第3章 第5話 「星脈へ向かう者たち」
出発まで、あと一日。
夜明け前の灰都は、まだ眠っていた。
市場の屋台には布がかけられ、鍛冶場の炉も火を落としている。
城壁の上を歩く警備兵の足音だけが、薄暗い街へ規則正しく響いていた。
白砂診療所の裏庭。
ヴェスパーは一人、剣を構えていた。
目を閉じる。
風に流される砂。
診療所の中で眠る患者たち。
少し離れた部屋で端末を操作するイリス。
薬草を選別するセレス。
夜が明ける前から食料庫を漁っているレイラ。
静かに祈るアステル。
小さな寝息を立てるノア。
そして。
胸に星脈結晶を埋め込まれたガルム。
多くの熱が見える。
それぞれが違う速さで揺れ、別々の意思を持って生きている。
ヴェスパーは呼吸を整えた。
一つずつ。
周囲の熱を意識の外へ置いていく。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
ノア。
ガルム。
最後に残ったのは、自分の熱だった。
決して大きくはない。
傷もある。
疲れもある。
王都へ向かうことへの不安も、確かに存在している。
それでも。
消えてはいない。
心臓の鼓動に合わせて、小さな熱が灯り続けている。
ヴェスパーは指先へ残火を集めた。
熱は外へ逃げず、胸元へ戻ってくる。
そこから腕を通り、剣へ流れる。
刃が赤く燃えることはない。
炎も上がらない。
ただ、切っ先の周囲で空気が僅かに揺らいだ。
ヴェスパーが剣を振るう。
音は小さかった。
だが、十歩先に立てられた木の杭へ、細い切れ目が入る。
一拍遅れて。
杭の内側から小さな熱が広がり、中心だけが崩れ落ちた。
「形にはなってきたな」
背後からガルムの声がした。
ヴェスパーは剣を下ろす。
診療所の裏口に、ガルムが立っていた。
胸元には厚い包帯。
その下では、星環に似た青白い結晶が今も心臓へ根を伸ばしている。
昨日より顔色は良い。
それでも、健康には程遠かった。
「外に出ていいのか」
ヴェスパーが尋ねる。
「数歩ならな」
「セレスには?」
「言っていない」
「戻った方がいい」
「お前まであいつのようなことを言うな」
「患者は医者の言うことを聞くべきだ」
ガルムは不満そうに鼻を鳴らした。
「随分と口が達者になった」
「誰かの影響だ」
「俺はそんな教え方をしていない」
「背中を見て覚えた」
ガルムはしばらくヴェスパーを睨んだ。
やがて諦めたように壁へ背を預ける。
「今の残火をもう一度見せろ」
「診療所へ戻った後で」
「俺はお前の師だ」
「今は患者だ」
「……誰に似た」
「あなたです」
ヴェスパーが即答すると、ガルムは小さく舌打ちした。
だが、その顔に怒りはなかった。
東の空が少しずつ明るくなる。
二人の影が、裏庭の土へ長く伸びていく。
「本当に、残るんだな」
ヴェスパーが言った。
ガルムは答えず、王都がある方角を見た。
「俺を連れていけば、星環教会は喜ぶ」
「分かっている」
「この傷は、連中が探している鍵だ」
「だから連れていかない」
「俺がいれば、星脈中枢へ入る道が早く見つかるかもしれない」
「その代わり、あんたが使われる」
「利用される前に斬ればいい」
「昨日と同じことを言っている」
ヴェスパーは剣を鞘へ収めた。
「ガルム」
普段とは違う呼び方。
師ではなく。
黒陽炎でもなく。
一人の人間へ向けた声だった。
ガルムがヴェスパーを見る。
「俺は、あんたを守るためだけに残れと言っているんじゃない」
「なら何だ」
「自分で選んでほしい」
「……」
「俺たちと王都へ行くのか」
「ここに残り、傷を治すのか」
「それとも別の道を探すのか」
ヴェスパーは静かに続けた。
「俺があんたの未来を決めたら、王都と同じだ」
ガルムの金色の瞳が僅かに揺れる。
王都は人々の意思を束ねる。
星環教会は、正しさを教えとして与える。
オルディスは、全員を一つにすれば誰も捨てずに済むと言った。
