本人が」
「一度忘れたものも」
「向こうでは」
「残っている」
ヴェスパーの。
身体。
僅かに強張る。
ガルムが。
すぐに気付く。
昔の名前。
ヴェスパー自身が。
忘れている。
だが。
向こうは。
覚えている。
「だから」
ガルムが。
低く言う。
「お前の」
「昔の名を」
「向こうが」
「知ってる」
星見が。
ヴェスパーを見る。
「可能性は」
「高い」
「でも」
「名前だけじゃない」
ヴェスパー。
目を細める。
「何」
「お前が」
「忘れたもの」
「全部」
黒陽炎。
胸。
小さく。
揺れる。
---
セレスが。
ヴェスパーの前へ。
「今」
「思い出そうとしないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ」
「手を」
「何で」
「震えてます」
ヴェスパー。
自分の手を見る。
僅かに。
震えている。
握る。
「……怖い」
セレス。
静かに。
「はい」
「怖いですね」
「思い出したい」
「はい」
「でも」
「思い出したら」
「向こうへ」
「近付くかもしれない」
「はい」
「面倒だな」
レイラが。
少し離れた場所から言う。
「最近」
「みんなそれ言うな」
ヴェスパーが。
小さく。
笑った。
手。
震え。
少し。
収まる。
---
「六百年」
イリスが。
紙を。
一枚。
めくる。
「ずっと」
「そんなものを」
「見続けた?」
「違う」
星見が答える。
「途中から」
「何も」
「見ないようにした」
空白が。
彼を見る。
「お前が?」
「ああ」
「星を見る者が?」
「皮肉だろ」
「見れば」
「現れる」
「思い出せば」
「形になる」
「呼べば」
「来る」
「だから」
「最後」
「俺は」
「何も見ず」
「何も呼ばず」
「何も考えないようにした」
ノアが。
静かに聞く。
「できた?」
星見。
僅かに。
笑う。
「できなかった」
「だよね」
「でも」
「一つだけ」
「方法を」
「見つけた」
全員。
男を見る。
「名前を」
「使わない」
空白。
息を止める。
「自分の?」
「ああ」
「他人の?」
「ああ」
「場所にも」
「名前を付けない」
「向こう側」
「母」
「家」
「観測所」
「全部」
「呼ばない」
「ただ」
『これ』
『あれ』
『そこ』
「そうすると」
「形が」
「少しだけ」
「安定しなくなる」
イリスが。
息を呑む。
「名前が」
「固定する?」
「そうだと」
「思う」
星見。
空白。
七巻目。
六百年前。
『名を記すな。星は名を辿る』
それは。
単に。
敵に位置を教える。
という話ではない。
名前。
形。
存在。
境界。
それを。
固定するもの。
「だから」
ノアが言う。
「名前が」
「大事?」
「たぶん」
星見が。
少年を見る。
「向こう側では」
「名前は」
「ただの呼び方じゃない」
「じゃあ」
ノア。
木彫りの狼を見る。
「名前がないと」
「消える?」
「違う」
星見。
すぐに否定。
「それは」
「違う」
「どうして」
「俺は」
「自分の名前を」
「捨てた」
全員。
静かになる。
「それでも」
星見は。
自分の胸へ。
手を置く。
「俺は」
「いた」
「六百年」
「名前がなくても」
「俺だった」
ノアが。
小さく。
頷く。
ヴェスパーも。
何も言わず。
その言葉を聞いた。
---
「じゃあ」
アステルが。
初めて。
口を開く。
「向こう側で」
「存在を決めるのは」
「名前だけではない」
「そう思う」
「では」
「何ですか」
星見。
長い。
沈黙。
「選んだこと」
全員。
僅かに。
反応する。
「俺は」
「名前を忘れた」
「顔も」
「時々」
「自分のものか」
「分からなくなった」
「記憶も」
「どれが本物か」
「分からなくなった」
「でも」
男が。
空白を見る。
「一つだけ」
「忘れなかった」
「何」
「俺が」
「向こう側へ」
「行くと」
「選んだ」
空白の目が。
揺れる。
「だから」
「俺は」
