第3章 第9話 「巡礼者門 後編」
「さて」
「君たちは」
「どちらのローデンを信じる?」
目の前の男が、両腕を広げた。
監察官の白い外套。
星脈管に貫かれた左腕。
結晶に覆われた顔。
姿だけを見れば。
彼こそが、行方不明となったローデン・ヴァイスに見える。
だが、その口から漏れる声は一人分ではない。
男。
女。
老人。
子ども。
笑う声。
泣く声。
命乞いをする声。
無数の声が重なり合い、狭い水路を満たしていた。
『近付くな』
さらに奥から。
もう一度、掠れた声が響く。
『目の前にいるものは、星環が作った残像だ』
「残像?」
レイラが戦斧を構えたまま問い返す。
目の前のローデンが、ゆっくりと首を傾げる。
骨が鳴る音はしなかった。
代わりに。
首の内部で結晶同士が擦れ、鈴のような音を立てた。
「残像とは酷いな」
「ここには、確かにローデン・ヴァイスがいる」
男は自分の胸へ手を当てる。
「彼の記憶」
「彼の声」
「彼の痛み」
「彼が王都を守ろうとした意思」
「全てが、ここにある」
ノアが両耳を押さえる。
「でも……違う」
「何が違うのかな」
偽りのローデンが微笑む。
「君には聞こえるのだろう?」
「人の奥にある、本当の音が」
「だったら教えてくれ」
男は一歩近付いた。
水路を満たす青白い液体が、足元から這い上がる。
「本物とは、何だ?」
「身体か」
「記憶か」
「声か」
「それとも」
男の片方だけ残った瞳が、ノアを捉える。
「本人が、自分は本物だと信じていることか?」
ノアの呼吸が止まる。
木彫りの狼を握る指が震えた。
「ノアを見るな」
ヴェスパーが前へ出る。
剣の封印糸は、すでに焼き切れている。
赤い残火が刃の周囲で揺らめき。
水路の暗闇へ、複数のヴェスパーの影を映し出した。
「君も同じだ」
偽りのローデンが言う。
「何が」
「ヴェスパー」
名前を呼ばれる。
だが。
ノアの時のように、胸を引かれる感覚はなかった。
代わりに。
ヴェスパーの周囲へ現れていた幻影が、一斉に揺らぐ。
偽りのローデンの背後。
暗闇の中から、誰かが歩いてきた。
一人ではない。
十人。
二十人。
さらに多く。
灰に汚れた服。
焼け焦げた外套。
傷だらけの身体。
老人。
女。
子ども。
かつて、ヴェスパーが暮らしていた村の人々。
火に包まれた故郷で。
助けられなかった者たち。
「ヴェスパー」
少年の声がした。
剣を握る手に力が入る。
「どうして、戻ってきてくれなかったの」
「……」
「どうして、僕たちを置いていったの」
少女が泣いている。
母親が、焼けた腕で幼い子を抱いている。
老人が。
友人が。
隣人が。
ヴェスパーへ向けて、同じ問いを繰り返す。
「誰も捨てないんじゃなかったのか」
胸の奥に。
冷たい刃が入った。
過去。
炎。
悲鳴。
幼かった自分。
助けを呼ぶ声から逃げるように、走り続けた夜。
「違う!」
レイラの叫びが響く。
戦斧が水路の床を叩いた。
衝撃が走り。
村人たちの姿が、水面の波紋のように歪む。
「そいつらは偽物だ!」
「姿はな」
偽りのローデンが答える。
「だが、言葉は本物かもしれない」
ヴェスパーの指が震えた。
「君自身が」
「ずっと、自分に問い続けてきた言葉だ」
「黙れ!」
レイラが踏み込む。
戦斧を横薙ぎに振るう。
刃が偽りのローデンの胴体を捉えた。
重い一撃。
結晶が砕け。
白い外套が裂ける。
身体が水路の壁へ叩きつけられた。
しかし。
血は流れなかった。
砕けた胴体から溢れたのは。
青白い液体と。
名前が刻まれた、小さな結晶片だった。
床へ落ちた結晶片が。
一つずつ、人の声を漏らす。
『寒い』
『帰りたい』
『私の名前は――』
『娘を探している』
『どうして忘れた』
セレスが顔を強張らせる。
「人の熱紋で身体を作っている……?」
「違う」
イリスは銃口を向けながら、素早く周囲を見渡す。
壁。
床。
流れる液体。
偽りのローデンの腕へ繋がる星脈管。
「身体じゃない」
「水路全体が本体だ」
偽りのローデンの胴体が。
ゆっくりと元へ戻る。
流れ出た液体が傷口へ吸い込まれ。
砕けた結晶が再び組み合わさっていく。
「正解だ」
無数の声が笑った。
「ここへ捨てられた熱紋は」
「消えていない」
「消えることができない」
「王都に不要とされた後も」
「自分の名前を」
「自分の記憶を」
「自分が存在した意味を」
「探し続けている」
偽りのローデンの顔から。
青白い結晶が枝のように伸びる。
背中。
肩。
腕。
足。
人の形が崩れ。
無数の結晶を纏った異形へ変わっていく。
「だから」
「器を与えた」
「声を与えた」
「役割を与えた」
ミレイアが息を呑む。
「星環が……?」
「王都は、何も無駄にしない」
その言葉。
アルベリクと同じ。
「違う」
ヴェスパーが呟く。
目の前に並ぶ故郷の人々を見たまま。
剣先を下げている。
「ヴェスパー?」
アステルが不安そうに呼ぶ。
「これは星環じゃない」
偽りのローデンが微笑む。
「なぜ、そう思う」
「星環は命令する」
「一つの正しさへ揃えようとする」
ヴェスパーは顔を上げる。
「だが、お前の中にある声は」
「誰も同じ方向を向いていない」
泣く者。
怒る者。
家族を求める者。
死を受け入れられない者。
何も思い出せず、ただ名前だけを繰り返す者。
