第3章 第26話 「ガルムの告白」
灰都へ続く街道に。
朝が来た。
けれど。
空から降るものは。
雪ではない。
黒い灰。
熱も。
冷たさもない。
ただ。
触れれば消える。
六百四十年前。
一度だけ。
同じものが降ったと。
灰星観測記には残されていた。
誰も。
それを口にしなかった。
言葉にしたところで。
状況が良くなるわけではない。
だから。
歩く。
ガルムを先頭に。
その後ろ。
ヴェスパー。
ノア。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
セリカ。
そして。
六百年以上。
灰星観測所を離れなかった女。
空白。
少し離れた別路。
アルドが。
リクを乗せた担架を押している。
誰一人。
自分を帰る人数から抜かずに。
灰都を目指す。
---
「ガルム」
ヴェスパーが呼ぶ。
「何だ」
返事は。
いつもの声だった。
低く。
面倒そうで。
少し乱暴。
それでも。
さっきまでとは違う。
ヴェスパーには。
その背中の向こうに。
別の姿が重なって見える。
二十年以上前。
燃える村。
幼い自分を抱え。
血だらけで走っていた。
若いガルム。
「話は」
「灰都に着いてからだ」
「もう聞いた」
「何を」
「昨日から」
「それしか言ってない」
ガルムが。
僅かに肩を落とす。
「お前」
「昔より面倒になったな」
「昔を」
「覚えてない」
その言葉で。
ガルムの足が。
ほんの少しだけ遅くなった。
ヴェスパーは。
見逃さない。
「ガルム」
「何だ」
「俺は」
「何て名前だった」
今度は。
ガルムが止まった。
全員も。
自然に足を止める。
「ここで聞くのか」
「駄目か」
ガルムは。
空を見る。
黒い灰。
消えた星。
そして。
遠く。
灰星観測所のある山。
「駄目だ」
ヴェスパーの眉が。
僅かに寄る。
「まだ隠すのか」
「違う」
ガルムが。
真っ直ぐ振り返る。
「今は」
「言わねえ」
「なぜ」
「お前の昔の名を」
「向こうが知ってる」
「だから」
「口にしない」
「紙なら」
イリスが言う。
「駄目だ」
ガルムは即答した。
「記録も残さない」
空白が。
静かに頷く。
「正しい」
レイラが。
彼女を見る。
「本当に」
「名前だけで」
「辿られるのか」
「六百年前」
「一人が消えた」
「それだけで」
「十分だ」
「でも」
ノアが。
ヴェスパーを見る。
「ヴェスパーって名前は」
「大丈夫なの?」
ガルムは。
少しだけ。
目を細めた。
「今のところはな」
「今のところ?」
「向こうが」
「その名を」
「本物として認識してない」
ヴェスパーは。
胸へ手を置く。
「つまり」
「ヴェスパーは」
「偽物の名前?」
「違う」
ガルムの声が。
強くなった。
「俺が」
「そう呼び始めたのは確かだ」
「でも」
「今」
「お前がその名へ返事してるなら」
「そいつは」
「もうお前の名前だ」
ノアが。
少し笑った。
「同じこと言った」
「誰が」
「僕」
ガルムが。
ノアを見る。
「なら」
「珍しく」
「正しいこと言ったな」
「珍しくは余計」
「師匠まで同じだ」
レイラが笑う。
ヴェスパーは。
笑わなかった。
「何で」
「ヴェスパーなんだ」
ガルムは。
少しだけ。
黙った。
そして。
再び歩き出す。
「夕方だった」
「何が」
「お前を」
「観測所から連れ出した時」
「雨が上がって」
「西が赤かった」
「お前が」
「自分の名前を聞かれても」
「何も答えなくなってた」
ヴェスパーの目が。
僅かに揺れる。
「俺が?」
「ああ」
「忘れてた?」
「違う」
ガルムは。
前を向いたまま言う。
「俺が」
「返事をするなって」
「何度も言った」
「だから」
「お前は」
「自分の名前まで」
「言わなくなった」
小さな子ども。
怖くて。
何も分からなくて。
ただ。
生きるために。
名前を捨てた。
「夕方」
ガルムは続ける。
「西の空を見て」
「お前が」
「一言だけ言った」
『あれは』
『まだ消えてない?』
夕空。
最後に残る光。
「それで」
「ヴェスパー」
「夕暮れの名だ」
ヴェスパーは。
少しだけ。
空を見る。
朝。
なのに。
夕暮れの名を持つ。
終わりかけた光。
それでも。
完全には消えていない。
「適当だな」
ヴェスパーが言う。
ガルムが。
鼻で笑った。
「名前なんて」
「最初はだいたいそんなもんだ」
「でも」
ノアが。
ヴェスパーの横を歩く。
「似合ってる」
「そうか」
「うん」
ヴェスパーは。
ほんの少しだけ。
笑った。
---
灰都までは。
まだ数時間。
街道脇。
古い休憩所。
崩れかけた石壁。
井戸。
屋根の半分だけ残っている。
ガルムが。
そこで足を止めた。
「休む」
レイラが。
眉を上げる。
「お前が?」
「何だ」
「休むって言った」
「言うだろ」
「ヴェスパーの師匠だから」
「休まない側だと思ってた」
「俺まで」
「そいつと一緒にするな」
「さっきから」
ヴェスパーが言う。
「ずっと否定してるけど」
「似てるぞ」
「黙れ」
セレスが。
二人を見る。
「お二人とも」
「座ってください」
「俺は」
ガルムとヴェスパー。
同時に口を開く。
セレスの目が。
僅かに細くなる。
二人とも。
