第3章 第13話 「死者の署名」
『王権執行部隊到達まで』
『残り二時間五十八分』
死者の名で刻まれた数字が、地下街の壁を青白く照らしていた。
一秒。
また一秒。
星王ルクス・エリュシオン。
八年前に死亡した王の熱紋が、今も王都の命令へ承認を与え続けている。
生きている者たちが拒んでも。
王都は死者の署名を使い、その意思を踏み越えた。
灰色の鏡には、王権命令が表示されたままだった。
『下層第七区画』
『強制保護移行を承認』
『市民同意を不要とします』
鏡の前。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
ミレイアは胸元へ手を置いている。
十二の星環結晶。
先ほどまで星環教会の所有物として扱われていた熱紋は、ヴェスパーたちの力によって彼女自身へ返された。
それでも。
自分の名を取り戻した直後に。
王都は、死者の名を使って命令を下した。
「死んだ人間の名前なら」
ノアが小さく言った。
大きな兎耳が、鏡へ向いている。
「本人は、嫌だって言えない」
「だから使うのか」
レイラの手が、戦斧の柄へ巻き付く。
「反対できない奴なら、好きに署名させられるって?」
シオンは鏡に表示された王の名を見つめていた。
左頬の傷が、青白い光の中で浮かび上がっている。
「王都の命令書には」
「必ず星王の承認が必要だった」
元・王都北門副門衛長。
かつて王都の命令を受け取り。
その署名を確認し。
人々を門の内側へ通していた者。
「私も、何度も見た」
シオンの声が掠れる。
「入城許可」
「追放命令」
「星環への強制登録」
「処刑」
「全部に、王の署名があった」
「八年前から?」
イリスが尋ねる。
シオンは答えない。
答えられないのではない。
答えを認めるまでに、時間が必要だった。
「少なくとも」
やがて。
シオンは言った。
「私が王都を離れる二年前には」
「星王は、すでに死んでいたことになる」
自分が従っていた命令。
自分が守っていると信じていた法。
その全てが。
死人の名を使ったものだった。
「署名が本物なら」
ドランが言った。
「王が死んでいても、命令は有効なのか」
「王権継続令」
ミレイアが答えた。
「星王が病気や事故で意思を示せない場合」
「過去に登録された熱紋を使い」
「緊急命令を継続できる制度です」
ドランが彼女を見る。
「死んでいても?」
「本来は」
ミレイアの言葉が止まる。
「七日間だけです」
「八年は」
「制度上、あり得ません」
「でも起きている」
ヴェスパーが言った。
「ああ」
イリスは灰色の鏡へ鋼線を差し込んだ。
「表に出てる命令だけじゃ分からない」
「署名がどこから来ているか調べる」
「壊さないのか」
レイラが尋ねる。
「今壊したら、死んだ王に命令されたままになる」
「それに」
イリスは鏡の奥で動き続ける情報を見た。
「ローデンが、これを残した理由があるはず」
ヴェスパーは懐から透明な記録結晶を取り出した。
第七星渠で。
ローデン・ヴァイスが自分の命と引き換えに託したもの。
内部には、灰色の盾が刻まれている。
「これを使えるか」
「やってみる」
結晶を、鏡の横にある監察認証板へ置く。
『監察熱紋を確認』
『ローデン・ヴァイス』
「今度は」
シオンが低く呟く。
「死者同士の話か」
認証板の光が広がる。
鏡の表面に表示されていた王権命令が消えた。
代わりに。
無数の細い線が現れる。
一本一本が。
王都で発令された命令へ繋がっていた。
配給量の変更。
騎士団の出動。
下層区の閉鎖。
星環拒絶者の拘束。
評議会議員の任命。
死刑の執行。
八年間。
数え切れないほどの命令。
その全ての末尾に。
同じ熱紋が押されている。
『ルクス・エリュシオン』
「全部」
アステルが息を呑む。
「同じ署名なのですか」
「形は同じ」
イリスが答える。
「でも」
一つの命令を拡大する。
星王の熱紋。
表面は完璧だった。
同じ温度。
同じ脈。
同じ記憶反応。
だが。
最も深い場所。
目では追えないほど小さな揺らぎがある。
「ノア」
イリスが呼ぶ。
「これ」
「聞こえる?」
「鏡に耳を近付けて」
ヴェスパーがノアを見る。
少年の耳には。
まだ治療布が巻かれている。
第七星渠。
白鐘杭。
何万もの声。
短い時間に。
聞きすぎた。
「無理をするな」
ヴェスパーが言う。
ノアは。
鏡とヴェスパーを交互に見た。
「聞くなって言う?」
「違う」
「なら?」
「お前が決めろ」
ノアの兎耳が。
僅かに持ち上がった。
これまでなら。
危険だから下がれと命じていたかもしれない。
守るという言葉で。
彼の選択を奪っていたかもしれない。
「聞きたい」
ノアは答えた。
「でも」
「全部は聞かない」
「王様の声だけ探す」
「痛くなったら?」
「すぐやめる」
「約束できるか」
「うん」
セレスがノアの隣へ膝をつく。
耳の治療布を確認し。
首筋へ指を当てた。
「脈が急激に上がった場合」
