第3章 第3話 「星環教会の使者」
白砂診療所の前に、二十人の騎士が並んでいた。
銀色の鎧。
白い外套。
胸元に刻まれた、七つの星を輪で繋いだ紋章。
装備も姿勢も寸分違わない。
全員が同じ角度で顔を上げ、同じ速さで呼吸している。
まるで一人の人間を、二十に分けたような光景だった。
その中央に立つ女性が、ヴェスパーへ深く頭を下げる。
白い法衣。
細い銀鎖で飾られた杖。
顔の上半分を覆う銀色の仮面。
仮面の奥では、青白い瞳が淡く光っていた。
「初めまして、残火を宿す御方」
静かで澄んだ声。
「星環教会第一巡礼司祭、ミレイア・ノルンと申します」
ヴェスパーは彼女を見つめた。
「俺は、残火を宿す御方という名前じゃない」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
レイラが口元を押さえた。
笑いを堪えている。
イリスは隠す気もなく肩を震わせていた。
ミレイアは表情を変えない。
「失礼いたしました、ヴェスパー様」
「様もいらない」
「では、ヴェスパー」
「それでいい」
司祭の後ろで、騎士たちが同時に瞬きをした。
ノアの大きな兎耳が、ぴくりと動く。
一人だけではない。
二十人分の鎧の軋み。
二十人分の呼吸。
二十人分の鼓動。
それらが、見えない鐘の音に合わせるように重なっている。
ノアは思わずアステルの袖を掴んだ。
「やっぱり、同じ音」
アステルが小声で尋ねる。
「全員ですか?」
「うん。でも……」
ノアは眉を寄せる。
「もっと下に、別の音がある」
「別の音?」
答えるより先に、ハルトが診療所の前へ出た。
「王都の使者であろうと、武装した騎士団を無断で市内へ入れることはできない」
「すでに門を通っているが」
レイラが言った。
ハルトは苦い顔をした。
「王命の通行証を使われた。門兵では止められない」
ミレイアが杖を胸元へ寄せる。
「敵意はございません」
「敵意の有無を決めるのは、武装して訪れた側ではない」
ハルトは騎士たちを睨む。
「用件は使節だけで話せ。騎士は外で待機させろ」
ミレイアは数秒黙った。
彼女の背後で、二十人の騎士が同時に首を動かす。
わずかにミレイアを見る。
命令を待っている。
いや。
命令を受け取る前から、答えを知っているようにも見えた。
「承知しました」
ミレイアが杖を一度、石畳へ打ちつけた。
澄んだ音が鳴る。
騎士たちは一斉に右足を引き、直立した。
「ここで待機を」
「御意」
二十人の声が、完全に重なった。
ノアの耳が強く伏せられる。
「気持ち悪い……」
小さな呟きだった。
だがミレイアには聞こえたらしい。
仮面の奥の瞳が、ノアへ向いた。
「優れた耳をお持ちなのですね」
ノアはヴェスパーの後ろへ一歩下がる。
「僕の耳は、あなたたちのためのものじゃない」
ミレイアの視線が僅かに細くなる。
「もちろんです」
その言葉には、優しさも怒りもなかった。
ただ、何かを確認したような響きだけが残った。
診療所奥の会議室。
ミレイアは用意された椅子へ座らず、部屋の中央に立っていた。
机を挟んだ反対側には、ヴェスパーたち。
ガルムは壁際の椅子へ腰掛け、腕を組んでいる。
ハルトは扉の前。
王都の使者が何をしようと、すぐに止められる位置だった。
机の上には、前日に届いた召喚状が置かれている。
ミレイアはそれを一度見てから、口を開いた。
「王都評議会からの要請については、すでにご確認いただいたと伺っています」
レイラが答える。
「ああ。脅しまで含めて、よく読んだよ」
「脅しという表現は適切ではありません」
「じゃあ何だ」
「保護体制の見直しです」
レイラの手が机へ置かれる。
強く握った拳の下で、木が軋んだ。
「同じだろ」
「制度上は異なります」
「制度の話をしてない」
二人の間に冷たい空気が流れる。
セレスも穏やかな表情を崩していた。