黙った。
レイラが。
声を出して笑った。
「完全に同じじゃねえか!」
---
休憩所。
火を使わない。
アルドが合流する。
リクは。
まだ眠っている。
脈。
安定。
黒翼由来の結晶反応。
弱い。
セレスが診察。
アステルが隣にいる。
少し離れ。
セリカは。
通信遮断範囲を確認する。
「ここなら」
「星脈の密度がかなり低い」
「話をするなら」
「今」
ガルムが。
彼女を見る。
「最初から」
「ここで話すつもりだったな?」
セリカは。
無表情で答える。
「あなたが」
「灰都まで黙っていられるとは」
「思っていませんでした」
「誰の部下だ」
「命令を受け入れた時だけ」
「あなたの部下です」
アルドが。
静かに座る。
「正しい」
「お前まで」
ガルムが。
深くため息を吐く。
そして。
ヴェスパーを見る。
「聞け」
空気が変わった。
冗談。
全部消える。
「ただし」
「最初に言う」
「俺は」
「全部は知らん」
「分かってる」
「分からねえ部分を」
「勝手に繋げて」
「真実みたいに話すつもりもない」
「それでいい」
ノアが。
ヴェスパーの隣へ座る。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
セリカ。
アルド。
空白。
全員。
ガルムを見る。
男は。
一瞬。
面倒そうな顔をした。
「何で」
「全員いるんだ」
レイラ。
「嫌なら」
「ヴェスパーと二人で話すか?」
ガルムは。
ヴェスパーを見る。
ヴェスパーは。
首を横に振る。
「聞いてほしい」
「全員に?」
「ああ」
「理由は」
「俺一人で」
「抱えないため」
ガルムが。
何も言わなくなる。
数秒。
そして。
少しだけ。
笑った。
「……本当に」
「変わったな」
「王都で」
「散々言われた」
「なら」
ガルムは。
石壁へ背を預けた。
「話す」
---
「二十四年前」
ガルムの声。
風。
黒い灰。
静かな朝。
「俺は」
「王都でも」
「灰都でも」
「どこの兵でもなかった」
ヴェスパーが尋ねる。
「今もだろ」
「今より」
「もっと」
「どうしようもなかった」
レイラが。
小さく笑う。
「想像できる」
「黙って聞け」
ガルムは続ける。
「俺は」
「ある連中を追ってた」
「誰」
「名前は」
「もう残ってない」
「組織?」
「ああ」
「正確には」
「古い星脈研究の残党だ」
イリスの顔が変わる。
「黒翼より前?」
「ずっと前から」
「星脈を」
「人間へ直接繋ごうとする研究はあった」
「黒翼研究所は」
「そいつらの資料を」
「拾って」
「新しい名前で」
「作り直しただけだ」
アステルの手が。
僅かに強く握られる。
「オルディスは」
「知っているのでしょうか」
「全部は知らんだろう」
「知ってたら」
「黒火を器へ入れるなんて」
「馬鹿はやらねえ」
遠く。
オルディス。
今。
黒陽炎に触れ。
自分が理解していなかったものを。
知り始めている。
「その研究者たちは」
ガルムが言う。
「星脈を」
「地中を流れる力じゃなく」
「道だと考えてた」
空白が。
僅かに目を伏せる。
「正しい」
「お前ら観測所の記録と」
「同じ結論だ」
イリスが尋ねる。
「じゃあ」
「六百年前の資料を」
「持ってた?」
「断片だけだ」
「灰星観測所そのものは」
「知られてなかった」
「俺も」
「最初は知らなかった」
「では」
「どうやって」
ヴェスパーの村へ?
ガルムは。
その問いが来ることを。
分かっていた。
「お前の母親だ」
ヴェスパーの呼吸が。
僅かに止まる。
---
「名前は」
ガルムが。
一度。
口を閉じる。
「言わない」
ヴェスパーは。
拳を握る。
だが。
反論しない。
今。
危険だから。
「母親は」
「何者だった」
「村の人間だ」
「ただ」
「普通の村人ではなかった」
「因子持ち?」
「違う」
「獣人?」
「人間だった」
ヴェスパーの狼耳が。
僅かに動く。
「なら」
「俺の耳は」
「父親側だ」
「父親を知ってる?」
「顔だけ」
「名前は」
「知らん」
「母親も」
「教えなかった」
「どうして」
ガルムは。
少しだけ。
目を細める。
「お前の母親は」
「名前に関して」
「異常なくらい慎重だった」
空白が。
静かに言う。
「灰星を」
「知っていた?」
「知ってた」
「どこまで」
「俺より」
「少し多く」
ガルムは。
ヴェスパーを見る。
「お前の母親は」
「灰星観測所の」
「子孫だった」
空白の顔が。
完全に変わった。
「何?」
ガルムが。
彼女を見る。
「驚くのか」
「私は」
「六百年間」
「外の系譜を追っていない」
「そりゃそうだ」
「観測所の外へ」
「出てなかったんだからな」
空白は。
何も返せない。
「三人」
イリスが言う。
「六百年前に残った」
「黒火保持者?」
「そのうち」
「一人の血筋だ」
「黒陽炎が」
「遺伝する?」
「そこは違う」
ガルムは否定した。
「黒火そのものは」
「血で引き継がれない」
「少なくとも」
「俺が知る限りは」
「じゃあ」
「何が」
「役目だ」
空白の瞳が。
僅かに揺れる。
「門を閉じた者の」
「一人が」
「生き残った後」
「子を残した」
「その家系は」
「門の存在を」