「お前は星環の意思じゃない」
「捨てられた声に形を与えて」
「ローデンの記憶を被せられたものだ」
偽りのローデンの笑みが止まった。
奥から。
本物のローデンの声が響く。
『そいつは廃棄熱紋集合体』
『我々は、“残響体”と呼んでいた』
「我々?」
イリスが通路の奥へ問いかける。
『王都監査局だ』
『失踪者の数を調査するうちに、存在を突き止めた』
『星環は、登録者の熱紋を完全には消去できない』
『記憶を削除しても、感情の残滓が残る』
『だから第七星渠へ流し、星脈の外へ廃棄していた』
アステルが流れる液体を見る。
「でも、外へは流れていない」
『封鎖されたからだ』
「なぜ」
本物のローデンは。
一瞬だけ沈黙した。
『残響体が生まれたからだ』
目の前の異形が笑う。
「生まれた」
「いい言葉だ」
「我々は捨てられた」
「忘れられた」
「死んだことにされた」
「だが」
結晶に覆われた両腕が広がる。
「ここにいる」
水路全体が震える。
壁の管を流れていた無数の結晶が、一斉に光を放った。
ノアが苦痛に顔を歪める。
「来る!」
床の液体から。
人の腕が伸びた。
白い腕。
獣毛に覆われた腕。
鱗を持つ腕。
骨のように細い腕。
数え切れない手が、足首を掴もうとする。
「上がれ!」
レイラが戦斧を床へ振り下ろす。
衝撃で腕の群れが砕ける。
だが。
すぐに水の中から新しい手が伸びてきた。
「きりがない!」
「水から離れて!」
セレスがノアを抱き上げ、壁際の高い配管へ移動する。
アステルが両手を広げた。
「全員、足を上げてください!」
重力が反転する。
ヴェスパーたちの身体が僅かに浮かび。
足元の水が、逆に床へ強く押し付けられた。
伸びていた腕が潰れ。
青白い液体へ戻る。
「長くは保ちません!」
アステルの額に汗が浮かぶ。
「本体を探す!」
イリスが鋼線を射出した。
壁に並ぶ星脈管へ巻き付き。
端末へ情報を流し込む。
無数の熱紋反応。
人の記憶。
古い識別番号。
消去命令。
星環中枢からの制御信号。
流れ込む情報量が多すぎる。
イリスは奥歯を噛み。
必要なものだけを探す。
「ローデンの熱紋を核にしてる!」
「どっちのローデンだ!」
レイラが叫ぶ。
「目の前の偽物!」
「正確には、盗まれた記録!」
イリスは端末を操作する。
通路の構造図が浮かぶ。
残響体の身体から伸びる星脈管。
その一本が。
水路のさらに奥へ繋がっている。
「待って」
イリスの手が止まった。
「何だ」
「こいつ」
「本物のローデンにも繋がってる」
全員が通路の奥を見る。
『切れ』
本物のローデンが言った。
『そいつと私を繋ぐ管を切断しろ』
「切ったら、あなたはどうなる」
セレスが尋ねる。
『死ぬかもしれない』
「かもしれない?」
『すでに私の生命維持の一部を、星渠へ依存している』
「なら切れない」
ヴェスパーが答えた。
『切らなければ、残響体は私の記憶を使い続ける』
「別の方法を探す」
『時間がない』
残響体の身体が膨れ上がる。
ローデンの姿は、もう残っていない。
無数の顔。
無数の腕。
人の形を組み合わせた巨大な塊。
その中心に。
監察官の紋章が埋め込まれている。
「私はローデン・ヴァイス」
「私は王都を守った」
「私は王都を疑った」
「私は真実を求めた」
「私は逃げた」
「私は裏切った」
相反する言葉が、同時に響く。
「全部、彼の記憶にある」
「全部、彼が思ったことだ」
「なら」
「我々もローデンだ」
ノアが首を横に振る。
「違う」
「なぜ!」
残響体が咆哮する。
水路の壁が揺れた。
「なぜ我々は違う!」
怒り。
悲しみ。
恐怖。
何百人分もの感情が、一斉に押し寄せる。
「記憶がある!」
「声がある!」
「痛みもある!」
「それでも!」
「なぜ我々には、名前がない!」
ノアは怯えながら。
それでも残響体を見た。
「名前がないんじゃない」
「何だと」
「多すぎるんだ」
大きな兎耳が。
一つ一つの声を聞き分けようと動く。
「あなたの中には」
「ローデンだけじゃない」
「女の人がいる」
「子どもも」
「獣人も」
「名前を忘れた人も」
「全部を一つにして」
「ローデンって呼んでる」
残響体が震える。
「私には名前が必要だ」
「うん」
「名前がなければ」
「私は存在できない」
「違うよ」
ノアは木彫りの狼を胸元で握る。
「名前が分からなくても」
「聞こえる」
「ここにいるって」
「ちゃんと聞こえる」
残響体の動きが。
ほんの一瞬だけ止まった。
無数の顔が。
同時にノアを見る。
「聞こえる……?」
「うん」
「我々を」
「うん」
「一人ずつ?」
ノアの表情が苦痛に歪む。
声が多すぎる。
耳の奥から血が一筋流れた。
それでも。
ノアは耳を塞がなかった。
「一人ずつ」
「全部は、まだ無理だけど」
「でも」
「あなたたちは、一人じゃない」
アルベリクが使った言葉。
星環教会が繰り返す言葉。
だが。
ノアの言葉は違った。
一つになるから、独りではないのではない。
違う声を持ったまま。
誰かに聞いてもらえるから。
独りではない。
残響体の表面を覆う顔が。
苦しそうに歪む。
「聞いて」
「聞いてくれ」
「私の名は――」
「私は――」
「娘が――」
「家に――」
無数の声が、同時に話し始める。
ノアが膝をつく。
