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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第24話 「残火の牙」

海底観測炉が、悲鳴を上げていた。


環状の金属骨格が軋み、青白い光柱の表面に幾重もの亀裂が走る。


壁面を巡る古代文字は赤く染まり、警告を繰り返している。


【環境再現率 六十三パーセント


統合核 暴走


海底術式膜 維持限界まで残り八分】


床が大きく揺れた。


天井の術式膜の向こうで、海水が渦を巻く。


巨大な魚影が一斉に逃げていく。


外圧に耐え切れなくなった旧区画の壁から、細い水柱が何本も噴き出していた。


イリスは制御盤へ端末を接続し、流れ続ける警告表示を睨んでいる。


「最悪」


「止められるか」


ヴェスパーが問う。


「止めるだけならできるかも。でも、それをやると零式とエリシアの核へ送られてる生命維持も切れる」


光柱の前では、零式が膝をついていた。


黒い結晶に覆われた巨大な身体。


胸の七色核には大きな亀裂が入り、そこから黒陽炎と青い竜熱が交互に噴き出している。


その傍らで、エリシアが兄の腕へ縋りついていた。


「兄さん、もう少しだけ」


「離れろ……」


零式は苦しげに声を絞り出す。


「俺は……壊れる」


「なら、一緒に止める」


「お前まで……巻き込む」


エリシアは首を横に振った。


「また一人で選ばないで」


零式の瞳が揺れた。


三百年前。


研究施設へ連れていかれた兄妹。


妹を守るため、自ら先に実験を受けた兄。


兄を助けるため、後から器候補となった妹。


互いを守ろうとして。


互いを失った。


そして今。


再び兄は、一人で終わろうとしている。


ヴェスパーは二人を見た。


「イリス」


「何?」


「制御核はどこだ」


イリスは観測炉の上部を指差す。


円形空間の中央。


光柱を取り囲む環状通路。


その最上部に、巨大な青い結晶装置が浮いている。


「主制御核はあそこ。でも観測炉と零式の統合核が直接繋がってる」


「切り離せばいい」


「簡単に言うね」


「できるか」


イリスは数秒だけ黙った。


そして端末を操作する。


「理屈ではね。主制御核への経路を遮断して、生命維持だけ別回線へ移す」


「時間は」


「普通にやれば二十分」


壁の警告表示が更新される。


【海底術式膜 維持限界まで残り七分二十一秒】


レイラがいれば力ずくで装置を壊せる。


セレスがいれば核の生命反応を読みながら切り離せる。


アステルがいれば光柱を支えられる。


ノアがいれば異常音から崩壊箇所を探せる。


だが、今ここにいるのはヴェスパーとイリスだけ。


ヴェスパーは剣を握った。


「七分でやる」


イリスは彼を見た。


「本気?」


「ああ」


「七分で二十分の作業を?」


「お前ならできる」


イリスは少し目を見開いた。


それから、困ったように笑う。


「そういう信頼の仕方、ずるいね」


「無理か」


「やるよ」


彼女は端末から複数の細い接続線を引き出した。


「ただし、私が経路を切り替えてる間、主制御核が暴走する。観測炉の熱が全部、君に向くかもしれない」


「受ける」


「ドラグニルの竜熱まで入ってるんだよ」


「分かっている」


「黒陽炎も」


「ああ」


「重圧も結晶化も感覚遮断も全部」


ヴェスパーは光柱を見上げた。


「全部、あいつらから奪った力だ」


剣を構える。


「なら、全部返させる」


観測炉の扉が爆発するように開いた。


「ヴェスパー!」


レイラの声が響く。


彼女は白い核の器を肩に担ぎながら、観測炉へ飛び込んできた。


後ろにはセレス。


アステル。


ノア。


さらに、避難させた五人の器を運ぶため、旧区画の担架装置を引いている。


「なぜ来た」


ヴェスパーが問う。


レイラは器を床へ慎重に寝かせる。


「呼ばれたからだ」


「誰に」


ノアが前へ出た。


「君たちの音が聞こえた」


耳当て布の下で、大きな耳が震えている。


「助けてじゃなかった。来てって聞こえた」


イリスが苦笑する。


「都合の良い耳だね」


「本当に聞こえた」


「疑ってないよ」


セレスは零式とエリシアを見て、すぐに熱診を始めた。


「零式の核が崩壊しています。エリシアさんの核も共鳴によって不安定です」


