第3章 第27話 「帰ってきたもの」
灰都の門前に。
名前のない者が。
一人。
立っていた。
---
空からは。
黒い灰が。
まだ。
僅かに降っている。
王都から遠く離れたこの街では。
星脈の異常は。
まだ大きな混乱にはなっていない。
それでも。
外縁監視所の鐘は。
鳴らされる寸前だった。
ハルトの手が。
警鐘の紐を握っている。
その視線の先。
門から三十歩。
灰色の長い髪。
ぼろぼろの衣服。
裸足。
細い身体。
男にも。
女にも。
見える。
そして。
瞳。
真っ黒だった。
光がないわけではない。
太陽も。
灰都の灯りも。
その瞳には映っている。
だが。
奥が。
異様なほど暗い。
「もう一度聞く」
ハルトが言った。
「名前は」
人物は。
しばらく考える。
「分からない」
「出身」
「分からない」
「どこから来た」
「歩いてきた」
「それは見れば分かる」
ハルトの眉間に。
深い皺が寄る。
「どこから歩いた」
人物は。
灰都の西。
さらに遠くを指した。
「向こう」
「何がある」
「塔」
ハルトの目が。
鋭くなる。
「観測塔か」
反応。
ほんの僅か。
人物の黒い瞳が。
揺れる。
「たぶん」
「誰かと一緒だったか」
「いた」
「誰」
「分からない」
「男?」
「たぶん」
「名前は」
「知らない」
ハルトは。
深く息を吐いた。
さっきから。
何を聞いても。
ほぼ同じ答え。
分からない。
知らない。
覚えていない。
「じゃあ」
「何で」
ハルトが言う。
「ヴェスパーの名前だけは」
「知ってる」
人物は。
自分の胸へ手を置いた。
そこ。
黒い炎。
ほんの小さな。
指の先ほどの陽炎。
「これが」
「呼んでる」
ハルトは。
黒い炎を見た。
「それは」
「お前の力か」
「分からない」
「触れるなよ」
「触ってない」
「消せるか」
人物は。
黒い炎を見る。
「分からない」
「……そうか」
ハルトは。
警鐘の紐から。
手を離さない。
だが。
鳴らしもしない。
門衛の一人が。
小声で尋ねる。
「ハルト」
「どうする」
「待つ」
「何を」
「ガルム」
灰色の帰還信号。
三つ。
確かに届いている。
「そいつが」
「この面倒事の説明を」
「少しは持ってくる」
「持ってこなかったら?」
ハルトが。
乾いた笑みを浮かべた。
「殴る」
---
旧街道。
「今」
ガルムが。
突然。
顔をしかめた。
ヴェスパーが。
前を歩く師匠を見る。
「どうした」
「嫌な予感がする」
レイラが。
すぐに言う。
「珍しいな」
「何が」
「普段は」
「お前が嫌な予感そのものだ」
「喧嘩売ってるか」
「半分」
ノアが。
大きな兎耳を。
前へ向ける。
灰都。
まだ。
かなり遠い。
「人がいる」
「街ならいるだろ」
レイラが言う。
「違う」
ノアは。
耳を澄ませる。
「門の外」
「一人」
「ずっと」
「立ってる」
ガルムの表情が。
僅かに変わる。
「他には」
「ハルトっぽい音」
「ハルトを知ってるのか」
「シオンから」
「少し聞いた」
ノアは。
さらに耳を向ける。
「知らない人」
「心臓はある」
「呼吸も」
「でも」
少年の耳が。
ぴくりと動く。
「変」
セレスが。
すぐに尋ねる。
「何が」
「その人の中」
「静かすぎる」
「黒翼兵みたい?」
アステルが尋ねる。
ノアは。
少し考える。
「似てる」
「でも」
「違う」
「リクは」
アステルが。
後方を見る。
担架。
アルドが。
青年を運んでいる。
リクは。
目を閉じている。
「命令が」
ノアは言う。
「いっぱい詰まってた」
「その人は」
「何もない」
「何も?」
「空っぽみたい」
ガルムが。
足を止めた。
「黒い熱は」
ヴェスパーが。
胸へ手を置く。
それまで。
静かだった黒陽炎。
一度。
揺れる。
灰都の方向。
「いる」
セリカの顔が。
険しくなる。
「王都から?」
「違う」
「俺の熱じゃない」
「分かる?」
「ああ」
ヴェスパー自身も。
説明できない。
だが。
分かる。
同じ。
黒。
それでも。
自分ではない。
「先に行く」
ガルムが。
歩調を上げる。
「一人で?」
ヴェスパーが尋ねる。
ガルムが。
止まる。
数秒。
「……全員で行く」
レイラが。
満足そうに頷く。
「学習したな」
「うるせえ」
---
灰都。
門。
ハルトが。
遠くの一行を見つける。
「来たか」
門衛が。
安堵の息を吐く。
「開けます?」
「まだだ」
「でも」
「門の外にいる奴と」
「ガルムを」
「先に会わせる」
「危険じゃ」
「だから」
「門を閉じたまま会わせる」
ハルトは。
外壁上から。
一行を見る。
最前列。
ガルム。
その横。
若い男。
狼の耳。
「ヴェスパーか」
彼の後ろ。
斧を持つ女。
鋼線の装備。
医療具。
兎耳の子ども。
重圧因子の少女。
灰色の外套を着た女。
見慣れない女。
さらに。
大型の担架。
「増えてるな」
門衛が言う。
「王都へ行った人数より」