そのどれもが。
人が自分で選ぶ余地を奪う。
「弟子に説教される日が来るとはな」
ガルムが低く言った。
「返事は」
「急かすな」
「出発は明日だ」
「分かっている」
ガルムはしばらく黙っていた。
遠くで、灰都の朝を知らせる鐘が鳴る。
一度。
二度。
王都の星環が奏でる音とは違う。
人の手で鳴らされる、僅かに揺らぎのある鐘。
「俺は残る」
ガルムが言った。
ヴェスパーは何も言わない。
「この傷を治す」
「それから、灰都に残った黒い翼の痕跡を追う」
「ハルトだけに任せれば、あいつは寝ずに動くからな」
「あなたも同じだ」
「俺は時々寝る」
「説得力がない」
ガルムは鼻を鳴らした。
「王都へ行かないのは、弱ったからじゃない」
「ああ」
「必要な場所が違うからだ」
「分かっている」
「なら、その顔をやめろ」
「どんな顔だ」
「置いていくことを後悔している顔だ」
ヴェスパーは一瞬だけ言葉を失った。
ガルムは続ける。
「お前は俺を捨てて行くんじゃない」
「俺がここに残ることを選ぶ」
「間違えるな」
ヴェスパーは、ゆっくりと頷いた。
「分かった」
「それでいい」
ガルムは壁から背を離す。
だが、一歩踏み出したところで僅かに身体が揺れた。
ヴェスパーが腕を支える。
「大丈夫だ」
「言うと思った」
「手を離せ」
「診療所までだ」
「一人で歩ける」
裏口が開いた。
白い医療衣に身を包んだセレスが、静かに立っていた。
「お二人とも」
ガルムの表情が固まる。
「……いつからいた」
「『俺は時々寝る』の辺りからです」
レイラが診療所の奥から顔を出す。
「結構聞かれてるじゃねえか」
イリスも続く。
「通信記録に残しておこうか?」
「消せ」
「記録してないよ。今のところは」
ガルムは深く息を吐いた。
セレスが有無を言わせない表情で彼の腕を取る。
「寝台へ戻ります」
「歩ける」
「知っています」
「なら――」
「歩けることと、歩いてよいことは違います」
ガルムはヴェスパーを見る。
助けを求めるような目ではない。
だが、明らかに何かを言いたそうだった。
ヴェスパーは視線を逸らす。
「医者の言うことを聞いた方がいい」
「覚えていろ、馬鹿弟子」
ガルムはセレスに連れ戻されていった。
裏庭へ、レイラの笑い声が響いた。
王都への出発準備は、朝から始まった。
白砂診療所の倉庫には、荷物が山のように積み上げられている。
保存食。
水袋。
薬品。
治療用の布。
簡易寝具。
予備の武器。
王都で身分を証明する書類。
海底観測炉から持ち帰った記録の複製。
さらにレイラが市場から買い集めた、大量の干し肉。
セレスはその山を見上げた。
「これは何日分ですか」
「道中の分だ」
レイラが答える。
「王都までは、通常なら七日です」
「何が起きるか分からないだろ」
「三十日分はあります」
「備えは多い方がいい」
「荷車が重くなります」
「私が引けばいい」
「荷獣の仕事を奪わないでください」
レイラは不満そうに干し肉の袋を一つ持ち上げる。
「じゃあ半分にする」
「三分の一です」
「交渉しよう」
「三分の一です」
「……セレス、王都でもその調子でいくのか?」
「患者さんと皆さんの健康を守るためです」
「王都の評議会より手強そうだな」
イリスが端末を操作しながら笑った。
「その評価には同意するよ」
部屋の隅では、アステルが自分の荷物を整えていた。
替えの服。
小さな術式具。
古い書物。
青紫色の髪飾り。
彼女の手が、黒い布に包まれた一枚の金属片で止まる。
海底観測炉から持ち帰った、重圧因子の残片。
かつて自分が器として使われた力と、よく似た反応を持つ物だった。
「持っていくのか」
ヴェスパーが尋ねる。
アステルは小さく頷いた。
「王都の星環術式と比べたいのです」
「見るのが辛くないか」
「辛いです」
即答だった。
アステルは金属片を両手で包む。
「でも、見ないふりをしても、なくなりません」
