第3章 第28話 「四人目の観測者」
「……帰って」
灰都の外。
黒い灰の中。
一人の影が。
止まった。
「いいのか」
門衛は。
答えなかった。
答えられなかった。
六百年以上前の衣服。
灰にまみれた身体。
首から下がる。
古い観測札。
そこへ刻まれた文字。
**『星を見る者』**
そして。
胸。
黒い傷。
火ではない。
星脈でもない。
何かが。
一度。
脈打った。
---
「ハルト!」
外縁監視所。
若い門衛が。
階段を駆け上がってくる。
「今度は何だ」
ハルトは。
完全に嫌そうな顔をした。
少し前。
黒い火を持つ。
名前のない帰還者。
ガルム。
ヴェスパー。
王都から戻った一行。
灰星。
消えた星。
黒い灰。
聞きたいことは。
もう十分すぎるほどある。
「西外門!」
「また一人!」
ハルトの目が。
ゆっくり細くなる。
「また?」
「はい」
「黒い火か」
「分かりません」
「名前は」
「聞いてません」
「偉い」
門衛が。
一瞬。
目を丸くする。
「褒められた?」
「たぶんな」
ハルトは。
外套を掴む。
「今度は」
「何を連れてきたんだ」
誰へともなく。
そう呟いた。
---
灰都。
検査区画。
「四人?」
ノアが言った。
空白は。
立ったまま。
動かなかった。
「もう一度」
イリスが尋ねる。
「門を閉じたのは」
「黒火保持者三人じゃなかったの?」
「ああ」
「でも」
「今」
「四人って」
空白は。
自分の胸へ手を当てた。
遠い。
鼓動。
灰星観測所。
崩れた山。
その地下。
「忘れていた」
ガルムの眉が。
険しくなる。
「六百年も?」
「違う」
「忘れたんじゃない」
空白の表情が。
少しずつ。
変わる。
「忘れるように」
「した」
ヴェスパーが。
静かに。
彼女を見る。
「自分で?」
「……ああ」
「何で」
答え。
来る前に。
灰都の警鐘が。
一度だけ。
鳴った。
一回。
長く。
敵襲ではない。
門外異常者。
ハルトが。
臨時で決めた。
合図。
ガルムが。
即座に立ち上がる。
「今度は何だ」
セリカが。
外へ。
耳を澄ます。
「西外門」
ノアの兎耳が。
強く立つ。
「人」
「一人」
「知ってる音?」
ヴェスパーが尋ねる。
ノアは。
目を閉じる。
呼吸。
心臓。
衣服。
足音。
その向こう。
別の音。
「……変」
「またか」
レイラが言う。
「最近」
「普通の人が来ないな」
ノアは。
さらに聞く。
「心臓」
「すごく遅い」
「帰還者みたい?」
アステルが尋ねる。
「違う」
「じゃあ」
ノアの表情が。
僅かに強張る。
「二つ」
空白が。
反応する。
「何?」
「心臓が」
「二つ聞こえる」
全員。
空白を見る。
彼女自身も。
灰星観測所にいた時。
二つの鼓動を持っていた。
一つ。
自分。
もう一つ。
観測所。
門。
「外へ行く」
空白が。
すぐに歩き出す。
ガルムが。
その肩を掴む。
「待て」
「離せ」
「お前」
「顔が」
「どうした」
「今にも」
「一人で飛び出す顔してる」
空白が。
ガルムを見る。
「六百年ぶりに」
「お前にだけは」
「言われたくない」
レイラが。
ヴェスパーへ小声で言う。
「この二人も」
「似てない?」
「俺を見るな」
---
西外門。
第一門。
閉鎖。
第二門。
閉鎖。
外壁上。
ハルト。
その横。
数人の門衛。
門から。
四十歩。
灰色の影。
武器。
なし。
両手。
見える位置。
逃げる様子も。
近付く様子もない。
ただ。
立っている。
ハルトが。
壁上から声を掛ける。
「そこで止まれ」
影。
少し。
顔を上げる。
「止まってる」
「そうだな」
ハルトは。
少し困った顔をした。
「名前は」
門衛が。
横から。
「ハルト」
「あ」
ハルト。
自分で思い出す。
「悪い」
影が。
首から。
古い観測札を持ち上げる。
「名前は」
「言わない」
声。
男。
かなり。
掠れている。
「理由は」
ハルトが尋ねる。
