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灰の星  作者: ウルフルマル


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第3章 第10話 「灰色の盾」

王都の地下には、鐘の届かない場所があった。


白銀の尖塔も。


星環の光も。


整えられた祈りの声もない。


代わりに響いているのは、鍋を叩く音だった。


「また焦げてるぞ!」


「火力が強いんだよ!」


「昨日も同じこと言ってただろ!」


酒場らしき建物から、怒鳴り声が飛ぶ。


その隣では、古い機械を修理していた獣人の男が、火花を浴びながら大声で笑っている。


細い路地を子どもたちが走り抜け。


頭上に渡された廃材の橋では、洗濯物を抱えた女性が通行人と言い争っていた。


「そこをどきな!」


「今、床を直してる!」


「直してから壊れる橋を作るんじゃないよ!」


誰も同じ歩幅で歩いていない。


誰も同じ方向を見ていない。


笑う者。


怒る者。


働く者。


道端で眠る者。


ここには、星環が理想とする秩序などなかった。


だが。


確かに、人が生きていた。


「止まれ」


先頭を歩いていたシオンが右手を上げた。


周囲を囲んでいた武装者たちが足を止める。


ヴェスパーたちの前には、灰色の鉄で造られた門があった。


王都の白銀門とは比較にならないほど小さい。


表面には無数の傷。


星の紋章を削り取った痕。


その上から、手描きの盾が描かれていた。


「この先が居住区だ」


シオンが振り返る。


短い黒髪。


左頬の傷。


濃灰色の外套。


折り畳まれた長槍は、背中へ収められている。


「入る前に三つ、守ってもらう」


レイラが眉を上げた。


「規則があるのか」


「規則がない街は、力の強い奴が規則になる」


シオンは淡々と答える。


「ここで他人の過去を無理に聞くな」


「答えたくない名前を言わせるな」


「そして、鐘を鳴らすな」


「鐘?」


ノアの大きな兎耳が動く。


「小さな鈴も駄目ですか」


セレスが尋ねる。


「音そのものを禁じているわけじゃない」


シオンは門の上を見る。


そこには、鐘を吊るしていたと思われる空の金具が残されていた。


「人を同じ方向へ向かせるための鐘を、ここでは鳴らさない」


ノアは静かに頷いた。


「分かった」


シオンの視線が、ミレイアへ移る。


亀裂の入った銀色の仮面。


白い司祭衣。


皮膚の下で光る星環結晶。


門の向こうから、住民たちがこちらを見ていた。


その視線にあるものは、好奇心だけではない。


恐怖。


憎悪。


警戒。


子どもを抱いた獣人の母親が、ミレイアの姿を見た瞬間、我が子を胸元へ引き寄せた。


幼い子どもが、母親の腕の隙間から仮面を見る。


「お母さん」


「見るな」


「でも、白い人……」


「いいから」


母親は子どもの頭を抱くようにして、顔を隠した。


「名前、取られるの?」


子どもの小さな声が聞こえた。


ミレイアの足が止まる。


周囲の武装者たちの手が、武器へ伸びた。


レイラも戦斧の柄へ触れる。


セレスはノアを自分の近くへ寄せた。


ミレイアは。


ゆっくりと両手を上げた。


武器を持っていないことを示す。


そして。


銀色の仮面へ手をかけた。


「何をする」


シオンが尋ねる。


ミレイアは答えず。


留め具を外した。


仮面の下。


白銀に近い髪。


疲れの残る顔。


右目を囲む星環の刻印。


額から頬へ伸びる青白い結晶。


住民たちのざわめきが大きくなる。


ミレイアは仮面を胸元へ抱いた。


そして。


母親に隠された子どもへ向けて言った。


「取りません」


声は震えていた。


それでも。


仮面の奥に隠れなかった。


「あなたの名前は、あなたのものです」


母親は答えない。


子どもだけが、僅かに顔を出す。


「本当?」


「はい」


「司祭なのに?」


その言葉に。


ミレイアは一瞬、答えを失った。


「私は……」


自分が何者なのか。


教会の司祭なのか。


星環に逆らった罪人なのか。


王都から逃げた裏切り者なのか。


今の彼女には、まだ分からない。


それでも。


「今は」


ミレイアは自分の言葉を選んだ。


「あなたの名前を守りたいと思っています」


母親の表情は変わらなかった。


信用したわけではない。


許したわけでもない。


だが。


子どもの顔を隠していた腕が、ほんの少しだけ下がった。


シオンはその様子を見届け。


門へ手を置いた。


「開けろ」


灰色の鉄門が。


軋んだ音を立てながら、内側へ開いた。


門の向こうに広がっていたのは。


一つの街だった。


天井は見えない。


古い建物を幾重にも積み上げ。


その上からさらに足場や橋を継ぎ足している。


上層から滴り落ちる水を集めるため。


屋根と屋根の間には、無数の布や金属板が張られていた。


星脈灯の多くは壊れている。


代わりに。


油。


燃料石。


旧文明の蓄熱管。


人々は手に入る物を使い、好きな場所へ灯りを置いていた。


色も。


明るさも。


点滅する間隔も違う。


「王都の中に」


アステルが周囲を見上げる。


「こんなに大きな街があったのですね」


「王都の中じゃない」


シオンが答えた。


「王都が捨てた場所の中だ」


その言葉の意味を尋ねる前に。


通路の奥から担架が運ばれてきた。


横たわっているのは、角を持つ若い亜人の男。


脇腹から血を流している。


「道を空けろ!」


担架を運ぶ女性が叫ぶ。


「上層への配給路で撃たれた!」


「診療所へ!」


セレスの目が傷口へ向く。


「動脈に近いです」


白い医療衣を翻し。


担架の横へ駆け寄る。


「圧迫が足りません。布を追加してください」


「誰だ、あんた」


「医師です」


「王都の?」


「灰都です」


セレスは返事を待たず、医療鞄を開いた。


「清潔な水と、熱した刃物を」


「薬は?」


「私のものを使います」


「待て」


シオンが止める。


セレスが顔を上げる。