黒い翼に拘束されていた記憶。
儀式の中央へ置かれ。
誰かの命令で力を使わされ。
自分が人間なのか、ただの術式部品なのか分からなくなっていた日々。
王都には、その儀式と似た仕組みがある。
逃げたいという気持ちは、確かにあった。
「私は王都へ行きます」
アステルは言った。
「命令されたからではありません」
「ヴェスパーさんたちに置いていかれたくないからだけでもありません」
胸元へ手を当てる。
「私が、自分で確かめたいのです」
ヴェスパーは頷いた。
「分かった」
「止めないのですか?」
「止める理由がない」
「危険です」
「知っている」
「また器にされる可能性もあります」
「その時は助ける」
アステルは困ったように笑う。
「迷いませんね」
「迷っている」
ヴェスパーは答えた。
「本当は、灰都に残ってほしいと思っている」
アステルの表情が僅かに変わる。
「だが、それを決めるのは俺じゃない」
その言葉を聞き。
アステルは胸元の髪飾りへ触れた。
「ありがとうございます」
「礼を言うことか」
「はい」
彼女は自分の荷物へ、金属片を入れた。
「怖くても、自分で行くと決められたことが嬉しいので」
診療所の治療室。
王都騎士エドは、寝台の上で上体を起こしていた。
顔色はまだ悪い。
胸に埋め込まれた銀色の星環は、セレスが施した遮断布で覆われている。
完全に切り離せたわけではない。
それでも、王都から届く鐘の音は弱くなっていた。
ノアは寝台の脇に座り、大きな兎耳を静かに立てている。
「今はどう?」
エドが尋ねた。
「あなたの音?」
「ああ」
ノアは目を閉じる。
一つの鼓動。
その奥に、遠い王都と繋がる細い振動。
さらにその下。
消えずに残る、エド自身の音。
「聞こえる」
ノアは答えた。
「ちゃんと一人の音がする」
エドは安堵したように息を吐く。
「王都にいた時は、自分の考えが自分のものか分からなかった」
「鐘が鳴ると?」
「安心する」
エドは胸元へ手を置く。
「怖くなくなる」
「疲れも、痛みも、迷いも消える」
「最初は、救われたと思った」
ノアは黙って聞いている。
「俺は王都の下層区で育った」
「両親はいない」
「食事も仕事もなく、王都騎士団へ入る以外に道がなかった」
エドの目が、遠くを見る。
「星環の誓約を受ければ、宿舎と食事が与えられる」
「恐怖を抑え、仲間と同じように動ける」
「家族のいない俺たちに、教会は言った」
「星環へ繋がれば、全員が家族になれると」
ノアの兎耳が少し伏せられる。
「嬉しかった?」
「ああ」
エドは苦く笑う。
「少なくとも、最初は」
仲間と同じ呼吸。
同じ歩幅。
同じ目的。
一人ではないという安心。
だが、少しずつ。
自分だけの痛みを伝えられなくなった。
休みたいと思っても、他の者が進めば足が動いた。
命令に疑問を持っても、鐘が鳴ればその疑問ごと消えた。
「俺たちは一つになったんじゃない」
エドは言う。
「一人ひとりが、少しずつ消されていった」
ノアは木彫りの狼を握った。
「ミレイアも?」
エドの表情が曇る。
「司祭は、俺たちより深く繋がれている」
「自分の意思で?」
「分からない」
「でも、何度か助けられた」
「助けられた?」
「無理な任務の前、彼女は鐘を一度だけ鳴らさなかった」
「そのおかげで、俺たちは自分で退却を選べた」
エドは目を閉じる。
「その後、ミレイア司祭は一週間姿を見せなかった」
「戻った時には、仮面を着けていた」
「結晶も増えていた」
ノアは昨日のミレイアを思い出す。
仮面。
青白い瞳。
落ち着いた声。
そして。
ヴェスパーの残火が星環を乱した時に見せた、僅かな焦り。
――あなたなら、星環を断てる。
「ミレイアは助けてほしいのかな」
「分からない」
エドは言った。
「だが、教会の言葉をすべて信じるな」
「彼女の言葉も?」
「星環へ繋がっている間は、本人の声とは限らない」