男は。
空を見る。
「呼ばれるから」
「誰に」
「向こう」
「向こうって」
男は。
答えない。
その時。
後方。
足音。
ガルム。
ヴェスパーたち。
空白。
門壁へ上がる。
そして。
空白の目が。
外の男へ向いた。
彼女の足が。
止まった。
「……嘘だ」
ガルムが。
横を見る。
「知ってるのか」
空白は。
答えない。
手。
震えている。
男も。
壁上の女を見る。
長い。
沈黙。
黒い灰。
風。
そして。
男が。
微かに笑った。
「やっぱり」
「残っていたか」
空白の顔が。
完全に。
崩れた。
「お前」
声。
震える。
「どうして」
「帰ってきた」
男は。
答えた。
「それを」
「聞きに来た」
「何を」
「帰って」
男は。
灰都の門を見る。
「いいのか」
空白の目から。
一筋。
涙が。
落ちた。
---
誰も。
すぐには。
意味が分からなかった。
ガルムだけが。
少し。
目を細める。
「おい」
「空白」
女は。
男から。
目を離さない。
「そいつが」
「四人目か」
全員。
空白を見る。
ノアの耳が。
強く立った。
「門を閉じた」
「四人目?」
空白は。
ゆっくり。
頷いた。
「正確には」
「門を閉じたのは」
「三人」
イリスが。
眉を寄せる。
「また数が」
「違う」
「最後まで聞け」
空白は。
目元を拭う。
「三人の黒火保持者が」
「こちら側から」
「門を閉じた」
「そして」
外。
男。
『星を見る者』
「一人が」
「向こう側から」
「閉じた」
空気が。
凍った。
「向こうへ」
ヴェスパーが。
低く聞く。
「行った?」
「ああ」
「自分から?」
空白。
答えられない。
代わりに。
男が。
遠くから答えた。
「俺が」
「選んだ」
声。
壁を越えるには。
小さい。
それでも。
ノアが。
全員へ伝える。
「自分で」
「選んだって」
ガルムが。
外の男を見る。
「六百四十年前に?」
男。
頷く。
「たぶん」
「たぶん?」
ハルトが言う。
「本人なのか」
男は。
自分の手を見る。
「それが」
「分からない」
全員。
黙る。
また。
分からない。
だが。
今回は。
その言葉の重さが違う。
六百四十年。
人間が。
普通に生きられる時間ではない。
「門を」
ハルトが。
開けるかどうか。
空白を見る。
「お前が」
「決めるか」
空白は。
一瞬。
息を止める。
以前なら。
自分一人で。
決めただろう。
六百年。
門を見続けた者として。
だが。
女は。
ゆっくり首を横に振った。
「私だけでは」
「決めない」
ハルトの目が。
僅かに変わる。
「本人へ」
シオンが。
王都で言った言葉。
門は。
開くか閉じるか。
それだけではない。
誰を。
いつ。
なぜ。
通すか。
説明できる門。
ハルトが。
男へ向き直る。
「中へ」
「入りたいか」
男は。
しばらく。
答えなかった。
「分からない」
「じゃあ」
「何で来た」
「帰れと」
男が。
胸へ手を置く。
「言われた」
ノアが。
思わず。
帰還者を見る。
同じ。
言葉。
『帰れ』
「誰に」
ハルトが尋ねる。
男は。
空白を見る。
「昔の」
「俺に」
---
第一門。
開く。
ただし。
内側。
検査庭まで。
第二門は。
閉じたまま。
男が。
一歩。
灰都へ入る。
足。
裸足ではない。
古い革靴。
ほとんど。
崩れている。
門衛が。
武器を構える。
ガルム。
灰断ち。
鞘から。
少しだけ。
出している。
ヴェスパーは。
剣を抜かない。
ノアが。
音を聞く。
「敵意」
「ない」
「分かる?」
レイラが尋ねる。
「今は」
「怖がってる」
「誰を」
男の目が。
空白へ向く。
「空白さん」
ノア。
少し驚く。
「何で」
男の胸。
一拍。
そして。
遠く。
二拍目。
空白。
同じ。
「この二人」
「繋がってる」
空白が。
男へ。
一歩近付く。
「触るな」
ガルムが言う。
女の足が。
止まる。
「なぜ」
「六百年」
「向こうにいた奴だ」
