第3章 第25話 「門の向こう側」
『返せ』
地の底から。
その声が届いた。
一度。
低く。
重く。
耳で聞いたというより。
骨へ直接。
打ち込まれたような音だった。
「……返せって」
ノアが呟く。
ヴェスパーの胸。
黒陽炎が。
ゆっくり。
一度だけ脈打つ。
「俺に?」
「うん」
「何を」
ノアは。
答えられなかった。
その時。
遠く。
山の方角から。
もう一つの声。
「待て!」
荒い。
低い。
聞き覚えのある声。
ガルム。
ヴェスパーの表情が変わる。
「ガルム……」
山。
灰星観測所。
黒い灰。
そして。
地下の門。
セリカが。
即座に地図を広げる。
「ここから観測所まで」
「戻れば二十分以上」
「ガルムは」
アルドが尋ねる。
「どこにいる」
「分からない」
セリカは。
短距離熱波信号を確認する。
「さっきの返答地点は」
「観測所の北東」
「なら」
レイラが戦斧を握る。
「戻るか?」
誰も。
すぐには答えなかった。
ほんの少し前。
ヴェスパー自身が。
地下へ入らないと決めた。
自分の過去を知るために。
仲間全員を危険へ引きずり込まない。
その判断は。
変わっていない。
だが。
状況が変わった。
空白が。
観測所へ残っている。
ガルムが。
そこへ向かっている。
そして。
門の向こうから。
何かが。
ヴェスパーへ返せと要求している。
「ヴェスパー」
セレスが呼ぶ。
「はい」
「今」
「どうしたいですか」
以前なら。
止めた。
行くなと言った。
だが。
今のセレスは。
まず。
本人へ聞く。
ヴェスパーは。
山を見る。
「戻りたい」
「理由は」
「空白を」
「一人で残した」
「ガルムも来る」
「それと」
胸へ手を置く。
「俺に関係してる」
「分かりました」
セレスは頷く。
「では」
「戻る条件を決めます」
レイラが。
少し笑う。
「行くなとは言わないんだな」
「言っても」
「この人は行きます」
「それはそうだ」
「だから」
セレスは。
ヴェスパーから視線を外さない。
「行く方法を」
「一緒に決めます」
ヴェスパーが。
小さく息を吐く。
「条件は」
「一つ目」
「地下へ入りません」
「ああ」
「二つ目」
「黒陽炎へ」
「自分から触れようとしない」
「ああ」
「三つ目」
「呼ばれても」
セレスは。
少し言葉を選ぶ。
「知らない名前には」
「一人で返事をしない」
ノアが。
すぐに頷く。
「僕も聞く」
「四つ目」
「何かが起きたら」
「撤退を」
「ヴェスパーさん一人で拒否しない」
レイラが。
腕を組む。
「これ重要だな」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
「なら」
セレスが言う。
「私は戻ります」
アステル。
「私も」
イリス。
「観測記録を」
「もう一度確認したい」
セリカ。
「ガルムと合流できるなら」
「戻る価値はある」
アルドは。
担架を見る。
リク。
まだ。
眠っている。
「俺は」
「リクを連れて」
「少し離れた位置に残る」
「門へ近付けない方がいい」
アステルが。
リクを見る。
「黒翼の星環核は」
「もうありません」
「でも」
「身体には」
「まだ研究所の痕跡がある」
セレスが頷く。
「賛成です」
「アルド」
ヴェスパーが言う。
「頼む」
「ああ」
アルドは。
それだけ答える。
レイラが。
戦斧を持ち直した。
「なら」
「戻るぞ」
ノアが。
山を見る。
「間に合うかな」
セリカは。
灰色の外套を翻す。
「間に合わせる」
---
山道。
来た時より。
黒い灰が増えていた。
雪のように。
静かに降る。
だが。
冷たくない。
熱くもない。
手へ乗れば。
僅かに。
輪郭が薄くなる。
そして。
数秒後。
何も残さず消える。
「星脈に」
イリスが言う。
「触れると消えるって」
「記録にあったよね」
アステルが。
黒い灰へ。
重圧を薄く掛ける。
「重さは」
「ほとんどありません」
「灰なのに?」
レイラが尋ねる。
「はい」
「というより」
アステルは。
僅かに眉を寄せる。
「落ちているのではなく」
「こちらへ」
「位置を合わせているような」
「もっと分からなくなった」
レイラが言う。
ノアの耳が。
何度も山へ向く。
「門の音は」
ヴェスパーが尋ねる。
「まだある」
ドン。
遠い。
だが。
確かに。
「増えてる?」
「ううん」
「同じ」
「ずっと」
「同じ間隔で」
ノアは。
自分の胸へ手を置く。
「心臓みたい」
ヴェスパーの黒陽炎。
ドン。