「多い……!」
セレスが駆け寄る。
「耳を塞いでください!」
「でも!」
「命を失ったら、誰の声も聞けません!」
ノアは唇を噛み。
両耳を押さえた。
その瞬間。
残響体の声が怒りへ変わる。
「また聞かない!」
「また我々を捨てる!」
「違う!」
「王都と同じだ!」
巨大な腕が振り下ろされる。
レイラが前へ出た。
戦斧の柄で受け止める。
衝撃が走り。
足元の金属床が大きくへこんだ。
「勝手なこと言うな!」
レイラの腕が震える。
「聞く側にも限界がある!」
「限界を決めるな!」
「なら、お前たちも一度に喋るな!」
レイラが咆哮した。
「聞いてほしいなら!」
「相手を潰すんじゃねえ!」
戦斧を押し返す。
結晶の腕が弾かれる。
残響体が後退した。
その胸元。
監察官の紋章の奥で。
赤黒い結晶が一瞬だけ露出する。
イリスが見逃さなかった。
「中心に制御核!」
「ローデンの熱紋じゃない!」
「別の命令が埋め込まれてる!」
ヴェスパーが駆ける。
残響体の足元。
水面に映った姿が揺れ。
一人が三人へ。
三人が七人へ増える。
蜃気楼。
複数のヴェスパーが。
異なる方向から残響体へ迫る。
無数の腕が振り回される。
一体が砕ける。
幻影。
二体目が貫かれる。
幻影。
三体目が掴まれる。
空気へ消える。
本物のヴェスパーは。
残響体の背後へ回り込んでいた。
「そこだ!」
イリスの鋼線が監察官の紋章へ突き刺さる。
金属板が剥がれ。
赤黒い結晶が露出する。
その表面には。
星環教会の紋章でも。
王都評議会の紋章でもない。
黒い翼。
アステルの瞳が見開かれる。
「オルディス……!」
結晶から。
聞き覚えのある声が流れた。
『残響体適合率、七十二パーセント』
『複数熱紋による人格形成を確認』
『統合意識の自発的発生には、中心となる鍵が必要』
『ローデン・ヴァイスの記録を採用』
冷静な男の声。
オルディス。
残響体は。
自然に生まれただけではない。
黒い翼の実験によって。
ローデンの記憶を中心へ埋め込まれ。
一つの人格として形を与えられた。
「我々は……」
残響体の声が揺れる。
「作られた?」
「生まれたのではなく?」
『感情残滓は、適切な器がなければ雑音に過ぎない』
記録されたオルディスの声が続く。
『目的を与えることで』
『初めて存在として成立する』
残響体の表面で。
無数の顔が苦しみ始めた。
「違う」
「違う」
「私はローデンだ」
「私は監察官だ」
「王都の真実を」
「私は」
「私は誰だ」
ヴェスパーは剣を構える。
赤黒い制御核。
破壊すれば。
残響体は止まる。
だが。
その内部には。
捨てられた人々の熱紋が集められている。
「斬れ!」
奥から本物のローデンが叫ぶ。
『核を破壊しろ!』
「中の熱紋はどうなる」
『分からない!』
「消えるのか」
『分からないと言っている!』
残響体の腕が。
再びヴェスパーへ振り下ろされる。
レイラが横から戦斧を叩き込み、軌道を逸らす。
「迷うのは後だ!」
「今斬らなきゃ、全員潰される!」
ヴェスパーの剣先が。
制御核へ向く。
一人を救うために。
十人が死ぬ。
全員を救おうとして。
全員を危険に晒す。
アルベリクの言葉が蘇る。
残響体を止めるには。
核を破壊するのが最も早い。
その中にいる声を。
もう一度、捨てることになるとしても。
「ヴェスパー!」
レイラが叫ぶ。
戦斧が。
結晶の腕に押し返されている。
アステルの重力も限界へ近付いている。
ノアは耳から血を流し。
セレスに支えられている。
ミレイアの身体では。
王都との接続が再び明滅を始めている。
時間はない。
正しい答えもない。
それでも。
「イリス!」
ヴェスパーが叫んだ。
「核だけを外せるか!」
「何?」
「壊さずに!」
イリスは制御核を見る。
無数の星脈管。
周囲の熱紋結晶と複雑に絡み合っている。
「無理!」
「普通ならね!」
袖口から鋼線を全て放つ。
細い線が。
残響体の身体へ何本も突き刺さる。
「三十秒!」
「それ以上は保たない!」
「十分だ!」
ヴェスパーは剣を逆手に持ち替えた。
炎で焼くのではない。
斬るのでもない。
制御核へ。
残火を触れさせる。
その瞬間。
無数の記憶が流れ込んだ。
名前を奪われた人々。
王都へ救いを求めた者。
犯罪者として追放された者。
星環の判断に疑問を持った者。
病によって役割を果たせなくなった者。
誰かを守るために規則を破った者。
教会から逃げた者。
評議会へ逆らった者。
死後も。
意思だけを王都へ利用され続け。
不要な記憶だけを、ここへ流された者たち。
「聞こえる」
ヴェスパーが呟く。
ノアほど細かくは分からない。
一人ずつの声も。
名前も。
記憶も。
全ては見えない。
それでも。
熱はある。
誰かが存在した痕跡。
「お前たちは」
残火が核の周囲へ広がる。
「ローデンじゃない」
残響体が叫ぶ。
「なら、誰だ!」
「今は分からない」
「名前がない!」
「ああ」
「なら存在できない!」
「違う」
ヴェスパーは制御核へ手を伸ばした。
「名前がなくても」
「ここにいたことは消えない」
残火が。
赤黒い結晶へ染み込む。
制御核へ刻まれていたオルディスの命令が浮かび上がる。
『一つになれ』
『中心人格へ統合せよ』
『個別熱紋を抑制』