「時間がありません」


「分かっている」


「なら」


「その鞄の薬は、あんたたちの帰り道にも必要だ」


「目の前で死にかけている患者がいます」


「この街には、同じ状態の人間が他にもいる」


シオンは診療所の方角を示す。


入り口の前。


診察を待つ者たちが並んでいた。


腕を布で吊った老人。


高熱に苦しむ子ども。


咳を止められない女性。


足を失った男。


セレスの表情が変わる。


「薬が足りないのですか」


「いつも足りない」


シオンは担架の男を見る。


「止血薬を一つ使えば、あの子の熱を下げる薬が減る」


列の中。


母親に抱かれた子どもが、苦しそうに息をしている。


「鎮痛剤を使えば、明日手術を受ける老人の分がなくなる」


「ここでは」


シオンの声は冷静だった。


「誰を治すか決めなければ、全員が死ぬ」


セレスは言葉を失った。


診療所で患者を選別する。


生きられる者。


待てる者。


助けることが難しい者。


医師である以上。


それが必要になる状況があることは知っている。


だが。


知っていることと。


目の前の誰かへ告げることは違う。


「私の薬です」


セレスは鞄から止血薬を取り出した。


「今、私が使用を決めます」


シオンが彼女を見る。


「帰りに必要になる」


「その時は、その時に考えます」


「後悔するかもしれない」


「後悔しない選択を探しているわけではありません」


セレスは薬を担架の男へ使った。


「今できる治療をしなかったことを、患者のせいにしたくないだけです」


シオンはしばらく黙っていた。


やがて。


担架を運ぶ者たちへ顎を動かす。


「診療所へ運べ」


「この医師を手伝わせろ」


セレスが傷口を圧迫しながら同行する。


数歩進んだところで。


振り返った。


「ヴェスパーさんも治療が必要です」


「歩ける」


「後で伺います」


「大丈夫だ」


「必ず伺います」


ヴェスパーは返事をしなかった。


セレスの目が細くなる。


「必ずです」


「……分かった」


セレスは担架と共に診療所へ入っていった。


レイラが小声で呟く。


「王都より怖いな」


「聞こえていますよ!」


診療所の中から声が返ってきた。


レイラは黙った。


シオンは一行を、灰色の盾が描かれた大きな建物へ案内した。


元は倉庫だったらしい。


壁には古い輸送番号が残っている。


内部には長い机。


不揃いな椅子。


壁一面に貼られた手描きの地図。


王都下層の水路。


配給路。


閉鎖された階段。


星環騎士の巡回経路。


その多くに、赤い線が引かれていた。


「座れ」


シオンが言う。


レイラは椅子を引いた。


だが。


周囲を囲む十数人の武装者は、武器を下ろしていない。


中央にいる角の大きな亜人の男は。


最初からミレイアだけを見ていた。


右角の先端が折れている。


両腕には、古い火傷痕。


「司祭は別室へ入れろ」


男が言った。


低く。


抑え込まれた声。


「ここへ連れてきた理由を聞いてからだ」


シオンが答える。


「理由など関係ない」


「教会の人間だ」


「分かっている」


「姉を連れていった奴らと同じ服を着ている」


ミレイアの指が動く。


胸元に抱いた仮面へ、強く力が入った。


男は一歩前へ出る。


「名前を返せと言っても、奴らは笑った」


「星環の中で生き続けるから、悲しむ必要はないと」


「姉の身体は返ってこなかった」


「墓もない」


「なのに」


折れた角を持つ男の声が震える。


「今でも鐘が鳴ると」


「姉の声で、教会へ従えと聞こえる」


レイラが立ち上がりかける。


ヴェスパーが片手で止めた。


ミレイアは。


男から目を逸らさなかった。


「あなたのお姉様を連れていった司祭が」


「私であった可能性もあります」


室内が静まり返る。


「覚えているのか」


男が尋ねる。


「いいえ」


「なら、何を」


「私は」


ミレイアは胸元の星環結晶へ触れた。


「多くの人を、王都へ導きました」


「その後、何が起きたのか」


「知ろうとしませんでした」


「教会が正しいと」


「星環が救うのだと」


「そう信じていました」


「信じていたら許されるのか」


「いいえ」


即答だった。


男の拳が握られる。


「では、謝れ」


ミレイアの唇が開く。


だが。


言葉が出る前に。


男は叫んだ。


「頭を下げて!」


「姉を返せ!」


「返せないのに!」


「何を謝る!」


部屋の壁が震えるほどの声。


ミレイアは立ったまま。


その怒りを受け止めた。


「返せません」


「なら黙れ!」


「はい」


彼女は目を伏せた。


「今は」


「あなたの怒りを、私の謝罪で終わらせるべきではないと思います」


男の顔が歪む。


殴りかかるように一歩を踏み出す。


シオンの長槍が。


展開される音が響いた。


折り畳まれていた柄が伸び。


鋭い穂先が、男の胸元を遮る。


「ドラン」


シオンが初めて男の名を呼んだ。


「座れ」


「シオン!」


「お前の怒りを止めているんじゃない」


「ここで殺せば」


シオンの左頬にある傷が、灯りの下で浮かぶ。


「お前の怒りまで、王都に使われると言っている」


ドランは歯を食いしばった。


しばらく動かなかった。


やがて。


乱暴に椅子へ座った。


槍は下げられる。


だが。


ミレイアを睨む視線は消えない。


シオンは机の端へ腰を預けた。


「私はシオン・ヴァレル」


「この街では、灰色の盾を預かっている」


「指導者か」


ヴェスパーが尋ねる。


「そう呼ぶ奴もいる」


「私は嫌いだ」


「なぜ」


「街の失敗を、全部一人のせいにできる言葉だからだ」


シオンはヴェスパーの懐を見る。


「ハルトから渡された札を出せ」


ヴェスパーは金属札を机へ置く。


傷だらけの灰色の盾。


シオンはそれを手に取り。


親指で表面をなぞった。


「まだ持っていたのか」


「あなたが渡したのか」


「ああ」


「ハルトとは、どういう関係だ」


「十年前」


