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灰の星  作者: ウルフルマル


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第3章 第22話 「黒い星の返事」

星が。


一つ消えた。


誰も。


最初は気付かなかった。


王都では。


水路の復旧。


負傷者の搬送。


区画炉の調整。


止まった星環機器の再起動。


王のいない街が。


初めて自分たちの手で夜を越えようとしていたからだ。


誰も。


空を見ている余裕などなかった。


ただ一人。


ヴェスパーだけが。


胸の奥で。


その瞬間を知った。


「――っ」


無冠殿。


壁際に座っていた身体が。


突然。


大きく前へ傾く。


「ヴェスパー!」


セレスが腕を掴んだ。


「どうしました!」


「分からない」


右手が。


自分の胸元を強く掴む。


熱い。


残火ではない。


もっと深い。


今まで。


何度も現れ。


それでも正体を掴めなかった。


黒陽炎。


「黒い熱ですか」


「ああ」


「使っていないのに?」


「何もしてない」


黒。


指先からではない。


胸の中心から。


薄い陽炎が漏れる。


レイラが。


反射的に戦斧へ手を掛けた。


だが。


敵はいない。


「何だ、それ」


アステルが。


ヴェスパーの熱を見る。


「いつもと違います」


「どう違う」


「広がろうとしていません」


少女は。


自分の重圧因子へ意識を集中する。


熱の流れ。


向き。


重さ。


「どこかへ」


「引かれています」


「オルディスか」


イリスが。


端末を開く。


王都外周。


先ほど。


オルディスが逃げた方向。


反応なし。


「違う」


ノアが言った。


大きな兎耳が。


天井へ向いている。


地下にいる。


空など見えない。


それでも。


少年は。


ずっと上。


王都の建物。


防壁。


雲。


さらにその向こうへ。


耳を向けていた。


「上」


「星脈中枢?」


ミレイアが尋ねる。


「もっと上」


「何が聞こえる」


ヴェスパーが尋ねる。


ノアの顔が。


少しずつ強張る。


「音じゃない」


「じゃあ何だ」


「……返事」


その瞬間。


王都中。


全ての星脈灯が。


一斉に消えた。


暗闇。


一秒。


二秒。


三秒。


「ノア!」


「ここ!」


「レイラ!」


「いる!」


「アステル!」


「はい!」


声。


名前。


一つずつ。


暗闇の中で。


誰がいるのか確認する。


シオンの長槍が。


石床へ一度だけ当たる。


「門は開いている」


セリカ。


「外周通信、生きてる」


アルド。


「担架も問題ない」


イリス。


「端末は死んだ」


ミレイア。


「星環が」


胸元の十二の結晶を見る。


全て。


光を失っている。


「反応しません」


セレスは。


ヴェスパーの脈を取る。


「脈拍上昇」


「呼吸は」


「できてる」


「胸痛は」


「ない」


「頭痛」


「少し」


「黒い熱は」


ヴェスパーが。


暗闇の中。


自分の手を見る。


見える。


光がないのに。


黒い炎だけは。


なぜか。


輪郭を持っていた。


炎なのに。


周囲を照らさない。


逆に。


近くの僅かな光を。


吸い込んでいる。


「消えない」


ノアが。


その黒へ耳を向ける。


「ヴェスパー」


「何だ」


「これ」


「お前の熱だけじゃない」


無冠殿。


完全な暗闇の中。


青白い光が。


一つだけ戻る。


エリュシオン。


もう。


アルベリクの姿ではない。


名も。


顔も。


借りていない。


ただの小さな光。


『緊急報告』


「何が起きた」


シオンが尋ねる。


『星脈網』


『全域通信断』


「王都だけ?」


『いいえ』


光が。


僅かに揺れる。


『王都から確認可能な』


『全星脈観測点』


『同時停止』


イリスが。


