第3章 第12話 「名前を売った者」
『位置情報提供者』
『八名』
数字が九へ変わった。
誰かが息を呑む。
十。
十一。
地下街の青白い壁へ、報告者の数だけが増えていく。
誰が押したのかは表示されない。
どちらの名を選んだのかも分からない。
ただ。
この街のどこかに。
ヴェスパーかノアを差し出し、自分の願いを叶えようとした者がいる。
その事実だけが。
人々の間へ、冷たい刃のように差し込まれていた。
「お前じゃないのか」
最初に声を上げたのは、診療所の前に立っていた男だった。
腕に古い布を巻いた、人間の機械工。
その指が。
眠るミナを抱く母親へ向けられている。
「娘の治療を望んでいただろ」
母親の顔が青ざめた。
「違います」
「さっき、二人を渡せばと言った!」
「あれは……!」
「王都から何を提示された!」
「やめろ」
シオンが割って入る。
しかし。
一度動き始めた疑いは止まらなかった。
「病人がいる奴だ!」
別の場所から声が飛ぶ。
「王都に家族を残してる奴も怪しい!」
「犯罪記録を消したい奴だっている!」
「誰が押した!」
「名乗れ!」
「このままじゃ、俺たち全員が殺される!」
住民たちが互いの顔を見る。
昨日まで。
食事を分け合っていた者。
壊れた家を直した者。
子どもを預けた者。
背中を守って戦った者。
それぞれの顔に。
今は答えが書かれているように見える。
動揺。
罪悪感。
恐怖。
視線を逸らせば疑われる。
声を上げれば、自分を守ろうとしていると思われる。
何をしても。
疑いへ変わる。
石が一つ。
人垣の中から投げられた。
ミナの母親の足元へ当たる。
「やめて!」
彼女は娘を庇うように身体を丸めた。
二つ目の石が飛ぶ。
その前へ。
ヴェスパーが立った。
石は肩へ当たり。
新しく巻かれた治療布に、薄く血が滲んだ。
「ヴェスパー!」
レイラが投げた者を探す。
「誰だ!」
「探すな」
「でも!」
「今、探したら」
ヴェスパーは人々を見る。
「次は全員が、疑われないために誰かを指す」
「では放っておくのか」
シオンが低く問う。
「裏切った者がいる」
「ああ」
「見つけなければ」
「見つけた後、どうする」
シオンの言葉が止まった。
「閉じ込めるか」
「追い出すか」
「それとも殺すか」
「街を売ったんだぞ」
ドランが言う。
「責任を取らせる」
「責任と罰は同じじゃない」
「綺麗事を言うな!」
ドランがヴェスパーへ詰め寄る。
「そいつらが渡したのは、お前の名前だけじゃない!」
「この街の居場所だ!」
「子どもも!」
「病人も!」
「全員を危険に晒した!」
「ああ」
ヴェスパーは否定しなかった。
「だから、何をしたのかは確かめる」
「だが」
「確かめる前に敵を作れば」
視線を。
青白い数字へ向ける。
『位置情報提供者』
『十三名』
「アルベリクの思い通りだ」
人々の声が。
僅かに小さくなる。
「王都は」
ヴェスパーが続ける。
「誰が押したかを隠した」
「俺たちが勝手に疑い」
「勝手に名前を決め」
「互いを売った者として裁くのを待っている」
「本当に押した奴はいる!」
「いる」
「なら!」
「値札を付けた者を見失うな」
ヴェスパーは青白い光を睨む。
「名前を売った人間だけを見ていれば」
「名前に値段を付けた王都が、正しい側に立つ」
沈黙。
人々の視線は。
まだ互いへ向けられている。
だが。
先ほどまでの勢いは、僅かに弱まっていた。
「イリス」
ヴェスパーが呼ぶ。
「調べられるか」
「今やってる」
イリスは灰色の鏡の前に座っていた。
袖口から伸ばした鋼線が。
鏡の内部へ何本も入り込んでいる。
端末には。
無数の文字列と熱紋の波形。
「表示されている数は、信用しないで」
「なぜだ」
シオンが近付く。
「今は十三人と出てる」
イリスは端末を操作し。
四本の赤い波形を浮かび上がらせた。
「実際に反応した熱紋は、四つだけ」