エリシアが顔を上げる。


「兄を助けられますか」


セレスはすぐには答えなかった。


嘘を言わない。


希望だけで誤魔化さない。


それが彼女の医療だった。


「現状では難しいです」


エリシアの顔が曇る。


「ですが、方法を探します」


「本当に?」


「患者が生きたいと言っている限り、諦めません」


零式が低く呻いた。


「俺は……」


セレスは彼を見る。


「あなたは死にたいのですか」


零式は答えられない。


苦しみを終わらせたい。


妹を巻き込みたくない。


だが、本当は。


生きたい。


名前を取り戻した。


妹を思い出した。


もう一度、人として歩きたい。


その願いを口にすることが怖かった。


ノアが零式の胸へ耳を向ける。


「生きたいって鳴ってる」


零式が彼を見る。


「音が……分かるのか」


「うん。苦しい音の奥に、まだある」


ノアは静かに言った。


「君の音、空っぽじゃない」


零式の紅い瞳から、涙が落ちた。


「……生きたい」


小さな声。


だが、確かだった。


セレスは頷く。


「では、治療します」


レイラが戦斧を肩から下ろした。


「役割を言え」


イリスが観測炉の構造図を空中へ映す。


「作戦変更。全員で止める」


主制御核を止めるには、三つの作業が必要だった。


第一。


観測炉から零式へ流れる暴走因子を遮断する。


第二。


生命維持用の熱と術式だけを、エリシアの核を経由して安定させる。


第三。


崩れ始めている海底術式膜を、停止完了まで維持する。


イリスは素早く指示を出す。


「私が主制御の経路を切り替える。セレスは零式とエリシアの核を監視」


セレスが頷く。


「変化はすべて伝えます」


「アステルは術式膜を直接支えないで。広すぎて潰れる」


アステルは真剣に聞く。


「では、どこを」


「光柱の基部。そこだけ重圧を逆向きに流して、主制御核の揺れを抑えて」


「分かりました」


「ノアは観測炉の音を聞いて。壊れそうな導管を教えて」


ノアが頷く。


「聞く」


「レイラは、言わなくても分かる?」


レイラは戦斧を構える。


「壊す」


「半分正解。壊していい導管だけ壊す」


「細かいな」


「間違えると全員海の底だよ」


「それは困る」


「ヴェスパーは――」


イリスが彼を見る。


「主制御核へ行って。観測炉の暴走因子を引き受けながら、接続中枢を切断する」


レイラの顔が険しくなる。


「引き受けるって何だ」


イリスは答えにくそうに口を閉じた。


ヴェスパーが代わりに言う。


「観測炉の攻撃を俺へ集める」


「却下だ」


「必要だ」


「また一人で背負う気か」


「違う」


ヴェスパーは全員を見る。


「俺が核へ行けるのは、お前たちが他を支えるからだ」


レイラは黙った。


一人で全部を引き受けるのではない。


全員が自分の役割を背負い、その中心をヴェスパーが進む。


ガルムの言葉。


――仲間を捨てるな。


そして今。


仲間に任せることも、その言葉の意味だった。


レイラは戦斧を握り直す。


「帰ってこい」


「ああ」


「絶対だぞ」


「絶対に戻る」


今度は迷わず答えた。


作戦が始まった。


イリスが端末を観測炉の主回線へ接続する。


「切り替え開始!」


観測炉全体が激しく揺れた。


光柱から黒い熱が噴き出す。


ヴェスパーへ向かって、無数の黒陽炎が蛇のように伸びた。


彼は環状通路へ跳ぶ。


黒い炎が足元を焼く。


続いて青い竜熱が飛ぶ。


熱を喰らう炎。


ヴェスパーは自分の熱を大きく使わない。


薄く。


小さく。


動かし続ける。


残火。


一つの場所に留まらず、霧や水滴、金属の熱へ分散させる。


竜熱は大きな熱を探して喰おうとする。


だが、ヴェスパーの熱は一つではない。


そこにあるようで、ない。


消えたようで、別の場所に残っている。


ガルムが教えたもの。


黒陽炎の模倣ではない。


ヴェスパー自身の蜃気楼と感知から生まれた、新しい熱。


青い炎が彼の幻影へ噛みつく。


しかし喰ったのは、海水に残したわずかな熱だけだった。


ヴェスパーはその横を駆け抜ける。


「熱反応、分散成功!」


イリスが叫ぶ。


「そのまま上へ!」


環状通路の一部が崩れる。


ノアが耳を押さえながら叫んだ。


「左の柱、折れる!」


ヴェスパーは右へ跳ぶ。


直後、左の支柱が崩壊した。


