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灰の星  作者: ウルフルマル


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第3章 第24話 「灰星観測記」

『見つけた』


その声は。


耳から入ったのではなかった。


ノアの大きな兎耳は。


確かに音を拾っていた。


だが。


風でもない。


地面でもない。


星脈でもない。


もっと遠く。


それでいて。


耳のすぐ内側から聞こえたような。


奇妙な声。


『見つけた』


二度目。


ノアの身体が強張った。


「ノア」


ヴェスパーがすぐに振り返る。


「誰だ」


「分からない」


「場所は」


「それも……」


兎耳が。


右。


左。


上。


そして。


王都から遠ざかる地平線へ向く。


「音に」


「場所がない」


「どういう意味だ」


レイラが戦斧を構える。


「普通は」


ノアが。


自分の耳へ触れる。


「遠い音なら」


「こっちから来るって」


「分かる」


「でも」


「これは」


「どこから聞いても」


「同じ場所にいる」


セレスが。


ノアの前へ膝をついた。


「耳に痛みは」


「ない」


「頭痛」


「少し」


「吐き気」


「ない」


「声は今も?」


ノアは。


数秒。


耳を澄ませた。


「消えた」


全員が。


夜の地平線を見る。


先ほど。


黒い炎が一度だけ灯った場所。


今は。


何もない。


闇。


山。


遠い雲。


「ヴェスパー」


イリスが呼ぶ。


「黒陽炎は?」


ヴェスパーは。


胸へ手を置く。


先ほどまで。


地平線の方向へ。


引かれるように伸びていた黒い熱。


今は。


消えている。


「戻った」


「残火は」


「反応してない」


「黒い方だけ」


「ああ」


セリカが。


灰色の通信具を開いた。


「ガルムへ送る」


「待て」


ヴェスパーが止める。


セリカの指が止まる。


「何を」


「全部は送るな」


レイラの眉が上がった。


「また隠すのか?」


「違う」


ヴェスパーは。


夜空を見る。


「星脈回線を」


「何かが辿れるかもしれない」


セリカの表情が変わる。


ガルムの記録。


『黒い熱が星脈の外へ届いたら』


『王都に長居するな』


そして。


六百四十年前の観測記。


『名を記すな』


『星は名を辿る』


「通信そのものが」


アルドが言う。


「目印になる可能性?」


「分からない」


「でも」


ヴェスパーは。


素直に言った。


「今は」


「分からないものを」


「安全だとは決めたくない」


セリカは。


通信具を閉じた。


「了解」


「ガルムへは」


「予定時刻に戻らない場合だけ」


「自動信号を送る」


「それならいい」


「ただし」


セリカは。


ヴェスパーを見る。


「帰ったら」


「全部報告する」


「分かってる」


「幼少期の記憶も」


「……分かった」


「本名の可能性も」


「分かった」


レイラが。


少し離れた所で笑う。


「ちゃんと聞くようになったな」


「今それを言う必要があるか」


「ある」


アルドが。


担架を確認する。


リク。


元・黒翼兵。


仮面は外されている。


まだ意識は戻っていない。


胸から。


携行型星環核は除かれた。


だが。


黒翼研究所で何をされたのか。


身体の内部には。


細かな結晶化が残っている。


「移動を続ける」


セレスが言った。


「ここは星脈が薄いとはいえ」


「完全に切れているわけではありません」


「目的地は」


セリカが古い地図を開く。


「灰都へ向かうなら」


「南西水路を抜けて」


「旧街道」


「そこから西」


「でも」


イリスが。


地図の一か所へ指を置いた。


「少し寄りたい場所がある」


「どこだ」


古い山道。


王都と灰都の間。


現在の地図には。


何も記されていない場所。


だが。


六百四十年前の王都図には。


小さな印。


星。


その下に。


古い文字。


『北天灰星観測所』


ノアが。


ゆっくり顔を上げた。


「灰星」


「さっきの記録と」


イリスが頷く。


「同じ言葉」


レイラが。


腕を組む。


「寄り道する時間あるのか」


「逆」


イリスが答える。


「今帰っても」


「黒陽炎が何に反応してるのか分からない」


「また声が来た時」


「対処できない」


「でも」


アステルが地図を見る。


「六百年以上前の施設ですよね」


「残っているでしょうか」


「分からない」


「またそれか」


レイラが言う。


イリスは。


少しだけ笑った。


「最近」


「分からないことが増えたね」


ノアが答える。


「でも」


「分からないって」


「前より怖くない」


ヴェスパーは。


その言葉を聞いていた。


王都で。


何度も。


分からない答えを。


一つへ押し込めようとした。


エリュシオン。


オルディス。


そして。


自分自身も。


知っているふりをした。


守れるふりを。


怖くないふりを。


「行こう」


ヴェスパーが言った。


「観測所へ?」


「ああ」


「ただし」


「一晩だけだ」


セレスが。


即座に付け加える。


「ヴェスパーさんは」


「到着後すぐ休息です」


「調査は」


「状態を見てから」


「分かった」


「本当に?」


「分かった」


レイラが。


ノアへ小声で言う。


「やっぱり少し怖いな」


「何が」


「素直になりすぎてる」


「聞こえてるぞ」


王都の灯りが。


背後で。


少しずつ小さくなる。


以前なら。


星脈中枢塔の青白い光が。


夜空を照らしていた。


今は。


十二の区画。


それぞれの灯り。


強い場所。


弱い場所。


橙。


白。


青。


不揃い。


それでも。


一つの巨大な光より。


街の形が。


はっきり見えた。


ノアが。


何度も振り返る。


「シオンたち」


「大丈夫かな」


レイラが尋ねる。


「戻りたい?」


「ううん」


ノアは首を横に振った。


「気になるだけ」


「なら」


ヴェスパーが言う。


「気にしてていい」


ノアは。


少し驚いた。


「前なら」


「大丈夫だって言ったよね」


「ああ」


「今は言わないの?」


「大丈夫かどうか」


「俺には分からない」


「でも」


「戻るって」


「シオンは言った」


「だから」


ヴェスパーは。


王都を一度見る。


「待つ」


ノアは。


小さく頷いた。


「うん」


二時間後。


廃水路を抜ける。


外気。


冷たい風。


星脈の臭いが薄くなる。