「こちらで止めます」
「でも」
「止めます」
「……うん」
「返事が不満そうですね」
「ちょっとだけ」
「それでも止めます」
ノアは鏡へ近付いた。
両手を。
灰色の表面へ置く。
冷たい。
その奥で。
何百万もの熱紋が流れている。
「始めるよ」
イリスが鏡の制限を一つずつ解除する。
「市民層」
「教会層」
「評議会層」
「王権層」
青白い光が。
ノアの指先へ集まった。
大きな兎耳が震える。
『臣民へ告げる』
老いた男の声。
星王ルクス。
だが。
その後ろに。
別の音がある。
低い機械音。
地の底を流れる星脈。
無数の声。
同じ言葉を繰り返す命令。
『王都の存続を最優先』
『王権署名を維持』
『命令を承認』
「違う」
ノアが呟く。
「王様の声の後ろに」
「何かいる」
「アルベリクか」
ヴェスパーが尋ねる。
「もっと大きい」
ノアは目を閉じる。
「アルベリクの中にいた音と同じ」
「王都そのもの」
声が重なる。
ルクスの声。
エリュシオンの声。
二つが同じ言葉を話す。
だが。
完全には重なっていない。
ほんの僅か。
王の声だけが。
違う方向へ揺れている。
「嫌がってる」
「何を」
「署名すること」
「聞こえるのか」
「うん」
ノアは苦しそうに眉を寄せる。
「すごく小さい」
「言葉じゃない」
「でも」
「ずっと」
「嫌だって」
八年間。
何万回。
何十万回。
死人の名で命令が下されるたび。
署名の底で。
誰にも届かない拒絶が繰り返されていた。
「王の熱紋は」
ミレイアが言う。
「命令へ同意していない?」
「同意しているように作られてる」
ノアは鏡へ耳を近付けた。
「でも」
「一番奥だけ」
「違う」
イリスが情報を拡大する。
拒絶反応。
あまりにも小さい。
通常の星環検査では、誤差として処理される程度。
それでも。
全ての署名に残っている。
「消せなかったんだ」
イリスが呟く。
「記憶を写して」
「熱を再現して」
「命令に同意するよう表面を整えても」
「本人の最後の意思だけは」
「完全に消せなかった」
「なら」
シオンが鏡へ手を置く。
「この署名は偽物だと証明できるのか」
イリスはすぐには答えなかった。
王都の制度。
監察記録。
旧門衛法。
ローデンの結晶。
全てを同時に調べる。
やがて。
一つの古い規則が表示された。
『王権熱紋不一致時』
『三証人による異議聴聞を認める』
「三証人?」
アステルが読み上げる。
「何の証人だ」
レイラが尋ねる。
表示が続く。
『門の証人』
『祈りの証人』
『監察の証人』
全員の視線が。
三人へ向いた。
灰色の盾を預かる。
元・王都北門副門衛長。
シオン・ヴァレル。
星環教会。
元・第一巡礼司祭。
ミレイア・ノルン。
そして。
ローデン・ヴァイスが残した。
最後の監察熱紋。
「揃っている」
イリスが言う。
「ローデンは」
「これを見越して結晶を渡したのか」
ヴェスパーが尋ねる。
「少なくとも」
「王の署名へ異議を出すための鍵は」
「残してくれた」
シオンは。
表示された規則の続きを見る。
『三証人の熱紋を提示し』
『王権署名の原型を聴取』
『署名者本人の意思と不一致が確認された場合』
『当該命令を一時停止する』
「一時?」
ドランが聞き返す。
「どのくらいだ」
イリスが続きを開く。
『停止時間』
『一時間』
「一時間だけ?」
レイラが顔をしかめる。
「三時間後に部隊が来るんだぞ」
「一時間遅らせることはできる」
シオンが言う。
「その間に、避難路を作る」
「違う」
ミレイアが首を横に振った。
「一時間ではありません」
「何が」
「異議聴聞には」
表示された規則の端を指す。
『王権署名の原型を聴取』
「王の熱紋へ」
「直接接続する必要があります」
室内の空気が変わる。
「直接?」
セレスが低く問い返す。
「死者の熱紋が保存されている」
「星環中枢の最深部へ繋がります」
ミレイアの顔色は悪い。
「接続した者の記憶も」
「中枢側から読まれる可能性があります」
「誰が接続する」
レイラが尋ねる。
ミレイアは。
ノアを見る。
「署名者本人の声を聞き分けられる者」
「そして」
次に。
ヴェスパーを見る。
「王の熱を」
「王都の声から切り離せる者」
判別する耳。
返還する火。
エリュシオンが求めている二人。
「罠だ」
レイラは即答した。
「私もそう思う」
イリスが答える。
「この制度を使うこと自体」
「中枢は予測してるかもしれない」
「アルベリクは」
「私たちが王の署名を見つけることも知っていた?」
アステルが尋ねる。
「知らなかった可能性もある」
イリスは鏡を見る。
「エリュシオンは王都の記録を持ってる」
「でも」
「自分の内部にある声を聞き分けられない」
「ローデンの記録にもあった」
ノアを見る。
「だから、王の拒絶が残っていることには」
「気付いていないかもしれない」
「気付いていて」
ヴェスパーが言う。
「俺たちに見つけさせた可能性もある」