「名前を変えながら」
「ずっと伝えた」
「母親も?」
「ああ」
「ただ」
「本人は」
「門を守るつもりなんて」
「なかった」
ヴェスパーが。
僅かに顔を上げる。
「どういう意味」
ガルムの口元へ。
少しだけ。
懐かしい笑み。
「嫌ってた」
「何を」
「役目って言葉を」
アステルの瞳が。
僅かに揺れた。
「言ってたよ」
ガルムは。
遠い昔。
誰かの声を思い出す。
『先祖が門を閉じたから何?』
『私まで』
『門の前で死ねって?』
『そんなもの』
『私の子には継がせない』
「……」
空白が。
目を伏せる。
アステルは。
静かに聞いている。
役割を。
血へ。
身体へ。
次代へ。
押し付けない。
「母親は」
ヴェスパーが尋ねる。
「俺に」
「何も教えなかった」
「教える前だった」
「お前が」
「まだ小さかったからな」
「何歳」
「五つ」
レイラの顔が。
僅かに曇る。
「村が襲われたのも」
「それが理由?」
「半分は」
「そうだ」
---
ガルムは。
石床へ。
指で線を引く。
村。
街道。
山。
そして。
遠く。
王都方面。
「お前の母親の血筋を」
「追ってる連中がいた」
「古い研究の残党?」
「ああ」
「目的は」
イリスが尋ねる。
「門?」
「門の場所」
「それと」
ガルムが。
ヴェスパーを見る。
「門を閉じた三人の」
「子孫」
「どうして」
「六百年前」
「三人が門を閉じた時」
「星脈に」
「普通じゃない変化が残った」
「それが」
「子孫の熱紋に」
「僅かに現れることがある」
「鍵として?」
「違う」
ガルムは。
強く否定する。
「何度でも言う」
「黒火は鍵じゃねえ」
「門を開けるための力じゃない」
「研究者は」
「そう思った」
「王都も」
「ヴェスパーを黒陽鍵って呼んだ」
ノアが言う。
「全員」
「間違ってた?」
「たぶんな」
「正確には」
空白が続ける。
「鍵穴を壊した者の」
「傷を見て」
「鍵だと勘違いしている」
イリスが。
頭を押さえる。
「ひどい話」
「でも」
「ヴェスパーの母親は」
「黒火を持ってなかったんだよね」
「ああ」
「なら」
「なぜ」
「ヴェスパーだけ」
ガルムが。
黙る。
来た。
最も。
話したくなかった部分。
「ヴェスパー」
ノアが。
隣を見る。
「大丈夫?」
「分からない」
「うん」
「でも」
「聞く」
ガルムが。
少年を見る。
「良いか」
ヴェスパーへ。
「ここからは」
「俺も」
「見たものしか話せねえ」
「ああ」
「理由は」
「分からん」
「分かった」
ガルムは。
息を吐く。
「お前は」
「生まれた時から」
「星脈へ」
「繋がっていた」
---
誰も。
動かなかった。
「因子持ちって意味じゃない」
ガルムが続ける。
「普通の人間も」
「獣人も」
「星脈の影響は受ける」
「だが」
「お前は違った」
「母親が」
「気付いた?」
「ああ」
「熱紋が」
「夜だけ変わった」
「昼は」
「普通?」
「ほぼな」
「夜になると」
ガルムは。
空を見る。
「一つ」
「外へ向かう線が出る」
イリスが。
理解する。
「星脈網じゃない」
「ああ」
「王都の方向でも」
「地下でもない」
「空?」
「最初」
「母親もそう思った」
「だから」
「俺へ連絡した」
ヴェスパーが。
驚く。
「ガルムを?」
「ああ」
「どういう関係だった」
レイラが。
少し身を乗り出す。
ガルムが。
嫌そうに彼女を見る。
「何を期待してる」
「別に」
「嘘だな」
「昔の女か?」
ヴェスパーが。
思わず。
レイラを見る。
ガルムは。
額へ手を当てた。
「違う」
「即答」
「古い仲間だ」
「本当に?」
「戦うか?」
「はいはい」
セレスが。
静かに言う。
「続きを」
ガルムは。
ありがたそうに。
セレスを見る。
「助かる」
「治療のためです」
「そうか」
---
「母親とは」
「星脈研究の残党を追ってる時に知り合った」
「向こうは」
「連中から逃げてた」
「俺は追ってた」
「利害が一致した」
「それだけだ」
「母親は」
「ガルムを信用してた?」
ヴェスパーが尋ねる。
ガルムは。
少しだけ。
考える。
「完全には」
「何で」
「俺も」
「当時は」
「何でも一人でやる」
「馬鹿だった」
レイラが。
ヴェスパーを見る。
「血が繋がってないのに」
「ここまで似るか?」
「今は黙れ」
「本人も」
ガルムが。
ヴェスパーを指す。
「似てないって言え」
「……否定しにくくなってきた」
「おい」
ノアが。
笑いを堪える。
ガルムは。
諦めたように。
話を続ける。
「お前が生まれ」
「五年」
「特に何も起きなかった」
「夜に」
「変な熱が出る以外はな」
「研究者は」
「見つけてなかった?」
「見つけかけてた」
「だから」
「母親は」
「村を出る準備をしてた」
ヴェスパーの表情が。
変わる。
「村を」
「捨てるつもりだった?」
「違う」
ガルムは。
真っ直ぐ答える。
「お前を連れて」
「逃げるつもりだった」
「村へ」
「迷惑を掛けないために」
ヴェスパーは。
言葉を失う。
自分は。
幼い頃。
村が襲われた。
ずっと。
それだけを覚えていた。
自分の故郷。
奪われた場所。
だが。
その少し前。
母親は。
自分を守るために。