「多くないですか」
「ガルムが関わると」
ハルトは答えた。
「帰ってくる人数より」
「面倒が増える」
---
ヴェスパーたちも。
門前の人物を。
はっきり確認した。
「止まれ」
ガルムが言う。
全員が。
足を止める。
距離。
二十歩。
名前のない人物。
その視線が。
一行を。
ゆっくりなぞる。
ガルム。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
ノア。
そして。
ヴェスパー。
止まった。
「……」
ヴェスパーも。
相手を見る。
知らない。
顔も。
声も。
記憶にない。
それなのに。
胸の奥。
黒陽炎が。
強く。
一度。
脈打った。
相手の胸。
小さな黒い炎も。
同時に。
揺れる。
「近付くな!」
ガルムが叫んだ。
ヴェスパーの足は。
動いていない。
「何もしてない」
「お前じゃねえ!」
ガルムは。
名前のない人物へ。
灰断ちを抜く。
「そっちだ!」
人物が。
剣を見る。
逃げない。
構えない。
「武器は」
「ない」
「知ってる」
ガルムが言う。
「問題は」
「お前自身だ」
ノアが。
人物の音を聞く。
心臓。
一つ。
呼吸。
正常。
緊張。
少し。
でも。
敵意。
ほとんどない。
「ガルム」
「何だ」
「その人」
「ヴェスパーを」
「襲おうとしてない」
「分かってる」
「じゃあ」
「襲わなくても」
ガルムの声が低くなる。
「危ないものはある」
人物の胸。
黒い炎。
「それ」
ガルムが尋ねる。
「どこで手に入れた」
「分からない」
「気付いた時から?」
「違う」
「じゃあ」
人物は。
考える。
記憶。
何かを。
探している。
「目を」
「開けた時」
「胸にあった」
「どこで目を開けた」
「塔」
「どんな塔だ」
「壊れてた」
「誰かいたか」
「いた」
「誰」
長い沈黙。
「眼鏡」
イリスが。
僅かに目を見開く。
セレス。
アステル。
セリカ。
同時に反応する。
「眼鏡?」
レイラが尋ねる。
人物が頷く。
「何枚も」
「目に」
イリスが。
低く言う。
「観測硝子」
アステルの顔から。
表情が消えた。
「オルディス」
ガルムの握る。
灰断ちの柄が。
軋んだ。
「奴のところから」
「来たのか」
人物は。
首を傾げる。
「それが」
「名前?」
「お前を作った奴のな」
「作った」
その言葉に。
人物の瞳が。
少しだけ動いた。
ガルムが。
気付く。
「覚えてないのか」
「分からない」
「またか」
レイラが。
少しだけ。
困った声を出す。
その時。
担架。
「……その人」
リクの声。
アルドが。
担架を止める。
アステルが。
すぐに青年へ近付く。
「起きても大丈夫ですか」
「分からない」
「無理に話さなくて」
リクは。
門前の人物を見ている。
顔。
灰色の髪。
黒い瞳。
「知ってる」
全員。
リクを見る。
「誰だ」
ガルムが尋ねる。
リクが。
僅かに身体を起こす。
「名前は」
「ない」
人物の瞳が。
リクへ向く。
「研究所で」
青年は。
苦しそうに記憶を辿る。
「見た」
「どこ」
アステルが尋ねる。
「先生の」
「奥の部屋」
「一度だけ」
「ガラスの中」
イリスが。
人物の身体を見る。
首。
手首。
裸足の足首。
よく見れば。
薄い。
手術痕。
「まさか」
「空の器……」
ヴェスパーが。
イリスを見る。
「何」
「黒翼の記録にあった」
イリスが言う。
「熱紋を持たない」
「星環中枢用の人工素体」
アステルの声が。
冷たくなる。
「人を」
「最初から器として作る研究」
「完成していたのですか」
リクが。
首を横に振る。
「動かなかった」
「心臓は」
「動いてた」
「でも」
「何も」
「入ってなかった」
人物が。
自分の胸へ手を置く。
「空っぽ」
リクの言葉。
その瞬間。
ノアの兎耳が。
強く動いた。
「嫌だって」
「何が」
レイラが尋ねる。
「今」
「この人」
「空っぽって言われて」
「嫌だった」
人物自身が。
驚いた顔をする。
「嫌?」
ノアが頷く。
「うん」
「音がした」
「ここ」
自分の胸を指す。
「じゃあ」
人物は。
自分の胸を見る。
「これが」
「嫌?」
「たぶん」
長い沈黙。
「……そう」
それは。
ほんの小さな。
変化だった。
だが。
アステルは。
目を逸らさなかった。
「あなたは」
「器ではありません」
人物が。
彼女を見る。
「でも」
「作られた」
「作られた理由と」
アステルは答える。
「何になるかは」
「同じではありません」
オルディスへ。
自分が。
言った言葉。
今度は。
目の前の誰かへ。
返す。
人物は。
しばらく。
アステルを見つめていた。
「分からない」
「はい」
アステルが。
僅かに笑う。
「今は」
「それでいいです」
---
ハルトの声が。
壁上から落ちてくる。
「感動的なところ悪いが」
全員が見上げる。
傷のある外套。
古い双眼鏡。
