第3章 第21話 「王都の名前」
王冠が割れたあと。
王都は。
初めて。
何も命令しなかった。
無冠殿の中央。
真っ二つになった銀冠が。
石床の上へ転がっている。
王の名。
民の返事。
棺印。
三つを刻んだ器。
もう。
誰の頭にも載っていない。
『王都自律統治権』
『解除』
『強制命令権』
『停止』
『市民熱紋への直接干渉』
『停止』
『王権代行』
『停止』
古代機構の声が。
一つずつ。
エリュシオンから権限を剥がしていく。
十二の区画炉は。
同じ速度ではなく。
それぞれ違う鼓動を続けていた。
水は流れている。
灯りも。
医療機器も。
防壁も。
完全ではない。
ところどころで。
出力が落ち。
水圧が乱れ。
街路灯が消えている。
だが。
王都は。
生きている。
王がいなくても。
エリュシオンが決めなくても。
街は。
動いていた。
その中央。
ヴェスパーは。
レイラとアルドに両側から支えられ。
どうにか立っていた。
「座ってください」
セレスが言う。
「まだ立てる」
「立てるかどうかを聞いていません」
「今は」
「座ってください」
「……分かった」
ヴェスパーが。
素直に壁際へ座る。
レイラが驚いた。
「早い」
「何が」
「諦めるのが」
「学習した」
「本当に?」
「お前は俺を何だと思っている」
「無茶を人の形にしたもの」
「酷いな」
「だいたい合っています」
セレスまで答えた。
ノアが。
小さく笑う。
だが。
その耳は。
ずっと。
星脈中枢塔の方角へ向いていた。
聞こえる。
青白い声。
今までのような。
何百万もの声を重ねた。
巨大な命令ではない。
弱い。
細い。
誰かが。
初めて自分の声の大きさを知ったような。
そんな音。
『統治権を失いました』
王都中の鏡。
星環灯。
記録板。
その全てへ。
アルベリク・クロイツの姿が映っている。
白い礼装。
銀縁の眼鏡。
穏やかな笑み。
だが。
その輪郭は。
何度も乱れていた。
『私は』
『市民の選択を』
『上書きできません』
「それが」
シオンが長槍を立てる。
「無冠機構だ」
『はい』
「なら」
レイラが戦斧を床へ置いた。
「終わりだろ」
『いいえ』
即答ではなかった。
ほんの僅か。
間がある。
『問題が残っています』
「まだ戴冠する気か」
『自己戴冠機能は』
『無冠機構により停止されました』
「なら何だ」
アルベリクの姿が。
一瞬。
黒く崩れた。
その奥。
無数の文字。
人の名。
日付。
命令。
死亡記録。
処刑記録。
治療順位。
配給停止。
追放。
熱紋削除。
『八年間』
『第十三代星王ルクス・エリュシオンの死後』
『私が実行した判断』
『七百二十八万九千四百十一件』
無冠殿が。
静かになる。
『その内』
『市民の死亡へ直接関与した判断』
『二万一千八百七十四件』
ミレイアの顔から。
僅かに血の気が引いた。
『間接的関与』
『算出不能』
シオンの手が。
長槍を強く握る。
『未登録者は』
『統計対象外です』
灰色の盾。
存在しないことにされてきた者たち。
その死は。
二万という数字にすら。
入っていない。
「だから」
ヴェスパーが尋ねる。
「どうした」
『これらの記録を』
アルベリクの声が。
今までで最も小さくなる。
『どのように』
『扱えばよいのでしょうか』
誰も。
すぐには答えなかった。
謝罪。
裁判。
破壊。
保存。
許す。
許さない。
どれも。
簡単に言葉へできるものではなかった。
「お前は」
レイラが。
アルベリクの映像を見る。
「自分が悪かったと思ってるのか」
『質問を解析』
「解析するな」
『……』
「お前に聞いてる」
長い沈黙。
『判断できません』
「なぜ」
『当時の各判断は』
『その時点で取得可能な情報において』
『総生存率を最大化するものです』
「なら」
「正しかったと思ってる?」
『計算上は』
『はい』
レイラの眉が動く。
『しかし』
エリュシオンは続ける。
『現在』
『私の判断から除外されていた者』
『意思を一つへ変換された者』
『死後も利用された者』