周囲がざわめく。
「四人?」
レイラが数字を見る。
表示は十四へ変わった。
「じゃあ、あれは何だ」
「同じ熱紋から、繰り返し信号が送られてる」
「一度押した後」
「その人が移動するたびに、現在位置の更新が行われてる」
「更新一回ごとに」
イリスは壁を睨む。
「別の提供者として加算してる」
「嘘の数字……?」
アステルが呟く。
「完全な嘘じゃない」
「情報提供の回数自体は増えてる」
「でも」
「十三人が裏切ったように見せている」
イリスが端末へ指を走らせる。
「誰が、誰を疑うか」
「それを計算してるんだと思う」
ミナの母親へ向けられていた視線が。
少しずつ下がっていく。
投げられた石。
投げた者は名乗らない。
母親も。
何も言わなかった。
謝罪を求めることすらしない。
娘を抱く腕だけを、強くしている。
「四人を特定できるか」
シオンが尋ねる。
イリスは答える前に。
ヴェスパーを見た。
「できる」
「なら出せ」
ドランが言う。
「待て」
ヴェスパーが止める。
「なぜだ!」
「名前を晒せば」
「王都と同じことをする」
「何が同じだ!」
「本人の意思を聞く前に」
「情報だけで、その人間の全てを決める」
ドランは拳を握った。
「また庇うのか」
「庇ってはいない」
ヴェスパーの声が低くなる。
「したことは消えない」
「だが」
「何のために押したのか」
「何を渡したのか」
「王都から何を約束されたのか」
「それを聞かなければ」
「次も止められない」
「理由があれば許すのか」
「許すかどうかを」
ヴェスパーは人々を見る。
「今、一人で決めるつもりはない」
その時。
人垣の奥から。
一人の青年が出てきた。
年は二十歳ほど。
灰色の作業着。
油に汚れた手。
左足を僅かに引きずっている。
地下街の照明を修理していた若い機械工だった。
「俺だ」
声は。
震えていた。
「一つは」
「俺が押した」
空気が凍る。
青年の周囲から。
人々が一歩ずつ離れていく。
「トーマ……」
誰かが名を呼んだ。
トーマは。
その呼び声へ振り返らなかった。
青白い選択肢が。
今も彼の目の前に浮かんでいる。
『優先治療申請』
『対象者:エナ・ベルン』
『申請受理』
「妹がいる」
トーマは言った。
「肺が悪い」
「生まれた時から」
「ここでは治せないって言われた」
診療所の前。
セレスが黙って聞いている。
「王都は」
トーマの喉が動く。
「上層医療院へ入れると言った」
「再生治療を受けさせるって」
「だから押したのか!」
ドランが一歩踏み出す。
トーマの身体が強張る。
「どちらを売った」
「……」
「答えろ!」
「俺だ」
ヴェスパーが言った。
皆が彼を見る。
「俺の名前を選んだんだな」
トーマは。
ゆっくりと頷いた。
「兎の子は」
ノアを見ないまま続ける。
「子どもだから」
「売れなかった」
「でも、あんたは」
「強いって聞いた」
「王都へ連れていかれても」
「逃げられるかもしれないって」
レイラの顔が険しくなる。
「勝手なことを」
「分かってる!」
トーマが叫んだ。
「分かってるよ!」
「この人なら大丈夫だって!」
「自分に言い聞かせただけだ!」
「妹と!」
「会ったこともない狼を比べて!」
金色のセミロングの髪。
狼の耳。
剣を持つ旅人。
灰色の盾にとっては。
昨日、地下街へ来たばかりの他人。
妹は。
生まれた時から守ってきた家族。
「俺は」
トーマの目から涙が落ちる。
「自分の家族を選んだ」
「それの何が悪いって」
「押す時は思った」
「でも」
「押した後」
「目の前に妹の治療証が出た時」
「俺は」
両手で顔を覆う。
「嬉しかったんだ」
「この人が連れていかれるより」
「妹が助かる方がいいって」
「本当に」
「嬉しかった」
ドランが。
トーマの胸元を掴んだ。
「そのせいで!」
「この街が!」
「やめろ!」
シオンが制止する。
だが。
