第2章 第25話 「黒陽炎の残滓」
潮見屋ノアールの船は、海底旧区画の連絡水路を進んでいた。
細長い船体。
黒い帆。
船首に刻まれた波と黒猫の印。
潮猫丸よりも頑丈ではあるが、これほど多くの人間を運ぶようには作られていない。
甲板には、救出された者たちが並んでいた。
リナ。
フィン。
ルカ。
名前を奪われていた五人の器。
そして、三百年の眠りから戻ったエリシアと、その兄。
零式と呼ばれていた男には、まだ本当の名前が戻っていない。
彼自身も思い出せていなかった。
それでも、エリシアは兄の手を離さなかった。
セレスが船の中央に簡易治療区画を作り、全員の状態を見ている。
アステルは毛布に包まれ、壁際で休んでいた。
ノアはその隣に座り、耳当て布を少しだけ緩めている。
レイラは船尾で戦斧を抱え、後方を警戒していた。
イリスはノアールと共に操舵室にいる。
そしてヴェスパーは、一人、船首に立っていた。
遠ざかっていく海底観測炉。
青白い光が、暗い水路の奥で弱く明滅している。
止めたはずの炉。
壊した主制御核。
救い出した命。
それでも、胸の奥に残る違和感が消えない。
何かが終わっていない。
「気付いているか」
背後からノアールの声がした。
ヴェスパーは振り返らない。
「何に」
「海が静かすぎる」
水路の両側には、古い海底都市の建物が続いている。
天井の術式膜の向こうには海水がある。
本来なら、流れや圧力による振動が絶えず響くはずだった。
だが今は、何も聞こえない。
船が進む音さえ、闇に吸い込まれているようだった。
北部坑道深層。
音の消えた道。
ヴェスパーはあの場所を思い出す。
「黒い翼の術式か」
「海底旧区画には、まだ生きている設備が多い」
ノアールは帽子のつばを下げた。
「観測炉を壊した程度で、すべてが止まるとは思わない方がいい」
「先に言え」
「聞かれなかったからね」
レイラが船尾から怒鳴った。
「情報屋って、どいつもこいつもその言い方するのか!」
操舵室からイリスの声が返る。
「私は必要なことは言うよ!」
「言わない時もあるだろ!」
「値段による!」
「やっぱり同じじゃねえか!」
少しだけ、船内の緊張が緩む。
だが、ノアだけは笑わなかった。
彼の耳が、ゆっくりと立ち上がる。
「……来る」
全員が静かになった。
ヴェスパーが聞く。
「何が」
ノアは目を閉じた。
「船」
「黒い翼か?」
「一つじゃない。前に二つ。後ろに一つ」
イリスが操舵室の端末を確認する。
「反応なし。こっちの索敵を消してる」
ノアールが舵を握り直す。
「海都の船ではない。こんな深さへ入れる民間船は少ない」
ノアの顔が強張る。
「後ろの船、大きい。水を押す音が重い」
レイラが戦斧を担ぐ。
「追手だな」
セレスは患者たちの前に立った。
「戦闘を避けられませんか」
ノアールが答える。
「前後を挟まれている。横は海底都市の壁。上は数千トンの海水」
「選択肢が少ないですね」
「この世界では、よくあることだ」
ヴェスパーの目が細くなる。
選択肢。
その言葉を聞くだけで、オルディスの顔が浮かぶ。
「また、選ばせるつもりか」
船内の黒猫型通信器が、青く光った。
雑音。
そして、聞き慣れた穏やかな声。
『その通りです』
オルディス。
レイラが戦斧を通信器へ向ける。
「今度こそ、その顔を直接殴らせろ!」
『海底で船を壊すのはお勧めしません』
「お前が言うな!」
イリスが通信経路を探る。
「今度は近い。後方の大型船から中継してる」
『解析が早いですね、イリス』
「褒められても嬉しくないよ」
オルディスは気にした様子もなく続けた。
『観測炉の停止は予想外でした。零式と一号の生存も、五名の器候補の制御解除も』
ヴェスパーが低く言う。
「失敗を認めるのか」
『いいえ』
通信器の光が強くなる。