ノアは不安そうに耳を伏せる。
「どうやって聞き分ければいい?」
エドは少年を見る。
「君なら聞こえるんだろう」
「人の奥に残った音が」
ノアはすぐには答えなかった。
全員の本当の声を聞く。
口にするのは簡単だった。
だが王都には、灰都とは比べものにならない数の人がいる。
誰が自分の意思で話しているのか。
誰が星環に話させられているのか。
一つずつ聞き分けられるのか。
「怖いか」
エドが尋ねた。
ノアは少し考えた。
「うん」
「それでも行くのか」
「行く」
「なぜ」
ノアは木彫りの狼を見る。
グランヴェイルで失った兄。
助けられなかった命。
聞くことしかできなかった声。
それでも、聞いたからこそ伝えられたものがあった。
「聞こえないふりをしたくないから」
エドは目を細めた。
「強いな」
「強くないよ」
「怖くても行くなら、十分だ」
ノアは立ち上がる。
そして、自分の荷物から細い赤い糸を取り出した。
海都でルカから貰った貝殻を結ぶために使った糸の残りだった。
「手、出して」
エドは不思議そうにしながら右手を差し出す。
ノアはその手首へ糸を結んだ。
「何だ、これは」
「自分の音を忘れないため」
「糸で?」
「見れば思い出せる」
ノアは小さく笑った。
「エドはエドだって」
エドは赤い糸を見る。
胸元の星環とは違う。
命令を伝えるための輪ではない。
誰かが、自分の名前を覚えているという印。
「ありがとう」
「僕たちが帰るまで、灰都で待ってて」
「ああ」
「絶対だよ」
「分かった」
ノアは治療室を出る。
扉が閉まった後。
エドは赤い糸を見つめたまま、小さく呟いた。
「帰ってこいよ」
午後。
ハルトは灰都警備隊の詰所で、王都までの道を示す地図を広げていた。
机を囲むのは、ヴェスパー、レイラ、イリス。
地図には正規街道のほか、古い輸送路や崩れた地下道も記されている。
「王都使節団は、明日の夜明けに南門から出る」
ハルトが言う。
「お前たちは同じ隊列で移動し、七日後に白銀門へ到着する予定だ」
「予定、ね」
イリスが言葉を強調する。
ハルトは頷く。
「ローデンとエドの警告が同じなら、白銀門は避けるべきだ」
「だが使節団が監視している」
ヴェスパーが言う。
「途中で別れるか」
レイラが地図の分岐点を指した。
「三日目の灰河峡谷。ここなら霧が出る。隊列から離れられるぞ」
「相手は王都騎士団だ」
ハルトは首を横に振る。
「無断で姿を消せば、逃亡と判断される」
「元から脅して連れていこうとしてる連中だろ」
「海都の患者たちへの支援が停止される可能性がある」
レイラの顔が険しくなる。
そこを突かれれば、簡単には動けない。
ヴェスパーは地図を見る。
白銀門を避ける。
だが、王都へ行く意思は示す。
救出者への支援を打ち切らせず。
同時に、星環へ登録されない道を選ぶ。
「巡礼者門を正式に使えるようにできないか」
ヴェスパーが尋ねた。
ハルトは腕を組む。
「王都へ向かう巡礼者なら使える」
「俺たちは巡礼者じゃない」
「今はな」
イリスの口元が上がる。
「なるほど」
レイラが二人を見比べる。
「何か思いついたのか」
ハルトは机の引き出しから、古い革袋を取り出した。
中には六枚の薄い木札が入っている。
円形の星と、灰色の鳥が刻まれていた。
「灰巡りの証だ」
「灰巡り?」
「大災厄で失われた土地を巡り、死者の名を王都の中央聖堂へ届ける巡礼者」
ハルトは木札を並べる。
「地方都市の警備隊には、巡礼者を認定する権限がある」
イリスが一枚を持ち上げる。
「偽装身分?」
「正式な認定だ」
「私たち、巡礼するの?」
ハルトはヴェスパーを見る。
「お前たちは、砂漠、グランヴェイル、海底旧区画を通ってきた」
「そこで失われた者の名前を知っている」
「王都へ届けるものがあるなら、立派な灰巡りだ」
ノアの兄。
海底で番号にされた者たち。
帰る場所を失った人々。