巨大な金属片が落ちる。


レイラが下から走り込む。


「邪魔だ!」


戦斧が金属片を横へ弾き飛ばす。


しかし、弾いた先には生命維持導管がある。


「右へ流してください!」


セレスの声。


アステルが手を上げる。


重圧が金属片の進路をわずかに曲げた。


瓦礫は導管を外れ、床へ突き刺さる。


アステルの身体が揺れる。


セレスがすぐに見る。


「術式出力を下げてください!」


「まだできます」


「下げて続けるのです」


アステルは息を整えた。


「はい」


以前なら、限界まで力を出していた。


今は違う。


倒れないために調整する。


それもまた、守る力だった。


ヴェスパーが第二環状通路へ到達する。


そこには黒い結晶が壁のように生えていた。


観測炉が彼を拒んでいる。


結晶の奥から、灰色の波が広がる。


感覚遮断。


熱が消える。


音が遠ざかる。


上下の感覚まで曖昧になる。


ヴェスパーの足が止まった。


何も読めない。


仲間の体温も。


主制御核の位置も。


自分が立っている床すら確信できない。


だが。


腰に結んだロープが引かれた。


一度。


二度。


下でレイラが握っている。


声が届かなくても。


熱が読めなくても。


物理的な繋がりは消えない。


ヴェスパーはロープを握り返した。


三度引く。


無事の合図。


遠くからノアの声が、微かに聞こえた。


「前! 三歩!」


ヴェスパーは進む。


一歩。


二歩。


三歩。


剣先が黒い結晶へ触れる。


「右上に亀裂!」


イリスの声。


ヴェスパーは剣を振るう。


結晶壁が砕けた。


灰色の波が消え、感覚が戻る。


「聞こえるか!」


レイラが下から叫ぶ。


「ああ!」


「なら走れ!」


ヴェスパーは主制御核へ向かって駆けた。


床では、零式の核がさらに崩れ始めていた。


セレスは両手を胸元へ当て、熱診を最大まで広げる。


七つの因子が互いに反発している。


黒陽炎と竜熱。


重圧と結晶化。


感覚遮断と海底適応。


そして中央に残る、零式自身の生命。


「イリスさん!」


「何!」


「生命維持回線を中央核へ直接繋いではいけません! 七因子が再び共鳴します!」


「じゃあ、どこへ流す!」


セレスはエリシアを見る。


彼女の胸の五色核。


零式よりも弱い。


だが、人格が戻ったことで、因子の流れが一つにまとまり始めている。


「エリシアさんの核を中継にします」


エリシアが顔を上げる。


「私が?」


「危険です」


セレスは正直に言った。


「ですが、あなたと零式さんの核は同じ基礎構造を持っています。生命維持だけなら、あなたを経由することで安定する可能性があります」


零式が首を横に振る。


「駄目だ」


「兄さん」


「お前を使うな」


エリシアは兄の手を握った。


「使われるんじゃない」


「同じだ」


「違う」


彼女は強く言った。


「私が選ぶの」


その言葉に、零式が黙る。


黒い翼は二人から選択を奪った。


命令し。


番号を与え。


身体を使った。


だが今、エリシアは自分で選んでいる。


兄を助ける。


危険を理解したうえで。


自分の意思で。


セレスは彼女を見る。


「途中で危険域に入ったら、すぐに中止します」


エリシアは頷く。


「お願いします」


零式は妹の手を握り返した。


「……生きろ」


「一緒にね」


主制御核まで、あと僅か。


しかし観測炉が最後の防衛を起動した。


ヴェスパーの前に、人影が現れる。


黒い外套。


無骨な大剣。


黒陽炎を纏う男。


ガルム。


「……」


ヴェスパーは足を止めた。


本物ではない。


分かっている。


灰色の感覚遮断と黒陽炎が作った幻影。


だが、その姿はあまりにも正確だった。


幻のガルムが大剣を構える。


「ここから先へ行くなら、俺を斬れ」


ヴェスパーは剣を握る。


「趣味が悪いな、オルディス」


返事はない。


これはオルディスの直接操作ではない。


観測炉がヴェスパーの記憶を読み取り、最大の障害を作った。


幻のガルムが踏み込む。


剣の重さ。


距離。


構え。


すべてが本物に近い。


ヴェスパーは攻撃を受け流す。


「遅い」


幻が言う。


「仲間を守ると言いながら、また一人で前へ出た」


大剣が肩を掠める。


血が落ちる。