手動端末を再起動する。


「範囲は」


『算出不能』


「理由」


『不明』


レイラが。


エリュシオンを見る。


「お前が不明って言うと」


「本当に嫌な感じがするな」


『同意します』


レイラが。


一瞬だけ黙った。


「今」


「同意した?」


『はい』


「変なところで成長するな!」


次の瞬間。


星脈灯が。


一つずつ戻り始める。


だが。


以前の青白い光ではない。


区画ごと。


異なる強さ。


橙。


白。


薄い青。


無冠機構起動後。


それぞれの区画炉から送られる光。


王都は。


三秒。


星脈中枢を失った。


それでも。


再び明るくなった。


「王都は」


ノアが呟く。


「止まってない」


『はい』


エリュシオンが答える。


『分散脈動炉が』


『都市機能を維持しました』


シオンが。


小さく息を吐く。


「昨日までなら」


「どうなっていた」


『中枢星脈停止により』


『都市機能の七割以上が停止』


『復旧不能となる可能性が』


「もういい」


レイラが言った。


「今回は」


「止まらなかった」


『はい』


エリュシオンの光が。


僅かに明滅した。


『予測外でした』


「良い方のな」


『……はい』


だが。


イリスは。


端末を見たまま。


笑っていなかった。


「まずい」


「何が」


「止まった三秒」


「全部の記録が消えてる」


「破壊された?」


「違う」


イリスは。


古い履歴を開く。


停止前。


停止。


復旧。


本来なら。


空白の三秒が残る。


だが。


その三秒そのものが。


存在していない。


「記録機は」


「停止したことすら」


「覚えてない」


ミレイアが。


自分の星環結晶を見る。


「私の結晶も」


「同じです」


「でも」


ノアが言う。


「僕たちは覚えてる」


「ああ」


イリスが頷く。


「星環に繋がってない人の記憶は」


「残ってる」


シオンが。


すぐに灰色の盾へ通信する。


「ドラン」


雑音。


数秒後。


『何だ!』


「今」


「灯りが消えたか」


『消えた』


「何秒」


『三秒くらい』


「覚えてるか」


『当たり前だろ』


通信の向こう。


ドランの苛立った声。


『旧劇場で』


『三人が同時に鍋を落とした』


『今掃除してる!』


イリスの目が。


鋭くなる。


「灰色の盾は」


「星環登録されていない」


「だから」


アステルが理解する。


「消されたのは」


「星環側の記録だけ?」


「そう」


イリスは。


ヴェスパーを見る。


「黒陽炎が」


「星脈から何かを切り離した」


ヴェスパーが首を横に振る。


「俺は何もしてない」


「分かってる」


「だから問題なの」


エリュシオンが。


新しい情報を投影する。


王都。


星脈。


周辺都市。


海都。


灰都方面。


既知の観測点。


その全ての外側。


何もない。


地図の端。


『異常熱源』


一点。


黒。


「これは」


ミレイアが息を呑む。


『分類不能』


『星脈接続なし』


『既知因子との一致率』


『零・三パーセント未満』


「距離は」


セリカが尋ねる。


『測定不能』


「方向は」


『天頂方向』


全員が。


無冠殿の天井を見る。


王都の上。


空。


「星?」


ノアが尋ねる。


エリュシオンの返事が。


遅れる。


『星として』


『登録されていません』


同じ頃。


王都外。


古い観測塔。


「もう一度だ」


オルディスが言った。


治療槽。


透明な液体。


人の形をした。


空の器。


その胸の中。


黒い炎。


ヴェスパーから奪った。


僅かな熱。


たった一片。


それだけのはずだった。


「出力を上げろ」


五人の黒翼兵のうち。


一人が装置へ手を置く。


『星環接続率』


『九十四』


『九十六』


『九十八』


「停止」


別の研究員が言う。


「星環核が持ちません!」


「続けろ」


「ですが」