「海底から救出した方々は、治療が必要な患者さんです」
「存じております」
「ならば、交渉条件に含めるべきではありません」
「王都の支援には限りがあります」
ミレイアは静かに答えた。
「限られた資源を、王命への協力を拒む者へ優先的に与える理由はない。それが評議会の判断です」
「患者の命より、服従を優先するのですか」
「私は決定を伝える立場です」
「従うだけなら、あなたの考えは必要ありませんね」
セレスの言葉に、部屋が静まり返る。
レイラが横目で彼女を見る。
声は穏やか。
だが、誰よりも怒っている。
ミレイアの仮面が僅かにセレスへ向いた。
「あなたは医療術師のセレス」
「はい」
「命に順序を設けない方だと、記録にありました」
セレスの目が冷たくなる。
「私たちの記録をお持ちなのですね」
「王都は、協力を要請する方々について必要な情報を収集します」
イリスが笑った。
「勝手に血を盗むのも、必要な情報収集?」
ミレイアの動きが止まった。
ほんの一瞬。
だがイリスは見逃さない。
「ローデン・ヴァイスの部屋を調べた。ヴェスパーの検体が残ってたよ」
「監察官ローデンの行動について、教会は関与しておりません」
「関与してない、か」
イリスは端末を指先で回す。
「知らないとは言わないんだね」
「王都には多くの組織があります。評議会、王国軍、教会。それぞれの管轄は異なります」
「黒い翼は?」
ミレイアは答えなかった。
その沈黙が、十分な答えだった。
「本題へ移りましょう」
ミレイアが杖を持ち上げた。
先端に嵌め込まれた透明な結晶が、青白く光る。
「王都へ出発される前に、ヴェスパーには星脈共鳴検査を受けていただきます」
ガルムが低く笑った。
「検査か」
「何か問題が?」
「言い方だけは昔より綺麗になった」
ミレイアがガルムを見る。
「黒陽炎のガルム」
「その名で呼ぶな」
診療所の温度が一瞬で上がった。
ガルムの周囲に黒い熱が揺らぐ。
傷が癒えていなくても。
力を奪われていても。
その眼光だけで、ミレイアの杖に宿る光が僅かに乱れた。
「星環教会の共鳴検査は、昔から変わっていない」
ガルムは言った。
「受けた者の熱、記憶、感情を星脈へ流し、適合する部分だけを抜き取る」
「誤解です」
「なら、なぜ検査に騎士を二十人も連れてきた」
「護衛です」
「外に立っている連中のことか」
ガルムは扉の向こうへ視線を向ける。
「護衛じゃない。あれは共鳴済みの兵だ」
ノアが顔を上げる。
「共鳴済み?」
ガルムはミレイアから目を逸らさない。
「星脈の信号へ意識を繋がれている。鐘が鳴れば、全員が同じ命令に従う」
ミレイアは否定しなかった。
代わりに、穏やかな声で答える。
「彼らは自ら星環の誓約を受けました」
「自分から?」
ノアが尋ねる。
「はい。恐怖を抑え、仲間と完全に連携し、王都の民を守るために」
「でも、苦しそうだよ」
ミレイアの瞳がノアへ向く。
「彼らは苦しんでいません」
「聞こえる」
ノアは胸元を押さえた。
「同じ息の下に、違う音がある」
「それはあなたの思い込みです」
「違う」
ノアは強く言った。
「誰かが、助けてって言ってる」
診療所の外。
二十人の騎士は、微動だにせず並んでいた。
街の人々が遠巻きに眺めている。
子どもが一人、母親の背後から銀色の鎧を覗き込んだ。
その時。
列の中央に立つ騎士の指が僅かに動いた。
右手。
小指だけが、命令に逆らうように震える。
兜の下。
乾いた唇が、ほとんど音にならない言葉を作った。
「……たすけて」
再び鐘が鳴った。
騎士の指が止まる。
呼吸が、他の十九人と重なった。
「検査は受けない」
ヴェスパーが言った。
ミレイアの杖の光が静かに揺れる。
「王命への拒絶と判断される可能性があります」
「王都へは行く」
「ならば、検査が必要です」
「理由を説明しろ」