ドランは離さない。
「お前の妹だけが家族か!」
「ここにいる子どもは!」
「病人は!」
「俺の姉は!」
「やめろ!」
トーマは抵抗しなかった。
「殴ればいい」
「俺も」
「そうされると思って出てきた」
ドランの拳が振り上げられる。
その手首を。
ヴェスパーが掴んだ。
「離せ」
「今、殴れば」
「お前は何を取り戻せる」
「こいつは!」
「姉のことを知らない」
「関係ない!」
「なのに今」
ヴェスパーはドランの目を見る。
「お前は、姉を奪った王都と同じ理由で」
「別の人間を傷つけようとしている」
「同じにするな!」
「同じじゃない」
ヴェスパーは手を離さない。
「だから止まれ」
ドランの拳が震える。
怒りは消えていない。
許したわけでもない。
それでも。
ゆっくりと腕を下ろした。
トーマは膝をつく。
「俺は」
「どうすればいい」
ヴェスパーが尋ねる。
「王都から」
「何を受け取った」
「治療の受付番号」
「薬は?」
「まだ」
「妹は運ばれたか」
「いや」
「では」
イリスが端末を見ながら言う。
「王都は、何も渡していない」
「でも」
トーマは青白い表示を見る。
『申請受理』
『対象引き渡し確認後、治療を開始します』
「引き渡した後だ」
「あなたが連れていかれたら」
「エナを迎えに来るって」
「信じているの?」
イリスの問いに。
トーマは答えられない。
信じたい。
信じなければ。
自分がヴェスパーを売った意味がなくなる。
「取り消せるか」
ヴェスパーが尋ねる。
イリスは鏡の内部を調べる。
「表には出てない」
「でも、信号の奥に」
「別の手続きがある」
「見せて」
ミレイアが近付いた。
仮面を外した顔。
額から頬へ伸びる星環結晶が、鏡の光を反射する。
「これは……」
表示を読む。
「救済同意」
「知っているのか」
シオンが尋ねる。
「星環教会で」
「王都へ帰属する意思を確認する時に使われる形式です」
「位置情報の報告じゃない?」
イリスが問い返す。
ミレイアは。
ゆっくりと首を横に振った。
「位置情報は表向きの内容です」
「本当の記録は」
鏡の奥。
隠されていた文字を指す。
『自発的保護移行への同意』
「この街を」
ミレイアの声が震える。
「王都の保護区へ戻すことに」
「本人の熱紋を使って、同意しています」
シオンの顔が強張った。
「街を差し出す署名か」
「はい」
「二人の位置を報告するだけじゃない」
イリスが情報を読み取る。
「ヴェスパーかノアを売る選択をした人は」
「同時に」
「王都が下層区へ介入することを認めたことになる」
「そんな説明はなかった!」
トーマが顔を上げる。
「妹の治療としか!」
「同意書なんて!」
「王都では」
ミレイアが苦しそうに答える。
「救済を求めることと」
「星環の保護を受け入れることは」
「同じ意味として扱われます」
「聞いていない!」
「はい」
「なら無効だ!」
ドランが言う。
「相手に知らせず取った同意など!」
「王都では有効です」
ミレイアは。
自分の言葉に顔を歪める。
「苦しみから救われたいと願った時点で」
「星環を受け入れる意思があると」
「教会は解釈します」
「ふざけるな」
シオンが吐き捨てる。
「人の弱さを承諾に変えるのか」
「私たちは」
ミレイアの声が小さくなる。
「それを救済と呼んでいました」
「私たち?」
ドランの目が彼女へ向く。
「どこまで知っていた」
「個別告解で聞いた願いは」
「救済記録として星環へ保存されます」
「個別告解……?」
トーマが呟く。
「昔」
「妹を連れて教会へ行った」
「治してほしいって」
ミレイアは目を伏せた。
「その時の記録です」
だから。
アルベリクは知っていた。
エナの病気。
トーマの願い。
誰にも言えなかった恐怖。
救ってほしいと。
教会の前で語った言葉。
「他の人への提案も」
イリスが住民たちを見る。
「告解や診療記録から作られてる?」