「帰ろうとしても」
「門を」
「勝手に開かなかった」
「自分が」
「選んだから」
「ああ」
「後悔は」
空白が尋ねる。
星見。
答える。
「した」
即答。
「何度も」
空白。
言葉を失う。
「帰りたかった」
「怖かった」
「恨んだ」
「何で俺だって」
「思った」
「お前らだけ」
「こちら側にいて」
「ずるいとも」
「思った」
空白の唇が。
震える。
「でも」
「選んだことまで」
「なかったことにしたら」
「俺が」
「俺じゃなくなる気がした」
アステル。
自分の胸へ。
手。
器。
研究所。
決められた役割。
自分で。
拒んだ。
「選んだこと」
小さく。
繰り返す。
星見。
彼女を見る。
「名前が」
「消えても」
「残るものは」
「ある」
アステル。
静かに。
頷いた。
---
検査区画。
帰還者。
椅子。
スープ。
二杯目。
少し冷めている。
リク。
寝台。
アステルたちの話が。
聞こえない場所。
帰還者は。
一人。
窓の外を見る。
黒い灰。
「選んだ」
自分。
何を。
選んだ?
目を開けた。
塔。
黒い火。
歩いた。
灰都。
スープ。
好き。
「……好き」
自分で。
言った。
それは。
記憶ではない。
誰かに。
入れられた命令でもない。
「好き」
もう一度。
言う。
胸。
黒火。
僅かに。
小さくなる。
---
観測塔。
遠く。
オルディス。
床。
紙。
星脈図。
壊れた観測硝子。
「名前」
男が。
呟く。
研究員。
少し離れ。
「先生?」
「黒火は」
「器へ」
「移せない」
「それは」
「確認済みです」
「違う」
オルディスが。
自分の左腕を見る。
黒い痕。
「移せなかったんじゃない」
「移った後」
「器が」
「器でなくなった」
研究員。
理解できない。
「どういう」
「空の素体」
「私は」
「何もないと思っていた」
「でも」
「黒火が」
「向こう側へ」
「接続した瞬間」
「何かが」
「戻った」
「人格?」
「それを」
「人格と呼んでいいのか」
「分からない」
オルディスが。
笑う。
以前なら。
楽しかった。
未知。
研究。
解体。
解析。
今。
笑み。
少し。
硬い。
「分からない」
「素晴らしい言葉だと」
「思っていたが」
「最近」
「嫌いになってきた」
一人の。
元黒翼兵。
仮面。
外している。
「先生」
「何だ」
「怖いんですか」
オルディス。
男を見る。
以前なら。
質問した個体を。
処分したかもしれない。
「……ああ」
研究員。
目を見開く。
オルディス自身も。
認めた言葉に。
少し驚く。
「私は」
「自分が」
「何を開けたか」
「分からない」
元黒翼兵が。
尋ねる。
「止めたいですか」
オルディス。
しばらく。
答えない。
「壊したくは」
「なかった」
「それは」
「止めたいと」
「同じですか」
「……」
アステルの。
言葉が。
頭へ戻る。
目的。
行動。
本人意思。
同じではない。
「違うな」
オルディスは。
立ち上がる。
「止める」
「理由は」
「私が」
「始めた部分がある」
元黒翼兵。
少し。
首を傾ける。
「責任?」
オルディスが。
嫌そうな顔。
「その言葉は」
「好きじゃない」
「でも」
「たぶん」
「それだ」
---
灰都。
作戦室。
「星見」
イリスが尋ねる。
「どうやって」
「戻ってきたの」
全員。
そこ。
まだ。
聞いていない。
星見。
自分の手。
見る。
「向こう側で」
「声を」
「聞いた」
ガルム。
顔を上げる。
「誰の」
「俺の」
「また自分?」
「ああ」
「何て」
星見。
目を閉じる。
---
向こう側。
灰。
何も。
呼ばない。
何も。
見ない。
ただ。
歩く。
いつから。
分からない。
星見は。
自分の名前を。
もう。
思い出せない。
空白。
その呼び方も。
言わない。
門。
世界。
こちら。
向こう。
全部。
呼ばない。
ただ。
歩く。
その時。
前。
一人。
自分。
いた。
いつもの。
偽物?