「そろそろ」
「状況を説明してくれるか」
ガルムが。
顔をしかめる。
「ハルト」
「よう」
「門を開けろ」
「嫌だ」
「何で」
ハルトが。
名前のない人物を指す。
「そいつ」
「黒い火」
「お前ら」
「黒い灰」
「空」
「星が一個消えた」
「その上」
「王都方面から」
「とんでもない量の未処理情報が飛んできてる」
一度。
息を吸う。
「どれから」
「説明してくれる?」
ガルム。
沈黙。
レイラが。
小声。
「殴られるな」
「うるせえ」
ハルトの視線。
ガルムの頬。
少し赤い。
「もう誰かに殴られたか」
ヴェスパーが。
目を逸らす。
ハルトは。
全てを察したように頷いた。
「なるほど」
「いい判断だ」
ガルムが。
ヴェスパーを見る。
「お前」
「ここで言ったか」
「何も」
「顔で分かった」
ハルトが答えた。
「昔から」
「隠し事すると」
「そいつ」
「殴られる顔するんだよ」
レイラが。
笑いを堪えられなかった。
---
その時。
灰色の通信灯。
門の上。
点滅。
一つ。
二つ。
ハルトが。
振り返る。
「王都から」
シオン。
短い通信。
星環の強制回線ではない。
灰色の盾と。
灰都地下路を繋いでいた。
古い通信線。
『ハルト』
女の声。
雑音。
疲れている。
それでも。
いつもの。
短く。
硬い声。
「生きてたか」
ハルトが言う。
『そちらも』
「どうにか」
『ヴェスパーたちは』
ハルトが。
門の外を見る。
「いる」
シオン。
一拍。
沈黙。
『人数は』
「増えてる」
『……そうか』
ほんの僅か。
安心した音。
ヴェスパーが。
通信へ近付く。
「シオン」
『ヴェスパー』
「ああ」
『戻ったか』
「まだ門の外」
ハルトが。
横から言う。
「俺が入れてない」
通信の向こう。
少し沈黙。
『理由は』
「黒い火を持った」
「名前のない奴が」
「先に来てる」
さらに。
長い沈黙。
『危険は』
「分からん」
ノアが。
口を挟む。
「今は」
「襲う音じゃない」
『ノアか』
「うん」
『耳は』
「ちょっと痛い」
『セレス』
「診ています」
セレスが答える。
『なら任せる』
そして。
シオンは。
ハルトへ言った。
『門は』
『開けておけ』
ハルトの目が。
僅かに細くなる。
昔。
どこかで。
同じような言葉を。
聞いたことがある。
「誰を通す」
『帰る者を』
「名前がなくても?」
通信の向こう。
シオンは。
数秒。
考えた。
『名前がないことを』
『閉める理由にするな』
「危険だったら」
『閉めろ』
「矛盾してるぞ」
『門は』
『考えて使うものだ』
ハルトが。
小さく笑った。
「昔より」
「面倒な言い方するようになったな」
『そちらに教わった』
「俺のせいか」
『半分』
ハルトは。
門衛へ手を上げる。
「外門」
「第一層だけ開けろ」
「第二層は閉鎖」
「全員」
「検査区画へ入れる」
「名前のない奴も?」
「そいつもだ」
ハルトは。
通信具を見る。
「シオン」
『何だ』
「帰ってこい」
短い。
沈黙。
『まだ』
「知ってる」
『王都で』
『やることがある』
「知ってる」
『なら』
「帰る時は」
ハルトが言う。
「自分も人数に入れろ」
通信の向こう。
シオンが。
僅かに息を止める。
ヴェスパー。
ノア。
レイラ。
誰も。
何も言わない。
『……ああ』
返事。
『そうする』
通信が切れる。
ハルトは。
一度だけ。
灰色の灯りを見る。
そして。
門の外へ。
「入れ」
---
灰都。
外門。
巨大な固定城壁。
王都ほど。
整ってはいない。
星環の光も。
少ない。
石。
鉄。
木。
補修跡。
何度も。
壊れ。
何度も。
直された門。
一行が。
中へ入る。
ヴェスパーが。
一歩。
灰都へ。
足を踏み入れた。
その瞬間。
身体から。
少しだけ。
力が抜ける。
「ヴェスパー?」
ノアが。
見上げる。
「大丈夫」
「本当?」
「ああ」
「何か」
ヴェスパーは。
街の匂いを吸う。
金属。
灰。
油。
食事。
人。
「帰ってきたって」
「感じがした」
ノアが。
笑う。
「うん」
ガルムが。
少し前。
何も言わない。
だが。
歩調が。
僅かに遅くなる。
ヴェスパーたちと。
同じ速度へ。
---
検査区画。
古い倉庫。
ハルトが。
全員を中へ入れる。
「怪我人」
「右」
「星環異常」
「左」
「どっちも」
ヴェスパーが尋ねる。
「真ん中で座ってろ」
「雑だな」
「王都みたいに」
「二百項目の申請が欲しいか」
「ここでいい」
セレスが。
即座に。
ヴェスパーを真ん中へ座らせる。
「リクを」
アルドが。
担架から。
ゆっくり移す。
灰都の治療担当。
二人。
セレスの指示を受け。
身体の状態を確認する。
「星環核は」
「除去済み」
「胸部に」
「結晶線が残っています」
「無理に抜かないでください」
「はい」
アステルは。
リクの傍から。
離れない。
一方。
名前のない人物は。