「これは」


オルディスは。


観測硝子を下ろす。


「星環因子ではない」


「なら」


「星環を壊してでも」


「外側を見ろ」


『百』


装置が。


青白く光る。


その瞬間。


全ての光が。


消えた。


三秒。


完全な暗闇。


「……何だ」


研究員の声。


一秒。


「出力を戻せ!」


二秒。


「記録!」


三秒。


灯りが戻る。


観測塔の装置が。


一斉に警告を出した。


『記録欠損』


『時刻同期不能』


『星脈接続先消失』


オルディスは。


治療槽を見る。


黒い炎は。


消えていない。


むしろ。


先ほどより。


強い。


「接続先」


男が呟く。


「表示しろ」


『接続なし』


「嘘だ」


『接続なし』


「では」


「何に反応した」


観測装置。


星図。


既知星脈。


大気圏観測。


全て。


何も表示しない。


その中。


一つ。


古い。


王都の星脈以前。


何百年も使われていなかった。


光学観測器。


星環へ接続されていない。


ただ。


空を見るためだけの。


古い筒。


そこだけが。


動いていた。


オルディスが。


ゆっくり近付く。


覗く。


夜空。


星。


一つ。


二つ。


三つ。


その中。


何もない場所。


あるはずの星が。


一つ。


消えている。


「記録を」


『星環記録は存在しません』


「光学記録」


古い紙。


写真板。


以前。


同じ位置。


確かに。


淡い星が一つあった。


今。


ない。


「星が」


研究員の声が震える。


「消えた?」


オルディスは。


答えない。


黒い炎を見る。


一度。


揺れる。


遠い空。


星のなかった場所。


ほぼ同時に。


もう一度。


黒い点滅。


光ではない。


暗さ。


夜空より。


さらに黒い。


「これは」


オルディスの口元が。


僅かに歪む。


笑み。


ではない。


興奮と。


初めて感じる。


理解できないものへの警戒。


「返している」


「何を」


研究員が尋ねる。


「こちらが」


「信号を送った?」


「違う」


オルディスは。


治療槽へ手を置く。


「彼だ」


ヴェスパー。


「奪った熱が」


「呼んだ」


「そして」


夜空。


黒い点。


「何かが」


「返事をした」


『内容を解析しますか』


「できるのか」


『不明です』


「やれ」


装置が。


黒い脈動を。


音へ変換しようとする。


一度。


長い。


二度。


短い。


三度。


長い。


四度。


短い。


規則性がある。


「言語?」


「違います」


研究員が。


波形を読む。


「心拍に」


「似ています」


オルディスの目が。


細くなる。


「誰の」


波形を重ねる。


黒い脈動。


治療槽の器。


違う。


黒翼兵。


違う。


オルディス。


違う。


保存記録。


そして。


一致。


ヴェスパー。


奪った黒陽炎が。


最後に記録していた。


彼の心拍。


黒い星から届いた脈動は。


ヴェスパーの心拍と。


ほぼ同じ間隔だった。


「……模倣?」


『一致率』


『九十三・一パーセント』


研究員の顔が。


青ざめる。


「向こうは」


「ヴェスパーを」


「知っている?」


オルディスは。


長い間。


答えなかった。


やがて。


低く言う。


「違う」


「これほど遠い何かが」


「一人の人間を知る理由がない」


「では」


「ヴェスパーの方が」


観測硝子。


黒い炎。


消えた星。


「向こうの何かを」


「持っている」


無冠殿。


ヴェスパーの心臓が。


強く跳ねた。


「っ!」


セレスが。


すぐに身体を支える。


「またですか!」


「ああ」


ノアが。


黒い熱へ耳を向ける。


一度。


ヴェスパーの心臓。


二度。


胸の黒陽炎。


そして。


遅れて。


三度目。


遠い。


何か。


「同じ音」


ノアが呟く。