アステルが。


大きく息を吸った。


「軽い」


「何が」


レイラが尋ねる。


「身体が」


「王都では」


「ずっと何かに」


「押されていた気がします」


彼女の重圧因子。


星脈中枢へ近いほど。


常に。


微かな共鳴を起こしていた。


今。


その音が。


遠ざかっている。


「良いこと?」


ノアが聞く。


「はい」


アステルは。


夜空を見る。


「少しだけ」


「自分の重さが」


「自分のものに戻った気がします」


セレスが。


その言葉へ。


僅かに表情を緩めた。


だが。


直後。


担架から。


小さな声。


「……さむい」


全員が止まる。


リク。


閉じていた瞼が。


僅かに開いている。


「リク!」


アステルが。


担架へ近付く。


セレスが先に。


額。


首。


瞳孔。


呼吸。


確認。


「意識が戻っています」


「分かる?」


ノアが。


担架の横へしゃがむ。


青年の瞳。


薄い灰色。


黒翼兵の仮面の奥で。


ほとんど見えなかった。


「名前」


ノアが言う。


「覚えてる?」


唇が動く。


「……リク」


「うん」


「それが」


「呼ばれたい名前?」


長い沈黙。


「たぶん」


「たぶんでいいよ」


リクは。


周囲を見る。


知らない顔。


ヴェスパー。


レイラ。


イリス。


セレス。


アステル。


ノア。


セリカ。


アルド。


「研究所は」


アステルの身体が。


僅かに強張る。


セレスが。


彼女を見る。


アステルは。


逃げずに。


リクの隣へ座った。


「ここにはありません」


「オルディスは」


「いません」


リクの呼吸が。


少しだけ速くなる。


「命令」


「ありません」


「核」


「外しました」


青年の手が。


自分の胸へ触れる。


そこには。


包帯。


そして。


空白。


「……ない」


「はい」


「俺」


「今」


「何を」


アステルは。


少し考える。


「何もしなくていいです」


リクの目が。


揺れる。


「命令」


「ないと」


「何を」


「すれば」


「分からない?」


ノアが尋ねる。


リクは。


ゆっくり頷く。


ノアが。


少しだけ笑った。


「僕たち」


「最近」


「そればっかりだよ」


レイラが。


鼻で笑う。


「確かに」


リクは。


意味が分からない様子で。


彼らを見る。


「分からないままで」


アステルが言った。


「まず」


「生きてください」


青年の目から。


何かが。


僅かに抜けた。


恐怖ではない。


緊張。


常に。


次の命令を待っていた身体。


「眠ってください」


セレスが言う。


「それが」


「今の治療です」


「命令?」


セレスは。


一瞬考える。


「医療上の推奨です」


リクの眉が。


僅かに動いた。


ノアが。


小さく笑う。


「断ってもいいよ」


「……寝る」


「うん」


再び。


リクの目が閉じる。


アステルは。


しばらく。


その寝顔を見ていた。


夜明け前。


一行は。


山へ入った。


旧街道。


石畳の多くは。


土と草へ埋もれている。


六百年前。


この道を。


誰が歩いたのか。


今は。


誰も覚えていない。


「観測所まで」


イリスが地図を見る。


「あと一刻くらい」


「一刻?」


レイラが尋ねる。


「古い地図の単位」


「普通に時間で言え」


「四十分くらい」


「最初からそう言え」


セリカが。


先頭で足を止めた。


「何かある」


全員が構える。


「人?」


ノアが耳を向ける。


「いない」


「動物?」


「小さいのはいる」


「危険は」


「分からない」


セリカは。


足元を指す。


石。


そこに。


黒い跡。


焼けた痕に見える。


だが。


焦げ臭さはない。


草も。


燃えていない。


「熱は」


ヴェスパーが手を近付ける。


「ない」


アステルが。


重さを見る。


「変です」


「何が」


「この部分だけ」


「軽い」


「土が?」


「違います」


アステルは。


黒い跡へ触れず。


重圧を薄く広げる。


「ここに」


「何かが」


「存在していない」


レイラが顔をしかめる。


「よく分からん」


「私も」


「分かりません」


「でも」


アステルは。


黒い跡の周囲を見る。


「石の重さも」


「空気も」


「あるのに」


「中心だけ」


「重力が」


「通り抜ける」


イリスが。


古い棒を。


黒い跡の上へ差し出す。


何も起きない。


「物は消えない」


「なら」


ヴェスパーが。


剣の鞘を。


少しだけ近付ける。


胸の黒陽炎。


揺れた。


黒い跡。


同時に。


僅かに濃くなる。


「離せ!」


セリカが叫ぶ。


ヴェスパーが。


すぐに鞘を引く。


跡が元へ戻る。


ノアの耳が。


強く立った。


「今」


「聞こえた」


「何が」


「同じ」


「見つけた、か」


ノアは首を横へ振る。


「違う」


「今は」


少年が。


黒い跡を見る。


「まだ」


「遠い」


誰も。


黒い跡へ触れなかった。


位置だけ記録する。


ただし。


星脈端末には。


残さない。


紙。


イリスが。


古い野帳へ。


手書きで記した。


レイラが覗く。


「珍しいな」


「紙に書くの」


「記録を消されたばかりだからね」


「エリュシオンが聞いたら」


「褒めるかな」


「たぶん」


「記録方式の多重化は合理的です」


「とか言う」


ノアが。


少し笑う。


だが。


ヴェスパーは。


黒い跡から目を離せない。


六百年前。


『星一つ消失』


『三日後』


『空より灰が降る』


今。


星が消えた。


まだ。


一日も経っていない。


観測所は。


山の斜面へ。


半分埋まるように残っていた。


塔。


ではない。


低い石造り。


中央に。


丸い屋根。


その一部は崩落している。


入口の上。


文字。


ほとんど風化しているが。


読める。


『北天灰星観測所』


「残ってた」


ノアが言う。


「六百年も」


アルドが。


扉を調べる。


「石組みがいい」


「そういう問題?」


イリスが聞く。


「重要だ」


「建物は」


「直せるかどうかが全てじゃない」


アルドは。


錆びた金具へ工具を差し込む。


「残っている理由も」


「作った人間が残した情報だ」


「なるほど」


レイラが言う。


「それっぽいこと言うな」


「それっぽい?」


「頭良さそう」


「たぶん褒めてないな」


扉が。


低い音を立てて開く。


中。


暗い。


