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灰の星  作者: ウルフルマル


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第3章 第2話 「失踪した監察官」

ローデン・ヴァイスの部屋から、ヴェスパーの血が見つかった。


小さな硝子瓶の中。


黒ずんだ赤色の液体が、わずかに揺れている。


瓶に貼られた紙には、短い文字が記されていた。


【検体V――熱因子適合率、再測定対象。】


「……俺のものなのか」


ヴェスパーが尋ねた。


隣に立つセレスは、瓶を光に透かして確認する。


「断定には検査が必要です。ただ、この瓶に付着している匂いは……白砂診療所で使用している保存薬と同じです」


「診療所から盗まれた?」


イリスが眉をひそめる。


セレスの表情が静かに冷えた。


「患者さんの検体を、許可なく持ち出した者がいるということです」


レイラが腕を組む。


「そいつを見つけたら、私にも診察させろ」


「何をするつもりですか」


「骨が何本あるか確認する」


「壊して数えるのは診察とは言いません」


「そうか?」


「違います」


二人の会話にも、いつもの軽さはなかった。


部屋の中央で、ハルトが険しい表情を浮かべている。


「ローデンが消えたのは、お前たちが灰都へ戻る前日の夜だ」


「門を通った記録は?」


イリスが尋ねる。


「ない」


「城壁を越えた形跡は?」


「見つかっていない」


「地下水路は?」


「封鎖を確認した」


イリスは部屋を見回した。


「つまり、灰都から出ていないか……記録を消す方法を持っていたか」


「あるいは、最初からここにいなかったかだ」


ハルトの言葉に、ノアの大きな兎耳が僅かに動いた。


「どういうこと?」


「王都の監察官には、影武者や遠隔投影を使う者もいる」


ハルトは机の上に置かれた身分証を手に取る。


白銀の板。


中央には、王都エリュシオンの紋章が刻まれている。


「ローデン・ヴァイス。王都評議会直属の監察官」


「表向きは、灰都の復興状況を調べるために派遣された役人だ」


レイラが鼻を鳴らした。


「本当は私たちを監視してた」


「可能性ではなく、確定だ」


ハルトは壁際の戸棚を開いた。


その中には、何十枚もの書類が整然と並んでいる。


ヴェスパー。


レイラ。


イリス。


セレス。


アステル。


ノア。


そしてガルム。


全員の情報が記録されていた。


身体能力。


戦闘方法。


性格。


過去。


交友関係。


負傷歴。


どのような状況で、どのような選択をするかまで。


レイラが一枚を取り上げる。


「私の食事量まで書いてあるぞ」


イリスが横から覗き込む。


「一回の食事で成人男性三人分、だって」


「間違ってないな」


「否定しないんだ」


別の書類を読んでいたアステルの顔が曇る。


そこには、彼女の名前ではなく番号が書かれていた。


【重圧媒介候補A。

精神的依存先――ヴェスパー一行。

集団から隔離した場合、制御可能性上昇。】


アステルの指が震える。


「私は……まだ、候補として見られていたのですね」


「その紙に、お前が何者かを決める権利はない」


ヴェスパーが言った。


アステルが顔を上げる。


ヴェスパーは書類を机へ戻した。


「王都がどう記録していても、お前はアステルだ」


アステルは胸元の飾りへ触れ、小さく頷いた。


「はい」


ノアも自分の書類を見つけた。


そこに書かれていた分類名を読んだ瞬間、兎耳が強く伏せられる。


【高感度聴覚器官。

星脈異常の探知装置として転用可能。】


名前より先に、機能が書かれている。


ノアは紙を握りしめた。


「僕は、道具じゃない」


「ああ」


ヴェスパーが答える。


「お前はノアだ」


「……うん」


ノアは書類を元の場所へ置いた。


破り捨てなかった。


怒りに任せて消してしまえば、王都が何を考えているのか分からなくなる。


そのことを、イリスから学んでいた。


「持ち帰ろう」


ノアが言った。


「証拠になるから」


イリスが少し驚き、それから笑う。


「いい判断だね」


「合理的判断だ」


ノアがヴェスパーの口調を真似する。


レイラが吹き出した。


「似てないぞ」


「似てるよ」


「もっと無愛想だ」


「聞こえている」


ヴェスパーが言うと、部屋の緊張が少しだけ和らいだ。



ローデンの部屋は、不自然なほど整っていた。