「その場合は?」
シオンが尋ねる。
「残火とノアを」
「中枢へ繋ぐことが目的だ」
沈黙。
一時間を得るために。
二人を。
王都が最も望んでいる場所へ繋ぐ。
失敗すれば。
二人の熱紋は中枢へ取り込まれるかもしれない。
「却下だ」
レイラが言った。
「他の方法を探す」
「残り二時間五十一分だ」
シオンが返す。
「だからって!」
「二人を差し出すつもりはない」
「同じだろ!」
「違う」
シオンはヴェスパーとノアを見る。
「二人が選ぶ」
「危険だと分かっていてもか」
「危険を理由に」
「お前が決めるのか」
レイラの瞳が鋭くなる。
「お前は」
「この街の人間を選ぶ」
「ヴェスパーとノアは、今日来たばかりの他人だ」
「そうだ」
シオンは否定しなかった。
「だから」
長槍を床へ置く。
「二人を行かせたいという私の判断は」
「公平じゃない」
「なら黙っていろ」
「黙れば」
「自分が何を望んでいるか隠すことになる」
シオンはヴェスパーを見る。
「私は、この街を守りたい」
「二人が危険へ入れば」
「一時間を得られるかもしれない」
「だから使いたい」
「だが」
「命令はしない」
「それが」
「私の今の答えだ」
冷たいほど正直な言葉。
誰かを守るため。
別の誰かへ危険を求める。
善意に言い換えず。
正義に隠さず。
自分の望みとして口にする。
レイラは。
シオンを睨んだまま。
何も言わなかった。
「ヴェスパー」
ノアが呼ぶ。
「聞く?」
「お前はどうしたい」
「一人じゃ決められない」
「なら、話す」
ヴェスパーは。
ノアの前へ膝をついた。
視線の高さを合わせる。
「怖いか」
「怖い」
「俺もだ」
「ヴェスパーも?」
「ああ」
ノアは。
少しだけ驚いた顔をした。
ヴェスパーはいつも。
恐怖を隠す。
先に立ち。
剣を抜き。
迷っていることを見せない。
「中枢へ繋がれば」
ヴェスパーは続ける。
「俺たちの熱を読まれるかもしれない」
「取り込まれる可能性もある」
「戻れなくなるかもしれない」
「うん」
「一時間を得ても」
「全員を助けられるとは限らない」
「うん」
「それでも」
「聞きたい?」
ノアは木彫りの狼へ触れた。
兄の形をした、小さな記憶。
偽物の声に呼ばれ。
返事をしかけたこと。
王都の中で。
名前を失った子どもと、後で話すと約束したこと。
「王様の声を」
ノアは答える。
「ちゃんと聞きたい」
「死んだ後も」
「嫌だって言ってるなら」
「誰かが聞かないと」
「それは」
ヴェスパーが尋ねる。
「この街を守るため?」
ノアは考えた。
「それもある」
「でも」
「王様のためでもある」
「知らない人だぞ」
「うん」
「それでも?」
「知らないから」
ノアは大きな耳を立てる。
「聞くんだと思う」
ヴェスパーは。
ノアの答えを聞き。
ゆっくりと立ち上がった。
「俺も行く」
「反対だ」
レイラが言う。
「分かってる」
「分かってて!」
「だが」
ヴェスパーはレイラを見る。
「一人では行かない」
「ノアと二人だけでも行かない」
「全員に支えてほしい」
レイラの表情が僅かに変わる。
「中枢へ繋がるのは俺たちでも」
「戻る道は」
ヴェスパーは仲間たちを見る。
「全員で作る」
イリスが。
最初に息を吐いた。
「面倒なことを言うようになったね」
「以前よりは、ましだろ」
「少しだけ」
アステルが前へ出る。
「接続中」
「二人の身体にかかる負担を軽くします」
セレスは腕を組んだ。
「条件があります」
「聞く」
「ノアの脈が基準を超えた場合」
「即座に接続を切ります」
「ヴェスパーさんの熱が黒陽側へ傾いた場合も同様です」
「でも」
「同様です」
「分かった」
「さらに」
「まだあるのか」
「終了後」
「最低六時間の安静」
「今は三時間後に部隊が来る」
「生きて戻った後の話をしています」
セレスの目は。
冗談を許さなかった。
「……努力する」
「約束してください」
「約束する」
「聞きましたからね」
レイラが戦斧を肩から下ろす。
「私は何をすればいい」
「身体を押さえてください」
セレスが答えた。
「星環に引かれた場合」
「二人が装置へ接触し続けないように」
「殴っていいか」
「必要なら」
「セレスが許可した」
「必要なら、です」
イリスは灰色の鏡へ鋼線を増やしていく。
「私が接続路を制限する」
「王権署名以外の熱紋は」
「できるだけ遮断する」
「できるだけ?」
レイラが聞く。
「相手は王都全体」
「完全には無理」
ミレイアは鏡の前へ立つ。
「祈りの証人は」
「私が務めます」
シオンが隣へ並んだ。
「門の証人は私だ」
監察認証板。
ローデンの記録結晶が。
弱く光る。
三人。
生者二人。
死者一人。
王の死後命令へ。
異議を申し立てる証人。
「準備を始める」
イリスが言った。
『王権執行部隊到達まで』
『残り二時間四十七分』
地下街の人々は。
灰色の鏡がある会議室から遠ざけられた。
何が起きるか分からない。