『目的を共有せよ』
その全てを。
ヴェスパーの残火が包む。
焼き消すのではない。
熱紋の奥へ入り込んだ命令だけを。
本人たちの外へ押し戻す。
「返す」
誰に向けた言葉か。
ヴェスパー自身にも分からない。
「お前たちの熱を」
「お前たちの中へ」
残響体の身体が大きく震えた。
「やめろ」
「一つでなければ」
「私は崩れる」
「一人ではないと」
「証明できなくなる」
「一つにならなくていい」
ヴェスパーが叫ぶ。
「違うままでいろ!」
赤黒い制御核に。
亀裂が走る。
だが。
砕けたのは核ではなかった。
表面へ刻まれていた黒い翼の紋章。
中心人格を固定していた術式だけが。
赤い光の中で剥がれ落ちる。
「今!」
イリスが鋼線を引く。
制御核が。
残響体の胸から抜けた。
ヴェスパーはそれを両手で受け止める。
重い。
結晶ではなく。
何百人分もの痛みを持っているようだった。
残響体の身体が崩れ始める。
無数の腕が液体へ戻り。
顔が。
結晶が。
一つずつ分かれていく。
「私は」
一人の女の声。
「帰りたい」
子どもの声。
「名前を思い出せない」
老人の声。
「娘へ伝えて」
獣人の男の声。
「まだ死にたくなかった」
それぞれの声が。
重ならず。
一つずつ響く。
ノアはセレスの腕の中で顔を上げた。
痛みを堪えながら。
大きな兎耳を立てる。
「聞こえてる」
一つの声へ。
一つずつ答える。
「聞こえてるよ」
名前を知らない者へ。
「ここにいたんだね」
帰れない者へ。
「忘れない」
最後に。
ローデンの姿をしていた顔が。
水面の上に残った。
表情は穏やかだった。
「私は」
「ローデンではなかった」
「うん」
ノアが答える。
「では」
「私は誰だった?」
ノアはすぐに答えなかった。
分からないものを。
分かったふりはしない。
「分からない」
「そうか」
「でも」
ノアは涙を拭う。
「あなたの声も、聞いた」
その顔は。
僅かに笑った。
「それで」
「いいのかもしれない」
顔が液体へ溶ける。
残響体は完全に崩れ。
第七星渠へ、青白い流れとなって戻っていった。
壁の中を流れていた結晶が。
一つずつ。
違う間隔で光り始める。
揃っていない。
同じ速さでもない。
それぞれの熱。
それぞれの声。
水路に。
静けさが戻った。
「ヴェスパー!」
セレスが駆け寄る。
ヴェスパーは制御核を抱えたまま、片膝をついた。
鼻だけではない。
右耳からも血が流れている。
「手を離してください」
「まだ」
「もう終わりました」
「この中に」
「分かっています」
セレスは静かに。
だが強く言った。
「だからこそ」
「あなたが壊れてはいけません」
ヴェスパーの指から力が抜ける。
制御核を。
アステルが重力で支えた。
床へ落とさず。
青白い水にも触れさせない。
イリスが厚い遮断布を取り出し、核を包む。
「黒い翼の術式は消えてる」
「熱紋反応は残ってる」
「持っていけるか?」
レイラが尋ねる。
「分からない」
「でも、ここへ置けば」
イリスは流れる液体を見る。
「また王都か黒い翼に利用される」
「持っていく」
ヴェスパーが言う。
「あなたは喋らないでください」
セレスがヴェスパーの頭へ治療布を巻く。
「今は休んで」
「ローデンが奥にいる」
「歩けますか」
「ああ」
「質問を変えます」
セレスが彼の瞳を覗き込む。
「まっすぐ見えていますか」
ヴェスパーは目の前に立つレイラを見る。
「レイラが二人いる」
「どっちが本物だ?」
二人に見えている片方が。
ヴェスパーの頭を軽く叩いた。
「馬鹿言ってないで肩を貸せ」
「治療中の患者を叩かないでください!」
「軽くだ」
「駄目です」
「歩けると言ってる」
「お前の歩けるは信用できない」
レイラはヴェスパーの腕を肩へ回した。
「行くぞ」
「重いと言うな」
「お前が言わせたんだろ」
緊張が。
ほんの少しだけ解けた。
ノアはセレスに耳を治療されながら。
水路を振り返る。
「みんな、まだいる」
「怖い声ですか」
ミレイアが尋ねる。
「ううん」
ノアは首を横に振った。
「バラバラになった」
「そうですか」
「もう一つの声にされてない」
ミレイアは、自分の胸へ触れた。
十二の結晶。
今も星環へ繋がっている。
だが。
残火によって。
彼女自身の鼓動へ戻されている。
「バラバラであることは」
彼女は呟く。
「恐ろしいと思っていました」
「今も?」
ノアが尋ねる。
ミレイアは少し考える。
「少し」
正直に答えた。
「ですが」
「安心もしています」
「どうして?」
「自分の不安が」
「本当に自分のものだと分かるからです」
ノアは小さく笑った。
「変なの」
「はい」
ミレイアも。
亀裂の入った仮面の奥で、僅かに笑った。
通路の奥。
赤い非常灯を頼りに、一行は進んだ。
壁へ刺さる星脈管は増えている。
水路を流れる青白い液体も、次第に深くなっていた。
やがて。
巨大な円形扉が現れた。
監察局の紋章。
その中央に。
人間の手の形をした認証装置がある。
扉の下から。
何本もの管が内部へ伸びていた。
『そこだ』
ローデンの声。
先ほどより近い。
「扉を開ける」
ミレイアが認証装置へ手を伸ばす。
『触れるな!』
ローデンが叫んだ。
彼女の手が止まる。
『星環登録者が触れれば、中枢へ位置を送信する』
