第3章 第11話 「十一時間の価値」
『浄化開始まで』
『残り十一時間五十二分』
青白い数字が、地下街の壁に浮かんでいた。
一秒。
また一秒。
何者の都合も待たず、数字だけが減っていく。
広場に集まっていた人々は、すでに散り始めていた。
病人を運ぶ者。
子どもの手を引く者。
武器庫へ走る者。
食料を抱える者。
王都への降伏を訴える者。
その場に座り込み、動けなくなった者。
同じ命令を受けた者は一人もいない。
それでも。
地下街全体が、巨大な生き物のように動き始めていた。
「西区画の隔壁を閉じろ!」
シオンの声が飛ぶ。
「病人は旧劇場へ!」
「診療所の薬と器具を先に運べ!」
「動ける者から逃がすな!」
その命令に、担架を持っていた男が振り返った。
「動ける奴を先に逃がした方が早いだろ!」
「動ける者には、運ばせる!」
シオンは即答する。
「子どもを一人抱えろ!」
「荷物は置け!」
「でも、食料が!」
「命より重い袋があるなら持っていけ!」
男は唇を噛み。
背負っていた穀物袋を地面へ置いた。
代わりに、足を負傷した老人へ肩を貸す。
誰かが命令したからではない。
自分で選び。
自分の足で走り出した。
「シオン!」
折れた角を持つドランが、人混みを押し分けてくる。
「北路地の鉄門が持たない!」
「浄化部隊は、あと二十分で到達する!」
「十九分だ」
ノアが訂正した。
大きな兎耳を、地下街の入口へ向けている。
治療布の下。
耳元には、まだ僅かな血が滲んでいた。
「二十三分じゃなかったのか」
レイラが戦斧を担ぎ直す。
「速くなってる」
ノアは目を閉じた。
「走ってない」
「歩幅は同じ」
「でも、道が短くなってる」
イリスが端末へ視線を落とす。
地下街の地図。
閉じたはずの通路。
崩れた水路。
長年使われていない昇降路。
その一つ一つに、青白い線が浮かび上がっていた。
「こっちの経路を把握してる」
「近道を作ってるのか?」
レイラが尋ねる。
「違う」
イリスの指が止まる。
「今まで閉じてた隔壁を、王都側から開いてる」
「灰色の盾を逃がさないための迷路じゃなかった」
アステルが地図を見つめる。
「必要な時に」
「兵を通すための道だったのですね」
灰色の盾は。
十年もの間、この地下街を隠れ家だと信じていた。
自分たちだけが知る道。
自分たちだけが通れる抜け穴。
自分たちが築いた避難区画。
だが。
その全てが。
最初から王都の掌の上に置かれていた。
「何年も放っておいて」
ドランの声が低くなる。
「殺そうと思えば、いつでも殺せたってことか」
「殺さなかったんじゃない」
シオンが答えた。
「必要だったから残した」
住民の怒り。
星環に従わない者。
名前を登録しない者。
王都にとって都合の悪い人間を。
一か所へ集めるために。
「だったら」
ドランは長剣を抜く。
「今度こそ、王都の思い通りにはさせない」
「熱くなるな」
「冷静でいられるか!」
「いられなくても考えろ!」
シオンの長槍が。
ドランの長剣を横から押さえた。
「怒りで正面へ飛び込めば」
「お前の死まで王都に利用される」
ドランはシオンを睨む。
その顔に。
姉を奪われた怒り。
自分たちの十年を見られていた屈辱。
守ってきた街を、今度こそ失う恐怖。
全てが浮かんでいた。
「では、どうする」
「考えている」
「考えている間に来るぞ!」
「だから」
ヴェスパーが口を開いた。
「来るまでに、できることを決める」
シオンが彼を見る。
ヴェスパーは壁へ手をついたまま立っていた。
第七星渠で受けた負担は残っている。
視界は完全には戻っていない。
耳鳴り。
頭痛。
残火を使うたびに、胸の奥で黒い熱が脈打つ。
セレスから見れば。
剣を握ることすら許可したくない状態だった。
「座っていてください」
予想通り。
セレスが横から言った。
「考えるのに足は必要ない」
「立っている方が見える」
「先ほどレイラさんが二人に見えていました」
「今は一人だ」
「本当に?」
ヴェスパーはレイラを見る。
「一人だ」
「間があったぞ」
レイラが顔をしかめる。
「少しだけ二人に見えた」
「座れ」
「でも」
「座れ」
レイラはヴェスパーの肩を掴み。
近くの木箱へ強引に座らせた。
「戦いが始まったら、嫌でも動く」
「今くらい休め」
ヴェスパーは反論しようとした。
だが。
肩へ置かれたレイラの手には。
怒りよりも強い何かがあった。
巡礼者門で。
ヴェスパーは一人で全員を守ろうとした。
第七星渠でも。
自分の身体を壊しながら残火を使った。
その度に。
仲間を守るつもりで。
仲間から選択を奪いかけた。
「分かった」
ヴェスパーは大人しく座った。
レイラは僅かに驚く。
「今日は素直だな」
「同じことをガルムにも言われた」
「師弟揃って面倒だな」
「似ていない」
「そこも似てる」
セレスはヴェスパーの瞳を確認し。
脈を測る。
「残火は必要最低限です」
「最低限がどこまでか分からない」
「私が決めます」
「戦いの途中でも?」
「戦いの途中だからこそです」
セレスは治療布を結び直した。
「ヴェスパーさん」
「あなたが倒れれば」
「皆さんが、あなたを助けるために動きます」
「一人の無理が」
「一人分の危険で終わるとは思わないでください」
ヴェスパーは。
何も言い返さなかった。
「返事は?」
「分かった」
「今度は早いですね」
「学んでいる」
「それなら結構です」
診療所の方角から、女性の叫び声が聞こえた。
「先生!」
セレスが振り返る。
熱病の子どもを抱いていた母親だった。
子どもの呼吸は。
先ほどよりも弱くなっている。
唇の色も薄い。
「ミナが!」
「息をして!」
「お願い!」
セレスは駆け寄った。
子どもを抱き取り。
石畳へ敷かれた布の上へ寝かせる。
「ミナ」
頬を軽く叩く。
「聞こえますか」
返事はない。
胸へ耳を当てる。
脈は速い。
呼吸は浅く。
肺の奥で、乾いた音がしている。
「水を」
「さっき飲ませました!」
「普通の水ではありません」
セレスは医療鞄を開き。
小さな瓶を取り出した。
残っている薬。
灰都から持ってきた貴重な熱抑制剤。
瓶の中身は、もう半分もない。
母親がその手を見る。
「それを使えば」
「助かるんですか」
セレスの指が止まった。
医師にとって。
最も答えたくない問い。