シオンは札を見たまま答える。


「王都北門の外で、難民の荷車が星環審査に落ちた」


「理由は?」


イリスが尋ねる。


「人数が合わなかった」


「申請は四十八人」


「実際は五十三人」


「荷台の下に、登録を拒否した子どもが五人隠れていた」


シオンの声は平坦だった。


だが。


金属札を持つ指には力が入っている。


「王都は五人を犯罪者として拘束しようとした」


「護衛だったハルトは命令を拒否した」


レイラが僅かに笑う。


「らしいな」


「星環騎士二十人を相手に、一人で剣を抜いた」


「馬鹿だね」


イリスが言う。


「救えたのですか」


アステルが尋ねた。


シオンは頷く。


「私が門を開けた」


「当時、私は北門の副門衛長だった」


室内の何人かが、彼女へ視線を向ける。


知っている話なのだろう。


「五人を逃がし」


「荷車を下層へ通した」


「追手が来た時」


「ハルトは崩れた橋から落ちかけた」


「私が腕を掴んだ」


「だから、命を救ったと?」


ヴェスパーが尋ねる。


「逆でもある」


シオンは金属札を机へ戻した。


「その後、王都を裏切った私を外へ逃がしたのはハルトだ」


「互いに一度ずつ、命を借りている」


「借りたままなのか」


「返す必要があると思っているうちは」


シオンはヴェスパーを見る。


「忘れない」


ヴェスパーは札を懐へ戻した。


「ハルトはあなたを信用していた」


「信用するな」


「なぜ」


「私は、この街を守るためなら」


シオンの瞳が鋭くなる。


「あんたたちを王都へ差し出す可能性もある」


レイラが笑みを消す。


ドランは何も言わない。


他の武装者たちも。


その言葉を否定しなかった。


「脅しか」


レイラが尋ねる。


「確認だ」


シオンは机の上へ古い帳簿を置いた。


開かれた頁には。


数字。


食料。


水。


薬。


燃料。


死者。


失踪者。


全てが手書きで記録されている。


「この街には、今朝の時点で四千二百八十一人いる」


「正式な王都の市民は一人もいない」


「王都から食料は配給されない」


「上層から盗むか」


「廃棄されたものを拾うか」


「外から運び込むしかない」


シオンは帳簿の一行を指した。


「昨日、熱病の治療薬が三本入った」


「必要な患者は十一人」


「誰に使った」


ヴェスパーが尋ねる。


「生き残る可能性が高い三人だ」


「残りは」


「一人死んだ」


アステルが目を伏せる。


「残り七人は、まだ待っている」


シオンは感情を見せない。


「私は毎日、誰を助けるか決める」


「食事を与える順番」


「薬を使う相手」


「見張りへ回す人員」


「逃がす者」


「残す者」


「ここでは、正義にも在庫がある」


ヴェスパーの胸へ。


その言葉が重く落ちる。


「それでも」


シオンは続けた。


「誰も捨てないと言うのか」


ヴェスパーはすぐには答えなかった。


一人を治せば。


別の一人が薬を失う。


目の前の命を救えば。


明日の誰かを救えないかもしれない。


何も選ばずにいれば。


全員が失われる。


「分からない」


ヴェスパーが答えた。


室内の空気が僅かに動く。


レイラが彼を見る。


シオンも黙っている。


「誰も捨てたくない」


「それは変わらない」


ヴェスパーは帳簿を見る。


「でも」


「その言葉だけで、薬が増えるわけじゃない」


「だから、分からない」


「綺麗なことを言うと思っていた」


シオンが呟く。


「言ってほしかったのか」


「嫌いだからな」


「俺も、自分の言葉が正しいとは思っていない」


ヴェスパーは顔を上げた。


「ただ」


「誰かを捨てる判断に慣れたくない」


「毎回迷うのか」


「ああ」


「そのせいで遅れる」


「ああ」


「間に合わなくなることもある」


「ある」


「それでも?」


「迷わず決める人間だけに」


ヴェスパーの声が低くなる。


「人の命を任せたくない」


シオンの左頬の傷が。


僅かに動いた。


笑ったのか。


苦い顔をしたのか。


判別できなかった。


「少なくとも」


シオンは言う。


「自分が正義だと言い切る人間よりは、ましらしい」


ドランが机を叩く。


「話を逸らすな」


「司祭をどうする」


シオンはミレイアを見る。


「星環との接続は残っているか」


「はい」


ミレイアは正直に答えた。


「ですが、ヴェスパーの残火によって情報の流出を抑えています」


「抑えているだけか」


「はい」


「いつ戻る」


「分かりません」


「王都から命令を受けたら」


ミレイアは胸元へ手を置いた。


「抵抗します」


「できる保証は」


「ありません」


ドランが立ち上がる。


「外へ出せ」


「この街全体が見つかる」


「もう見つかっているかもしれない」


イリスが言った。


視線が集まる。


「第七星渠は、アルベリクに開けられた」


「私たちがここへ来ることも知っていた」


「この街が本当に隠れているなら」


「その時点で、場所を推測されている可能性が高い」


シオンは否定しなかった。


「だからこそ、司祭を置けない」


ドランが言う。


「殺せば接続が切れるのか」


レイラが尋ねる。


ドランの口が止まる。


「十二個の結晶が埋め込まれている」


セレスが診療所から戻り、入口に立っていた。


袖には血が付いている。


「彼女が死亡した場合」


「その瞬間の熱紋が、星環へ強く送信される可能性があります」


「では閉じ込める」


「恐怖や苦痛が増すほど、接続が不安定になる恐れがあります」


ドランが苛立った声を上げる。


「何もできないではないか!」


「できます」


セレスはミレイアを見る。


「本人の意識を安定させます」


「眠らせるのか」


「逆です」


「起きたまま」


「自分の意思を確認し続けてもらいます」


シオンが腕を組む。


「ヴェスパーの近くに置く必要がある?」


「残火の状態を見る限り、離れすぎない方が安全です」


「では同じ部屋だ」


ミレイアが顔を上げる。


「私を信用するのですか」