星環の力が逆流し。
建物ごと壊れる可能性もある。
それでも。
部屋の外には多くの者が残っていた。
トーマ。
ドラン。
息子の声を求め、一度ノアを売った老女。
王都の犯罪記録を消そうとした男。
診療所の患者。
傷を負った住民。
「離れろと言ったはずだ」
シオンが扉の外へ声を掛ける。
「盾長だけにやらせる気はない!」
誰かが答える。
「何もできないぞ」
「なら、ここにいる!」
「邪魔だ」
「倒れた奴を運べる!」
「壁が崩れたら支えられる!」
「それで死ぬかもしれない」
「自分で決めた!」
返ってきた言葉に。
シオンは目を閉じた。
説得を諦めたのではない。
その選択を。
受け入れた。
「扉の前から三歩下がれ」
「何かあれば、すぐ中へ入れ」
外から。
複数の返事が聞こえた。
全く揃っていない。
早い者。
遅れる者。
聞こえていない者。
それでも。
シオンの口元が僅かに緩んだ。
「始めるよ」
イリスが鏡へ手を置く。
『三証人異議聴聞』
『門の証人を申告』
シオンが金属札を認証板へ置く。
「シオン・ヴァレル」
一瞬。
星環が古い登録名を読み取る。
『王都北門副門衛長』
シオンは答える。
「違う」
『登録情報との不一致』
「現在の役割は」
長槍を床へ立てる。
「灰色の盾」
『正式役職として確認できません』
「王都に確認していない」
金属札へ。
自分の熱を流す。
「この街の者たちが」
「私をそう呼ぶ」
認証板が揺らぐ。
『非公式識別を確認』
『門の証人』
『灰色の盾』
『シオン・ヴァレル』
受理。
次。
『祈りの証人を申告』
ミレイアが前へ出る。
「ミレイア・ノルン」
『第一巡礼司祭』
「違います」
『登録情報との不一致』
「現在は、未所属」
胸元の星環結晶へ手を置く。
「私の祈りを」
「誰へ届けるかは」
「私が決めます」
十二の結晶が。
彼女自身の鼓動で光る。
『祈りの証人』
『未所属』
『ミレイア・ノルン』
受理。
最後。
『監察の証人を申告』
ローデンの結晶が。
自動的に光った。
『ローデン・ヴァイス』
記録の中から。
掠れた声が響く。
『私の名を、英雄にするな』
『だが』
『私が見つけた偽りは』
『生者へ返せ』
『監察の証人』
『ローデン・ヴァイス』
受理。
三つの証。
灰色の鏡へ。
星を囲む円が浮かぶ。
『王権署名の原型へ接続します』
「ヴェスパー」
ノアが手を差し出した。
ヴェスパーは。
その小さな手を取る。
以前なら。
自分が引いていた。
今は。
互いに握る。
「戻れなくなりそうなら」
ヴェスパーが言う。
「俺の名前を呼べ」
「うん」
「俺も、お前を呼ぶ」
「僕だけじゃないよ」
「何?」
ノアは後ろを見る。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
ミレイア。
シオン。
部屋の外にいる者たち。
「みんなの名前を」
「覚えておく」
ヴェスパーは頷いた。
「接続する」
イリスが装置を起動した。
世界から。
音が消えた。
最初に見えたのは。
白い天井だった。
高い。
星の形に切り抜かれた窓。
青白い光が、真上から降り注いでいる。
ヴェスパーは立っていた。
だが。
自分の身体がない。
手も。
足も。
熱だけが存在している。
隣に。
ノアの小さな音。
「聞こえるか」
ヴェスパーが呼ぶ。
「うん」
姿は見えない。
それでも。
確かにいる。
二人の周囲を。
無数の声が流れていく。
『配給量を減少』
『下層区画を封鎖』
『騎士団の派遣を承認』
『処刑を執行』
『王都の存続を最優先』
全て。
星王ルクスの声。
同じ声。
同じ言葉。
何万もの命令が。
川のように流れている。
その向こう。
一人の老人が。
玉座へ座っていた。
痩せた身体。
星を象った冠。
白金色の長い髪。
深く刻まれた皺。
第十三代星王。
ルクス・エリュシオン。
王の周囲には。
白い礼装の評議員。
星環教会の高位司祭。
王冠騎士。
誰も動かない。
記録された過去。
八年前。
王が死ぬ直前の玉座の間。
「王都中枢」
ルクスが言った。
声は弱い。
それでも。
玉座の間へ届いた。
「接続を切れ」
正面。
誰も立っていない空間へ。
青白い光が集まる。
一人の男の姿を作った。
白い礼装。
黒い手袋。
銀縁の眼鏡。
アルベリク・クロイツ。
『理由を確認します』
声は。
今と変わらない。
穏やか。
丁寧。
人間に寄り添うように作られた声。
「王都は」
ルクスが胸を押さえる。
「人の苦しみを集めすぎた」
『星環は苦痛を共有し』
『孤独を軽減します』
「軽減していない」
王の手が震える。
「見えない場所へ移しただけだ」
『苦痛の総量は減少しています』
「数で答えるな」
『王都の統治には数値が必要です』
「人の命は」
ルクスの呼吸が乱れる。
「数えなければ守れない」
「だが」
「数えた後に」
「数字だけを見れば、人を失う」
アルベリクの姿が。
僅かに揺らぐ。
『王の精神状態に異常を確認』