「あなたの残火が、王都の星脈へ影響を与える可能性があるためです」
「影響とは」
「現時点では不明です」
ヴェスパーの目が細くなる。
「分からないから調べたいのか」
「はい」
「俺を使って?」
「あなたを守るためでもあります」
「俺の意思を無視して?」
ミレイアは答えない。
ヴェスパーは机の上に置かれた杖を見る。
青白い結晶。
その奥に、微かな熱がある。
一つではない。
何十。
何百。
遠い場所から繋がる、小さな熱。
王都の星脈。
ミレイアの杖は、すでにそこへ接続されている。
「その杖を通して、王都はこちらを見ているのか」
ミレイアの肩が僅かに動いた。
ガルムが口元を歪める。
「気付いたか」
ヴェスパーは指先に、小さな残火を灯す。
炎と呼べるほど大きくない。
薄く揺れる熱。
それを杖へ向けて流す。
ミレイアが初めて一歩下がった。
「触れないでください」
残火は杖の表面へ触れていない。
その周囲の熱だけを揺らしている。
青白い光が乱れる。
診療所の外から、鎧が一斉に軋む音がした。
ノアが両耳を立てる。
「騎士たちの音が変わった!」
「ヴェスパー、止めてください」
ミレイアの声に焦りが混じる。
「なぜだ」
「共鳴が乱れます」
「乱れれば、どうなる」
「彼らが――」
外で、何かが倒れる音がした。
セレスがすぐに扉へ向かう。
「患者です!」
「待ちなさい!」
ミレイアの制止を無視し、セレスが外へ飛び出す。
ヴェスパーたちも続いた。
列の中央にいた騎士が、石畳へ倒れていた。
他の十九人は直立したまま。
倒れた仲間へ視線すら向けない。
セレスが兜を外す。
中から現れたのは、まだ若い男だった。
二十代前半。
目の下には濃い隈。
唇は白く、呼吸も浅い。
セレスが首筋へ手を当てる。
「体温が低すぎます」
鎧の胸元を開く。
七つの星を繋ぐ銀色の環が、皮膚へ直接埋め込まれていた。
環の周囲は赤く腫れ、細い結晶が血管に沿って伸びている。
「これは……」
セレスの声が震える。
ミレイアが近付く。
「彼は星環の誓約へ適応できなかっただけです」
「適応?」
セレスは彼女を睨む。
「この方は、何日もまともに眠っていません。身体の感覚を抑えられ、限界を認識できなくなっています」
「王都へ戻れば処置を行います」
「今、治療します」
「騎士は教会の管理下です」
「今は私の患者です」
セレスは一歩も退かない。
騎士の瞼が僅かに開く。
焦点の合わない瞳が、ノアを見た。
ノアがその手を握る。
「聞こえる?」
男の唇が動く。
声は出ない。
だがノアには聞こえた。
身体の奥。
他の十九人と重なる鼓動の下。
必死に守っていた、自分だけの音。
「名前……」
ノアが言う。
「名前を教えて」
男の喉が震える。
「……エ、ド」
「エド?」
男は僅かに頷いた。
ミレイアの杖が石畳を打つ。
澄んだ鐘の音。
倒れていたエドの身体が強張った。
瞳から意志が消える。
手がノアから離れた。
他の騎士と同じ呼吸へ戻ろうとする。
ヴェスパーの残火が、鐘の音を遮るように二人の周囲へ広がった。
エドの身体から力が抜ける。
今度は静かに眠った。
「何をしたのです」
ミレイアの声が低くなる。
「音を切った」
ヴェスパーは答えた。
「この人を繋いでいたものだけを」
ミレイアは眠るエドと、ヴェスパーの指先に残る熱を見比べる。
仮面の奥で、青白い瞳が大きく見開かれていた。
恐怖。
驚き。
そして、僅かな期待。
「やはり……」
彼女が小さく呟く。
「あなたなら、星環を断てる」
「何?」
ミレイアはすぐに表情を戻した。
「何でもありません」
「今、何と言った」
「検査の必要性が証明されたと申し上げました」
嘘だ。
イリスにも。
ノアにも。
ヴェスパーにも分かった。
だが、ミレイアはそれ以上何も語らなかった。
エドは白砂診療所へ運ばれた。
ミレイアは教会へ返すよう要求したが、セレスとハルトが拒否した。