記憶?
本物?
「またか」
星見が。
通り過ぎる。
自分が。
言う。
『帰れ』
星見。
止まる。
「嫌だ」
『帰れ』
「門を」
「開けない」
『違う』
「何が」
自分。
笑う。
『お前が』
『帰るんじゃない』
『帰れる場所を』
『残せ』
「意味が」
『向こうへ』
『来る奴が』
『増える』
星見。
振り返る。
「何」
『門が』
『一つじゃ』
『なくなる』
景色。
崩れる。
自分。
灰。
消える。
最後。
声。
『星が』
『もう一度』
『消える』
---
現在。
「それが」
星見が。
夜空を見る。
「数えると」
「こちらで」
「何年前かは」
「分からない」
「でも」
「俺にとって」
「かなり前」
「それから」
「向こう側で」
「人が」
「増え始めた」
全員。
静かになる。
「人?」
ヴェスパーが尋ねる。
「ああ」
「記憶じゃない?」
「分からない」
「でも」
「俺を」
「知らない奴ら」
「知らない服」
「知らない言葉」
「子ども」
「兵士」
「老人」
「獣人」
「亜人」
「人間」
「何人」
「最初は」
「一人」
「次」
「三人」
「十人」
星見の声。
低くなる。
「最後は」
「数えるのを」
「やめた」
レイラの顔から。
表情が。
消える。
「何百?」
「もっと」
「何千?」
「分からない」
「その人たち」
ノアが尋ねる。
「帰りたがってた?」
星見。
少年を見る。
「全員」
「違った」
「帰りたい者」
「残りたい者」
「帰る場所が」
「分からない者」
「自分が」
「死んでいると思う者」
「生きていると思う者」
「自分の時代が」
「もうないことを」
「知っている者」
「知らない者」
「名前を」
「覚えてる人?」
「いた」
「忘れた人?」
「いた」
「じゃあ」
ノアが。
小さく言う。
「みんな」
「同じじゃない」
星見。
少し。
目を細める。
「そうだ」
---
「なのに」
イリスが言う。
「今」
「一斉に」
「こっちへ戻り始めてる?」
「まだ」
星見が。
首を横に振る。
「一斉では」
「ない」
その時。
西外壁。
鐘。
一回。
全員。
顔を上げる。
ハルト。
通信。
『門外』
『新規接近者』
ガルム。
立ち上がる。
「何人」
返答。
『一』
ノアの耳。
向く。
「女の人」
「心臓」
「ある」
セレス。
「黒火は」
「分からない」
「遠い」
星見。
立ち上がる。
「始まった」
---
西外門。
灰の中。
女。
一人。
立っている。
四十ほど。
古い。
布服。
裸足。
門。
見上げる。
「帰って」
「いいのか」
ハルト。
壁上。
眉を寄せる。
その言葉。
星見。
聞いた。
六百年。
何度も。
向こう側で。
「開けるな」
ガルムが。
壁へ上がる。
ハルト。
「分かってる」
「聞くだけ」
女が。
こちらを見る。
「ここ」
「どこ」
「灰都」
「知らない」
「どこから来た」
女。
後ろ。
黒い灰。
見る。
「……向こう」
星見。
顔が。
僅かに強張る。
知っている。
本人ではない。
でも。
向こう側で。
一度。
見たことがある。
「お前」
男が。
思わず。
口を開く。
女。
星見を見る。
そして。
目を見開く。
「星を」
「見てた人」
空白が。
息を呑む。
「知り合い?」
星見。
首を横に振る。
「名前は」
「知らない」
女が。
笑う。
「私も」
「あなたの」
「知らない」
「向こうで」
「会った?」
「ああ」
「何年前」
「分からない」
女も。
同じ。
「私も」
---
ハルトが。
門へ。
手。
「中へ」