セリカが。


火を使わない。


手持ちの。


小さな油灯。


「星脈灯は?」


レイラが尋ねる。


「使わない」


「追われるから?」


「それも」


セリカは。


壁を見る。


「ここは」


「星脈以前の施設」


「昔のやり方で入る」


ノアが。


頷く。


「その方が」


「何か聞こえそう」


内部。


驚くほど。


物が残っていた。


木製の机。


紙。


金属器具。


天井へ。


大きな筒。


星を見るための。


光学観測器。


中央。


床へ。


灰色の円。


その周囲。


十二の椅子。


「十二」


アステルが呟く。


「王都と同じ?」


イリスが。


椅子を確認する。


「違う」


「十二星王じゃない」


「観測員席」


椅子ごと。


違う記号。


星。


月。


風。


灰。


距離。


音。


熱。


名前。


記録。


光。


影。


そして。


空白。


「役割が」


ノアが読む。


「分かれてる」


「一人で」


「全部見ないため?」


「たぶん」


イリスは。


最後の椅子を見る。


『空白』


そこだけ。


背もたれに。


何も刻まれていない。


「これは」


ヴェスパーが尋ねる。


「分からない」


「いいね」


レイラが言う。


「何が」


「イリスが」


「すぐ分からないって言えるようになった」


「殴るよ」


「元気だな」


「休んでる人に言われたくない」


「まだ休んでない」


セレスが。


ヴェスパーを見る。


「今からです」


「調査」


「後です」


「でも」


「後です」


ヴェスパーは。


壁際を見る。


比較的。


埃の少ない場所。


「分かった」


レイラが。


感心した顔をする。


「本当に誰だお前」


「黙れ」


セレス。


リクとヴェスパー。


二人を。


観測所の奥にある休憩室へ移す。


アステルが。


残る。


「私も」


「手伝います」


「調査は?」


「後で行きます」


アステルは。


眠るリクを見る。


「今は」


「こちらを」


セレスは。


彼女の横顔を見る。


「分かりました」


ヴェスパーが。


寝台へ横になる。


「俺は」


「寝てください」


「まだ何も」


「寝てください」


ノアが。


扉から顔を出す。


「僕も言う?」


「必要ない」


「寝て」


「分かった」


レイラの笑い声が。


遠くから聞こえた。


調査は。


イリス。


ノア。


レイラ。


セリカ。


アルド。


五人で始めた。


観測所の記録庫。


木棚。


紙。


皮張りの冊子。


多くは。


湿気で読めない。


だが。


石箱へ入れられていたものだけは。


残っている。


「題名」


ノアが。


埃を払う。


『灰星観測記』


一巻。


二巻。


三巻。


全部で。


七冊。


イリスが。


一冊目を開く。


古い文字。


現代語と。


少し違う。


「読める?」


レイラが尋ねる。


「時間があれば」


「時間ないぞ」


「だから」


イリスは。


ノアを見る。


「読めるところから」


一冊目。


『灰降以前』


最初。


天候。


星の位置。


農作。


星脈。


まだ。


星脈という言葉すら。


現在と意味が違う。


『地を巡る微かな熱』


程度。


三冊目。


記録が。


変わる。


『北天第七星、減光』


「星が」


ノアが呟く。


「いきなり消えたわけじゃない」


イリスが読む。


「最初」


「少しずつ暗くなってる」


記録。


十七日。


二十二日。


三十四日。


半年。


そして。


『完全消失』


その日。


別の観測員の筆跡。


『星脈観測器』


『一時停止』


『三呼吸』


ノアの耳が。


ぴくりと動く。


「三呼吸」


「昨日と同じ」


星が消えた。


星脈。


三秒停止。


「六百四十年前にも」


イリスの表情が険しくなる。


レイラが。


次の頁を見る。


「次は」


一日目。


異常なし。


二日目。


異常なし。


三日目。


文字が。


乱れている。


『灰降』


『夜明けより』


『空から灰』


『火山なし』


『火災なし』


『灰に熱なし』


『灰は』


『星脈へ触れると消える』


「灰が」


セリカが言う。


「空から?」


「火山じゃない」


アルドが。


古い地形図を見る。


「この周辺に」


「当時活動していた山はない」


イリスが。


続きを読む。


『同日』


『黒火保持者』


『一名確認』


次頁。


『三名』


次。


『五名』


「増えてる」


ノアが言う。


「黒陽炎を持つ人?」


「似てるならね」


名前。


なし。


性別。


年齢。


出身地。


なし。


ただ。


記号。


甲。


乙。


丙。


「わざと」


「個人情報を書いてない」


イリスが言う。


「どうして」


ノアが尋ねる。


答え。


次の頁にあった。


巨大な文字。


『名を記すな』


その下。


『甲』


『呼称を記録した翌夜』


『北天より応答』


『翌朝』


『甲、消失』


レイラの顔から。


笑みが消える。


「消失って」


「死んだ?」


「書いてない」


イリスが読む。


『衣類残存』


『血液なし』


『熱紋なし』


『足跡』


『寝台より三歩で途絶』


『灰のみ』


ノアの兎耳が。


ゆっくり伏せられる。


「名前を」


「書いたから?」


「そう考えたみたい」


セリカが。


頁の端を見る。


『実験禁止』


『以後』


『黒火保持者の名』


『記録せず』


『互いにも』


『本名を呼ばせず』


「互いにも?」


レイラが。


ヴェスパーのことを思い出す。


『名前を言うな』


『呼ばれても返事をするな』


六百年前。


同じ。


「でも」


ノアが言う。


「ヴェスパーは」


「何度も呼ばれてる」


「消えてない」


イリスが。


別の頁を探す。


「条件が」


「まだあるはず」


五冊目。


観測員の筆跡が。


急に少なくなる。


『黒火保持者』


『十二名』


『うち』


『応答確認』


『四』


『応答なし』


『八』


「応答って」


ノアが言う。


「返事?」


『北天呼称現象』


記録。


『夢』


『耳鳴』


『名を呼ぶ声』


『本人にのみ聞こえる場合』


『周囲にも聞こえる場合』


『黒火保持者』


『呼びかけへ返事をした場合』


次の頁。


破れている。


「肝心な所!」


レイラが机を叩く。


埃が舞う。


「叩かないで!」


イリスが冊子を守る。


「六百年物なんだから!」


「ごめん」


「素直!」


ノアが。