倉庫の入口。
立ったまま。
誰も。
どこへ案内すべきか。
決められない。
「お前は」
ハルトが。
椅子を一つ指す。
「そこ」
人物が。
椅子を見る。
「座る?」
「座りたくないなら」
「立っててもいい」
人物。
考える。
「座る」
ゆっくり。
腰を下ろす。
「寒いか」
「分からない」
「腹は」
「何」
「空いてるか」
人物が。
自分の腹へ手を当てる。
数秒。
「……変」
ハルトが。
棚から。
硬いパンを一つ取り出す。
「食え」
ガルムが。
すぐに言う。
「待て」
「何だ」
「身体が」
「人工素体なら」
「普通のものを食えるか」
セレスが。
人物へ近付く。
「診ても」
「いいですか」
「何を」
「身体を」
人物は。
セレスの手を見る。
少し。
警戒。
ノアが。
隣から言う。
「嫌なら」
「嫌って言っていいよ」
人物は。
しばらく。
考えた。
「嫌じゃない」
「では」
セレスが。
手首へ。
指を当てる。
脈。
温度。
瞳。
呼吸。
「人間と」
「ほとんど同じです」
「ほとんど?」
イリスが尋ねる。
「心臓」
「肺」
「消化器官」
「脳活動」
「全てあります」
「でも」
胸。
黒い炎。
その周辺だけ。
「熱紋が」
「ありません」
ハルトが。
眉を寄せる。
「熱紋なしで」
「生きてる?」
「通常なら」
「あり得ません」
「星環登録以前でも?」
「熱紋自体は」
「登録とは関係ありません」
生き物。
人間。
獣人。
亜人。
それぞれ。
生きていれば。
熱がある。
個体ごと。
違う。
それが。
熱紋。
「この人は」
セレスが言う。
「身体は生きている」
「でも」
「誰の身体なのかを示す熱だけがない」
人物が。
自分の胸へ触れる。
「誰でもない?」
ノアが。
首を横に振った。
「違う」
「どうして」
「今」
「悲しい音した」
人物は。
また。
驚く。
「悲しい?」
「うん」
「じゃあ」
ノアが言う。
「誰でもないって言われるの」
「嫌なんだと思う」
「……」
人物は。
自分の手を見る。
「これ」
「俺?」
言葉。
初めて。
自分を指す言葉。
「俺」
ノアが。
繰り返す。
人物自身も。
不思議そう。
「俺」
もう一度。
「それで」
「いいのかな」
ノアが。
笑う。
「それは」
「自分で決めていいよ」
「分からない」
「じゃあ」
「今は」
「それでいい」
ヴェスパーが。
少し離れた場所から。
そのやり取りを。
見ていた。
誰でもない。
名前がない。
過去もない。
それでも。
今。
ここにいる。
---
「ヴェスパー」
ガルムが呼ぶ。
「ああ」
「お前は」
「近付くな」
名前のない人物。
「黒火同士を」
「直接触れさせない」
ヴェスパーは。
相手を見る。
相手も。
こちらを見る。
「理由は」
「観測記にあった」
空白が。
七巻目を開く。
「切り離した黒火は」
「保持者へ戻ろうとする」
「ただし」
「元の名を失った場合」
「傷の起点へ戻る」
ハルトが。
完全に。
話についていけない顔をする。
「誰か」
「俺に」
「三行で説明してくれ」
レイラが言う。
「星が消えた」
「ヴェスパーが昔から面倒だった」
「オルディスが余計なことした」
「二行目いるか?」
ヴェスパーが尋ねる。
「重要」
「重要じゃない」
ガルムが。
額を押さえる。
「後で」
「俺が説明する」
ハルトが。
嫌そうな顔。
「お前の説明」
「長い?」
「長い」
「酒ある?」
「飲みながら話す内容じゃねえ」
「なら」
「もっと嫌だな」
---
イリスが。
名前のない人物の。
首筋を見る。
「ここ」
薄い痕。
星環端子。
「黒翼式」
アステルも。
確認する。
「同じです」
「でも」
「リクたちより」
「ずっと細い」
「最初から」
「内部へ星環核を入れる前提だった」
リクが。
治療台から。
掠れた声を出す。
「空の器」
人物の肩が。
僅かに強張る。
リク自身が。
すぐに気付いた。
「……ごめん」
全員。
少し驚く。
リクは。
言葉を。
探す。
「研究所で」
「そう」
「呼んでた」
「でも」
「嫌なら」
「呼ばない」
人物は。
リクを見る。
「嫌」
今度は。
はっきり。
自分で答えた。
「分かった」
リクも。
答える。
それだけ。
だが。
アステルの目が。
僅かに潤む。
研究所で。
「器」と呼ばれた者が。
「器」と呼ばれるのは嫌だと。
自分で言った。
そして。
同じ研究所にいた者が。
それを聞き。
やめた。
簡単なこと。
それなのに。
研究所では。
一度もなかった。
「他に」
イリスが。
少し声を柔らかくする。
「何か」
「覚えてる?」
人物は。
目を閉じる。
「水」
「治療槽?」
「たぶん」
「光」
「青?」
「白」
「誰かの声」
全員。
静かになる。
「何て」
ノアが尋ねる。
人物は。
ゆっくり。
答える。
「ヴェスパー」
ヴェスパーの黒陽炎。
一度。
揺れる。
「その後」
「帰れ」
「誰の声」