女の顔が。
僅かに。
明るくなる。
「入れて」
「まだ」
「じゃあ」
「帰れない?」
その声。
失望。
ノア。
門の内側。
聞く。
「帰りたい?」
女。
答える。
「分からない」
ハルト。
眉を寄せる。
「でも」
「帰っていいって」
「言ってほしい」
誰も。
言葉を。
すぐには。
返せない。
星見。
六百年。
自分も。
同じだった。
帰りたい。
でも。
自分が。
帰っていいのか。
門を閉じるため。
残った。
自分が。
戻れば。
全てを。
壊すかもしれない。
「俺は」
星見が。
小さく言う。
女が。
見る。
「帰って」
「いいのか」
自分自身へ。
聞くように。
誰も。
答えられない。
---
その夜。
女は。
門の外。
監視範囲。
簡易天幕。
水。
食料。
門は。
開けない。
追い返しもしない。
「中途半端」
レイラが言う。
ハルト。
「悪いか」
「いや」
「今は」
「一番いいと思う」
「お前」
「褒める時は」
「もう少し」
「分かりやすくしろ」
「面倒」
「やめろ」
ノア。
天幕。
女の心音を。
遠くから聞く。
「寝た」
セレスが。
安心する。
「なら」
「今夜は」
「それでいいです」
星見。
外壁。
一人。
女を。
見ている。
空白が。
隣へ。
「知っていたのか」
「顔だけ」
「話したことは」
「ほとんどない」
「向こうで」
「何してた」
「泣いてた」
空白。
女を見る。
「何で」
「子どもを」
「探してた」
「見つかった?」
「知らない」
「聞かなかったのか」
「聞けなかった」
星見。
一度。
目を閉じる。
「俺自身が」
「自分が誰か」
「分からなくなってた頃だ」
空白。
何も。
言わない。
「空白」
「何だ」
「俺が」
「今」
「帰ってきたの」
「間違いだったと思うか」
女。
すぐには。
答えない。
星見。
苦笑。
「六百年」
「向こうにいた」
「俺が戻ったから」
「門の錠が」
「一つ消えた」
「人も」
「戻り始めた」
「それでも」
空白が。
星見を見る。
「帰ってきて」
「ほしくなかったと」
「言えば」
「お前は」
「戻るのか」
星見。
沈黙。
「戻りたくない」
初めて。
はっきり。
言った。
空白。
僅かに。
目を見開く。
「怖い」
星見。
続ける。
「もう」
「あそこへ」
「一人で」
「戻りたくない」
六百年。
一人。
自分。
母。
死者。
記憶。
偽物。
本物。
分からない。
「だから」
「俺は」
「帰った」
空白は。
男を見る。
「なら」
「それでいい」
星見。
少し。
笑う。
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
「でも」
「お前自身が」
「帰りたいと」
「選んだ」
星見。
長い。
沈黙。
「……ああ」
---
夜。
深く。
ノアが。
目を開ける。
「……」
音。
一つ。
門外の女。
心臓。
灰都。
何千。
人。
それに。
混じる。
一つ。
二つ。
「ノア?」
ヴェスパー。
隣。
まだ。
起きていた。
「どうした」
「増えた」
「何が」
ノア。
西。
耳。
「人」
ガルム。
すぐに。
起きる。
「何人」
「分からない」
「十?」
ノア。
首を横に振る。
「もっと」
レイラ。
戦斧。
掴む。
「敵意」
ノア。
聞く。
一つずつ。
心臓。
怖い。
悲しい。
混乱。
「……ない」
「今は」
「でも」
「みんな」
「同じ言葉」
ヴェスパーが。
立ち上がる。
「何て」
ノアの顔が。
曇る。
『帰って』
『いいのか』