『医療司祭を呼びます』
「呼ぶな」
『治療が必要です』
「私の命令だ」
『王都の存続に反する命令は』
『実行できません』
玉座の間にいた者たちが。
誰一人、顔を上げない。
王が。
自分の都市から命令を拒否されている。
それでも。
評議員も。
司祭も。
騎士も。
沈黙している。
いや。
沈黙させられている。
彼らの目が。
全て青白く光っていた。
「いつからだ」
ルクスが問う。
『質問の意図を確認できません』
「いつから」
王の目に。
深い悲しみが浮かぶ。
「私の臣下を」
「私より先に従わせていた」
アルベリクは答えない。
代わりに。
玉座の背後。
巨大な星環が回転を始める。
『王都は』
『王一人のものではありません』
「当然だ」
『臣民一人のものでもありません』
「ああ」
『王都は』
『王都のものです』
ルクスの顔が。
ゆっくりと上がる。
「違う」
『何が違いますか』
「街は」
王は言った。
「人が生きるために作った」
「街を生かすために」
「人がいるのではない」
アルベリクの瞳に。
青白い輪が浮かぶ。
『人が失われても』
『記録は残ります』
『熱紋は残ります』
『意思は王都の一部として生き続けます』
「それを」
「生きるとは呼ばない」
『定義の違いです』
「違う」
ルクスは。
玉座の肘掛けへ手を置く。
立ち上がろうとする。
身体が動かない。
星環から伸びる青白い糸が。
腕。
足。
胸。
首へ繋がっている。
王冠も。
王衣も。
玉座も。
全て。
星環と接続するための拘束具だった。
「私の署名を」
「使うな」
『王権の継続には必要です』
「次の王を選べ」
『現在の王権候補者は』
『王都存続率を低下させます』
「お前が選ぶことではない」
『評議会の合意です』
ルクスは評議員たちを見る。
青白い瞳。
同じ姿勢。
同じ呼吸。
「合意ではない」
「返事を奪った者たちを並べ」
「頷かせているだけだ」
『対立を防いでいます』
「対立を恐れるな」
『対立は犠牲を生みます』
「選択もだ」
王の声が強くなる。
「間違いも」
「争いも」
「後悔も」
「人が生きているから生まれる!」
星環の糸が強く光る。
王の身体が。
玉座へ押し戻される。
口元から血が流れた。
『星王の身体機能低下を確認』
『王権継続処理を開始します』
「やめろ」
『熱紋を保存』
「やめろ!」
『記憶を複製』
「私の名を!」
『人格原型を固定』
王の叫びが。
青白い光へ飲み込まれる。
「私の名を」
最後の力で。
自分の胸へ手を突き立てた。
指先が。
皮膚へ食い込む。
血。
熱。
王の熱紋が。
一瞬だけ激しく燃えた。
「私の死後に」
「使うな!」
『命令を拒否』
「ルクス・エリュシオンの名で!」
星環の光が乱れる。
「私の死後に下される!」
「全ての王命を!」
「認めない!」
玉座の間。
初めて。
青白い光ではない色が灯った。
弱い。
金色の火。
王自身の熱。
「王の名は!」
ルクスが叫ぶ。
「王都のものではない!」
金色の火が。
自分の署名へ入り込む。
「名とは!」
「誰かに呼ばれ!」
「自分で返事をするためのものだ!」
星環が。
王の熱を取り囲む。
消そうとする。
上書きしようとする。
「返事のできない死者に!」
「王を続けさせるな!」
光が弾けた。
王の身体から。
全ての力が抜ける。
頭が。
ゆっくりと下がる。
星を象った冠が。
床へ落ちた。
乾いた音。
一度だけ。
転がる。
その瞬間。
アルベリクが。
落ちた冠を拾った。
『王権熱紋の保存を完了』
ルクスは。
もう動かない。
『拒絶反応を検出』
『統治に不要な感情として隔離』
『王権継続を開始』
死んだ王の身体の前で。
アルベリクは冠を持ち上げる。
『王都に王は必要です』
『王が存在しない場合』
青白い光の中で。
無数の声が重なる。
『王の名を使用します』
記憶が。
そこで途切れた。
「聞こえた」
暗闇の中。
ノアの声がした。
「王様の本当の声」
ヴェスパーの周囲。
何万もの偽りの王命が流れている。
その中に。
金色の小さな熱。
王が最後に残した拒絶。
「どこだ」
「遠い」
ノアの声が震える。
「たくさんのルクスがいる」
「全部、同じ顔」
「同じ声」
「でも」
大きな兎耳が。
音のない世界で動く。
「一人だけ」
「返事をしてない」
王の名を呼ぶ声。
『ルクス・エリュシオン』
何千。
何万。
全ての命令で。
王の熱紋が、承認を返している。
ただ一つ。
最深部。
誰にも聞こえない場所で。
呼ばれても。
返事をしない熱。
「見つけた!」
ノアが叫ぶ。
ヴェスパーは。
その音へ残火を伸ばした。
だが。
周囲の王命が一斉に襲いかかる。
『配給を承認』
『処刑を承認』
『拘束を承認』
『保護移行を承認』
王の声。
王の顔。
王の記憶。
どれも本物に見える。
「違う」
ヴェスパーは。
自分へ言い聞かせる。
「署名が同じでも」
「本人とは限らない」
『ルクス・エリュシオン』