破れた頁の下。


薄い紙が。


二重になっていることに気付く。


「ここ」


イリスが。


慎重に剥がす。


裏。


細い文字。


『返答後』


『黒火』


『増大』


『星脈拒絶』


『記憶混濁』


『呼称変更』


「呼称変更?」


セリカが尋ねる。


続き。


『保持者は』


『自身の名を』


『異なるものとして認識し始める』


空気が。


止まった。


ノアの顔が。


ゆっくり。


休憩室の方角へ向く。


「ヴェスパー」


誰も。


すぐには言葉を出さない。


出生名。


思い出せない。


ヴェスパーという名を。


誰から最初に呼ばれたのか。


分からない。


「まさか」


レイラが呟く。


イリスは。


すぐに否定しない。


「まだ」


「同じ現象とは決めない」


「でも」


「可能性はある」


アルドが。


机の端を握る。


「名前を変えるのは」


「何のためだ」


「守るため?」


ノアが言う。


「星に」


「見つからないように」


イリスは。


記録をさらに読む。


六冊目。


筆跡。


一人。


他の観測員は。


もう書いていない。


『本日』


『黒火保持者』


『残り三名』


『八名消失』


『一名死亡』


『死亡者』


『星脈接続時に黒火逆流』


『一名』


『自ら遠方へ』


「残り三人」


レイラが言う。


「例の」


「最初の記録と合う」


『三名を確認』


名を書かない。


星は名を辿る。


そして。


七冊目。


表紙に。


文字がない。


開く。


最初の一頁。


たった一文。


『私も黒火を得た。』


イリスの手が止まる。


「観測員?」


ノアが。


次の頁をめくる。


『理由不明』


『灰へ触れていない』


『星脈暴露なし』


『ただ』


『あの日』


『空白席へ座った』


全員の視線が。


観測室中央。


十二の椅子。


最後。


何も刻まれていない。


空白席へ向く。


「座るなよ」


レイラが言う。


「言われなくても」


イリスが返す。


記録。


『空白席の役割を』


『今になって理解した』


次頁。


『観測しない者』


「観測しない?」


セリカが眉を寄せる。


『十一人が』


『星を見る』


『一人は』


『星を見ない』


『観測結果が』


『観測者自身を変えていないか』


『確認する』


アルドが。


静かに言う。


「監視する人間を」


「さらに監視する役」


「そう」


イリスが読む。


「星だけ見てると」


「星から目を離せなくなる」


『灰星現象』


『最大の危険は』


『空ではない』


次。


『観測するほど』


『観測される』


ノアの耳が。


強く伏せられる。


「星が」


「こっちを見てる?」


『比喩ではない』


記録は。


まるで。


未来の誰かへ説明するように続いている。


『黒火は』


『灰星から与えられた力ではない』


『むしろ逆』


『灰星が』


『こちらへ接続することを』


『拒絶した跡』


「拒絶?」


イリスの声が。


小さくなる。


『星脈は』


『世界を繋ぐ』


『黒火は』


『繋がりを断つ』


『だから』


『星脈は黒火を嫌う』


『灰星もまた』


『黒火を嫌う』


レイラが。


困惑する。


「待て」


「じゃあ」


「灰星と黒陽炎は」


「仲間じゃない?」


「たぶん」


「反対」


「でも」


ノアが尋ねる。


「じゃあ」


「何で黒い星が」


「ヴェスパーに返事したの?」


記録。


次の頁。


答えるように。


『傷は』


『傷をつけたものと繋がっている』


「……」


誰も。


話さない。


『黒火とは』


『灰星との接続を断った痕』


『しかし』


『断ったという事実が』


『逆に』


『そこに接続があったことを示す』


イリスが。


ゆっくり。


冊子を閉じかける。


「ヴェスパーの黒陽炎は」


「灰星の力じゃない」


「灰星との」


「切断痕?」


ノアが言う。


「傷跡……?」


セリカの顔が。


険しくなる。


「ガルムは」


「これを知ってた?」


「分からない」


「でも」


レイラは。


休憩室を見る。


「似たものを見たって」


「言ってた」


「起こす?」


ノアが尋ねる。


「まだ駄目」


セレスの声が。


背後からした。


全員が振り返る。


「いつから」


レイラが尋ねる。


「『ヴェスパー』の名前が」


「変わった可能性がある辺りから」


「結構前だな」


セレスは。


七冊目を見る。


表情は。


医師のもの。


興味より。


危険を測っている。


「記憶混濁」


「名前の認識変化」


「黒火増大」


「星脈拒絶」


「今のヴェスパーさんに」


「いくつか一致します」


「じゃあ」


ノアが。


不安そうに言う。


「ヴェスパーって」


「本当は」


「今は」


セレスが答えた。


「ヴェスパーさんです」


「出生時の名前が別にある可能性と」


「今の名前が本人のものではないという話は」


「同じではありません」


ノアは。


少しだけ安心した。


「うん」


「ただ」


セレスは続ける。


「昔の名前を」


「無理に思い出させるのは危険です」


「灰星が」


「名前を辿るから?」


「それもあります」


「でも」


「記憶そのものが」


「黒陽炎と結び付いている可能性がある」


「刺激して」


「何が起きるか」


「分かりません」


レイラが。


腕を組む。


「つまり」


「今は聞くな」


「はい」


「本人が話すまで」


「待つ」


「そうしてください」


「了解」


アステルが。


休憩室から出てきた。


「リクは?」


セレスが尋ねる。


「眠っています」


「ヴェスパーさんは」


「同じです」


「熱は」


「黒い方が」


アステルは。


自分の胸へ手を置く。


「少し」


「重くなっています」


「ここへ来てから?」


「はい」


全員が。


観測所を見る。


六百年前。


黒火保持者を調べた場所。


今。


ヴェスパーの黒陽炎が。


僅かに強まっている。


「偶然じゃないね」


イリスが言う。


アステルは。


七冊目を見る。


「読んでも?」


「うん」


少女が。


頁を進める。


そして。


一か所で。


完全に動きを止めた。


「アステル?」


ノアが呼ぶ。


「ここ」


指。


古い記録。


『黒火は』


『器へ移せない』


次。


『切り分け不可』


『星脈核へ保存不可』


『他者へ移植した場合』


『保持者へ戻ろうとする』


空気が。


冷たくなる。


「オルディス」


レイラが言った。


ヴェスパーから。


黒陽炎の一部を奪った。


結晶管へ保存。


空の器へ入れた。