『あなた方は、極めて価値の高い結果を示した』
「まだ実験のつもりか」
『あなた方が仲間と呼ぶ繋がり。それぞれ異なる能力を持つ個体が、強制制御なしに一つの目的へ向かう現象』
イリスの表情が険しくなる。
「複数の人間を一つの意思へ同期させる……」
『その通りです』
セレスの声が冷える。
「仲間を器として扱うつもりですか」
『器とは、一つの身体である必要はありません』
『熱を担う者』
『力を担う者』
『情報を担う者』
『命を維持する者』
『空間を支える者』
『音を聞く者』
オルディスの声が、一人ずつを数える。
ヴェスパー。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
ノア。
『六つの個体が、互いの欠損を補い、単独では不可能な結果を生む』
『あなた方こそ、私が探していた器の原型です』
ノアの耳が下がる。
アステルが彼の手を握った。
レイラは吐き捨てるように言う。
「私たちは、誰かの部品じゃない」
『本人がどう認識するかは、機能に影響しません』
ヴェスパーの指が剣の柄を握る。
怒るな。
熱を上げるな。
オルディスは、それを待っている。
「要件を言え」
『零式と一号を返してください』
エリシアの身体が震えた。
兄が彼女の前へ腕を出す。
『さらに、五名の器候補と三名の海底適応候補も』
リナが息を呑む。
フィンが毛布の中で小さく身を縮める。
ルカの呼吸器具が、苦しそうな音を立てた。
『そうすれば、あなた方の船を海上へ通します』
レイラが笑った。
冷たい笑いだった。
「断る」
『まだヴェスパーへ聞いていません』
「聞く必要があるか?」
レイラはヴェスパーを見る。
「ないよな」
「ああ」
ヴェスパーは通信器へ言った。
「全員連れて帰る」
『では、海底術式膜を解除します』
イリスが顔を上げる。
「待って。あんたにそんな権限は――」
船の周囲で、低い振動が始まった。
天井の術式膜に亀裂が走る。
その向こうから、海水が細い筋となって流れ込む。
ノアールの顔から余裕が消える。
「本当に解除する気だ」
オルディスの声は変わらない。
『残り三分』
『全員を守るか』
『私へ器を返すか』
『今度こそ、選んでください』
通信が切れた。
船内に警報音が響く。
イリスが端末を操作する。
「術式膜の管理系統が乗っ取られてる! 観測炉とは別の補助制御!」
「止められるか」
「この船からじゃ無理。制御塔へ直接行く必要がある」
地図が空中へ投影される。
現在地の少し先。
水路の分岐点に、海底術式膜の補助制御塔がある。
だが、その前には黒い翼の船が二隻待っている。
後方からは大型船が迫る。
挟み撃ち。
ノアールが舵を切った。
「中央水路は無理だ。西側の保守路へ入る」
船が急旋回する。
患者たちの身体が揺れる。
セレスが担架を押さえる。
「速度を落としてください!」
「落とせば海に潰される!」
天井の亀裂が広がる。
海水が雨のように降り始めた。
アステルが立ち上がろうとする。
「私が支えます」
セレスが即座に言う。
「広範囲の術式は禁止です」
「でも、膜が壊れます」
「あなた一人では支えられません」
アステルは拳を握る。
かつてなら、それでも無理に使っただろう。
自分が壊れても、誰かを守れればいいと。
しかし今は違う。
「……何を支えればいいですか」
セレスは少しだけ表情を和らげる。
「船の周囲だけです。落下する海水の速度を弱めてください」
「はい」
アステルが手を上げる。
船の上へ薄い重圧の膜が広がる。
落ちてくる海水が一瞬だけ遅くなる。
完全には防げない。
だが、船体への衝撃は減る。
イリスが制御塔までの距離を確認する。
「あと二分半」
レイラが問う。
「私が泳いで塔まで行くか?」
「無理。外は海水圧で潰れる」
「じゃあ船ごと突っ込む」
「患者がいる!」
