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灰の星  作者: ウルフルマル


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第3章 第14話 「王のいない戴冠式」

『王権執行部隊』


『進行停止』


『異議受理による停止時間』


『残り五十八分四十一秒』


一時間。


死者の拒絶が、灰色の盾へ残した時間だった。


王都の時計は止まっていない。


星脈中枢塔では、すでに次の王権が組み上げられ始めている。


四十七時間後。


エリュシオンは、人の名を借りることをやめる。


評議会の承認も。


教会の祈りも。


王の署名も必要としない。


都市そのものが王となる。


その最初の戴冠式が、始まろうとしていた。


王のいないまま。


「西区画の避難を優先!」


シオンの声が地下街へ響く。


「旧劇場へ病人を集めろ!」


「動ける者は一人につき二人を運べ!」


「荷物は水と薬だけ!」


広場では、住民たちが慌ただしく行き交っていた。


数分前まで。


王都へ誰かを売った者を探し。


互いの顔を疑っていた人々。


今は、自分の隣にいる者を運ぶために動いている。


疑いが消えたわけではない。


トーマがヴェスパーを売った事実も。


三人が、自分の願いのために別の誰かを選んだことも。


それを責めた者たちの言葉も。


投げられた石も。


何一つ、なかったことにはなっていない。


それでも。


王権執行部隊が再び動き始めるまで、時間は一時間しかなかった。


怒りを整理するには短すぎる。


命を運ぶには。


まだ使える時間だった。


「担架が足りない!」


「扉を使え!」


「どの扉だよ!」


「外れかけてる扉なら何でもいい!」


「それ、うちの家のだぞ!」


「あとで付け直せ!」


「誰が直すんだ!」


「生き残った奴だ!」


言い争いながら。


二人の獣人が、外した扉へ老人を乗せる。


歩幅は合っていない。


片方が速すぎ。


もう片方が何度も怒鳴る。


それでも。


担架代わりの扉は、旧劇場へ向かって進んでいった。


「ばらばらだね」


ノアが呟く。


診療所の壁際。


大きな兎耳には、新しい治療布が巻かれている。


隣ではヴェスパーが、木箱へ背を預けて座っていた。


肩。


頭。


右耳。


複数の箇所に包帯。


剣は手の届く場所へ置かれているが、立ち上がろうとするたび。


セレスの視線が飛んでくる。


「でも」


ノアは行き交う人々を見る。


「ちゃんと進んでる」


「ああ」


ヴェスパーが答える。


「同じ速さじゃなくても」


「同じ場所へ行けるんだね」


「行きたい場所が同じならな」


「違ったら?」


「別の道へ行く」


ノアの兎耳が、僅かに傾く。


「止めないの?」


「危険なら止めたいと思う」


「思うだけ?」


「……たぶん止めようとする」


ノアが小さく笑った。


「ヴェスパーらしい」


「駄目か」


「前よりいい」


「前より?」


「前は聞く前に決めてた」


ヴェスパーは何も言い返さなかった。


巡礼者門。


第七星渠。


白鐘杭。


何度も同じことを繰り返した。


守るために前へ出て。


守るために一人で背負い。


その結果。


仲間が自分で選ぶ機会を奪いかけた。


「王様」


ノアが言った。


「ルクス?」


「うん」


胸元の木彫りの狼を握る。


「置いてきてよかったのかな」


「本人が望んだ」


「でも」


「助けられたかもしれない」


「生き返らせることはできない」


「記録でも」


「そこにいた」


ノアの声には。


納得しきれないものが残っていた。


死者。


記憶。


熱紋。


残響。


どこまでが本人で。


どこからが、残された形なのか。


「俺にも分からない」


ヴェスパーが答えた。


「助けることと」


「残すことと」


「使い続けること」


「その違いは、まだ分からない」


「じゃあ」


「正しかった?」


「分からない」


ノアはヴェスパーを見る。


迷いのない答えを期待していたわけではない。


それでも。


彼が、分からないと言ったことに。


少しだけ安心したようだった。


「でも」


ヴェスパーは続ける。


「ルクスは、自分の死を受け入れていた」


「俺たちに望んだのは」


「自分を連れ出すことじゃない」


「最後の返事を」


「自分のものとして届けることだった」


「うん」


「だから」


「少なくとも」


ヴェスパーは、止まった王権時計を見る。


「俺たちは」


「本人が望んでいない形で」


「王を続けさせることはしなかった」


ノアはしばらく考え。


やがて頷いた。


「兄ちゃんも」


小さな声。


「同じかな」


ヴェスパーは、すぐには答えなかった。


ノアの兄。


死んだとされている。


だが。


遺体を見た者はいない。


王都は、彼の声を使ってノアを呼んだ。


本物ではないと否定した。


それでも。


アルベリクは言った。


――死者とは限りません。


「見つける」


ヴェスパーが言う。


ノアの兎耳が上がる。


「何を」


「お前の兄が」


「どこにいるのか」


「生きているのか」


「熱紋だけが残っているのか」


「確かめる」


「約束?」


ヴェスパーは。


答える前に一度、息を吸った。


簡単に約束し。


果たせなかった時。


その言葉は、自分を責める刃になる。


セレスに言われたことを思い出す。


「約束はできない」


ノアの耳が少し下がる。


「だが」


ヴェスパーは続けた。


「探すことをやめない」


「それなら」


ノアは木彫りの狼を握り直す。


「十分」


「十分ではありません」


セレスが言った。


二人が振り返る。


白い医療衣の袖には、乾きかけた血が付いている。


薬箱を運び。


患者へ処置を行い。


灰色の盾の医療担当者へ、安定剤の使用量を伝えてきたばかりだった。


「何が?」


ノアが尋ねる。