「戻ろうとする?」


ノアが。


恐る恐る尋ねる。


「ヴェスパーに?」


イリスは。


次を読む。


『ただし』


『保持者が』


『元の名を失っている場合』


『黒火は』


『名前ではなく』


『傷の起点へ戻る』


「傷の起点」


アステルが呟く。


「灰星?」


誰も。


答えられない。


オルディス。


今。


黒陽炎を。


器へ入れた。


もし。


六百年前の記録が正しいなら。


それは。


ヴェスパーへ戻らない可能性がある。


灰星との接続が。


最初に切れた場所。


その起点へ。


向かう。


「だから」


ノアが。


今までの音を思い出す。


「返事が」


「近付いてる?」


セリカが。


すぐに荷物をまとめ始める。


「出る」


「今?」


レイラが尋ねる。


「この観測所」


「黒火が集まる場所かもしれない」


「ヴェスパーと」


「奪われた黒陽炎」


「両方を置く場所じゃない」


「賛成」


セレスが即答する。


「でも」


イリスが七冊目を見る。


「最後まで読んでない」


「持っていく」


「本を?」


「星脈記録じゃない」


「紙なら」


「追跡されにくい可能性がある」


アルドが。


石箱を調べる。


「箱ごと運べる」


「重いぞ」


「重いから」


「俺が運ぶ」


レイラが。


少し笑う。


「便利だな」


「人を荷車みたいに言うな」


その時。


奥。


天体観測室。


音。


カタン。


小さな。


金属音。


全員が。


一斉に振り返る。


ノアの耳が。


天体観測室へ向く。


「誰かいる」


セリカが。


弩を構える。


「人?」


「分からない」


「また?」


「呼吸が」


ノアは。


耳を澄ませる。


「一回」


「止まる」


「また動く」


「心臓は」


「ある」


「でも」


「すごく」


「遅い」


シオンはここにいない。


代わりに。


セリカが先頭。


レイラ。


アステル。


イリス。


ノア。


アルド。


慎重に。


観測室へ入る。


巨大な光学筒。


崩れた屋根。


空。


まだ夜。


星が見える。


そして。


中央。


空白席。


そこに。


誰かが座っていた。


灰色の外套。


長い髪。


性別も。


年齢も。


後ろ姿では分からない。


「動くな」


セリカが言う。


人物は。


ゆっくり。


顔を上げた。


古い。


観測員の衣服。


しかし。


六百年前の人間が。


生きているはずがない。


「名前は」


セリカが尋ねかけ。


止まる。


全員。


記録を思い出した。


名を記すな。


星は名を辿る。


人物が。


僅かに笑った。


「聞かない方がいい」


声。


女。


老いているようにも。


若いようにも聞こえる。


ノアが。


耳を立てる。


「あなた」


「生きてる?」


女は。


少し考える。


「それも」


「聞かない方がいい」


「なぜ」


「答えると」


「観測が始まる」


イリスが。


一歩前へ出る。


「あなたは」


「観測員?」


「昔は」


「今は?」


「見ない者」


空白席。


観測しない者。


イリスの顔が変わる。


「まさか」


「第七巻を書いた人?」


女は。


笑わない。


「それを」


「どこで読んだ」


「記録庫」


「残っていたか」


「六百年前のものが」


「残りすぎてるくらい」


女は。


空を見ない。


ずっと。


床を見ている。


「六百年」


レイラが。


低く言う。


「人間が生きる時間じゃない」


「そうだ」


「じゃあ何だ」


「分からない」


レイラが。


戦斧を構え直す。


「最近」


「その答え多すぎないか」


女が。


初めて。


小さく笑った。


「良いことだ」


「何が」


「分からないことを」


「分かったふりする者が」


「少なくなった」


ノアが。


一歩前へ出る。


「灰星を知ってる?」


女の笑みが消えた。


「空を」


「見たか」


「うん」


「星が一つ消えた」


「いつ」


「昨日」


女の手が。


空白席の肘掛けを。


強く掴む。


「黒火は」


レイラが答える。


「いる」


女の顔が。


上がる。


「何人」


「一人」


イリスが言い。


すぐ。


「いや」


「一つは」


「切り取られている」


女の表情が。


完全に変わった。


「誰がやった」


「オルディス」


「名か」


「まずかった?」


「もう遅い」


女が。


立ち上がる。


その身体。


影。


一瞬。


透けた。


ノアの耳が。


強く震える。


「この人」


「心臓が」


「二つある」


「何?」


一拍。


女の胸。


二拍目。


もっと遠い。


地面の下。


観測所そのものから。


同じ鼓動。


女が。


自分の胸へ手を置く。


「長く話せない」


「あなたは」


アステルが尋ねる。


「人間ですか」


「人だった」


「今は」


「観測記録に」


「残りすぎた」


エリュシオンとは。


違う。


だが。


似ている。


人の記録。


長い時間。


役割。


本人と。


記録の境界。


「名前は」


ノアが言いかける。


女が。


強く言う。


「呼ぶな」


少年が止まる。


「どうして」


「今」


女は。


初めて。


空を見る。


消えた星の場所。


「向こうが」


「聞いている」


同時。


ヴェスパーがいる。


休憩室。


黒陽炎が。


爆発するように広がった。


「ヴェスパー!」


セレスが叫ぶ。


寝台。


ヴェスパーの身体。


周囲。


黒い炎。


燃えない。


床も。


壁も。


セレスの手も。


焼かない。


だが。


星脈灯だけが。


次々と消えていく。


ヴェスパーが。


目を開く。


瞳。


いつもの色。


その奥。


一瞬。


黒い輪。


「声が」


「聞こえる?」


「ああ」


「何と言っていますか」


ヴェスパーは。


歯を食いしばる。


「名前」


「あなたの?」


「違う」


黒い炎が。


胸から。


首。


頭へ上がる。


「知らない」


「でも」


「俺が」


「知ってる」


矛盾。


セレスは。


ヴェスパーの肩を掴む。


「答えないでください」


「ああ」


「名前を言わないで」


「分かってる」


声。


遠い。


それでも。


確かに。


ヴェスパーへ。


何かを呼んでいる。


ヴェスパーではない。


別の音。


もう少しで。


意味になる。


「――」


口が。


勝手に動きかける。


セレスが。


顎へ手を当てる。


「言わないで!」


ヴェスパーは。


