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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 エピローグ 「海を守る者たち」

ヴェスパーたちを乗せた船が水平線の向こうへ消えてから、数時間が過ぎていた。


夕暮れのアズールハーバー。


灰青色の海は赤い光を細かく砕き、港へ運んでいる。


漁船が戻り、荷揚げ用の鎖が軋み、魚市場の店じまいを知らせる声が響く。


海霧亭の近くでは、海底旧区画から救出された者たちの搬送が続いていた。


リナ。


フィン。


ルカ。


名を奪われていた五人の器。


エリシアと、まだ自分の名前を思い出せない兄。


全員が黒い翼の手を離れ、海都の保護下へ移された。


少なくとも、今は。


港の外れにある古い防波堤に、一人の女が立っていた。


短い黒髪。


灰白色の肌。


額から後方へ伸びる海竜の角。


腕と背中を走る、青黒い幾何学模様。


カイラ・エラゼル。


黒い翼特務術師。


彼女の腰に、双刃輪はなかった。


武器は黒い翼の船へ残してきた。


持ち帰る必要がなかったからではない。


持っていれば、自分が再び黒い翼の兵として振る舞ってしまいそうだったからだ。


カイラは海を見ていた。


波の音は、幼い頃から変わらない。


寄せる。


砕ける。


引いていく。


それを永遠に繰り返す。


けれど、彼女の知る海は、もうどこにもなかった。


故郷の入り江。


石造りの家。


海竜の血を引く者たちが祈りを捧げた岩礁。


潮の満ち引きを読んでいた老人たち。


夜になると、子どもたちが火を囲んで聞いた古い竜の歌。


すべて、青い炎に呑まれた。


潮害。


海都の記録には、そう残されている。


異常潮流と海底熱源の噴出によって、集落は消滅した。


誰も悪くない。


自然の災害だった。


そう教えられてきた。


だが、黒い翼へ入った後。


カイラは知った。


あの日、近海で竜熱適応実験が行われていたことを。


実験記録の一部が消されていたことを。


そして黒い翼が、彼女の故郷から生き残った子どもたちを集めていたことを。


それでも、彼女は組織を離れなかった。


黒い翼の中にいれば、真実へ近付ける。


力を得られる。


二度と故郷を奪わせないための力を。


そう信じてきた。


「随分と難しい顔をしてるね」


背後から、女の声がした。


カイラは振り返らない。


重い足音。


迷いのない歩き方。


波の音に紛れない、強い呼吸。


誰なのか、姿を見る前から分かっていた。


「久しぶりだね、カイラ」


防波堤へ、一人のサメ獣人が上がってきた。


青灰色の肌。


鋭い歯。


橙色の瞳。


海風を受けても揺らがない、鍛えられた身体。


港守ユーシャ。


アズールハーバーの海上警備に協力し、時には密輸船も海賊も一人で追い払う女。


正式な警備隊員ではない。


それでも、港の人々は彼女を守り手として信頼している。


ユーシャはカイラから少し離れた場所で足を止めた。


「黒い翼の特務術師が、武器も持たずに港で黄昏れてる。珍しいものを見たよ」


「見逃せばいい」


「そうしてほしいのかい?」


カイラは答えなかった。


ユーシャの視線が、彼女の腰へ向く。


「双刃輪はどうした」


「置いてきた」


「捨てたのかい?」


「預けただけよ」


「誰に?」


「答える必要はない」


ユーシャは鼻で笑った。


「相変わらずだね。聞かれたくないことだけ、言葉が増える」


カイラはようやく振り返った。


「私を捕らえに来たの?」


「そのつもりなら、後ろに十人くらい連れてくるよ」


「十人で足りると思っているのね」


「昔より強くなったみたいだ」


「あなたも」


二人は互いを見つめた。


敵意はある。


だが、それだけではない。


長い時間を隔てた者だけが持つ、言葉にならない記憶。


幼い頃。


海竜の集落と、近隣の鮫人たちの港は交易を行っていた。


カイラとユーシャも何度か顔を合わせている。


親しい友人ではなかった。


会えば競い合い、何かにつけて口論した。


泳ぎの速さ。


潜れる深さ。


獲った魚の大きさ。


どちらが先に海底洞窟へ入れるか。


互いに負けを認めない二人だった。


あの日までは。


「死んだと思ってた」


ユーシャが言った。


カイラの瞳が僅かに揺れる。


「私もよ」


「だったら、生きてるって知らせるくらいできただろう」


「何のために?」


「何のためって……」


ユーシャは言葉を詰まらせた。


怒りが顔に出る。


「生き残った者同士だからだよ」


カイラは海へ視線を戻す。


「生き残ったからこそ、離れたの」


「黒い翼へ行くために?」


「力を得るために」


「海底へ子どもを沈める力かい?」


空気が冷えた。


カイラの指が僅かに動く。


武器はない。


それでも水は近くにある。


一瞬で刃を作れる。