「でも、あなたは中にいる」
イリスが扉を調べる。
「どうやって入ったの?」
『私は監察官権限を使った』
『今は失効している』
「別の入口は」
『ない』
レイラが戦斧を持ち上げる。
「なら壊す」
「待って」
イリスが扉の継ぎ目へ鋼線を差し込む。
「旧文明の機械なら、物理的な解錠機構があるはず」
「どれくらいかかる」
「静かにやれば十分」
「急げば?」
「警報が鳴る」
「もう鳴りっぱなしだろ」
「地上ではね」
イリスは耳を扉へ近付ける。
「ここはまだ気付かれてない」
ヴェスパーがミレイアを見る。
彼女の結晶は。
弱いが、再び同じ間隔で光り始めている。
「接続が戻ってる」
「残火が弱まっているのだと思います」
「もう一度」
ヴェスパーが手を伸ばす。
セレスが腕を掴んだ。
「駄目です」
「でも」
「今使えば、次に何か起きた時に立てなくなります」
「位置が漏れる」
「もう漏れているかもしれません」
「なら急ぐしかない」
「急いで死ぬつもりですか」
二人の視線がぶつかる。
セレスは譲らない。
「ヴェスパーさん」
「自分を捨てないと約束しましたね」
ガルムの言葉。
仲間を連れて。
自分も捨てずに戻れ。
「……分かった」
ヴェスパーは手を下ろした。
代わりに。
ミレイアが自分の胸元を強く握る。
「私が抑えます」
「どうやって」
「教会で教えられた方法があります」
「痛みを使う方法ではないだろうな」
レイラが問う。
ミレイアは答えない。
「却下だ」
「ですが」
「自分を傷つけて星環の声を消すのは」
レイラが戦斧を肩へ担ぐ。
「自分で選ぶって言わねえ」
ミレイアが息を詰める。
「では、どうすれば」
「喋れ」
「え?」
「星環に持っていかれそうになったら」
レイラはミレイアを見る。
「何でもいい」
「自分のことを喋り続けろ」
「好きな食い物」
「嫌いな奴」
「やりたいこと」
「何でもだ」
「それに、どんな意味が」
ノアが答えた。
「自分の音を大きくするんだよ」
ミレイアは戸惑っている。
「好きな食べ物を」
「言ってください」
セレスも頷く。
「今?」
「今です」
ミレイアはしばらく考えた。
「……林檎です」
「王都に林檎あるのか?」
レイラが尋ねる。
「上層庭園で栽培されています」
「食べたことは?」
「幼い頃に一度だけ」
「好きな理由は」
「甘かったからです」
「他には」
「他?」
「好きなもの」
ミレイアは困ったように周囲を見る。
そんなことを聞かれた経験が、ほとんどないのだろう。
「朝の鐘が鳴る前の時間」
「なぜですか」
アステルが尋ねる。
「星環が最も静かだからです」
「嫌いなものは?」
イリスが解錠作業を続けながら聞く。
「大きな鐘」
「仮面」
「白い部屋」
ミレイアの声が。
少しずつ強くなる。
結晶の明滅が。
星環の間隔からずれ始める。
「やりたいこと」
ヴェスパーが尋ねる。
ミレイアは答えに詰まった。
「ないのか」
「考えたことがありません」
「今考えろ」
レイラが言う。
「今?」
「難しいことじゃなくていい」
ミレイアは。
長い間、沈黙した。
やがて。
亀裂の入った仮面へ触れる。
「仮面を」
声が小さくなる。
「着けずに」
それでも。
言葉を止めなかった。
「街を歩いてみたい」
星環結晶の光が。
彼女の心臓と同じ速さになった。
扉の前に。
短い沈黙が訪れる。
「いいじゃねえか」
レイラが笑った。
「王都を出たら、灰都で歩け」
「灰都を?」
「仮面を着けてる奴の方が珍しい」
「皆さんに見られませんか」
「見るだろうな」
「では」
「でも、見て終わりだ」
レイラは肩をすくめる。
「灰都は他人に構ってる暇がない」
ミレイアの口元が。
仮面の下で、僅かに緩んだ。
その時。
扉の内部で。
金属が外れる音がした。
「開くよ」
イリスが鋼線を引き抜く。
円形扉が。
ゆっくりと回転を始める。
冷たい空気。
薬品。
血。
焼けた金属。
複数の匂いが流れ出した。
扉の向こうは。
広い監査室だった。
壁一面に古い記録装置が並び。
中央には、一脚の椅子がある。
椅子へ。
一人の男が拘束されていた。
ローデン・ヴァイス。
痩せた身体。
伸びた灰色の髪。
右目は黒い布で覆われている。
左腕は肘から先がなく。
背中。
胸。
首。
残された右腕。
身体のあらゆる場所へ星脈管が刺さっていた。
目の前に現れた偽物と違い。
顔に結晶はない。
だが。
肌は死人のように白く。
胸の動きも弱い。
「ローデン監察官……」
ミレイアが近付こうとする。
「止まれ」
ローデンが言った。
掠れた声。
だが。
今度は一人分だった。
「その線より先へ来るな」
床には。
椅子を囲むように、赤い線が引かれている。
「罠ですか」
イリスが尋ねる。
「私が罠だ」
ローデンは自分の身体へ刺さった管を見る。
「第七星渠の制御機能を」
「私の熱紋へ接続している」
「私の心臓が止まれば」
「この区画に保存されている記録は全て消去される」
「なぜ、そんなことを」
セレスが顔を強張らせる。
「証拠を守るためだ」
ローデンは笑った。
笑う力すら残っていない。
乾いた息が漏れるだけだった。
「評議会は」
「私を殺せない」
「私を救うこともできない」
「残響体を使って、記憶だけを抜き取ろうとしていた」
「オルディスが作ったものか」