門。
一拍。
ヴェスパー。
一拍。
完全には同じではない。
だが。
少しずつ。
近付いている。
「ノア」
「うん」
「俺の心拍と」
「門の音」
「合わせるな」
「分かってる」
「聞くだけ」
ノアは。
そう言った。
---
観測所が見える。
だが。
先ほどとは。
景色が違っていた。
石造りの建物。
その周囲。
地面に。
黒い円。
焼けた跡ではない。
草が。
その輪の上だけ。
存在していない。
「止まれ」
セリカが手を上げる。
全員が。
足を止める。
「黒い跡」
「増えてる」
イリスが。
紙の野帳を開く。
先ほど記録した場所。
山道にあった。
一つだけの黒い跡。
今。
観測所の周囲。
七つ。
大きさ。
人一人が立てるほど。
「近付くな」
ヴェスパーが言う。
自分の胸。
黒陽炎。
さっきより。
強く引かれる。
その方向。
七つの円。
ではない。
さらに。
地下。
「下だ」
ノアが。
小さく言う。
同時。
観測所の入口が。
内側から開いた。
「遅い」
女。
空白。
灰色の外套。
顔色が。
前より悪い。
「無事か」
ヴェスパーが尋ねる。
「まだ」
「その言い方」
レイラが眉を寄せる。
「危ないってことだろ」
「そうだ」
空白は。
観測所の奥を見る。
「門の圧が」
「上がっている」
「ガルムは」
セリカが尋ねる。
「来た」
全員の表情が変わる。
「どこに」
空白は。
観測所内部。
地下へ続くはずの。
古い封鎖扉を見る。
「下だ」
ヴェスパーの目が。
鋭くなる。
「地下へ入った?」
「ああ」
「止めなかったのか」
「止めた」
「それでも?」
「行った」
レイラが。
ヴェスパーを見る。
「似てるな」
「今それを言うな」
空白が。
少しだけ。
苦笑した。
「弟子か」
「たぶん」
「たぶん?」
「説明が長い」
「なら」
「後で聞く」
空白は。
ヴェスパーの黒陽炎を見る。
「お前は」
「下へ来るな」
「ガルムも」
「そう言った」
「なら従え」
「理由を」
女の目が。
僅かに細くなる。
「門の向こうは」
「お前を知っている」
「俺は」
「向こうを知らない」
「だから危険だ」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
ヴェスパーは。
黙る。
その時。
地下。
ドン。
観測所全体が。
大きく揺れる。
天井から。
埃。
黒い灰。
一緒に降る。
「ガルム!」
ヴェスパーが。
地下扉へ向かう。
空白が。
腕を掴んだ。
「行くな!」
「中にいる!」
「だからだ!」
「ガルムは」
女が。
初めて。
声を荒らげる。
「お前を」
「門から遠ざけるために」
「自分で入った!」
ヴェスパーが。
足を止める。
「何を」
「昔と同じだ」
「昔?」
「村で」
空白の言葉に。
ヴェスパーの瞳が揺れる。
「知ってるのか」
女は。
ヴェスパーを見る。
「少し」
「何を」
「ガルムが」
「一度」
「ここへ来た」
全員。
静かになる。
「いつ」
セリカが尋ねる。
「二十年以上前」
「子どもを抱えていた」
ヴェスパーの息が。
止まる。
「俺?」
空白は。
答えない。
それが。
答えだった。
---
二十年以上前。
灰星観測所。
雨。
今より。
若いガルム。
衣服。
焼けている。
腕。
血。
そして。
胸元。
小さな子ども。
意識がない。
「門を開けろ」
若いガルムが。
空白へ言う。
「嫌だ」
「こいつが死ぬ」
「開ければ」
「もっと死ぬ」
「なら」
「門の力を使うんじゃない」
ガルムは。
子どもを。
床へ寝かせる。
胸。
青白い。
細い線。
星脈のようなものが。
子どもの身体から。
どこか。
遠くへ繋がっている。
「これを」
「切る」
空白の顔が。
変わる。
「正気か」
「この子は」
「向こうに」
「見つけられている」
「名は」
「もう呼ぶな」
「何と言う子だ」
「聞くな」
「ガルム」
空白が。
男の腕を掴む。
「切れば」
「この子の星脈も」
「壊れる」
「分かってる」
「因子が」
「どう変わるか」
「分かってる」
「死ぬかもしれない」
若いガルム。
答えない。
ただ。
小さな子どもの。
手を握る。
「それでも」
「向こうへ」
「持っていかれるよりはいい」
空白は。
ガルムを見る。
「誰の子だ」
ガルムの顔が。
僅かに歪む。
「……俺にも」
「全部は分からん」
「村は」
「どうなった」
「燃えた」
「誰に」
ガルムは。
一度。
空を見る。
黒い星。
「人に」
「それだけじゃない」
「何を見た」