「していない」


シオンは即答した。


「だから、見える場所へ置く」


「拘束は?」


「望むならする」


「望まないなら?」


「しない」


ドランがシオンを見る。


「正気か」


「ここは、本人の意思を奪わないために作った街だ」


シオンの声が鋭くなる。


「都合の悪い時だけ、その決まりを捨てるのか」


「街が危険に晒される!」


「だから本人に聞く」


シオンはミレイアへ向き直った。


「監視付きの部屋へ入るか」


「拘束される部屋へ入るか」


「それとも、今すぐ街を出るか」


「自分で選べ」


ミレイアは。


三つの選択肢を聞いた。


王都で与えられてきたものとは違う。


どれを選んでも。


同じ場所へ辿り着く選択ではない。


それぞれに。


違う結果がある。


違う責任がある。


「監視付きの部屋を」


ミレイアが答えた。


「拘束なしでお願いします」


「分かった」


シオンは頷く。


「ドラン」


「俺に見張れと?」


「嫌なら別の者に頼む」


ドランはミレイアを睨んだ。


「俺がやる」


「なぜ」


「目を離したくない」


「なら感情で動くな」


「できると思うか」


「できないなら交代させる」


二人の視線がぶつかる。


やがてドランは舌打ちし。


椅子へ座り直した。


「一つだけ」


ミレイアが彼へ言った。


ドランは答えない。


「お姉様のお名前を」


「聞かせていただけますか」


部屋の空気が変わった。


「聞いて、何をする」


「覚えます」


「お前の星環に入れるためか」


「違います」


ミレイアは胸元の仮面を見る。


「私自身が」


「忘れないためです」


ドランの表情が歪む。


「今は言わない」


「はい」


「お前に聞かせたいと思った時に」


「言う」


ミレイアは頷いた。


「待ちます」


「話は終わっていない」


イリスが言った。


彼女は机の上へ。


透明な記録結晶を置いた。


ローデンが命を懸けて渡したもの。


内部に刻まれた灰色の盾が。


淡い光を放っている。


室内にいた者たちの表情が変わった。


シオンは椅子から立ち上がる。


「全員、下がれ」


「なぜ」


ヴェスパーが尋ねる。


「その結晶に追跡術式が残っていれば、ここが露見する」


「すでに持ち込まれてる」


イリスが答える。


「今さら別室へ移動しても意味はない」


「確認できるか」


「通常の端末では無理」


イリスは部屋の奥を見る。


そこには、布をかけられた大型の機械があった。


「でも」


「この街にある記録装置なら、できるかもしれない」


シオンの目が細くなる。


「あれを使う気か」


「何だ?」


レイラが尋ねる。


シオンは答えず。


機械を覆う布を外した。


旧文明時代の記録解析機。


円形の投影台。


二つの認証板。


王都の星環機器とは異なり。


赤茶けた金属で造られている。


「灰色の盾が、まだ王都の門衛隊だった頃に使っていたものだ」


シオンが言う。


「不正な熱紋登録を調べるための監査装置」


「ローデンと同じ部署?」


イリスが尋ねる。


「私たちは門を守る側」


「ローデンは、門を調べる側だった」


シオンは認証板へ金属札を置く。


灰色の盾。


だが。


片方の認証板しか光らない。


「もう一つ必要だ」


ヴェスパーは。


ローデンから受け取った透明な結晶を見た。


内部の盾。


「これか」


結晶を二つ目の認証板へ置く。


低い駆動音。


解析装置が。


十年以上の眠りから目を覚ます。


古い投影台へ。


光の文字が浮かび上がった。


『門衛認証』


『灰盾識別』


『シオン・ヴァレル』


次に。


『監察認証』


文字が乱れる。


『ローデン・ヴァイス』


シオンの指が。


僅かに震えた。


「本人の熱紋が残っている」


イリスが装置を調べる。


「記録だけじゃない」


「彼の最後の熱が、鍵になってる」


「再生できますか」


アステルが尋ねる。


「やってみる」


イリスが端末と解析機を接続する。


投影台の光が。


一度、完全に消えた。


暗闇。


そして。


椅子に座る一人の男が映し出された。


灰色の髪。


片目を覆う黒い布。


まだ第七星渠へ繋がれる前のローデン。


頬は痩せている。


だが。


先ほど会った彼より、声には力が残っていた。


『この記録を再生している者へ』


投影されたローデンが話し始める。


『最初に、一つ頼みたい』


『私を英雄として扱わないでほしい』


シオンが目を伏せる。


『私は長い間、王都の仕組みを信じていた』


『星環によって救われた命を見た』


『飢えから解放された人々』


『治療を受けられた子ども』


『争いを止めた騎士たち』


『それらは、全て事実だ』


『だから私は』


『その裏で消えた名前を、必要な犠牲だと考えた』


投影の中。


ローデンの右手が強く握られる。


『疑うのが遅すぎた』


『この記録は、私の正しさを証明するものではない』


『私が間違えた証拠だ』


誰も声を発しない。


『王都を動かしている組織は、一つではない』


空中へ。


三つの紋章が映し出された。


王都評議会。


星環教会。


そして。


黒い翼。


『評議会は、都市の安定を望む』


『星環によって、飢餓、犯罪、暴動を予測し』


『最小限の犠牲で秩序を維持しようとしている』


『教会は、人間の孤独を罪と考える』


『個人を星の輪へ戻すことを救済と信じ』


『全ての魂を接続しようとしている』


『黒い翼は』


ローデンの顔が険しくなる。


『星環を王都の外へ持ち出そうとしている』


アステルの呼吸が止まる。


『彼らが求めるのは救済でも、秩序でもない』


『星環へ繋がった者を』


『遠隔地から操作できる、小型中枢の完成だ』


「海底観測炉……」


アステルが呟く。


イリスも気付く。


「重圧因子を使って」


「複数の熱を一つの器へ押し込もうとしていた」


投影のローデンは続ける。


『三者は敵対している』


『だが』


『エリュシオン中枢は』


『その対立すら利用している』