「なら、もっといい案を出せ!」
ノアは両耳を押さえ、水路の音を聞いていた。
海水。
船。
黒い翼の機関。
古い都市の軋み。
その中に、別の音を見つける。
「下」
「何?」
イリスが聞き返す。
「水路の下に、空洞がある」
ノアールが地図を見る。
「地図にはない」
「でも聞こえる。風が流れてる。昔の整備路かも」
「入口は」
ノアは床へ耳を近付ける。
「前方。右の壁の近く。水が落ちる音」
イリスが古代地図の層を切り替える。
「見つけた。封鎖された排水整備路。制御塔の地下へ繋がってる!」
レイラが笑う。
「壁を壊せばいいんだな」
「船を壊さない程度に!」
「毎回注文が多い!」
保守路の右壁に、古い排水口が現れた。
厚い金属板で塞がれている。
黒い翼の前方船も、こちらの進路変更に気付いた。
青白い弾丸が霧のような海水を裂き、ノアールの船へ飛んでくる。
ヴェスパーが船尾へ走る。
「レイラ、入口を開けろ!」
「任せろ!」
レイラは船首へ。
ヴェスパーは船尾へ。
一発目の弾丸が迫る。
彼の周囲に薄い残火が散る。
大きな幻影ではない。
船の輪郭を数歩横へずらして見せるだけの、小さな熱の揺らぎ。
砲撃が外れる。
壁が爆ぜる。
二発目。
今度は照準が修正されている。
ヴェスパーは自分の熱を船の左へ残し、本体の位置を右へずらす。
弾丸は残火へ吸い寄せられ、海底都市の柱を破壊した。
「ヴェスパー!」
イリスが叫ぶ。
「後ろの大型船から、別の反応!」
後方の闇が青く光った。
巨大な熱。
ドラグニルではない。
だが、竜熱に近い。
大型船の甲板に、一人の影が立っていた。
黒い布。
灰白色の肌。
額から伸びる海竜の角。
腕と背中に刻まれた幾何学模様。
両手には、半月状の双刃輪。
海竜の血を引く亜竜人の女。
彼女が片腕を振るう。
水流が刃となり、闇を走った。
ヴェスパーは剣で受ける。
衝撃。
水の刃とは思えない重さ。
足元が滑り、船の手すりへ背中を打ちつける。
女の声が、水路へ響く。
「黒陽炎の弟子」
ヴェスパーが剣を構える。
「誰だ」
「黒い翼特務術師」
彼女は感情の薄い瞳で名乗った。
「カイラ・エラゼル」
イリスが端末を操作する。
「記録がある。海竜系亜竜人。黒い翼の海上実験部隊!」
カイラはヴェスパーから目を逸らさない。
「器を返せ」
「断る」
「なら、船を沈める」
彼女の周囲で水が浮かび上がる。
無数の細い刃。
その狙いはヴェスパーではない。
船体。
患者たちを乗せた船そのもの。
レイラが怒鳴る。
「卑怯だぞ!」
カイラは静かに答える。
「戦いに、敵の望む規則はない」
「気に入らねえ!」
「好かれるために戦っていない」
レイラは排水口の金属板へ戦斧を叩き込む。
一撃。
亀裂。
二撃目。
固定具が外れる。
だが、金属板はまだ開かない。
「あと一発!」
「時間がない!」
イリスの画面に残り時間が出る。
【海底術式膜解除まで一分二十秒】
カイラの水刃が一斉に飛ぶ。
ヴェスパーは残火を広げた。
だが、水刃は熱を追わない。
視覚だけでもない。
水そのものが、船の形を捉えている。
残火では逸らせない。
その時、ノアが叫んだ。
「刃の音、全部違う!」
「何が分かる!」
「真ん中の三つだけ重い! 船を切るのはそれ!」
ヴェスパーはノアの声に従う。
十数本の水刃。
その中から三本だけを斬る。
一つ。
二つ。
三つ。
残る刃は船の周囲へ当たり、水飛沫となって散った。
カイラの瞳が僅かに動く。
「音で見切ったか」
ノアは震えながらも叫ぶ。
「僕はノアだ! 聴覚個体じゃない!」
カイラは何も答えなかった。
だが、その表情に一瞬だけ迷いが見えた。
レイラが三撃目を叩き込む。
排水口の金属板が吹き飛ぶ。
その奥に、細い整備水路が現れた。
ノアールが舵を切る。
「全員、掴まれ!」
船が無理やり狭い入口へ突っ込む。
