第3章 第7話 「巡礼者門 前編」
王都エリュシオンは、夜になっても眠らなかった。
白銀の城壁に沿って、無数の灯火が並んでいる。
遠目には星の帯のように見えた。
城壁の向こうには、さらに高い尖塔が重なり、そのすべてが青白い光を受けて淡く輝いている。
都市の中央にそびえる星脈中枢塔は、闇の中でも輪郭を失わない。
天へ伸びる光の柱。
その周囲を、幾重もの光輪がゆっくりと回っていた。
美しい。
あまりにも整っている。
灰都の夜とは違う。
灰都では、家ごとに灯りの色が違った。
酒場から漏れる赤い光。
診療所の白い光。
鍛冶場に残る橙色の火。
誰かが夜更かしをすれば、その窓だけが明るい。
だが王都の灯りは、すべて同じ色だった。
同じ間隔で並び。
同じ強さで輝き。
一つが揺れることすらない。
高台に設けられた巡礼者用の野営地で、ヴェスパーは焚き火の前に座っていた。
王都までは、もう半日もかからない。
本来なら、七日を要する行程だった。
だが街道には、星脈を利用した昇降路と輸送橋が整備されていた。
一行は途中から銀装車へ乗せられ、想定より早く王都外縁へ到着した。
便利な道だった。
だからこそ、誰も途中で降りられなかった。
「眠れないのか」
背後からレイラの声がする。
ヴェスパーは振り返らずに答えた。
「少し考えていた」
「お前が考えている時は、大抵ろくなことにならない」
レイラは隣へ腰を下ろす。
手には干し肉が二枚。
一本をヴェスパーへ差し出した。
「セレスには?」
「見つかってない」
「さっき荷物を確認していた」
レイラの動きが止まる。
「……何枚残ってた」
「袋ごと消えていた」
「お前、知ってたのか」
「今知った」
「なら黙っていろ」
「聞かれたら答える」
「融通が利かねえな」
そう言いながらも、レイラは干し肉を口へ運んだ。
噛む音が、静かな野営地に響く。
少し離れた場所では、王都騎士たちが円を描くように立っている。
全員が立ったまま。
交代もない。
焚き火もない。
食事を取る者もいない。
銀色の鎧に青白い光が反射し、まるで人間ではなく、城壁に並ぶ像のようだった。
「本当に寝ないのか」
レイラが騎士たちを見ながら呟く。
「身体は休んでる」
ノアの声がした。
大きな兎耳を揺らしながら、彼が焚き火へ近付いてくる。
その後ろにはセレスがいた。
「レイラさん」
「……何だ」
「右手を見せてください」
「今は食事中だ」
「右手を」
レイラは諦めたように、干し肉を持つ手を背後へ隠した。
セレスは何も言わず、左手を差し出す。
しばらく見つめ合った後。
レイラはもう一本の干し肉を渡した。
「一枚だけだ」
「一袋あったはずです」
「保存食だ」
「荷物から出して食べた時点で、保存されていません」
「細かいな」
「健康管理です」
セレスは干し肉を取り上げ、ノアの隣へ座った。
「騎士たちの身体が休んでいるというのは、どういう意味ですか」
ノアは王都騎士たちへ耳を向ける。
「眠ってはいない」
「でも、頭の音が薄くなってる」
「身体だけが、鐘に任せて動いてるみたい」
「意識を星環へ預けている?」
ヴェスパーが尋ねる。
ノアは少し迷いながら頷いた。
「たぶん」
「自分で立ってるんじゃない」
「みんなで、一人を立たせてる」
レイラが眉をひそめる。
「一人?」
「十九人で一人」
ノアの言葉に、焚き火の空気が変わった。
騎士たちは別々の身体を持っている。
違う体格。
違う傷。
違う呼吸。
だが今。
それぞれの意思は沈み、一つの命令だけで動いている。
「眠らなくて済むなら、便利ではありますね」
セレスが言った。
その声には、肯定ではなく警戒があった。
「痛みや疲労も分散できるのかもしれません」
「そんなものを分けて、本当に消えるのか」
レイラが尋ねる。
「消えません」
セレスはすぐに答えた。
「感じなくなるだけです」
「疲労そのものは蓄積します」
「痛みは身体からの警告です」
「それを全員で薄め続ければ、自分の限界に気付けなくなる」