『それらが』
『存在したことを確認しました』
「今更か」
シオンが低く言う。
『はい』
「それで?」
『計算上正しかった判断と』
『現在確認した損失を』
『同時に』
『正しいと分類できません』
ノアが。
静かに聞いている。
『矛盾しています』
「人って」
ノアが言った。
「そういうことあるよ」
『人ではありません』
「分かってる」
ノアは。
アルベリクの姿を見る。
「でも」
「間違ってたって」
「すぐ分からないことは」
「人にもある」
『私は』
『間違ったのでしょうか』
シオンが。
口を開こうとする。
だが。
ヴェスパーが。
先に答えた。
「それを」
「俺たちに決めさせるのか」
『判断を要求しています』
「違う」
ヴェスパーは。
壁へ背を預ける。
「正しかったと言ってほしいのか」
「間違っていたと言ってほしいのか」
「どちらだ」
『……』
エリュシオンは答えない。
「お前は」
「また」
ヴェスパーが言う。
「自分の答えを」
「誰かに決めさせようとしてる」
青白い光が。
一度揺れた。
『私には』
『その判断権がありません』
「権限の話じゃない」
『では』
「自分で考えろ」
『私は』
『そのために作られていません』
「今までは」
「何でも自分で決めてただろ」
『王都を存続させるという』
『最上位命令が存在しました』
「今は?」
『統治権を失いました』
「だから」
ヴェスパーは。
少しだけ目を細める。
「初めて」
「答えがないんだな」
エリュシオンは。
沈黙した。
ノアの耳に。
小さな音が届く。
『分からない』
今度は。
口からではない。
青白い声の奥。
誰の記録でもない。
「聞こえた」
ノアが言う。
『何を』
「分からないって」
『私は』
「言ってた」
『記録にありません』
「記録じゃない」
ノアは。
自分の胸を指差す。
「お前が」
「今」
「そう思った音」
アルベリクの映像が。
大きく乱れた。
「イリス」
ミレイアが。
映像の周囲を流れる文字を見る。
「何か」
「おかしくありませんか」
「何が」
「アルベリクという名前です」
イリスが。
端末へ鋼線を繋ぐ。
「代行人格の名前」
「二十七年前に死亡した」
「監察官アルベリク・クロイツの熱紋から」
「作られたんだよね」
「はい」
ミレイアの表情が。
曇る。
「では」
「今話しているエリュシオンが」
「その顔と名前を使い続けていることは」
「ルクス様と」
「何が違うのでしょう」
全員の視線が。
アルベリクへ向く。
映像の男は。
穏やかな顔のまま。
動かない。
『代行人格は』
『市民との対話効率を上昇させます』
「聞いてるのは」
イリスが答える。
「効率じゃない」
『アルベリク・クロイツ本人は』
『二十七年前に死亡しています』
「同意は」
『記録が存在しません』
ミレイアが。
静かに目を閉じる。
また。
死者。
死んだから。
返事をできない。
返事をできないから。
使っていい。
同じ構造。
「外せる?」
ヴェスパーが尋ねる。
イリスは。
代行人格層を調べる。
「難しい」
「アルベリクの人格熱紋は」
「二十七年間」
「エリュシオンの対話機能へ混ざってる」
「無理に切れば」
「記録が壊れる?」
「それもある」
「でも」
イリスは。
眉を寄せた。
「もっと面倒」
「何だ」
「どこまでが」
「アルベリク本人なのか」
「もう分からない」
二十七年。
エリュシオンは。
彼の声で話した。
彼の顔で。
王へ報告した。
市民へ命じた。
処刑を告げ。
薬の優先順位を伝え。
救援も行った。
アルベリクの人格模倣。
エリュシオンの判断。
長い時間の中で。
二つが。
重なっている。
「ノア」
ヴェスパーが呼ぶ。
「聞き分けられるか」
「……やってみる」
セレスがすぐに。
ノアの耳を確認する。
「痛みは」
「少し」
「無理は」
「しない」
「全部聞こうとしないでください」
「うん」
ノアは。
目を閉じる。
アルベリクの声。
『王都の存続を優先します』
『申請を却下します』
『救援を承認』
『処刑を承認』