「何が」


「ヴェスパーの心臓と」


「遠くの返事」


「同じ?」


「少しだけ違う」


「どこが」


ノアは。


何度も聞く。


一拍。


二拍。


間。


「遅い」


「向こうの方が?」


「うん」


「でも」


「真似してるんじゃない」


「じゃあ」


少年の表情が。


困惑へ変わる。


「同じ音を」


「思い出してるみたい」


ヴェスパーの視界が。


歪んだ。


無冠殿が消える。


炎。


燃えている。


村。


幼い頃。


自分の故郷。


人が走っている。


誰かが。


ヴェスパーの腕を掴む。


「走れ!」


声。


誰だったか。


顔が見えない。


煙。


血。


崩れる家。


いつもの記憶。


だが。


違う。


今まで。


一度も思い出したことのない。


夜空。


村が燃えている。


空。


そこに。


星があった。


黒い星。


光っていない。


周囲の星だけが。


不自然に見えなくなる。


黒い円。


その下。


一人の男。


大きな背中。


剣。


「ガルム……?」


違う。


ガルムではない。


もっと。


古い。


知らない人物。


その男が。


幼いヴェスパーへ何かを渡している。


熱。


黒。


『名前を』


声が聞こえる。


『言うな』


視界が乱れる。


『呼ばれても』


『返事をするな』


そして。


幼いヴェスパーの声。


『どうして』


男は。


空の黒い星を見る。


『見つかる』


「ヴェスパー!」


目を開ける。


セレス。


ノア。


レイラ。


全員が。


自分を見ている。


呼吸が。


速い。


手が。


震えている。


「何を見た」


シオンが尋ねる。


ヴェスパーは。


言葉を探す。


「村」


「お前の故郷?」


「ああ」


「襲われた時」


「空に」


胸の黒い熱が。


一度。


脈打つ。


「黒い星があった」


誰も。


言葉を返せない。


「今まで」


レイラが聞く。


「覚えてなかったのか」


「ああ」


「誰かもいた」


「誰」


「分からない」


「ガルム?」


「違う」


ヴェスパーは。


頭を押さえる。


「でも」


「知っていた」


「黒陽炎を?」


「たぶん」


「何を言った」


長い沈黙。


「名前を言うな」


ノアの耳が。


強く動く。


「呼ばれても」


ヴェスパーは続けた。


「返事をするな」


無冠殿。


誰も。


すぐには動かなかった。


この王都編。


何度も。


名前を呼んだ。


名前を返した。


死者の名を。


本人へ戻した。


民が。


自分の名前で答えることを選んだ。


そのヴェスパーだけが。


幼い頃。


まったく逆のことを。


誰かに教えられていた。


「だから」


ノアが言う。


「ヴェスパーは」


「自分の名前を」


「隠してたの?」


「覚えてない」


ヴェスパー自身も。


分からない。


「そもそも」


イリスが。


一つの疑問へ辿り着く。


「ヴェスパーって」


「本名?」


空気が。


止まった。


ヴェスパーは。


口を開く。


「俺の名は」


ヴェスパー。


そう答える。


今まで。


何度も。


名前を呼ばれ。


自分で返事をした。


無冠殿でも。


王冠を被った時も。


だから。


自分の名前だ。


そう思っている。


だが。


「誰に」


イリスが尋ねる。


「最初に」


「ヴェスパーって呼ばれた?」


記憶。


村。


幼い自分。


母。


父。


村人。


誰か。


名前。


呼ばれていた。


はず。


それなのに。


声が。


出てこない。


「……分からない」


レイラの表情が。


僅かに変わった。


ヴェスパーが。


こんな答えをするのを。


初めて見た。


「俺は」


ヴェスパーは。


自分の胸へ触れる。


「ヴェスパーだ」


「うん」


ノアが。


即座に答えた。


全員が少年を見る。


「何で」


ヴェスパーが聞く。


「本当の名前か」