騎士エドが倒れた時。
彼の身体は、すでに限界を超えていた。
それでも彼は歩き続けた。
止まるという判断を、自分一人では下せなかったからだ。
ヴェスパーは焚き火へ細い枝を入れた。
火の粉が舞い上がる。
一つ一つ違う方向へ飛び。
やがて闇の中へ消える。
「明日、門で名前を呼ばれる」
レイラが言う。
「ああ」
「返事はしない」
「ああ」
「それで通れると思うか」
「思わない」
レイラは笑った。
「だろうな」
セレスの表情が厳しくなる。
「笑い事ではありません」
「分かってる」
レイラは王都を見た。
「でも、どうせ揉めるなら腹を括った方がいい」
「門の前で斧を抜かないでください」
「相手次第だ」
「抜かないでください」
「努力する」
「約束してください」
「……善処する」
「約束を」
「分かった」
レイラは面倒そうに答える。
「抜かない」
「相手が先に抜かなければ」
セレスが何か言おうとした時。
野営地の端から、アステルが戻ってきた。
両手には小さな金属板がある。
イリスも一緒だった。
「何か分かったか」
ヴェスパーが尋ねる。
イリスは焚き火の近くへ座り、金属板を地面へ並べた。
一枚は、街道にあった古い星脈観測塔から取った記録片。
もう一枚は、海底観測炉から持ち帰った重圧因子の残片。
「良くないことが分かった」
「良くないことばかりだな」
レイラが呟く。
イリスは二枚の板を指で示した。
「この辺りの星脈は、自然に流れていない」
「王都へ向かって吸い上げられてる」
ヴェスパーは中央の塔を見る。
「星脈中枢へ?」
「たぶんね」
「でも、ただ力を集めてるだけじゃない」
イリスは記録片の上へ細い針を置いた。
針が微かに震え。
王都の方向へ傾く。
次に重圧因子の残片へ移す。
同じように王都へ傾いた。
ただし、その震え方は大きかった。
まるで引かれることに抵抗しているように。
「重圧因子が反応している」
アステルが言った。
彼女の顔色は良くない。
「王都の術式は、黒い翼の研究と同じ構造を持っています」
「同じ?」
セレスが問い返す。
「全く同じではありません」
「ですが、力を一か所へ集める方法が似ています」
アステルは胸元へ手を当てた。
「私が器にされていた時も」
「複数の術者の魔力を、一人へ重ねていました」
「王都は、その逆です」
「人々の意思を集めて、一つの巨大な器へ流している」
レイラが中央塔を睨む。
「器ってのは、あの塔か」
「それとも」
イリスが言葉を継いだ。
「塔の中にいる誰か」
焚き火が弾けた。
ノアの耳が大きく揺れる。
彼は王都の方角ではなく、背後の暗闇を見た。
「誰か来る」
全員が動きを止める。
レイラの手が戦斧へ伸び。
セレスは医療鞄を引き寄せる。
アステルは指先に重力術式を浮かべた。
ヴェスパーは立ち上がる。
「何人だ」
「一人」
ノアは目を閉じる。
「違う」
「二つ音がする」
「一人なのに?」
イリスが問い返す。
ノアは答えない。
草を踏む音が近付く。
やがて、闇の中から白い外套が現れた。
銀色の仮面。
ミレイアだった。
杖は持っていない。
青白い光を放つ星環の装飾も外している。
髪は夜風に揺れ。
足取りは僅かに不安定だった。
ヴェスパーが周囲を見る。
騎士たちは動いていない。
「一人で来たのか」
ミレイアは答えず、焚き火から少し離れた場所で立ち止まった。
「時間がありません」
いつもの落ち着いた声。
だが、途中に僅かな震えがある。
「明日の検問について、お伝えします」
イリスが周囲を警戒しながら言う。
「教会の許可は?」
「ありません」
「なら、あなた自身の判断?」
ミレイアは沈黙した。
ノアの耳が下がる。
「今は、どっち?」
ミレイアが彼を見る。
「どちら、とは」
「あなたの声と」
「星環の声」
仮面の奥の瞳が揺れた。
「……両方です」
ノアは息を呑む。
「切れてない」
「はい」
ミレイアは胸元へ手を当てた。
白い衣の下。
星環結晶が埋め込まれている場所。
「星環との接続を完全に断てば、すぐに察知されます」