出ていく準備をしていた。
「間に合わなかった」
ガルムが言う。
「襲撃が」
「一日早かった」
「一日……」
「ああ」
「俺は」
「合流地点で」
「待ってた」
「来ないから」
「村へ向かった」
「着いた時には」
ガルムの拳が。
僅かに握られる。
「燃えてた」
---
炎。
叫び。
人間。
獣人。
亜人。
村の住民。
襲撃者。
誰が。
どちらなのか。
煙の中では。
分からない。
「襲ったのは」
ヴェスパーが。
低く聞く。
「研究者?」
「研究者本人じゃねえ」
「雇われた連中だ」
「盗賊?」
「見た目はな」
ヴェスパーの顔が。
僅かに強張る。
幼い記憶。
村。
襲撃。
その後。
何年も。
盗賊のような集団を見るたびに。
胸の奥が冷たくなった。
「人間だけじゃなかった」
ガルムが言う。
「獣人も」
「亜人もいた」
「金で集めた連中だ」
「目的は」
「お前の確保」
「母親は」
ガルムが。
言葉を止める。
「分からない」
ヴェスパーの瞳が。
揺れる。
「門の向こうで」
「声を聞いた」
「ああ」
「本当に」
「母親かもしれない」
「……かもしれん」
ガルムは。
認める。
「でも」
「死んだ可能性も」
「ある」
「ああ」
「どっちなんだ」
「分からねえ!」
ガルムが。
初めて。
強い声を出した。
風。
黒い灰。
静かになる。
「俺は」
「村の中央で」
「お前を見つけた」
「母親は」
「いなかった」
「血は」
「あった」
「誰の」
「分からん」
「死体は」
「なかった」
「連れ去られた可能性は」
「ある」
「門へ?」
「そこまで」
「その時は」
「分からなかった」
「でも」
「今なら」
ガルムは。
苦い顔で。
灰星のない空を見る。
「否定できねえ」
---
「じゃあ」
ノアが。
静かに尋ねる。
「ヴェスパーのお母さんは」
「星に連れていかれた?」
「分からん」
ガルム。
即答。
「研究者に連れ去られ」
「後から門に使われたかもしれない」
「自分から」
「何かをした可能性もある」
「最初から」
「門の向こうにいたとは」
「思えない」
空白が。
そこで口を開く。
「一つだけ」
全員が。
彼女を見る。
「六百年前も」
「門の向こうは」
「死者の声を使った」
ガルムが。
目を細める。
「知ってたのか」
「ああ」
「観測記には」
「残ってなかった」
「残さなかった」
「なぜ」
「名前と」
「声は」
「近すぎる」
空白は。
自分の胸へ手を置く。
「門を閉じた三人のうち」
「一人が」
「妻の声を聞いた」
「もう一人は」
「死んだ子の声」
「最後の一人は」
「本人の声だった」
ノアの耳が。
ゆっくり伏せられる。
「本人の?」
「自分が」
「向こうから」
「自分を呼んだ」
「どういうこと」
「分からない」
「でも」
「全員」
「一瞬」
「門を開けようとした」
王都。
ノア。
兄の声。
エリュシオン。
死者の声を。
生者へ投げる。
星も。
同じなのか。
「じゃあ」
レイラが。
腕を組む。
「声が本物でも」
「本人とは限らない」
「逆に」
「本人の可能性も」
「捨てられない」
「最悪だな」
「そうだ」
ガルムが言った。
「だから」
「すぐに確かめようとするな」
ヴェスパーは。
何も答えなかった。
「ヴェスパー」
セレスが呼ぶ。
「ああ」
「今」
「何を考えていますか」
「行きたい」
正直。
その一言。
「門へ?」
「ああ」
「母親かもしれない」
「生きてるかもしれない」
「待ってるかもしれない」
拳。
強く握られる。
「でも」
「今は」
「行かない」
セレスは。
それ以上。
何も言わなかった。
「理由は」
ガルムが尋ねる。
ヴェスパーが。
師匠を見る。
「俺が」
「行きたいから」
「それだけで」
「全員を連れていけない」
「それに」
ノアが。
木彫りの狼を握る。
「声が本物か」
「まだ分からない」
「ああ」
「だから」
「聞く方法を探す」
ヴェスパーが答える。
「開ける前に」
ガルムは。
ゆっくり。
目を閉じた。
「……そうしろ」
その声には。
少しだけ。
安心が混じっていた。
---
イリスが。
紙の地図へ。
新しい線を書く。
「整理する」
「今分かってること」
レイラが。
嫌そうな顔。
「難しい話?」
「聞け」
「はい」
「一つ」
「六百四十年前」
「灰星現象が起きた」
「星が消え」
「灰が降り」
「黒火保持者が発生」
「三人が門を閉じた」
「二つ」
「黒火は」
「灰星の力じゃない」
「灰星との接続を」
「切った跡」
「三つ」
「その三人のうち一人の血筋が」
「ヴェスパーの母親へ続いてる」
「ただし」
「黒火そのものは遺伝しない」
「四つ」
「ヴェスパーは生まれた時から」
「何かと繋がっていた」
「それを」
「二十年以上前」
「ガルムが切った」
「結果」
「黒陽炎が残った」
「五つ」
「母親は」
「襲撃時に行方不明」
「死亡未確認」
「六つ」
「門の向こうが」
「今」
「母親の声を使っている」
「本人かどうか不明」
「七つ」
「オルディスが」
「ヴェスパーの黒陽炎を切り取り」
「別の器へ入れたことで」
「閉じていた門への道が」
「再び生まれた可能性」
「八つ」
「灰星は」
「ヴェスパーの」
「昔の名前を知ってる可能性が高い」