「門が」
「向こうから開きかけた」
空白。
息を呑む。
「そんなはずは」
「だから」
ガルムは。
剣を抜く。
黒い。
細い熱。
刃に。
まとわりつく。
「一度」
「こいつの繋がりを切る」
「名前を」
「別のものへする」
「名前まで?」
「名を辿られる」
「証拠は」
「ない」
「なら」
「でも」
ガルムは。
子どもを見る。
「賭ける」
空白は。
長く。
黙った。
そして。
空白席の下。
古い封印機構を開く。
「一度だけだ」
ガルムは。
子どもの胸へ。
刃を近付ける。
切るのは。
肉ではない。
熱。
繋がり。
星脈。
空白が。
門の圧を抑える。
ガルムが。
青白い線へ。
黒い刃を振り下ろす。
子どもが。
叫ぶ。
遠い。
空の向こう。
何かが。
名を呼ぶ。
ガルムが。
子どもの耳を塞ぐ。
「聞くな!」
「返事をするな!」
「今から」
「お前の名前は――」
記憶。
そこで。
切れる。
---
現在。
観測所。
ヴェスパーが。
何も言えず。
立っている。
「その先は」
「知らない」
空白が言う。
「ガルムは」
「子どもを連れて出た」
「名前は」
ノアが尋ねる。
「聞かなかった?」
「聞くなと言われた」
「だから」
「聞かなかった」
ヴェスパーは。
胸へ手を置く。
「ヴェスパーという名は」
「ガルムが?」
「それも」
「知らない」
セリカが。
ゆっくり息を吐く。
ガルムが。
ヴェスパーの過去を。
かなり深く知っていた。
知っていたどころではない。
本人が。
その場にいた。
黒陽炎が生まれた瞬間に。
「帰ったら」
レイラが。
低く言う。
「あの親父」
「絶対に」
「全部吐かせる」
「本人が」
ヴェスパーが。
地下を見る。
「今」
「下にいる」
「だから!」
セレスが。
ヴェスパーの前へ立つ。
「追わないでください」
「でも」
「あなたを守るために」
「ガルムさんが地下へ行ったのなら」
「あなたが追えば」
「意味がなくなります」
ヴェスパーの拳が。
強く握られる。
「また」
「誰かが」
「俺のために」
「残る」
「そうですね」
セレスは。
否定しない。
「だから」
「帰ってきた時」
「怒ってください」
「今は?」
「待ちます」
ヴェスパーは。
目を伏せる。
待つ。
また。
待つ。
自分にとって。
剣を振るうより。
ずっと難しいこと。
「……分かった」
空白が。
ヴェスパーを見る。
「変わったな」
「昔を知ってるみたいに言うな」
「子どもの頃しか知らない」
「なら」
「変わって当然だ」
レイラが。
小さく笑った。
---
地下。
その頃。
ガルムは。
一人。
古い階段を下りていた。
剣。
右手。
左手には。
小さな灰色の灯。
壁。
古い刻印。
六百年前。
三人の黒火保持者が。
残した。
黒い線。
「変わってねえな」
ガルムが呟く。
さらに。
下。
円形の大扉。
星環ではない。
石。
金属。
そして。
何か。
黒い。
物質。
扉。
中央。
一本の亀裂。
以前には。
なかった。
「オルディス」
ガルムの声が。
低くなる。
亀裂の中。
青白い熱。
そして。
黒。
二つが。
混ざらず。
並んでいる。
ヴェスパーから。
切り取られた黒陽炎。
遠く。
別の場所から。
門へ戻ろうとしている。
「馬鹿が」
ガルムが。
剣を抜く。
「研究者ってのは」
「何で」
「触るなってものに」
「触るんだろうな」
『返せ』
門の向こう。
声。
「嫌だ」
ガルムが。
即答する。
『返せ』
「誰のものだ」
沈黙。
『返せ』
「それしか」
「喋れねえのか」
剣へ。
熱。
黒。
だが。
ヴェスパーの黒陽炎とは。
少し違う。
ガルムの熱は。
灰色に近い黒。
「お前が」
「欲しがってるものは」
ガルムは。
扉へ近付く。
「もう」
「あいつの中じゃ」
「お前のものじゃねえ」
『返せ』
「拒否する」
扉。
ドン。
衝撃。
ガルムの足が。
一歩下がる。
「……相変わらず」
「話を聞かねえな」
亀裂。
一瞬。
向こう側。
見える。
空。
ではない。
星。
でもない。
広い。
黒い場所。
そこに。
無数の。
光。
その一つ一つへ。
細い線。
地上。
星脈。
人。
名前。
繋がっている。
そして。
一つだけ。
切れた線。
その先。
ヴェスパー。
ガルムの顔から。
笑みが消える。
「やっぱり」
「まだ」
「探してやがったか」
その時。
別の線。
新しい。
細い黒。
門へ。
繋がる。
ガルムが。
目を細める。
「これは」
ヴェスパーではない。
別の場所。
観測塔。