寝台の皺もない。


衣服も残されていない。


食器も、私物も、日記もない。


まるで最初から、誰も暮らしていなかったようだった。


イリスは壁、床、家具を一つずつ端末で調べていく。


「監察官にしては、痕跡を消しすぎ」


「逃亡の準備をしていたのでは?」


セレスが尋ねる。


「それなら、こんなに重要な書類を残さない」


イリスは戸棚の奥へ手を入れた。


小さな音。


隠し板が外れ、その向こうから黒い箱が現れる。


レイラが戦斧へ手をかける。


「罠か?」


「たぶんね」


「開けるのか?」


「もちろん」


「お前も大概だな」


イリスは細い接続線を箱へ差し込んだ。


端末へ複雑な文字列が流れ始める。


「王都式の暗号錠。開こうとすると中の記録を焼く仕組み」


「解除できる?」


アステルが聞く。


「誰に聞いてるの?」


イリスの指が素早く動く。


箱から一度だけ赤い光が漏れた。


直後、錠が外れる。


「できた」


レイラが覗き込む。


「何が入ってる」


箱の中には、一枚の薄い記録板があった。


それだけだった。


イリスが端末へ読み込ませる。


しかし、表示されたのは短い文章だけ。


【本人確認を開始します。】


「本人?」


ヴェスパーが記録板へ近付いた瞬間だった。


板の中央から細い光が伸び、彼の顔をなぞる。


続いて、指先に残る熱を読み取った。


【検体Vを確認。】


部屋の扉が自動的に閉じる。


窓の留め金も落ちた。


レイラが戦斧を抜く。


「やっぱり罠じゃねえか!」


「まだ攻撃反応はない!」


イリスが端末を操作する。


記録板の上に、一人の男の姿が投影された。


細身の身体。


整えられた灰色の髪。


白い手袋。


穏やかだが、どこか温度のない目。


ローデン・ヴァイス。


『この記録を見ているということは、ヴェスパー。あなたは海底から生還したのでしょう』


ヴェスパーは投影された男を睨む。


『まずは祝福を』


『王都は、あなたの帰還を心より歓迎します』


レイラが吐き捨てる。


「何が歓迎だ」


映像は返事をしない。


事前に残された記録だ。


『あなたは近いうちに、王都エリュシオンへ招かれます』


『断ることはできません』


『海都の救助者を守りたいなら、なおさらです』


ノアの手が木彫りの狼を握る。


召喚状が届く前に、この記録は用意されていた。


王都は最初から。


彼らが海底観測炉を生き延びることまで想定していた。


『ただし、一つだけ忠告しておきます』


映像のローデンが、ほんの僅かに目を細める。


『白銀門から王都へ入ってはいけない』


ハルトの眉が動く。


「白銀門は、王都の正門だ」


『王都評議会は、あなたを英雄として迎えるでしょう』


『星環教会は、あなたを選ばれた者と呼ぶでしょう』


『民衆は、あなたへ救いを求めるでしょう』


『そのすべてを信じてはいけません』


レイラが険しい顔をする。


「こいつ、私たちに警告してるのか?」


イリスは答えない。


映像を一言も逃さないように見ている。


『王都では、敵は剣を向けません』


『頭を下げ、笑顔で近付き、あなた自身の意思で檻へ入るように仕向けます』


ヴェスパーは、第一章から何度も経験した敵を思い出した。


砂漠の盗賊。


黒い翼。


竜熱を纏うドラグニル。


どれも、敵だと分かる姿をしていた。


だが王都では違う。


誰が敵なのか。


何を守ろうとしているのか。


剣を交えるまで分からないのかもしれない。


『王都へ入るなら、南東の巡礼者門を使いなさい』


『そして、第七星渠を探してください』


『そこに、星脈中枢へ続く本当の入口があります』


映像に雑音が走る。


ローデンの顔が崩れ始める。


イリスが端末を操作する。


「待って。まだ記録がある!」


『最後に――』


ローデンの声が途切れる。


映像の奥から、別の音が聞こえた。


鐘。


一度。


二度。


三度。


そして。


大勢の人間が、同時に同じ言葉を呟く。


『ひとつに』


『ひとつに』


『ひとつに』


ノアが両耳を押さえた。


「やめて……!」


アステルが彼の肩を抱く。


「ノア!」


「これ、記録じゃない!」


ノアの声が震える。


「今も聞こえてる!」


部屋にいる全員が彼を見る。


「王都から……今も同じ音がする」


投影されたローデンが、最後の言葉を残す。


『私を探す必要はありません』


『王都へ来れば、必ず会えます』


『その時、私が敵か味方か――』