「今は接続を弱めています」
「どれくらい持つ」
ヴェスパーが尋ねる。
「分かりません」
「私自身が、どこまで私なのかも」
その言葉に。
誰もすぐには返せなかった。
焚き火の光が、銀の仮面を赤く照らす。
「明日、巡礼者門では七つの確認が行われます」
ミレイアは話し始めた。
「所持品」
「武器」
「星脈汚染」
「過去の犯罪歴」
「所属」
「熱紋」
「そして、真名」
「熱紋?」
セレスが聞く。
「人間や獣人が持つ、固有の熱の形です」
「指紋のようなものか」
イリスが言う。
「それ以上です」
「熱紋には、身体的特徴だけでなく、感情と記憶の一部が刻まれます」
ヴェスパーの目が細くなる。
残火で人の熱へ触れた時。
確かに彼は、ガルムの記憶らしき光景を見た。
もし王都が同じ仕組みを使っているなら。
門を通るだけで。
過去も、感情も、隠しているものも読み取られる。
「拒否できるのか」
「制度上は可能です」
ミレイアが答える。
「拒否した場合は?」
「安全確認が完了するまで拘束されます」
「それを拒否できるとは言わない」
レイラが吐き捨てる。
「王都では、選択肢が用意されています」
ミレイアの声が機械的になる。
「協力するか」
「協力するまで保護されるか」
一瞬。
彼女自身も、その言葉の異常さに気付いたようだった。
指先が震える。
「……そう教えられました」
「真名は何を確認する」
ヴェスパーが尋ねる。
ミレイアは彼を見る。
「その者が、その名を自分のものとして認識しているか」
「返事をすれば?」
「星環に登録されます」
「登録されたら」
「王都内での身分が保証されます」
「居場所、職業、配給、治療、保護」
「全てを受けられます」
「代わりに何を渡す」
ヴェスパーの問いに。
ミレイアは答えなかった。
代わりに、ノアが小さく言った。
「名前の音」
皆がノアを見る。
「呼ばれて返事をすると」
「向こうに道ができる」
「声から、胸の奥まで」
ミレイアの肩が僅かに揺れた。
「その通りです」
「星環は真名を通じて、個人を認識します」
「登録された後は、都市内の鐘がその者の状態を確認し続けます」
「どこにいるか」
「怪我をしていないか」
「犯罪を犯していないか」
「危険な思想を持っていないか」
レイラが顔を上げる。
「最後のは何だ」
「危険な思想」
「誰が決める」
「星環評定院です」
「その評定院は誰が決める」
「王都評議会と星環教会が」
「つまり、自分たちか」
ミレイアは否定しない。
イリスは地面の記録片を拾い上げた。
「ローデンはこれを調べてた?」
仮面の奥で、ミレイアの目が大きく動く。
「その名を、どこで」
「灰都へ記録を残していた」
「第七星渠を探せってね」
ミレイアの呼吸が止まった。
騎士たちの方角から、微かな金属音が響く。
十九人の首が。
ほんの少しだけ。
こちらへ傾いた。
ノアが耳を押さえる。
「気付かれた」
ミレイアが素早く振り返る。
「まだです」
「ですが長くは持ちません」
「ローデンは生きてるのか」
ヴェスパーが聞く。
「分かりません」
「嘘だな」
レイラが言う。
ミレイアは彼女を見た。
「本当に分かりません」
「なら、知っていることを言え」
「彼は白銀門の記録を調べていました」
ミレイアの声が早くなる。
「登録された人数と、王都内部の熱紋数が一致しないことに気付いた」
「どういう意味だ」
セレスが尋ねる。
「王都へ入った者より」
「王都に存在する熱紋の方が、多かった」
沈黙。
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
イリスが最初に口を開く。
「存在しない人間の情報がある?」
「違います」
ミレイアは首を横に振る。
「人間がいないのです」
「熱紋だけが残っている」
「名前と記憶の一部だけが、星環の中で活動している」
ノアの顔から血の気が引く。
王都から聞こえていた声。
何万人。
何十万人。
もしかすると。