「何が付いてるか分からん」
男が。
自分の腕を見る。
「正しい」
空白の顔が。
曇る。
男は。
少し笑う。
「昔も」
「そうだった」
「お前は」
「先に触ろうとした」
「俺が」
「止めた」
空白。
目を見開く。
「覚えてるのか」
「少し」
「どこまで」
「門」
「灰」
「三人」
「お前」
「それと」
男は。
自分の観測札を見る。
「星」
「名前は」
「言うな」
男が。
即座に返す。
「分かっている」
「覚えてる?」
「覚えてるから」
「言えない」
---
検査庭。
セレスが。
男の身体を診る。
「触れます」
「嫌なら」
「言ってください」
男は。
その言葉に。
少し。
驚いた顔をする。
「昔は」
「聞かなかった」
「昔?」
「観測所」
「身体を調べる時」
「必要だから」
「触った」
「今は」
「聞きます」
セレスは。
手を止めたまま。
待つ。
男が。
自分の腕。
セレスの手。
交互に見る。
「……いい」
「では」
脈。
遅い。
異常なほど。
「一分間」
「二十一」
ハルトが。
眉を寄せる。
「生きてるのか」
「生きています」
セレスは。
胸へ。
耳を当てない。
道具。
古い聴診具。
一拍。
間。
一拍。
「心臓自体は」
「一つ」
ノアが。
耳を立てる。
「でも」
「二つ聞こえる」
「二つ目は」
セレス。
男の胸から。
離れる。
「身体ではありません」
空白が。
目を閉じる。
「門」
男も。
頷く。
「まだ」
「繋がっている」
ガルムが。
灰断ちへ手を置く。
「切るか」
男が。
首を横に振る。
「今は」
「切らない方がいい」
「なぜ」
男は。
言葉を探す。
「俺が」
「戻ったから」
「向こう側の錠が」
「なくなった」
全員。
静かになる。
イリスが。
すぐに意味を理解した。
「待って」
「じゃあ」
「あなたが」
「向こう側の封印だった?」
「錠」
男は言う。
「封印じゃない」
「門は」
「力で閉じるものじゃない」
空白が。
続きを。
知っている。
「両側から」
「同時に」
「開かないと決める」
男。
僅かに笑う。
「覚えていたか」
「……今」
「思い出した」
---
六百四十年前。
灰星観測所。
黒い灰。
空。
星。
一つ。
消えた。
三人。
黒火保持者。
甲。
乙。
丙。
名前。
記録しない。
そして。
観測員たち。
十一の席。
星を見る。
熱を見る。
影を見る。
記録する。
最後。
空白席。
星を見ない。
「門が」
「閉じない!」
誰かが叫ぶ。
三人の黒火保持者。
手。
胸。
黒い炎。
地上側。
三方向。
繋がりを。
切る。
だが。
門。
閉じきらない。
向こう側。
引かれている。
「反対側に」
『誰かが必要だ』
一人の観測員が言った。
首。
観測札。
**『星を見る者』**
空白が。
腕を掴む。
「何を言っている」
「門は」
「両側にある」
「意味が分からない」
「俺も」
男が。
笑う。
「でも」
「星を見た」
「ずっと」
「何を」
「向こうから」
「こちらを見る」
「線」
黒火保持者の一人。
「戻れないぞ」
「分かってる」
空白。
「駄目だ」
男。
「他に方法がない」
「探す!」
「時間がない」
門。
巨大な音。
ドン。
一人。
黒火保持者。
膝をつく。
「早く!」
男が。
門へ。
一歩。
空白が。
手を離さない。
「待て!」
男が。
彼女を見る。
「観測しない者」
「何」
「一つ」
「頼む」
「何」
「俺の名前を」
声。
消える。
記録。
欠損。
---
現在。
空白が。
頭を押さえる。
「……思い出せない」
男が。
静かに答える。
「それでいい」
「違う」
「私は」
「自分で消した」
「お前の記録を」
「ああ」
「どうして」
男は。
観測札を見る。
「俺が頼んだ」
「何を」
「四人目を」
「記録するな」
空白の顔から。
血の気が引く。
「なぜ」
「俺が」
「向こう側にいると」
「向こうに知られたら」
「俺を」