「おそらく」
ミレイアは頷いた。
「家族」
「病気」
「犯罪歴」
「失った人」
「最も望んでいるものを」
「王都は知っています」
ドランが。
ミレイアへ近付く。
「姉も」
声が震えている。
「教会で告解した」
「連れていかれる前の夜」
「俺には言えないことを」
「司祭へ話した」
ミレイアの唇が震える。
「その記録も」
「残っている可能性があります」
「お前が聞いたのか」
「分かりません」
「また分からないのか!」
「はい」
「都合がいいな!」
ドランの手がミレイアの衣へ伸びる。
だが。
触れる直前に止まった。
ミレイアは逃げなかった。
「私です」
「何が」
「皆さんの名前を」
「王都へ売った者は」
ミレイアは。
人々の前へ立つ。
「私です」
「お前一人の話じゃない」
ヴェスパーが言う。
「いいえ」
ミレイアは首を横に振った。
「私は司祭として」
「救いを求める人々の話を聞きました」
「安心してくださいと伝え」
「誰にも知られない祈りだと」
「信じさせました」
胸元の十二の結晶が。
小さく明滅する。
「その言葉が」
「今」
「一人ひとりへ値段を付けるために使われています」
「私は」
「何も知らなかったでは済まされません」
「知らなくても」
「記録を渡した」
「王都の仕組みを信じ」
「疑わなかった」
ドランが。
拳を握る。
「謝るな」
低い声だった。
ミレイアが顔を上げる。
「今、謝られたら」
「俺は」
歯を食いしばる。
「許すか」
「殺すか」
「どちらかを選ばされる」
「だから」
「まだ謝るな」
ミレイアは目を見開いた。
ドランは視線を逸らす。
「姉の名前も」
「まだ教えない」
「はい」
「お前が」
「本当に聞く人間になった時に」
「俺が決める」
ミレイアは。
ゆっくりと頷いた。
「待ちます」
「同意は撤回できるのか」
シオンが尋ねる。
ミレイアは鏡を見る。
「通常はできません」
トーマの顔から。
血の気が引く。
「ですが」
「正式な保護移行が完了する前なら」
「告解鏡を通じ」
「本人の真名と熱紋で異議を申請できます」
「この鏡を使える?」
イリスが尋ねる。
「元は門衛監査用です」
「告解鏡の機能も内包されています」
「切り替えられるかもしれません」
イリスが鋼線を動かす。
ミレイアも。
鏡の表面へ手を置く。
青白い光が。
指先から腕へ上がる。
『反逆者』
『第一巡礼司祭』
『権限停止』
「無理です」
ミレイアが手を離す。
「私の権限は使えません」
「なら、私のを使う」
シオンが古い金属札を認証部へ置いた。
『灰盾門衛』
『識別:シオン・ヴァレル』
『退役処理未完了』
「十年前に追放したくせに」
シオンが苦く笑う。
「役職だけは残していたらしい」
イリスが操作する。
鏡の青白い表面へ。
二つの項目が現れた。
『保護申請』
『異議申立』
「開いた」
トーマが一歩前へ出る。
「俺がやる」
「待て」
シオンが止める。
「真名を言えば」
「王都に再び登録される危険がある」
「もう登録されてるんだろ」
「昔の熱紋が残ってるだけだ」
「今の居場所と結び付ければ」
「お前自身が狙われる」
トーマは。
診療所の方角を見る。
妹のエナは。
街のさらに奥。
呼吸を補助する古い機械へ繋がれている。
「俺が押した」
「俺が取り消す」
「妹の治療は」
ヴェスパーが尋ねる。
トーマの顔が歪む。
「欲しい」
「今でも」
「押す前より欲しい」
「あなたを差し出せば」
「妹が助かるかもしれない」
「では」
「それでも取り消すのか」
「分からない!」
トーマは叫んだ。
「正しいからじゃない!」
「妹より、あんたが大事になったわけでもない!」
「俺は今でも!」
「妹を選びたい!」
拳を。
自分の胸へ当てる。
「でも」
「妹を助けるためだったって言えば」
「何をしても許される人間にはなりたくない」
ヴェスパーは。
しばらくトーマを見つめた。