オルディス。
「……おい」
ガルムの声が。
本気で低くなる。
「何を」
「入れた」
---
王都外。
古い観測塔。
オルディスは。
床へ片膝をついたまま。
黒い炎を見る。
「戻る先」
観測硝子。
表示。
空間座標。
星脈座標。
どれも。
一致しない。
それでも。
黒陽炎だけが。
明確に。
一つの方向へ進んでいる。
「門」
男が呟く。
研究員が。
床で。
意識を取り戻す。
「先生……」
「起きたか」
「装置が」
「全部」
「死んでいます」
「星環核も?」
「はい」
五人の黒翼兵。
胸。
青白い核。
沈黙。
オルディスは。
彼らを見る。
「命令を受けられるか」
反応なし。
「個体十一」
反応なし。
「個体十七」
反応なし。
それでも。
一人。
ゆっくり。
顔を上げる。
仮面。
「……音が」
「何だ」
黒翼兵。
初めて。
命令ではない声。
「静かです」
オルディスが。
動きを止める。
携行型星環核。
停止。
命令網。
停止。
だから。
黒翼兵の中にいた。
人間の声が。
表へ出ている。
「名前は」
オルディスが尋ねる。
黒翼兵は。
長く。
考える。
「……分かりません」
「登録番号」
「要りません」
研究員が。
息を呑む。
オルディスは。
何も言わない。
「先生」
「核を再起動しますか」
「待て」
初めて。
オルディスが。
即座に再接続しなかった。
黒翼兵は。
自分の胸へ触れる。
「静か」
「怖いか」
「分かりません」
「命令が欲しいか」
長い沈黙。
「……欲しくない」
オルディスの表情が。
僅かに変わる。
アステルの言葉。
『その人が』
『何になりたいかを聞いていません』
「そうか」
研究員が。
困惑する。
「先生?」
「核は」
オルディスが言う。
「今は再起動するな」
「ですが」
「命令だ」
黒翼兵が。
僅かに。
反応する。
オルディスは。
その反応を見て。
自分で。
嫌そうに眉を寄せた。
「……違う」
「提案だ」
研究員は。
さらに困惑する。
「先生」
「どうされたんですか」
「黙れ」
「それは命令ですか」
「今のは命令だ」
黒翼兵の仮面の奥。
ほんの僅か。
何かが。
笑ったような。
気がした。
だが。
直後。
黒陽炎。
オルディスの左腕から。
地面へ。
強く流れ込む。
「っ!」
腕。
黒い亀裂。
皮膚ではない。
熱紋。
「先生!」
「触るな!」
黒陽炎が。
塔を抜け。
地下へ。
遠く。
遠く。
灰星観測所へ。
門へ。
「まずい」
オルディスが。
初めて。
はっきり言った。
「これは」
「戻っているんじゃない」
「道を」
観測硝子。
黒い線。
一本。
もう一本。
「作っている」
---
灰星観測所。
床。
黒い亀裂。
一本だった。
それが。
ゆっくり。
二本へ分かれる。
「増えた」
イリスが言う。
空白の顔が。
強張る。
「外へ」
「全員」
「今すぐ」
「ガルムは!」
ヴェスパーが叫ぶ。
「下にいる!」
「分かっている!」
「それでも」
「離れろ!」
地下。
ドン。
さらに。
もう一つ。
音。
違う。
門の向こうからではない。
こちら側。
ガルムの剣。
ガン!
何かを。
叩いている。
「ガルム!」
ノアが。
床へ耳を向ける。
「生きてる!」
ヴェスパーが。
地下扉へ進む。
セレスが腕を掴む。
「約束!」
ヴェスパーの足が止まる。
「……分かってる」
「でも」
「聞こえるなら」
「呼べ!」
ノアが。
地下へ向かって。
大きく息を吸う。
「ガルム!」
返事。
すぐ。
来ない。
一秒。
二秒。
三秒。
「ガルム!」
遠く。
「――聞こえてる!」
ヴェスパーの肩から。
僅かに力が抜ける。
ガルムの声。
地下。
荒い。
『上へ行け!』
「お前も!」
ヴェスパーが叫ぶ。
『後で行く!』
「それ」
レイラが小声で言う。
「だいたい帰らない奴の言い方だな」
ヴェスパーの目が。
険しくなる。
「ガルム!」
『何だ!』
「帰ってこい!」
沈黙。
地下。
剣。
何かが。
ぶつかる音。
『命令か』
「違う!」
ヴェスパーは。
拳を握る。
「頼んでる!」
地下。
長い沈黙。
そして。
小さな笑い。
『……そうか』
ガルムの声。
少し。
柔らかい。
『なら』
『帰る』
ヴェスパーの呼吸が。
僅かに止まる。
「本当に?」
『うるせえ!』
レイラが。
笑った。
「師弟だな」
「どこが」
「似てる」
「似てない」
空白が。
二人のやり取りを聞き。
僅かに。
目を細める。
「昔は」
「ガルムの方が」
「もっと酷かった」