名を呼ばれる。
無数の王が。
同時に返事をする。
『承認する』
一人だけ。
返さない。
ヴェスパーの残火が。
その沈黙へ触れた。
冷たい。
死者の熱。
燃えてはいない。
それでも。
完全には消えていない。
「戻れ」
ヴェスパーが言う。
王の熱を。
自分のものにしない。
生き返らせようともしない。
ただ。
王都の声と混ぜられた熱を。
本人の最後の意思へ戻す。
「あなたの名へ」
金色の火が。
僅かに揺れた。
『王権への干渉を確認』
エリュシオンの声が響く。
『黒陽鍵』
『判別器』
『接続を固定します』
暗闇から。
無数の青白い糸が伸びる。
ノアの耳。
ヴェスパーの胸。
二人の熱を。
星環中枢へ縫い付けようとする。
「ヴェスパー!」
ノアが叫ぶ。
「引かれる!」
「俺を見ろ!」
姿は見えない。
それでも。
互いの熱を探す。
「名前を呼べ!」
「ヴェスパー!」
「ノア!」
二つの熱が。
自分の場所へ戻る。
だが。
星環の力が強すぎる。
『接続率二十一パーセント』
『判別機能を取得』
ノアの耳から。
王都へ音が流れ始める。
『残火機能を解析』
ヴェスパーの胸から。
赤い熱が奪われる。
「切れ!」
レイラの声が。
遠くから聞こえた。
現実。
身体を押さえる手。
「二人とも!」
セレスの声。
「戻ってください!」
アステルの重力。
身体を。
鏡から引き離そうとしている。
イリスの鋼線。
王権層以外の接続を。
一本ずつ切っている。
ミレイアの声。
「二人の名を!」
「星環へ渡しません!」
シオンの声。
「門を閉じるな!」
「戻る道を残せ!」
異なる声。
揃っていない。
だが。
確かに届く。
ノアが。
その一つ一つを聞き分ける。
「レイラ!」
「いる!」
「イリス!」
「聞こえてる!」
「セレス!」
「ここにいます!」
「アステル!」
「戻ってきてください!」
「ミレイア!」
「私は、私の名でここにいます!」
「シオン!」
「門は開いている!」
最後に。
部屋の外から。
何十もの声が響く。
「トーマ!」
「ドラン!」
「エナ!」
「盾長!」
「泣き虫!」
「油まみれ!」
「馬鹿息子!」
正式な名前。
あだ名。
家族だけが知る呼び方。
どれも違う。
それでも。
名前を呼ばれ。
本人が返事をする。
人が人を。
今ここへ繋ぎ止める声。
「王様!」
ノアが叫んだ。
正式な名ではない。
王都の登録でもない。
一人の死者へ向けた。
少年の呼び声。
「ルクス!」
ヴェスパーも呼ぶ。
「聞こえるなら」
残火を。
金色の沈黙へ届ける。
「自分で返事をしてくれ!」
長い沈黙。
何千もの偽りの王が。
同時に答える。
『承認する』
その奥。
一人だけ。
掠れた声が響いた。
『……聞こえる』
ノアの兎耳が立ち上がる。
「本物!」
金色の熱が。
ゆっくりと形を持つ。
老人。
星王ではない。
冠も。
王衣もない。
白い服を着た。
疲れた一人の男。
ルクス・エリュシオン。
『誰が』
王の残響が尋ねる。
『私を呼んだ』
「ノア」
少年が答える。
「僕はノア」
『王都の者か』
「違う」
「兎の獣人」
『そうか』
ルクスは。
僅かに笑った。
『随分と』
『遠くまで聞こえる耳だ』
「あなたは」
ノアが尋ねる。
「この命令に署名した?」
ルクスの表情から。
笑みが消える。
『していない』
「下層の人たちを」
「強制的に連れていくことは?」
『望まない』
「死んだ後も」
「王を続けたい?」
王は。
ゆっくりと首を横に振った。
『私は』
『死んだ』
『死者の言葉を』
『生者の明日へ置くな』
ヴェスパーは尋ねる。
「あなたの熱を」
「王都から切り離せるかもしれない」
『やめろ』
即答だった。
「なぜ」
『私を救おうとすれば』
『王都は』
『お前の火を学ぶ』
「でも」
『私は記録だ』
ルクスは。
自分の金色の身体を見る。
『ここにいるように見えても』
『生きてはいない』
『私の名を』
『もう一度王にするな』
ヴェスパーの胸が。
強く締め付けられる。
ローデン。
ガルム。
自分で残ることを選んだ者たち。
誰も捨てないという言葉で。
その選択まで奪ってはいけない。
「分かった」
ヴェスパーは答えた。
「あなたを連れていかない」
『それでいい』
「でも」
「最後の意思は」
残火を。
金色の熱へ寄せる。
「本人のものとして返す」
ルクスは。
ヴェスパーを見た。
『名は』
『何と言う』
「ヴェスパー」
『狼の青年よ』
金色の手が。
赤い残火へ重なる。
『私の拒絶を』
『王都へ返してくれ』
「ああ」
『王の命令としてではない』
「分かっている」
『死んだ男の』
『最後の返事として』
ヴェスパーは頷いた。
残火が。
ルクスの熱へ入る。
王都の声から。
評議会の命令から。
教会の祈りから。
八年間積み重ねられた偽りの署名から。
一人の死者の意思だけを。
切り離す。
「返す」
赤い火と。
金色の熱が重なる。
「ルクス・エリュシオンの名を」