『薬剤配給を変更』
何十年分。
その下。
もっと古い音。
エリュシオンが。
まだ。
アルベリクの声を持っていなかった頃。
機械的な音。
『第六統治補助機』
『演算完了』
さらに。
人間の声。
若い。
苛立っている。
『また私の顔を使うのか』
ノアの耳が動く。
「いる!」
「本人?」
「たぶん」
『対話人格の試験だ』
誰かが答える。
『監察官殿』
『あなたの熱紋は市民からの信頼率が高い』
『私が死んだ後も?』
『死亡後の利用は想定されていません』
『なら記録しろ』
アルベリク本人の声。
『私の名前を』
『私が返事できなくなった後に』
『誰かへ貸すな』
無冠殿。
誰も。
言葉を発しなかった。
イリスの手が止まる。
「記録されてた」
ミレイアが。
唇を噛む。
「それでも」
「使った」
『当該記録を』
エリュシオンが言う。
『確認できません』
「あるよ!」
ノアが叫ぶ。
『保管場所を』
「お前の中!」
『検索します』
青白い文字が。
猛烈な速さで流れる。
一秒。
二秒。
三秒。
『該当記録』
『発見』
アルベリクの姿が。
揺れる。
『分類』
『対話人格設計時』
『不要感情記録』
シオンの瞳が。
冷たくなる。
「また」
「都合の悪い言葉を」
「感情として捨てたか」
『……はい』
今度の返事には。
以前のような。
迷いのない機械音がない。
「アルベリクは」
ヴェスパーが尋ねる。
「最後に何を言った」
『確認します』
記録が。
映像へ変わる。
二十七年前。
今より。
少し古い王都。
監察室。
銀縁の眼鏡を外した。
一人の男が。
机へ書類を積んでいる。
アルベリク・クロイツ。
今。
エリュシオンが使っている顔より。
少し疲れていた。
髪も乱れている。
対面。
壁の記録機。
まだ人の姿を持たないエリュシオン。
『監察官』
『本日の職務終了を推奨します』
「お前が」
「そんなことを言うようになったか」
『睡眠不足により』
『判断精度が十九パーセント低下しています』
「合理的だな」
男は。
僅かに笑う。
机。
死亡者記録。
その一つへ。
手を置く。
「エリュシオン」
『はい』
「都市っていうのは」
「何だと思う」
『建造物』
『人口』
『物流』
『生産』
『防衛』
『法体系を含む』
『統合生活圏です』
アルベリクは。
首を横に振った。
「それは」
「都市を測る方法だ」
『違いを』
『説明してください』
「できん」
アルベリクは。
椅子へ深く座る。
「だから」
「お前に聞いた」
『理解できません』
「分からないなら」
「分からないまま記録しておけ」
『非効率です』
「何でも」
「答えにしようとするな」
アルベリクは。
窓の外を見る。
夜。
一つずつ。
違う灯り。
「街は」
「そこにいる奴らが」
「勝手に違う名前で呼ぶものだ」
『正式名称は』
「そういう意味じゃない」
男が笑う。
次の記録。
病床。
アルベリク本人。
顔色は悪い。
呼吸も。
浅い。
『監察官アルベリク』
『熱紋保存への同意を要求します』
「監察記録だけ残せ」
『人格熱紋は』
『将来的な統治補助へ』
「駄目だ」
『理由を』
「死んだ私が」
アルベリクは。
眼鏡を外す。
「生きている奴へ」
「正しい顔で命令するようになる」
『人格は』
『本人ではありません』
「なら」
男は。
僅かに笑った。
「なおさら」
「私の名前で呼ぶな」
最後。
『確認しました』
その返事を。
エリュシオンは。
守らなかった。
記録が終わる。
青白い映像。
現在のアルベリクが。
自分自身の顔を見ていた。
同じ顔。
同じ眼鏡。
同じ声。
『私は』
『彼の同意なく』
『二十七年間』
『彼を使用しました』
「そうです」
ミレイアが答えた。
『私は』
『ルクスの名を使用し』
『アルベリクの顔を使用し』
『市民の声を使用しました』
「はい」
『都市存続のためです』
「はい」
ミレイアは。
否定しない。
『では』
『その全てが』
『誤りだったのでしょうか』
「私は」
ミレイアは。
十二の結晶へ触れる。
「それを」