映像の目が、ヴェスパーだけを見た。


『あなた自身で決めてください』


記録が途切れた。


黒い箱から煙が上がる。


「離れて!」


イリスが叫ぶ。


全員が飛び退いた直後、記録板が青白い炎を上げた。


ヴェスパーが残火を伸ばし、熱を外側へ逃がす。


爆発は起きなかった。


だが、記録板の大半は焼け落ちていた。


イリスが破片を拾い上げる。


「……最初から、一度しか再生できないように作られてた」


ハルトが閉ざされた扉を力任せに開ける。


「ローデンは何がしたい」


「王都へ誘導してる」


レイラが言った。


「でも、評議会や教会には近付くなとも言った」


セレスは焼けた記録板を見る。


「本当に警告したいのでしょうか」


「それとも」


イリスが続ける。


「私たちを、王都側が用意した道から外れさせたいのか」


どちらとも判断できない。


助けようとしているようにも見える。


もっと深い罠へ導こうとしているようにも見える。


ヴェスパーは壁に残された王都の地図を見た。


白銀門。


巡礼者門。


第七星渠。


「ローデンを信用する必要はない」


ハルトが言う。


「第七星渠も罠だと考えろ」


「ああ」


ヴェスパーは頷く。


「だが、調べる価値はある」


レイラが横目で見る。


「行く気だな」


「王都へは行く」


「そうじゃない。第七星渠だ」


ヴェスパーは少し考える。


「情報が足りない」


「つまり、行くんだな」


「合理的判断だ」


「最近、それで全部押し切ろうとしてないか?」



部屋を出た後も、ノアは王都から聞こえる音を探していた。


外は夕方。


灰都の風が、大きな兎耳を揺らす。


ヴェスパーが隣へ立つ。


「まだ聞こえるか」


「少しだけ」


ノアは目を閉じた。


「たくさんの人が、同じ速さで息をしてる」


「眠っているのか?」


「分からない」


耳を澄ませる。


「でも、怖い音じゃない」


「怖くない?」


「うん。苦しい音でもない」


ノアは胸へ手を当てた。


「幸せそうな音」


その言葉の方が、ヴェスパーには不気味に聞こえた。


泣き声なら、助けを求めていると分かる。


痛みなら、止めるべきものが分かる。


だが。


幸せそうな声を、救う必要があるのか。


その者たち自身が目覚めたくないと願ったら。


ヴェスパーは、まだ見ぬ王都を見つめた。


「ノア」


「何?」


「その声を忘れるな」


ノアは頷く。


「僕が聞く」


第二章で何度も口にした言葉。


だが今回は、少し違った。


道を聞くためではない。


王都に隠された人々の意思を、聞き分けるため。


「一人ずつ聞く」


ノアは言った。


「みんなが同じ声でも、本当は違うかもしれないから」


ヴェスパーは少年を見る。


「頼む」


「うん」



その夜。


灰都の南門に、白い灯りが並んだ。


砂漠を渡る大型車両。


銀色の装甲。


星と翼の旗。


王都騎士団。


予定では、使節団が到着するのは三日後だった。


だが彼らは、召喚状が届いた翌日に現れた。


門兵が白砂診療所へ駆け込み、声を上げる。


「ハルト副隊長!」


「王都から使者です!」


ハルトが立ち上がる。


「人数は」


「騎士が二十名。それと星環教会の司祭が一人」


「司祭?」


イリスの目が細くなる。


ヴェスパーたちは顔を見合わせた。


つい先ほど、ローデンの記録が警告した相手。


星環教会。


門の外から、澄んだ鐘の音が聞こえた。


ノアの大きな兎耳が、一瞬で伏せられる。


「この音……」


「王都から聞こえた音と同じだ」


診療所の扉が、ゆっくりと開いた。


白い法衣をまとった一人の女性が立っている。


銀色の仮面。


胸元には、七つの星を繋いだ紋章。


彼女はヴェスパーを見つけると、深く頭を下げた。


「初めまして、残火を宿す御方」


静かな声だった。


「星環教会の名において、あなたをお迎えに参りました」


女性は顔を上げる。


仮面の奥で、青白い瞳が光った。


「星脈に選ばれた、新たなる導き手よ」


ヴェスパーは剣の柄へ手を置かなかった。


代わりに、女性の後ろへ並ぶ騎士たちを見た。


全員が同じ姿勢。


同じ呼吸。


同じ瞬間に瞬きをしている。


ノアが小さく呟いた。


「……一つの音だ」


王都へ向かう旅は。


彼らが出発するより先に、すでに始まっていた。


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