「こちらへの道として」
「使われる可能性があった」
「だから」
男は。
自分の胸へ触れる。
「俺自身を」
「観測記録から」
「外した」
イリスが。
七巻を思い出す。
『観測するほど』
『観測される』
男が。
続ける。
「名前」
「顔」
「役割」
「記憶」
「できるだけ」
「残さない」
「星を見る者って」
ノアが。
首から下がる札を指す。
「残ってる」
「これだけは」
「向こうで」
「自分が」
「何をする者だったか」
「忘れないため」
空白が。
苦しそうに。
男を見る。
「だから」
「私は」
「三人だと」
「思っていた」
「それが」
「正しい状態だった」
「六百年」
「一人で」
「向こう側にいたの?」
ノアが尋ねる。
男は。
少年を見る。
「一人?」
長い。
沈黙。
「分からない」
ノアの耳が。
ゆっくり。
伏せられる。
「どういうこと」
「最初は」
男が答える。
「一人だった」
---
誰も。
動かない。
ガルムが。
最初に。
口を開く。
「途中から」
「何かいた?」
男は。
頷かない。
首も。
横に振らない。
「向こう側を」
「説明してくれ」
イリスが言う。
男の表情が。
僅かに曇る。
「説明すると」
「見られる」
「誰に」
「分からない」
「灰星?」
男の顔が。
少し。
歪んだ。
「その呼び方は」
「やめた方がいい」
空白が。
目を細める。
「お前が」
「つけた」
男が。
苦い顔をする。
「だから」
「間違いだったと」
「知った」
「灰星は」
ヴェスパーが尋ねる。
「星じゃない?」
男が。
初めて。
ヴェスパーを。
真っ直ぐ見る。
その瞳。
黒ではない。
薄い。
灰。
長い時間。
何かを見続けた目。
「お前が」
「ヴェスパーか」
ガルムの手が。
灰断ちへ。
強く掛かる。
「名を」
「呼ぶな」
「今の名は」
男が。
ガルムを見る。
「まだ」
「向こうには」
「届いていない」
ヴェスパーの胸。
黒陽炎。
静か。
「何で分かる」
男は。
答えない。
代わりに。
尋ねる。
「お前」
「母親の声を」
「聞いたか」
ヴェスパーの身体が。
僅かに。
強張る。
「ガルム」
男が。
低く呼ぶ。
「何だ」
「また」
「黙っていたな」
ガルムの顔が。
明らかに。
嫌そうになる。
「お前まで」
「俺を責めるのか」
「昔から」
「そういう奴だった」
レイラが。
小声。
「六百年前の人にも言われてる」
「聞こえてるぞ」
男が。
僅かに笑う。
だが。
すぐに。
ヴェスパーを見る。
「その声へ」
「返事をするな」
「本人でも?」
「本人かどうか」
「分からない」
「もし」
「本当に」
ヴェスパーの声が。
少し。
震える。
「母親だったら」
男は。
長い間。
答えなかった。
「それでも」
「今は」
「返事をするな」
ヴェスパーの拳が。
握られる。
「理由」
「向こうでは」
男は。
ゆっくり言う。
「本人と」
「その人を覚えているものを」
「区別できない」
ノアの目が。
大きく開く。
「どういう意味」
「王都の」
男が。
言葉を探す。
「記録人格」
「みたいなもの?」
イリスが尋ねる。
「似ている」
「でも」
「もっと」
「区別がない」
「記憶された声」
「思い出された顔」
「呼ばれ続けた名前」
「全部」
男は。
自分の頭へ触れる。
「向こうでは」
「存在になる」
---
ノアが。
木彫りの狼を。
強く握る。
兄。
声。
記憶。
もし。
向こう側。
それだけで。
存在になれるなら。
「じゃあ」
「死んだ人が」
「本当にいるように」
「見える?」
「見える」
「話す?」
「話す」
「考える?」
男が。
止まる。
「……分からない」
「本人が」
「考えてるのか」
「覚えている側の記憶が」
「続きを作っているのか」
「分からない」
セレスが。
静かに尋ねる。
「あなたは」
「六百年間」
「そういうものに」
「囲まれていた?」
男の喉が。
僅かに動く。