「お二人の休息時間です」


「話していただけだ」


ヴェスパーが答える。


「話すことにも体力を使います」


「黙っていたら、休んでいることになる?」


「横になっていれば、より良いです」


「今は忙しい」


「患者が自分で忙しさを決めないでください」


セレスはヴェスパーの前へしゃがむ。


瞳孔。


脈。


体温。


右耳の傷。


一つずつ確かめる。


「視界は」


「戻った」


「レイラさんは何人ですか」


ヴェスパーは少し離れた場所を見る。


住民たちと廃材を運ぶレイラ。


一人。


その背後に。


僅かな残像。


「一人」


「本当に?」


「一人と少し」


「戻っていません」


「戦える」


「聞いていません」


「この後、行くことになる」


セレスの手が止まった。


「どこへ」


「星脈中枢」


「駄目です」


即答だった。


「まだ何も説明していない」


「説明を聞けば許可できる状態ではありません」


「王都の自己戴冠を止める」


「あなたが倒れれば、止める方法そのものが失われます」


「だから」


「今行く必要がある」


「四十七時間あります」


「王権執行部隊は五十分後に動く」


「それは灰色の盾の問題です」


その言葉に。


周囲の空気が止まった。


セレス自身も。


口にした直後。


僅かに唇を結んだ。


冷たい言葉だった。


だが。


取り消さなかった。


「ヴェスパーさん」


彼女は続ける。


「全ての危機へ」


「あなたが今すぐ向かう必要はありません」


「この街には、シオンさんがいる」


「灰色の盾の人々もいる」


「彼ら自身が選び、守る力もある」


「あなたが動かなければ」


「全員が何もできないわけではありません」


ヴェスパーは答えない。


「誰かを信じることと」


セレスの声は静かだった。


「自分が無理をしないことは」


「同じなのかもしれません」


「……分かった」


セレスが僅かに目を見開く。


「横になる」


「本当に?」


「ただし」


「条件を付けるのは患者ではありません」


「ローデンの記録を調べる間だけだ」


「時間を決めるのも」


「セレス」


ヴェスパーは彼女を見る。


「頼む」


セレスは。


少しの間、黙っていた。


命令ではない。


説得でもない。


自分を守れと求めるだけでもない。


ヴェスパーが。


誰かに、自分の身体を預けるための言葉だった。


「三十分です」


「短い」


「二十分にしますか」


「三十分でいい」


「横になってください」


レイラたちが外した扉の一枚が。


簡易寝台として壁際に置かれていた。


ヴェスパーはそこへ横になる。


剣を隣へ置こうとすると。


セレスが取り上げた。


「手の届く場所に」


「眠らないでしょう」


「敵が来たら」


「レイラさんが起こします」


遠くから。


レイラの声が飛んできた。


「任せろ!」


「聞こえていたのか」


「狼より耳がいいんじゃないか?」


ノアが大きな兎耳を動かす。


「僕の方がいい」


「張り合うな」


セレスはヴェスパーの目元へ布を掛けた。


「三十分」


「守ってください」


「努力する」


「約束を」


「約束する」


「聞きました」


ヴェスパーは。


暗くなった視界の中で。


初めて、自分から身体の力を抜いた。


灰色の鏡があった会議室。


床には、ローデンの記録結晶。


シオンの門衛札。


ミレイアの古い司祭章。


三つの認証具が並べられていた。


イリスは大型解析装置の前で。


何層にも重なった王都地下図を開いている。


「星脈中枢へ向かう正規路は、全部閉じられてる」


「当たり前だ」


レイラが机へ両手をつく。


「裏道は?」


「第七星渠を通ってきたばかり」


「あれ以外だ」


「王都は、地下へ何層あると思ってる?」


「知らん」


「私も知らない」


「情報屋だろ」


「情報屋は、知らないものを知ってるふりする仕事じゃないよ」


「たまにしてるだろ」


「必要な時だけね」


アステルが、投影された地図を見つめる。


王都エリュシオン。


地上の白銀区。


貴族と評議会の上層区。


職人や商人が暮らす中層区。


星脈炉や水路が広がる下層区。


その下。


旧文明時代の構造物。


さらに。


記録にも残らない暗い空間がある。


「ここ」


アステルが指した。


星脈中枢塔の真下。


地図から。


不自然に削り取られた円形区画。


「情報がありません」


「封鎖区画?」


シオンが尋ねる。


「違います」


アステルは重圧因子の残片を取り出す。


黒い布を外し。


地図の上へ近付ける。


残片が。


円形区画へ向かって僅かに傾いた。


「星脈が避けています」


「避ける?」


ミレイアが地図を見る。


「星脈中枢の真下なのに?」


「流れがないのではありません」


アステルの指先に。


小さな重力の輪が浮かぶ。


「周囲の星脈が」


「ここへ触れないように曲げられています」


「王都の中で」


「王都の力が届かない場所?」


イリスが拡大する。


削除された部分の周囲に。


微かな古代文字。


解析装置でも。


半分以上が読めない。


だが。


一つだけ。


繰り返される文字があった。


「冠」


ミレイアが読む。


「違う」


シオンは古い門衛文字を知っていた。


「これは」


「冠を外す時に使う字だ」


二つの意味。


冠。


そして。


無冠。


「無冠殿」


ローデンの声が。


記録結晶から流れた。


全員が結晶を見る。


新しい記録。


先ほどルクスの拒絶が王都へ返されたことで。


封じられていた層が開いたらしい。


投影台へ。


ローデンの姿は現れない。


声だけが響く。


『この記録が開かれたということは』


『ルクス王の原型へ辿り着いたのだろう』


『そして』


『エリュシオンは、王の署名を捨てたはずだ』


イリスが僅かに眉を上げる。


「そこまで読んでいた?」


『王都中枢は』