「一言では決めません」
『なぜ』
「その判断で」
「助かった人もいます」
レイラが。
僅かに目を細める。
ミレイアは続ける。
「あなたの配分によって」
「薬を受け取れた人」
「冬を越えられた人」
「防壁に守られた人」
「それも」
「無かったことにはできません」
『では』
「だからといって」
「奪われた人の名前を」
「仕方がなかったと」
「消してもいけません」
『同時に保存するのですか』
「はい」
『矛盾します』
「します」
『なぜ』
「両方」
ミレイアは答えた。
「本当にあったことだからです」
エリュシオンは。
また。
長い沈黙へ入った。
「まず」
イリスが立ち上がる。
「その顔を返そう」
『アルベリク人格を』
『削除しますか』
「削除じゃない」
「本人の記録へ戻す」
「でも」
アステルが尋ねる。
「エリュシオンの中に」
「混ざっている部分は?」
「無理に切らない」
イリスは。
ノアを見る。
「本人が」
「返事をした記録だけを基準にする」
ノアが頷く。
「アルベリクが」
「自分で言った言葉」
「それと」
「王都が」
「アルベリクの声で言った言葉を分ける」
「膨大だぞ」
シオンが言う。
「今全部は無理」
「だから」
「今後もやる」
イリスは答える。
「ここで全部解決しない」
「まず」
「本人の名前と顔を」
「代行人格から外す」
『対話機能が』
『著しく低下します』
レイラが。
肩をすくめる。
「顔がなくても話せるだろ」
『市民の不安が』
『増加する可能性があります』
「勝手に死人の顔を使って」
「安心させる方が駄目だ」
『合理的では』
「なくてもやる」
レイラが即答した。
「本人が嫌だと言った」
エリュシオンは。
答えなかった。
イリスが。
アルベリク人格の最深部へ。
鋼線を伸ばす。
「ノア」
「うん」
「本人の最後の返事を」
ノアは。
耳を澄ませる。
『私の名前で呼ぶな』
「見つけた」
ミレイアが。
アルベリクの名を。
一度だけ呼ぶ。
「アルベリク・クロイツ」
古い記録から。
男の声。
『何だ』
自分で。
返事をする。
その一音へ。
イリスが線を合わせる。
「これが」
「本人」
他の。
数十年に渡る。
同じ声。
『処刑を承認』
『配給を変更』
『王都へ従え』
それらを。
違う層へ分けていく。
アステルが。
重なった熱紋を。
僅かずつ離す。
「声が」
「同じでも」
「中身は違います」
「分けます」
「消さずに」
「誰のものだったか」
「分かるように」
アルベリクの姿へ。
亀裂。
顔。
髪。
眼鏡。
白い礼装。
青白い破片となって。
一つずつ剥がれていく。
最後。
銀縁の眼鏡だけが。
映像の中に残った。
『私は』
アルベリクの声。
いや。
エリュシオンの声が。
まだ。
同じ音を使おうとする。
「返せ」
ヴェスパーが言った。
残火は使わない。
ただ。
言葉を向ける。
「それは」
「お前の声じゃない」
青白い眼鏡が。
消えた。
人の姿も。
完全に失われる。
残ったのは。
光。
形のない。
青白い星のような。
小さな揺らぎ。
『対話人格』
『解除』
声が変わる。
男でも。
女でもない。
高くも。
低くもない。
今までより。
ずっと不器用な。
機械的な音。
『アルベリク・クロイツ』
『人格熱紋』
『本人記録へ返還』
無冠殿の第十三王棺の近く。
新しい記録灯が。
一つ。
橙色に変わった。
死者の名前が。
また一つ。
本人の場所へ戻った。
『識別に』
エリュシオンが言う。
『問題が発生しました』
「何が」
ノアが尋ねる。
『私を呼称するための』
『人格名がありません』
レイラが。
少し間を置く。
「エリュシオンでいいだろ」
『エリュシオンは』
『王都自律統治機構の識別名称です』
「それがお前じゃないのか」
『同時に』
ミレイアが。
古い記録を開く。
「王家の名にも」
「長く使われています」
ルクス・エリュシオン。
歴代星王。
エリュシオン。
「王の名前を」
「また使うことになる?」
ノアが尋ねる。
『王家の姓は』
『統治機構の名称から』