画面に。


四つ目の紋章が現れた。


王都中央にそびえる、星脈中枢塔。


『評議会が星環を改善すれば』


『中枢は、その技術を得る』


『教会が接続者を増やせば』


『中枢は、声を得る』


『黒い翼が新たな器を作れば』


『中枢は、自らの身体を王都の外へ持つ』


「アルベリク」


ヴェスパーが言う。


『アルベリク・クロイツという人物は』


ローデンが答えるように続けた。


『二十七年前に死亡している』


『現在、監察長を名乗る存在は』


『彼の熱紋を使用した、エリュシオン中枢の代行人格だ』


『人ではない』


『だが』


ローデンは。


一度だけ言葉を止めた。


『単なる機械でもない』


『王都へ保存された何百万人もの熱紋』


『星脈中枢に刻まれた古代の命令』


『そして』


『王都を失うことを恐れた者たちの意思』


『それらが混ざり』


『一つの人格として、自らを王都だと認識している』


ノアの兎耳が伏せられる。


「だから」


「中にたくさんの声がいた」


投影のローデンが、正面を見る。


まるで。


ノアがいることを予測していたように。


『もし、集合した声の中から』


『一人ひとりを聞き分けられる者がいるなら』


ノアの身体が固まる。


『決して中枢へ近付けるな』


「僕……?」


『エリュシオンは』


『自分の中にいる声を区別できない』


『全てを王都の意思として扱っている』


『声を聞き分けられる者は』


『中枢にとって』


『欠けた記憶を整理するための、判別器となる』


ヴェスパーはノアの前へ立った。


今さら投影から隠しても意味はない。


それでも。


身体が自然に動いていた。


『そして』


投影されたローデンの目が。


今度はヴェスパーへ向いたように見えた。


『黒陽炎と残火を持つ者』


『彼は、星環へ集めた熱を』


『人格を壊さず、元の持ち主へ戻す可能性を持つ』


『判別する耳』


『返還する火』


『二つが揃えば』


『エリュシオンは、完成する』


レイラの拳が机へ置かれる。


「ヴェスパーとノアを」


「最初から狙っていたのか」


『黒陽鍵だけではない』


ローデンの周囲へ。


古い王都の記録が映し出される。


白銀の宮殿。


評議会。


星環中枢。


そして。


玉座。


玉座には、一人の男が座っている。


星を象った冠。


老いた顔。


『もう一つ』


『王都が隠している最大の偽りがある』


ミレイアの星環結晶が。


僅かに強く光った。


『現在の星王は』


画面が乱れる。


『八年前に死亡している』


誰も。


すぐには言葉を発せなかった。


「星王陛下は」


ミレイアの声が震える。


「中央聖堂で、祈りを続けていると」


『星王の肉体は、すでに存在しない』


ローデンの記録は。


彼女の信じていたものを否定する。


『だが』


『星王の熱紋は、今も玉座に接続されている』


『法令』


『任命』


『処刑』


『市民登録』


『王都の全ての命令には』


『死者の名が、王の承認として使われている』


シオンの顔から。


僅かに血の気が引く。


「王がいない?」


『王都に王はいない』


ローデンは言った。


『あるのは』


『王の名前だけだ』


その一言が。


広い部屋へ重く残る。


ミレイアは胸元の仮面を落とした。


金属が床へ当たり。


乾いた音を立てる。


「では」


「私たちが祈りを捧げていたのは」


誰も答えられない。


星王。


王都の象徴。


星環教会が、神聖なる仲介者として讃えてきた存在。


その声も。


姿も。


命令も。


全てが。


死者の熱紋を使ったものだった。


『シオン』


投影のローデンが呼ぶ。


シオンの肩が動く。


『お前が、この記録を見る可能性は低い』


『それでも、残す』


『灰色の盾は』


『王都に発見されず生き残った組織ではない』


「何を言っている」


シオンが呟く。


『許されている』


部屋の空気が凍った。


『下層へ流れた未登録者を集め』


『星環に不満を持つ者を受け入れ』


『王都内部で暴動を起こさないよう』


『人々の怒りと絶望を、地下へ留める』


『灰色の盾は』


『エリュシオンにとって』


『排水口の一つだ』


ドランが立ち上がる。


「ふざけるな!」


拳が机へ叩きつけられる。


「俺たちは!」


「何度、騎士と戦った!」


「何人死んだと思っている!」


『犠牲は本物だ』


ローデンの記録が答える。


『救った命も本物だ』


『誰かに利用されていたからといって』


『お前たちの選択まで偽物になるわけではない』


「黙れ!」


ドランが投影装置へ向かう。


レイラが腕を掴んだ。


「離せ!」


「壊したら続きを聞けない」


「俺たちが!」


ドランの目から涙が流れていた。


「姉が!」


「全部、王都の都合で!」


「違う」


シオンが言った。


ドランの動きが止まる。


「違わない!」


「王都に利用されていた」


シオンは否定しない。


「私たちが救った人間も」


「私たちが流した血も」


「都合よく使われた」


「なら!」


「それでも」


シオンは、ドランをまっすぐ見る。


「お前の姉を覚えていることまで」


「王都のものにするな」


ドランの呼吸が乱れる。


「怒りを利用されたからといって」


「怒った理由が消えるわけじゃない」


「私たちが間違っていた部分は認める」


「使われたことも認める」


「だが」


シオンは投影されたローデンを見る。


「ここで生きている人間まで」


「王都の仕組みだったことにはさせない」


ドランは。


しばらく立ったままだった。


やがて。


レイラの手を振り払い。


椅子へ崩れるように座った。


『最後の警告だ』


ローデンの声が低くなる。


『この記録が再生された時点で』


『灰色の盾の隠匿機構は、失われている可能性が高い』


シオンが顔を上げる。


『会議室の地下にある、門衛時代の監査端末を調べろ』


『灰色の盾だと思っていたものは』


『盾ではない』


『鏡だ』


投影が大きく乱れる。