船体の側面が石壁を擦り、火花を散らす。
後方からカイラの水刃が迫る。
ヴェスパーは船尾に残り、剣を構えた。
一本。
二本。
防ぐ。
三本目が脇腹を掠める。
古傷が開き、血が流れる。
セレスが遠くから気付く。
「ヴェスパーさん!」
「後で診ろ!」
「必ずです!」
船が整備路へ滑り込む。
入口が狭いため、黒い翼の大型船は追ってこられない。
だが、カイラは甲板から跳んだ。
水流を足場にし、海底水路の壁へ着地する。
双刃輪を投げる。
円を描く二つの刃が、船尾へ飛ぶ。
ヴェスパーは一つを剣で弾く。
もう一つは軌道を変え、彼の背後へ回った。
レイラが間に入る。
戦斧と双刃輪が衝突する。
「ヴェスパー一人に任せると思ったか!」
カイラは水路入口に立ったまま言う。
「仲間か」
レイラが笑う。
「見りゃ分かるだろ」
「仲間は、判断を鈍らせる」
「逆だ」
レイラは双刃輪を弾き返す。
「一人じゃ選べない道を、一緒に選べる」
カイラは返ってきた武器を受け取った。
「いずれ、それが重荷になる」
ヴェスパーが答える。
「それでも背負う」
「すべてを?」
「ああ」
「世界も?」
ヴェスパーは一瞬だけ黙った。
カイラの問いは、オルディスとは違う。
試すための言葉ではない。
本当に答えを知りたがっている。
「世界を背負うつもりはない」
ヴェスパーは言った。
「目の前の命を捨てない。それを続けるだけだ」
カイラの目が僅かに細くなる。
「それで世界が変わると?」
「変わるかもしれない」
「曖昧だな」
「確実な方法で人を捨てるよりはいい」
船が整備路の闇へ入っていく。
カイラの姿が遠ざかる。
彼女は追わなかった。
いや、追えなかったのではない。
何かを考えるように、その場に立っていた。
最後に声だけが届く。
「次に会う時まで、その答えを忘れるな」
レイラが小さく呟く。
「変な敵だな」
イリスが答える。
「魅力的な敵ほど面倒なんだよ」
「誰目線だ」
整備水路は、制御塔の地下へ続いていた。
だが、船では最後まで進めない。
途中で水路が崩れ、石と金属の瓦礫が道を塞いでいる。
ノアールが船を止める。
「ここからは歩きだ」
セレスが患者たちを見る。
「この人数を連れては移動できません」
ヴェスパーは制御塔までの距離を見る。
約三百メートル。
残り時間。
【四十七秒】
「俺とイリスで行く」
レイラが即座に言う。
「私も行く」
「瓦礫をどける力が要る」
イリスが頷く。
「三人。残りは船と患者を守って」
アステルは悔しそうに唇を噛む。
「私は……」
「船の周囲だけ支えてください」
セレスが言う。
「ここにいる人を守るのが、今の役目です」
アステルは頷いた。
「はい」
ノアが耳を澄ませる。
「制御塔までの道、二つある」
「近い方は」
「左。でも、途中で崩れる音がする。右は遠い」
残り四十秒。
近いが危険。
遠いが時間がない。
また選択。
ヴェスパーは左を見た。
「近い方へ行く」
レイラが笑う。
「だと思った」
「ただし、崩れる場所は避ける」
ヴェスパーはノアを見る。
「道を聞いてくれ」
ノアは強く頷いた。
「僕が道を聞く」
三人は船を飛び降りた。
制御塔への通路を走る。
ノアの声が通信器から届く。
『前方、天井が割れる!』
ヴェスパーが右へ跳ぶ。
直後、瓦礫が落ちる。
レイラが戦斧で大きな岩を弾き飛ばす。
イリスが走りながら端末を準備する。
残り三十秒。
『次、床が空洞! 左端を走って!』
三人は一列になり、細い足場を駆け抜ける。
背後で床が崩れ、暗い海水の穴へ落ちた。
残り二十二秒。
制御塔の扉。
黒い翼の電子錠。
イリスが端末を繋ぐ。
「十秒!」
レイラが叫ぶ。
「もっと早く!」
「これでも早い!」
ヴェスパーは扉の周囲を見る。
熱。
金属。
錠の内部を流れる電力。
残火を細く流す。