「今の発熱を抑えることはできます」
「助かるんですか!」
「……分かりません」
母親の表情が歪む。
「王都なら」
その言葉が。
周囲にいた者たちの耳へ届く。
「王都なら、治せるって」
「アルベリクが言ってた」
「この子を渡せば」
違う。
母親は首を横に振る。
「この子じゃない」
「その人たちを渡せば」
ヴェスパーとノアを見る。
「薬をくれるって」
広場に。
重い沈黙が落ちた。
ノアの兎耳が伏せられる。
母親は。
自分の言葉に気付き。
唇を震わせた。
「ごめんなさい」
誰に向けた謝罪なのか。
自分でも分からないようだった。
「でも」
「この子は」
「私には、この子しか」
セレスは母親を責めなかった。
「謝らなくていいのです」
「先生……」
「今は、ミナの身体を温めすぎないようにしてください」
セレスは薬を使う。
残っている半分。
その半分を。
迷わず子どもの口へ流し込んだ。
母親が息を呑む。
「薬が」
「足りないのでは」
「足りません」
「では、どうして」
「目の前の患者だからです」
セレスはミナの胸へ手を置き。
熱の流れを確かめる。
薬が身体へ巡り始める。
だが。
十分ではない。
星脈による長期的な熱汚染。
下層の壊れた管から漏れた力を。
幼い身体が受け続けている。
一時的に熱を下げても。
原因を取り除かなければ、再び上がる。
ミレイアがミナの傍らへ膝をついた。
「この症状」
「星脈過熱症です」
「知っているのか」
セレスが尋ねる。
「王都下層の作業員に多い病です」
「治療法は」
「星脈安定剤を使います」
「持っている?」
「私は持っていません」
母親の顔から希望が消える。
だが。
ミレイアは続けた。
「浄化部隊は携行しています」
全員が彼女を見る。
「浄化術式を使用する兵士は」
「自分たちも強い星脈光を浴びます」
「そのため、一個小隊につき」
「少なくとも十本の安定剤を持つ規則です」
イリスが目を細める。
「来る部隊の規模は?」
ノアが耳を澄ませる。
「六十……」
「違う」
「後ろにもいる」
「八十くらい」
ミレイアは計算する。
「八十名なら」
「最低でも四十本」
診療所の前。
治療を待っていた者たちの顔が変わる。
希望。
そして。
すぐに恐怖。
薬は来る。
だが。
王都の兵士が持っている。
「奪えるか」
シオンが尋ねる。
「正面から戦えば難しい」
ヴェスパーが答えた。
「でも」
壁へ貼られた地下街の地図を見る。
「全員を倒す必要はない」
「薬を運んでいる兵だけ狙う?」
イリスが聞く。
「薬を持つ者は、隊列のどこにいる」
ミレイアが答える。
「通常は中央」
「衛生官が二名」
「その前後に護衛が六名」
「浄化部隊は、前衛、儀式隊、衛生隊、封鎖隊に分かれます」
「儀式隊は何をする」
「白鐘杭を設置します」
ノアの耳が大きく震えた。
「白鐘杭?」
「星環の接続範囲を広げる装置です」
ミレイアの顔が険しくなる。
「街の四方へ杭を打ち込み」
「中央で祈りを行う」
「起動すれば」
「登録された熱紋を持つ者は、強制的に星環へ接続されます」
シオンの手が。
長槍の柄へ強く巻き付く。
「登録された者?」
元王都門衛。
かつて星環へ正式に登録されていたシオン。
灰色の盾の中にも。
上層から逃げてきた者。
星環を拒絶する前に登録された者。
教会や騎士団に所属していた者が大勢いる。
「どのくらいいる」
ヴェスパーが尋ねる。
シオンは答えなかった。
代わりに。
ドランが低く言う。
「半分以上だ」
「ここへ逃げてから、名前を捨てた者も多い」
「でも」
「王都に登録された記録は残っている」
ミレイアが頷く。
「杭が起動すれば」
「身体を動かされる可能性があります」
「敵になるということか」
レイラの声が重くなる。
「意思は残る?」
アステルが尋ねる。
「残ります」
ミレイアは答えた。
「自分が何をしているか」
「誰を傷つけているか」
「理解したまま」
「命令に従わされます」
ドランの顔から。
血の気が引いた。
「姉の声が」
「鐘から聞こえる時と同じか」
「おそらく」
「自分の意思が残っていても」
「身体だけが従う」
「はい」
「だったら」
ドランは剣を握る。
「杭を立てさせなければいい」
「四本ある」
ヴェスパーが地図へ指を置いた。
「一つでも立てば?」
「範囲は狭くなります」
ミレイアが答える。
「ですが、起動は可能です」
「全部止める必要がある」
シオンが言う。
「同時に衛生隊を狙い」
「住民を避難させ」
「門を守る」
「足りないな」
「何が」
「人手と時間」
ヴェスパーは地図を見つめた。
浄化部隊到着まで。
十六分。
浄化開始まで。
十一時間四十五分。
二つの時間。
長いようで短い。
短いようで。
何かを選ぶには、あまりにも長い。
「門は守らない」
ヴェスパーが言った。
シオンの目が鋭くなる。
「何だと」
「鉄門で受け止めれば」
「敵は正面へ集中する」
「分かりやすくていい」
ドランが言う。
「違う」
「向こうは俺たちを倒す必要がない」
「白鐘杭を運び込めば終わる」
ヴェスパーは地図上の鉄門へ指を置く。
「門で戦えば」
「杭を持つ儀式隊は後方に残る」
「俺たちは、前衛だけと戦わされる」
「では開けるのか」
シオンが尋ねる。
「ああ」
広場の者たちがざわめいた。
「敵を街へ入れる気か!」
「正気じゃない!」
「聞け」
シオンが叫ぶ。
声は静まらない。
「聞け!」
長槍の石突きが石畳を打つ。
ようやく。
人々の声が小さくなった。
「続けろ」
ヴェスパーは地図の三本の路地を示した。
「街へ入った部隊は」
「広い隊列を維持できない」
「人数を分けるしかない」
「この街の道を知っているのは、こちらだ」
「向こうも知っている」
シオンが言う。
「地図は持っている」
「道を知っていても」
イリスが地図へ新たな線を書き込む。
「今の形を知っているとは限らない」
地下街は。
毎日のように増築されている。
崩れた足場。
新しく渡された橋。
昨日塞いだ道。
今朝開いた通路。
星環の鏡が全てを見ていたとしても。
人間が作り続ける変化まで。
完全に予測できるとは限らない。
「通路を変える」
イリスが言う。
「今から?」
レイラが尋ねる。
「全部じゃない」
「敵が見ている道だけ」
「鏡の記録を逆に使う」
イリスは端末を見ながら。