ヴェスパーは木札を手に取る。
軽い。
だが、その中には多くの名前が刻まれているように感じた。
「これなら巡礼者門から入れる?」
「規則上はな」
「星環教会は認めないだろうね」
イリスが言う。
「だから、正面から要求する」
ハルトは続けた。
「使節団へ伝えるんだ。王都の招待は受ける。だが、海底旧区画で亡くなった者たちの弔いを優先し、灰巡りとして巡礼者門を使うと」
レイラが笑う。
「向こうの宗教を、向こうへの対抗手段にするのか」
「規則は、使う側のためだけにあるものじゃない」
ハルトは低く言った。
「守られる側も使えばいい」
イリスが感心したように彼を見る。
「さすが灰都の副隊長」
「褒めても何も出ない」
「じゃあ、もう一つ」
イリスは地図の王都地下へ指を置く。
「第七星渠へ行くための協力者は?」
ハルトは少し黙った。
やがて、首から下げていた金属製の小札を外す。
表面には、傷だらけの盾が刻まれている。
「王都の下層区に、古い知り合いがいる」
「信用できる?」
「今の王都で、絶対に信用できる者はいない」
ハルトは金属札をヴェスパーへ渡した。
「だが、少なくとも俺の命を一度救った」
「名前は?」
「会えば分かる」
「随分曖昧だね」
「名前を記録へ残せば、王都側に拾われる」
イリスが笑みを消す。
それほど監視が深い。
「下層区の南水路」
ハルトが言う。
「灰色の盾が描かれた扉を探せ」
「この札を三度叩き、一度だけ待て」
「二度返ってきたら入れ」
「返事がなければ?」
レイラが尋ねる。
「逃げろ」
「分かりやすい」
ハルトはヴェスパーを見た。
「王都では、俺の肩書きは何の役にも立たない」
「助けられるのは、ここまでだ」
ヴェスパーは金属札を握る。
「十分だ」
「まだ礼を言うな」
ハルトの声が重くなる。
「全員で戻った時に聞く」
「ああ」
「特にノアを守れ」
「分かっている」
「違う」
ハルトはヴェスパーを睨んだ。
「守るだけじゃない」
「あいつの判断を聞け」
「王都の地下で、誰の声が本物か分かるのはノアだけかもしれない」
「子どもだからと、後ろへ置くな」
ヴェスパーは少しだけ驚いた。
以前のハルトなら、危険な場所から子どもを遠ざけることを優先しただろう。
だが彼も。
ノアが選び、成長する姿を見てきた。
「分かった」
ヴェスパーは答える。
「道はノアに聞く」
夕方。
王都使節団が滞在している宿舎へ、ヴェスパーたちは向かった。
同行したのはヴェスパー、イリス、ハルト。
宿舎の前には、十九人の王都騎士が並んでいる。
倒れたエドの位置だけが、不自然に空いていた。
それでも騎士たちは間隔を詰めない。
欠けた一人の場所を残したまま。
同じ姿勢で前を向いている。
ノアはいない。
それでもヴェスパーには、彼らの中に僅かな熱の揺らぎが見えた。
全員が完全に同じではない。
左端の騎士は右肩に古傷がある。
中央の一人は、他より呼吸が浅い。
背の低い騎士は、時折手袋の中で指を動かしている。
一人ひとりが違う。
星環の下に隠されているだけだ。
宿舎の扉が開いた。
銀色の仮面を着けたミレイアが現れる。
「何かご用でしょうか」
ヴェスパーは六枚の灰巡りの証を見せた。
「明日の出発について話がある」
「予定に変更はありません」
「俺たちは王都へ行く」
ミレイアの瞳が僅かに動く。
「賢明なご判断です」
「ただし、白銀門は使わない」
騎士たちの鎧が、一斉に僅かな音を立てた。
ミレイアの杖の結晶が青白く光る。
「それは認められません」
「俺たちは灰巡りとして入る」
ヴェスパーは木札を差し出した。
「海底旧区画で亡くなった者たちの名を、王都へ届ける」
「あなた方は王都の正式な招待客です」
「灰巡りでもある」
「白銀門では、評議会による歓迎式典が予定されています」
「断る」
「民衆があなた方を待っています」
「会ったこともない俺たちを?」