長い沈黙。
「分からない」
ノアが。
耳を向ける。
人物。
嘘。
ついていない。
「帰れって」
ヴェスパーが尋ねる。
「どこへ」
「分からない」
「なのに」
ハルトが。
腕を組む。
「何で灰都へ来た」
人物は。
自分の足元を見る。
「歩いてた」
「こっちへ」
「何で」
「黒い火が」
胸へ。
手。
「こっち」
「って」
「だから来た」
「俺を」
ヴェスパーが。
低く聞く。
「探してた?」
人物は。
首を横へ振る。
「違う」
「じゃあ」
「これが」
黒い火。
「お前を」
「探してた」
倉庫。
静かになる。
「なるほど」
ガルムの声。
全く。
納得していない。
「最悪だ」
---
「触れさせたら」
レイラが尋ねる。
「どうなる」
「分からん」
ガルム。
即答。
「消える?」
「増える?」
「戻る?」
「門が開く?」
「全部」
「可能性がある」
「じゃあ」
「絶対触れさせるな」
「ああ」
名前のない人物が。
自分の胸を見る。
「これ」
「ヴェスパーに」
「返した方がいい?」
ヴェスパーは。
答えかける。
だが。
止まった。
以前なら。
自分から奪われたもの。
なら。
自分へ戻せばいい。
そう考えただろう。
残火。
本人の熱を。
本人へ返す。
ずっと。
そうしてきた。
でも。
今。
目の前にいる人物は。
その黒い熱と共に。
歩いてきた。
考え。
嫌だと言い。
自分を。
「俺」と呼び始めている。
もし。
黒い熱を抜けば。
どうなる。
「分からない」
ヴェスパーが答えた。
人物が。
顔を上げる。
「返してほしくないの?」
「俺のものかどうか」
「今は」
「分からない」
ガルムが。
ヴェスパーを見る。
何も言わない。
「それに」
ヴェスパーは続ける。
「お前の身体にあるものを」
「俺が」
「勝手に」
「俺のものだと決めたくない」
人物の黒い瞳が。
僅かに揺れる。
「じゃあ」
「どうする」
「一緒に」
ヴェスパーは。
仲間を見る。
ガルム。
空白。
イリス。
セレス。
アステル。
ノア。
「調べる」
「それから」
「お前がどうしたいか」
「聞く」
「俺?」
「ああ」
「分からない」
「今はそれでいい」
ノアが。
嬉しそうに。
ヴェスパーを見る。
「僕と同じこと言った」
「良い言葉だったからな」
ガルムが。
横から言う。
「人の言葉」
「すぐ使うのも」
「昔からだ」
「お前は」
「何で」
「一言ずつ余計なんだ」
---
ハルトが。
長い息を吐く。
「決まったなら」
「そいつは」
「しばらく」
「この検査区画から出さない」
名前のない人物。
「閉じ込める?」
ハルトが。
少し考える。
「外へ出たいか」
「分からない」
「なら」
「閉じ込めない」
「ただし」
「勝手に街へ出るな」
「何で」
「お前自身が」
「今」
「危険かどうか」
「俺たちも」
「お前も」
「分かってないからだ」
人物は。
数秒。
考える。
「分かった」
「嫌なら」
ノアが言う。
「嫌って言っていい」
「……今は」
「嫌じゃない」
ハルトが。
少年を見る。
「お前」
「俺より」
「門番向いてるんじゃないか」
「シオンに言って」
「嫌がるぞ」
「何で」
「自分より」
「上手い奴見つけると」
「あいつ」
「すぐ仕事渡そうとするから」
ノアが笑った。
---
外。
黒い灰。
一度。
増える。
セリカが。
窓から空を見る。
「ガルム」
「ああ」
「通信」
「灰都内なら」
「使えるか」
「短距離だけ」
「王都方面は」
「まだ切れ」
「オルディスは」
「繋がない」
「了解」
セリカが。
報告を。
紙へ書く。
『帰還』
ヴェスパー。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
ノア。
セリカ。
アルド。
ガルム。
空白。
リク。
そして。
最後。
筆が止まる。
「これ」
名前のない人物を見る。
「何て書く」
「名前」
「ない」
「未登録者?」
ハルトが。
首を振る。
「それは」
「王都の悪い癖みたいで嫌だな」
「無名」
ガルム。
「危ない」
「名前っぽくなる」
空白が言う。
「呼称は」
「慎重にしろ」
「じゃあ」
レイラが。
考える。
「知らない奴」
「長い」
イリスが答える。
「黒いやつ」
「雑」
「空っぽ」
アステルが。
静かに。
レイラを見る。
「ごめん」
「うーん」
ノアが。
人物を見る。
「帰ってきた人」
「もっと長い」
「でも」
人物が。
初めて。
少しだけ。
表情を変えた。
「それ」
「嫌じゃない」
「帰ってきた人?」
「うん」
「どこに帰ってきたか」
「分からないけど」
「帰れって」
「言われた」
セリカが。
紙へ書く。
『氏名:未決定』
少し考え。
その横。
『本人申告――帰還者』
「これなら」
「名前じゃない」
空白が頷く。
「良い」
ハルト。
「役所が泣くな」
イリスが言う。
「王都じゃないんだから」
