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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第26話 「海霧の夜明け」

船が海面を突き破った。


白い水柱が夜明け前の空へ立ち上がり、冷たい潮風が甲板を駆け抜ける。


長く海底に閉じ込められていた者たちは、突然差し込んだ光に目を細めた。


空。


雲。


水平線。


そして、夜の名残を溶かしながら昇り始める朝日。


ノアは濡れた耳当て布を外し、海の音を聞いた。


波が船腹へぶつかる。


帆が風を受けて震える。


遠くで海鳥が鳴く。


船に乗る人々の呼吸が重なる。


海底に入る前より、ずっと多くの命の音があった。


「戻ってきた……」


ノアが呟く。


隣に座っていたアステルも、水平線を見つめていた。


「はい」


彼女は疲れ切っていた。


それでも、その表情には穏やかな安堵がある。


ノアは胸元から木彫りの狼を取り出した。


潮風に向けるように、両手で持ち上げる。


「兄ちゃん」


波音の中で、静かに語りかけた。


「海の底まで行ったよ」


「すごく暗くて、怖くて……変な音がたくさんあった」


少しだけ声が震える。


「でも、助けを求めてる声も聞こえた」


ノアは船上の人々を振り返った。


リナ。


フィン。


ルカ。


名前を失っていた五人。


エリシアと、その兄。


全員が生きている。


傷ついている。


これから長い治療が必要になる者もいる。


それでも、確かに呼吸していた。


「僕、ちゃんと聞いたよ」


ノアは木彫りの狼を胸へ戻した。


「だから今度は、生きてる人の声を忘れない」


アステルは彼の隣で、小さく頷いた。


「きっと、お兄さんも聞いています」


ノアの耳が少しだけ動く。


「うん」


海霧の向こうから、朝日が昇り始めた。


セレスは船上でも休まなかった。


仮設の治療区画を回り、患者たちの状態を一人ずつ確認している。


「フィン君、足の感覚はありますか」


毛布の中で、獣人の少年が小さく頷く。


「少し……痛い」


「痛いと言えて偉いです」


セレスは結晶化した足に新しい薬布を巻いた。


「完全に感覚がなくなるより、今は痛みがある方が安心できます。ですが、我慢する必要はありません」


「分かった」


リナはその隣で、ルカの手を握っていた。


首元の呼吸器具はまだ外せない。


けれど、海底観測炉を離れてから、呼吸音は少しずつ安定している。


ノアが聞き取った名前を呼ぶたびに、ルカの指はかすかに動いた。


「ルカ」


リナが呼ぶ。


ルカの瞼が震える。


「私、リナ」


隣の担架を指す。


「あっちはフィン」


そして、周囲を見回した。


「もう番号じゃないから」


ルカの喉から、かすかな音が漏れた。


言葉にはならない。


それでもリナには、返事に聞こえた。


セレスは三人を見て、静かに言う。


「海都に着いたら、正式な治療施設を探します。黒い翼と関係のない場所を」


船の舵を握るノアールが振り返らずに答える。


「信用できる診療所なら心当たりがある」


イリスが横から口を挟む。


「情報料は?」


「今回はガルムへの借りに含めておく」


「ずいぶん気前がいいね」


「船を半分壊されたから、差し引きでは損だよ」


レイラが船体の傷を見た。


「半分は残ってるだろ」


「船は半分残っていればいいというものではない」


「動いてるぞ」


「奇跡的にね」


イリスが笑う。


「この船、潮猫丸より頑丈そうだけど」


ノアールは低くため息をついた。


「次から君たちへ船を貸す時は、先に修理代を取ることにする」


「次も貸すつもりなんだ」


「言葉の綾だ」


エリシアは船の中央で、兄のそばに座っていた。


巨大だった身体を覆っていた黒い結晶は、観測炉から離れるにつれて少しずつ剥がれている。


その下から現れた身体は、まだ人としての形を残していた。


だが、胸元の七色核は消えていない。


そこには黒い翼によって埋め込まれた力と、三百年の苦痛が残っている。


セレスが核へ手を当てる。


「安定はしています。ただし、いつ再び因子同士が反発するか分かりません」


兄は掠れた声で答えた。


「それでも……生きてる」


「はい」


「不思議だな」


彼は自分の手を見る。


黒い結晶の隙間から、人間だった頃の指が見えている。


「ずっと終わりたいと思っていた」