「海底観測炉を止めた英雄として」
ヴェスパーの目が冷える。
「助けた人たちの名前は発表したのか」
ミレイアは答えない。
「リナ」
「フィン」
「ルカ」
「エリシア」
「まだ名を取り戻していない兄」
「番号を付けられていた五人」
ヴェスパーは一人ずつ名前を挙げる。
「王都は、その人たちを知っているのか」
「……」
「知らないなら、何の英雄だ」
ミレイアの杖に宿る光が揺れる。
「王都には、王都の伝え方があります」
イリスが横から言う。
「都合の悪いことを消す伝え方?」
「情報は、混乱を生まない形へ整える必要があります」
「誰にとっての混乱?」
返事はない。
ヴェスパーは灰巡りの証を下げない。
「俺たちは巡礼者門から入る」
「海都の救助者への支援は継続させる」
「王都の調査にも協力する」
「これがこちらの条件だ」
ミレイアの顔は仮面で隠れている。
だが、杖を握る指に力が入ったのが見えた。
「王都へ条件を出すおつもりですか」
「条件を出したのは、そちらが先だ」
沈黙。
騎士たちの呼吸が、僅かに乱れる。
ミレイアの瞳に青白い光が強く灯った。
星環が彼女を通じて、遠い王都と繋がっている。
誰かがこちらの会話を聞いている。
やがて、彼女の口が開いた。
『要求は受理できません』
声が違った。
ミレイア一人の声ではない。
男。
女。
老人。
子ども。
多くの声が僅かに重なっている。
『ヴェスパー一行は、白銀門より入城する必要があります』
ヴェスパーの指先に残火が灯る。
「誰だ」
『王都の意思です』
「王都に口があるのか」
『王都は、多くの意思によって成り立っています』
「なら、一人ずつ話せ」
重なった声が止まった。
残火がミレイアの杖へ近付く。
触れてはいない。
だが、星環の光が僅かに乱れる。
仮面の奥。
ミレイア自身の青白い瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
唇が小さく動く。
「……巡礼者門を、認めます」
イリスが目を細める。
今の声は一人分。
ミレイア本人の声だった。
直後、彼女の身体が大きく揺れる。
杖を石畳へ突き、辛うじて立っている。
騎士たちが一斉に彼女へ顔を向けた。
ミレイアは息を整える。
再び顔を上げた時には、青白い光が戻っていた。
「王都へ、変更を申請します」
「返答は?」
ヴェスパーが尋ねる。
「出発までにお伝えします」
「支援は止めさせない」
「……承知しました」
ミレイアは背を向ける。
宿舎へ戻る直前。
誰にも聞こえないほどの小さな声で、呟いた。
「名前を……忘れないで」
ヴェスパーだけが、その言葉を聞いた。
夜。
白砂診療所では、出発前の最後の食事が用意されていた。
大きな鍋。
硬いパン。
野菜の煮込み。
そして、セレスとの交渉に敗れたレイラが、三分の一だけ残した干し肉。
ハルト。
ガルム。
エド。
診療所で働く者たち。
ヴェスパーたち六人。
全員が同じ机を囲んでいる。
誰かが旅立つ前だというのに。
重苦しい会議ではなかった。
レイラが干し肉を巡ってノアと競い。
イリスが王都の物価は灰都の倍だと脅し。
アステルが真剣に荷物の重さを計算し。
セレスがガルムの皿から塩分の多い肉を取り上げている。
「一枚くらいいいだろう」
ガルムが言う。
「駄目です」
「俺は重傷者だ」
「だからです」
「傷を治すには肉が要る」
「適切な栄養が必要です」
レイラが笑う。
「師匠、私の分をやろうか?」
「お前の触ったものはいらん」
「何だと?」
「喧嘩をするなら食事は終了です」
セレスの一言で、二人とも黙った。
ノアが小さく笑う。
エドはその様子を見ていた。
王都の騎士宿舎では、食事中に会話することは少なかった。
決められた時間。
決められた量。
同じ動きで食べる。
誰かが遅れれば、鐘が鳴った。
ここには鐘がない。
食べる速さも違う。
好き嫌いもある。