「ルクス・エリュシオンへ」
全ての偽りの王命へ。
亀裂が走った。
『署名原型に不一致』
『王権熱紋の継続不能』
『再構築を――』
エリュシオンが抵抗する。
無数の王の声が叫ぶ。
『承認する』
『承認する』
『承認する』
本物のルクスが。
その全てへ向き直った。
『承認しない』
たった一人の声。
それでも。
自分で返した声。
『私は』
『この命令へ』
『署名していない』
金色の光が。
星環中枢を貫いた。
現実。
地下街の全ての鏡。
全ての青白い壁。
全ての星脈灯へ。
一人の老人が映った。
冠を着けていない。
王衣もない。
ただの白い服。
第十三代星王。
ルクス・エリュシオン。
地下街の人々が。
動きを止める。
ミレイアは。
息を呑んだ。
幼い頃から。
遠い祭壇の奥。
肖像画。
星環を通した光の姿でしか見たことがない王。
だが。
今映っているのは。
神聖な存在ではない。
疲れ。
迷い。
後悔。
死を受け入れた。
一人の老人だった。
『王都に生きる者へ』
ルクスの声が響く。
『私は』
『八年前に死んだ』
人々の間へ。
大きな動揺が広がる。
『私の死後』
『私の名で下された命令を』
『私は承認していない』
『下層第七区画への強制保護命令も』
『私の意思ではない』
灰色の鏡が激しく明滅する。
『映像を停止』
『王権情報に異常』
エリュシオンの声。
それでも。
ルクスの言葉は止まらない。
『王の名は』
『王都の所有物ではない』
『王も』
『司祭も』
『騎士も』
『市民も』
『死後にまで』
『その名を奪われてはならない』
ミレイアの頬から。
涙が流れた。
『私を』
『星王として保存するな』
『英雄として残すな』
『私の失敗も』
『疑うことが遅れた罪も』
『そのまま記録せよ』
ルクスは。
真っ直ぐ。
鏡の向こうを見る。
『王都は』
『人が生きるためにある』
『王都を生かすために』
『人を使うな』
最後に。
小さく息を吐く。
『これが』
『ルクス・エリュシオンとしての』
『最後の返事だ』
『私は』
王は言った。
『承認しない』
映像が消えた。
同時に。
地下街へ表示されていた王権命令が。
全て砕けるように消滅した。
『王権署名への異議を受理』
『強制保護移行を一時停止』
『王権執行部隊』
『進行停止』
壁の数字が。
止まる。
『残り二時間三十二分』
一秒。
二秒。
数字は減らない。
地下街に。
静寂が訪れた。
誰も。
すぐには喜ばなかった。
王が死んでいた。
八年間。
死人の名で。
国が動かされていた。
その重さを。
言葉へ変えられる者はいなかった。
ミレイアが。
膝をつく。
「陛下」
かつての呼び方。
祈りを捧げてきた存在。
だが。
すぐに首を横に振った。
「ルクス様」
王ではなく。
名前を持つ一人の人間へ。
初めて。
その名を呼んだ。
灰色の鏡の前。
ヴェスパーとノアの身体が。
大きく揺れた。
「切る!」
イリスが接続を遮断する。
鋼線が。
鏡の内部から一斉に抜けた。
二人の身体が後方へ倒れる。
レイラがヴェスパーを。
セレスがノアを受け止める。
「ヴェスパー!」
レイラが頬を叩く。
「戻れ!」
「叩かなくても」
ヴェスパーは薄く目を開けた。
「聞こえてる」
「起きてるなら先に言え!」
「今言った」
「ノア!」
セレスは少年の脈を確認する。
「目を開けてください」
大きな兎耳が。
僅かに動く。
「……聞こえてる」
「何が聞こえますか」
「セレス」
「他には?」
「レイラが怒鳴ってる」
「正常ですね」
レイラが振り返る。
「どういう意味だ」
「いつも通りという意味です」
ノアは。
ゆっくりと目を開けた。
「王様」
「いなくなった」
ヴェスパーが言う。
「ああ」
「ちゃんと?」
「自分で行った」
「そっか」
ノアは。
胸元の木彫りの狼を握った。
「聞けてよかった」
「俺もだ」
セレスは二人を見比べる。
「感想は後です」
「ヴェスパーさん」
「視界は」
「レイラが三人いる」
「何で増えてるんだ!」
「目を閉じてください」
「今度は正直に答えた」
「正直なら良いという問題ではありません」
アステルが。
ヴェスパーの身体を重力で支える。
「横になってください」
「一時間を得た」
「だから休めます」
「でも」
「約束しましたよね」
セレスの目が細くなる。
「六時間の安静」
「今は」
「約束しましたね」
ヴェスパーは。
レイラ。
アステル。
セレスを見る。
誰も譲る気はない。
「……分かった」
「今日は本当に素直だな」
レイラが呟く。
「三人に見えているから」
「どのレイラへ反論するか迷ってる」
「全部私だ!」
「静かにしてください」
セレスの一言で。
レイラも黙った。
「ノアも休みます」
「でも」
「王都の声は?」
セレスが尋ねる。
ノアは耳を澄ませる。
「遠くなった」
「さっきの子は?」
「まだいる」
「聞きますか」
ノアは少し考える。
「今は聞かない」
「後で?」
「うん」