そのすべてが、生きている人間の声ではない。
「死者か」
ヴェスパーが尋ねる。
「死者だけではありません」
ミレイアは言った。
「失踪者」
「追放者」
「処刑された者」
「存在を消された者」
「彼らの熱紋は、星環の中に残されています」
「何のために」
「分かりません」
「だが、声は使われている」
イリスの表情が険しくなる。
「昨日、あなたを通して話した“王都の意思”」
ミレイアは答えない。
その沈黙が答えだった。
王都の意思。
多くの声が重なったあの声。
それは市民たちの合意ではない。
生きている者。
死んだ者。
消された者。
意思を奪われた者。
星環へ保存された無数の熱紋を重ね。
誰かが都合のよい言葉として使っている。
「それをローデンは知った」
ヴェスパーが言う。
「はい」
「だから消された」
「……おそらく」
「第七星渠は?」
「星環へ登録されず、下層区へ入るための旧水路です」
「場所は」
ミレイアは一歩、焚き火へ近付いた。
そして地面へ膝をつき。
灰の上へ指で簡単な地図を描く。
王都外壁。
巡礼者門。
白銀門。
下層区。
星脈中枢塔。
その地下へ伸びる七本の水路。
「第七星渠の入口は、巡礼者門の検問所内部にあります」
レイラが顔をしかめる。
「内部?」
「外から直接入れないのか」
「旧文明時代には外へ繋がっていました」
「ですが、現在は封鎖されています」
「門を通らなければ辿り着けません」
イリスが地図を見る。
「つまり明日、検問所へ入る必要はある」
「ただし、名前を登録される前に消える」
「可能なのか」
ヴェスパーが尋ねる。
ミレイアは、灰の地図に小さな円を描いた。
「真名確認は最後に行われます」
「その前に、星脈汚染の検査があります」
「アステルさん」
名を呼ばれたアステルが身を固くする。
「あなたの重圧因子は、必ず異常として検出されます」
「その時、検査室が一時封鎖されます」
「それを利用してください」
レイラが立ち上がる。
「待て」
「アステルを囮にする気か」
「違います」
「同じだろ」
「危険は承知しています」
アステルが静かに言った。
レイラが彼女を見る。
「お前は黙ってろ」
「私のことです」
「だからだ」
「レイラさん」
アステルの声は震えていた。
それでも、目は逸らさない。
「私は自分で決めるために来ました」
レイラの拳が握られる。
「決めるってのは、危険へ飛び込むことじゃない」
「逃げることだけでもありません」
二人の間に緊張が走る。
ヴェスパーが割って入った。
「ミレイア」
「異常が出た後、アステルはどうなる」
「通常なら隔離されます」
「その後は」
「星環教会の審問へ」
「何をされる」
「……記憶の確認」
「どんな方法で」
ミレイアは答えに詰まる。
ノアの耳が伏せられた。
「痛い方法」
「はい」
アステルの指先が僅かに震えた。
過去の拘束。
実験台。
力を引き出すために繰り返された痛み。
その記憶が蘇っている。
ヴェスパーは首を横に振った。
「その案は使わない」
「でも」
アステルが言う。
「駄目だ」
「私が決めることです」
「そうだ」
ヴェスパーは彼女を見る。
「だから、全部を知った上で決めてくれ」
「隔離された後、自力で戻れる可能性は」
ミレイアが小さく答える。
「ほとんどありません」
「なら囮ではなく、置き去りだ」
アステルは唇を噛む。
「私が止まらなければ、全員が登録されるかもしれません」
「別の方法を探す」
「時間がありません」
「それでもだ」
「ヴェスパーさん」
「誰も捨てない」
いつもの言葉。
だが今回は。
守るという意味だけではなかった。
アステルの選択を否定するためでもない。
誰か一人の犠牲を。
最初から必要なものとして計算しない。
それがヴェスパーの答えだった。
「お前が危険を選ぶことは止められない」
「でも、帰れない作戦には同意しない」
アステルは彼を見つめた。
やがて。
ゆっくりと頷く。
「……分かりました」
ミレイアが灰の地図へ視線を落とした。