エリシアが、その手を強く握った。


兄は妹を見る。


「名前を思い出してから、終わりたくなくなった」


「なら、生きて」


「簡単に言う」


「兄さんが昔、私に言った言葉」


兄は目を細めた。


記憶の奥を探る。


「……そうだったか」


「たぶん」


エリシアは少しだけ笑った。


「全部は思い出せないけど、それでいい」


兄は静かに海を見た。


三百年前にも、この海を見たことがあったのだろうか。


妹と共に歩いた街があったのだろうか。


今はまだ、ほとんど何も思い出せない。


だが、これから新しい記憶を作ることはできる。


「俺の名前は」


彼が呟く。


エリシアは首を横に振った。


「まだ分からない」


「零式のままか」


「嫌?」


「黒い翼が付けた名だ」


兄は胸元へ手を当てた。


「捨てたい」


ノアが近くから会話を聞いていた。


「じゃあ、自分で決めたら?」


兄妹が彼を見る。


ノアは少し気まずそうに耳を動かす。


「名前を思い出せないなら、新しく選んでもいいと思う」


兄はしばらく黙った。


エリシアが微笑む。


「それもいいかもしれないね」


「名前は……自分で選べるものなのか」


アステルが答えた。


「これからの自分を選ぶための名前なら、きっと」


兄は朝日に染まる海を見た。


すぐには決められない。


だが、その問いを考える時間がある。


それだけで十分だった。


船尾では、レイラが海底旧区画の方向を見張っていた。


霧の向こうには何も見えない。


黒い翼の船。


オルディス。


カイラ・エラゼル。


すべて海の奥へ消えている。


ヴェスパーが隣に立った。


脇腹には新しい包帯が巻かれている。


「傷は」


レイラが聞く。


「痛い」


「素直だな」


「セレスに隠しても無駄だ」


「ようやく学んだか」


レイラは笑い、すぐに真面目な顔へ戻った。


「カイラってやつ、追ってこなかったな」


「ああ」


「逃がされたようにも見えた」


ヴェスパーもそう感じていた。


追う力がなかったわけではない。


最後の会話のあと、カイラは武器を下ろし、整備水路へ入る船を見送った。


黒い翼の命令に従うなら、もっと攻撃できたはずだ。


「迷っていた」


「お前の答えを聞いて?」


「分からない」


レイラは海を見た。


「敵だけど、完全に黒い翼の考えってわけじゃなさそうだな」


「そうだな」


「面倒なやつが増えた」


「お前が言うのか」


「どういう意味だ」


「そのままだ」


レイラは肘でヴェスパーの肩を軽く押した。


脇腹に響いたらしく、彼の表情がわずかに歪む。


「痛い」


「悪い」


「素直だな」


「うるさい」


二人はしばらく海を見た。


やがてレイラが尋ねる。


「世界、変わると思うか」


カイラから投げかけられた問い。


目の前の命を捨てない。


それを続けるだけで、世界は変わるのか。


ヴェスパーはすぐには答えなかった。


「分からない」


「そうか」


「だが、昨日まで番号だった者に名前が戻った」


ヴェスパーは船上を見た。


「死ぬはずだった者が、生きたいと言った」


「それは世界が変わったことにならないか」


レイラは少し考えた。


「その人にとっては、世界全部が変わったかもな」


「ああ」


「なら、十分じゃないか」


「まだだ」


ヴェスパーは水平線を見る。


「十分じゃない。だが、無意味でもない」


レイラは満足そうに笑った。


「それでいい」


潮鳴りの街が見えてきた。


青い屋根。


石造りの家々。


海霧に浮かぶ灯台。


港の鐘。


船の帰りを告げる音が、朝の海へ響いていく。


ノアは耳当て布を少し直した。


今度は鐘の音に怯えなかった。


大きい。


頭の奥まで響く。


それでも、その音が何を告げているか分かる。


帰還。


港の人々が騒ぎ始めた。


ノアールの船は予定より遅く、さらに定員を大幅に超えた状態で戻ってきた。


甲板には負傷者。


見知らぬ子どもたち。


結晶核を持つ者たち。


海底から戻ったとは思えない一団。


港の警備員が集まり、船を取り囲む。


「ノアール!」


一人が叫んだ。


「何を連れてきた!」


ノアールは帽子を押さえながら答える。


「患者だ」


「その数が患者で済むか!」


「なら遭難者でもいい」


「どこで見つけた!」


「海の底」


「ふざけているのか!」


セレスが船から降りた。