『王都は』


『そこから見ている』


記録が途切れた。


同時に。


ノアの兎耳が大きく立ち上がる。


「下!」


全員が床を見る。


「何かいる!」


「生き物か」


ヴェスパーが尋ねる。


「違う!」


ノアは耳を床へ近付ける。


「ずっと」


「僕たちの声を聞いてる!」


イリスが投影装置の下へ滑り込む。


床板の継ぎ目へ鋼線を差し込んだ。


「ここ」


レイラが戦斧を持ち上げる。


「離れろ」


「待って、壊したら」


「調べる時間はない」


シオンが長槍を展開した。


穂先の側面から。


短い刃が開く。


床板の隙間へ差し込み。


力を込める。


灰色の金属板が。


鈍い音を立てて持ち上がった。


その下。


巨大な鏡が埋め込まれていた。


人の姿を映すためのものではない。


表面に無数の星脈線が走り。


中央には。


灰色の盾が描かれている。


「門衛の監査装置……」


シオンの声が震える。


イリスが鏡へ端末を近付ける。


表示された情報を見て。


表情を変えた。


「駄目」


「何だ」


「この装置」


イリスは素早く鋼線を伸ばす。


「起動したまま!」


「いつから」


「少なくとも」


端末の記録を確認する。


「十年前」


シオンが息を詰めた。


灰色の盾が生まれた頃から。


この街の会話。


人数。


配給。


出入りする者。


不満。


計画。


全てが。


王都へ送られていた。


「切る!」


イリスの鋼線が。


鏡の中心へ突き刺さる。


火花。


星脈線が乱れる。


一瞬。


光が消えた。


だが。


次の瞬間。


部屋中の灯りが。


全て青白く染まった。


外から。


住民たちの声が上がる。


赤。


黄。


橙。


不揃いだった地下街の灯りが。


一つずつ。


同じ色へ変わっていく。


同じ強さ。


同じ間隔。


王都の光。


「切れてない!」


イリスが叫ぶ。


「逆に接続が開いた!」


灰色の鏡の表面へ。


一人の男が映った。


白い礼装。


黒い手袋。


銀縁の眼鏡。


「こんばんは」


アルベリク・クロイツは。


穏やかに微笑んだ。


「灰色の盾の皆様」


シオンの長槍が、鏡へ向く。


「切断しろ!」


「やってる!」


イリスの指が端末を走る。


だが。


鏡から流れ込む星脈信号の方が圧倒的に強い。


『長い間』


アルベリクの声が。


会議室だけではなく。


地下街全体へ響き始めた。


『王都で受け入れることができなかった市民を』


『保護していただいたことへ、感謝します』


路地。


市場。


工房。


診療所。


全ての場所で。


人々が青白い灯りを見上げている。


『皆様の生活は』


『決して見捨てられていたわけではありません』


「黙れ」


シオンが言う。


『食料不足』


『医薬品不足』


『不安定な住居』


『上層からの差別』


『それらを改善する用意があります』


住民たちの間に。


ざわめきが生まれる。


『灰色の盾を』


『王都第七保護区として正式に認定します』


『全住民へ、食料と水を配給』


『病人には治療を』


『子どもには教育を』


『希望する者には、上層区での職業を与えます』


診療所の前。


熱病の子どもを抱いていた母親が。


青白い灯りを見上げる。


病に苦しむ者。


空腹の子ども。


傷を抱えた老人。


誰もが。


その言葉を聞いている。


それは。


彼らが長い間、求め続けてきたものだった。


『条件は二つだけです』


ヴェスパーの指先へ。


残火が灯る。


アルベリクは。


鏡の向こうから彼を見る。


『黒陽鍵』


『ヴェスパー』


次に。


ノアを見る。


『そして』


『星環判別器』


『ノア』


ノアの身体が強張る。


ヴェスパーは彼の前へ立った。


『二名を』


『明朝までに、地上へ引き渡してください』


レイラが戦斧を鏡へ振り下ろす。


刃が表面を捉えた。


激しい衝撃。


だが。


鏡は割れない。


代わりに。


レイラの身体が後方へ弾かれた。


「レイラ!」


アステルが重力で受け止める。


『引き渡しが確認されれば』


『灰色の盾の過去の犯罪は、全て不問とします』


『拒否した場合』


アルベリクの声から。


僅かに温度が消える。


『下層区を』


『星脈汚染区域として封鎖します』


青白い灯りが。


一度だけ強く光った。


『浄化開始まで』


『残り十一時間五十九分』


会議室の壁へ。


数字が表示される。


十一時間五十九分。


一秒ずつ。


減り始めた。


アルベリクの姿が消える。


だが。


青白い光は残った。


外から。


声が聞こえる。


「治療が受けられるのか?」


「本当に食料が?」


「王都が約束を守ると思うのか!」


「でも、子どもが死にかけてる!」


「二人を渡すだけだろ!」


「子どもだぞ!」


「こっちにも子どもがいる!」


会話。


怒鳴り声。


泣き声。


地下街の音が。


激しく揺れ始める。


「全員、広場へ集めろ」


シオンが言った。


「シオン?」


ドランが顔を上げる。


「街全体の問題だ」


「まさか、投票する気か」


レイラが立ち上がる。


「ヴェスパーとノアを差し出すかどうかを」


「多数決で決めるのか!」


シオンの槍が。


レイラの戦斧を遮った。


「違う」


「なら何だ」


「自分たちが何を選ぶのか」


シオンの声は静かだった。


「王都の声ではなく」


「一人ずつ、自分の口で言わせる」


「結果が同じなら?」


ヴェスパーが尋ねる。


シオンは彼を見る。


「同じにはならない」


「なぜ分かる」


「四千人の考えが」


「一つになるはずがないからだ」


地下街の中央広場。


古い輸送列車の駅を改造した場所へ。


住民たちが集められていた。


四千人全員ではない。


病人。


幼い子ども。


見張りを続ける者。


動けない者もいる。


それでも。


広場を埋め尽くすほどの人々が集まった。


頭上の灯りは。