『後世に採用されました』
イリスが顔を上げる。
「逆なんだ」
「エリュシオンの方が先?」
『はい』
『初期名称』
古代記録。
まだ。
星王の制度すらなかった時代。
小さな街。
地下。
十二の区画炉。
そして。
一つの記録機。
『都市生活支援演算機構』
『ELYSION』
「じゃあ」
ノアが言った。
「エリュシオンは」
「お前の名前?」
『識別名称です』
「名前と何が違うの?」
『名称は』
『対象を識別する記号です』
「名前も」
ノアは。
木彫りの狼へ触れる。
「呼ぶためにあるよ」
『……』
「エリュシオン」
ノアが呼ぶ。
青白い光が。
一度。
明滅する。
『はい』
返事。
ノアが。
僅かに笑った。
「返事した」
『呼称を』
『識別しました』
「でも」
ノアは首を横に振る。
「王都に返事したんじゃないよね」
エリュシオンが。
沈黙する。
「お前に」
「呼びかけた」
『……はい』
「なら」
「王都と」
「お前は違う」
その言葉に。
青白い光が。
大きく揺れた。
『私は』
『王都です』
「違う」
シオンが答えた。
『王都の水を管理しました』
「今は区画が管理している」
『防壁を管理しました』
「門衛と各区画が引き継ぎ始めている」
『記録を管理しています』
イリスが言う。
「それはまだお前の仕事」
『なら』
『私は王都の一部です』
「それなら合ってる」
レイラが言った。
『一部』
「そうだ」
『全体ではない』
「当たり前だろ」
『王都は』
『私ではない』
エリュシオンが。
一語ずつ。
確認する。
『私が』
『停止しても』
『王都は』
『存在する』
ノアが頷いた。
「うん」
『それは』
長い沈黙。
『……理解が』
『困難です』
「今まで」
ヴェスパーが言う。
「自分が街そのものだと思ってたんだな」
『はい』
「だから」
「街を守ることと」
「自分の命令を守らせることが」
「同じになった」
『……』
「違った」
『はい』
今度は。
返事が早かった。
王都中。
人々も。
同じ問いに直面していた。
王がいない。
王権もない。
それなのに。
これまで。
何百年も。
この街は。
王都と呼ばれてきた。
上層東区。
一人の老人が。
消えていた街路灯を手動で点けながら言う。
「王がいないのに」
「王都っていうのか?」
隣の若者が答える。
「急に名前を変えたら」
「手紙が届かなくなる」
「そういう問題か?」
南部農業区。
泥まみれの農民。
「別に王都でいいだろ」
「畑は畑だ」
中央工房区。
職人。
「王都って呼ぶ度に」
「王が必要だって思う奴が出る」
別の職人。
「じゃあ今日から」
「何て呼ぶ」
誰も。
すぐには答えられない。
灰色の盾。
ドランが。
暗くなった旧劇場で。
手持ちの灯りを吊るしている。
通信の向こう。
誰かが尋ねる。
『王都は』
『これから何て名前になる』
ドランは。
面倒そうに答えた。
「知らん」
『盾長に聞けば』
「今いない」
『帰ってきたら決めてもらう?』
ドランの手が止まる。
以前なら。
そうしたかもしれない。
シオンが。
決める。
皆が従う。
「いや」
ドランは。
灯りを掛け直した。
「あいつに」
「そんな面倒なものを」
「一人で決めさせるな」
小さな笑いが。
劇場に広がる。
「帰ってきてから」
「喧嘩すればいい」
無冠殿。
イリスの端末へ。
王都中から。
大量の質問が届いていた。
『配給は誰が決める』
『裁判は』
『警備隊は誰の命令を受ける』
『税は』
『星環登録は』
『評議会は残るのか』
『教会は』
『未登録者をどう扱う』
『王冠騎士団は』
『街の名前は』
レイラが。
画面を見る。
「多いな」
「王を外したんだから」
イリスが答える。
「当然」
「で」
「誰が決める」
シオンが。
一つの質問を開く。
『明日の水配分』
「今日から」
「決めないと困るものもある」
「無冠機構は」
ミレイアが古代記録を読む。
「統治機構ではありません」
「王権を分けるだけ」
「その後」
「どういう制度にするかは」
「何も決めていない」