イリスが。
筆を止める。
「これ」
「かなりまずいね」
レイラが。
真顔で答える。
「八つもあれば」
「一つくらい」
「良い話ないのか」
「ある」
「何」
「ヴェスパーが」
「今」
「昔の名前を覚えてない」
全員。
イリスを見る。
「良いこと?」
ノアが尋ねる。
「今は」
「たぶん」
「向こうが呼んでも」
「本人がその名前を」
「自分だと認識できない」
「それが」
「防壁になるかもしれない」
ガルムが頷く。
「俺も」
「それを狙った」
ヴェスパーが。
顔を上げる。
「記憶を」
「消した?」
「違う」
ガルムの声が。
僅かに硬くなる。
「俺に」
「そんな力はねえ」
「切った時」
「お前の記憶が」
「星脈ごと」
「傷ついた」
「俺は」
「それを利用した」
「ヴェスパーと呼び」
「昔の名を」
「一度も口にしなかった」
「母親のことも」
「村のことも?」
「村は」
「お前自身が」
「覚えてた」
「母親の顔は」
「覚えてない」
「……ああ」
「俺が」
「思い出させなかった」
ヴェスパーの声が。
低くなる。
「どうして」
「向こうが」
「母親の名前や」
「お前の名を」
「記憶から辿る可能性を」
「恐れた」
「俺に」
「選ばせなかった」
「そうだ」
ガルムは。
逃げずに答えた。
「俺が」
「決めた」
誰も。
間へ入らない。
「怒ってるか」
ガルムが尋ねる。
「分からない」
「そうか」
「でも」
ヴェスパーは。
ガルムを見る。
「腹は立つ」
「そうか」
「俺の過去だ」
「ああ」
「俺の名前だ」
「ああ」
「俺の母親だ」
「ああ」
「全部」
「お前が」
「黙ってた」
「ああ」
ガルムは。
一度も。
言い訳しない。
ヴェスパーが。
立ち上がる。
セレスも。
反射的に動きかける。
だが。
止めない。
ヴェスパーは。
ガルムの前へ。
一歩。
二歩。
立つ。
そして。
拳。
ガルムの頬へ。
殴った。
鈍い音。
レイラが。
目を丸くする。
ノアも。
口を開ける。
ガルムは。
避けなかった。
そのまま。
顔だけ横へ向く。
「……痛えな」
「当たり前だ」
ヴェスパーの拳も。
少し赤くなっている。
「もっと」
「殴るか」
「いや」
「一回?」
「ああ」
「安いな」
「次に」
ヴェスパーは。
ガルムの胸元を掴む。
「また」
「俺のことを」
「俺に黙って決めたら」
「その時は」
「一回じゃ済まない」
ガルムは。
掴まれたまま。
ヴェスパーを見る。
長い。
沈黙。
「ああ」
「約束する」
「口だけじゃない?」
ノアが。
横から尋ねる。
ガルムが。
少年を睨む。
「何だ」
「最近」
「約束は」
「みんなで聞くことになってる」
レイラが。
笑い出す。
「いいぞノア!」
ガルム。
深く息を吐く。
「聞け」
全員を見る。
「俺は」
「ヴェスパーの過去について」
「今後」
「知ってることを」
「本人に隠して」
「勝手に決めない」
セレスが。
淡々と付け加える。
「危険が差し迫っている場合は」
「一時的な判断が必要です」
「細かいな」
「大事です」
「なら」
ガルム。
言い直す。
「緊急時を除く」
「その場合も」
「後で説明する」
ノアが。
満足そうに頷く。
「聞いた」
レイラ。
「私も」
イリス。
「記録は」
ガルムが睨む。
「するな」
「頭にだけ」
「ならいい」
ヴェスパーは。
ガルムの服を放した。
「それでいい」
---
アステルが。
静かに。
ガルムへ尋ねた。
「黒陽炎を」
「切る技術は」
「誰から」
ガルムが。
彼女を見る。
「そこも」
「気になるか」
「はい」
「私の因子は」
「重なったものを分ける」
「ヴェスパーさんの残火は」
「本人へ熱を返す」
「あなたは」
「繋がりを切る」
「似ています」
「違う?」
ガルムが。
僅かに笑う。
「良い目してる」
「俺のは」
「因子じゃねえ」
「技術?」
「ああ」
男は。
腰の剣へ触れる。
ヴェスパーが。
昔から見てきた剣。
装飾。
黒い。
狼の牙に似た金具。
「この剣は」
「普通の剣じゃない」
イリスが。
目を輝かせる。
「見せて」
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「目が言ってる」
「分解しない」
「信用できねえ」
「ひどい」
ガルムは。
剣を鞘ごと。
地面へ置く。
「これは」
「灰断ち」
空白の目が。
僅かに開く。
「まだ」
「残っていたのか」
「知ってるのか」
「ああ」
「六百年前」
「門を閉じた三人が」
「使った刃の一つ」
ヴェスパーが。
剣を見る。
「六百年前の武器?」
「刃は」
「何度も打ち直してる」
「残ってるのは」
「芯だけだ」
「誰から受け取った」
ガルムは。
少しだけ。
言葉を止める。
「俺の師匠」
レイラが。
身を乗り出す。
「お前にも師匠いたのか」
「当たり前だろ」
「どんな奴?」
「今はその話じゃねえ」
「今度聞く」
「覚えてたらな」
ヴェスパーが。
灰断ちを見る。
「じゃあ」
「俺の剣帯が」
「王都で黒い熱へ反応したのも」
「ああ」
「灰断ちの」
「同じ系統の素材が入ってる」
「俺に」
「ずっと」
「持たせてた?」
「お前の黒陽炎が」
「暴れた時の」
「抑えだ」