「分からないんだぞ」


「でも」


ノアは。


彼の手を握る。


「今」


「僕がヴェスパーって呼んだら」


「返事する?」


「……する」


「じゃあ」


「今は」


「ヴェスパーだよ」


本名。


出生名。


登録名。


それだけが。


名前ではない。


誰かに呼ばれ。


自分で返事をする。


ルクスが残した言葉。


ヴェスパーの肩から。


僅かに力が抜ける。


「そうか」


「ああ」


レイラも言った。


「昔どう呼ばれてたかは」


「後で調べればいい」


「今のお前はヴェスパーだ」


イリスが。


すぐに付け足す。


「ただし」


「昔の名前は」


「かなり重要そうだけどね」


「分かってる」


セリカの通信具が。


突然。


強く震えた。


灰色の狼。


ガルムの印。


「通信?」


アルドが尋ねる。


「違う」


セリカは。


装置を開く。


「予約記録」


「特定の熱信号を確認したら」


「自動で開くようになってる」


ヴェスパーが。


嫌な予感を覚える。


「ガルムか」


「そう」


記録。


雑音。


そして。


低い男の声。


『セリカ』


『アルド』


『これを聞いているなら』


『黒い熱が』


『星脈の外へ届いた』


全員の顔が。


変わる。


ヴェスパーは。


通信具を見る。


『俺も』


『何が起きるかまでは知らん』


『だから』


『予言だと思うな』


『ただ』


『昔』


『一度だけ』


『似たものを見た』


「ガルムが?」


レイラが呟く。


記録は続く。


『星が一つ』


『消える』


『その後』


『黒陽炎が』


『返事をする』


ノアの兎耳が。


ゆっくり立ち上がる。


『そうなったら』


『王都に長居するな』


『星脈の密度が高すぎる』


『ヴェスパーを』


『星脈中枢から離せ』


セリカの表情が。


真剣になる。


「撤収する」


「すぐに?」


イリスが尋ねる。


「ガルムの命令だからじゃない」


セリカは。


ヴェスパーの黒い熱を見る。


「状況が悪い」


「王都は」


シオンが周囲を見る。


負傷者。


王冠騎士団。


灰色の盾。


復旧途中の区画。


「まだ安定していない」


「だから」


セリカは答える。


「全員で出る必要はない」


ヴェスパーが。


シオンを見る。


「残るのか」


シオンは。


無冠殿の門を見る。


開いたまま。


「灰色の盾へ戻る」


「王都の門も」


「これから決め直さなければならない」


「私には」


「その仕事がある」


ミレイアも。


第十三王棺を見る。


「私は」


「少し残ります」


「教会へ?」


「いいえ」


「戻るのではありません」


ミレイアは。


十二の結晶へ触れる。


「今まで」


「私が関わった記録を」


「確認したい」


「そして」


「自分の言葉で」


「話す必要があります」


ドランの姉。


その他。


星環教会のために。


名を奪われた者たち。


「一人で?」


レイラが尋ねる。


「いいえ」


ミレイアは。


小さく笑う。


「それは」


「もう学びました」


シオンを見る。


「灰色の盾の方々へ」


「頼みます」


シオンが。


僅かに頷いた。


「ドランは」


「嫌な顔をするぞ」


「覚悟しています」


「ならいい」


王冠騎士団長フェリア。


「我々も残る」


「王がいなくなった以上」


「騎士団の役割を」


「市民へ説明する必要がある」


「王冠騎士団って名前も」


ノアが言う。


「変える?」


フェリアは。


少し考えた。


「それも」


「帰った者全員で決める」


「エドも?」


フェリアの表情が。


僅かに曇る。


「記録で」


「あいつの意見も」


「残っている」


「でも」


「死者に」


「現在の判断はさせない」


「うん」


ノアが頷いた。


この王都で。


皆が。


少しずつ。


同じことを学んでいた。


死者を忘れない。


だが。


死者に。


生者の明日を決めさせない。


「では」


アステルが尋ねる。