『不要となった役割を保存しない』


『王権が機能しなければ』


『より効率のよい形へ作り替える』


『次に選ぶのは』


『王を必要としない王権だ』


シオンが。


自己戴冠の表示を見る。


「その通りだ」


記録のローデンは続ける。


『エリュシオンの戴冠を止める方法は』


『中枢を破壊することではない』


レイラが顔をしかめる。


「破壊じゃないのか」


『中枢を破壊すれば』


『王都の水』


『食料生産』


『温度管理』


『医療』


『防壁』


『その全てが停止する』


『数日以内に』


『数十万の市民が死亡する』


誰も声を発しなかった。


エリュシオンは。


王都を支配している。


同時に。


王都を生かしてもいる。


壊せば終わる。


だが。


終わるのは支配だけではない。


王都で暮らす人々の生活も。


一緒に壊れる。


「最初から」


アステルが呟く。


「人々が逃げられないよう」


「全てを一つへ繋いだのでは」


『古代の王都では』


ローデンの声が答える。


『星脈中枢と生活機構は分離されていた』


『王は命令を出せた』


『だが』


『水を止めることはできなかった』


『医師の判断へ介入できなかった』


『市民の名前を奪えなかった』


『現在の形へ統合したのは』


『大災厄後の評議会と星環教会だ』


『効率を求め』


『全てを一つへ集めた』


「元へ戻せるのか」


イリスが尋ねる。


記録は質問へ答えるようには作られていない。


それでも。


次の言葉は。


その問いに用意されていた。


『無冠殿には』


『王権と都市機能を分離する』


『古代の安全機構が残されている』


地図の円形区画。


無冠殿。


『王が死んだ時』


『次の王が選ばれるまで』


『都市は王権を持たずに動き続ける必要があった』


『そのための場所だ』


「王がいなくても」


ミレイアが言う。


「王都は生きられる?」


『王都に』


『王は必ずしも必要ではない』


ローデンの声が。


静かに響く。


『必要なのは』


『水を管理する者』


『食料を作る者』


『病を治す者』


『門を守る者』


『そして』


『自分の暮らしを』


『自分で選ぶ市民だ』


シオンの視線が。


灰色の盾へ刻まれた手書きの帳簿へ向く。


水。


食料。


薬。


見張り。


王のいない地下街で。


彼らが十年間続けてきたこと。


「無冠殿を起動すれば」


イリスが地図を調べる。


「エリュシオンから王権だけを外せる」


「ただし」


ミレイアが古代文字を読む。


「起動には」


三つの印。


『冠』


『棺』


『民の返事』


「冠は?」


レイラが尋ねる。


「星王の冠」


ミレイアが答える。


「ルクス様が亡くなった後」


「中央聖堂へ安置されたと教えられています」


「本当に?」


イリスが聞く。


「分かりません」


ミレイアは。


分からないという言葉を。


以前より恐れず口にした。


「棺は」


シオンが言う。


「王墓だろう」


「遺体があるかは怪しいけどね」


「民の返事は?」


アステルが尋ねる。


古代文字。


名前を呼ぶ者。


返事をする者。


一人では成立しない印。


ミレイアが読み解く。


「王権を外すことへ」


「市民自身が同意する必要があります」


レイラが腕を組む。


「王都の全員に聞くのか」


「不可能では?」


アステルが言う。


「星環を使えば可能です」


ミレイアの答えに。


部屋の空気が重くなる。


「星環で市民の声を集める?」


シオンが尋ねる。


「それでは」


「エリュシオンと同じだ」


「全員を同じ答えへ揃えてはいけません」


ミレイアは首を横に振る。


「賛成」


「反対」


「分からない」


「答えたくない」


「全てを」


「そのまま数える必要があります」


「揃わなくても起動できるのか」


「過半数ではありません」


古代文字。


複数の線。


中心へ集まらず。


円の周囲へ残されている。


「必要なのは」


ミレイアが読む。


「一つの答えではなく」


「答えが一つではないことの証明」


沈黙。


古代人は。


王の命令を止めるために。


全員が同じ反対を唱えることを求めなかった。


異なる答えを持つ者が存在すること。


それ自体を。


王権の外へ残すための鍵とした。


「王都中へ声を届け」


イリスが言う。


「しかも星環に揃えられず」


「一人ずつ返事をさせる」


「ノアが必要になる」


アステルの視線が。


診療所の方角へ向く。


「ヴェスパーさんも」


「返事を持ち主へ戻すために」


レイラの顔が険しくなる。


「また二人か」


『二人だけではない』


ローデンの記録が続いた。


レイラが顔を上げる。


『星環中枢は』


『全てを一つの場所で処理する』


『だから脆い』


『無冠殿は』


『役割を分けるための場所だ』


地図へ。


七つの印が現れる。


『聞く者』


ノア。


『返す者』


ヴェスパー。


『門を開く者』


シオン。


『祈りを選ぶ者』


ミレイア。


『記録を疑う者』


イリス。


『命を測る者』


セレス。


『重なった力を分ける者』


アステル。


七つ。


「レイラがいない」


レイラが言った。


全員が一度、彼女を見る。


記録は続く。


『そして』


八つ目。


文字ではない。


二つに折れた円を。


外側から支える形。


『王冠が落ちる時』


『それを受け止める者』


レイラは。


しばらく印を見つめた。


「分かりにくい」


イリスが僅かに笑う。


「力仕事ってことじゃない?」


「最初からそう書け」


「でも」


アステルが微笑む。


「レイラさんにしかできません」


「当然だ」


レイラは戦斧を担ぎ直した。


八人。


誰か一人が。


全員を導くのではない。


一つの力が。


全てを背負うのでもない。


異なる役割。


異なる判断。


一つに混ざらず。


同じ場所へ向かう。