拳を握る。


「俺は」


「はい」


「ヴェスパーだ」


「はい」


「今は」


「それでいい」


「はい」


「なら」


黒い炎を。


止めようとしない。


代わりに。


自分の名前へ。


意識を戻す。


「ヴェスパー」


セレスが呼ぶ。


「ああ」


返事。


一度。


「ヴェスパー」


「ああ」


二度。


扉が開く。


ノアが。


走ってくる。


「ヴェスパー!」


「ああ」


三度。


レイラ。


「ヴェスパー!」


「聞こえてる!」


イリス。


アステル。


セリカ。


アルド。


一人ずつ。


今の名前を呼ぶ。


昔の名ではない。


本当の名か。


出生名か。


そんなことは関係ない。


今。


彼が。


自分で返事をする名。


「ヴェスパー!」


「ああ!」


黒陽炎が。


大きく揺れ。


身体の内側へ。


少しずつ戻っていく。


だが。


完全には消えない。


胸の中心。


小さな黒。


残る。


「止まった」


ノアが。


息を吐く。


「いや」


女の声。


全員が振り返る。


空白席にいた観測者が。


扉に立っている。


「始まった」


レイラが。


戦斧を持ち上げる。


「何が」


「呼称回帰」


女は。


ヴェスパーを見る。


「一度」


「灰星に」


「本当の名を拾われた者は」


「別の名を持っても」


「完全には逃げられない」


「本当の名」


ヴェスパーが。


低く繰り返す。


「俺の名前を」


「知っているのか」


女は。


彼を見る。


長い沈黙。


そして。


首を横に振った。


「知らない」


「嘘じゃない?」


ノアが尋ねる。


「聞けるなら」


「聞いてみろ」


ノアは。


女の音を聞く。


「本当に」


「知らない」


「ただ」


女は。


ヴェスパーの黒い熱を見る。


「同じ傷を」


「知っている」


「六百年前の」


「三人?」


女は答えない。


代わりに。


七冊目の観測記を。


イリスから受け取る。


最後の頁。


何も書かれていなかった場所。


指で。


なぞる。


すると。


灰色の文字が浮かぶ。


今まで。


見えていなかった。


『三人は』


『灰星を封じたのではない。』


次。


『門を閉じた。』


アステルが。


息を呑む。


「門?」


女は。


ヴェスパーを見る。


「黒火は」


「鍵ではない」


「王都は」


「あなたを黒陽鍵と呼びました」


「間違いだ」


「オルディスも」


「おそらく」


「同じ勘違いをしている」


「なら」


ヴェスパーが尋ねる。


「黒陽炎は何だ」


女は。


静かに答えた。


「鍵を」


「壊した跡」


無言。


「六百年前」


「世界と」


「灰星の間に」


「門があった」


「誰が作った」


「知らない」


「灰星が?」


「違う」


「では」


「もっと古い」


女は。


天井。


その向こう。


夜空を見る。


「星脈が」


「今より」


「遥かに濃かった時代」


「この世界は」


「星を」


「力として使おうとした」


イリスが。


顔を上げる。


「星環の原型?」


「それより前」


「星脈は」


「地面の力じゃないの?」


ノアが尋ねる。


女は。


少年を見る。


「今は」


「そう教えられている」


「違う?」


「半分」


「星脈は」


女は。


床へ手を置く。


「地を流れる」


「だが」


「地だけから」


「生まれたものではない」


ヴェスパーの黒陽炎が。


僅かに揺れる。


「星から」


「降りた?」


「星と」


「地を繋いだ」


「道の残りだ」


灰の星。


星脈。


王都。


星環。


黒陽炎。


すべてが。


初めて。


同じ線の上へ並び始める。


「じゃあ」


アステルが言う。


「星環は」


「星と繋がる技術?」


「今の星環は」


「遠い子孫だ」


「ほとんど」


「地上だけで循環している」


「だから安全?」


「安全ではない」


女が答える。


「ただ」


「向こうまで」


「届かない」


「でも」


イリスが。


ヴェスパーを見る。


「黒陽炎は」


「届いた」


「違う」


女が否定する。


「黒火が」


「届いたのではない」


「傷が」


「開いた」


「オルディスが」


「切り取ったから?」


「おそらく」


女の声が。


初めて。


怒りを含む。


「黒火を」


「器へ移すなど」


「やってはいけない」


「何が起きる」


「戻ろうとする」


「ヴェスパーに?」


「いいや」


女は。


一言。


「門へ」


全員の顔が変わる。


「門の場所は」


セリカが尋ねる。


女は。


すぐには答えない。


そして。


観測所の床。


空白席の真下を指す。


「一つは」


「ここ」


レイラの手が。


戦斧へ。


強く掛かる。


「ここが?」


「観測所ではない」


女が言う。


「この山の下」


「六百年前」


「三人の黒火保持者が」


「門を閉じた場所」


ノアの耳が。


床へ向く。


最初。


何も聞こえない。


さらに。


深く。


岩。


土。


地下水。


その下。


「ある」


少年の顔が。


青ざめる。


「音が」


「何の」


ヴェスパーが尋ねる。


「扉」


「動いてる?」


「違う」


ノアは。


ゆっくり首を横へ振る。


「向こうから」


「叩いてる」


一度。


地の底。


鈍い。


音。


ドン。


誰も。


話さない。


二度。


ドン。


観測所の石床が。


僅かに。


震えた。


三度。


ドン。


ヴェスパーの胸。


黒陽炎が。


同じ間隔で。


脈打つ。


女が。


目を閉じる。


「オルディスが」


「門を見つけた」


「違う」


ノアが。


床を見つめる。


「これ」


「オルディスじゃない」


「分かるのか」


「うん」


「もっと」


少年の声が震える。


「大きい」


その時。


山の外。


夜空。


消えた星の場所から。


黒い光。


光ではない。


暗闇が。


一本の柱のように。


地上へ落ちた。


音はない。


だが。


世界から。


一瞬。


星の光が。


全て消える。


観測所。


空白席。


床。


巨大な亀裂。


「離れろ!」


レイラが叫ぶ。


全員が後退する。


石が。


割れる。


下から。


黒い灰。


ゆっくりと。


舞い上がった。


熱はない。


冷たくもない。


灰。


六百四十年前。


記録されたものと。


同じ。


女の顔から。


色が消える。


「早すぎる」


「何が」


イリスが尋ねる。


「灰降まで」


「三日あった」