「お前は変わっていない」


ヴェスパーは反撃しない。


幻の言葉が胸へ刺さる。


本当に変わったのか。


一人で主制御核へ向かっている。


また自分だけが危険を引き受けている。


だが。


下から声が届く。


「ヴェスパー! 上の導管を切れ!」


イリス。


「右側が崩れます!」


セレス。


「左へ跳んでください!」


アステル。


「次の足場、二歩先!」


ノア。


「止まるな!」


レイラ。


一人ではない。


全員が、ここにいる。


直接隣にいなくても。


役割が違っても。


繋がっている。


ヴェスパーは幻のガルムを見る。


「あんたなら、そんなことは言わない」


幻が大剣を振り上げる。


「俺を斬れるのか」


ヴェスパーは剣を構えた。


「斬らない」


彼の熱が薄く広がる。


黒陽炎へ正面からぶつけない。


幻を焼き払おうともしない。


大剣が振り下ろされる。


ヴェスパーの姿が揺れた。


一人。


二人。


無数の薄い残像。


だが、それぞれは大きな熱を持たない。


海水。


金属。


光柱。


空気。


周囲のあらゆる場所に、小さな熱だけを残す。


幻のガルムは狙いを定められない。


「何だ、これは」


ヴェスパーの声が、あらゆる方向から響く。


「黒陽炎じゃない」


残火が連なっていく。


細い熱の道。


仲間のいる床から。


環状通路を通り。


主制御核まで続く道。


「俺の牙だ」


ヴェスパーは幻の横を通り抜けた。


剣を振るわない。


幻へ向けた攻撃ではない。


残火の道に沿って、主制御核へ一閃を放つ。


「残火の牙」


細い熱が、一つに集まる。


巨大な炎ではない。


派手な爆発もない。


ただ一点。


観測炉と零式を繋ぐ接続中枢だけを正確に断つ。


黒い導管が切れた。


幻のガルムが消える。


主制御核の光が乱れた。


「接続遮断を確認!」


イリスが叫ぶ。


「生命維持回線、切り替える!」


端末の画面を無数の文字が流れる。


セレスは零式とエリシアの核へ手を当てる。


「エリシアさん、今から熱が流れます!」


「はい!」


アステルが光柱の基部へ重圧を展開する。


「揺れを抑えます!」


ノアが耳を澄ませる。


「右の導管、音が変!」


「レイラ!」


イリスが叫ぶ。


「赤く光ってる管を壊して!」


レイラが戦斧を振りかぶる。


「これか!」


「隣じゃない方!」


「どっちだ!」


「右!」


「私から見てか!?」


「観測炉から見て!」


「分かりにくい!」


ノアが指差す。


「あっち!」


「最初からそう言え!」


戦斧が赤い導管を叩き割る。


暴走因子が床へ流れ、黒い結晶となって固まった。


セレスが叫ぶ。


「零式さんの核、低下しています!」


エリシアの胸の核が強く光る。


彼女は苦しそうに呻く。


零式が手を伸ばす。


「エリシア!」


「大丈夫……じゃない」


彼女は苦しみながらも、微かに笑った。


「でも、まだできる」


セレスは核の流れを読む。


「もう少しです!」


イリスの画面に最後の確認が表示される。


【主制御停止


環境再現工程 解除


実行しますか】


「止めるよ!」


イリスが入力する。


だが、画面が赤く変わった。


【管理者権限が必要です】


「ここで!?」


イリスが端末を叩く。


「オルディスが権限を持ってる!」


ヴェスパーは主制御核の前に立つ。


止める命令が通らない。


時間はない。


【海底術式膜 維持限界まで残り一分十秒】


「壊すしかない!」


イリスが叫ぶ。


「でも核を壊すと、施設全体の術式膜も一度消える!」


「再起動は」


「補助核が生きてれば数秒後に戻る。でもその数秒、海水が入る!」


レイラが戦斧を握る。


「やるしかないな」


セレスが問う。


「全員を守れますか」


アステルが光柱を見上げる。


「数秒だけなら、重圧で海水の流れを遅らせます」


「一人では無理です」


ノアが言う。


「膜が破れる場所、僕が聞く。そこだけ支えればいい」


レイラが笑う。


「私は落ちてくる壁をぶっ飛ばす」


イリスは補助核へ接続する。


「私は最速で再起動」


セレスは零式とエリシアを支える。


「二人の生命維持は任せてください」


ヴェスパーは剣を持ち上げた。


全員が役割を持つ。


誰か一人に押し付けるのではない。