---
外壁。
全員。
上がる。
黒い灰。
夜。
その向こう。
人影。
一人。
二人。
五人。
十人。
三十。
「……」
ハルト。
言葉を失う。
門衛。
弓。
構える。
ガルム。
手。
上げる。
「まだ撃つな」
星見。
壁。
前。
立つ。
顔。
真っ青。
「知ってる?」
ノアが尋ねる。
「何人か」
「向こうで」
「見た」
「全部?」
「違う」
「知らない奴も」
黒い灰。
一人。
歩いてくる。
止まる。
女。
朝。
門外へ来た者。
その後ろ。
さらに。
人。
「何人」
ハルト。
監視員へ。
「三十七!」
「まだ」
「後ろにいる!」
「増えてる!」
レイラ。
斧。
握る。
「どうする」
誰も。
即答しない。
門を。
開けば。
灰都。
危険。
閉じれば。
彼らを。
向こうへ。
返すことになるかもしれない。
「星見」
ヴェスパーが呼ぶ。
「何だ」
「全員」
「帰りたい?」
星見。
首を横に振る。
「分からない」
「聞くしかない」
「一人ずつ?」
「ああ」
「三十七人」
レイラが。
息を吐く。
「明日まで」
「掛かりそうだな」
ハルト。
壁。
下。
灰都。
見る。
「明日で」
「済むなら」
「安い」
「門は」
「閉める」
一度。
「でも」
「撃たない」
ガルム。
ハルトを見る。
「理由」
「まだ」
「誰も」
「帰る資格がないとは」
「決めてない」
星見が。
その言葉を。
聞く。
帰る資格。
六百年。
自分自身へ。
何度も。
聞いた。
俺は。
帰っていいのか。
門を。
守る役目を。
捨てて。
帰っていいのか。
でも。
そもそも。
誰が。
資格を。
決める。
「ハルト」
星見が。
呼ぶ。
「何だ」
「その言葉」
「もう一度」
「何」
「帰る資格」
ハルト。
怪訝そう。
「誰も」
「ないとは」
「決めてない」
星見。
目を閉じる。
長い。
長い時間。
初めて。
少しだけ。
肩から。
力が抜けた。
---
外。
三十七人。
一人が。
門へ。
近付く。
門衛。
弓。
引く。
「止まれ!」
影。
止まる。
声。
女。
「帰って」
「いい?」
ハルトが。
門へ。
手を置く。
「まだ」
「開けない」
女。
顔を伏せる。
「でも」
ハルト。
続ける。
「追い返さない」
女。
ゆっくり。
顔を上げる。
「そこで」
「待てるか」
「話を」
「一人ずつ」
「聞く」
「名前は」
ガルムが。
口を挟む。
「言うな」
女。
少し。
戸惑う。
「どうして」
星見が。
門の上から。
答える。
「今は」
「名前より」
「先に」
「聞くことがある」
女。
「何」
星見。
六百年。
自分が。
一度も。
聞かれなかった問い。
「お前は」
「帰りたいのか」
女。
長い。
沈黙。
「……分からない」
星見。
僅かに。
笑う。
「なら」
「それからだ」
---
黒い灰。
降る。
三十七人。
立っている。
門。
閉じている。
だが。
完全には。
拒んでいない。
灰都。
中。
誰も。
眠れない。
ノアが。
一人ずつ。
心臓を聞く。
違う。
全部。
違う。
恐怖。
期待。
後悔。
懐かしさ。
怒り。
空白。
「みんな」
「違う」
少年が。
小さく呟く。
ヴェスパーが。
隣。
「ああ」
「帰りたい人も」
「帰りたくない人も」
「分からない人もいる」
「たぶん」
「じゃあ」
「帰ってきたもの」
「って」
「一つに」
「しちゃ駄目だね」
ヴェスパー。
黒い灰の向こうを見る。
「そうだな」
王都。
民の返事。
同じ。
一つの。
正しい答えへ。
潰さない。
「明日」