「最初は」
「知っている人間が」
「現れた」
「観測所の仲間」
「家族」
「死んだ者」
「それから」
「知らない人間も」
「誰の記憶?」
「分からない」
「最後には」
男が。
目を閉じる。
「俺自身が」
「何人もいた」
誰も。
言葉を返せない。
「だから」
空白が。
小さく言う。
「お前は」
「自分が本人か」
「分からない」
「ああ」
「帰ってきたあなたは」
「六百年前に」
「向こうへ行った本人?」
「分からない」
男は。
自分の手を見る。
「でも」
「俺は」
「帰りたかった」
それだけ。
強く。
言った。
---
検査区画の奥。
帰還者が。
突然。
顔を上げた。
胸。
黒い火。
一度。
揺れる。
「どうした」
アステルが尋ねる。
帰還者は。
西門の方向を見る。
「いる」
「誰が」
「分からない」
「でも」
「知ってる」
リクも。
薄く目を開ける。
「……俺も」
アステルが。
二人を見る。
「何を」
リク。
額を押さえる。
「星」
「見る人」
帰還者が。
続ける。
「四人目」
アステルの表情が。
変わる。
誰も。
教えていない。
二人とも。
その言葉を。
知らないはず。
「どうして」
「知っているのですか」
帰還者。
首を横に振る。
「分からない」
リク。
「夢」
「昔」
「研究所で」
「見せられた」
「記録?」
「違う」
「寝てる時」
リクの呼吸が。
早くなる。
「四人」
「門」
「一人」
「向こう」
アステルが。
すぐに。
セレスを呼ぼうとする。
だが。
帰還者の口が。
先に動いた。
「帰ってきた」
声。
本人のもの。
でも。
続く言葉。
「だから」
胸の黒火が。
強くなる。
「門が」
「一つ」
「なくなった」
アステルの瞳が。
大きく開く。
---
西門。
同じ瞬間。
男。
星を見る者。
膝をついた。
「っ……!」
セレスが。
駆け寄る。
「どうしました!」
「来るな!」
男が。
叫ぶ。
「触るな!」
胸。
黒い傷。
強く。
脈打つ。
一拍。
遠く。
二拍目。
灰星観測所地下。
ドン。
ノアが。
耳を塞ぐ。
「門!」
「何」
ヴェスパーが。
少年を支える。
「音が」
「大きくなった!」
男が。
苦しそうに笑う。
「やっぱり」
「そうか」
ガルムが。
灰断ちを抜く。
「何だ」
「言え!」
「俺が」
男が。
自分の胸を掴む。
「帰ってきたから」
「向こう側の」
「錠が」
「消えた」
「知ってたのか」
「帰ってから」
「分かった」
空白が。
男の前へ。
膝をつく。
「戻るつもりか」
「……」
「答えろ!」
男は。
空白を見る。
「それしか」
「ないかもしれない」
女の顔が。
変わる。
「ふざけるな」
「でも」
「六百年前も」
「一人必要だった」
「だから?」
空白が。
初めて。
男の胸元。
衣服を掴む。
「また」
「お前一人を」
「向こうへ置くのか」
「他に方法が」
「知らないだけだ!」
声。
灰都の門へ。
響く。
男が。
目を見開く。
空白。
涙。
六百年間。
彼を忘れることで。
門を守った。
忘れたくて。
忘れたのではない。
忘れなければ。
相手を。
戻そうとして。
門を開けるかもしれなかった。
だから。
自分の記憶から。
削った。
「私は」
「六百年」
「お前を」
「いなかったことにした」
男の瞳が。
揺れる。
「それで」
「門を守った」
「ああ」
「なら」
「正しかった」
「違う!」
空白が叫ぶ。
「必要だったことと」
「正しかったことを」
「同じにするな!」
ヴェスパーが。
彼女を見る。
王都で。
何度も。
聞いた。
同じ答え。
誰かが生きた。
だから正しい。
誰かが死んだ。
だから間違い。
そう。
一つにはできない。
「私は」
空白が。
声を震わせる。
「お前を」
「忘れたくなかった」
男。
何も言えない。
「なのに」
「忘れた」
「だから」
「今度は」
男の胸元を。
さらに強く掴む。
「一人で」
「帰るな」
「……」