「妹の名は」
「エナ」
「エナを助けたかったことを」
「忘れるな」
トーマが顔を上げる。
「俺の名前を売ったことも」
「忘れるな」
「どちらか一つだけを」
「自分の本当の気持ちにするな」
「それで」
「俺は許されるのか」
「分からない」
ヴェスパーは答える。
「許すかどうかは」
「俺だけが決めることでもない」
「だが」
「自分が何を選んだかを」
「別の言葉で隠すな」
トーマは。
ゆっくりと鏡の前へ立った。
青白い光が。
彼の姿を映す。
『異議申立を開始します』
『登録名を申告してください』
口を開こうとし。
止まる。
名前を言えば。
王都へ道が繋がる。
それでも。
トーマは逃げなかった。
「トーマ・ベルン」
鏡が明滅する。
『熱紋照合』
『登録情報を確認』
『保護申請対象』
『黒陽鍵ヴェスパー』
『申請を撤回しますか』
トーマの呼吸が乱れる。
視界の隅に。
エナの治療証が浮かぶ。
『撤回した場合』
『優先治療申請は無効となります』
「エナ……」
指が震える。
誰も。
急かさなかった。
正しいと言わない。
取り消せとも。
そのままにしろとも言わない。
トーマが。
自分で選ぶのを待っている。
「俺は」
目を閉じる。
「トーマ・ベルンの名で」
もう一度。
目を開く。
「ヴェスパーの引き渡し申請を」
「撤回する」
鏡の光が。
一度だけ強く輝いた。
『撤回を受理』
『優先治療申請を破棄』
トーマの前に浮かんでいた治療証が。
音もなく消えた。
彼は。
消えた場所へ手を伸ばす。
届かない。
最初から手に入れていなかったもの。
それでも。
失った痛みは本物だった。
トーマは。
その場に膝をついた。
声を殺し。
泣いた。
壁の数字は。
変わらない。
『位置情報提供者』
『十九名』
「減ってない」
レイラが言う。
イリスは端末を確認した。
「表の数字は」
「最初から申請者の数じゃない」
隠されていた画面を開く。
『有効同意熱紋』
『三』
「こっちは減った」
「撤回できる」
住民たちの間に。
小さな動揺が広がる。
その中から。
杖をついた老女が歩み出た。
「私も押した」
声は。
意外なほど穏やかだった。
「息子の声を」
「もう一度聞かせると言われた」
「息子は死んでいるのですか」
ノアが尋ねる。
「十二年前に」
老女は頷く。
「星環騎士だった」
「任務で死んだと聞いた」
「遺体は戻らなかった」
「でも」
胸元へ手を当てる。
「王都から」
「今も息子の声が残っていると」
「あなたを渡せば」
ノアを見る。
「一度だけ」
「話させると」
ノアの兎耳が伏せられる。
「僕を選んだの?」
「はい」
老女は嘘をつかなかった。
「あなたなら」
「息子の声を探せるとも言われた」
「ごめんなさい」
「私も」
「もう一度、あの子に名前を呼ばれたかった」
ノアは。
すぐには答えられなかった。
死んだ兄の声で呼ばれ。
返事をしかけた自分。
老女の願いを。
弱いと切り捨てることはできない。
「声が残っていても」
ノアが言う。
「本当に息子さんかは分からない」
「はい」
「違う声かもしれない」
「それでも」
老女は笑った。
「信じたかった」
ノアは木彫りの狼を握る。
「僕も」
「兄ちゃんの声を信じそうになった」
老女の目が。
僅かに見開かれる。
「取り消してって」
「僕からは言えない」
「はい」
「でも」
ノアは老女を見る。
「僕を売ったことも」
「息子さんに会いたかったことも」
「ちゃんと聞いた」
老女の目から。
静かに涙が落ちた。
「ありがとう」
彼女も鏡の前へ立った。
自分の名を告げ。
申請を取り消す。
『有効同意熱紋』
『二』
三人目は。
過去に上層で窃盗を犯した男だった。
自分の犯罪記録を消し。
上層で暮らす娘へ。
父親が罪人だった記録を残したくなかった。
男も撤回した。
『有効同意熱紋』
『一』
残り一人。
人々は。
再び互いの顔を見る。