失敗すれば、全員が海に呑まれる。


それでも。


全員で生きる道を選ぶ。


「行くぞ」


剣が主制御核へ振り下ろされた。


核が砕ける。


青い光が消えた。


世界が暗闇に沈む。


次の瞬間。


天井の術式膜が消滅した。


海が落ちてきた。


轟音。


巨大な海水の壁が、観測炉へ流れ込む。


ノアが叫ぶ。


「上、三か所! 左奥、中央、右の柱!」


アステルが両手を広げる。


重圧が落下する海水へ逆向きに働く。


完全には止まらない。


だが、速度が落ちる。


「レイラ!」


「見えてる!」


崩れた天井材を戦斧で弾く。


一つ。


二つ。


三つ。


セレスは零式とエリシアへ薬液を送り続ける。


「核を離さないでください!」


二人の手が強く握られる。


イリスは暗闇の中で補助核を起動する。


「早く……!」


水が膝まで満ちる。


腰。


胸。


アステルの身体が震える。


「あと……どれくらい」


「四秒!」


「長い……です」


ノアが彼女の背中を支える。


「一人じゃない!」


アステルは歯を食いしばる。


「はい!」


ヴェスパーは残火を観測炉全体へ広げる。


熱で海を止めるのではない。


暗闇の中で、仲間たちの位置を示す灯り。


薄い熱の線が一人ひとりを繋ぐ。


レイラ。


イリス。


セレス。


アステル。


ノア。


零式。


エリシア。


名を奪われた五人の器。


避難室で待つリナたち。


すべての命が、残火の中で見える。


「三!」


イリスが叫ぶ。


「二!」


水が顔まで迫る。


「一!」


補助核が起動した。


青い光が戻る。


術式膜が再展開され、流れ込んでいた海水が空中で止まった。


次の瞬間、観測炉の排水装置が動き出す。


水位がゆっくりと下がっていく。


暗闇に光が戻った。


誰も流されていない。


誰も欠けていない。


主制御核は砕けている。


環境再現工程は停止した。


海底観測炉の暴走も止まっていた。


零式の七色核が静かに光っている。


以前のような激しい脈動ではない。


弱い。


だが、安定している。


エリシアの核も同じ調子で呼吸するように明滅していた。


セレスが二人の状態を確認する。


「生命反応、安定しました」


エリシアの瞳に涙が浮かぶ。


「兄さん」


零式はゆっくりと目を開いた。


身体を覆っていた黒い結晶が、一部剥がれ落ちる。


その下には、人の皮膚が残っていた。


「……エリシア」


「うん」


「生きてる」


「一緒にね」


二人は手を握った。


三百年。


奪われた時間は戻らない。


失ったものも戻らない。


だが、これからの時間はある。


短いかもしれない。


不安定かもしれない。


それでも、続きがある。


ノアは二人の音を聞き、小さく笑った。


「生きてる音」


アステルもその場に座り込んだ。


「よかった……」


セレスが彼女を支える。


「今度こそ休みます」


「はい……」


レイラは戦斧を床へ置き、大きく息を吐いた。


「海の底まで来て、やることはいつもと同じだな」


イリスが濡れた髪をかき上げる。


「無茶して、壊して、助ける?」


「そうだ」


ヴェスパーは砕けた主制御核を見る。


「悪くない」


イリスが少し笑った。


「本当に変わったね」


「そうか」


「前なら、オルディスを追ってた」


ヴェスパーは観測炉の奥を見る。


オルディスの姿はない。


通信も切れている。


彼はすでに逃げた。


今すぐ追えば、痕跡を掴めるかもしれない。


だが、ここには守るべき命がある。


旧区画もまだ完全には安定していない。


「追うのは後だ」


レイラが満足そうに頷く。


「いい判断だ」


「合理的判断だ」


全員が少し笑った。


その時。


砕けた主制御核の中から、小さな黒い結晶片が浮かび上がった。


イリスの端末が反応する。


「待って。記録媒体が残ってる」


彼女が慎重に結晶片を回収する。


内部から一つの映像が投影された。


オルディス。


だが、これまでのような現在の通信ではない。


過去の記録だった。


彼は大災厄前の映像を背後に立ち、誰かへ報告している。


『海底観測炉、初期実験は失敗』


『器候補零式および一号、人格保存に重大な欠損』


『しかし、適応因子の統合そのものは可能』


『次の段階では、感情を削るのではなく――』