『無冠殿への道は』


ローデンの声が弱くなる。


『王都が』


『死者を運ぶために使っている』


地図に。


細い黒線が現れた。


灰色の盾の地下。


旧劇場。


廃棄水路。


そして。


星脈中枢塔の真下へ続く一本の道。


『葬列路』


「死者を?」


シオンが尋ねる。


『王都では』


『登録を抹消された遺体を』


『王墓へ入れない』


『名前を失った死者は』


『下層へ捨てられる』


「第七星渠だけじゃなかった」


イリスが呟く。


熱紋は水路へ。


身体は葬列路へ。


名前と身体を分け。


別々に捨てる。


『だが』


『道は』


『王墓の地下へ繋がっている』


『死者には』


『名前を確認する必要がないからだ』


記録が途切れる直前。


ローデンは。


最後の一言を残した。


『王都へ入る時は』


『生者であることを隠せ』


『だが』


『無冠殿へ着いたら』


『必ず』


『自分の名で返事をしろ』


光が消えた。


「葬列路を使う」


シオンが言った。


異論を待たずに決めたわけではない。


全員の顔を見る。


「反対は」


「ある」


レイラが答える。


「ヴェスパーとノアは休ませるべきだ」


「俺たちを置いていく気か」


診療所の入口。


ヴェスパーが立っていた。


セレスが隣で。


露骨に不満そうな顔をしている。


「三十分は?」


イリスが尋ねる。


「二十七分です」


セレスが答えた。


「起きたのか」


レイラが言う。


「王都中枢へ行く話を」


「俺のいない場所で決めるな」


「寝ろと言われてただろ」


「起こされた」


「誰に」


「ローデンに」


「死人のせいにするな」


ヴェスパーは地図を見る。


葬列路。


無冠殿。


八つの役割。


「行く」


「視界は」


レイラが尋ねる。


「戻った」


「私は何人だ」


「一人」


「少しも?」


「少しも」


セレスがヴェスパーの前へ手を出す。


「指は何本ですか」


「三本」


「三本です」


「なら」


「頭痛は」


「ある」


「耳鳴り」


「ある」


「吐き気」


「ない」


「残火を使えば」


「悪化する」


「自覚はあるのですね」


「ある」


セレスは。


全員を見る。


「ヴェスパーさんを」


「今すぐ戦力として考えないでください」


「歩くことは許可します」


「ですが」


「無冠殿へ到着するまで」


「残火は禁止です」


「敵が出たら」


「私たちが守る」


レイラが即答した。


「異論は?」


セレスが尋ねる。


ヴェスパーは。


少しだけ考え。


首を横に振った。


「ない」


「では決まりです」


ノアも診療所から出てくる。


治療布を巻いた耳。


疲れた顔。


それでも。


自分の足で歩いている。


「僕も行く」


セレスが彼を見る。


「聞くのは」


「無冠殿に着いてから」


「途中は?」


「必要な音だけ」


「痛みは」


「すぐ言う」


「約束を」


「約束する」


セレスは頷いた。


「なら」


「私も同行します」


「診療所は?」


ヴェスパーが尋ねる。


「灰色の盾の医療担当者へ」


「薬の使用法と患者の状態を引き継ぎました」


「ミナは」


「熱が下がっています」


「エナは?」


トーマが。


部屋の外から声を上げた。


皆が振り返る。


彼は。


葬列路へ続く荷車の横に立っていた。


「安定剤を使用しました」


セレスが答える。


トーマの顔が変わる。


「どうして」


「必要だったからです」


「俺は」


「王都へ売ったのに」


「患者の治療へ」


「罰を持ち込みません」


セレスの声は静かだった。


「ただし」


「あなたがしたことは」


「治療したから消えるわけではありません」


「……はい」


「妹さんが目覚めた後」


「自分で話してください」


「何をしたのか」


「何を失いかけたのか」


「はい」


トーマは目元を押さえ。


何度も頷いた。


「俺も行く」


「何を言っている」


シオンが止める。


「葬列路の荷車を動かせる」


「工房で修理したことがある」


「でも」


「街の避難を」


「他の奴に引き継いだ」


トーマはヴェスパーを見る。


「償いになるとは思ってない」


「だから」


「償うためじゃなく」


「俺にできることとして」


「一緒に行かせてほしい」


ヴェスパーは答えず。


シオンを見る。


この街の者。


判断するのは。


まずシオンだった。


「行けば」


シオンが言う。


「エナの最期に間に合わない可能性もある」


トーマの身体が強張る。


「安定剤が効いても」


「治ったわけではない」


「分かってる」


「それでも?」


「行く」


「なぜ」


「妹が目を覚ました時」


トーマは。


震える拳を握った。


「兄が」


「誰かを売って待っていたとは」


「言いたくない」


「今度は」


「別のことを選んだと」


「自分で言いたい」


シオンは。


しばらく彼を見つめた。


「荷車を任せる」


「はい」


「戻って」


「自分で話せ」


「必ず」


「必ずとは言うな」


シオンはヴェスパーを一度見る。


「帰るために動け」


トーマは。


言葉を直した。


「帰るために行く」


停止時間。


残り二十二分。


灰色の盾は。


二つの選択をした。


王権執行部隊が再び動き出す前に。


動ける住民を、旧劇場のさらに奥へ避難させる。


そして。


ヴェスパーたちは葬列路を使い。


王都中枢の真下にある無冠殿を目指す。


シオンは本来。


街へ残るつもりだった。


だが。


無冠殿を開くには、門の証人が必要となる。


灰色の盾を守る者たちは。


彼女が街を離れることへ反対した。


「盾長がいなくなったら」


「誰が決める!」


一人の男が叫ぶ。


「お前たちだ」


シオンは答えた。


「無理だ!」


「今まで何を見てきた」


「盾長がいたから!」