レイラが。
即座に食いつく。
「詳しく」
「今じゃない」
「後で絶対聞く」
---
「退避する!」
セリカが叫ぶ。
観測所。
さらに揺れる。
黒い円。
外。
七つ。
今。
八つ。
九つ。
「増えてる!」
イリスが。
七冊の観測記を。
石箱へ入れる。
「空白!」
「あなたも!」
女は。
地下を見る。
「私は残る」
「駄目」
ノアが。
即座に言う。
空白が。
少年を見る。
「門を見る者が」
「必要だ」
「ずっと?」
「ああ」
「六百年も見た」
「だから」
「もう」
ノアは。
真っ直ぐ言った。
「別の人が見てもいい」
空白は。
答えない。
「誰が」
「みんなで」
「この子」
女が。
僅かに笑う。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
ノアが答える。
「一人で聞くのが」
「無理だったから」
「みんなで聞くようにした」
「門も」
「同じじゃないの?」
空白。
言葉を失う。
アステルが。
そっと言う。
「役割は」
「一人の身体へ」
「入れ続けなくていいです」
王都。
ルクスの心臓。
自分自身。
リク。
同じことを。
何度も見た。
「見る役目を」
「分けましょう」
空白の手が。
微かに震える。
「私が離れれば」
「門の状態が」
「分からなくなる」
イリスが。
古い観測器を見る。
「残せる」
「星環は使わない」
「紙」
「機械式」
「熱を使わない警報」
アルドがいれば。
もっと早く作れる。
今は。
離れた場所で。
リクを守っている。
「今すぐ完全には無理」
イリスが続ける。
「でも」
「戻ってくる」
「今度は」
「あなた一人に」
「六百年分を押し付けない」
空白は。
長い間。
何も言わなかった。
「戻る保証は」
「ない」
「ない」
イリスは答える。
「でも」
「戻るって言う」
ヴェスパーも。
空白を見る。
「俺も」
「戻る」
「知りたいからか」
「それもある」
「でも」
「お前を」
「ここに置きっぱなしにしたくない」
空白の目が。
僅かに揺れた。
六百年。
観測しない者。
誰かが。
戻ると言ったことが。
あったのか。
「……考えておく」
「今決めろ」
レイラが言った。
「考えておくは」
「残る奴の言い方だ」
「お前は」
「本当に遠慮がないな」
「よく言われる」
「じゃあ」
ノアが。
空白の手を取る。
「一緒に出よう」
女は。
少年の手を見る。
小さい。
暖かい。
人間の手。
長い。
長い沈黙。
「少しだけ」
空白が言った。
「門から」
「離れてみる」
ノアが笑う。
「うん」
「少しでいい」
---
地下。
ガルム。
扉。
黒い亀裂。
「上がるか」
ガルムが。
剣を納めようとする。
その瞬間。
門。
向こう。
初めて。
『返せ』
以外の言葉。
『――ガルム』
男の動きが。
完全に止まる。
「……」
声。
知っている。
ガルムの顔から。
血の気が引く。
『ガルム』
「その声を」
剣を。
強く握り直す。
「使うな」
門の向こう。
女の声。
年齢。
分からない。
だが。
ガルムは。
知っている。
『まだ』
『守っているの』
「黙れ」
『あの子を』
「黙れ!」
門へ。
剣を振るう。
黒い亀裂。
火花。
『私の――』
「違う!」
ガルムの声が。
地下へ響く。
「お前じゃねえ!」
『名前を』
「言うな!」
門。
向こう。
笑い。
ではない。
悲しみ。
でもない。
音。
『なら』
『返して』
ガルムが。
歯を食いしばる。
「死んだ奴の声を」
「使って」
「何を返せってんだ」
『死んでいない』
ガルムの目が。
大きく開く。
門の亀裂。
向こう。
一瞬。
人影。
白い髪。
焼けた衣服。
腕。
そして。
ヴェスパーに。
どこか似た。
横顔。
「……あり得ねえ」
『ガルム』
男の呼吸が。
止まる。
『あの子を』
『返して』
ガルムは。
一歩。
後ろへ下がった。
生まれて初めて。
戦うためではなく。
恐怖で。
「お前は」
「死んだ」
『見たの?』
ガルム。
答えられない。
燃える村。
崩れた家。
血。
炎。
だが。
死体は。
見ていない。
「……くそ」
門。
ドン。
亀裂。
大きくなる。
ガルムは。
剣を鞘へ戻す。
「今は」
「付き合わねえ」
階段へ。
走る。
背後。
声。
『ガルム』
男は。
振り返らない。
『次は』
『あの子の名前で』
『呼ぶ』
ガルムの足が。
一瞬だけ止まる。
それでも。
上へ走った。
---
観測所。
「来る!」
ノアが叫ぶ。
地下扉。
ガン!