「今回は」


星が消えてから。


まだ。


一日。


「どうして」


アステルが言う。


女は。


ヴェスパーを見る。


正確には。


彼の中の。


黒陽炎を見る。


「前回は」


「門の内側に」


「黒火はなかった」


「今は?」


「門の両側に」


女は。


地の底を見る。


「同じ傷がある」


オルディスの器。


そして。


ヴェスパー。


一方は。


どこか。


もう一方は。


ここ。


「繋がる」


イリスが呟く。


「二つの黒陽炎が」


「門を」


「両側から開こうとしてる?」


「違う」


女が言う。


「黒火は開こうとしていない」


「戻ろうとしているだけ」


「でも」


「戻る先が」


レイラの顔が。


険しくなる。


「門の向こう」


「そうだ」


黒い灰が。


一枚。


ヴェスパーの手の甲へ落ちる。


セレスが。


即座に払おうとする。


「待て」


ヴェスパーが止める。


灰。


触れた瞬間。


記憶。


幼い自分。


燃える村。


黒い星。


知らない男。


『名前を言うな』


その男が。


幼いヴェスパーの胸へ。


黒い炎を。


押し込む。


違う。


与えたのではない。


何かを。


引き抜いている。


胸。


光。


青白い。


星脈。


それを。


男の黒い炎が。


斬る。


幼いヴェスパーが。


叫ぶ。


空。


黒い星。


何かが。


名前を呼ぶ。


男が。


叫ぶ。


『返事をするな!』


そして。


もう一つ。


初めて。


はっきりと聞こえた。


男の声。


『ガルム!』


幼い自分が。


誰かの名前を呼ぶ。


今まで。


ガルムではないと思った。


大きな背中。


違う人物。


だが。


名前は。


ガルム。


男が。


振り返る。


若い。


今より。


ずっと若い顔。


ガルム。


「――!」


ヴェスパーが。


現実へ戻る。


「どうした!」


レイラが支える。


「見えた」


「何を」


呼吸。


乱れる。


「ガルム」


セリカの顔が変わる。


「いた」


「村に?」


「ああ」


「俺が」


「小さい頃」


「ガルムが」


「黒陽炎を」


胸へ手を置く。


「入れたんじゃない」


「何をした」


「切った」


「俺と」


ヴェスパーは。


地の底。


門を見る。


「何かの繋がりを」


全員。


沈黙。


ガルムは。


知っていた。


予想したのではない。


似たものを。


一度だけ見た。


そう言った。


だが。


違う。


彼は。


ヴェスパーが黒陽炎を得た瞬間に。


いた。


「セリカ」


ヴェスパーの声が。


低くなる。


「ガルムに」


「繋げるか」


「今」


「星脈回線は危険だ」


「分かってる」


「それでも?」


ヴェスパーは。


黒い灰を見る。


「今は」


「聞くべきだ」


セリカは。


少し考える。


通信具を。


星脈回線へ繋がない。


代わりに。


古い。


灰都式の。


熱波短距離信号。


「届く保証はない」


「送れ」


「内容は」


ヴェスパーは。


一言。


「思い出した」


セリカが。


送信する。


灰色の狼。


夜。


信号。


一度。


二度。


三度。


長い沈黙。


返事。


来ない。


「届かない?」


ノアが尋ねる。


セリカは。


通信具を見る。


「待って」


一つ。


灰色の光。


点滅。


音声。


ない。


文字だけ。


『そこを離れろ』


ヴェスパーの瞳が。


細くなる。


次。


『観測所の地下へ入るな』


そして。


三つ目。


『門は、まだ閉じている』


地の底。


ドン。


全員が。


足元を見る。


四つ目。


『ヴェスパーを』


そこで。


通信が乱れる。


文字。


欠ける。


『――門へ近付けるな』


最後。


『俺が行く』


通信終了。


レイラが。


顔を上げた。


「ガルムが」


「来る?」


セリカは。


信号の発信時刻を見る。


「灰都からなら」


「普通は半日以上」


「間に合わない」


「ガルムなら」


アルドが言う。


「普通じゃない道を」


「知っているかもしれない」


ヴェスパーは。


短い文章を。


見続ける。


『俺が行く』


幼い頃。


燃える村。


ガルム。


黒い星。


繋がりを切った。


男。


「待つ?」


ノアが尋ねる。


ヴェスパーは。


地の底。


門を叩く音を聞く。


ドン。


「いや」


「離れる」


レイラが。


少しだけ。


驚いた顔をする。


以前なら。


ヴェスパーは。


ガルムを待たず。


地下へ行った。


自分の過去。


自分の黒陽炎。


自分の名前。


全て。


確かめるために。


一人でも。


「行かないの?」


ノアが尋ねる。


「ああ」


「知りたくない?」


「知りたい」


「すぐにでも」


ヴェスパーは答える。


「でも」


仲間を見る。


リク。


負傷者。


アステル。


ノア。


皆。


王都を出たばかり。


「ここで」


「俺の過去を知るために」


「全員を危険へ連れていかない」


レイラが。


静かに笑った。


「良い判断だ」


セレスが。


即座に言う。


「私も賛成です」


アステル。


「私もです」


イリスは。


七冊の観測記を石箱へ戻す。


「持っていく」


「でも」


空白席の女が言った。


「七巻だけは」


「置いていけ」


「なぜ」


「それは」


女が。


本を手に取る。


「私の記録だ」


イリスが。


彼女を見る。


「あなたは」


「ここに残るつもり?」


「私は」


「門から離れられない」


「六百年間?」


「おそらく」


「本当に」


「六百年も?」


女は。


少しだけ笑った。


「それを」


「確かめる記録が」


「もうない」


ノアが。


不安そうに尋ねる。


「あなた」


「名前」


女は。


少年を見る。


「聞かないでくれて」


「ありがとう」


「呼べないと」


「困らない?」


「困る」


「じゃあ」


ノアは考える。


「空白さん」


レイラが。


一瞬。


吹き出しそうになる。


女が。


驚いた顔をする。


「駄目?」


「名前ではない」


「うん」


「でも」


「呼んだら」


「返事できる」


女は。


長い間。


ノアを見る。


やがて。


小さく。


笑った。


「それなら」


「構わない」


「空白さん」


「何だ」


返事。


ノアが。


笑う。


「できた」


女。


空白。


名前ではない。


それでも。


今。


誰かが呼び。


本人が返事をする。