ユーシャも分かっている。


だが、退かなかった。


「リナたちから聞いた」


ユーシャは続ける。


「黒い翼の船に閉じ込められて、海底観測炉へ運ばれていた。生きて戻れる保証もない実験だったそうだね」


「私が命じたことではない」


「でも止めなかった」


「私の任務ではなかった」


「任務じゃなければ、見ないふりをしていいのかい?」


「簡単に言わないで」


カイラの声が低くなる。


防波堤の下で、波が強く砕けた。


「黒い翼へ反抗すれば、施設ごと処分される。私一人が剣を向けたところで、子どもたちも、研究対象も、海底旧区画も消されていた」


「だから従った?」


「生き残らせるためよ」


「誰を?」


カイラは答えられなかった。


海を守る。


故郷のような場所を、二度と失わせない。


そのために黒い翼の内部へ入り、力と情報を得る。


自分が汚れることで、いつか大きな破壊を止められる。


そう思っていた。


だが、守ってきたのは何だったのか。


黒い翼の船か。


施設か。


研究記録か。


自分がいつか真実へ届くという、曖昧な希望か。


「海を守るためよ」


カイラは言った。


それは何度も自分へ言い聞かせてきた言葉だった。


ユーシャの表情は変わらない。


「海は、守ってくれって言ったのかい?」


「何が言いたいの」


「海は場所じゃない」


ユーシャは港の方を指した。


「魚を獲る人間がいる。船を直す職人がいる。市場で働く者がいる。海を初めて見て喜ぶ子どもがいる」


海底から救われたルカが、診療所の窓から海を眺めていた。


その隣にはリナがいる。


片足を固定されたフィンも、椅子へ座って外を見ている。


「そういう連中が生きて、初めて海になる」


ユーシャの声が強くなる。


「誰もいない水だけ残して、それを守ったと言うつもりか?」


カイラの脳裏に、海底水路でのヴェスパーの言葉が蘇った。


――目の前の命を捨てない。それを続けるだけだ。


世界を変えられるかと問うた。


彼は、変わるかもしれないと答えた。


確実ではない。


計画もない。


大きな理想を証明する数字もなかった。


それでも彼は、助けを求める声を聞くたびに足を止めた。


追跡が遅れても。


罠だと分かっていても。


自分が傷ついても。


子どもたちを船から救った。


番号だった者へ名前を返した。


壊すべき施設の中で、怪物と呼ばれた者まで助けた。


「甘い考えね」


カイラが呟く。


ユーシャは肩をすくめる。


「誰のことだい?」


「黒陽炎の弟子」


「あの金髪か」


「会ったの?」


「話してはいない。船を見送っただけさ」


カイラは海を見る。


「彼は、目の前の命を捨てないと言った」


「まともじゃないね」


ユーシャは即答した。


カイラが少しだけ目を見開く。


「あなたなら賛同すると思った」


「全部救うなんて無茶だ。海でそんな判断をすれば、全員溺れることもある」


「なら、彼は間違っている」


「でも」


ユーシャは海底から救出された者たちを見る。


「今回は、連れて帰ってきた」


カイラは黙った。


「正しいかは知らない。次も成功する保証はない。だけど、あいつの無茶で生き残った者がいる」


ユーシャはカイラをまっすぐ見た。


「それを見たうえで、まだ何も変わらないと言えるかい?」


港の鐘が鳴った。


一度。


夕方の船へ帰港を促す音。


潮鳴りの街へ、低い余韻が広がる。


カイラは答えなかった。


世界は変わっていない。


黒い翼は健在。


オルディスは王都へ向かった。


器計画も続いている。


大災厄が再び起きる可能性も消えていない。


だが、リナたちは生きている。


海底観測炉は止まった。


そして自分は、ヴェスパーたちへ最後の攻撃をしなかった。


命令へ背いた。


ほんの一瞬の迷いだった。


その小さな選択で、彼らは逃げ切った。


自分もまた。


世界の一部を変えてしまったのかもしれない。


「私は王都へ行く」


カイラが言った。


ユーシャの表情が険しくなる。


「黒い翼へ戻るのか」


「オルディスは星脈中枢で次の計画を始める」


「止めるつもりかい?」


「まだ分からない」


「曖昧だね」


「黒陽炎の弟子と同じよ」


カイラの口元に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。


「彼も、世界が変わるかは分からないと言った」


「でも進んだ」


「ええ」


カイラは港へ向かって歩き始める。


王都行きの黒い船が、外れの桟橋で待っている。


ユーシャはその背中へ声を投げた。


「カイラ」


彼女が足を止める。


「次に会った時、黒い翼の兵として海を傷つけるなら、私が止める」


カイラは振り返らない。


「できるの?」


「やってみるかい?」


昔と同じ言葉だった。


泳ぎの速さを競った時。


深い海底洞窟へ入ろうとした時。


互いに挑発し合った頃の言葉。


カイラは小さく息を吐く。