内側から。
一度。
二度。
「離れろ!」
レイラが。
扉の前へ。
戦斧を構える。
三度。
扉が。
大きく開く。
「邪魔だ!」
ガルムが。
飛び出してきた。
若くはない。
灰色混じりの髪。
外套。
傷。
右肩。
血。
「ガルム!」
ヴェスパーが。
前へ出る。
「お前!」
ガルムが。
ヴェスパーの顔を見る。
次。
胸。
黒陽炎。
表情が。
険しくなる。
「離れろ!」
「何があった」
「後だ!」
「昔」
「思い出した!」
ガルムの顔が。
一瞬。
止まる。
「村に」
ヴェスパーが言う。
「お前がいた」
沈黙。
ガルムは。
何も言わない。
「俺の繋がりを」
「切った」
「……ああ」
否定しなかった。
「名前も」
「変えたのか」
ガルムの目が。
ヴェスパーから逸れる。
「今は」
「それを」
「聞く時じゃねえ」
「なぜ!」
「向こうが!」
ガルムが。
初めて。
ヴェスパーへ怒鳴る。
「お前の昔の名前を!」
「知ってる!」
全員。
止まる。
ノアの耳が。
伏せられる。
「向こう」
「門の?」
「ああ」
「誰がいる」
ヴェスパーが尋ねる。
ガルムは。
すぐに答えない。
「ガルム」
「分からん」
「でも」
「声は」
男の拳が。
震える。
「知ってる」
「誰」
長い。
長い沈黙。
「お前の」
ガルムの声が。
掠れる。
「母親の声だ」
世界が。
一度。
静かになった。
---
「……母親?」
ヴェスパーが。
その言葉を。
うまく。
理解できない。
「死んだんじゃ」
「ああ」
「村で」
「ああ」
「なら」
「俺も」
ガルムが。
苦い顔をする。
「死んだと思ってた」
「死体は」
セレスが尋ねる。
ガルムは。
答えない。
「確認したんですか」
「……してない」
「どうして」
ヴェスパーの声が。
低くなる。
ガルムは。
目を閉じる。
「お前を」
「連れ出すので」
「精一杯だった」
ヴェスパーの拳が。
握られる。
怒り。
混乱。
期待。
恐怖。
全部。
同時に。
「生きてるのか」
「分からん」
ガルムが答える。
「向こうの声を」
「信じるな」
「でも」
「本物だった」
「声はな」
「なら!」
「声と!」
ガルムが。
ヴェスパーへ。
一歩近付く。
「本人は」
「同じじゃねえ!」
王都で。
何度も見た。
死者の声。
熱紋。
記録。
ルクス。
ドランの姉。
ノアの兄。
声がある。
だから。
本人だとは限らない。
ヴェスパーの呼吸が。
乱れる。
ノアが。
隣へ立つ。
「僕が」
「聞ける?」
ガルムが。
少年を見る。
「何を」
「その声」
「本物か」
「聞き分ける」
ヴェスパーが。
ノアを見る。
「駄目だ」
「なんで」
「危険だ」
「ヴェスパーも」
「聞きたいでしょ」
「だから」
「お前を使いたくない」
「使うんじゃない」
ノアが。
少し怒る。
「僕が」
「聞くって決める」
ヴェスパーが。
言葉を失う。
ノアは。
木彫りの狼を握る。
「僕も」
「兄ちゃんの声で」
「何回も騙された」
「だから」
「同じことなら」
「僕が一番分かる」
セレスが。
ノアの耳を見る。
「今は」
「負担が大きすぎます」
「少しだけなら」
「少しでも」
「門へ近付くことになります」
ガルムが。
低く言う。
「やめろ」
ノアは。
全員を見る。
「じゃあ」
「今は聞かない」
ヴェスパーが。
僅かに。
目を見開く。
「でも」
ノアは。
続ける。
「後で」
「安全な方法を」
「みんなで探す」
「うん」
セレスが答えた。
ヴェスパーも。
数秒。
黙ったあと。
「ああ」
「そうしよう」
ガルムが。
二人を見る。
そして。
小さく。
息を吐いた。
「……本当に」
「変わったな」
レイラが。
すぐに言う。
「チャッピーみたいに言うな」
「何だそれは」
「気にするな」
---
観測所。
さらに。
激しく揺れる。
空白が。
叫ぶ。
「話は外でしろ!」
「門が」
「亀裂を広げている!」
ガルムが。
一瞬で表情を変える。
「全員出ろ!」
「空白」
「行くぞ」
女が。
自分の観測室を見る。
六百年。
机。
紙。
椅子。
空白席。
「本は」
イリスが。
石箱を持つ。
「持った」
「七巻は」
空白が抱える。
「持つ」
「観測器は」
アルドがいない。
直せない。
持ち出せない。
女は。
一度。
部屋を見る。
「置いていく」
「いいの?」
ノアが尋ねる。
「物だ」
「また作れる」
アルドが。
言いそうな言葉。
ノアが。
少し笑う。
「じゃあ」
「行こう」
空白が。
一歩。
観測所の外へ出る。
六百年。
一度も。
門から遠く離れなかった足。
最初の一歩。
次。
二歩。
三歩。
女は。
立ち止まる。
「どうした」
ガルムが尋ねる。
「空が」
皆。
見上げる。
黒い灰。
星。
消えた一つ。
「広いな」
空白が呟く。
六百年。
観測所の天井から。
見ていた。
空。
今。
初めて。
外で見る。
「行くぞ」
ガルムが言う。
「お前」
「もう少し」
「感傷を」
「許せないのか」
「門が開きかけてる時に」
「感傷してる場合か」
レイラが。
笑う。
「本当に師匠だ」
「何が」
「似てる」