警備員たちの前に立つ。


「重傷者がいます。事情の確認より、治療施設への搬送を優先してください」


その落ち着いた声と、逆らいにくい視線。


警備員は一瞬言葉を失った。


「しかし、身元が――」


「治療を受けるのに身元は必要ですか」


「い、いや……」


「では搬送を」


「……分かった」


レイラがヴェスパーへ小声で言う。


「海都でも強いな」


「医者だからな」


ノアールが呟く。


「港の規則より強い医者は珍しい」


イリスが笑った。


「世界共通だよ」


患者たちは順番に船から運び出された。


フィンは担架の上で港を見た。


魚市場。


船。


人々。


初めて見る普通の街。


「黒い翼の人、いない?」


不安そうに尋ねる。


リナが彼の手を握る。


「今は大丈夫」


セレスも続ける。


「私たちが確認します」


ルカは海風を受け、目を開いた。


青い瞳に、朝日が映る。


小さな音が喉から漏れる。


ノアは耳を澄ませた。


「きれい、って言った」


リナが笑う。


「うん。きれいだね」


海霧亭の二階奥。


患者たちの搬送を終えたあと、ヴェスパーたちは再び同じ部屋へ集まっていた。


今回は黒猫の通信器だけではない。


窓際にノアール本人が立っている。


顔の下半分は、まだ布で隠したままだった。


机の上には、海底観測炉から持ち出した記録媒体が並ぶ。


イリスは一つずつ内容を確認していた。


「観測炉の実験記録。器候補の名簿。黒い翼の海上輸送路。それと王都エリュシオンの星脈中枢」


ハルトへ送るための情報を分類する。


「かなり取れた。でも、オルディスの本体に繋がる情報は薄い」


ノアールが言う。


「奴は自分の痕跡を残さない」


「でもカイラの部隊記録はある」


画面に、海竜系亜竜人の識別情報が表示される。


カイラ・エラゼル。


黒い翼特務術師部隊。


海上・海底での捕獲、輸送、施設防衛を担当。


「黒い翼の思想に完全に共鳴してるわけじゃなさそうだった」


レイラが言う。


ノアールはカイラの名前を見て、少し目を細めた。


「彼女は海都の生まれだ」


「知っているのか」


ヴェスパーが聞く。


「直接の知り合いではない。だが、海都で海竜の血を引く者は少ない」


ノアールは窓から港を見る。


「幼い頃に故郷の集落を失っている。潮害と呼ばれているが、実際は竜熱実験の事故だったという噂もある」


イリスが画面を止めた。


「黒い翼の事故?」


「証拠はない」


「その黒い翼へ、なぜ入った」


「守るための力が必要だったからだろう」


レイラが眉をひそめる。


「自分の故郷を壊したかもしれない組織に?」


「真実を知らないのかもしれない。知っていて利用しているのかもしれない」


ノアールは肩をすくめた。


「人が敵になる理由は、一つではない」


ヴェスパーはカイラの言葉を思い出す。


――次に会う時まで、その答えを忘れるな。


彼女とは、また会う。


敵としてか。


別の立場としてか。


まだ分からない。


イリスは王都の記録を開いた。


古い設計図。


地下深くに広がる巨大な導管。


大陸を巡る星脈と呼ばれるエネルギーの流れ。


その中心に建てられた王都エリュシオン。


「星脈中枢は、王都の地下にある」


イリスが説明する。


「大災厄前の動力施設。でも現在は王都の中央聖堂と評議院が管理してることになってる」


「黒い翼が入り込んでいるのか」


セレスが聞く。


「海底観測炉の記録では、かなり前からね」


レイラが腕を組む。


「王都の偉いやつらまで敵ってことか?」


「全員ではないと思いたい」


「思いたい、か」


「灰都の内通者すらまだ特定できてない。王都はもっと複雑だよ」


ヴェスパーは地図を見た。


エリュシオン。


ガルムの残滓が示した先ではない。


オルディスが次に選んだ舞台。


多くの人間。


権力。


制度。


宗教。


軍。


これまでのように、敵を斬れば終わる場所ではない。


「すぐに王都へ向かうのは危険です」


セレスが言った。


「海底から助けた人々の処遇も決める必要があります。アステルさんとノア君も休養が必要です」


アステルは椅子に座り、毛布をかけられていた。


「異論はありません」


レイラが驚く。


「素直だな」


「倒れないことも役目ですから」


ノアも頷く。


「僕も休む。海の音、まだ頭に残ってる」


「良い判断です」


セレスは満足そうに言った。