「泣かせておけばいい」
人物。
いや。
帰還者が。
その文字を。
じっと見つめる。
「帰還者」
「嫌?」
ノアが尋ねる。
「分からない」
「でも」
自分の胸。
「空っぽより」
「いい」
「じゃあ」
「今はそれで」
「うん」
---
昼。
灰都地下。
古い作戦室。
ガルム。
ヴェスパー。
イリス。
セレス。
空白。
ハルト。
机の中央。
灰星観測記。
そして。
紙へ書かれた。
帰還者の身体情報。
アステルとノアは。
リクと帰還者の様子を見るため。
検査区画。
レイラ。
セリカ。
アルドは。
外周の警戒と。
帰路確認。
「整理する」
イリスが言う。
ハルトが。
頭を抱える。
「今から?」
「今しないと」
「もっと増える」
「もう十分多い」
「我慢して」
ガルムが。
腕を組む。
「まず」
「帰還者」
「オルディスが作った」
「人工素体で間違いない」
「リクの証言」
「身体の端子」
「黒翼の設計記録」
イリス。
一つ目。
紙に書く。
「二つ」
「その素体は」
「本来」
「人格も」
「固有熱紋も持っていなかった」
「でも今は」
セレスが続ける。
「感情反応」
「自発的な判断」
「記憶形成」
「全て確認できます」
ハルトが尋ねる。
「つまり」
「人間?」
セレスは。
すぐには答えない。
「少なくとも」
「物ではありません」
「それで十分だ」
ヴェスパーが言う。
イリスが。
次。
「三つ」
「帰還者の胸には」
「黒陽炎に似た反応がある」
「ただ」
「ヴェスパーの黒陽炎とは」
「完全一致しない」
「どのくらい」
「さっき」
「非接触で」
「イリス式の熱差計を使った」
「名前が怖いな」
「今作った」
「もっと怖い」
イリスは。
無視する。
「共通部分」
「約六割」
ガルムの眉が。
僅かに動く。
「低いな」
「そう」
「ヴェスパーから」
「オルディスが直接奪ったものなら」
「もっと一致していい」
「変質した?」
空白が尋ねる。
「可能性はある」
「でも」
「別のものが」
「混ざった可能性もある」
全員。
静かになる。
「門の向こう」
ハルトが。
低く言う。
「あり得る」
ガルムが答える。
「オルディスが」
「黒火を器に入れた」
「黒火は」
「門へ戻ろうとした」
「その過程で」
「向こうの何かが」
「素体へ入った?」
イリス。
自分で言って。
顔をしかめる。
「嫌な仮説」
「だから」
ガルムが言う。
「まだ」
「あいつへ」
「何者か」
「決めつけるな」
「オルディスが作った器」
「ヴェスパーの黒火の欠片」
「灰星の何か」
「どれも」
「一部かもしれない」
「どれでもないかもしれない」
ハルトが。
天井を見る。
「分からないものが」
「歩いて」
「うちの門まで来たのか」
「そう」
イリスが答える。
「帰れって言われて」
「誰に」
「分からない」
ハルトは。
額を押さえた。
「本当に」
「この話」
「酒なし?」
---
「もう一つ」
空白が。
七巻目を開く。
「六百年前」
「似た事例がある」
全員。
彼女を見る。
「観測記には」
「書かなかった」
イリスの目が。
鋭くなる。
「何で」
「危険だった」
「今は?」
「今も危険だ」
「じゃあ」
「何で話す」
「もっと危険なものが」
空白は。
帰還者のいる方角を見る。
「もう来ている」
ガルムが。
低く言う。
「何があった」
空白は。
六百年前を。
思い出す。
「門を閉じた後」
「三人の黒火保持者のうち」
「一人が」
「戻ってきた」
ヴェスパーの瞳が。
僅かに細くなる。
「どこから」
「門の向こうから」
沈黙。
「生きて?」
セレスが尋ねる。
「身体は」
「生きていた」
「本人は」
「分からなかった」
「記憶」
「名前」
「性格」
「全部」
「曖昧だった」
ガルムの手が。
灰断ちへ向く。
「黒火は」
「あった」
「どんな」
「二つ」
イリスの顔が。
変わる。
「二つ?」
「本人の傷」
「そして」
空白の声が。
僅かに低くなる。
「向こうから」
「付いてきたもの」
ヴェスパーの胸。
黒陽炎。
一度。
揺れた。
「そいつは」
「どうなった」
空白。
長い沈黙。
「自分で」
「門へ戻った」
「どうして」
「分からない」
「最後に」
「何て」
空白の目が。
ヴェスパーを見る。
「帰れと言った」
全員。
凍る。
「誰に」
ノアはいない。
それでも。
ヴェスパーは。
答えが。
分かる気がした。
「自分自身へ」
空白が。
首を横に振る。
「こちら側にいた」
「残り二人へ」
「帰れ」
「と言った」
「それから」
「門へ戻った」
「門は」
「開いた?」
「開かなかった」
「その者だけが」
「消えた」
ガルムの表情が。
険しくなる。
「今回の」
「帰還者と」
「同じとは限らねえ」
「分かっている」
空白は答える。
「だから」
「決めつけるな」
「ただ」
「帰れという言葉を」
「軽く聞くな」
---
検査区画。
ノアは。
帰還者の前へ。