「あなたも」


ノアが言う。


「帰らない?」


女は。


首を横へ振る。


「まだ」


「何で」


「門が」


「閉じているか」


「見ている者が必要だ」


「一人で?」


その問いに。


女は。


答えなかった。


ヴェスパーが。


彼女を見る。


「ガルムが来たら」


「引きずってでも」


「交代させる」


女の眉が動く。


「ずいぶん」


「勝手な男だな」


「よく言われる」


レイラが。


即答する。


「本当にな」


女が。


小さく笑った。


六百年。


一人で。


門を見ていた者。


「考えておく」


それだけ。


返した。


観測所を出る。


黒い灰。


少しずつ。


増えている。


まだ。


空を覆うほどではない。


一枚。


二枚。


風に乗り。


消えた星から。


降ってくる。


「灰都へ」


セリカが言う。


「最短路を取る」


「リクは」


「運べる」


アルドが担架を押す。


「ヴェスパーは」


セレスが見る。


「歩ける」


「本当に?」


「今は」


「では」


「三十分ごとに休みます」


「多くないか」


「二十分にしますか」


「三十分でいい」


「交渉成立ですね」


ノアが。


ヴェスパーの横を歩く。


「昔の名前」


「気になる?」


「ああ」


「怖い?」


長い沈黙。


「怖い」


「呼ばれたら」


「返事しちゃうかもしれない?」


「それもある」


「でも」


ヴェスパーは。


胸へ触れる。


「一番怖いのは」


「何」


「今までの自分が」


「全部」


「別の誰かだったら」


ノアは。


少し考える。


「それはないよ」


「なぜ」


「ヴェスパーって呼ぶと」


「いつも」


「同じ返事するから」


「それだけ?」


「うん」


「少ないな」


「十分だよ」


ノアは。


木彫りの狼を握る。


「僕も」


「兄ちゃんが」


「本当に生きてるか」


「まだ分からない」


「でも」


「兄ちゃんを探してる僕は」


「僕だよ」


ヴェスパーは。


少年を見る。


「そうだな」


「だから」


ノアが言った。


「昔の名前が違っても」


「ヴェスパーが」


「いなくなるわけじゃない」


「ああ」


二人。


歩く。


空。


灰。


消えた星。


その向こう。


まだ。


何かが。


こちらを見ている。


王都外。


古い観測塔。


治療槽が。


完全に割れていた。


床。


透明な液体。


黒い結晶。


研究員。


倒れている。


死んではいない。


意識を失っている。


五人の黒翼兵。


全員。


携行星環核停止。


中央。


オルディス。


片膝をつき。


自分の左腕を押さえている。


黒い火。


腕を。


這っている。


「……馬鹿な」


逃げたはずの黒陽炎。


空の器へ入れた。


その熱が。


器から消え。


オルディスの身体へ。


移っている。


違う。


移ったのではない。


通り道にされている。


「私を」


「器に?」


黒い炎。


オルディスの意識など。


まるで。


見ていない。


男の身体を通り。


床。


観測塔。


地面。


さらに。


遠くへ。


「違う」


オルディスは。


観測硝子を上げる。


初めて。


自分の研究対象へ。


恐怖に似たものを覚える。


「私ではない」


「私を」


「見てすらいない」


黒い炎は。


ただ。


帰ろうとしている。


傷の起点へ。


門へ。


そして。


遠く。


同じ黒陽炎を持つ。


ヴェスパーへ。


一瞬。


オルディスの頭に。


知らない記憶が流れる。


燃える村。


幼い少年。


若いガルム。


黒い星。


男の声。


『切れ!』


『繋がる前に!』


オルディスの瞳が。


大きく開く。


「ガルム……?」


自分の記憶ではない。


ヴェスパーのものでも。


ない。


もっと。


別の視点。


空から。


村を見下ろしている。


黒い星。


向こう側。


何かが。


幼いヴェスパーを。


見ている。


そして。


声。


『――』


名前。


オルディスには。


聞き取れない。


だが。


黒陽炎が。


その名へ反応する。


観測塔。


全ての窓が。


同時に割れた。


空から。


黒い灰が。


降り始める。


一枚。


オルディスの手へ。


落ちる。


男は。


初めて。


それを見て。


研究ではなく。


一人の人間として。


呟いた。


「これは」


「触れてはいけないものだったか」


黒い炎が。


答えるように。


一度。


揺れた。


灰都へ向かう旧街道。


同じ瞬間。


ヴェスパーが。


立ち止まった。


「どうした」


レイラが尋ねる。


黒陽炎。


胸。


一度。


強く脈打つ。


だが。


声は来ない。


代わりに。


記憶でもない。


誰かの感覚。


冷たい床。


割れた硝子。


黒い灰。


観測硝子。


「オルディス」


ヴェスパーが呟く。


「分かるの?」


ノアが聞く。


「いや」


「でも」


「向こうも」


胸へ手を置く。


「触った」


「何に」


ヴェスパーは。


消えた星を見る。


「同じものに」


その瞬間。


遠く。


観測所の方角。


巨大な音。


ドン。


山が。


僅かに震えた。


全員。


振り返る。


空白の女が残った。


灰星観測所。


その地下。


閉じられているはずの門。


二度目。


ドン。


三度目。


ドン。


そして。


山の斜面に。


一本の。


黒い亀裂が走った。


ノアの耳へ。


今度は。


はっきりと。


二つの声が届いた。


一つ。


遠く。


「待て!」


男の声。


荒い。


低い。


聞き覚えのある。


ガルム。


そして。


もう一つ。


地の底。


門の向こう。


名前ではない。


言葉。


初めて。


意味を持った。


『返せ』


ノアの顔が。


青ざめる。


「何て」


ヴェスパーが尋ねる。


少年は。


山から。


目を離せない。


「返せって」


「何を」


ノアの耳が。


ヴェスパーの胸へ向く。


黒陽炎。


その奥。


もっと深い。


何か。


「分からない」


「でも」


少年は。


ゆっくり答えた。


「ヴェスパーに」


「言ってる」


山。


観測所。


門。


黒い灰。


消えた星。


そして。


ヴェスパーが。


まだ知らない。


自分自身の過去。


六百四十年前に閉じられたはずのものが。


今。


再び。


内側から。


門を叩いていた。

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