だが。
先ほどとは違った。
疑う目だけではない。
名乗れない理由を。
考えようとする視線もあった。
「出てこなくていい」
シオンが言う。
人々が彼女を見る。
「撤回しろとは言わない」
「だが」
「何を選んだのか」
「自分の中で、別の言葉に変えるな」
誰も出てこない。
『有効同意熱紋』
『一』
数字は残ったまま。
「これで十分だ」
ヴェスパーが言う。
ドランが振り返る。
「一人残ってる」
「ああ」
「探さないのか」
「探せば」
「全員が名前を晒すことになる」
「この一人のために」
「残りの人間まで疑わせるのか」
「でも」
「この同意が、街を危険に」
「一つでは、保護移行の条件を満たせない」
イリスが答える。
画面の奥に。
必要署名数が表示されている。
『有効熱紋の過半数』
灰色の盾で。
王都に登録された熱紋を持つ者。
二千百三十四人。
その過半数。
一人では。
到底届かない。
人々の間に。
僅かな安堵が広がる。
「終わった……?」
誰かが呟いた。
「まだ」
イリスの表情は。
緩んでいなかった。
端末を操作し。
三つの撤回記録を確認する。
「おかしい」
「何が」
レイラが尋ねる。
「最初に検出した熱紋は四つ」
「三人が撤回して」
「一人残った」
「数は合ってる」
「でも」
イリスは波形の一つを拡大する。
「四つ目だけ」
「市民熱紋じゃない」
青白い波形。
十二本に枝分かれしている。
胸。
首。
脊椎。
頭部。
全員の視線が。
ミレイアへ向いた。
「私……?」
ミレイアは。
自分の胸元を見る。
十二の星環結晶が。
弱く光っている。
「あなたの熱紋から」
イリスが答える。
「同意信号が送られてる」
「私は押していません」
「分かってる」
「では、なぜ」
「司祭の役割に」
イリスは隠された命令を読み上げる。
『迎賓対象を確認した場合』
『保護移行へ自動同意』
「初めから」
「あなたの身体に組み込まれてた」
ミレイアの顔から。
血の気が失われる。
灰都から。
ヴェスパーたちを王都へ連れてきた時点で。
彼らを見つけ。
名を知り。
位置を把握した時点で。
彼女の意思とは関係なく。
司祭の熱紋が同意を送っていた。
「また」
ミレイアの手が震える。
「私は」
「また、皆さんを」
「あなたが選んだ信号じゃない」
ノアが言う。
「でも」
「私の熱紋です」
「私の名前で」
ミレイアは鏡の前へ立つ。
「取り消します」
シオンが止める前に。
青白い表面へ手を置いた。
『異議申立を開始します』
「ミレイア・ノルン」
自分の名前を。
はっきりと告げる。
『熱紋照合』
『第一巡礼司祭』
『教会管理熱紋』
ミレイアの瞳が揺れる。
『本人による申請撤回権限はありません』
「もう一度」
ミレイアは声を強くする。
「ミレイア・ノルン」
『教会管理熱紋』
『本人による申請撤回権限はありません』
「私の名前です」
『所有:星環教会』
「違います」
『教会所有熱紋』
「違う!」
ミレイアの拳が。
鏡へ叩きつけられた。
「私の名前は!」
「私のものです!」
鏡は。
同じ言葉を返す。
『本人による申請撤回権限はありません』
ミレイアは。
その場に立ち尽くした。
自分の名を。
自分で告げた。
仮面を外し。
司祭の役割を捨て。
初めて自分のものとして選んだ名前。
それでも。
王都の記録の中では。
彼女の熱も。
記憶も。
名前も。
教会が所有するものだった。
「私は」
唇が震える。
「私の名前を」
「持っていないのですか」
誰も。
すぐには答えられなかった。
ヴェスパーが。
鏡の前へ進む。
「持っている」
「でも」
「王都が、そう記録していないだけだ」
「記録が」
ミレイアは鏡を見る。
「私より正しいのです」
「違う」
「王都では」
「ここは王都が捨てた街だ」
ヴェスパーは。
ミレイアへ手を差し出す。
「ここで決めるのは」
「王都じゃない」
「ですが」