「それも」
「黙って」
「……ああ」
ヴェスパーの拳が。
少し上がる。
ガルムが。
一歩下がった。
「待て」
レイラが。
腹を抱えて笑う。
「学習した!」
「殴られた直後だからな!」
ヴェスパーは。
拳を下ろす。
「これは」
「今度にする」
「助かる」
---
「残火は」
イリスが尋ねる。
「黒陽炎と関係ある?」
「分からん」
ガルムが答える。
「俺が知ってる頃」
「ヴェスパーは」
「残火を使えなかった」
「いつから」
「十二か」
「十三くらい」
ヴェスパーが。
記憶を探る。
訓練。
ガルム。
剣。
ある日。
怪我をした。
自分ではない。
誰か。
熱。
身体の外へ漏れたものが。
分かった。
それを。
押し戻した。
最初の残火。
「俺は」
ガルムが言う。
「黒陽炎が」
「形を変えたと思ってた」
「今は?」
「違うと思ってる」
「なぜ」
「黒火は」
「繋がりを切る」
「残火は」
「熱を本人へ返す」
「方向が」
「真逆だ」
アステルが。
考える。
「でも」
「両方」
「混ざらない」
ガルム。
彼女を見る。
「そうだ」
「人と」
「人」
「人と星脈」
「違うものを」
「一つへしない」
「それは」
アステルが。
自分の手を見る。
自分の重圧。
重なった力を分ける。
「偶然でしょうか」
「さあな」
ガルムが。
ヴェスパーを見る。
「そいつが」
「何者なのか」
「そこは」
「俺にも」
「分からん」
ヴェスパーが。
小さく言う。
「俺は俺だ」
ガルムの口元が。
僅かに上がる。
「ああ」
「それだけは」
「俺も知ってる」
---
休憩所。
しばらく。
誰も話さない。
風。
黒い灰。
リクの呼吸。
井戸の水。
そして。
ノアが。
木彫りの狼を弄りながら。
口を開く。
「ガルム」
「何だ」
「ヴェスパーのお母さん」
ガルムの目が。
僅かに揺れる。
「どんな人だった?」
ヴェスパーも。
何も言わず。
ガルムを見る。
男は。
一瞬。
困った顔をした。
「それ」
「必要か」
「必要」
ノア。
即答。
「何で」
「死んだか」
「生きてるか」
「それだけじゃ」
「その人が」
「どんな人か分からない」
ガルムは。
言葉を失う。
王都。
記録。
死亡理由。
本人意思。
仲間の言葉。
一つの事実だけで。
人を。
残さない。
「そうだな」
ガルムは。
遠い目をする。
「口が悪かった」
レイラが。
一瞬で笑う。
「ガルムが言う?」
「お前よりはましだ」
「他には」
ノアが促す。
「料理は」
「下手だった」
「それ」
「悪口しかない」
「待て」
ガルムが。
少し考える。
「笑うと」
「怖かった」
「さらに悪い」
「違う」
ガルムの声が。
少し。
柔らかくなる。
「普段」
「愛想がなかった」
「でも」
「笑う時だけ」
「急に」
「子どもみたいな顔になった」
ヴェスパーは。
目を閉じる。
顔は。
思い出せない。
それでも。
少しだけ。
声のない輪郭。
「強かった?」
ノアが尋ねる。
「強かった」
「剣?」
「短刀」
「二本」
セリカが。
僅かに反応する。
「投げる?」
「投げた」
「上手い?」
「俺より」
「お前より?」
レイラが笑う。
「本当に?」
「昔はな」
「へえ」
「何だその顔」
「ガルムにも」
「負ける相手いたんだな」
「山ほどいる」
「今も?」
「お前」
「喧嘩売ってるか」
「少し」
ヴェスパーの口元が。
ほんの僅かに緩む。
「俺に」
ガルムが。
彼を見る。
「似てた?」
ヴェスパーの質問。
ガルムは。
首を横に振る。
「全然」
「そうか」
「でも」
「一つだけ」
「何」
ガルムは。
少し。
笑った。
「誰かを守ろうとすると」
「自分を数から抜く」
ヴェスパーが。
嫌そうな顔をする。
レイラ。
セレス。
ノア。
イリス。
全員。
同じ顔で。
ヴェスパーを見る。
「……何だ」
「遺伝?」
レイラが言う。
「やめろ」
ガルムが。
笑った。
「だから」
「俺は」
「あいつに」
「一度」
「言った」
『お前が死んだら』
『守られた側が』
『一生』
『自分のせいだと思うぞ』
「そしたら?」
ノアが聞く。
「殴られた」
ヴェスパーが。
吹き出した。
初めて。
声を出して。
笑った。
ガルムが。
その顔を見る。
一瞬。
目を細める。
何か。
昔の誰かを。
重ねたのかもしれない。
「……似てねえって」
「言っただろ」
「今」
「何も聞いてない」
「うるせえ」
---
だが。
その時。
リクが。
急に。
目を開いた。
「――っ」
アステルが。
すぐに横へ。
「リク?」
青年。
呼吸。
速い。
「夢?」
セレスが。
駆け寄る。
「何が見えました」
リクは。
何かを。
言おうとする。
声が。
うまく出ない。
「ゆっくり」
ノアが言う。
「命令はない」
「自分の言葉で」
リクの瞳が。
ヴェスパーへ向く。
「……黒」
ヴェスパーの胸。
僅かに反応。
「黒い」
「何が」
「火」
「オルディス?」
リクが。
首を横に振る。
「先生」
「じゃない」
「どこで見た」
リクの手が。
震える。
「研究所」
アステルの表情が。
変わる。
「どの研究所」
「黒翼?」
「……もっと」
「前」
「前?」
「俺が」
青年は。
額を押さえる。
「まだ」