監視されていた時間。
鏡の視野。
送られていた情報を調べる。
「王都が知ってるのは」
「灰色の盾が知ってる地図」
「なら」
「知らない道を作ればいい」
「十五分でか」
ドランが顔をしかめる。
「できる」
シオンは即答した。
「この街は」
「一晩で家が一軒増える場所だ」
「橋一本なら五分だ」
「壊す方は?」
レイラが聞く。
「一分」
シオンが周囲へ指示を飛ばす。
「工房の者を呼べ!」
「東路地の三階足場を外せ!」
「廃列車の二号車を中央通路へ移動!」
「西側の布橋は残せ!」
住民たちが走り始める。
「待て!」
ドランが叫ぶ。
「街へ入れるなら」
「戦えない者が巻き込まれる!」
「避難を続ける」
シオンが答える。
「間に合わない!」
「間に合わせる!」
「そんな言葉で!」
「間に合わない者を残して」
ヴェスパーが言った。
「道を変え続ける」
ドランが彼を見る。
「敵を住民のいない区画へ誘導する」
「俺たちの人数は少ない」
「だから」
「こちらが戦う場所を選ぶ」
シオンはヴェスパーを見つめた。
「灰都では」
「いつもそうやって戦ってきたのか」
「もっと単純だった」
レイラが答える。
「正面から斬ることも多い」
「それはお前だけだ」
イリスが言う。
「悪いか?」
「今は助かる」
ヴェスパーは地図の中央へ指を置いた。
「衛生隊をここまで誘う」
古い市場跡。
両側に高い建物。
頭上には布橋と壊れた配管。
「アステル」
「はい」
「前衛と衛生隊の間を、重力で切れるか」
アステルは距離を計る。
「数秒なら」
「無理をすれば十秒」
「無理はするな」
ヴェスパーが言う。
アステルは少し驚いた。
以前なら。
必要なら頼む。
そう言っていたかもしれない。
「何秒なら戻れる」
「五秒です」
「五秒でいい」
「レイラ」
「任せろ」
「まだ何も言ってない」
「衛生隊の護衛を殴ればいいんだろ」
「殺すな」
「難しい注文だな」
「できるか」
レイラは戦斧を持ち上げた。
「やってやる」
「イリスは薬の位置を特定」
「もう始めてる」
「シオン」
「東と西の路地を任せる」
「お前が命令するのか」
「違う」
ヴェスパーは答えた。
「できるか聞いている」
シオンは一瞬黙る。
「できる」
「ノア」
大きな兎耳が立つ。
「白鐘杭の位置を聞き分けられるか」
「たぶん」
「無理なら言え」
「うん」
「セレスは」
「私は診療所へ戻ります」
ヴェスパーが彼女を見る。
「戦場へ来るなと?」
「来ても役に立たないとは言いません」
セレスはミナを見る。
「ですが」
「私にしかできないことが、ここにあります」
「薬を持ってきます」
ヴェスパーが言う。
「必ずとは言わないでください」
セレスは静かに答えた。
「できなかった時」
「自分を責める言葉になります」
「なら」
ヴェスパーは言い直す。
「持って帰るために戦う」
「はい」
「待っていてくれ」
「患者と一緒に待っています」
セレスはミナを抱き上げた。
母親がその後を追う。
「先生」
「何ですか」
「さっき」
母親はヴェスパーとノアを見る。
「二人を渡せばって」
「言ってしまって」
「私は」
セレスは歩みを止めた。
「あなたは」
「娘さんを助けたいと思った」
「はい」
「その気持ちは」
「誰かを憎む理由にも」
「誰かを差し出す理由にもなります」
母親の顔が歪む。
「でも」
セレスは続ける。
「その気持ち自体が、間違いなのではありません」
「では、どうすれば」
「選んだ後に」
「誰かのせいにしないことです」
母親は。
答えられなかった。
「今は」
セレスはミナの額へ触れる。
「この子の傍にいてください」
母親は頷いた。
診療所へ向かう二人を。
ヴェスパーは見送る。
『浄化部隊到達まで』
『残り十三分』
「十三分で」
レイラが戦斧を肩へ担いだ。
「街を作り替えるのか」
「この街ならできる」
シオンが言う。
「なぜ分かる」
「十年間」
彼女は地下街を見渡した。
「毎日、壊れた場所を作り替えてきた」
「王都が用意した地図に」
「私たちが住んでいるわけじゃない」
シオンは長槍を展開する。
「私たちが住んだ場所を」
「後から街と呼んでいるだけだ」
十一分後。
灰色の鉄門の前には。
誰も立っていなかった。
門を守る兵士。
盾を並べる部隊。
弓を構える者。
一人もいない。
鉄門の向こうから。
規則正しい足音が近付く。
一歩。
一歩。
同じ重さ。
同じ間隔。
同じ呼吸。
ノアは門から離れた屋根の上で。
両耳を立てていた。
隣にはイリス。
端末と複数の鋼線を、足場の支柱へ繋いでいる。
「八十二人」
ノアが言う。
「前衛、二十四」
「その後ろに……音が細い人が十二」
「儀式隊?」
「たぶん」
「金属の箱を運んでる」
「白鐘杭だね」
イリスは記録する。
「さらに後ろ」
「薬の音は分かる?」
「薬は喋らないよ」
「瓶の音」
ノアは少し考える。
「ある」
「二人」
「歩くたびに、小さく鳴ってる」
「衛生官だ」
イリスが口元を上げる。
「聞こえる範囲は?」
「全部」
答えた直後。
ノアの顔が僅かに歪んだ。
イリスは見逃さなかった。
「痛い?」
「少し」
「少しは禁止」
「セレスが言ってた?」
「私も言う」
「でも」
「必要なのは、限界まで聞くことじゃない」
イリスはノアの耳元に巻かれた布を見る。
「必要な音だけ聞くこと」
「そんなの、できない」
「全部聞こえる?」
「うん」
「なら」
イリスは自分の端末をノアへ渡す。
複数の波形。
騎士たちの足音。
地下の機械音。
住民たちの声。
全てが画面に重なっている。
「いらない音を消すんじゃない」
「探したい音へ印を付ける」
ノアは画面を見る。
「分からない」
「最初は一つでいい」
「白鐘杭」
「音は?」
ノアは目を閉じる。
無数の音。
騎士。
鎧。
呼吸。
武器。
遠くで泣く子ども。
工房の金属音。
診療所の咳。
その中から。
硬い。
低い。
空洞のある音。
「……四つ」
画面に。
四本の波形が浮かぶ。
「できた」
イリスが言う。
ノアの兎耳が少しだけ持ち上がった。
「次は薬」
「うん」
鉄門が。
外側から叩かれた。
一度。
『下層第七区画の住民へ告げます』
拡声術式を通した声。
男でも。
女でもない。
感情を削ったような声だった。
『王都評議会の保護命令により』