全て青白い。


壇上へ。


シオンが立つ。


その横には。


ヴェスパー。


ノア。


レイラ。


イリス。


セレス。


アステル。


ミレイア。


周囲の視線が。


二人へ集中している。


ヴェスパーとノア。


二人を渡せば。


食料が来る。


薬が来る。


子どもが救われるかもしれない。


拒めば。


王都による浄化が始まる。


「聞いた通りだ」


シオンが言った。


拡声器は使っていない。


それでも。


広場は静まり返り。


彼女の声が奥まで届く。


「王都は、二人を差し出せと言っている」


ざわめき。


「渡せば、街を認めると」


「食料と治療を与えると」


「渡さなければ、浄化すると」


人々の顔に。


異なる感情が浮かぶ。


「私が決める」


シオンの言葉に。


全員が彼女を見る。


「投票はしない」


「なぜだ!」


後方から声が上がる。


「俺たちの命だぞ!」


「そうだ!」


「皆で決めるべきだ!」


シオンは声の方角を見る。


「二人を差し出すことを」


「この街の責任にする気はない」


「どういう意味だ!」


「多数が選んだと言えば」


シオンは長槍の石突きを床へ当てた。


「一人ひとりが」


「自分は選んでいないふりをできる」


広場が静かになる。


「渡すなら」


「私が命じる」


「拒むなら」


「私が命じる」


「責任は、私が持つ」


ヴェスパーがシオンを見る。


「あなた一人で決めるのか」


「ああ」


「星環と何が違う」


誰かが叫んだ。


鋭い問いだった。


シオンは否定しない。


「違わない部分もある」


ざわめきが広がる。


「人を率いる以上」


「誰かの意思を押さえる時がある」


「全員が納得するまで待てば」


「間に合わない時もある」


「なら!」


「だから私は」


シオンの声が強くなる。


「自分が正しいとは言わない!」


広場に響いた。


「正しいから従えとは言わない!」


「反対する者は、ここを出ていい!」


「王都へ向かってもいい!」


「私を倒し、別の決断をしてもいい!」


「だが」


シオンはヴェスパーとノアを見る。


「この二人は渡さない」


広場の空気が揺れた。


「なぜだ!」


「二人で街が救われるんだぞ!」


「救われない」


シオンは即答した。


「一度、名前を値段にすれば」


「次も誰かが売られる」


「病人一人と引き換えに」


「反抗した者を渡せと言われる」


「食料一月分と引き換えに」


「星環を拒んだ子どもを渡せと言われる」


「その時」


シオンは人々を見渡す。


「灰色の盾は」


「盾ではなくなる」


沈黙。


それでも。


全員が納得したわけではない。


熱病の子どもを抱く母親が。


震える声を上げた。


「でも」


「この子は」


子どもの息は浅い。


「明日まで保たないかもしれない」


シオンの顔が僅かに歪む。


「分かっている」


「分かるわけない!」


母親が叫ぶ。


「あなたの子じゃない!」


「そうだ」


「この子が死んでも」


「あなたは自分が正しかったと思えるの?」


シオンは答えられない。


正しい答えなどない。


ヴェスパーが一歩前へ出た。


「俺が行く」


レイラが腕を掴む。


「何を言ってる」


「俺が王都へ行けば」


「ノアまで渡せと言われる」


「ノアは渡さない」


「お前もだ!」


レイラの声が広場へ響く。


「分かっている」


ヴェスパーは彼女を見る。


「でも」


「薬がないなら」


「俺が行くことで、時間を作れるかもしれない」


「王都が約束を守ると?」


イリスが尋ねる。


「思わない」


「なら」


「それでも」


ヴェスパーは母親の腕の中にいる子どもを見る。


「目の前で死ぬかもしれない人を」


「仕方がないと言いたくない」


「また一人で背負うのか!」


レイラがヴェスパーの胸元を掴む。


「巡礼者門で何を学んだ!」


「私たちは守られるだけじゃない!」


「お前が勝手に行けば!」


レイラの目に怒りが滲む。


「今度は私たちが捨てられる!」


ヴェスパーの言葉が止まる。


誰かを救うために、自分を差し出す。


それは。


残される者の意思を奪うことでもある。


「ヴェスパー」


ノアが小さく呼ぶ。


「僕も」


「行くな」


「でも、僕が欲しいって」


「絶対に駄目だ」


「どうして」


「危険だからだ」


「ヴェスパーも危険だよ」


ノアは大きな兎耳を立てる。


「僕だけ守られるのは嫌だ」


「ノア」


「自分で選べって」


少年の声は震えている。


「いつも言うのに」


「危なくなると」


「僕には選ばせてくれない」


ヴェスパーは。


何も言い返せなかった。


守りたい。


危険から遠ざけたい。


だが。


それはノアを、一人の仲間ではなく。


ただ守られる子どもとして扱うことにもなる。


「私が行きます」


別の声が響いた。


ミレイアだった。


亀裂の入った仮面を。


両手で持っている。


「あなたが行っても意味はない」


シオンが言う。


「王都が求めているのは二人だ」


「分かっています」


「では」


「私が、王都へ繋がる道を開きました」


ミレイアは壇上の端へ進む。


住民たちから。


憎しみ。


恐怖。


警戒。


多くの視線を向けられる。


「私は」


声が止まりそうになる。


星環結晶が青白く光る。


自分の名前を口にすれば。


王都へ届くかもしれない。


それでも。


ミレイアは仮面を外した。


「私の名前は」


ヴェスパーが彼女を見る。


「待て」


「いいえ」


ミレイアは首を横に振る。


「今度は」


「自分で言います」


胸へ手を置く。


心臓。


十二の結晶。


星環に覆われながらも。


自分の中へ戻った熱。


「ミレイア・ノルン」


広場へ。


その名が響いた。


鐘に呼ばれ。


返事として差し出した名前ではない。


誰かに登録されるためでもない。


彼女が。


自分のものとして。


自分の口から告げた名前。


「星環教会」