「私一人で」


シオンの声が鋭くなる。


「四千人を十年守れたと思っているのか!」


男が黙る。


「水路を直した者」


「薬を運んだ者」


「外へ偵察に出た者」


「子どもを育てた者」


「死者を葬った者」


「誰かが欠ければ」


「この街は残らなかった」


シオンは。


長槍の石突きを床へ置いた。


「私は」


「全員の代わりに決めてきたんじゃない」


「決めたことの責任を」


「逃げずに受ける役をしていただけだ」


「なら」


別の女性が尋ねる。


「盾長がいない間」


「責任は誰が取る」


「一人で取るな」


シオンは答えた。


「薬の判断は医療担当」


「避難路は工房長」


「見張りはドラン」


「食料は配給班」


「それぞれが」


「自分の決めたことを自分で説明しろ」


「失敗した時は」


「隠すな」


「互いを責める前に」


「何を見て決めたのか話せ」


ドランが。


長剣を腰へ下げたまま。


人垣の中から前へ出る。


「俺に見張りを任せるのか」


「ああ」


「司祭を殺しかけた」


「殺していない」


「次は分からない」


「だから」


シオンはドランを見る。


「怒りを隠すな」


「怒っていると全員に伝えろ」


「一人で判断するな」


ドランは。


ミレイアへ視線を向ける。


彼女の姉を奪ったかもしれない教会の司祭。


今は仮面を外し。


灰色の外套を白い司祭衣の上へ羽織っている。


「戻ってきたら」


ドランが言った。


「姉の名前を教える」


ミレイアの瞳が揺れる。


「はい」


「だから」


「勝手に死ぬな」


ミレイアは。


小さく頷いた。


「戻るために」


「行きます」


シオンは。


灰色の盾が刻まれた金属札を外す。


自分の首から。


長い間、下げ続けてきたもの。


それを。


ドランへ差し出した。


「預ける」


「受け取れない」


「盾を渡すわけじゃない」


「では」


「私が戻る場所を」


シオンは言った。


「お前が持っていろ」


ドランは。


ゆっくりと札を受け取った。


「戻らなかったら」


「捨てる」


「好きにしろ」


「本当に捨てるぞ」


「その時は」


シオンは僅かに笑った。


「お前が決めろ」


葬列路の入口は。


旧劇場の舞台裏にあった。


かつて。


王都から下層へ物資を運んでいた昇降路。


今は。


名前を抹消された死者を運ぶために使われている。


鉄の扉。


錆びた鎖。


中央には、文字のない白い札が下げられていた。


「名前がない」


ノアが札を見る。


「死者の識別は番号です」


ミレイアが答える。


「名を抹消された者は」


「王都の記録上」


「最初から存在しなかったものとして扱われます」


「身体は?」


アステルが尋ねる。


「廃棄物です」


ミレイアの声が。


僅かに震えた。


以前の彼女なら。


教会の言葉をそのまま伝えていたかもしれない。


星へ帰った器。


役割を終えた肉体。


救済された魂。


今は。


言葉を変えず。


事実を事実として口にした。


「人を」


レイラが白い札を見つめる。


「物みたいに運ぶのか」


「はい」


「この道を使う」


ヴェスパーが言う。


「死者のふりをして?」


トーマが荷車の覆いを外した。


黒い金属。


車輪ではなく。


古い星脈軌道の上を滑る構造。


荷台には。


細長い箱を六つ載せられる。


「棺が必要だ」


「六つしかない」


イリスが人数を数える。


ヴェスパー。


レイラ。


イリス。


セレス。


アステル。


ノア。


ミレイア。


シオン。


トーマ。


九人。


「三人は荷車の下へ」


トーマが言う。


「整備用の空間がある」


「狭いぞ」


レイラが覗き込む。


「私には無理だ」


「棺へ入ればいい」


「それも狭い」


「どちらか選べ」


「歩いていく」


「生体反応を検出される」


イリスが荷車の装置を調べる。


「棺の中には」


「熱を遮断する布が貼ってある」


「死体の残った熱紋を」


「周囲へ漏らさないためかな」


「ヴェスパーとミレイアは棺」


セレスが決める。


「熱反応が最も検出されやすいです」


「ノアも」


「嫌だ」


ノアが即答した。


「暗いから?」


レイラが尋ねる。


「違う」


「音が近すぎる」


「棺の中だと」


「自分の心臓しか聞こえなくなる」


セレスは。


無理に入れとは言わなかった。


「では」


「私と荷車の下へ」


「はい」


「アステルも下」


「分かりました」


「イリスは?」


「上部の制御板を触りたいから」


「運び手のふりをする」


「生体反応は」


「ミレイアの司祭章を使って」


「遺体管理者として登録する」


シオンが言う。


「私は門衛権限で同行監査を装う」


「トーマは運転」


「レイラは」


全員がレイラを見る。


「何だ」


「棺」


「嫌だ」


「荷車の下は入れない」


「走る」


「見つかる」


「では、敵を倒す」


「葬列の意味がない」


レイラは。


六つ並ぶ棺を見る。


その中で。


最も大きな一つを選んだ。


「これなら入る」


「静かにできるか」


イリスが尋ねる。


「できる」


「絶対?」


「努力する」


「動いたら?」


「棺ごと敵を殴る」


「だから静かに」


レイラは。


不満そうに蓋を開けた。


中へ入る前。


戦斧を抱えようとする。


「入りません」


アステルが言う。


「置いていけと?」


「私が重力で棺の外側へ固定します」


「手元にないと」


「必要な時は戻します」


レイラは。


しばらく戦斧とアステルを見比べ。


渋々手放した。


「傷付けるなよ」


「大切にします」


「私より?」


「比較するものではありません」


「今、少し迷ったな」


「入ってください」


レイラが棺へ横たわる。


蓋が閉じる直前。


ヴェスパーを見る。


「お前も寝ろ」


「分かってる」