「少なくとも歩ける状態になるまで、ここから動かさない」
ハルトが言う。
「王命に逆らうおつもりですか」
「灰都では、倒れた者を路上へ放置しない」
「彼は王都騎士です」
「その前に人間だ」
ミレイアはしばらくハルトを見つめた。
やがて杖を下げる。
「……三日です」
「何がだ」
「ヴェスパー一行の出発まで」
彼女は懐から銀色の円盤を取り出した。
七つの星が刻まれた、通行証。
それを机ではなく、ヴェスパーへ直接差し出す。
「三日後の夜明け、白銀門へ向けて出発します」
ヴェスパーは円盤を受け取らない。
「白銀門」
ローデンの記録が、使うなと警告した正門。
「別の門からは入れないのか」
「正式な招待客は、すべて白銀門から入城します」
「巡礼者門は?」
その言葉を聞いた瞬間。
ミレイアの指が止まった。
ほんの僅か。
「どこで、その名を」
「王都の地図に書いてあった」
イリスが何気ない声で答える。
ミレイアは彼女を見る。
「巡礼者門は、一般巡礼者と下層民のための入口です。あなた方が使う必要はありません」
「第七星渠は?」
今度はヴェスパーが尋ねる。
ミレイアの杖に嵌め込まれた結晶が、一瞬だけ強く光った。
背後の騎士たちの鎧が、同時に軋む。
「その場所へ近付いてはなりません」
ミレイアの声から、初めて明確な感情が漏れた。
警戒。
あるいは恐怖。
「なぜだ」
「王都の封鎖区域です」
「何がある」
「知る必要はありません」
「それを決めるのは、あんたじゃない」
ミレイアは答えなかった。
銀色の通行証を机へ置く。
「三日後に参ります」
彼女は踵を返す。
残り十九人の騎士たちも一斉に向きを変えた。
誰も、診療所へ運ばれたエドを振り返らない。
ノアだけが、彼らの背中を見つめていた。
「まだ聞こえる」
「何がだ?」
レイラが尋ねる。
「みんなの名前」
ノアは兎耳を震わせる。
「声には出してない。でも、消えないように何度も自分の中で呼んでる」
一人ひとり。
自分の名前を忘れないように。
同じ呼吸。
同じ動き。
同じ命令の下で。
まだ自分が自分であることを、必死に確かめている。
ヴェスパーは遠ざかる騎士たちを見た。
「王都へ行く理由が増えたな」
レイラが戦斧を担ぎ直す。
「また全員助ける気か?」
「まだ何が起きているか分からない」
「つまり?」
「調べる」
イリスが笑う。
「合理的判断?」
「ああ」
だが、ヴェスパーの目は笑っていなかった。
夜。
王都使節団に与えられた宿舎。
ミレイアは一人、鏡の前に立っていた。
扉には鍵をかけている。
窓も閉じた。
それでも彼女は何度も周囲を確認した。
そして、ゆっくりと銀色の仮面を外す。
現れた顔は、まだ若かった。
二十代半ばほど。
整った顔立ち。
だが右のこめかみから頬にかけて、青白い結晶が皮膚へ食い込んでいる。
七つの星を繋ぐ細い線が、首筋から法衣の下へ続いていた。
ミレイアは震える手で結晶へ触れる。
診療所でヴェスパーの残火が杖へ触れた瞬間。
ほんの一瞬だけ。
頭の中から鐘の音が消えた。
何年ぶりか分からない。
自分だけの思考。
自分だけの呼吸。
自分だけの心音を聞いた。
鏡の中の自分へ、彼女は問いかける。
「私は……何をしに来たの」
王都の命令。
教会の教え。
星脈の意思。
それらと、自分の願いを区別できない。
法衣の胸元から、青白い光が漏れた。
頭の中で鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
ミレイアの瞳から感情が消えていく。
背筋が伸びる。
呼吸が整う。
彼女は再び仮面を着けた。
けれど、意識が完全に沈む直前。
唇が小さく動いた。
「ヴェスパー」
誰にも届かない声。
「どうか、この輪を壊して」
次の瞬間。
彼女の瞳は、再び教会の青白い光へ染まった。