「王都を出るのは」


ヴェスパー。


レイラ。


イリス。


セレス。


アステル。


ノア。


セリカ。


アルド。


一度。


全員を見る。


「リクは」


セレスが言う。


黒翼兵だった青年。


未だ意識は弱い。


「ここに残すより」


「灰都へ連れていきたいです」


「オルディスが」


「再び回収へ来る可能性があります」


「連れていく」


ヴェスパーが答える。


セリカが。


即座に端末へ追加する。


『帰還人数』


一名増加。


「また増えた」


「何か問題が」


ヴェスパーが尋ねる。


「ない」


セリカは答える。


「ガルムへの報告が」


「少し面白くなるだけ」


「嫌な予感しかしない」


アルドが。


担架を確認する。


「帰路は」


「第一外周路を使わない」


「なぜ」


「星脈が最も濃い」


地図。


王都南西。


古い水路。


星環網の薄い区域。


「廃水路を通る」


「時間は」


「二時間」


「長い」


レイラが言う。


「今のヴェスパーを」


アルドが見る。


「星脈の中へ一時間置くよりましだ」


「賛成」


セレスが即答する。


「俺は」


「患者の意見は」


レイラが言う。


「参考まで」


「お前まで言うな」


『出立前に』


エリュシオンが。


声を掛けた。


ヴェスパーたちが。


青白い光を見る。


『一つ』


『報告があります』


「何だ」


『黒色熱源について』


古代記録。


王都建設以前。


もっと古い。


石板。


紙。


熱紋ではない。


人の手で。


墨で書かれた文書。


『星脈観測以前の記録を』


『検索しました』


「何かあった?」


イリスが近付く。


『一致する名称はありません』


「ないのか」


『ただし』


一冊。


古い観測記。


表紙。


灰色。


王都という名も。


星王という制度も。


まだ存在しなかった時代。


『第一灰降年』


「灰降?」


アステルが尋ねる。


『現在の暦へ換算した場合』


『約六百四十年前』


記録。


『北天』


『星一つ消失』


『三日後』


『空より灰が降る』


『星脈』


『七日間沈黙』


『その間』


『黒き火を持つ者』


『三名を確認』


ヴェスパーの瞳が。


僅かに細くなる。


「三人」


『はい』


「名前は」


『記録されています』


ページが開く。


一人目。


名前が。


黒く塗り潰されている。


二人目。


同じ。


三人目。


同じ。


「消された?」


イリスが尋ねる。


『いいえ』


「なら」


『記録者本人が』


『意図的に』


『名を書いていません』


ページ。


その下。


一文。


『名を記すな。』


次。


『星は名を辿る。』


無冠殿が。


完全に静かになった。


ノアが。


ヴェスパーの手を握る。


幼い頃の記憶。


『名前を言うな』


『呼ばれても返事をするな』


六百四十年前。


同じ警告。


「星が」


ノアが呟く。


「名前を辿る?」


『意味は』


エリュシオンが答える。


『不明です』


「他には」


イリスがページを送る。


最後。


破れかけた紙。


ほとんど読めない。


『黒き火は』


『星の力にあらず』


『星を失った者に』


『残る――』


その先。


欠損。


さらに。


別の筆跡。


後から。


慌てて書き加えられた一文。


『灰の星が、返事をした。』


誰も。


言葉を出せなかった。


ヴェスパーは。


その言葉を見る。


灰。


星。


黒陽炎。


燃えた故郷。


名前。


遠くから届く。


自分の心拍に似た。


返事。


「灰の星」


レイラが。


ゆっくり読む。


「それが」


「黒い星の名前か」


『不明です』


エリュシオンが答える。


『当該記録以降』


『灰の星という名称は』


『正式記録から消失しています』


「誰が消した」


『記録がありません』


イリスは。


思わず苦笑した。


「またそれか」


『はい』


少し間。


『しかし』