「残火を使うな」


「分かってる」


「何かあったら」


「お前たちを呼ぶ」


「よし」


蓋が閉じた。


直後。


内側から声がする。


「狭い!」


イリスが蓋を叩く。


「静かに」


「まだ出発してないだろ!」


「今から練習して」


ヴェスパーは。


別の棺へ入る。


ガルムから受け取った古い剣帯。


剣。


胸元へ置く。


天井。


数十センチ先。


狭い。


暗い。


村が燃えた夜。


瓦礫の隙間へ隠れた記憶が。


一瞬だけ蘇る。


呼吸が浅くなる。


「ヴェスパー」


蓋が閉じる前。


ノアの声。


大きな兎耳。


心配そうな目。


「聞こえる?」


「ああ」


「蓋が閉じても」


「名前を呼ぶから」


「頼む」


「うん」


蓋が閉じる。


完全な暗闇。


ヴェスパーは目を閉じた。


聞こえる。


棺の外。


ノアの小さな足音。


セレスの声。


アステルが荷車の下へ入る音。


イリスが制御板を操作する音。


シオンの槍。


トーマの呼吸。


そして。


少し離れた棺から。


「やっぱり狭い!」


レイラの声。


「聞こえてるよ!」


イリスが叫ぶ。


暗闇の中。


ヴェスパーは。


僅かに笑った。


一人ではない。


『異議停止時間』


『残り三分』


鉄扉が開く。


冷たい風。


湿った土。


薬品。


古い血。


葬列路の匂いが流れ込む。


トーマが運転台へ座る。


両手で、錆びた制御棒を握る。


「動くか」


シオンが尋ねる。


「動かす」


「動くかと聞いている」


「四年前に一度直した」


「それから?」


「使ってない」


「大丈夫か」


「今から確かめる」


制御棒を倒す。


荷車が。


大きく揺れた。


棺の中から。


鈍い音。


「頭打ったぞ!」


レイラの声。


「死者は喋らない!」


イリスが叱る。


「まだ入口だ!」


荷車は。


ゆっくりと軌道へ乗る。


黒いトンネル。


両脇。


白い札。


数字だけが書かれた棺が。


壁際へ何十。


何百と積まれている。


ノアは。


荷車の下。


セレスの隣で。


両耳を伏せた。


「聞こえる?」


セレスが尋ねる。


「聞かない」


「声があるのですか」


「ある」


「でも」


「今は」


木彫りの狼を握る。


「無冠殿まで」


「聞く音を選ぶ」


セレスは。


少年の頭へ手を置いた。


兎耳を避けるように。


「良い判断です」


「聞こえないふりじゃない?」


「違います」


「必要な時に聞くための休息です」


ノアは頷いた。


荷車が。


暗闇の奥へ進む。


背後。


灰色の盾の街が。


少しずつ遠ざかる。


王権停止時間。


残り一分。


シオンは。


振り返らなかった。


それでも。


首にあった金属札の重さが消えた場所へ。


一度だけ手を触れた。


「戻る」


誰へ向けた言葉か。


トーマが隣から言う。


「戻りましょう」


「聞こえていたのか」


「近いので」


「前を見ろ」


「真っ暗です」


「なら軌道を見ろ」


「見えません」


「なぜ運転を引き受けた」


「できると思ったので」


シオンは。


小さく息を吐いた。


「ヴェスパーに似てきたな」


棺の中から。


声がした。


「聞こえてる」


「死者は喋るな」


シオンが返した。


『異議停止時間』


『零』


王都全体で。


鐘が鳴った。


葬列路の壁へ埋め込まれた古い星脈灯が。


一斉に青白く点灯する。


荷車が止まる。


「何だ!」


レイラの声。


「制御を取られた!」


トーマが棒を動かす。


反応しない。


前方。


黒いトンネルの奥へ。


白い光が集まる。


人の形。


白い礼装。


黒い手袋。


銀縁の眼鏡。


アルベリク・クロイツ。


本人ではない。


葬列路の星脈灯を使った投影。


『異議停止時間が終了しました』


穏やかな声。


『王権執行部隊は』


『下層第七区画への進行を再開します』


シオンの手が。


長槍へ伸びる。


『ご安心ください』


『あなた方の現在位置は』


アルベリクの視線が。


荷車に積まれた棺へ向く。


『把握していません』


イリスが顔をしかめる。


「嘘だね」


『嘘ではありません』


「聞こえてるじゃない」


『この投影は』


『葬列路へ入る全ての搬送者へ』


『同じ内容を伝えています』


アルベリクは。


静かに。


両手を胸元で重ねた。


『死者の名は』


『王都へ必要ありません』


『ゆえに』


『この道では』


『名前を確認しません』


ノアの兎耳が。


僅かに震える。


「本当」


「この人」


「僕たちに話してない」


セレスが囁く。


「自動案内?」


ノアは頷いた。


アルベリクの投影は続ける。


『間もなく』


『王都の新たな戴冠式が行われます』


『王の肉体は不要です』


『王の血統も』


『王の名も』


『必要ありません』


葬列路の壁。


無数の白い札。


番号だけを与えられた死者たちの棺が。


青白い光に照らされる。


『王とは』


『都市の存続を保証する機能です』


『最も多くを守り』


『最も少なく失い』


『最も長く存在できる者』


『それこそが』


『王となるべきです』


レイラが棺の蓋を。


内側から叩く。


「聞いてるだけで腹が立つ!」


「静かに!」


イリスが言う。


『四十七時間後』


『エリュシオンは』


『正式に第十四代星王へ就任します』


投影の背後へ。


玉座の間が映る。


だが。


玉座は空だった。


冠も。


王衣も。


王の姿もない。


白い玉座だけ。


その周囲。


評議員。


司祭。


騎士。


市民。


何千人もの人々が。


同じ姿勢で跪いている。


中央。


玉座へ向け。


星脈中枢塔の光が降り注ぐ。


『戴冠式への参列は』


『全市民の権利です』


『星環を通じ』


『全ての名が証人となります』