笑う者もいれば、黙っている者もいる。
それでも、同じ机へ座っている。
一つにならなくても。
共に食事をすることはできる。
「変だな」
エドが呟く。
ノアが隣から尋ねる。
「何が?」
「全員、ばらばらだ」
レイラがパンをちぎりながら答える。
「悪いか?」
「いや」
エドは首を横に振る。
「少し、羨ましい」
ガルムが彼を見る。
「王都へ帰りたいか」
エドの手が止まる。
長い沈黙。
「分からない」
「なら、今は決めるな」
「でも、俺は王都騎士です」
「だから何だ」
「仲間がいる」
「なら、助けたいか」
エドは頷く。
「でも怖い」
「それでいい」
ガルムは淡々と言う。
「怖くない奴は、戻る場所も守るものも考えていない」
「怖いまま考えろ」
「決めるのは、その後だ」
エドは胸元の遮断布へ触れた。
「あなたは、ヴェスパーと似ていますね」
ガルムが露骨に嫌そうな顔をする。
「どこがだ」
レイラが笑う。
「そっくりだろ」
「似ていない」
「言うことも同じだよね」
イリスも加わる。
ヴェスパーは黙って煮込みを食べている。
ガルムが彼を見る。
「何か言え」
「合理的な意見だと思う」
「お前は黙っていろ」
食卓に笑いが広がった。
その夜。
王都へ向かう前の最後の時間を。
誰も一つにならず。
それぞれのまま過ごした。
深夜。
ヴェスパーは診療所の屋上にいた。
灰都の灯りを見下ろす。
明日。
ここを離れる。
王都へ向かう。
足音が近付く。
振り返ると、ガルムだった。
「また外に出たのか」
「屋上は診療所の一部だ」
「セレスに通じると思うか」
「今は寝ている」
「起きてるよ」
下の窓からイリスの声がした。
ガルムは何も聞こえなかったふりをする。
彼の手には、古びた革製の剣帯があった。
黒い。
何度も修理されている。
ところどころに、黒陽炎で焼けた痕が残っていた。
「持っていけ」
ガルムが剣帯を差し出す。
「これは」
「昔使っていたものだ」
「剣は?」
「お前のを使え」
「なら、なぜ帯だけ」
ガルムは答えず、ヴェスパーの腰にある剣帯を見る。
海底で切られ。
修理はされているが、金具が傷んでいる。
「王都では、抜くべき時に抜けない方が危険だ」
ヴェスパーは古い剣帯を受け取った。
革には、ガルムの熱が微かに残っている。
過去の残滓ではない。
今ここで手渡されたもの。
「ありがとうございます」
「珍しく素直だな」
「今のうちに言っておこうと思って」
「帰ってから言え」
ヴェスパーはガルムを見る。
ガルムもまた、まっすぐ見返した。
「戻れ」
師が言う。
「勝てとは言わない」
「王都の真実を全部暴けとも言わない」
「全員を救えとも言わない」
夜風が二人の髪を揺らす。
「ただ、戻れ」
「仲間を連れて」
「自分も捨てずに」
ヴェスパーは剣帯を強く握る。
「はい」
「返事だけはいい」
「戻ります」
今度は、迷わず言った。
ガルムは小さく頷く。
「なら、それでいい」
夜明け。
灰都南門。
空はまだ薄暗く、東の地平線だけが白み始めていた。
王都の銀装車が二台。
十九人の騎士。
荷物を積んだ灰都の輸送車。
その前に。
ヴェスパー。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
ノア。
六人が並ぶ。
衣装はこれまでと大きく変わらない。
長い旅と戦いを共にした装備。
補修された外套。
使い慣れた武器。
新しい英雄の衣装ではない。
彼らが自分で歩いてきた道を、そのまま身にまとっている。
ノアの腰には、木彫りの狼。
さらに海都で貰った貝殻が揺れている。
アステルは黒布に包んだ重圧因子の残片を荷物へ入れた。
セレスは医療鞄の中身を最後にもう一度確かめる。
イリスは王都側に知られていない通信端末を袖の内側へ隠す。
レイラは戦斧と、セレスに減らされた干し肉の袋を背負っていた。
ハルトは門の前に立ち、全員へ灰巡りの証を渡す。