「個体じゃなかった時」
ノアが。
静かに。
耳を向ける。
「名前」
「リク」
「違う」
リクが。
苦しそうに言う。
「誰かが」
「呼んでた」
ノアの耳が。
強く立つ。
「何て」
「分からない」
「でも」
「空」
青年の目から。
涙が一筋。
「黒い星」
ガルムが。
立ち上がった。
「何だと」
リクが。
怯える。
アステルが。
すぐに彼の前へ入る。
「怒っていません」
「大丈夫」
ガルムも。
自分が強く出たことに気付き。
息を吐く。
「悪い」
「続けろ」
リクは。
ゆっくり。
記憶を探す。
「黒翼に」
「連れていかれる前」
「空が」
「一度」
「暗くなった」
「いつ」
イリスが尋ねる。
「分からない」
「何歳」
「たぶん」
「七」
「今は」
「二十……」
言葉が止まる。
自分の年齢すら。
確信がない。
セレスが。
無理に続けさせない。
「見たのは」
「星が消える現象?」
リクが。
首を横へ。
「星は」
「消えなかった」
「じゃあ」
「黒い星が」
「増えた」
全員の表情が。
変わった。
「増えた?」
ノア。
「一つ?」
「……たくさん」
リクが。
天井を見る。
「空が」
「目みたいに」
「いっぱい」
息を呑む。
「その後」
「黒翼の人が」
「来た」
ガルムが。
完全に。
表情を変える。
「オルディスは」
「何年前から」
「灰星を知ってた?」
セリカが尋ねる。
「知らんはずだ」
「なら」
イリス。
「黒翼のさらに前の研究者が」
「リクを見つけてた?」
アステルが。
リクの手を握る。
「あなたも」
「灰星に」
「見つけられた?」
青年。
目を閉じる。
「分からない」
ノアが。
小さく答える。
「それでいい」
---
ガルムは。
休憩所の外へ出た。
黒い灰。
空。
一つ消えた星。
「ガルム」
ヴェスパーが。
後を追う。
今度は。
セレスも止めない。
すぐ近く。
全員から見える場所。
「何だ」
「何を考えてる」
ガルムは。
しばらく。
答えなかった。
「二十四年前」
「お前の村だけだと」
「思ってた」
「何が」
「灰星が」
「人を探した場所」
ヴェスパーの瞳が。
細くなる。
「リクも?」
「可能性がある」
「アステルは」
「分からん」
「黒翼にいた全員が」
「灰星と関係してる?」
「そこまでは」
「飛躍だ」
「でも」
ガルムは。
空を見る。
「黒翼が」
「何を元に」
「器を選んでたか」
「そこは」
「洗い直す必要がある」
「オルディスが」
「知ってる?」
「知らずに」
「選別資料だけ使ってた可能性がある」
「誰が作った資料」
「古い研究者」
「また」
「そいつらか」
ガルム。
頷く。
「王都より」
「黒翼より」
「星環教会より」
「もっと前」
「全部」
「繋がってる?」
ヴェスパーが。
自分の黒陽炎へ触れないよう。
拳を握る。
「分からん」
ガルムは答える。
「でも」
「一つだけ」
「今なら」
「言える」
「何」
「お前の村を襲った奴らは」
「ただ」
「お前一人を」
「欲しがってたんじゃない」
「じゃあ」
「灰星現象を」
「地上で再現したかった」
ヴェスパーの呼吸が。
止まる。
「俺を使って?」
「ああ」
「どうして」
「分からん」
「でも」
ガルムは。
拳を握る。
「あの夜」
「村の地下に」
「簡易星脈炉が」
「仕込まれてた」
「村に?」
「ああ」
「外から」
「持ち込まれた」
「誰が」
「調べる前に」
「全部燃えた」
「それが」
「門を開こうとした?」
「おそらく」
「母親は」
「それを止めた?」
ガルムは。
目を閉じる。
「かもしれん」
「だから」
「いなくなった?」
「……ああ」
まだ。
答えは。
一つにならない。
母親は。
死んだ。
連れ去られた。
門へ消えた。
自分から。
何かを止めに行った。
どれも。
可能性。
「ガルム」
「何だ」
「もし」
ヴェスパーの声が。
少しだけ震える。
「母親が」
「本当に」
「向こうにいるなら」
ガルムは。
彼を見る。
「俺は」
「助けたい」
「ああ」
「でも」
「また」
「全部」
「俺が一人でやろうとしたら」
ガルムの眉が。
僅かに上がる。
「殴ってくれ」
「俺が?」
「ああ」
「さっきの仕返しか」
「違う」
ガルムは。
少し笑った。
「分かった」
「ただ」
「その前に」
「俺が一人で行こうとしたら」
ヴェスパーが。
師匠を見る。
「俺も殴る」
「お前」
「師匠を殴るの好きになってないか」
「一回しか殴ってない」
「今日だけでな」
二人。
少しだけ。
笑う。
---
昼前。
灰が。
一度。
止んだ。
黒い雲。
まだない。
空。
消えた星は。
昼には見えない。
それでも。
ヴェスパーの胸には。
位置が分かる。
見えないのに。
そこに。
穴があるように。
「出発する」
ガルムが言う。
「灰都まで」
「あとどのくらい」
ノアが尋ねる。
「普通に歩けば」
「三時間」
「普通じゃない人は?」
「誰の話だ」
全員が。
ガルムとヴェスパーを見る。
二人とも。
同時に。
「何だ」
レイラが。
腹を抱える。
「駄目だ」
「似すぎてる」
「黙れ」
また。
二人。
同時。
ノアまで。
笑い出す。
その笑いを。
空白が。
少し離れた場所から。
不思議そうに聞いていた。