映像に雑音が走る。


最後の言葉だけが残る。


『複数の人間を一つの意思へ同期させる』


映像が消えた。


イリスの表情が険しくなる。


「複数の人間を……一つの意思に?」


セレスが言う。


「仲間同士の繋がりを、器の安定に利用するということでしょうか」


ヴェスパーは自分たちを繋いでいた残火を見る。


黒い翼は、彼らの連携を観測してきた。


選択を壊すたびに。


仲間の力を合わせるたびに。


オルディスは喜んでいた。


理由はこれか。


一人の完全な器ではない。


複数の人間を繋ぎ、一つの巨大な器として扱う。


その実験材料として。


ヴェスパーたちは見られている。


「次の計画か」


レイラが低く言う。


イリスは記録片を握る。


「たぶん。観測炉は止めたけど、器計画そのものは終わってない」


零式が掠れた声で言った。


「王都……」


全員が彼を見る。


「何だ」


ヴェスパーが尋ねる。


零式は失われた記憶を探すように目を閉じる。


「次の施設……」


「王都エリュシオン」


「地下……星脈中枢」


世界地図に記された王都。


政治と軍事と宗教が集まる、灰都連合領の中枢。


そこに黒い翼の次の施設がある。


エリシアが兄の手を握る。


「思い出せる?」


零式は首を横に振った。


「断片だけだ」


ヴェスパーは王都の名を胸に刻んだ。


だが、今はまだ先だ。


まず全員を連れて海底旧区画から脱出する。


海上へ戻る。


潮鳴りの街へ。


助けた者たちに、新しい明日を渡す。


「戻るぞ」


ヴェスパーが言った。


レイラが戦斧を担ぐ。


「今度は海を上るのか」


イリスが潮猫丸の状態を思い出し、顔をしかめる。


「船、動くかな……」


セレスが即座に言う。


「動かなくても、患者を置いてはいきません」


アステルが小さく笑う。


「また、全員で方法を探しましょう」


ノアは耳を澄ませる。


遠く。


旧海底港の方向。


水が流れる音。


壊れかけた船の軋み。


そして、そのさらに向こう。


潮猫丸とは違う、小さな機関音。


「誰か来る」


全員が身構える。


「黒い翼か」


レイラが戦斧を構える。


ノアは首を横に振った。


「違うと思う。音が軽い。海の流れに合わせてる」


イリスが目を細める。


「ノアール?」


観測炉の奥にある連絡水路から、一隻の細長い船影が現れた。


黒い帆。


波と黒猫の印。


船首には、深く帽子を被った人物が立っている。


潮見屋ノアール。


彼は観測炉の惨状を見て、静かに口笛を吹いた。


「本当に壊したんだね」


レイラが眉をひそめる。


「遅いぞ」


「情報屋は、終わった頃に現れるものさ」


イリスが呆れる。


「それ、ただ安全なところで待ってただけでしょ」


ノアールは肩をすくめた。


「否定はしない」


そして、零式とエリシアへ視線を向ける。


「なるほど。沈んだ兄妹まで拾ったか」


ヴェスパーは剣を鞘へ収めた。


「全員乗せられるか」


ノアールは船を見た。


それから、観測炉にいる人数を数える。


「かなり重量超過だ」


セレスが一歩前へ出る。


「全員です」


ノアールは彼女の視線を受け、少し黙る。


「……海都までなら何とかしよう」


レイラが小声で言う。


「セレスにはこいつも勝てないな」


イリスが頷く。


「世界共通だね」


ノアールは聞こえないふりをした。


一行は助けた命を担ぎ、船へ向かう。


観測炉の光が、ゆっくりと弱まっていく。


黒い翼の器計画。


その一つは、ここで止まった。


オルディスは逃げた。


次の計画も動いている。


だが、名を奪われた者たちは生きている。


エリシア。


彼女の兄。


五人の器。


リナ。


フィン。


ルカ。


選択の中で捨てられるはずだった命。


そのすべてを乗せ、船は海底旧区画を離れていく。


ヴェスパーは遠ざかる観測炉を見た。


残火はまだ、指先に灯っている。


ガルムの黒陽炎ではない。


誰かを欺くためだけの蜃気楼でもない。


仲間を繋ぎ。


道を照らし。


一点を貫く熱。


彼自身の牙。


次にドラグニルと戦う時。


この力は、きっと必要になる。


海底の闇に、小さな残火が揺れた。


それは消えずに、彼らの進む先を照らしていた。

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