『星脈汚染の浄化を実施します』
鉄門の内側。
誰も答えない。
『武器を捨て』
『黒陽鍵ヴェスパー』
『判別器ノアを引き渡してください』
ノアの身体が強張る。
イリスが肩へ手を置く。
「返事しなくていい」
「うん」
『抵抗しない者には』
『安全』
『食料』
『治療』
『正式な市民権を保証します』
地下街の奥。
その声を聞いている人々がいる。
病人。
飢えた者。
子どもを守りたい者。
全員が同じ答えを持っているわけではない。
鉄門へ。
二度目の衝撃。
中央に。
青白い亀裂が走る。
「来る」
ノアが言う。
イリスは鋼線を引いた。
門の下に仕込まれた金具が外れる。
「開けてあげよう」
鉄門が。
内側へ勢いよく倒れた。
外から破壊しようとしていた前衛の騎士たちは。
突然支えを失う。
先頭の四人が。
倒れた門ごと地下街へ転がり込んだ。
「今!」
頭上。
廃材で作られた足場から。
大量の灰袋が落とされた。
袋が破れ。
白銀の鎧へ灰が広がる。
青白い光が遮られる。
星環騎士たちの視界が。
一瞬だけ塞がれた。
「敵襲!」
一人が叫ぶ。
「浄化隊列を維持!」
別の声。
だが。
命令は完全には揃わない。
正面に。
守る者がいないからだ。
街の内部には。
三本の道。
右。
左。
中央。
どの道にも。
逃げていく人影が見える。
「対象を分散追跡」
浄化部隊は。
三つに分かれた。
最も大きな部隊は中央へ。
衛生官も。
白鐘杭を運ぶ儀式隊も。
予定通り。
街の中へ入ってくる。
高い建物の影から。
ヴェスパーはその動きを見ていた。
「入った」
レイラが隣で戦斧を握る。
「まだだ」
「もう十分だろ」
「前衛と杭が離れるまで」
「待ってる間に住民が見つかる」
「住民がいるように見えるだけだ」
中央通路。
窓。
足場。
路地の角。
逃げる人影は。
全てヴェスパーの蜃気楼だった。
残火ではない。
熱を抑えた。
光だけの幻影。
負担は少ない。
だが。
視界が揺らぐたびに。
幻影の輪郭も僅かに崩れる。
「左の幻影が薄い」
レイラが言う。
「分かってる」
「今、私が二人に見えてないか」
「一人だ」
「本当か?」
「半分くらい二人だ」
「どっちだ」
騎士たちが中央市場跡へ入る。
その後ろ。
白鐘杭を運ぶ十二名。
さらに。
薬箱を背負った衛生官二名。
護衛六名。
「今だ」
ヴェスパーが言った。
アステルが。
頭上の布橋から両手を広げる。
「前衛と」
「後方を」
空気が沈んだ。
目に見えない重力の壁が。
市場の中央へ落ちる。
前衛の騎士たちが膝をつく。
後方の儀式隊は。
逆に身体を後ろへ引かれる。
隊列が。
完全に二つへ分かれた。
「敵術者!」
「術式を解除!」
星環を通じ。
全員が同時にアステルへ視線を向ける。
「見つかりました」
アステルの声が震える。
「十分だ!」
レイラが。
市場二階の足場から飛び降りた。
「おらあああっ!」
戦斧の腹が。
衛生官を守る騎士の盾へ叩き込まれる。
殺すための刃ではない。
それでも。
衝撃は容赦がなかった。
騎士は盾ごと吹き飛び。
後ろの壁へ叩きつけられる。
「一人!」
レイラが着地する。
二人目の騎士が剣を振るう。
戦斧の柄で受け。
肩から体当たりを入れる。
「二人!」
「数えなくていい!」
イリスの声が。
高所から飛ぶ。
鋼線が。
薬箱を背負う衛生官の腰へ巻き付く。
「確保!」
強く引く。
衛生官の身体が足場へ引き上げられる。
だが。
箱の留め具へ。
青白い術式が浮かんだ。
「自動焼却!」
ミレイアが叫ぶ。
市場の奥。
住民の外套を羽織り。
顔を隠していた彼女が。
衛生官へ駆け寄る。
「第一巡礼司祭権限!」
星環結晶が光る。
「医療物資の焼却を停止!」
『権限失効』
術式が答える。
ミレイアの顔が強張る。
『反逆者ミレイア・ノルン』
『拘束対象』
名前を呼ばれた瞬間。
彼女の身体が止まる。
十二の結晶が。
一斉に青白く輝いた。
「ミレイア!」
ノアが叫ぶ。
星環から流れ込む命令。
跪け。
動くな。
教会へ帰れ。
反抗をやめろ。
ミレイアの膝が折れかける。
「私は」
唇を噛む。
「私は……」
結晶の光が強くなる。
『反逆者』
『第一巡礼司祭』
『帰還せよ』
「違います」
ミレイアは。
自分の胸へ手を置いた。
「今は」
「第一巡礼司祭ではありません」
『所属を確認』
「私の所属は」
言葉が止まる。
灰色の盾ではない。
ヴェスパーたちの正式な仲間と。
自分から名乗ったわけでもない。
王都を離れた後。
どこに行くのかも決まっていない。
それでも。
「私の所属は」
亀裂のない素顔で。
ミレイアは叫んだ。
「私が決めます!」
青白い光の間隔が崩れた。
心臓。
一つ。
二つ。
星環とは違う速さ。
「焼却停止!」
今度は。
司祭の権限ではなく。
彼女自身の熱が、術式へぶつかる。
薬箱の光が揺らぐ。
その瞬間。
イリスの鋼線が留め具へ入り。
術式部品を引き抜いた。
「止まった!」
薬箱が開く。
内部に。
透明な瓶。
青銀色の液体。
星脈安定剤。
「四十二本!」
イリスが叫ぶ。
「持っていけ!」
レイラは三人目の騎士を戦斧の柄で倒す。
だが。
前衛と儀式隊を分けていた重力が。
次第に弱まり始める。
アステルの腕が震えている。
「あと二秒……!」
「もう切れ!」
ヴェスパーが言う。
「まだレイラさんが!」
「切れ!」
アステルは奥歯を噛む。
術式を解除した。
重力の壁が消える。
前衛の騎士たちが。
一斉に立ち上がる。
二十四人。
剣。
槍。
盾。
全員の視線が。
レイラと薬箱へ向く。
「撤退!」
ヴェスパーが叫ぶ。
「まだ杭がある!」
シオンの声が。
東路地から響く。
白鐘杭を運ぶ儀式隊の一部が。
別の道へ入っていた。
「一本、東へ!」
ノアが叫ぶ。
「一本は西!」
「中央に二本!」
「シオン!」
ヴェスパーが叫ぶ。
返事の代わりに。
遠くから金属が砕ける音がした。
東路地。
シオンの長槍が。
運ばれていた白鐘杭の基部へ突き刺さる。
「灰色の盾!」
彼女の周囲。
異なる武器を持った住民たちが。
儀式隊へ襲いかかっている。
「押せ!」
「槍を倒せ!」
「足を狙え!」
命令は一つではない。
叫ぶ言葉も。
戦い方も違う。
一人が騎士の盾を引き。
別の者が足元へ鎖を投げ。
上から廃材を落とす。