ヴェスパーは地図から顔を上げる。


「一度、灰都へ戻る」


イリスが頷く。


「ガルムへ海底観測炉の記録を見せる必要もある。ハルトの内通者調査も確認したい」


レイラが笑う。


「今度こそゆっくり飯が食えるか?」


セレスが答える。


「移動中の食事は適量です」


「魚を買って帰ろう」


「保存できる分だけです」


「交渉の余地はあるな」


「ありません」


その日の夕方。


海都アズールハーバーから、灰都へ暗号通信が送られた。


イリスが作成した報告。


海底旧区画の状況。


観測炉の停止。


救出者の人数。


カイラ・エラゼルの存在。


王都星脈中枢の情報。


しばらくして、灰都から返事が届いた。


最初に表示されたのは、ハルトの文章だった。


【報告を確認した。


灰都の内通者調査は継続中。

ローデン・ヴァイスは失踪。

海都行きの密輸記録と一致する痕跡を発見した。


王都への通行許可について、こちらから準備を始める。

帰還するまで勝手に死ぬな。】


イリスが少し笑う。


「ハルトらしい」


その下に、別の短い音声記録がついていた。


再生すると、低く掠れた声が部屋へ流れる。


ガルム。


『海底観測炉を壊したらしいな』


『馬鹿弟子にしては、よくやった』


ヴェスパーは黙って聞く。


『黒陽炎の残滓が消えたことも確認した』


一瞬の間。


『それでいい』


『あれは俺じゃない』


『力も、後悔も、過去に残った影だ』


『お前が追う必要はない』


ガルムの声は、少しだけ穏やかだった。


『自分の熱を見つけたなら、持って帰れ』


『次の修行で確かめる』


レイラが笑う。


「やっぱり修行する気だ」


セレスが静かに言う。


「ガルムさんには治療が先です」


通信の向こうに聞こえるはずもないのに、その場にいた全員がガルムの反応を想像した。


最後に、声が続く。


『ヴェスパー』


『仲間を捨てなかったな』


ヴェスパーの目が僅かに揺れる。


『……よく戻った』


音声はそこで終わった。


部屋に静寂が落ちる。


ヴェスパーは通信器を見つめたまま、しばらく動かなかった。


レイラも何も言わない。


イリスは端末を閉じる。


セレスは静かに待つ。


アステルとノアも、その言葉を邪魔しなかった。


やがてヴェスパーは小さく答えた。


「ただいま」


遠い灰都へ。


診療所で待つ師へ。


声は届かない。


それでも、言うべき言葉だった。


夜明けから一日が過ぎ、海霧の街に夕暮れが訪れた。


港の外れ。


一人の女が、遠くから海霧亭を見ていた。


短い黒髪。


褐色の肌。


額から伸びる海竜の角。


カイラ・エラゼル。


彼女の両手には、双刃輪がない。


武器は黒い翼の船へ置いてきた。


背後から、黒い翼の通信音が鳴る。


『特務術師カイラ』


オルディスの声。


『器候補奪還の失敗について、報告を』


カイラは海霧亭の窓を見た。


そこには、救出された子どもたちの姿が一瞬だけ見える。


リナが食事を受け取り。


フィンが松葉杖の練習をし。


ルカが窓から海を見ている。


「船は術式膜崩壊に巻き込まれました」


カイラは淡々と答えた。


『ヴェスパーたちは』


「逃亡」


『追跡できなかった理由は』


カイラは少しだけ黙った。


本当は追えた。


水路へ入る前に、もう一度攻撃できた。


だが、ヴェスパーの答えが耳から離れなかった。


――目の前の命を捨てない。それを続けるだけだ。


「海底構造の崩壊により、追跡不能」


嘘だった。


通信の向こうで、オルディスは数秒沈黙した。


『そうですか』


見抜かれたかもしれない。


それでも、彼は追及しなかった。


『王都へ戻りなさい』


「次の任務は」


『星脈中枢の警護です』


『黒陽炎の弟子は、いずれ王都へ来る』


カイラの赤い瞳が細くなる。


「了解」


通信が切れた。


彼女はもう一度、海霧亭を見る。


「次に会う時まで」


誰にも聞こえない声で呟く。


「その答えを、私も考えておく」


カイラは夕暮れの港から姿を消した。


翌朝。


ヴェスパーたちは灰都へ戻る船へ乗り込んだ。


海底から救出した者たちは、しばらく海都で治療を受ける。


ノアールが信用できる医師と住居を用意した。


イリスは海都へ情報網を残し、いつでも状況を確認できるようにした。


出発前。


リナがヴェスパーへ近付いた。


「また来る?」


「ああ」


「絶対?」


「絶対だ」