ノアが言う。
「一人ずつ」
「聞く?」
「ああ」
「全部?」
「聞ける範囲で」
「僕も?」
ヴェスパー。
少年を見る。
「聞きたい?」
「うん」
「じゃあ」
「セレスと決めて」
ノア。
少し。
驚く。
以前のヴェスパーなら。
危険だから。
駄目。
それで。
終わった。
「分かった」
少年。
笑う。
---
ガルムが。
少し離れた場所。
一人。
黒い空を見る。
ヴェスパーが。
隣へ。
「何」
「別に」
「顔」
「何」
「何か」
「思い出した顔してる」
ガルム。
鼻で笑う。
「お前」
「俺の顔」
「読むようになったな」
「長いから」
「何が」
「付き合い」
ガルム。
少し。
黙る。
「ヴェスパー」
「ああ」
「向こう側は」
「お前が」
「昔を」
「取り戻せる場所かもしれん」
ヴェスパーの胸。
僅かに。
動く。
「でも」
「取り戻したものが」
「本物か」
「分からない」
「ああ」
「それでも」
「行くか」
ヴェスパー。
夜空。
消えた星。
見る。
母。
名前。
村。
父。
自分。
「今は」
「行かない」
「そうか」
「でも」
「いつか」
「行くかもしれない」
ガルム。
頷く。
「その時」
ヴェスパーが。
師匠を見る。
「一緒に来る?」
ガルムの眉が。
僅かに。
上がる。
「俺を?」
「ああ」
「嫌だ」
即答。
ヴェスパー。
目を細める。
「何で」
「怖い」
「……」
ガルムが。
僅かに。
笑う。
「でも」
「お前が」
「本当に行くなら」
「止めるために」
「ついてく」
ヴェスパー。
小さく笑った。
「それ」
「一緒に行くって」
「言うんじゃない?」
「違う」
「似たようなものだろ」
「違う」
「面倒だな」
「誰に似た」
二人。
同時に。
少しだけ。
笑う。
---
だが。
門の外。
黒い灰の中。
三十七人。
さらに。
その後ろ。
もう一つ。
人影。
近付いてくる。
一人。
二人。
十。
数。
増える。
ノアの耳が。
再び。
動く。
「ヴェスパー」
「何」
「もっと」
「来る」
ハルトが。
外壁の上。
遠くを見る。
「何人」
ノア。
首を横に振る。
「分からない」
「でも」
「みんな」
「同じ場所を」
「目指してる」
「灰都?」
ノア。
一度。
考える。
「違う」
「じゃあ」
少年の耳が。
ヴェスパー。
胸。
黒陽炎。
向く。
「ヴェスパーを」
全員。
僅かに。
強張る。
ノア。
すぐに。
首を横に振る。
「……違う」
「ヴェスパーじゃない」
「何だ」
ノア。
地面。
灰都。
その下。
星脈。
聞く。
「帰れる場所」
ヴェスパー。
目を細める。
「灰都が?」
「ううん」
ノア。
胸。
自分。
門外。
人。
星見。
全て。
聞く。
「誰かが」
「帰っていいって」
「言ってくれる場所」
黒い灰。
夜。
閉じた門の外。
帰る場所を。
失ったものたちが。
一人ずつ。
集まり始める。
星見が。
壁へ。
手を置く。
六百年。
自分が。
探していたもの。
門では。
なかったのかもしれない。
「帰る資格」
男が。
呟く。
ヴェスパーが。
隣を見る。
「何」
星見。
首を横に振る。
「いや」
ただ。
少し。
笑う。
「明日」
「面倒になるな」
レイラが。
後ろから。
「今さら?」
灰都の夜。
誰も。
答えを。
持っていない。
それでも。
門を。
閉じたまま。
話すことはできる。
帰る資格を。
誰か一人が。
決めなくてもいい。
向こう側の。
六百年。
その最初の夜が。
ようやく。
こちら側で。
終わろうとしていた。