整ってはいない。
だからこそ。
星環騎士は次の動きを予測できない。
一本目の白鐘杭が。
床へ倒れた。
シオンの槍が。
中央の結晶を貫く。
青白い光が消える。
西路地。
ドランが率いる部隊。
白鐘杭を持つ騎士へ向かっていた。
だが。
その途中。
儀式隊の一人が杭を地面へ突き立てる。
「星の輪よ」
「失われた名を照らせ」
低い音。
鐘ではない。
地面そのものが。
鳴った。
ドランの身体が止まる。
周囲にいた住民たちも。
一斉に動きを止めた。
「起動した!」
ノアが悲鳴を上げる。
白鐘杭から。
青白い輪が広がる。
ドランの目が。
同じ色へ染まった。
「ドラン!」
シオンが振り返る。
だが。
彼女の右腕も。
僅かに震え始めていた。
元王都門衛。
登録された熱紋。
星環へ繋がる道が。
身体の奥から開いていく。
『シオン・ヴァレル』
どこからともなく。
声が聞こえる。
『王都北門副門衛長』
『職務へ復帰せよ』
シオンの右腕が。
本人の意思に反して動く。
長槍の穂先が。
ヴェスパーへ向く。
「シオン?」
ヴェスパーが目を見開く。
「逃げろ!」
シオンは叫ぶ。
「身体が!」
長槍が振るわれる。
ヴェスパーは剣で受けた。
衝撃。
体勢を崩す。
視界が二重に揺れる。
「止めろ!」
レイラが間へ入る。
だが。
シオンだけではない。
ドラン。
市場の武装者。
避難を手伝っていた者。
かつて王都へ登録された住民たちが。
次々に青白い目を開く。
剣を持つ者は剣を。
工具を持つ者は工具を。
何も持たない者は。
素手で。
ヴェスパーとノアのいる方角へ歩き始める。
「嘘だろ……」
レイラが呟く。
意識はある。
涙を流す者。
自分の腕を止めようとする者。
歯を食いしばる者。
それでも。
身体だけが。
星環の命令へ従う。
「逃げて!」
一人の女性が。
泣きながら短剣を構える。
「私を止めて!」
「殺してでも!」
「殺すな!」
ヴェスパーが叫ぶ。
「分かってる!」
レイラは戦斧の刃を返す。
柄。
側面。
腕。
足。
命を奪わず、動きを止めようとする。
だが。
住民の数が多すぎる。
「杭を壊す!」
アステルが西路地へ手を向ける。
重力が集まる。
しかし。
操られた住民たちが。
杭の前へ立った。
盾になるように。
「撃てません」
アステルの手が止まる。
「撃てば」
「皆さんが」
「だから置いてるんだ!」
イリスが歯を食いしばる。
白鐘杭。
住民を接続し。
さらに。
杭を守る盾として使う。
王都は。
反抗する者たちの身体で。
自分の装置を守らせている。
『ヴェスパー』
声が響く。
シオンの口から。
だが。
彼女自身の声ではない。
『ノアを引き渡してください』
シオンの左目から。
涙が流れる。
「聞くな!」
『一人を渡せば』
長槍がヴェスパーを襲う。
剣で逸らす。
『四千二百八十一人が救われます』
「黙れ!」
シオン自身が叫ぶ。
しかし。
口は再び勝手に動く。
『合理的な選択です』
「私の口で!」
長槍が横薙ぎに振るわれる。
ヴェスパーの肩を掠める。
血が飛ぶ。
『私に喋らせるな!』
最後の言葉だけが。
シオン自身のものだった。
「ヴェスパー!」
ノアが叫ぶ。
「みんなの音が!」
大きな兎耳を両手で押さえる。
「身体と違う!」
「頭では逃げてって!」
「でも身体が!」
「聞き分けられるか!」
ヴェスパーが尋ねる。
「何を!」
「本人の音を!」
「星環じゃない方を!」
ノアは目を閉じる。
無数の声。
星環の命令。
住民の悲鳴。
戦う音。
逃げる足音。
白鐘杭の低い振動。
その奥。
一人ずつの音。
シオン。
ドラン。
短剣を持つ女性。
片足を引きずる老人。
工具を握る男。
「聞こえる!」
「名前を呼べ!」
ノアの身体が強張る。
「呼んだら、星環に繋がる!」
「違う名前だ!」
「え?」
ヴェスパーはシオンの槍を受けながら叫ぶ。
「王都へ登録された名前じゃない!」
「ここで呼ばれている名前!」
シオン・ヴァレル。
それは王都へ登録された真名。
星環が知る鍵。
だが。
この街で。
人々は彼女を何と呼んできた。
「シオン!」
ノアが叫び。
すぐに首を横に振る。
違う。
その名は星環と同じ。
ノアは周囲の声を探す。
記憶ではない。
今。
この街で。
人々が彼女へ向けている音。
「盾長!」
ドランが以前。
シオンをそう呼んでいた。
灰色の盾を預かる者。
王都が与えた役職ではない。
この街の者たちが。
彼女の生き方へ付けた呼び名。
「盾長!」
ノアが叫んだ。
シオンの身体が。
一瞬だけ止まった。
青白い目が揺れる。
「聞こえる?」
「……聞こえる」
「あなたは誰?」
「私は」
星環の声が割り込む。
『シオン・ヴァレル』
『王都北門副門衛長』
「違う!」
シオンは叫ぶ。
長槍を。
自分の足元へ突き刺した。
「私は!」
両手で柄を握り。
身体を止める。
「灰色の盾を!」
「預かっている!」
青白い光が。
僅かに弱まる。
「戻った!」
ノアが次の音を探す。
ドラン。
王都の登録名。
ここで呼ばれる名も同じ。
だが。
彼には。
姉が呼んでいた音が残っている。
幼い頃。
折れる前の角。
喧嘩ばかりしていた少年。
『ドー』
短い呼び名。
「ドー!」
ノアが叫ぶ。
ドランの剣が止まる。
「誰が」
唇が震える。
「その呼び方を」
「あなたの中にいる!」
「お姉さんの声じゃない!」
「あなたが覚えてる音!」
ドランの目から。
大粒の涙が流れた。
「姉さん……」
「違う!」
ノアは叫ぶ。
「今、戻るのは!」
「あなた自身だ!」
ドランは。
自分の左手で右腕を掴んだ。
剣を。
ゆっくりと下ろす。
「俺は」
「ドランだ」
「ドーでも」
「王都の登録番号でもない」
「俺が」
「今、選ぶ」
剣を。
白鐘杭へ向けた。
「こんなものに!」
力の限り。
刃を振り下ろす。
杭の外装へ。
亀裂が入った。
だが。
まだ壊れない。
「全員の名前を呼ぶのは無理だ!」
イリスが叫ぶ。
「多すぎる!」
「一人ずつじゃなくていい!」
ノアは兎耳を立てた。
「みんなが!」
「互いを呼べば!」
レイラが気付く。
市場の屋根へ飛び上がる。
大きく息を吸い。
地下街全体へ届く声で叫んだ。
「自分の隣にいる奴を呼べ!」
操られていない住民たちが。
一瞬、動きを止める。
「王都の名前じゃなくていい!」