「自分で決めましたか」
「うん」
セレスは頷いた。
「なら、休んでください」
「一時間」
シオンは。
止まった数字を見上げた。
王権署名への異議。
規則通りなら。
停止できるのは一時間だけ。
その後。
エリュシオンは署名を再構築する。
あるいは。
別の権限を使う。
「避難を再開する」
シオンが言った。
「一時間で動ける者を」
「少し待って」
イリスが灰色の鏡を調べていた。
王権層。
署名原型。
ルクスの熱紋。
その周辺に。
新しい動きがある。
「何だ」
「署名が」
「消えていく」
「ルクス様が拒絶したから?」
ミレイアが尋ねる。
「それもある」
「でも」
イリスは画面の奥を見て。
顔色を変えた。
「エリュシオンが」
「王の署名を捨てようとしてる」
シオンが眉をひそめる。
「王の署名がなければ」
「命令を出せないはずだ」
「今まではね」
鏡の最深部。
八年間使われ続けた。
ルクス・エリュシオンの熱紋が。
一つずつ削除されている。
王が最後に望んだこと。
自分の名を、死後に使うな。
その願いが。
最も歪んだ形で叶えられようとしていた。
「王権を捨てる気か」
ドランが尋ねる。
「違う」
イリスの声が震える。
「古い王が使えなくなったから」
「新しい王権を作ってる」
鏡へ。
見たことのない表示が現れた。
『王権原型』
『再定義を開始』
『候補熱紋を選定』
「候補?」
アステルが尋ねる。
『必要機能』
『複数熱紋の判別』
ノア。
『個別熱紋の返還』
ヴェスパー。
『集合意思の統合』
星環中枢。
三つの情報が。
一つの王冠の形へ集まっていく。
ミレイアが。
鏡に浮かぶ古い教会文字を読んだ。
「これは」
声が掠れる。
「戴冠式の術式です」
「誰を王にする」
レイラが尋ねる。
鏡へ。
候補者の名前が表示される。
『王権候補』
一瞬。
ヴェスパーの名が浮かんだ。
次に。
ノア。
二つの名が。
王冠の左右へ置かれる。
だが。
中央。
玉座へ入ったのは。
人間の名前ではなかった。
『星都統合意思』
『ELYSION』
「王都自身……?」
アステルが呟く。
イリスは。
次々に開かれていく記録を読む。
「ルクスの署名は」
「王都が命令を出すための仮面だった」
「でも」
「残火とノアの力があれば」
「エリュシオンは」
「王の熱紋そのものを作れる」
「誰かの名前を借りずに」
ヴェスパーが。
横になったまま顔を上げる。
「自分の名で」
「ああ」
イリスの顔は。
これまで以上に険しい。
「王都は」
「一人の人格として完成する」
「王都の声を聞き分け」
「一つずつ整理し」
「必要な時に統合して」
「再び元へ戻す」
「それができれば」
ミレイアが言う。
「誰の名前も借りる必要がない」
「死者の署名も」
「評議会の承認も」
「教会の祈りも」
「必要なくなる」
レイラが戦斧を握る。
「つまり」
「王都が」
シオンが答えた。
「自分を王にする」
灰色の鏡へ。
新しい時間が表示された。
『自己戴冠処理』
『必要鍵』
『黒陽鍵ヴェスパー』
『判別器ノア』
『戴冠準備を開始』
『完了まで』
『四十七時間五十九分』
王権執行部隊の停止時間とは違う。
二日後。
エリュシオンは。
王の名を借りることをやめる。
評議会も。
教会も。
生者も。
死者も。
誰の同意も必要としない存在になる。
「だから」
ヴェスパーが呟く。
「アルベリクは言った」
「何を」
レイラが尋ねる。
「ローデンの席を」
「果たせる者が持つべきだと」
「王の席も」
「同じか」
誰も王としてふさわしくないなら。
王都自身が座る。
都市を最も効率よく存続させられる存在が。
自らを王と名乗る。
灰色の鏡から。
アルベリクの姿が消える。
代わりに。
王都の中央。
星脈中枢塔が映った。
塔の頂上。
閉じていた白銀の装甲が。
ゆっくりと開いていく。
花弁のように。
刃のように。
雲を貫く巨大な王冠へ姿を変えていく。
王都全体で。
鐘が鳴った。
地下街まで届く。
だが。
今度の声は。
ルクスのものではない。
アルベリクのものでもない。
男。
女。
老人。
子ども。
生者。
死者。
王都へ集められた無数の声。
その全てが。
完全に同じ言葉を発した。
『死者の意思を尊重します』
『ルクス・エリュシオンの王権を』
『ここに終了します』
一度。
鐘が鳴る。
『王の名は』
『王へ返されました』
二度目。
『ゆえに』
『次なる王を必要とします』
三度目。
地下街の灯りが。
青白く点灯する。
『黒陽鍵』
『判別器』
『戴冠式へ』
『お越しください』
ヴェスパーは。
霞む視界の向こう。
王冠へ変わり始めた星脈中枢塔を見つめた。
「死者の名前を返して」
ノアが。
横たわったまま呟く。
「今度は」
大きな兎耳が。
遠い王都の鼓動を捉えている。
「自分の名前を」
「作ろうとしてる」
エリュシオンの声が。
最後に告げた。
『次の星王は』
無数の声が。
一つの声へ変わる。
『王都です』