ヴェスパーとガルム。
同時に。
「似てない」
ノアが。
声を出して笑った。
---
全員が。
観測所から。
百歩。
離れた。
次の瞬間。
地面。
轟音。
黒い亀裂。
観測所の中央から。
山肌へ。
一気に伸びる。
石造りの建物。
半分。
沈む。
「空白!」
ノアが。
女の手を強く握る。
空白は。
崩れる観測所を見る。
六百年。
守った場所。
目を。
逸らさない。
地下。
ドン。
門。
さらに。
一度。
そして。
地面の亀裂から。
黒い灰ではなく。
一本の。
青白い糸。
伸びる。
「星脈?」
イリスが叫ぶ。
ガルム。
顔色が変わる。
「違う!」
糸。
空。
消えた星へ。
向かう。
その途中。
黒。
ヴェスパーの胸。
同時に。
黒陽炎。
引かれる。
「ヴェスパー!」
セレスが。
彼の腕を掴む。
「近付かないで!」
「動いてない!」
それでも。
身体が。
前へ。
少しずつ。
引かれる。
「重力じゃない!」
アステルが。
ヴェスパーを。
後ろへ引く。
「私でも」
「止めにくい!」
レイラが。
ヴェスパーの腰を掴む。
「踏ん張れ!」
「踏ん張ってる!」
ガルムが。
剣を抜く。
「黒い熱を」
「出すな!」
「出してない!」
「なら」
「名前を!」
ガルムが。
叫ぶ。
「今の名前を!」
ノアが。
すぐに。
「ヴェスパー!」
「ヴェスパー!」
レイラ。
「ヴェスパー!」
イリス。
セレス。
アステル。
セリカ。
空白。
一人ずつ。
「ヴェスパー!」
そして。
ガルム。
最後。
男は。
一瞬。
躊躇う。
幼い頃。
別の名で。
呼んでいた。
その記憶。
飲み込む。
「ヴェスパー!」
ヴェスパーが。
歯を食いしばる。
「……ああ!」
返事。
青白い糸。
一瞬。
揺らぐ。
引力。
弱まる。
「もう一度!」
ノアが叫ぶ。
「ヴェスパー!」
「ああ!」
「ヴェスパー!」
「聞こえてる!」
黒陽炎が。
胸へ戻る。
青白い糸。
空へ伸びたまま。
ヴェスパーとの。
細い黒い繋がりだけが。
切れる。
ガルムが。
剣を振り抜いた。
灰色の熱。
糸の根元。
断ち切る。
山。
轟音。
黒い亀裂が。
閉じる。
完全ではない。
細い。
傷。
残る。
観測所。
半分。
崩落。
だが。
地下の門。
音。
止まった。
---
静寂。
黒い灰だけが。
降る。
ガルムが。
剣を地面へ突き立て。
荒く息を吐く。
ヴェスパーも。
膝へ手をつく。
セレスが。
すぐに確認する。
「意識」
「ある」
「名前」
ヴェスパーが。
少しだけ。
苦笑する。
「ヴェスパー」
「よし」
ノアが。
その場へ座り込む。
「疲れた」
「耳は」
セレスが。
今度はノアを見る。
「ちょっと痛い」
「休みます」
「うん」
レイラが。
地面へ仰向けに倒れる。
「今日は」
「休んでばっかりだな」
「お前は」
ガルムが言う。
「働いてないだろ」
レイラが。
上半身を起こす。
「今」
「戦うか?」
「元気だな」
「誰のせいだと思ってる」
ガルムが。
ヴェスパーを見る。
ヴェスパーも。
ガルムを見る。
長い沈黙。
聞きたいこと。
多すぎる。
村。
母親。
黒陽炎。
本当の名。
灰星。
門。
「ガルム」
「ああ」
「全部」
「話してもらう」
ガルムは。
数秒。
黙った。
「全部は」
「俺も知らん」
「知ってる分は」
「……話す」
ヴェスパーの眉が。
僅かに動く。
「逃げない?」
「お前」
「俺を何だと思ってる」
レイラが。
横から言う。
「無茶を年取らせたもの」
セレスが。
思わず。
口元を押さえる。
ガルムが。
レイラを見る。
「誰に聞いた」
「見れば分かる」
ヴェスパーが。
珍しく。
小さく笑った。
「似てるな」
「お前まで言うな」
ノアも笑う。
張り詰めていた空気が。
ほんの少し。
緩んだ。
---
だが。
空白だけは。
崩れた観測所を見ていた。
「門は」
イリスが尋ねる。
「閉じた?」
女は。
首を横に振る。
「閉じている」
「でも」
「前とは違う」
「何が」
「向こうが」
「こちらの場所を」
「もう」
「知っている」
黒い灰。
空。
消えた星。
「六百年前は」
「門を閉じれば」
「終わった」
「今回は」
「違う?」
「ああ」
空白は。
ガルムを見る。
「黒火が」
「二つに分かれたせいだ」
ガルムの顔が。
険しくなる。
「オルディス」
「おそらく」
「向こうは」
「切れた傷を」
「両側から辿った」
ノアが。
小さく尋ねる。
「じゃあ」
「また来る?」
空白は。
答える。
「来る」
迷いなく。
「いつ」
「分からない」
「明日?」
「十年後かもしれない」
「数時間後かもしれない」
レイラが。
天を仰ぐ。
「最悪だな」
「でも」
イリスが。
石箱を見る。
六百年前の観測記。
「今度は」
「記録がある」
「空白もいる」
「ガルムも」
「ヴェスパーも」
「そして」
「六百年前と違って」
ノアが言う。
「一人じゃない」
空白が。
少年を見る。
「それで」
「勝てると思うか」
ノアは。
少し考える。
「分からない」
空白。
目を細める。
「良い答えだ」
「でも」