「いつも呼んでる言葉で!」
「呼び戻せ!」
一人の老人が。
操られた息子の腕を掴む。
「馬鹿息子!」
青白い目が揺れる。
「誰が馬鹿だ……」
「戻ったら説教だ!」
別の女性が。
短剣を持つ友人へ叫ぶ。
「泣き虫!」
「その呼び方はやめろって……!」
機械工の獣人が。
仲間の肩を殴る。
「油まみれ!」
「お前もだろ!」
母親が。
動かされる娘を抱き締める。
「私の星!」
「お母さん……!」
名前ではない。
正式な記録でもない。
家族だけが使う呼び方。
友人しか知らない言葉。
失敗から付いたあだ名。
本人が嫌がりながら。
どこかで大切にしていた呼び名。
星環に登録されていない。
人と人の間だけに存在する名前。
不揃いな声が。
地下街全体へ広がっていく。
『熱紋照合不能』
白鐘杭から。
星環の声が響く。
『識別名に不整合』
『統制を――』
「人を!」
シオンが叫ぶ。
長槍を杭の亀裂へ差し込む。
「一つの名前で!」
ドランも剣を突き立てる。
「決めるな!」
二人が。
同時に武器を捻った。
白鐘杭が。
中央から砕ける。
青白い光が弾け。
地下街を覆っていた輪が消えた。
操られていた住民たちが。
次々に膝をつく。
「一つ!」
ノアが叫ぶ。
「残り三つ!」
中央市場。
二本の白鐘杭。
東路地の奥に一本。
「東は任せろ!」
シオンが走り出す。
「ドラン!」
「分かってる!」
二人は。
同じ方向へ走った。
歩幅は違う。
武器も違う。
互いを許しているわけでもない。
それでも。
同じ杭を壊すために。
自分の意思で並んだ。
「中央!」
ヴェスパーが剣を構える。
前衛の星環騎士たちが。
隊列を組み直している。
二十四人。
一人ひとりの隙間を埋め。
巨大な一枚の盾となって迫る。
その後ろに。
二本の白鐘杭。
「正面からは抜けない」
イリスが薬箱を足場の奥へ送る。
「幻影は?」
「視界が持たない」
「残火は」
セレスの言葉が頭をよぎる。
必要最低限。
ヴェスパーは胸へ手を当てた。
自分の熱。
仲間の熱。
全てを囲おうとすれば。
また倒れる。
「ノア」
「うん」
「騎士たちの音を聞け」
ノアは耳を向ける。
「全部同じ」
「本当に?」
「え?」
「エドの時と同じだ」
「身体は違う」
ノアは。
一つの大きな音としてではなく。
その中を探る。
同じ歩幅。
同じ呼吸。
同じ命令。
それでも。
右端の騎士。
左膝に古い傷。
中央の騎士。
呼吸が浅い。
後方。
誰かが泣いている。
「違う」
ノアが呟く。
「一人」
「足が痛い」
「一人は怖がってる」
「一人は」
兎耳が揺れる。
「薬箱を見てる」
「家族が病気なのかもしれない」
「どこだ」
ノアが指す。
隊列中央。
盾を持つ若い騎士。
歩幅を合わせながら。
僅かに衛生隊の方角を気にしている。
ヴェスパーは。
残火を全員へ広げなかった。
一本の細い熱。
若い騎士だけへ向ける。
「名前は分かるか」
「聞こえない」
「ならいい」
残火は。
騎士の星環を切らない。
外から命令を流す道へ触れ。
本人の中にある熱を。
僅かに押し戻す。
騎士の足が。
一歩だけ遅れた。
完璧だった盾列に。
指一本分の隙間。
「レイラ!」
「待ってた!」
レイラが走る。
戦斧を構え。
正面から盾へ突撃する。
だが。
打ち込んだのは隙間ではない。
市場の床。
衝撃が。
騎士たちの足元を揺らす。
一歩遅れた騎士へ。
隣の盾がぶつかる。
隊列が歪む。
その僅かな隙間へ。
ヴェスパーの幻影が滑り込んだ。
一人。
三人。
五人。
どれが本物か。
星環の判断が一瞬遅れる。
「右!」
ノアが叫ぶ。
騎士たちが右へ向く。
だが。
本物のヴェスパーは左。
盾の間を抜け。
白鐘杭へ走る。
二人の騎士が追う。
イリスの鋼線が足へ絡む。
アステルの重力が。
二人の身体だけを床へ引いた。
「五秒!」
アステルが叫ぶ。
ヴェスパーは。
一本目の杭へ剣を振るう。
封印糸はすでにない。
刃へ。
残火を集める。
切断ではない。
杭の中へ流れる星環の熱を。
外側へ押し返す。
「戻れ」
青白い光が。
内部で逆流した。
杭の基部が膨張し。
亀裂が走る。
剣を横へ払う。
一本目。
崩壊。
「あと一本!」
だが。
二本目は。
すでに起動を始めていた。
『識別対象』
『ノア』
低い振動が。
市場全体へ広がる。
ノアの身体が止まった。
「ノア!」
『判別器』
『中枢へ帰還せよ』
少年の兎耳が。
青白く光る。
「聞くな!」
イリスが肩を掴む。
「聞こえる……」
「何が!」
「みんな」
ノアの目から。
涙が流れる。
「王都の中にいる」
「名前をなくした人たち」
「僕を呼んでる」
何万人。
何十万人。
生きている者。
死んだ者。
消された者。
星環の中へ保存された声が。
一斉にノアへ届いている。
『聞き分けて』
『私を見つけて』
『名前を返して』
「無理だ!」
イリスが叫ぶ。
「全部を聞くな!」
「でも!」
「聞こえないふりをしたくない!」
ノアの身体が。
杭の方角へ一歩動く。
「ノア!」
ヴェスパーは二本目へ向かう。
だが。
騎士たちが間へ入る。
若い騎士。
先ほど残火で揺らした者が。
剣を構えた。
ヴェスパーは。
その目を見る。
青白い光の奥。
本人の熱。
「お前も」
「誰かを助けたいのか」
騎士の剣が震える。
『攻撃せよ』
星環が命じる。
「薬箱を見ていた」
『攻撃せよ』
「誰のためだ」
「黙れ……」
騎士の口から。
本人の声が漏れる。
「母が」
「下層の工場で」
星環の光が強くなる。
『不要な発話を停止』
「熱病に……」
騎士の剣が。
ヴェスパーへ振り下ろされる。
受ける。
刃がぶつかる。
「その薬は」
ヴェスパーが言う。
「俺たちだけのものじゃない」
「何?」
「必要な人間へ使う」
「お前の母親もだ」
「信じられるか!」
騎士が剣を押し込む。
「信じなくていい」
ヴェスパーは答える。
「自分で確かめろ!」
剣を逸らす。
騎士の胸元。
星環装置へ。
残火を打ち込む。
切らない。
本人の熱だけを。
一瞬。
胸の奥へ戻す。
青白い目が。
本来の色へ戻った。
若い騎士は。
自分の剣を見る。
次に。
白鐘杭。
そして。
薬箱を運ぶイリスを見る。
「母の名は」
唇が震える。
「言わなくていい」
ヴェスパーは二本目の杭へ走る。
「自分で覚えていろ!」