ヴェスパーが尋ねる。
ローデンの左目が。
鋭くヴェスパーを見る。
「奴を知っているのか」
「ああ」
「海底観測炉で会った」
「そうか」
ローデンは。
どこか諦めたように息を吐く。
「なら、もう遅い」
「何が」
「王都の計画は」
ローデンの視線が。
ヴェスパーの胸元へ向く。
「君がここへ来た時点で」
「最終段階へ入った」
アステルが不安そうにヴェスパーを見る。
「黒陽鍵とは何ですか」
ローデンが答える前に。
監査室の全ての記録装置が、一斉に起動した。
白い画面。
青白い文字。
そして。
画面の中央へ。
アルベリクの顔が映る。
『無事に到着されたようですね』
レイラが戦斧を構える。
「覗き見ばかりだな!」
『監察官ですので』
アルベリクは穏やかに答えた。
『王都の異常を見逃すわけにはいきません』
ローデンが画面を睨む。
「お前は監察官ではない」
『現在は、私がその役割を担っています』
「役割を奪っただけだ」
『役割は、果たせる者が持つべきです』
「ヴェスパー」
ローデンが叫ぶ。
「画面を消せ!」
イリスが記録装置へ鋼線を伸ばす。
だが。
接続する直前。
アルベリクが口を開いた。
『ローデン』
たった一言。
真名を呼ぶ声。
ローデンの身体が大きく跳ねた。
刺さっていた星脈管が。
一斉に青白く光る。
「ぐっ……!」
「ローデン!」
セレスが赤い線へ近付く。
「来るな!」
ローデンは歯を食いしばる。
『長い間、ご苦労さまでした』
アルベリクの背後で。
無数の声が重なる。
『あなたの調査』
『あなたの疑念』
『あなたの反抗』
『全ては、王都の判断を強くするために役立ちました』
「何を……した」
『第七星渠へ集められた熱紋』
『黒い翼による残響体実験』
『残火による統合解除』
『全ての結果を確認しました』
ヴェスパーの顔から血の気が引く。
アルベリクは。
残響体を倒させるために。
彼らをここへ導いたのではない。
残火が。
複数の熱紋へ、どのように作用するのか。
それを調べるために。
残響体を使った。
「最初から」
ヴェスパーの声が低くなる。
「俺に、あれを解かせるつもりだったのか」
『いいえ』
アルベリクは微笑む。
『破壊する可能性も考えていました』
『その場合は、あなたが選別を受け入れる人物だと判断できた』
『救おうとした場合は』
彼の瞳に。
青白い輪が浮かぶ。
『残火が、星環を完成させる鍵となる』
「完成……?」
ミレイアが呟く。
ローデンが。
苦しみながら叫んだ。
「星環は」
「人の意思を一つにする装置じゃない!」
「本来は」
「大災厄の時に!」
「人々の熱を一時的に繋ぎ!」
「命を守るための避難機構だった!」
アルベリクの笑みが消える。
ローデンは続ける。
「だが!」
「繋いだ熱を!」
「元の持ち主へ完全に戻せなかった!」
「記憶が混ざり!」
「人格が失われた!」
「だから古代人は!」
「星環を封じた!」
アステルが目を見開く。
「戻せなかった……?」
ヴェスパーの残火。
他者の熱へ触れ。
混ぜることなく。
本人の中へ戻す力。
『そうです』
アルベリクが答える。
『星環に不足していたもの』
『それが残火です』
ヴェスパーの胸の奥で。
黒い熱が脈打つ。
『黒陽炎は熱を集める』
『残火は熱を持ち主へ返す』
『二つが揃えば』
『星環は、何人の意思を接続しても』
『人格を失わせることなく、再び分離できる』
アルベリクの背後。
王都の星脈中枢塔が映し出される。
無数の光輪。
何十万もの市民。
生者。
死者。
消された者。
全ての熱紋が集う巨大な器。
『誰も自分を失わず』
『誰も孤独にならず』
『全ての感情を共有し』
『必要な時だけ、一つの意思となる』
アルベリクは両手を広げた。
『完全な星環です』
一瞬。
誰も言葉を発しなかった。
あまりにも。
美しい理想だった。
個人を奪わず。
孤独だけを消す。
痛みを共有し。
それでも自分へ戻れる。
ヴェスパーが求めている。
誰も捨てない世界にすら。
近いように見えた。
「それなら」
アステルが小さく呟く。
「救える人が……」
「駄目だ!」
ローデンが叫ぶ。
その声は。
残された力の全てを使っていた。
「接続する時に!」
「誰が中心を決める!」
「何を共有し!」
「何を隠す!」
「いつ一つになり!」
「いつ戻る!」
「その判断を!」
「誰が下す!」
全員が画面を見る。
アルベリクは答えない。
ローデンが。
荒い息のまま続ける。
「星環は道具だ!」
「意思は持たない!」
「だが今は!」
「王都の存続を最優先する命令が!」
「中心へ残っている!」
「完全な星環が生まれれば!」
「人は自分を失わないまま!」
「自分の意思で従っていると信じさせられる!」
静かな支配。
命令されていることにも。
選択を奪われていることにも気付かない。
自分自身のまま。
王都の正しさを選び続ける。
それは。
今の星環よりも遥かに完成された檻だった。
『ローデン』
アルベリクが呼ぶ。
『あなたは、最後まで悲観的ですね』
「お前は」
ローデンが血を吐く。
「誰だ」
『アルベリク・クロイツです』
「嘘をつけ」
ローデンの左目が。
青白く光る画面を睨む。
「アルベリク・クロイツは!」
「二十七年前に死んだ!」
ミレイアが息を呑んだ。
画面の男は。