「王都から返答が来た」
「巡礼者門の使用が認められた」
レイラが目を丸くする。
「意外と素直だな」
「ただし」
ハルトは続ける。
「白銀門で行われる予定だった入城検査を、巡礼者門でも実施するそうだ」
イリスがため息をつく。
「やっぱりね」
「通らずに入る方法を探すしかない」
ヴェスパーが言う。
「第七星渠だ」
「まだ罠の可能性はある」
「ああ」
「それでも?」
「自分たちで確かめる」
ハルトは金属札を確認する。
「南水路。灰色の盾」
「三度叩き、一度待つ」
「二度返れば入る」
「忘れるな」
「覚えている」
ノアがハルトを見る。
「灰都の音も覚えてる」
「何だ、急に」
「王都で迷った時、思い出すから」
ハルトは少しだけ表情を和らげた。
大きな手で、ノアの頭を軽く撫でる。
兎耳を避けるように。
「戻ってこい」
「うん」
セレスはエドの状態を伝える。
「星環の反応が安定するまで、絶対安静です」
ハルトが頷く。
「任せろ」
「ガルムさんもです」
「それは難しい」
「難しくてもお願いします」
「努力する」
診療所の入口。
ガルムが立っている。
今日はセレスも止めなかった。
出発を見送るための短い時間だけ。
彼の胸元には厚い包帯。
その下で、青白い結晶が微かに脈打っている。
ヴェスパーとガルムの目が合う。
言葉はなかった。
昨夜、すでに必要なことは伝えた。
レイラが輸送車へ乗り込む。
「よし。行くぞ!」
「朝から大きな声を出さないでください」
セレスが注意する。
「出発なんだから、景気よくいこうぜ」
「王都に着く前に疲れます」
イリスが御者席へ座る。
「言い争う前に乗って。王都の騎士がこっち見てるよ」
アステルがノアを荷台へ上げる。
ヴェスパーは最後に灰都を見た。
帰る場所。
守りたい街。
だが、自分たちだけが平穏ならいいわけではない。
王都では。
多くの声が一つに重ねられている。
名前を奪われようとしている。
自分の意思を失ったことにすら、気付けない者もいる。
ヴェスパーは輸送車へ乗った。
南門がゆっくりと開く。
砂の大地。
古い街道。
その先に王都エリュシオンがある。
星脈の上に築かれた、世界最大の都市。
「出発します」
ミレイアの声が響く。
王都騎士たちが同時に歩き始める。
銀装車の車輪が回る。
灰都の門が少しずつ遠ざかっていく。
ヴェスパーはミレイアの横顔を見た。
銀色の仮面。
青白く光る瞳。
彼女は前を向いたまま、口を動かさない。
だが。
ヴェスパーの指先へ灯した残火が、彼女の僅かな熱の変化を捉えた。
杖を握る指が三度動く。
一度、間を置く。
さらに二度。
ハルトから教えられた合図と同じだった。
三度叩き。
一度待ち。
二度返す。
灰色の盾の合図。
ミレイアは、ハルトの協力者を知っている。
あるいは。
彼女自身も、同じ者に繋がっている。
ヴェスパーが視線を向けた瞬間。
ミレイアが、ほんの僅かに顔を動かした。
仮面の奥。
一瞬だけ、教会の光ではない瞳が見えた。
そして。
風に紛れるほど小さな声で言った。
「白銀門では――」
鐘の音が鳴る。
ミレイアの身体が強張る。
言葉が途切れた。
だが、彼女は星環に呑まれる直前。
最後まで声を押し出した。
「名前を呼ばれても、返事をしないで」
次の瞬間。
ミレイアの瞳が青白く染まる。
背筋が伸びる。
歩幅が騎士たちと重なる。
何事もなかったように。
彼女は王都の使者へ戻った。
ヴェスパーは、仲間たちを見る。
それぞれの名前。
それぞれの熱。
誰一人、同じではない。
だからこそ。
忘れてはいけない。
王都への道は始まった。
歓迎のために開かれる、白銀の門。
その下で。
何が彼らの名前を待っているのか。
まだ誰も知らない。
ただ一つ確かなのは。
この旅が、星脈の異常を調べるだけでは終わらないということだった。
世界の中心で。
人が人であるための戦いが、始まろうとしていた。