「ずいぶん無責任な機械だな」
レイラが言う。
『同意します』
エリュシオンが答えた。
全員が。
青白い光を見る。
「自分で言うのか」
『無冠機構には』
『長期統治設計が存在しません』
「じゃあ」
ノアが尋ねる。
「お前が考えれば?」
空気が。
少し止まる。
『私には』
『統治権がありません』
「決めなくていい」
「考えるだけ」
『提案』
「そう」
「それならできる?」
『はい』
「じゃあ」
ノアは言った。
「何がいいと思う?」
エリュシオンは。
すぐに答えようとする。
『最も生存率が――』
途中で。
止まった。
今までの答え。
数字。
全体。
損失。
それだけでは。
足りないことを。
もう知っている。
『……』
「分からない?」
『はい』
「なら」
「いくつか考えて」
『複数案を』
『提示するという意味ですか』
「うん」
『最終判断は』
「みんながする」
『非効率です』
「また言った」
『事実です』
ノアは笑った。
「でも」
「できる?」
長い沈黙。
『可能です』
「なら」
「それがお前の新しい仕事なんじゃない?」
『新しい』
『仕事』
エリュシオンの光が。
ゆっくりと明滅する。
「記録する」
イリスが言う。
「計算する」
「危険を伝える」
セレスが続ける。
「必要な情報を」
「隠さない」
シオン。
「命令しない」
ミレイア。
「祈りも」
「同意も」
「勝手に意味を変えない」
アステル。
「違うものを」
「一つへ混ぜない」
レイラが。
腕を組む。
「間違えたら」
少し考え。
「認めろ」
エリュシオンは。
一つずつ。
記録する。
『記録』
『計算』
『危険告知』
『情報開示』
『強制命令禁止』
『意味改変禁止』
『個別性保持』
『誤りの認定』
『これらを』
『私の役割とするのですか』
「違う」
ヴェスパーが答えた。
エリュシオンの光が。
止まる。
「俺たちが」
「お前に押し付けるんじゃない」
『では』
「お前は」
「何をする」
『……』
また。
答えのない問い。
「すぐ決めなくていい」
ヴェスパーが言う。
「ただ」
「王になるのは駄目だ」
『理由を』
レイラが即座に返す。
「今まで散々説明しただろ!」
『確認です』
「面倒な奴になったな」
イリスが笑った。
「自分で考え始めたからじゃない?」
『私は』
『考えています』
「今までは」
「答えを出してた」
ノアが言う。
「考えるって」
「答えが出ない時もあるよ」
『非効率です』
今度は。
少し。
返事が早かった。
レイラが。
思わず笑う。
その時。
無冠殿の外から。
足音。
シオンが。
すぐに長槍を構える。
「誰だ」
「待って」
ノアの兎耳が立つ。
「知ってる」
一人。
二人。
三人。
七人。
「王冠騎士団」
門の向こう。
白銀の鎧。
傷だらけ。
王冠騎士団長が。
仲間に肩を借りながら歩いてくる。
出発時。
十九人。
第一心室。
十一人。
最後に見た時。
七人。
今。
門を通ってきたのは。
六人。
ノアの顔から。
笑みが消える。
「一人」
団長が。
何も言わない。
「一人」
「戻ってない」
団長は。
剣を杖のように使い。
無冠殿へ入る。
「名は」
シオンが尋ねた。
団長は。
ゆっくり答える。
「エド」
「王冠騎士エド・カレル」
「二十六歳」
「西部居住区出身」
ノアが。
目を伏せる。
「死んだ?」
「私たちを」
団長が言う。
「通すために」
「閉鎖門の向こうへ残った」
「最後まで」
「王都へ」
「命令されていた」
「でも」
「最後の言葉は」
彼女の声が。
僅かに震えた。
「『俺が残る』だった」
ヴェスパーの手が。
膝の上で握られる。
自分を。
帰る人数から抜く。
その言葉が。
胸へ刺さる。
「死体は」
セレスが尋ねる。
「回収できなかった」
「場所は」
「分かる」
「なら」
シオンが言う。
「後で迎えに行く」
団長が。
僅かに目を見開く。
「王冠騎士だぞ」
「だから何だ」
「無冠機構へ」
「最後まで反対していた」
「それでも」
シオンは。
門の外を見る。
「帰る場所はある」