変わらず微笑んでいる。
「彼の熱紋は」
ローデンが言う。
「王都創設記録の中にある!」
「死亡確認も!」
「遺体の記録も!」
「全て残っている!」
「今そこにいるお前は!」
「彼の顔と声を使っているだけだ!」
ノアが両耳を押さえる。
アルベリクの中から。
また無数の声が聞こえている。
その最も深い場所。
人ではない音。
巨大な機械。
地面を流れる星脈。
王都そのものの鼓動。
「この人」
ノアが震えながら言った。
「人じゃない」
アルベリクの笑みが。
ゆっくりと薄れる。
『人である必要がありますか』
声が変わった。
男の声ではない。
女。
老人。
子ども。
騎士。
司祭。
市民。
死者。
無数の声が。
完全に同じ言葉を発する。
『王都を守ることができるなら』
監査室の壁が震える。
星脈管から青白い光が溢れ出す。
『私は王都の意思』
『王都の記憶』
『王都が失った者たちの集合』
『空席を埋める監察官』
『アルベリク・クロイツ』
『そして』
全ての画面に。
巨大な青白い目が映る。
『エリュシオン』
王都そのものが。
彼の名を名乗った。
警報が鳴った。
地上のものではない。
監査室の奥。
王都の地下全体から響く。
『黒陽鍵の到達を確認』
『中枢接続経路を開放』
ローデンの身体へ刺さった管が。
一斉にヴェスパーへ向きを変える。
「逃げろ!」
ローデンが叫んだ。
床が開く。
青白い光が噴き上がる。
ヴェスパーの胸が。
強く引かれた。
「ヴェスパー!」
レイラが腕を掴む。
だが。
光は彼女ごと引きずっていく。
アステルが重力を反転させる。
「止まりません!」
イリスが鋼線を壁へ打ち込む。
「全員、掴まって!」
セレスがノアを抱き。
ミレイアが彼女たちへ腕を伸ばす。
全員が一つの鋼線へ繋がる。
「ヴェスパー!」
ローデンが叫ぶ。
「これを持っていけ!」
残された右手を。
自分の胸へ突き立てる。
「何を――」
ローデンは。
心臓の横に埋め込まれていた、小さな記録結晶を引き抜いた。
血が溢れる。
同時に。
監査室の記録装置が一斉に消える。
「ローデン!」
セレスが叫ぶ。
「来るな!」
彼は結晶を投げた。
ヴェスパーが片手で受け取る。
透明な結晶。
内部に、灰色の盾が刻まれている。
「下層区へ行け!」
「南水路!」
「灰色の盾!」
ハルトの協力者。
同じ合図。
「その記録を!」
ローデンの身体から。
急速に熱が失われていく。
「王都の外へ!」
「生きて持ち出せ!」
「あなたも来い!」
ヴェスパーが手を伸ばす。
「無理だ」
「諦めるな!」
「違う!」
ローデンは。
初めて穏やかに笑った。
「これは」
「私が選んだ」
背中の管を握り。
自ら引き抜く。
「私の命を使って」
「扉を閉じる」
「誰にも決められていない」
「王都にも」
「評議会にも」
「星環にも」
胸から。
大量の血が流れた。
「私が選んだ!」
ローデンは最後の力で。
監査官の認証装置へ手を置いた。
『第一監察官権限』
『第七星渠』
『緊急分離』
星環の声が響く。
『拒否します』
「拒否権限を」
ローデンは笑った。
「二十七年前に死んだ人間へ与えるな」
右手を。
認証装置へ叩きつける。
『手動分離を実行』
激しい衝撃。
星脈管が次々に破裂する。
青白い光が。
王都へ繋がる道から切り離される。
ヴェスパーたちを引いていた力が弱まった。
「今だ!」
ローデンが叫ぶ。
イリスが鋼線を巻き取る。
全員の身体が。
床の裂け目から引き戻される。
監査室の奥。
小さな通路が開く。
水路の排出口。
下層区へ繋がる道。
「走れ!」
レイラがヴェスパーを押す。
セレスとノア。
アステル。
イリス。
ミレイア。
一人ずつ、通路へ飛び込む。
ヴェスパーだけが。
監査室を振り返った。
椅子へ座ったローデン。
身体から全ての管が外れ。
一人の人間として。
血に濡れながら座っている。
「ローデン!」
「行け」
「まだ」
「ヴェスパー」
ローデンは。
真っ直ぐに彼を見た。
「全てを救えなくても」
「選ぼうとすることをやめるな」
「だが」
「選んだ者の覚悟を」
「奪うな」
ヴェスパーの足が止まる。
助けたい。
連れていきたい。
まだ何かできるかもしれない。
それでも。
ローデンは。
自分の意思で残ることを選んでいる。
ガルムが灰都へ残った時と同じように。
守ることと。
相手の選択を奪うことは違う。
「……分かった」
ヴェスパーは歯を食いしばる。
「記録は必ず届ける」
「ああ」
「あなたの名前も」
「それは要らん」
ローデンは小さく笑った。
「私の名を英雄にするな」
「私は失敗した」
「疑うのが遅かった」
「多くの人間を」
「星環へ送った」
「それでも」
ヴェスパーは答える。
「あなたが、ここにいたことは伝える」
ローデンは目を閉じた。
「……それなら」
通路の扉が閉まり始める。
最後の隙間。
ローデンが。
小さく口を動かした。
「頼む」
扉が閉じた。
轟音。
白い光。
監査室は。
向こう側へ消えた。
狭い排水路を。
一行は走り続けた。
背後から。
星渠が崩れる音が追ってくる。
古い金属。
砕けた結晶。
流れ出す液体。
「出口は!」
レイラが叫ぶ。
「あと百二十歩!」
イリスが端末を見る。
「でも、閉鎖信号が来てる!」
「走れ!」