「相変わらずね」


「そっちも」


少しの沈黙。


ユーシャは続けた。


「でも、戻りたいなら港は閉じない」


カイラの肩が僅かに動いた。


「敵を受け入れるの?」


「海は、迷った船をすぐには沈めない」


「沈める時もある」


「それは舵を切らない馬鹿な船だけさ」


カイラは目を伏せた。


戻る。


その言葉を、自分に向けられる日が来るとは思わなかった。


故郷はない。


家族もいない。


黒い翼以外に、自分の帰る場所など残っていない。


そう思っていた。


「甘いのね、ユーシャ」


「海は塩辛いよ」


「つまらない冗談」


「昔は笑った」


「笑ってない」


「負けたのが悔しくて泣いてたね」


カイラは振り返り、ユーシャを睨んだ。


「次に会った時、その記憶ごと沈める」


ユーシャは鋭い歯を見せて笑う。


「待ってるよ」


カイラは再び歩き出した。


今度は止まらなかった。


王都行きの船は、黒く細い船体を持っていた。


帆には紋章がない。


表向きは交易船。


だが船底には、黒い翼の機関が積まれている。


桟橋には黒い外套を着た兵が二人待っていた。


「特務術師カイラ」


「出航準備は」


「完了しています」


「オルディス博士から追加命令です」


兵が黒い通信筒を差し出した。


カイラは受け取り、封印を開く。


青白い映像が浮かぶ。


オルディス。


『海都での任務、ご苦労さまでした』


「失敗よ」


『価値ある失敗です』


「器候補をすべて失った」


『新たな原型を発見しました』


ヴェスパーたち六人。


異なる意思を持ちながら、強制されずに連携する者たち。


オルディスが次に求める器。


『星脈中枢で、計画は最終段階へ移ります』


カイラは映像を見つめる。


「また人を使うの」


『人でなければ、世界を救えません』


「その人が拒んでも?」


『未来を理解できない者に、未来を選ぶ権利を与えるべきでしょうか』


以前のカイラなら、何も感じなかったかもしれない。


理解できない者を導く。


弱い者の代わりに強い者が判断する。


多くを救うため、少数を切り捨てる。


必要な選択だと信じていた。


だが今は。


その言葉の向こうに、リナたちの姿が浮かぶ。


番号で呼ばれた子ども。


助けてと声を上げた零式。


生きたいと願った者たち。


そして、すべてを救おうとした者。


「博士」


『何でしょう』


「私の故郷で行われた竜熱実験について、記録を見せて」


映像のオルディスは、一瞬だけ沈黙した。


『今、その質問が必要ですか』


「必要かどうかは、私が決める」


『あなたは黒い翼の特務術師です』


「だからこそ、知る権利がある」


オルディスの微笑みが薄くなる。


『王都へ到着後、話しましょう』


「その言葉、忘れないで」


『もちろんです』


通信が切れた。


カイラは通信筒を握りしめる。


答えを与えるつもりがない。


あるいは、王都へ来させるための餌。


分かっている。


それでも行く。


真実を確かめるために。


黒い翼へ従うためではない。


ヴェスパーを捕らえるためでもない。


自分が何を守ろうとしてきたのか。


その答えを見つけるために。


「出航します」


黒い翼の兵が告げる。


係留索が外される。


船が桟橋から離れる。


港の灯りが少しずつ遠ざかっていく。


カイラは船尾に立ち、アズールハーバーを見た。


ユーシャはまだ、防波堤に立っていた。


小さくなっていく船を、黙って見送っている。


港は閉じない。


迷った船が、戻ろうとする限り。


カイラは胸元へ手を当てた。


海を守るためなら、何を捨ててもいい。


そう信じてきた。


故郷も。


名前も。


自分の感情も。


必要なら、人の命さえ。


だが、すべてを捨てた後に残る海は。


本当に自分が守りたかったものなのか。


答えはまだ出ない。


ただ、一つだけ分かった。


迷いは弱さではない。


立ち止まり。


見直し。


別の道へ舵を切るために必要なものかもしれない。


港の鐘が、二度目を鳴らした。


濃い海霧が船を包み始める。


やがて三度目の鐘が鳴る。


カイラを乗せた黒い船は、王都エリュシオンへ続く航路へ入った。


星脈中枢。


オルディスの次なる計画。


再び現れる黒陽炎の弟子。


その時、自分はどちら側に立つのか。


まだ決めていない。


だが今度は。


誰かに決めさせるつもりもなかった。


海霧の中で、カイラの赤い瞳が静かに光る。


その光は黒い翼のものではない。


迷いながらも消えずに残る、小さな意志の火だった。


遠ざかる船を、ユーシャは最後まで見送っていた。


波が防波堤へ打ち寄せる。


海は何も答えない。


ただ、帰る場所があることを示すように。


同じ音を繰り返し続けていた。




第2章  ――完――

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