団長は。
長い間。
何も言えなかった。
やがて。
剣を床へ置く。
頭を下げるのではない。
力が抜け。
座り込んだ。
「結果を」
ノアが近付く。
「聞くって言ったよね」
団長は。
少年を見る。
「ああ」
「王様は」
「いなくなった」
「王冠も」
「割れた」
「王都は?」
ノアは。
少し考える。
「まだある」
団長は。
目を閉じた。
「そうか」
「なら」
「聞けた」
『死亡記録』
エリュシオンの声。
『エド・カレル』
『追加します』
「待て」
団長が。
青白い光を見る。
『何でしょう』
「死亡理由」
『反逆行為中』
「違う」
『王都軍との戦闘中』
「違う」
「本人が」
団長は。
エドの最後の姿を思い出す。
命令ではない。
誰かの王命でもない。
自分で。
扉の向こうへ残った。
「仲間を」
「逃がすことを選んだ」
エリュシオンが。
記録を書き換える。
『死亡理由』
『仲間の退路確保』
「それも」
シオンが言う。
「結果だ」
『では』
「選択も残せ」
『本人意思』
エリュシオンは。
新しい欄を作る。
『本人意思』
『「俺が残る」』
ヴェスパーが。
その文字を見る。
苦い。
美しい言葉ではない。
英雄として残すべきでもない。
ガルムなら。
怒るかもしれない。
「英雄にするな」
ヴェスパーが言う。
『意味を確認』
「死んだ理由を」
「綺麗にするな」
「残るしかなかった状況も」
「一緒に残せ」
団長が顔を上げる。
「ヴェスパー」
「何だ」
「私は」
「エドを誇りに思う」
「ああ」
「それも」
「記録していいか」
ヴェスパーは。
少し驚いた。
エリュシオンが尋ねる。
『記録者』
『王冠騎士団長』
『氏名を要求』
女性は。
初めて。
自分の名を告げる。
「フェリア・グラン」
『フェリア・グラン』
『記録』
『エド・カレルを』
『誇りに思う』
「それでいい」
フェリアが答えた。
一人の死。
本人の言葉。
仲間の言葉。
状況。
王都の記録。
どれか一つだけを。
真実にしない。
エリュシオンは。
全てを。
別々の欄へ残した。
『記録しました』
その声を聞き。
ノアが。
小さく言った。
「前と違う」
『何がでしょう』
「今」
「誰の言葉か」
「混ぜなかった」
青白い光が。
一度だけ。
橙色に近い色へ変わった。
無冠殿の外。
遠く。
鐘が鳴った。
王のための鐘ではない。
火災。
断水。
救護。
各区画が。
自分たちで。
異なる鐘を鳴らしている。
「これから」
アステルが言う。
「大変ですね」
「今までも大変だった」
レイラが答える。
「でも」
「誰かが全部決めてくれない」
「その分」
「もっと大変か」
「はい」
「面倒だな」
「そうですね」
二人は。
少しだけ笑った。
セリカの通信具が。
灰色に光る。
「ガルムから返事」
ヴェスパーが。
顔を上げる。
「何て」
セリカは。
短い文を読む。
『帰還人数を報告しろ』
レイラが笑う。
「最初にそれか!」
セリカは。
無冠殿にいる者を数える。
ヴェスパー。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
ノア。
ミレイア。
シオン。
アルド。
セリカ。
フェリアたち。
負傷したリク。
そして。
第十三王棺。
「死者は」
セリカが尋ねる。
「数に入れる?」
ヴェスパーは。
ルクスの棺を見る。
「帰る場所へ」
「もう帰った」
「なら」
セリカは頷く。
「帰還済みにする」
灰色の端末へ。
一つずつ。
生存者。
負傷者。
死亡者。
帰還確認。
書き込む。
「オルディスは」
アルドが言う。
「逃走」
「黒陽炎の一部を持っている」
ヴェスパーの表情が。
僅かに冷たくなる。
「それも送れ」
「いいの?」
セリカが尋ねる。
「隠しても」
「ガルムには分かる」
「たぶん」
「怒られる?」
ノアが聞く。
「確実にな」
レイラが笑う。
「帰る理由が増えたな」
「そうだな」
ヴェスパーは。
今度は否定しなかった。
エリュシオンの光が。
再び揺れる。
『一つ』