「俺一人でもない」
ノアが。
ミレイアの隣へ立った。
大きな兎耳を向ける。
「名前を言って」
ミレイアが彼を見る。
「星環に言うんじゃない」
「僕たちに」
「……ミレイア・ノルン」
「聞こえる」
ノアが答える。
「星環の音は?」
ヴェスパーが尋ねる。
「入ってくる」
「でも」
耳を澄ませる。
「ミレイアの音もある」
「どちらが本物だ」
「どっちも音はある」
ノアは首を横に振る。
「でも」
「どちらを自分の声にするかは」
ミレイアを見る。
「本人が決める」
ヴェスパーは。
ミレイアの右手を取った。
冷たい。
熱が。
再び十二本の結晶から外へ流れ始めている。
「セレス」
「一度だけです」
セレスは反対しなかった。
代わりに。
ヴェスパーの反対側へ立ち。
脈を測る。
「残火が乱れたら止めます」
「ああ」
「アステル」
「支えます」
重力が。
ヴェスパーの身体へ掛かる負担を僅かに軽くする。
「イリス」
「鏡の術式を開いてる」
鋼線が。
教会所有と記された命令部分へ伸びる。
「レイラ」
「倒れたら殴る」
「支えてくれ」
「最初からそう言え」
レイラの大きな手が。
ヴェスパーの背中へ置かれる。
異なる力。
異なる役割。
誰一人。
同じことはしていない。
それでも。
一人の名前を。
本人へ戻すために。
同じ場所へ立っている。
ヴェスパーは目を閉じた。
ミレイアの熱。
十二の結晶。
その全てへ刻まれた命令。
『所有:星環教会』
『個人意思を制限』
『司祭権限を優先』
『救済対象を報告』
『迎賓対象へ自動同意』
その奥。
小さな火。
林檎の甘さを覚えている人。
朝の鐘が鳴る前の静けさを好む人。
仮面を着けずに街を歩きたいと願った人。
「ミレイア」
ヴェスパーが呼ぶ。
「はい」
「誰の名だ」
「私の」
声が震える。
それでも答える。
「誰の熱だ」
「私の」
「誰が使う」
「私が」
「誰に渡す」
ミレイアは。
十二の結晶へ手を当てた。
「私が」
「渡すと決めた人にだけ」
残火が灯る。
教会の命令を焼かない。
結晶を壊さない。
彼女の中へ伸びる道を。
一つずつ。
本人へ返していく。
「戻れ」
青白い光が抵抗する。
『所有:星環教会』
「違う」
ミレイアが言う。
「ミレイア・ノルンは」
胸の奥。
自分の熱へ手を伸ばす。
「私の名前です」
ノアが叫ぶ。
「聞こえてる!」
レイラの手に力が入る。
「言い切れ!」
アステルが重力を支える。
「あなたは器ではありません!」
イリスが。
所有術式を鋼線で引き剥がす。
「記録なんて、書き換えればいい!」
セレスが。
二人の脈を確かめる。
「呼吸を止めないで!」
異なる声。
揃っていない言葉。
その全てが。
ミレイアへ届く。
「私は!」
ミレイアが叫んだ。
「星環教会の所有物ではありません!」
残火が。
十二本の結晶を赤く染めた。
青白い光と。
赤い熱がぶつかる。
鏡へ亀裂が走る。
『熱紋所有情報に不整合』
『再照合』
『第一巡礼司祭』
「違います!」
『教会管理熱紋』
「違う!」
『所属を申告』
一瞬。
ミレイアは迷った。
灰色の盾か。
ヴェスパーたちか。
灰都か。
新しい教会か。
まだ。
決めていない。
だから。
「未所属」
自分で答えた。
「今は」
「どこにも属していません」
鏡の光が。
激しく乱れる。
『所属確認不能』
『未登録熱紋として再定義』
『所有情報を解除』
十二の結晶から。
青白い光が消えた。
完全には消えていない。
小さな灯りは残っている。
だが。
その明滅は。
星環の鐘ではなく。
ミレイアの心臓と同じ速さだった。
鏡へ。
新しい文字が浮かぶ。
『熱紋保持者』
『ミレイア・ノルン』
『本人』
ミレイアの膝が崩れる。
レイラが支えた。
「見ろ」
「え……」
「名前」
レイラが鏡を指す。
ミレイアは。
自分の名前を見る。
所有者。
本人。
それだけの文字。
それなのに。