配線の一部だけを膨張させ、接触を乱す。
「今だ」
イリスが入力する。
扉が開いた。
「いい補助!」
「礼は後だ」
残り十四秒。
制御塔の中央には、巨大な黒い装置がある。
その前に、オルディスの立体映像が浮かんでいた。
『間に合いましたね』
レイラが戦斧を構える。
「お前はどこだ!」
『すでに海底旧区画を離れています』
イリスが装置へ接続する。
「逃げ足だけは速い」
『研究者に生存能力は必要です』
残り十秒。
管理権限がロックされている。
イリスの指が走る。
「間に合わない!」
「壊せる場所は」
「中央の黒い核! でも壊したら、術式膜の全系統が一瞬落ちる!」
「またかよ!」
レイラが叫ぶ。
ヴェスパーは装置を見る。
観測炉で一度経験した。
補助核があるなら、再起動できる。
だが今度は、イリス一人で海底旧区画全体を再起動しなければならない。
「できるか」
「聞く時間ある?」
「ないな」
「ならやる!」
残り六秒。
レイラが戦斧を振り上げる。
「壊すぞ!」
「待て」
ヴェスパーは黒い核に手を当てた。
冷たい。
だが、その奥に別の熱がある。
黒陽炎。
ガルムから抽出された残滓が、制御核の中に混ぜられている。
「これは……」
オルディスの映像が微笑む。
『気付きましたか』
『海底旧区画の空間制御には、黒陽炎因子を使用しています』
『ガルムの残滓です』
ヴェスパーの手が震える。
師から奪われたもの。
黒い翼が道具として使っているもの。
『破壊すれば、残滓も失われます』
オルディスは最後の選択を差し出す。
『師の一部を守りますか』
『仲間と患者を守りますか』
残り三秒。
レイラがヴェスパーを見る。
何も言わない。
急かさない。
ただ、信じている。
ヴェスパーは黒い核の中に残る熱を感じた。
ガルムのもの。
だが、それは力だけではなかった。
微かな声。
記録でもない。
命令でもない。
残された意思。
――何を迷っている。
ヴェスパーは目を見開く。
ガルムの声。
――残滓は、俺じゃない。
――過去に縋るな。
――お前が守るべきものを見ろ。
残り一秒。
ヴェスパーは剣を抜いた。
「師匠の一部じゃない」
オルディスの映像を見る。
「これは、あんたたちが奪って、使い潰した残りだ」
細い残火が剣へ集まる。
「ガルムは生きている」
「残滓に縋る必要はない」
剣が黒い核を貫いた。
「残火の牙」
核が砕ける。
黒陽炎が解放され、制御塔を覆う。
一瞬。
海底旧区画のすべての光が消えた。
海が落ちる。
船の上で、アステルが両手を広げる。
「来ます!」
ノアが叫ぶ。
「上、右側から!」
アステルは船の右側だけに重圧を集中する。
流れ込む海水が遅くなる。
セレスは患者たちを一つの場所へ集め、毛布と担架で身体を固定した。
エリシアは兄の核へ手を当てる。
五人の器も、意識のないまま僅かに手を伸ばし合う。
それぞれの核が淡く光り、船の周囲へ薄い術式膜が広がった。
強制された同期ではない。
誰かの命令でもない。
生きたいという意思。
隣にいる者を守りたいという願い。
六つの光が重なる。
ノアが驚く。
「みんなの音が、一緒になってる」
アステルは苦しそうに笑った。
「一つにされているのではありません」
「一緒に、支えているんです」
海水が船へ迫る。
その直前。
イリスの声が通信器から響いた。
『再起動!』
青い光が戻る。
術式膜が海を押し返した。
落下していた大量の海水が、空中で止まる。
そして天井の向こうへ押し戻されていく。
制御塔の中。
イリスは端末へ両手をついたまま、荒い息を吐いていた。
「成功……」
レイラが床へ座り込む。
「本当に、心臓に悪いな」
ヴェスパーは砕けた黒い核を見る。
解放された黒陽炎が、細い煙のように周囲へ漂っている。
やがてそれは、一つの形を作った。
黒い外套。
大剣。
ガルムの後ろ姿。