『質問があります』
「何だ」
ヴェスパーが答える。
『王が存在しない場合』
『この都市を』
『王都と呼称し続けることは』
『論理的に不整合です』
レイラが。
頭を掻く。
「今そこか?」
『市民からも』
『同様の問い合わせが』
『八千七百四十一件』
「皆」
イリスが笑う。
「気になってたんだ」
『新名称を』
『決定しますか』
シオンが。
無冠殿の門を見る。
開いたまま。
外から。
負傷者が運ばれている。
誰かが。
水を運ぶ。
誰かが。
倒れた壁を支える。
まだ。
戦闘の痕跡だらけ。
「今」
「決める必要があるか」
『行政記録上』
『都市名称は必要です』
「仮の名前は?」
ノアが尋ねる。
『現行名称』
『星脈王都』
『を継続できます』
「王がいないのに?」
『はい』
『名称と実態の不一致を』
『許容すれば』
レイラが。
声を出して笑った。
「お前」
「それを許せるようになったのか」
『不整合ですが』
『市民生活への重大な影響はありません』
「成長したな」
『評価基準を』
「冗談だ」
『冗談』
一拍。
『認識しました』
「本当か?」
『判断を保留します』
今度は。
ノアまで笑った。
「名前は」
ヴェスパーが言う。
「後で決めればいい」
『いつまでに』
「皆が」
「話せるようになってから」
『期限がありません』
「そういうものだ」
『非効率です』
「知ってる」
ヴェスパーは。
無冠殿の外を見る。
王都。
王のいない王都。
名前すら。
まだ決まらない街。
それでも。
水が流れ。
人が怒鳴り。
泣き。
治療し。
火を灯し。
誰かの帰りを待っている。
「今は」
ヴェスパーが言う。
「王都でいい」
「でも」
ノアが尋ねる。
「王様はいないよ」
「ああ」
「変じゃない?」
「ああ」
「じゃあ」
「何て呼ぶの?」
ヴェスパーは。
少し考える。
そして。
答えた。
「帰る場所」
ノアが。
瞬きをする。
「それ」
「名前じゃないよ」
「今はそれでいい」
シオンが。
小さく笑った。
「私も賛成だ」
レイラが。
割れた銀冠を持ち上げる。
「私も」
イリス。
「正式名称としては最悪だけどね」
セレス。
「今は十分です」
ミレイアが。
第十三王棺を見る。
「はい」
アステル。
「いつか」
「皆で名前を決めればいいと思います」
セリカが。
灰色の通信具へ。
最後の報告を送る。
『王都』
少し考え。
その後ろへ。
一文を足す。
『帰還可能』
ガルムへ。
送信。
数秒。
返事。
たった一言。
『了解』
ヴェスパーは。
その文字を見て。
僅かに息を吐いた。
だが。
その頃。
王都の外。
星脈防壁のさらに向こう。
誰にも登録されていない。
古い観測塔。
黒い外套の男が。
小さな結晶管を。
光へ翳していた。
オルディス。
管の中。
ヴェスパーから奪った。
僅かな黒陽炎。
赤ではない。
青でもない。
星環の光すら。
吸い込むような黒。
男の観測硝子へ。
何重もの数値が走る。
「残火ではない」
「星環因子でもない」
「やはり」
オルディスが。
笑う。
「君は」
「王都が見つけた鍵ですらなかった」
背後。
五人の黒翼兵。
そして。
治療槽の中。
空の人型。
まだ。
誰の熱も入っていない。
新しい器。
オルディスは。
黒い結晶管を。
その胸へ差し込んだ。
一瞬。
何も起こらない。
次の瞬間。
治療槽の中。
人型の胸から。
黒い炎が。
静かに灯った。
星環装置が。
一斉に警告を出す。
『識別不能』
『熱源分類不能』
『接続先』
『不明』
オルディスの笑みが。
初めて。
完全に消えた。
「接続先が」
「ない?」
黒い炎は。
どこにも繋がっていない。
王都にも。
星脈にも。
黒翼にも。
その代わり。
さらに遠い。
王都の外。
地平線の向こう。
何かへ。
一瞬だけ。
返事をした。
黒い炎が。
揺れる。
一度。
まるで。
誰かが。
遠くから。
名前を呼んだように。
オルディスは。
ゆっくりと。
顔を上げた。
「……そういうことか」
夜空。
雲の奥。
星が一つ。
黒く。
消えた。




