第2章 第23話 「オルディスの選択」
「……助けて。」
海底観測炉に、その声だけが静かに響いた。
巨大な身体。
七色に脈打つ結晶核。
黒い結晶に覆われた腕。
その姿は怪物そのものだった。
しかし、その一言だけは。
紛れもなく人間だった。
ヴェスパーは剣を下ろす。
「まだ意識がある。」
イリスは信じられないという顔をした。
「三百年近い実験記録が残ってる施設だよ……。」
「それでも、人は人だ。」
オルディスの声が静かに響く。
「その個体は、零式。」
「器計画最初の成功例。」
「同時に、最大の失敗作でもあります。」
巨大な零式は苦しそうに胸を押さえた。
七色の結晶核が激しく脈打つ。
黒陽炎。
竜熱。
重圧。
結晶化。
灰色の感覚遮断。
すべての力が身体の中で暴れている。
「熱い……。」
「苦しい……。」
「終わらせて……。」
その姿を見たS-01は呟いた。
「兄さん……。」
イリスが振り返る。
「兄?」
S-01は小さく頷く。
「……私達は。」
「兄妹。」
空気が止まる。
ヴェスパーは静かに聞く。
「名前は。」
S-01は頭を押さえた。
「思い……出せない。」
「兄さんも……。」
「忘れた。」
オルディスが答える。
「人格保存には失敗しました。」
「ですが器としては成功です。」
ヴェスパーの瞳が冷たくなる。
「成功?」
「人の名前も人生も奪ってか。」
「はい。」
「世界を救うためには必要でした。」
レイラ達は五人の器を避難室へ運び終えていた。
ノアは相変わらず耳を澄ませている。
突然。
歌声が止んだ。
「消えた。」
「歌が?」
アステルが聞く。
ノアは首を横に振る。
「違う。」
「誰か泣いてる。」
「……すごく遠く。」
セレスは考え込む。
「観測炉。」
「人格反応が起きたのでしょうか。」
リナが震えた。
「兄妹。」
「兄妹がいたの。」
「お兄ちゃんだけ戻ってこなかった。」
その言葉に全員が顔を上げた。
観測炉。
オルディスが静かに歩き始める。
巨大なガラス越し。
姿は見えない。
だが影だけが映っている。
「ヴェスパー。」
「あなたは世界を変えたい。」
「私は世界を残したい。」
「目的は同じです。」
「違うのは手段だけ。」
ヴェスパーは答える。
「違う。」
「何が。」
「お前は未来しか見てない。」
「俺は今を見てる。」
オルディスは少しだけ笑った。
「実にあなたらしい。」
「ですが。」
壁一面に映像が映る。
灰の大災厄。
燃える街。
逃げ惑う人々。
巨大な灰嵐。
黒い空。
海が蒸発し。
山が崩れ。
都市が消えていく。
イリスが息を呑んだ。
「これ……。」
「実際の記録。」
オルディスは続ける。
「三百年前。」
「世界人口の九割以上が死亡。」
「国家は崩壊。」
「文明は消滅。」
「私達の祖先は。」
「選べなかった。」
映像は終わる。
「だから。」
「次は選ぶ。」
「一万人を救うために。」
「百人を犠牲にする。」
「私は迷わない。」
ヴェスパーは静かだった。
そして。
「俺も。」
オルディスの声が止まる。
「選ぶ。」
「百人も救う。」
「一万人も救う。」
オルディスは小さく笑った。
「理想ですね。」
「理想だ。」
「でも。」
ヴェスパーは剣を構える。
「理想を捨てた瞬間。」
「人は、人じゃなくなる。」
その瞬間。
零式が叫んだ。
「うああああああ!!」
七色の核が暴走する。
観測炉全体へ熱が広がる。
施設が揺れる。
警報。
赤い光。
イリスの端末が鳴り続ける。
「まずい!」
「観測炉が暴走!」
「零式が耐えられない!」
S-01が駆け寄ろうとする。
しかし。
零式は拳で床を叩いた。
「来るな!!」
衝撃波。
床が砕ける。
ヴェスパー達も吹き飛ばされる。
零式は苦しそうに叫ぶ。
「近付くな……。」
「殺してしまう。」
涙だった。
怪物のような姿になっても。
零式は泣いていた。
イリスは端末を必死に操作する。
「核が七つ共鳴してる!」
「止めないと施設ごと吹き飛ぶ!」
ヴェスパーが聞く。
「方法は。」
「一つ。」
「観測炉の制御核を壊す。」
「もう一つ。」
「零式の核を止める。」
「どっちも危険。」
オルディスが答えた。
「正解です。」
「ですが。」
「二つ同時なら。」
「助かる可能性があります。」
レイラがいれば。
セレスがいれば。
アステルがいれば。
もっと可能性は高かった。
しかし今ここには。
ヴェスパーとイリスしかいない。
「どうする。」
イリスが聞く。
ヴェスパーは迷わなかった。
「両方。」
「言うと思った。」
イリスは苦笑する。
「ほんと無茶。」
「付き合うか。」
「今さら置いていける?」
二人は笑った。
短く。
それだけで十分だった。
その頃。
避難室。
ノアが立ち上がる。
「行かなきゃ。」
アステルが止める。
「危ない!」
「でも。」
「聞こえる。」
「ヴェスパーさん達が。」
「助けてじゃない。」
「来て。」
レイラも立ち上がる。
「……合流するぞ。」
セレスは頷いた。
「ええ。」
「患者も守ります。」
「でも。」
「仲間も守ります。」
五人の器。
リナ。
フィン。
ルカ。
そしてアステル。
全員を守るため。
彼らも観測炉へ向かう。
観測炉中央。
零式が天井を見上げる。
「妹……。」
S-01が涙を流していた。
「兄さん。」
「思い出した。」
「私。」
「エリシア。」
零式の瞳が震える。
「エ……リ。」
「シア。」
「そう。」
「君は。」
「妹だった。」
名前。
三百年ぶりに。
兄妹は互いの名前を思い出した。
その瞬間。
零式の七色の核に、大きな亀裂が走る。
イリスが叫ぶ。
「人格が戻った反動だ!」
「核が耐えられない!」
ヴェスパーは剣を握り直した。
「間に合わせる。」
零式は苦しみながら笑った。
「ありがとう。」
「名前を。」
「思い出させてくれて。」
巨大な観測炉が轟音を上げる。
海底都市全体が揺れ始める。
オルディスは最後に一言だけ残した。
「ヴェスパー。」
「あなたは。」
「本当に世界を変えるのかもしれません。」
通信が切れた。
オルディスは姿を消した。
ヴェスパーは剣を構える。
「逃がさない。」
しかし。
今は追えない。
目の前には。
助けを求める兄妹。
暴走する観測炉。
崩壊する海底都市。
すべてを救うため。
ヴェスパーは再び前へ踏み出した。