二つの器を置いていた。
一つ。
水。
もう一つ。
薄いスープ。
「どっち」
「飲みたい?」
帰還者は。
二つを見る。
「違う?」
「味が」
「水」
「スープ」
「どっちが」
「正しい?」
ノアが。
目を瞬く。
「正しい?」
「飲むもの」
「どっち」
「どっちでもいい」
帰還者の瞳が。
僅かに動く。
「選んでいいの?」
「うん」
「でも」
「間違えたら」
「何も起きないよ」
「本当?」
「たぶん」
アステルが。
横で。
少し笑う。
「少なくとも」
「処罰はありません」
帰還者は。
水。
スープ。
何度も見る。
そして。
スープへ。
手を伸ばした。
一口。
動きが止まる。
ノア。
心配。
「まずい?」
帰還者は。
口の中。
何かを。
初めて。
確かめる。
「熱い」
「ごめん!」
「違う」
「嫌?」
長い沈黙。
「……好き」
ノアが。
笑顔になる。
「それ」
「覚えた方がいいよ」
「何を」
「好き」
帰還者が。
スープを見る。
「好き」
もう一口。
今度は。
ゆっくり。
アステルが。
その様子を見る。
何者か。
分からない。
危険かもしれない。
灰星の何かを。
持っているかもしれない。
それでも。
今。
一つ。
本人のものができた。
好きな味。
「私は」
アステルが言う。
帰還者が見る。
「甘いものが」
「好きです」
「甘い」
「後で」
「食べてみますか」
「選んでいい?」
「はい」
「……食べる」
ノアが。
嬉しそうに。
木彫りの狼を握る。
---
少し離れ。
リク。
寝台。
目を開けている。
帰還者を。
ずっと見ている。
「どうしたの」
ノアが尋ねる。
「……羨ましい」
「何が」
「何も」
「覚えてない」
ノアが。
困った顔。
「それが?」
「俺は」
リクは。
天井を見る。
「覚えてる」
「研究所」
「命令」
「誰かが」
「いなくなったこと」
「番号」
「痛いこと」
「全部じゃない」
「でも」
「残ってる」
帰還者が。
スープを飲む。
「何もないなら」
「最初から」
「選べる」
アステルが。
リクを見る。
「でも」
「今までがあるから」
「選べないわけでもありません」
リクは。
彼女を見る。
「あなたは」
「選べた?」
アステル。
少し。
考える。
「まだ」
「選んでいる途中です」
「途中」
「はい」
「終わってない?」
「たぶん」
「死ぬまで」
「終わらないのかもしれません」
リクが。
小さく息を吐く。
「面倒」
「はい」
帰還者が。
スープから顔を上げる。
「面倒」
ノアが笑う。
「それも」
「覚えた?」
「うん」
ほんの僅か。
帰還者の口元が。
動く。
笑ったのか。
まだ。
本人も分からない。
---
夕方。
ガルムたちは。
検査区画へ戻った。
帰還者の前。
空になったスープ皿。
ガルムが。
それを見る。
「食えるのか」
帰還者。
頷く。
「好き」
「何が」
「これ」
「そうか」
レイラが。
どこからか。
二杯目を持ってくる。
「おかわり」
人物の黒い瞳が。
僅かに明るくなる。
「それ」
「食べていい?」
「いい」
「何で」
「食いたいんだろ?」
「うん」
「なら食え」
帰還者。
皿を受け取る。
ハルトが。
それを見る。
「世界が終わりそうな話してた割に」
「平和だな」
ガルム。
腕を組む。
「こういう時間が」
「あるうちに」
「やらせとけ」
ヴェスパーは。
帰還者と。
距離を空けた場所へ座る。
「ヴェスパー」
ノアが。
少し警戒する。
黒陽炎。
反応。
なし。
「大丈夫」
帰還者が。
名前を呼ぶ。
「ヴェスパー」
ガルムが。
僅かに動く。
「何だ」
ヴェスパーは。
返事をする。
今の名へ。
帰還者が。
胸の黒い炎を見る。
「これ」
「今」
「静か」
「俺が」
「近くにいるから?」
「分からない」
「嫌な感じは」
「分からない」
ノアが。
耳を向ける。
「怖くは」
「ないみたい」
「そう」
帰還者が。
ヴェスパーを見る。
「俺」
「あなた?」
「違う」
ヴェスパーは。
すぐに答えた。
「顔」
「似てない」
「それだけ?」
「お前は」
ヴェスパーが言う。
「自分で」
「スープが好きだって決めた」
「俺は」
「今」
「飲みたくない」
帰還者が。
自分の皿。
ヴェスパー。
交互に見る。
「違う」
「ああ」
「じゃあ」
「俺は」
「あなたじゃない」
「ああ」
ノアが。
横で笑う。
「当たり前だけど」
「大事なことだね」
帰還者は。
もう一度。
スープを飲む。
「俺は」
「ヴェスパーじゃない」
「うん」
「じゃあ」
「誰」
ヴェスパーは。
答えない。
ノアも。
アステルも。
ガルムも。
誰も。
名前を与えない。
「それは」
ヴェスパーが。
静かに言う。
「お前が」
「いつか」
「返事したくなる名前を」
「見つければいい」
「いつ」
「分からない」
「分からない」
帰還者が。
小さく呟く。
そして。
少しだけ。
口元が。
上がった。