アステルが重力で全員の身体を軽くする。
ノアの大きな兎耳が。
前方へ向く。
「外の音がする!」
「何が聞こえる!」
「人!」
「たくさん!」
「鐘は!」
「聞こえない!」
前方に。
灰色の光が見えた。
出口。
古い格子。
レイラが走りながら戦斧を構える。
「止まるな!」
斧を振り抜く。
格子が。
外側へ吹き飛んだ。
全員が排水路から転がり出る。
直後。
背後の通路が崩れた。
灰色の煙。
水。
結晶片。
全てが出口を塞いだ。
しばらく。
誰も動けなかった。
荒い呼吸だけが響く。
ヴェスパーは地面へ手をつく。
石畳。
濡れている。
だが。
星脈線は走っていない。
顔を上げる。
狭い路地。
高く積み重なった古い建物。
建物と建物の間には。
布。
鉄板。
廃材。
あらゆるものを使った橋が渡されている。
王都の白い尖塔は見えない。
同じ色の灯りもない。
赤。
黄。
青。
壊れかけた照明が。
好き勝手な間隔で揺れている。
壁には。
星環教会の紋章へ、灰色の塗料が塗り潰されていた。
人の声。
怒鳴り声。
笑い声。
鍋を叩く音。
子どもたちの足音。
機械を修理する音。
全てが。
ばらばらに響いている。
「ここが」
アステルが周囲を見る。
「王都の中……?」
ミレイアも。
言葉を失っていた。
「知りません」
「こんな場所」
「王都の地図には……」
「地図から消されてるんだろうね」
イリスが答える。
ノアは耳を立てる。
「名前を呼ぶ鐘がない」
路地の奥から。
複数の足音が近付く。
レイラが戦斧を構える。
「また敵か」
「待って」
ノアが耳を澄ませる。
「星環の音じゃない」
暗がりから。
武器を持った者たちが現れた。
人間。
獣人。
亜人。
誰一人、同じ装備ではない。
古い銃。
錆びた剣。
工具を改造した槍。
中央に立つのは。
濃い灰色の外套を纏った女性だった。
短く切られた黒髪。
左頬に古い傷。
手には、折り畳み式の長槍。
その胸元に。
傷だらけの灰色の盾が下げられている。
女性はヴェスパーたちを見る。
次に。
ミレイアの銀色の仮面へ視線を向けた。
周囲の者たちが武器を構える。
「星環教会の司祭」
女性が低く言う。
「それに」
「黒陽の匂いがする狼」
ヴェスパーの金色の髪と。
剣。
そして残火の痕跡を見ている。
「ハルトの知り合いか」
ヴェスパーは。
懐から金属札を取り出した。
灰色の盾が刻まれた札。
女性の目が細くなる。
ヴェスパーは。
教えられた通り。
近くの鉄扉へ札を三度当てた。
三度。
一度、間を置く。
暗がりの奥から。
二度。
金属を叩く音が返ってきた。
女性は槍を下ろさない。
「合図は知っているようだな」
「ハルトから聞いた」
「その名を、ここで簡単に口にするな」
「悪かった」
女性はヴェスパーの背後を見る。
負傷した仲間。
兎耳から血を流すノア。
身体を支えられているミレイア。
アステルが重力で運ぶ、遮断布に包まれた制御核。
そして。
ヴェスパーが握る透明な記録結晶。
灰色の盾を見た瞬間。
女性の表情が変わった。
「それを」
「どこで手に入れた」
「ローデンから」
路地の空気が止まった。
女性の槍先が僅かに下がる。
「ローデン・ヴァイスは」
「生きていたのか」
ヴェスパーは。
答えるまでに少し時間が必要だった。
「俺たちが会った時は」
女性は目を閉じる。
ほんの一瞬だけ。
感情を押し殺す。
再び目を開いた時。
彼女は背後の者たちへ命じた。
「扉を開けろ」
「だが、シオン」
仲間の一人がミレイアを見る。
「司祭がいる」
「分かっている」
「殺すのか」
その言葉に。
ミレイアの身体が強張る。
女性――シオンは。
彼女へ近付いた。
仮面の亀裂。
星環結晶。
白い司祭衣。
そして。
震えている指を見る。
「名前は」
ミレイアは答えようとし。
口を閉じた。
真名を答えれば。
星環へ道が繋がる。
その恐怖が身体へ染み付いている。
シオンは。
それを理解したようだった。
「言いたくないなら、言わなくていい」
ミレイアが驚いて顔を上げる。
「ここでは」
シオンは路地の奥を振り返る。
「名前を持たない者も」
「名前を捨てた者も」
「新しい名前を選んだ者も」
「同じように生きている」
鉄扉が開く。
その奥に。
巨大な地下街が広がっていた。
王都の白い光ではない。
人の手で作られた。
不揃いな灯り。
市場。
工房。
診療所。
古い家々。
無数の人々。
誰も。
同じ歩幅で歩いていない。
誰も。
同じ方向を向いていない。
それでも。
そこには生活があった。
「ようこそ」
シオンは言う。
「王都エリュシオン下層」
「星環に名前を渡さなかった者たちの街」
ヴェスパーの手の中で。
ローデンの記録結晶が光る。
同時に。
遥か頭上。
星脈中枢塔の鐘が鳴った。
だが。
厚い地層と。
古い都市の壁に阻まれ。
その音は。
ここまで届かなかった。
シオンは槍を肩へ担ぐ。
「ここでは、王都の鐘より」
「自分の声を信じろ」
その言葉に応えるように。
地下街のどこかで。
誰かが笑った。
誰かが怒鳴った。
赤ん坊が泣いた。
鍛冶屋の槌が鳴った。
全て違う。
全て不揃い。
全て、生きている音だった。
ヴェスパーたちは。
ついに。
白銀の城壁の内側へ辿り着いた。
王都が隠した。
もう一つの王都へ。