「空白」
ノアが呼ぶ。
「何だ」
「笑わないの?」
「何が面白い」
「同じこと言ってる」
女は。
ガルム。
ヴェスパー。
二人を見る。
少し。
考える。
そして。
ほんの僅か。
口元を緩めた。
「……確かに」
ガルムが。
嫌そうな顔をする。
「お前まで」
「六百年ぶりに」
「面白いものを見た」
「もっと良いもの見ろ」
---
一行が。
灰都へ向かって。
再び歩き始める。
リク。
担架。
アルド。
アステル。
すぐ隣。
ノアは。
ヴェスパーの横。
ガルムは。
少し前。
そして。
ヴェスパーは。
今までとは違う目で。
その背中を見る。
師匠。
命の恩人。
自分の過去を。
隠した男。
自分の名を。
ヴェスパーと呼び始めた男。
怒っている。
感謝もしている。
許したわけではない。
嫌いになったわけでもない。
それでいい。
一つへ。
まとめなくていい。
王都で。
何度も学んだ。
違う感情を。
同じ答えへしない。
「ガルム」
「あ?」
「一つ」
「まだ聞いてない」
男が。
歩きながら振り返る。
「何だ」
「母親は」
ヴェスパーが。
少しだけ。
言いにくそうに。
「俺のこと」
「どう呼んでた」
ガルムの足が。
止まる。
全員も。
少し遅れて止まる。
「昔の名前を」
「言わなくていい」
「呼び方」
「何か」
「なかったか」
ガルムは。
長い間。
答えなかった。
そして。
本当に。
遠い記憶を探すように。
目を細める。
「……ちび狼」
ヴェスパーが。
固まった。
レイラが。
一秒。
二秒。
耐えた。
三秒。
「ぶっ!」
「笑うな」
「無理!」
「ちび狼!」
「レイラ」
「悪い!」
「でも!」
ノアも。
口元を押さえる。
アステルまで。
僅かに笑っている。
セレスも。
顔を背けた。
ヴェスパーが。
ガルムを見る。
「他に」
「なかったのか」
「お前」
「小さかったし」
「耳ばっかでかかった」
ノアが。
自分の兎耳へ触れる。
「僕みたい?」
「お前ほどじゃねえ」
「そう」
ヴェスパーが。
深くため息を吐く。
「……ちび狼」
その言葉。
不思議と。
嫌ではなかった。
顔は。
思い出せない。
声も。
まだ。
はっきりとは。
それでも。
誰かが。
幼い自分を。
そう呼んで。
笑っていた。
そんな。
温度だけが。
胸の奥へ。
少しだけ。
戻る。
残火が。
反応する。
だが。
黒ではない。
赤。
小さな。
暖かい熱。
ガルムが。
それを見る。
「今のは」
「何だ」
ヴェスパーが。
胸へ手を置く。
「分からない」
「そうか」
ノアが。
その音を聞く。
「でも」
「嫌な音じゃない」
「ああ」
ヴェスパーも。
小さく答えた。
「俺も」
「そう思う」
---
だが。
さらに後方。
誰も。
見ていない山の向こう。
崩れた灰星観測所。
地下。
閉じた門。
黒い亀裂。
一度。
静かに。
光る。
そして。
門の向こう。
女の声。
今度は。
ヴェスパーへ届かない。
ガルムにも。
ノアにも。
誰にも。
聞こえない。
『……ちび狼』
同じ呼び方。
柔らかい。
懐かしい。
その直後。
別の声。
無数。
低い。
遠い。
それが。
女の声へ重なる。
『名前を』
『思い出させろ』
『門は』
『内側から』
『開く』
黒い灰が。
再び。
空へ。
舞い上がった。
降るのではない。
地上から。
空へ。
逆に。
昇っていく。
そして。
昼の空。
見えないはずの星の場所に。
一瞬だけ。
黒い輪が。
開いた。
---
灰都。
外縁監視所。
一人の男が。
空を見上げていた。
傷だらけの外套。
古い双眼鏡。
ハルト。
「……何だ」
昼。
空。
黒い点。
その横。
灰色の通信灯。
一つ。
二つ。
三つ。
ガルムの帰還信号。
「やっと」
「帰ってくるか」
その直後。
別の警報。
地下脈。
灰都の古い星脈観測器。
存在しないはずの熱。
一つ。
ハルトの表情が。
変わる。
「待て」
表示。
『未登録熱紋』
『接近』
「王都から?」
違う。
北。
山ではない。
もっと。
西。
旧街道の先。
人型。
一つ。
歩いてくる。
星脈反応。
なし。
体温。
あり。
心拍。
あり。
名前。
登録なし。
そして。
その胸。
僅かな。
黒い熱。
ハルトは。
即座に。
警報鐘へ手を掛ける。
だが。
その人物は。
灰都の門から。
かなり離れた場所で。
止まった。
両手。
武器。
なし。
そして。
門衛へ。
一言。
「ヴェスパー」
ハルトの手が。
止まる。
「何だと」
見知らぬ人物。
灰色の長い髪。
ぼろぼろの衣服。
顔。
若い男にも。
女にも見える。
その瞳。
真っ黒。
「ヴェスパーを」
「知ってるのか」
人物は。
首を横に振る。
「知らない」
「じゃあ」
「なぜ」
「名前を」
人物は。
自分の胸へ手を置く。
そこ。
黒い火。
小さく。
灯る。
「これが」
「呼んでる」
ハルトの顔から。
完全に。
笑みが消えた。
「お前」
「誰だ」
長い沈黙。
人物は。
困ったように。
答えた。
「……分からない」
そして。
もう一言。
「でも」
「帰れって」
「言われた」
灰都の門前。
ガルムたちが。
まだ戻る前。
新しい。
名前のない帰還者が。
一人。
先に。
到着していた。