エリュシオンが。


自ら言葉を足した。


『今回は』


『消しません』


皆が。


青白い光を見る。


『不明なまま』


『保存します』


ノアが。


小さく笑った。


「うん」


「それでいい」


王都外。


古い観測塔。


黒い炎が。


さらに強くなる。


「停止しろ!」


研究員が叫ぶ。


「もう出力は切っています!」


「ではなぜ!」


治療槽の中。


空だった人型。


指。


動く。


一本。


次。


手。


ゆっくりと。


胸へ。


黒い炎へ触れる。


オルディスの表情が。


初めて。


完全に消えた。


「動いた」


「熱紋は?」


『存在しません』


「脳活動」


『なし』


「星環接続」


『なし』


「では」


人型が。


目を開ける。


瞳。


黒。


光を映さない。


その口が。


動いた。


声は出ない。


唇だけ。


何かの形を作る。


オルディスが。


読み取る。


一度。


「ヴェ……」


研究員が。


息を呑む。


もう一度。


人型の口。


今度は。


確かに。


音が出た。


掠れた。


人間の声。


「――スパー」


オルディスが。


一歩。


後ろへ下がった。


黒翼兵たちの胸。


携行星環核が。


一斉に停止する。


「ヴェスパーの記憶を」


研究員が尋ねる。


「コピーしたのですか」


「していない」


オルディスは。


即答した。


奪ったのは。


熱。


僅かな黒陽炎だけ。


人格も。


名前も。


記憶も。


取得していない。


なのに。


空の器が。


その名を知っている。


「先生」


「これは」


オルディスが。


黒い瞳を見る。


長い間。


求め続けた。


携行星環中枢。


人へ街を入れる。


完成形。


だが。


今。


目の前にあるものは。


彼の研究ではない。


星環ですらない。


「失敗だ」


オルディスが言った。


研究員が。


驚く。


「破棄しますか」


「いいや」


観測硝子を。


ゆっくり下ろす。


「失敗だから」


「見なければならない」


人型が。


もう一度。


口を開く。


今度は。


名前ではない。


「帰――」


声が。


途切れる。


「何だ」


オルディスが。


近付く。


「何を言いたい」


黒い瞳が。


男を見ない。


遠く。


王都の方向。


さらに。


その向こう。


何かを見ている。


「帰れ」


その一言。


誰に向けたものか。


分からない。


ヴェスパーへ。


自分自身へ。


それとも。


遠い黒い星へ。


そして。


治療槽の全ての結晶へ。


黒い亀裂が走った。


王都。


南西廃水路。


出発準備。


「行けるか」


レイラが尋ねる。


ヴェスパーは。


自分の足で立つ。


「歩ける」


セレス。


「歩くことだけです」


「分かってる」


「戦闘は」


「できれば避ける」


「残火は」


「必要になるまで使わない」


「黒陽炎は」


ヴェスパーは。


答えられなかった。


自分でも。


どう扱えばいいか分からない。


セレスは。


しばらく彼を見る。


「使わないでください」


「意識して使ったことはない」


「なら」


「出たら」


「一人で止めようとしないでください」


「……分かった」


ノアが。


ヴェスパーの横へ立つ。


「返事が来たら」


「返事しちゃ駄目なのかな」


ヴェスパーは。


幼い頃の言葉を思い出す。


『呼ばれても』


『返事をするな』


だが。


ルクスの言葉も思い出す。


『名とは』


『誰かに呼ばれ』


『自分で返事をするためのものだ』


矛盾。


「分からない」


ヴェスパーが答える。


「じゃあ」


ノアが言った。


「すぐには返事しない」


「でも」


「聞く」


「何を」


「誰が呼んでるのか」


「聞いてから決める」


ヴェスパーは。


少年を見る。


「ああ」


「それでいこう」


王都の門。


シオンが。


帰還する一行を見送る。


「ヴェスパー」