「それ」
「いっぱいある」
ノアが笑う。
「僕たちも」
「ずっと言ってる」
---
夜。
灰都。
外壁。
ガルムと。
ヴェスパー。
二人。
並んで立っていた。
街。
灯り。
王都より。
少ない。
それでも。
温かい。
「母親の話」
ヴェスパーが言う。
「まだある?」
「ある」
「今」
「今日はやめとけ」
「何で」
「疲れてる」
「俺は」
「俺じゃねえ」
ガルムが言った。
ヴェスパー。
少し驚く。
「何」
「俺が疲れた」
ガルムが。
壁へ背を預ける。
「話す側も」
「きついんだよ」
ヴェスパーは。
しばらく。
何も言わなかった。
「そうか」
「ああ」
「じゃあ」
「明日」
「逃げない?」
「逃げねえ」
「約束」
「しただろ」
「ああ」
黒い灰。
夜風。
ヴェスパーが。
空を見る。
消えた星の場所。
「ガルム」
「何だ」
「帰還者」
「ああ」
「どう思う」
「危ない」
即答。
「でも」
ガルムは続ける。
「危ないから」
「人じゃねえとは」
「言わん」
ヴェスパーが。
師匠を見る。
「珍しいな」
「何が」
「もっと」
「切れ」
「殺せ」
「とか言うと思った」
「昔なら」
「そうしたかもな」
ヴェスパーの眉が。
僅かに上がる。
「変わった?」
ガルムが。
鼻で笑う。
「お前らが」
「面倒なことを」
「何度も見せるからな」
「何」
「王都」
「黒翼の兵」
「空白」
「名前」
ガルムは。
遠く。
検査区画を見る。
「何者か分からねえ奴を」
「分からないまま」
「一度置いておく」
「それも」
「選択だ」
ヴェスパーは。
僅かに笑う。
「良いこと言うな」
「うるせえ」
---
同じ夜。
検査区画。
帰還者は。
眠れずにいた。
ノア。
隣の簡易寝台。
眠っている。
アステルも。
椅子へ座ったまま。
目を閉じている。
リク。
浅い呼吸。
帰還者は。
自分の胸を見る。
黒い炎。
小さい。
静か。
「帰れ」
一人。
呟く。
「どこに」
返事。
ない。
「俺は」
「どこから」
返事。
ない。
「誰」
黒い炎。
一度。
揺れる。
そして。
頭の奥。
知らない景色。
---
透明な水。
ガラス。
外。
男。
何重もの観測硝子。
オルディス。
『起動しろ』
声。
自分。
動かない。
何もない。
次。
黒い火。
胸。
何かが。
入る。
暗い。
遠い。
星。
向こうから。
声。
『――帰れ』
目。
開く。
だが。
それより。
前。
一瞬。
自分が。
水槽へ入るより。
前の景色。
あり得ない。
身体が。
作られる前。
記憶が。
あるはずがない。
白い。
空。
灰。
三人。
立っている。
黒い火。
一人。
剣。
一人。
長い布。
一人。
顔。
見えない。
そして。
誰かが言う。
『一人』
『帰れない』
---
帰還者の目が。
開く。
呼吸。
速い。
胸の黒い炎。
大きくなっている。
「……一人」
ノアの兎耳が。
動く。
眠ったまま。
「……誰」
帰還者は。
ノアを見る。
少年は。
まだ。
起きていない。
「帰れない」
黒い炎。
さらに。
揺れる。
「誰が」
その瞬間。
ノアの目が。
開いた。
「動かないで」
帰還者が。
止まる。
ノアの耳。
胸の黒い炎へ。
向く。
「今」
「誰かいた」
「誰」
「分からない」
ノアが。
起き上がる。
「でも」
「この火の中」
「一人じゃなかった」
アステルの目も。
開く。
「ノア?」
「声」
少年が。
帰還者の胸を見る。
「三人」
「違う」
「四人」
帰還者が。
青ざめる。
「俺の中?」
「違う」
ノアは。
耳を澄ませる。
「中じゃない」
「向こう」
黒い炎。
その先。
どこか。
遠い。
「三人は」
「帰ってきた」
「一人だけ」
ノアの表情が。
変わる。
「帰れてない」
アステルが。
すぐに立つ。
「誰が」
ノア。
答えようとした。
その時。
帰還者の口が。
勝手に。
動いた。
声。
本人のもの。
だが。
言葉だけが。
本人の知らないもの。
「観測者」
空白。
別の部屋。
同じ瞬間。
目を開く。
「――っ!」
胸。
心臓。
一度。
遠く。
崩れた灰星観測所の地下。
もう一つ。
同じ鼓動。
ドン。
空白が。
立ち上がる。
「違う」
「三人じゃない」
女の顔から。
色が消える。
「門を閉じたのは」
「四人だった」
---
灰都外。
誰もいない。
黒い灰の中。
一人の影が。
街へ向かって。
歩いている。
ゆっくり。
片足を。
引きずりながら。
服は。
六百年前のもの。
身体は。
灰に覆われている。
胸。
黒い傷。
一つ。
そして。
首から下がる。
古い観測札。
刻まれている役割。
**『星を見る者』**
影は。
灰都の灯りを見る。
長い。
長い時間。
忘れていたように。
一言。
呟いた。
「……帰って」
声が。
掠れる。
「いいのか」
黒い灰の向こう。
誰も。
答えない。
それでも。
影は。
一歩。
灰都へ。
近付いた。