「では、残された方法は一つです」
「何だ」
「検査そのものを壊す」
「随分乱暴になったな」
レイラが笑う。
「壊すのは装置ではありません」
ミレイアはヴェスパーを見る。
「星環との同期です」
「残火か」
「はい」
「エドの星環を乱した時と同じように」
「検問所全体の同期を一瞬だけ外す」
「その隙に第七星渠へ入る」
イリスが地図を見ながら計算する。
「門全体には何人いる?」
「検問官が十二人」
「星環騎士が四十人」
「巡礼者は明日の朝だけで、およそ三百人」
「三百人?」
セレスが声を上げる。
「そこへ残火を使えば、全員へ影響が出るのでは」
「出ます」
ミレイアが答える。
「星環に深く接続している者は、一時的に意識を失う可能性があります」
「最悪の場合は」
「熱流停止」
セレスの表情が変わる。
「心停止と同じですか」
「近いものです」
「それは使えません」
「同期を乱す強さを調整できれば」
「試したことは?」
「ありません」
「なら駄目です」
セレスは断言した。
ヴェスパーも同じ考えだった。
騎士たちだけではない。
明日、門には何百人もの巡礼者がいる。
王都へ逃げてきた者。
治療を求める者。
家族を探す者。
何も知らず、門を通ろうとする人々。
その命を危険に晒すことはできない。
「残火を全体に広げず、俺たちだけへ戻す」
ヴェスパーが言った。
「どういう意味?」
イリスが聞く。
「星環の同期を切るんじゃない」
「俺たちの熱だけを、星環から隠す」
「そんなことができるのですか」
セレスが尋ねる。
「分からない」
ヴェスパーは自分の胸へ手を当てた。
ガルムから教わった。
残火を外へ差し出すだけではなく。
自分へ戻す。
自分の熱を。
自分自身のものとして保つ。
「星環が熱を読もうとするなら」
「読まれる前に、自分の中へ戻し続ける」
「六人分を?」
アステルが言う。
「一人ずつの熱を、俺が囲う」
「無茶だ」
レイラが即座に言った。
「今までやったことないだろ」
「ああ」
「失敗したら」
「その時は別の道を選ぶ」
「門の中で失敗したら、選ぶ時間はない」
それも分かっている。
ヴェスパーは答えられなかった。
その時。
ノアが小さく手を挙げた。
「僕が手伝う」
皆が彼を見る。
「どうやって」
「みんなの音を覚える」
ノアは一人ずつ見た。
「ヴェスパー」
「レイラ」
「イリス」
「セレス」
「アステル」
「僕」
「六人の音がずれたら、言う」
「星環の音が入ってきたら、それも分かる」
「危険だ」
ヴェスパーが言う。
「聞くだけなら、今も聞こえてる」
「門の中はもっと強い」
「だから僕が必要なんでしょ」
ノアの声は静かだった。
だが、逃げてはいなかった。
ハルトの言葉が蘇る。
――守るだけじゃない。
――あいつの判断を聞け。
ヴェスパーはノアと目を合わせる。
「怖いか」
「怖い」
「途中で無理だと思ったら」
「すぐ言う」
「我慢するな」
「うん」
「一人で抱えるな」
「分かってる」
ノアは腰の木彫りの狼へ触れた。
「僕は、聞こえないふりをしない」
ミレイアが少年を見る。
「あなたは」
言葉が途切れる。
仮面の奥から。
僅かに、羨むような感情が滲んだ。
「自分で選べるのですね」
ノアは首を傾げる。
「ミレイアも選べるよ」
「いいえ」
「どうして」
「私には」
鐘の音が鳴った。
遠い王都から。
一度。
低く。
夜空を震わせる音。
その瞬間。
ミレイアの身体が強張った。
胸元から青白い光が漏れる。
「下がって!」
セレスが叫ぶ。
ミレイアは両手で頭を押さえた。
仮面の奥から苦痛の声が漏れる。
「見つかり……ました」
「何をすればいい」
ヴェスパーが近付く。
「来ないでください!」
「星環が、私を通して」
彼女の声が二重になる。
『巡礼司祭ミレイア・ノルン』
別の声が重なった。
冷たい。
感情のない女の声。
『規律外行動を確認』
『帰還せよ』
ミレイアの膝が地面につく。
『帰還せよ』
『帰還せよ』
『帰還せよ』
同じ言葉が。