ノアは続ける。
「一人で負けるより」
「みんなで考える方がいい」
ガルムが。
僅かに笑う。
「それは」
「俺も賛成だ」
ヴェスパーが。
彼を見る。
「お前が言う?」
「何だ」
「自分で全部やろうとして」
「地下に入っただろ」
ガルムが。
露骨に視線を逸らす。
レイラが。
声を上げて笑った。
「師弟だ!」
「黙れ!」
二人。
同時に言った。
ノアの笑い声。
山へ。
小さく響く。
黒い灰が。
降り続ける中。
誰も。
まだ。
この先を知らない。
灰の星が何なのか。
門の向こうに。
本当に誰がいるのか。
ヴェスパーの母親は。
生きているのか。
そして。
失われた。
彼の最初の名前。
それでも。
今。
ヴェスパーには。
呼ばれれば。
返せる名がある。
「ヴェスパー」
ガルムが。
改めて呼んだ。
「何だ」
「帰るぞ」
ヴェスパーは。
一瞬。
驚く。
ガルムから。
その言葉を。
聞くとは思わなかった。
「灰都へ?」
「ああ」
「話は」
「そこで全部する」
「逃げたら」
「追う」
「知ってる」
ガルムは。
歩き出す。
「だから」
「逃げねえよ」
ヴェスパーも。
その隣へ並ぶ。
空白。
ノア。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
セリカ。
少し離れた場所で待つ。
アルドとリク。
一人ずつ。
帰る道へ戻っていく。
---
その頃。
王都。
無冠殿。
青白い小さな光。
エリュシオンが。
一つの異常を検知していた。
『遠隔星脈』
『瞬間遮断』
『灰降反応』
『過去記録との一致』
誰も。
命令を待っていない。
だから。
エリュシオンは。
自分で。
考える。
危険。
知らせるべき。
だが。
誰へ。
一瞬。
以前なら。
王へ報告した。
今は。
王はいない。
エリュシオンは。
王都中へ。
命令ではなく。
通知を送る。
『未確認現象を検出しました』
『原因不明』
『現時点で』
『避難命令は出しません』
『情報を共有します』
上層。
下層。
外周。
同じ情報。
削らず。
加工せず。
そして。
一文。
『追加情報を持つ者は』
『任意で』
『返答してください』
灰色の盾。
ドランが。
表示を見る。
「任意?」
隣の工房男が。
眉を上げる。
「王都が?」
ドランは。
少しだけ笑った。
「変わり始めたらしい」
---
さらに。
遠く。
オルディス。
左腕。
黒陽炎。
一度。
消える。
男は。
荒く息を吐く。
「切られた」
研究員が。
尋ねる。
「何が」
「道だ」
「ヴェスパーが?」
「違う」
オルディスの瞳が。
鋭くなる。
「ガルム」
あの灰色の熱。
記憶の中。
同じ剣。
「やはり」
「知っていた」
一人の黒翼兵が。
仮面を外そうとする。
手。
震える。
オルディスは。
それを見る。
「何をしている」
「……顔を」
「見たい」
「誰の」
黒翼兵。
答える。
「自分の」
オルディスが。
完全に動きを止めた。
研究対象。
個体。
器。
それが。
自分の顔を。
見たいと言った。
男は。
少しだけ。
目を伏せる。
「鏡を」
研究員が。
驚く。
「先生」
「持ってこい」
「命令ですか」
オルディスは。
短く息を吐く。
「……頼む」
研究員が。
さらに。
驚いた顔をした。
それでも。
鏡を探しに行く。
オルディスは。
残る四人の黒翼兵を見る。
彼らも。
命令が消え。
立っている。
何をすればいいのか。
分からず。
ただ。
そこにいる。
アステルの言葉。
『あなたは』
『その人が』
『何になりたいかを聞いていません』
「面倒だ」
オルディスが呟く。
一人の黒翼兵が。
尋ねる。
「何が」
オルディスは。
その問いに。
すぐ答えられなかった。
「人間が」
「だ」
黒翼兵。
ほんの僅か。
笑う。
「先生も」
「人間です」
オルディスが。
彼を見る。
長い沈黙。
「……そうだったな」
黒い灰が。
割れた窓から。
一枚。
入ってくる。
オルディスは。
今度は。
触らなかった。
ただ。
落ちるのを。
見る。
---
旧街道。
朝。
空が。
少しずつ明るくなる。
黒い灰の向こう。
太陽。
まだ。
昇る。
ノアが。
その光を見て。
小さく言った。
「星が消えても」
「朝は来るんだね」
ガルムが。
前を歩きながら答える。
「当たり前だ」
「本当に?」
「……たぶんな」
レイラが。
笑う。
「ガルムも」
「分からないって言えるんだな」
「うるせえ」
ヴェスパーは。
二人のやり取りを聞きながら。
空を見る。
灰の星。
門。
黒陽炎。
まだ。
何も終わっていない。
むしろ。
王都で。
王冠を外したことで。
ようやく。
もっと古いものへ。
手が届き始めた。
自分の過去。
世界の過去。
そして。
星脈そのものの起源。
だが。
今は。
まず。
帰る。
ガルムが。
一度。
振り返る。
「遅いぞ」
ヴェスパーが。
少し笑う。
「今行く」
その返事を聞き。
ガルムも。
何も言わず前を向いた。
黒い灰の降る朝。
一行は。
灰都への道を歩き始めた。
誰一人。
自分を。
帰る人数から抜かずに。