以前なら、少し迷ったかもしれない。


今は迷わなかった。


リナは頷く。


フィンは松葉杖を支えに立ち、レイラへ小さく手を上げた。


「今度、斧を持たせて」


レイラが笑う。


「まず足を治せ。そしたら軽いやつからだ」


セレスが即座に言う。


「治療後も、危険な武器は許可しません」


「先生、厳しい……」


「当然です」


ルカはノアへ、小さな貝殻を渡した。


海底旧区画から持っていたものらしい。


ノアが耳へ当てる。


「海の音がする」


ルカの喉が小さく震える。


「忘れないで、って言ってる」


ノアは貝殻を大切に握った。


「忘れない。絶対」


エリシアと兄も、海都に残ることを選んだ。


兄の新しい名前は、まだ決まっていない。


だが、彼は自分の足で船着き場に立っていた。


黒い結晶の残る身体を支えながら、ヴェスパーを見る。


「名前が決まったら、伝える」


「待っている」


「王都へ行くのか」


「いずれな」


兄は胸元の核へ触れた。


「星脈中枢には、俺たちより古い器がいるかもしれない」


「何か思い出したのか」


「夢のようなものだ」


彼は王都の方角を見る。


「多くの声が、一つに重なる場所」


オルディスが進める次の計画。


複数の人間を、一つの意思へ同期させる。


ヴェスパーは静かに頷いた。


「必ず止める」


兄は言った。


「止めるだけでは足りないかもしれない」


「なら、助ける」


その答えに、兄は僅かに笑った。


「そう言うと思った」


船が港を離れる。


潮鳴りの街が遠ざかる。


ノアールは桟橋に立ち、帽子を軽く上げた。


ユーシャと呼ばれるサメ獣人の港守が、その少し離れた場所から船を見送っていた。


まだヴェスパーたちと言葉を交わしてはいない。


だが、黒い翼に荒らされた海と、海底から救い出された者たちを見ていた。


彼女は腕を組み、小さく呟く。


「海の底まで騒がしくしてくれたね」


ノアールが隣で言う。


「次に来た時は、君の出番かもしれない」


ユーシャは橙色の瞳を細めた。


「貸し借りは嫌いだ」


「海では避けられないよ」


「なら、高く取る」


二人の前で、船は海霧の向こうへ消えていった。


ヴェスパーは船首に立っていた。


海風が金色の髪を揺らす。


彼の指先に、小さな熱が灯る。


黒陽炎ではない。


ガルムの残滓でもない。


巨大な炎でもない。


誰かを焼くためだけの力でもない。


小さく。


薄く。


消えそうで、消えない。


仲間の位置を示し。


道を繋ぎ。


守るべきものへ届く牙。


残火。


ヴェスパーは手を閉じ、その熱を胸の奥へ戻した。


第二章で追い続けた黒陽炎の残滓は消えた。


だが、失われたのではない。


師から受け取った言葉。


仲間と積み重ねた選択。


救い出した者たちの名前。


それらは彼自身の中に残っている。


レイラが隣へ来た。


「次は王都か」


「まず灰都へ戻る」


「修行か?」


「治療だ」


後ろからセレスの声が飛ぶ。


「両方です。ですが治療が先です」


レイラが笑う。


「聞こえてたか」


「当然です」


イリスは王都の地図を端末へ映した。


「灰都の内通者。失踪したローデン。王都の星脈中枢。カイラも次はそこにいるかもね」


アステルは海を見つめながら言う。


「王都には、どれほど多くの人がいるのでしょう」


ノアが耳を動かす。


「たくさんの声があると思う」


「聞けるか」


ヴェスパーが尋ねる。


ノアは少し考えた。


「全部は無理」


そして、笑った。


「でも、一人ずつなら聞ける」


ヴェスパーは頷いた。


「それでいい」


船は灰都へ向かって進む。


背後には海霧。


前には砂漠。


そのさらに先に、王都エリュシオン。


世界を変えようとする者たちが集まる場所。


誰もが違う正義を持ち。


違うものを守ろうとし。


違う未来を望んでいる。


オルディスは犠牲によって世界を残そうとする。


ドラグニルは力によって世界を選別しようとする。


カイラは守るために敵となる。


そしてヴェスパーは。


誰も捨てないという、不可能に近い道を歩く。


正解はまだない。


だが、仲間がいる。


ならば何度でも、道を探せる。


朝日に照らされた海の上を、一筋の残火が駆けた。


それは消えることなく、次の地平へ続いていた。

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