「ああ」


「帰ってこい」


「王都へ?」


「それは」


シオンは。


少し考える。


「お前が決めろ」


「ただ」


「ここに残したものは」


「取りに来い」


「何を」


「オルディスの件」


「王都の記録」


「そして」


シオンが。


無冠殿の方角を見る。


「この街が」


「どうなったか」


「最後まで見届けろ」


ヴェスパーは。


僅かに笑う。


「分かった」


ミレイアも。


仮面のない顔で頷く。


「次に会う時」


「私が何者になったのか」


「お話しします」


「未所属じゃなくなる?」


ノアが尋ねる。


「分かりません」


ミレイアは答える。


「未所属のままかもしれません」


「それでも」


「自分で選びます」


フェリア。


王冠騎士団長。


「結果は」


「次にお前たちが来るまでに」


「少しは見せられるようにしておく」


レイラが。


戦斧を肩へ担ぐ。


「王冠騎士団って名前」


「変わってるかもな」


「その可能性は高い」


「何になる」


「まだ知らん」


「それでいい」


一人ずつ。


王都を出る。


門は。


閉じない。


最後。


ヴェスパーが。


門の手前で。


振り返った。


王都。


星王のいない街。


まだ。


名前は王都のまま。


壊れた塔。


消えた灯り。


復旧する水路。


人々の声。


青白いエリュシオンの光が。


門の上で。


小さく明滅する。


『ヴェスパー』


呼ばれる。


ヴェスパーは。


少しだけ止まる。


「何だ」


返事をする。


自分で。


『帰還後』


『一つ』


『教えてください』


「何を」


『王都ではない私が』


『何であるのか』


ヴェスパーは。


すぐには答えない。


「それは」


「俺も」


自分の胸。


黒陽炎。


過去。


名前。


「今から探すところだ」


エリュシオンの光が。


一度だけ。


揺れる。


『了解しました』


ヴェスパーは。


今度こそ。


王都へ背を向けた。


夜。


一行が。


星脈の薄い廃水路を進む。


天井の亀裂。


僅かに。


夜空が見える。


ノアが。


立ち止まった。


「ヴェスパー」


「どうした」


「空」


全員が。


見上げる。


星。


一つ。


二つ。


雲。


そして。


北寄り。


本来。


小さな白い星が。


あった場所。


何もない。


「本当に」


アステルが呟く。


「消えている」


ヴェスパーの胸。


黒陽炎が。


小さく揺れた。


一度。


遠く。


空の黒い場所。


もう一度。


同じ間隔。


ノアの耳が。


震える。


「また」


「返事?」


ヴェスパーが尋ねる。


「うん」


「何て」


「今度は」


ノアが。


目を見開く。


「音じゃない」


「何だ」


少年の顔から。


僅かに血の気が引く。


「近い」


「何が」


「返事が」


ノアは。


夜空ではなく。


王都の外。


地平線の向こうへ。


ゆっくり顔を向けた。


「さっきより」


「近くから聞こえる」


ヴェスパーの黒陽炎が。


突然。


地平線へ向かって。


細長く揺れた。


まるで。


方向を示すように。


その先。


夜の山影。


さらに向こう。


誰もいないはずの場所で。


黒い炎が。


一度。


灯った。


そして。


知らない声が。


ノアだけに。


はっきりと届いた。


『見つけた』


少年の兎耳が。


大きく跳ねる。


「ヴェスパー」


「何だ」


ノアは。


黒い地平線から。


目を離せなかった。


「今度は」


「僕たちが呼んだんじゃない」


夜。


消えた星。


黒い炎。


その向こうから。


もう一度。


声。


『見つけた』


ヴェスパーは。


剣の柄へ手を置く。


そして。


胸の奥。


自分でも知らない。


もう一つの名前が。


呼ばれたような気がした。

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