「帰ってきたなら」
空白は。
泣きながら。
それでも。
真っ直ぐ言う。
「ここにいろ」
男の瞳から。
一滴。
涙が。
落ちた。
「それ」
「俺に」
「言ってる?」
「他に誰がいる!」
「でも」
「俺が」
「本人じゃなかったら」
空白。
一瞬。
止まる。
男が。
苦しそうに。
続ける。
「六百年前の俺の」
「記憶が作った」
「何かだったら」
「それでも」
空白は。
答えた。
「今」
「帰りたいと」
「言ったのは」
「お前だ」
沈黙。
「なら」
「今のお前へ」
「言っている」
男は。
目を閉じた。
そして。
小さく。
「……帰って」
「いいのか」
空白が。
答える。
「ああ」
「帰れ」
---
ヴェスパーの黒陽炎が。
一度。
静かに。
揺れた。
赤い残火は。
出ない。
それでも。
胸の奥。
何かが。
温かくなる。
母親。
もし。
門の向こうにいる声が。
本人ではなかったとしても。
今。
その声が。
何を望んでいるのか。
それを。
聞くことはできる。
だが。
自分が。
何を望むか。
それまで。
向こうへ決めさせる必要はない。
「ガルム」
「何だ」
「俺」
「母親の声へ」
「今は」
「返事しない」
ガルムが。
ヴェスパーを見る。
「でも」
「いつか」
「聞く」
「本人かどうか」
「本人じゃなくても」
「何を言いたいのか」
「ああ」
「その時」
「一人で行かない」
ガルムの眉が。
僅かに上がる。
「誰を連れてく」
ヴェスパー。
ノア。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
そして。
ガルム。
一人ずつ。
見る。
「まだ」
「決めてない」
レイラが。
腕を組む。
「そこは」
「全員って言えよ」
「危険を」
「説明してからだ」
レイラが。
少し驚く。
そして。
笑った。
「本当に」
「王都で」
「学んできたな」
「うるさい」
---
星を見る者。
仮の治療区画へ。
移される。
誰も。
名前を聞かない。
ハルトが。
帳簿を。
開く。
「またか」
書く。
『氏名:記録せず』
その横。
『本人申告役割:星を見る者』
「呼ぶ時」
「どうする」
ノアが尋ねる。
男は。
少し考える。
「昔は」
「何て呼ばれてた?」
空白が。
答えようとして。
止まる。
記憶。
ない。
「分からない」
男。
少し笑う。
「なら」
「星見でいい」
空白が。
彼を見る。
「それは」
「名前?」
「役割」
「でも」
「今は」
男。
少し考える。
「呼ばれたら」
「返事できる」
ノアが。
嬉しそうに。
「じゃあ」
「星見さん」
男。
一拍。
「何だ」
返事。
空白が。
その音を聞く。
目を閉じる。
六百年。
消した。
名前。
消した。
記録。
それでも。
今。
新しい呼び方で。
返事をした。
「星見」
空白が。
呼ぶ。
男。
彼女を見る。
「何だ」
空白の唇が。
震える。
「……おかえり」
星見。
長い。
長い。
沈黙。
「ただいま」
---
だが。
その瞬間。
灰都。
検査区画。
帰還者の黒火が。
大きく。
燃え上がった。
「っ!」
アステルが。
前へ出る。
「離れて!」
リクも。
胸を押さえる。
「来る」
「何が!」
帰還者が。
耳を塞ぐ。
聞こえるはずのない。
声。
「四人目が」
「戻った」
「だから」
「向こうが」
胸。
黒火。
形を変える。
円。
門。
小さな。
黒い輪。
「数を」
「合わせに来る」
アステルの表情が。
変わる。
「何の数」
帰還者が。
自分でも。
分からない言葉を。
吐き出す。
「四人」
「こちら」
「四人」
「向こう」
「違う!」
リクが。
突然。
叫んだ。
全員。
青年を見る。
「何が」
「四人じゃない」
リクの顔。
真っ青。
「夢で」
「見た」
「空」
「たくさん」
「目」
「数えてた」
「何を」
「人を」
「違う」
「名前を」
帰還者。
胸。
黒い輪。
さらに広がる。