「第一巡礼司祭でした」


住民たちがざわめく。


ドランが、広場の端から彼女を見ている。


「私は」


「多くの人を王都へ導きました」


「星環が救うと信じ」


「その後、何が起きたのかを知ろうとしませんでした」


「この街に」


「私を憎む方がいることも分かっています」


「許してほしいとは言いません」


声が震える。


それでも。


止めない。


「ですが」


「ヴェスパーとノアが王都へ連れていかれれば」


「星環は完成に近付きます」


「完成した星環は」


「皆さんの意思を奪わないかもしれない」


「自分を失わせないかもしれない」


「それでも」


ミレイアは。


自分の胸へ埋め込まれた結晶を見る。


「何を選ぶかを」


「誰かに決められたままになります」


「私は」


涙が頬を伝う。


「それを救いだと教えてきました」


「でも」


「今は、違うと言いたい」


青白い光が強くなる。


ミレイアは苦痛に顔を歪めた。


ヴェスパーが残火を灯そうとする。


セレスが腕を支えた。


「一人で使わないでください」


アステルも手を伸ばす。


「私たちもいます」


ノアが耳を澄ます。


「ミレイアの音」


「ちゃんとある」


レイラがミレイアの肩へ手を置く。


イリスは端末で結晶の流れを確認する。


異なる熱。


異なる方法。


一つにならず。


ミレイアを支える。


結晶の光が。


再び心臓の速さへ戻った。


「ここでは」


シオンがミレイアを見る。


「名前を言わなくても生きられる」


「はい」


「それでも言ったのか」


「はい」


「なぜ」


ミレイアは涙を拭わずに答えた。


「自分の名前を」


「初めて、自分で選んだ気がするからです」


後方から。


小さな声がした。


「渡さない」


熱病の子どもを抱いていた母親ではない。


別の少女だった。


片方の靴を履いていない。


痩せた身体。


それでも。


ヴェスパーとノアを見ている。


「その二人を」


「渡さない」


隣にいた老人が。


少女の肩へ手を置く。


「俺も反対だ」


少し離れた場所。


機械工の獣人が声を上げる。


「王都の食料なんか信用できるか!」


「でも薬は必要だ!」


別の男が言う。


「必要だ!」


「だからって子どもを渡すのか!」


「うちの子も死にかけてるんだぞ!」


「分かってる!」


「分かってない!」


声が飛び交う。


反対。


賛成。


恐怖。


怒り。


希望。


絶望。


誰一人。


同じ言葉を言っていない。


誰一人。


同じ考えではない。


それでも。


青白い灯りの下で。


人々は自分の声を上げていた。


ノアは。


その全てへ耳を傾ける。


「ばらばらだ」


「そうだな」


ヴェスパーが答える。


「でも」


ノアは僅かに笑った。


「さっきより、怖くない」


その時。


地下街の奥から。


低い金属音が響いた。


一度。


二度。


三度。


規則正しい音。


広場のざわめきが止まる。


ノアの笑みが消える。


大きな兎耳が。


地下街の入口へ向いた。


「来る」


「何人だ」


シオンが長槍を展開する。


ノアは目を閉じる。


「多い」


「五十?」


「違う」


「もっと」


地面から。


微かな振動。


同じ歩幅。


同じ呼吸。


同じ速度。


「星環騎士」


ミレイアが呟く。


青白い灯りへ。


新しい表示が浮かんだ。


『浄化部隊』


『下層第七保護区へ進入』


『到達予測』


『二十三分』


住民たちが騒ぎ始める。


「避難路を開け!」


シオンが叫んだ。


広場の声を切り裂く命令。


「歩ける者は、子どもと病人を運べ!」


「第二水路は使うな!」


「西の工房を通って、旧劇場へ向かえ!」


武装者たちが動き始める。


「ドラン!」


「いる!」


「北路地を封鎖!」


「槍隊は東!」


「銃を持つ者は上の足場へ!」


「了解!」


誰も同じ動きをしない。


それでも。


それぞれの判断で。


自分の役割へ走る。


シオンは壇上から降り。


ヴェスパーの前へ立った。


「戦えるか」


セレスが答える。


「戦わせません」


「歩ける」


ヴェスパーが言う。


「戦えるかと聞いた」


ヴェスパーは剣の柄へ手を置く。


視界はまだ僅かに霞んでいる。


残火も十分ではない。


それでも。


「一人では無理だ」


シオンが目を細める。


「そうか」


「だが」


レイラが戦斧を肩へ担ぐ。


「一人じゃない」


イリスが弾倉を確認する。


アステルの周囲へ、小さな石片が浮かぶ。


セレスは医療鞄を背負い直す。


ノアは耳の治療布を確かめる。


ミレイアは。


銀色の仮面を見た。


長い間。


自分を隠し。


教会の声を伝えてきた仮面。


彼女は。


それを床へ置いた。


「着けないのか」


ヴェスパーが尋ねる。


「はい」


ミレイアは自分の顔を隠さず。


迫り来る足音の方角を見た。


「この街を」


「自分の目で見たいので」


シオンは長槍を肩へ担ぐ。


広場の灯りは。


今も青白い。


王都に支配された光。


だが。


その下にいる人々の声までは。


一つに揃わなかった。


「灰色の盾は」


シオンが言う。


「人を隠すために作ったんじゃない」


路地の奥。


鉄門が。


激しく叩かれる。


一度。


二度。


三度。


星環騎士たちが。


同じ間隔で武器を打ちつけている。


「何から守るためだ」


レイラが尋ねる。


シオンは槍を構えた。


「誰かが」


「他人の名前に値段を付けることからだ」


鉄門の中央へ。


青白い亀裂が走った。


人々の叫び。


子どもの泣き声。


武器を構える音。


負傷者を運ぶ足音。


全てが入り交じる。


不揃いな音。


生きている音。


白銀の王都に隠されてきた灰色の盾は。


今。


初めて。


王都そのものへ向けて構えられた。

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