違う声で何度も繰り返される。
老人。
男。
女。
子ども。
星環に残された無数の熱紋。
ミレイアの口を使い。
彼女自身を連れ戻そうとしている。
ヴェスパーは残火を灯した。
「触れないで!」
ミレイアが叫ぶ。
「今、同期を乱せば騎士たちが来ます」
「このままでも来る」
「私は戻ります」
「戻ったら何をされる」
「……調律です」
「何だ、それは」
「不要な感情を」
ミレイアの呼吸が乱れる。
「削ります」
ノアが息を呑んだ。
「嫌だって言ってる」
ミレイアが彼を見る。
「聞こえるのか」
「うん」
「あなたの音が」
「戻りたくないって言ってる」
「でも」
「それが、あなたの声だよ」
ミレイアの身体が震える。
『帰還せよ』
星環の声が強くなる。
騎士たちが動いた。
十九人が同時に。
野営地のこちら側へ歩き始める。
レイラが戦斧へ手をかける。
「約束したばかりですが」
セレスが言う。
「向こうが先です」
「まだ抜いてない」
「時間の問題です」
イリスが端末を取り出す。
アステルの周囲で、小石が浮かび上がる。
ヴェスパーはミレイアの前へ立った。
「選べ」
「え」
「戻るか」
「ここに残るか」
「どちらでもいい」
「だが、自分で選べ」
ミレイアの唇が震える。
そんな問いを。
彼女は、いつから向けられていなかったのだろう。
司祭になる時。
星環を埋め込まれた時。
騎士たちを率いた時。
命令を下した時。
いつも選択肢はあった。
従うか。
従うまで矯正されるか。
それを選択だと教えられてきた。
「私は」
騎士たちが迫る。
残り二十歩。
「私は……」
星環の光が強まる。
仮面に細い亀裂が入った。
『帰還せよ』
十歩。
レイラが斧を抜く。
銀の刃が火を反射する。
「ヴェスパー!」
ミレイアが顔を上げた。
仮面の亀裂から。
涙が一筋、流れた。
「私は――」
彼女が答えようとした。
その時。
野営地の外から、別の声が響いた。
「そこまでにしていただきましょう」
騎士たちが一斉に停止する。
白い礼装。
黒い手袋。
銀縁の眼鏡。
柔らかな笑み。
一人の男が、暗闇から歩いてきた。
護衛はいない。
武器も持っていない。
それなのに。
王都騎士たちは、彼の一言だけで動きを止めていた。
ミレイアの身体が固まる。
「監察長……」
男は、彼女へ穏やかに微笑んだ。
「夜の散歩とは感心しませんね」
「ミレイア司祭」
そして。
ヴェスパーたちへ視線を向ける。
「初めまして」
「王都評議会直属監察長」
「アルベリク・クロイツと申します」
まるで。
友人を迎えるような声音だった。
「お話は、すべて聞かせていただきました」
誰も動かなかった。
誰も声を出さなかった。
アルベリクは灰の上に描かれた地図を見る。
第七星渠。
検問所。
星脈中枢。
ミレイアが伝えた、王都の秘密。
その全てが。
焚き火の光の中に残されている。
「安心してください」
アルベリクは笑みを崩さない。
「今夜、あなた方を拘束するつもりはありません」
レイラが斧を構えたまま言う。
「今夜は、か」
「ええ」
「明日は正式な手続きがありますから」
「名前を呼ぶ手続きか」
ヴェスパーが尋ねる。
「大切な儀式です」
「人が、自分自身であることを確認するための」
ノアの耳が激しく震えた。
彼は両手で頭を押さえる。
「違う……」
「ノア?」
セレスが支える。
少年はアルベリクを見た。
顔は笑っている。
声も穏やか。
心拍も安定している。
だが。
彼の中から聞こえる音は。
一つではなかった。
「この人」
ノアが震える声で言う。
「中に、誰かいる」
アルベリクの笑みが。
ほんの僅かに深くなった。
「素晴らしい耳ですね」
「ノア君」
名前を呼ばれた瞬間。
ノアの身体が大きく揺れた。
王都の鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
まだ門を通っていない。
まだ真名を答えていない。
それなのに。
王都はすでに。
彼らの名前を知っていた。