「来る」
「誰が!」
アステルが。
重圧で。
黒火と。
身体を。
無理に分けない。
止めるだけ。
本人を。
潰さない。
「名前を」
帰還者が。
苦しそうに。
言う。
「持ってないものを」
「探してる」
ノアが。
検査庭から。
走ってくる。
「帰還者!」
耳。
向ける。
そして。
少年の顔が。
凍り付く。
「何が聞こえる」
ヴェスパーが。
後ろから。
追い付く。
ノアは。
帰還者ではなく。
地面。
壁。
空。
全部へ。
耳を向ける。
「灰都の外」
「どこ」
「全部」
「いっぱい」
「何が」
ノアの声が。
震える。
「歩いてる」
---
灰都外。
北。
西。
南。
星脈観測器。
次々。
反応。
『熱紋なし』
一つ。
『熱紋なし』
二つ。
五つ。
十。
二十。
三十七。
外縁監視所。
門衛が。
声を失う。
遠く。
黒い灰。
その中。
人影。
一人。
二人。
十人。
数十。
服装。
時代。
違う。
古い軍服。
村人。
子ども。
老人。
騎士。
誰も。
武器を構えていない。
ただ。
灰都へ。
歩いている。
その胸。
全て。
黒い傷。
ハルトが。
外壁上へ。
駆け上がる。
双眼鏡。
覗く。
「……何だ」
一人。
口が動く。
声は。
まだ届かない。
だが。
形。
読める。
**『帰って』**
別の一人。
**『いいのか』**
また。
別。
同じ。
黒い灰の中。
何十もの。
帰還者。
いや。
帰ってきたもの。
「全門!」
ハルトが叫ぶ。
「閉鎖!」
門衛が。
振り返る。
「でも!」
「攻撃命令じゃない!」
「閉めろ!」
ハルトは。
すぐに付け加える。
「誰も撃つな!」
「まだ!」
「敵だと」
「決めるな!」
鐘。
一度。
二度。
三度。
灰都全域へ。
警戒音。
---
検査庭。
星見が。
ゆっくり。
立ち上がる。
「始まった」
ガルムが。
灰断ちを抜く。
「何が」
「六百年前には」
「起きなかったこと」
空白が。
星見を見る。
「なぜ」
男は。
門の外。
まだ。
見えない。
何十もの気配へ。
顔を向ける。
「俺が」
「向こうへ残っていた」
「だから」
「道は」
「一つしかなかった」
「今は?」
星見は。
帰還者。
ヴェスパー。
遠くの。
オルディス。
それぞれ。
黒い傷。
「道が」
「増えた」
イリスの顔が。
強張る。
「黒陽炎を持つものが」
「複数いるから」
「それだけじゃない」
星見が言う。
「星が」
「名前を」
「探し始めた」
ヴェスパーの胸。
黒陽炎。
小さく。
揺れる。
「俺の?」
「最初は」
星見が。
彼を見る。
「お前の」
「でも」
「今」
「門の向こうは」
「もっと」
「大きなものを」
「思い出している」
「何」
星見は。
消えた星の場所を見る。
「この世界の」
「名前だ」
誰も。
言葉を返せない。
黒い灰。
強く。
降り始める。
そして。
灰都の外。
何十人もの。
名のない帰還者が。
同時に。
足を止めた。
全員。
同じ方向。
灰都。
ヴェスパー。
ではない。
もっと。
その向こう。
地面。
世界そのもの。
見つめる。
ノアの耳へ。
重なった声。
一つ。
二つ。
百。
それ以上。
同じ言葉。
『思い出して』
少年の顔から。
血の気が引く。
「ヴェスパー」
「何だ」
「これ」
「僕たちを」
「呼んでない」
「じゃあ」
ノアが。
足元を見る。
「星脈を」
「呼んでる」
地面。
一度。
震える。
王都。
灰都。
海都。
さらに。
遠い。
世界中。
地下を流れる。
星脈。
それが。
ほんの一瞬。
心臓のように。
脈打った。
黒い灰の向こう。
星見が。
六百年。
口にしなかった。
言葉を。
初めて。
声にした。
「灰星は」
「星じゃない」
ガルムが。
男を見る。
「なら」
「何だ」
星見は。
ゆっくり。
空を見上げる。
消えた。
一つの星。
その空白。
「門の向こう側にある」
「もう一つの」
長い。
沈黙。
「――世界だ」