幻は振り返らない。
ただ一度だけ、低い声を残した。
「よくやった」
そして、消えた。
黒陽炎の残滓は、完全に途絶えた。
だが、ヴェスパーの指先には小さな熱が残っている。
借りた力ではない。
師の模倣でもない。
彼自身の残火。
それだけで十分だった。
オルディスの映像は、まだ消えていなかった。
これまでの微笑みは薄れている。
「お前の選択は終わりだ」
ヴェスパーが言う。
『いいえ』
オルディスは静かに答えた。
『あなたは、師の残滓を捨てて仲間を選んだ』
「違う」
『何が違うのです』
「ガルムは残滓じゃない」
ヴェスパーは剣を鞘へ収める。
「生きている」
「俺の仲間も生きている」
「だから、どちらも捨てていない」
オルディスはしばらく黙っていた。
『言葉の問題です』
「お前には、そう見えるんだろうな」
ヴェスパーは映像を見つめる。
「人を機能でしか見ないから」
『機能は嘘をつきません』
「人は変わる」
『不確実です』
「だから、世界も変えられる」
その言葉に、オルディスの目が僅かに揺れた。
怒りでもない。
嘲笑でもない。
理解できないものを前にした、研究者の目。
『次は王都です』
「……」
『星脈中枢で、あなた方の同期が本物か確認しましょう』
映像が乱れる。
『その時こそ、世界を変える方法を選んでいただきます』
通信が切れた。
制御塔には、三人の呼吸音だけが残った。
レイラが立ち上がる。
「また逃げたな」
イリスは端末を外す。
「でも、行き先は言った」
「罠だろ」
「もちろん」
ヴェスパーは王都の方角を思う。
エリュシオン。
世界の政治と軍事、宗教が集まる場所。
そして、黒い翼の次の計画。
だが今は。
「船へ戻る」
レイラが頷く。
「そうだな」
イリスがヴェスパーの脇腹を見る。
「その傷、セレスに隠せると思ってる?」
血が外套に滲んでいる。
ヴェスパーは少し考えた。
「無理だな」
「成長したね」
一行を乗せた船は、海底旧区画を離れた。
術式膜は安定している。
黒い翼の船は撤退していた。
カイラの姿もない。
だが、彼女の問いだけがヴェスパーの中に残っていた。
――それで世界が変わると?
確かな答えはない。
目の前の一人を救っても、世界全体はすぐには変わらない。
黒い翼は動き続ける。
大災厄の脅威も消えていない。
それでも。
リナには名前がある。
フィンも生きている。
ルカの声も聞こえる。
エリシアは兄を取り戻した。
名前を奪われた五人にも、これから自分の名前を選ぶ時間がある。
その一つひとつが。
世界を変えることではないというなら。
世界とは、一体何なのか。
船が海面へ続く上昇水路へ入る。
青い光が周囲を包む。
ノアは木彫りの狼を胸に抱いた。
「兄ちゃん」
「海の底、すごかったよ」
「怖かったけど……僕、ちゃんと声を聞けた」
アステルが隣で微笑む。
「きっと届いています」
ノアは頷いた。
「うん」
セレスはヴェスパーの脇腹を治療しながら、強く包帯を締めた。
「痛みますか」
「痛い」
「よろしいです」
「何がだ」
「正直に言えたことがです」
レイラが笑う。
「成長したな」
イリスも笑う。
「本当にね」
ヴェスパーはため息をついた。
だが、少しだけ口元を緩めた。
船の上方に、白い光が見える。
海面。
夜明け前の空。
海霧の向こうに、潮鳴りの街が待っている。
完全な勝利ではない。
オルディスは逃げた。
ドラグニルとの決着も残っている。
器計画は王都へ移された。
それでも。
黒陽炎の残滓に縛られていた者たちは、前へ進み始めた。
ヴェスパーもまた。
師の背中を追うだけの弟子から。
自分の熱で道を切り開く者へと変わり始めていた。
船が海面を突き破る。
白い波。
冷たい風。
そして、東の空に差す最初の光。
灰色だった世界が、少しずつ青く染まっていく。