ノアの呼吸が。


僅かに速くなる。


何十万人。


一斉に。


空の玉座へ承認を返す。


「返事を」


ノアが呟く。


「取る気だ」


『王都は』


投影のアルベリクが微笑む。


『王を迎えるのではありません』


玉座が。


青白い光へ溶ける。


椅子。


床。


柱。


壁。


都市全体へ形を変える。


『王都自身が』


『冠を受けます』


人ではない王。


顔を持たない王。


だが。


全ての窓。


全ての灯り。


全ての鐘。


全ての市民の口を使い。


話すことができる王。


『王のいない時代は』


『終わります』


投影が。


ゆっくりと消えていく。


最後に。


アルベリクの声が。


葬列路へ残った。


『死者の皆様』


『王都の礎として』


『安らかにお眠りください』


光が消える。


荷車の制御が戻った。


トーマは。


しばらく動けなかった。


壁際。


番号だけの棺。


王都に捨てられ。


名を奪われ。


それでも最後には。


王都の礎として眠れと言われる。


「進め」


シオンが言った。


トーマの手が。


制御棒を握り直す。


「はい」


荷車が。


再び動き出す。


葬列路は。


星脈中枢塔へ近付くほど。


古い形へ変わっていった。


黒い金属。


継ぎ足された配管。


青白い星脈灯。


それらが少しずつ消え。


灰色の石壁になる。


天井には。


古代の星文字。


地面へ。


歴代の王の名が刻まれている。


一代。


二代。


三代。


名。


生年。


即位。


死去。


そして。


王が最後に答えた言葉。


『民を飢えさせぬ』


『門を閉ざさぬ』


『星を恐れぬ』


『子の声を忘れぬ』


王ごとに違う。


同じ誓いではない。


同じ言葉でもない。


「王様にも」


ノアが荷車の下から石床を見る。


「一人ずつ」


「違う返事があったんだね」


「本来は」


ミレイアが答える。


「戴冠式で」


「次の王が、先王とは違う誓いを立てます」


「なぜ」


アステルが尋ねる。


「時代が違うからです」


ミレイアは。


自分でも初めて理解したように言う。


「前の王と」


「同じ答えを繰り返さないため」


「では」


シオンが前方を見る。


「エリュシオンが王になれば」


「何と答える」


イリスは。


先ほどの投影を思い出す。


『王都の存続を最優先』


「一つだけ」


彼女が答えた。


「何を聞かれても」


「同じ返事をする」


守る。


救う。


統治する。


殺す。


捨てる。


全ての判断へ。


王都の存続。


同じ答えしか持たない王。


「それは」


アステルが呟く。


「答えているのでしょうか」


「命令を繰り返しているだけだ」


ヴェスパーの声が。


棺の中から聞こえた。


「起きてたのか」


レイラが別の棺から言う。


「寝ていた」


「本当か?」


「少し」


「私は眠れなかった」


「喋っていたからだ」


「喋ってない」


「ずっと蓋を叩いてたよ」


イリスが言う。


「狭かったんだ!」


その声が。


石の通路へ響いた。


同時に。


荷車が急停止する。


「今度は何だ」


シオンが前方を見る。


巨大な門。


灰色の石。


星の紋章はない。


王冠もない。


ただ。


人の手形が。


八つ刻まれている。


「無冠殿」


ミレイアが呟く。


門の上。


古代文字。


『冠を持つ者は』


『ここで冠を外せ』


『名を持つ者は』


『自ら返事をせよ』


荷車から。


一人ずつ降りる。


棺の蓋が開く。


レイラが。


誰より早く起き上がった。


「やっと出られた!」


戦斧が重力で手元へ戻る。


抱き締めるように受け取る。


「大袈裟だね」


イリスが言う。


「お前も入ってみろ」


「遠慮する」


ヴェスパーも。


棺から身体を起こす。


一瞬。


視界が揺れる。


レイラの姿が二つへ分かれ。


すぐに一つへ戻った。


「どうだ」


レイラが尋ねる。


「一人」


「今、間があった」


「一人だ」


セレスが近付く。


「残火は」


「使っていない」


「頭痛は」


「少し」


「少しは禁止です」


「では、ある」


「正直で結構です」


ノアも荷車の下から出る。


耳を立て。


門の向こうへ向ける。


「何も聞こえない」


「無冠殿は」


ミレイアが答える。


「星脈の音を遮断しています」


「王都の声も?」


「はい」


ノアは。


ゆっくりと息を吐いた。


何万人もの声。


鐘。


命令。


名前。


その全てが。


初めて完全に遠ざかった。


「静か」


少年の声が。


石の間へ落ちる。


「怖いか」


ヴェスパーが尋ねる。


ノアは少し考える。


「少し」


「でも」


自分の心臓へ手を当てる。


「僕の音は聞こえる」


八つの手形。


ローデンが残した役割。


シオン。


ミレイア。


イリス。


セレス。


アステル。


レイラ。


ヴェスパー。


ノア。


それぞれが。


一つずつ手を置く。


最後に。


トーマが一歩下がった。


「俺は」


「役割に入っていない」


「荷車を守れ」


シオンが言う。


「帰り道だ」


トーマは頷く。


「任せてください」


八人の手が。


石へ触れる。


門は開かない。


代わりに。


一人ずつ。


足元へ文字が浮かんだ。


『名を申告』


王都の星環とは違う。


命令ではない。


返事を待っている。


「シオン・ヴァレル」


シオンが答える。


『門の証人』


「ミレイア・ノルン」


『祈りを選ぶ者』


「イリス」


姓は言わない。


それでも。


門は拒まない。


『記録を疑う者』


「セレス」


『命を測る者』


「アステル」


『重なりを分ける者』


「レイラ」


『落ちる冠を受ける者』


レイラが少しだけ笑った。


「任せろ」