騎士は。
剣を握ったまま立ち尽くした。
杭の振動が強くなる。
ノアが。
さらに一歩進む。
「ノア!」
レイラが騎士たちを押し返す。
「戻れ!」
「みんなが呼んでる!」
「全部を救おうとするな!」
その言葉に。
ヴェスパーの足が止まりかけた。
誰も捨てない。
だが。
全ての声を。
一人の少年へ背負わせることは。
救うことではない。
「ノア!」
ヴェスパーが叫ぶ。
「一人だけ選べ!」
「え……」
「今、聞く声を!」
「一人だけ!」
「他の声は」
「捨てるんじゃない!」
ヴェスパーは杭へ剣を突き立てる。
「後で聞くために!」
「今は一人へ戻れ!」
ノアの耳へ。
無数の声が押し寄せる。
助けて。
見つけて。
名前を。
私を。
その中で。
一つ。
小さな声。
泣いている。
子ども。
『お母さん』
ノアは。
その声だけへ耳を向けた。
「聞こえる」
『暗い』
「うん」
『名前が分からない』
「今は、分からなくていい」
『忘れられる?』
「忘れない」
ノアは。
胸元の木彫りの狼を握る。
「でも、今日は」
「ここまで」
声を閉ざすのではない。
扉を閉める。
また開けると。
自分で決めて。
「後で」
「また聞くから」
無数の声が。
一瞬だけ遠ざかった。
ノアの熱が。
自分の胸へ戻る。
「今!」
ノアが叫ぶ。
「壊して!」
ヴェスパーは。
残っていた残火を。
二本目の杭へ流し込んだ。
胸の奥で。
黒い熱が脈打つ。
視界が暗くなる。
それでも。
一人ではない。
レイラが。
戦斧を杭の反対側へ叩き込む。
アステルの重力が。
内部の結晶を引き離す。
イリスの鋼線が。
術式線を切断する。
ミレイアが。
星環の命令へ逆らい。
杭の停止文を叫ぶ。
「星の輪よ!」
一度。
息を吸う。
教会の言葉ではなく。
自分の言葉へ変える。
「その名を!」
「持ち主へ返しなさい!」
最後に。
ノアが。
杭へ向けて叫んだ。
「僕の声は!」
「僕のものだ!」
青白い光が。
赤。
橙。
紫。
異なる熱に押し返される。
一本にならない力。
揃わない声。
白鐘杭が。
中央から砕け散った。
市場を覆っていた振動が消える。
騎士たちの動きが止まった。
星環との接続を失い。
突然、一人へ戻された者たち。
立ったまま。
剣を持ったまま。
自分が何をしていたのか分からず。
周囲を見る。
「撤退!」
どこかから。
浄化部隊の指揮官が叫ぶ。
「星環接続を再構築!」
「部隊を外へ!」
前衛が。
負傷者を支えながら退き始める。
シオンとドランが。
東路地から戻ってくる。
その背後。
最後の白鐘杭が。
二つに折れていた。
「追うか!」
ドランが尋ねる。
「追うな!」
シオンは即答した。
「薬を運べ!」
「負傷者を回収!」
「王都兵も置いていくな!」
ドランが振り返る。
「敵だぞ!」
「今、星環が切れている!」
「また繋がる前に拘束する!」
シオンは。
先ほどヴェスパーの残火を受けた若い騎士を見る。
彼は。
剣を捨てていた。
「殺す必要はない」
ドランは歯を食いしばる。
それでも。
剣を鞘へ戻した。
「縄を持ってこい!」
地下街へ。
人々の声が戻っていく。
勝った。
そう呼べるほど。
簡単な戦いではなかった。
建物は壊れ。
負傷者が出た。
星環に身体を奪われ。
仲間へ刃を向けた者もいる。
だが。
白鐘杭は全て破壊された。
薬も。
手に入れた。
「ヴェスパー」
レイラの声。
振り返る。
一人に見える。
今度こそ。
「大丈夫だ」
「聞く前に答える奴は大丈夫じゃない」
「薬を」
ヴェスパーはイリスを見る。
「持っていってる」
「四十二本、全部」
「そうか」
そこで。
足から力が抜けた。
レイラが腕を掴む。
「おい!」
「少し」
「座る」
「最初からそうしろ!」
レイラは。
倒れる前にヴェスパーを肩へ担いだ。
「自分で歩ける」
「歩いてないから安心しろ」
「重いと言うな」
「重い!」
「言った」
「今回は言う!」
ノアが。
市場の端で座り込んでいた。
イリスが隣にいる。
「ノア」
ヴェスパーが呼ぶ。
少年は顔を上げる。
「聞こえてる」
「誰の声が」
「今は」
ノアは周囲を見る。
仲間を呼ぶ住民。
負傷者を運ぶ者。
泣く者。
笑う者。
言い争う者。
「ここにいる人たち」
「そうか」
「でも」
ノアは王都の上層を見上げる。
天井しか見えない。
「さっきの子」
「また聞くって約束した」
「ああ」
「行かなきゃ」
「今は休め」
「でも」
「後で聞くために」
ヴェスパーは。
先ほど自分が言った言葉を返す。
「今は戻れ」
ノアは少し考え。
頷いた。
「うん」
薬が診療所へ届いた。
セレスは箱を開き。
中身を確認する。
「未開封」
「保存状態も問題ありません」
ミレイアが一本を取り出す。
「一度に全量を使わないでください」
「体重に合わせ、三回に分けます」
「分かりました」
セレスは注射器を用意する。
ミナの腕。
細い血管。
母親が。
両手を握り締めて見守っている。
「お願いします」
「身体を押さえていてください」
一本目。
青銀色の液体が。
幼い身体へ入る。
数秒。
変化はない。
母親の呼吸が乱れる。
「まだですか」
「待ってください」
十秒。
二十秒。
ミナの胸が。
大きく上下した。
乾いていた呼吸が。
少しずつ深くなる。
額の熱も。
僅かに下がり始める。
「ミナ」
母親が頬へ触れる。
「お母……さん」
小さな声。
母親は。
娘を強く抱き締めた。
「ごめん」
「苦しい……」
「あっ」
慌てて腕を緩める。
泣きながら。
笑いながら。
何度も名前を呼ぶ。
「ミナ」
「ミナ」
「ミナ」
星環へ渡すためではない。
命を確かめるための名前。
セレスは。
次の患者へ向かった。
四十二本。
必要な者は。
それ以上いる。
「全員には足りません」
助手の女性が言う。
「分かっています」
「誰から使いますか」
セレスは患者たちを見る。
先ほどシオンが言った言葉。
ここでは。
正義にも在庫がある。
「生存率だけでは決めません」
セレスが答えた。
「待てる時間」
「必要な量」
「他の治療法」
「本人と家族の意思」
「全部確認します」
「時間がかかります」
「かけます」
「でも」
セレスは薬箱を見る。
「迷っている間にも」
「患者は悪化します」
「はい」
「だから」
白い医療衣の袖を捲る。