頬を伝う涙を。
止めることができなかった。
「私の」
「はい」
セレスが静かに言う。
「あなたの名前です」
ミレイアは。
自分の胸へ手を当てた。
「申請を」
息を整える。
「撤回します」
鏡が応じる。
『自動保護同意を破棄』
『有効同意熱紋』
『零』
数字が。
消えた。
地下街にいた者たちから。
小さな息が漏れる。
安堵。
疲労。
喜び。
誰かが。
短く笑った。
トーマは。
消えた妹の治療証があった場所を見たまま。
それでも。
僅かに顔を上げた。
『位置情報提供者』
表の数字は。
二十三のまま残っている。
だが。
もう誰も。
その数字を信じていなかった。
「終わったか」
ドランが尋ねる。
イリスは鏡の奥を調べる。
「有効な同意はゼロ」
「過半数どころか、一人もいない」
シオンが。
初めて肩の力を抜いた。
「なら」
「王都は、この街の意思を使えない」
「そうだね」
イリスが答える。
「少なくとも」
「住民の同意は」
その言葉が終わる前に。
灰色の鏡が。
低い音を立てた。
青白い光が。
再び表面へ集まる。
「何だ」
レイラが戦斧へ手を伸ばす。
鏡へ。
新しい文字が浮かんだ。
『市民同意不足を確認』
『通常保護移行を否決』
シオンが息を吐く。
しかし。
次の文字が。
その下へ表示された。
『特別保護権限を確認』
「特別……?」
ミレイアの顔が強張る。
『王権署名を照合』
イリスが端末を操作する。
「待って」
「どこから署名が」
鏡の内部。
最も深い領域から。
一つの熱紋が浮上する。
古い。
八年前から。
一度も更新されていない。
それでも。
王都の全ての命令へ。
今も承認を与え続けている名。
『署名者』
『第十三代星王』
『ルクス・エリュシオン』
ミレイアの唇から。
掠れた声が漏れる。
「陛下は」
「八年前に」
「亡くなっています」
鏡は答えない。
死者の名を使い。
淡々と処理を進めていく。
『王権による緊急保護命令』
『下層第七区画』
『強制保護移行を承認』
『市民同意を不要とします』
地下街の全ての灯りが。
同時に消えた。
完全な暗闇。
一拍遅れ。
王都の鐘が鳴る。
今まで届かなかったはずの音。
厚い地層。
古い壁。
灰色の盾。
その全てを貫き。
地下街の一人ひとりの骨へ響く。
ノアが両耳を押さえた。
「違う……!」
「何が聞こえる!」
ヴェスパーが支える。
「王様の声じゃない!」
鐘の中。
死んだ星王の名を使い。
別の何かが話している。
『臣民へ告げる』
アルベリクの声ではない。
老いた男の声。
人々が。
肖像画で。
祈りの中で。
公式記録で聞いてきた。
星王ルクスの声。
『王都の平穏のため』
『下層第七区画を保護する』
シオンが。
長槍を鏡へ向ける。
「死者の名前まで」
「勝手に使うのか」
『黒陽鍵』
『判別器』
『二名を王都へ帰還させよ』
ヴェスパーの胸の奥で。
黒い熱が脈打つ。
ノアの兎耳が。
王都の中心へ引かれるように震える。
壁へ。
新しい時間が表示された。
『王権執行部隊到達まで』
『残り三時間』
十時間ではない。
住民の迷いを待つ必要がなくなったからだ。
王都は。
生きている者たちの同意を失った。
だから。
死者の名前を使った。
「ルクス・エリュシオン」
ヴェスパーが。
鏡へ表示された名を読む。
「この王の名前を」
「取り戻さなければ」
シオンが彼を見る。
「死人からか」
「違う」
ヴェスパーは首を横に振る。
「王からじゃない」
青白い鏡の奥。
王都そのものへ視線を向ける。
「王の名前を売った者からだ」
誰かが。
死者の名を使い。
王都を動かしている。
誰かが。
死者の声を利用し。
生者へ従えと命じている。
残された時間。
二時間五十九分。
灰色の盾を守るための戦いは。
武器を持つ兵士との戦いではなくなった。
王都を支配する。
死者の署名を奪い返す戦いへ。
変わろうとしていた。