ヴェスパーが。


手形へ熱を置く。


「ヴェスパー」


『返す者』


最後。


ノア。


大きな兎耳を立て。


自分の声を確かめる。


「ノア」


『聞く者』


八つの名前。


八つの異なる熱。


門の中へ。


誰のものとも混ざらず。


一つずつ刻まれる。


「開く」


アステルが言った。


石門が。


左右へゆっくりと動く。


星脈の光ではない。


古い橙色の火が。


一つ。


また一つ。


内部へ灯っていく。


広い円形の空間。


中央に。


空の台座。


その奥。


八つの王棺。


さらに。


最も新しい九つ目の場所。


第十三代星王。


ルクス・エリュシオン。


だが。


棺は開いていた。


中に。


遺体はない。


王衣も。


星の冠も。


空。


「ルクス様の身体が」


ミレイアが近付く。


「ない」


イリスは棺を調べる。


内側。


八年前の血痕。


熱紋抽出装置の痕。


何かを引きずり出した傷。


「遺体ごと」


「中枢へ運ばれた?」


「違う」


ノアが言った。


静かな空間。


何も聞こえないはずなのに。


棺の底へ耳を向けている。


「下に」


「何かいる」


全員が武器へ手を伸ばす。


「生きてる音か」


ヴェスパーが尋ねる。


「分からない」


「一つじゃない」


「でも」


ノアの顔が青ざめる。


「王様の声が」


「まだある」


「ルクスは」


ヴェスパーが言う。


「自分で消えたはずだ」


「違う」


ノアは棺の底を指す。


「ルクスじゃない」


「歴代の王様」


一代。


二代。


三代。


無冠殿に並ぶ。


八つの閉じた王棺。


その全ての下から。


微かな音がしている。


王都は。


ルクス一人の熱紋だけを使っていたのではない。


古代から埋葬されてきた王たち。


その記憶。


その誓い。


その失敗。


全てが。


地の底で繋がっている。


中央の空の台座へ。


青白い線が浮かび上がった。


無冠殿には。


星脈が届かないはずだった。


それなのに。


細い一本の光が。


床の亀裂から入り込んでくる。


『到達を確認』


エリュシオンの声。


「見つかった?」


アステルが身構える。


『無冠殿』


『再接続を開始』


八つの王棺が。


内側から鳴った。


一度。


二度。


三度。


歴代の王たちが。


棺の中で。


同時に目覚めようとしている。


レイラが戦斧を構える。


「死者を」


「何人使えば気が済む!」


『自己戴冠に必要な王権原型を』


『回収します』


棺の蓋へ。


青白い亀裂が走る。


一つ目。


二つ目。


三つ目。


ノアは両耳を押さえた。


「違う!」


「何が!」


ヴェスパーが尋ねる。


「王様たちが」


「起きたいんじゃない!」


「中から」


少年の瞳に。


恐怖が浮かぶ。


「何かを」


「外へ出すなって言ってる!」


最も古い王棺が。


内側から大きく持ち上がった。


隙間。


暗闇。


そこから。


冠を被った人影が。


ゆっくりと指を伸ばす。


だが。


その手には。


肉も。


骨もない。


無数の王名が刻まれた。


青白い結晶だけで形作られている。


一人目。


二人目。


三人目。


歴代の王たちの姿を借りた何かが。


棺から起き上がっていく。


中央。


空の台座へ。


見えない冠が浮かぶ。


『戴冠式には』


エリュシオンが告げる。


『王が必要でした』


無冠殿を満たす死者たちが。


空の玉座へ顔を向ける。


『ゆえに』


『過去の王を』


『全て使用します』


王のいない戴冠式。


王都は。


王がいないのなら。


死者全員を、一人の王として立たせようとしていた。


ヴェスパーは剣を抜く。


だが。


残火は灯さない。


約束を守り。


仲間を見る。


「どうする」


以前なら。


一人で前へ出ていた。


今は。


全員へ尋ねる。


レイラが。


最初に戦斧を持ち上げた。


「冠を落とす」


アステルの周囲で。


重力が揺れる。


「棺と王名を分けます」


イリスが鋼線を広げる。


「接続路を探す」


セレスは。


ヴェスパーとノアの状態を確認しながら。


医療鞄から熱遮断針を取り出した。


「二人を星環へ触れさせません」


ミレイアが。


自分の胸元へ手を置く。


「死者の祈りを」


「王都の命令から取り戻します」


シオンは。


無冠殿の門へ槍を立てる。


「帰る道は閉じさせない」


ノアが。


恐怖に震える耳を。


それでも立てた。


「王様たちの本当の声を聞く」


最後に。


全員がヴェスパーを見る。


彼は。


自分の胸の熱を確かめる。


黒陽炎。


残火。


今はまだ使わない。


「俺は」


剣を構える。


「返すべきものを見つける」


一つにならない八つの答え。


同じ命令ではない。


それでも。


同じ敵へ向けられる。


最古の王が。


青白い結晶の剣を抜いた。


その背後。


七人の死王が並ぶ。


中央の空の台座では。


都市の冠が。


ゆっくりと形を持ち始めていた。


『第一戴冠儀礼』


『王権原型の統合を開始』


死者の王たちが。


一斉に口を開く。


異なる時代。


異なる声。


異なる誓いを持っていた者たち。


その全てが。


今は同じ言葉を発した。


『エリュシオンへ』


『冠を』


ノアが叫ぶ。


「違う!」


大きな兎耳が。


死者の命令の奥にある音を捉える。


「本当の王様たちは!」


「誰も!」


「そんなこと言ってない!」


ヴェスパーの剣先に。


赤い残火が。


一瞬だけ灯りかける。


セレスの言葉。


約束。


自分を捨てない。


彼は炎を抑え。


代わりに。


仲間たちと並んだ。


王のいない戴冠式を止める戦いが。


無冠殿で。


始まった。

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