「迷いながら」
「手を止めません」
戦いが終わって。
一時間と七分。
地下街の壁に。
数字が浮かんでいる。
『浄化開始まで』
『残り十時間三十八分』
四本の白鐘杭を壊し。
薬を奪い。
負傷者を運び。
一人の子どもの熱を下げた。
それだけのために。
一時間以上が過ぎた。
「十一時間」
シオンが。
壊れた市場を見ながら呟く。
「長いと思っていた」
「短かったか」
ヴェスパーが尋ねる。
治療を受け。
壁際へ座っている。
肩には新しい包帯。
「違う」
シオンは答えた。
「思っていたより」
「多くのことができた」
浄化部隊を退けた。
薬を手に入れた。
王都へ登録された名とは違う。
人と人の間にある呼び名で。
多くの者が、自分の身体を取り戻した。
一時間。
失ったものも多い。
だが。
一時間は。
決して何もできない短さではなかった。
「十一時間あれば」
ヴェスパーが言う。
「もっと探せる」
「何を」
「二人を差し出す以外の道を」
シオンは。
少しだけ笑った。
「まだ諦めていなかったのか」
「最初から、そのつもりだ」
「また全員を救うと?」
「分からない」
ヴェスパーは。
診療所の前に並ぶ者たちを見る。
「でも」
「一人に値段を付ける前に」
「残っている時間を使いたい」
「十時間三十八分」
シオンは数字を見る。
「その価値を」
「王都は決めているつもりだ」
ヴェスパー。
ノア。
二人を渡せば、街を救う。
二人分の命で。
四千二百八十一人分の時間を買う。
アルベリクは。
そう計算している。
「人の価値は」
シオンが言う。
「人数で決まらないと?」
「違う」
ヴェスパーは首を横に振った。
「人数も無視できない」
「一人と四千人を」
「同じだと言えば」
「四千人を見ていないことになる」
「なら、どうする」
「一人と四千人を」
ヴェスパーは答えた。
「値段に変えない方法を探す」
「そんなものがあると思うか」
「思わない」
シオンが眉をひそめる。
「だが」
「ないと決めるには」
ヴェスパーは減り続ける数字を見る。
「まだ十時間ある」
その時。
地下街の灯りが。
再び青白く染まった。
全員が顔を上げる。
壊したはずの灰色の鏡。
会議室からではない。
市場。
診療所。
住居。
工房。
街のあらゆる壁へ。
同じ文字が表示される。
『下層第七区画』
『個別保護申請を開始します』
シオンの表情が変わった。
「個別?」
アルベリクの声が響く。
今度は。
街全体への一斉放送ではなかった。
一人ひとりの耳元。
一人ひとりの熱紋へ。
異なる言葉が届く。
『病気のお子様がいる方へ』
ミナの母親が顔を上げる。
『優先治療をご希望ですか』
別の場所。
片足を失った老人へ。
『上層医療院での再生治療をご希望ですか』
食料袋を抱く男へ。
『ご家族三名分の市民権を希望しますか』
元騎士へ。
『過去の犯罪記録を消去します』
一人ずつ。
最も欲しいものを。
最も失いたくないものを。
王都は知っている。
『申請条件は簡単です』
青白い文字が。
全ての壁へ浮かぶ。
『黒陽鍵ヴェスパー』
『判別器ノア』
『いずれか一名の現在位置を報告してください』
街が。
静まり返った。
先ほどまで。
同じ広場で。
二人を渡さないと声を上げていた人々。
その一人ひとりへ。
今度は。
他の誰にも見えない値段が提示されている。
家族。
治療。
食事。
過去の赦免。
一人ずつ違う願い。
「王都は」
イリスが端末を確認する。
「投票をやめたんじゃない」
「一人ずつ買うつもりだ」
『申請は秘匿されます』
アルベリクの声。
『誰が報告したか』
『他の住民へ知られることはありません』
母親が。
眠るミナを抱き締める。
ドランが。
自分の姉の声が聞こえる方角を見る。
元王都市民たちの前に。
それぞれ異なる青白い光が浮かぶ。
『報告しますか』
二つの選択。
『はい』
『いいえ』
シオンは。
長槍を握り締めた。
「答えるな!」
声を上げる。
だが。
アルベリクは。
すぐに別の言葉を重ねた。
『回答期限』
『十時間』
壁の数字が変わる。
十時間。
街の浄化までの時間。
同時に。
一人ひとりが。
自分の願いと。
二人の命を。
比べ続ける時間。
王都は兵を退かせた。
白鐘杭も失った。
それでも。
戦いは終わっていない。
今度の武器は。
剣でも。
星環でもない。
人が。
誰にも知られず。
自分だけを救えるという選択だった。
ノアの兎耳が。
小さく震える。
「聞こえる」
「何が」
ヴェスパーが尋ねる。
ノアは。
地下街にいる人々の音を聞いていた。
迷い。
恐怖。
罪悪感。
希望。
そして。
青白い選択肢へ。
指を伸ばそうとする音。
「誰かが」
ノアの顔から血の気が引く。
「もう」
市場の壁に。
新しい数字が表示された。
『位置情報提供者』
『一名』
誰も。
声を発しなかった。
まだ一人。
だが。
最初の一人が押したことで。
選択は。
想像ではなくなった。
『二名』
数字が増える。
『三名』
地下街のどこかで。
誰かが。
ヴェスパーかノアを売った。
家族のためか。
自分のためか。
恐怖に耐えられなかったのか。
誰にも分からない。
『四名』
青白い数字だけが。
無慈悲に増えていく。
シオンが周囲を見渡す。
だが。
誰の顔にも。
答えは書かれていなかった。
ヴェスパーは。
剣の柄へ手を置かなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ。
減り続ける時間と。
増え続ける人数を見つめた。
「これが」
シオンが低く呟く。
「十一時間の値段か」
ヴェスパーは首を横に振った。
「違う」
「何が違う」
「これは」
青白い光の中。
ヴェスパーは言った。
「王都が付けた値段だ」
『位置情報提供者』
『七名』
「俺たちが」
ノア。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
ミレイア。
シオン。
そして。
揺れている街の人々を見る。
「その値段で」
「売られると決まったわけじゃない」
壁の数字が。
八へ変わった。
残された時間。
九時間五十九分。
王都の兵士との戦いは終わった。
代わりに。
誰が。
何のために。
他人の名前を売るのか。
誰にも姿の見えない戦いが。
始まった。




