第2章 第22話 「潮底の器」
巨大な防水扉が、ゆっくりと閉じる。
鈍い金属音が海底都市へ響き渡った。
ヴェスパーとイリスは、巨大な円形施設――海底観測炉へ足を踏み入れる。
中央には天井まで届く青白い光柱。
幾重にも重なる環状通路。
無数の結晶導管が光を脈打たせ、まるで施設全体が生きているかのようだった。
光柱の前には、一人の女性が立っている。
黒髪。
透き通るような白い肌。
胸元には五色が混ざった結晶核。
瞳には感情がない。
オルディスの声が静かに響く。
「統合候補、識別番号S-01。」
女性はゆっくりとヴェスパーを見る。
「……敵。」
ただ、それだけを呟いた。
「名前はないのか。」
ヴェスパーが問いかける。
返事はない。
彼女の瞳は何も映していなかった。
イリスが端末を開く。
「生命反応は正常。でも脳波が異常……。」
画面には信じられない数値が並ぶ。
「人格がほとんど消されてる……。」
ヴェスパーの拳が僅かに握られる。
「……またか。」
その瞬間。
S-01の周囲に水が浮かび上がった。
球体となった水が何十個も宙を漂う。
「来る!」
イリスが叫ぶ。
水球が一斉に放たれた。
ヴェスパーは剣を抜き、水球を斬る。
しかし切った瞬間、水が刃へ絡みつく。
「重い……!」
水が刃の動きを止める。
次の水球が迫る。
イリスはワイヤーを撃ち込み、ヴェスパーを引き寄せた。
水球が背後の柱を貫く。
石柱に大穴が開いた。
「ただの水じゃない。」
イリスが息を呑む。
「超高圧水流……。」
S-01は一歩も動かない。
ただ腕を少し上げるだけで、水が武器になる。
「戦いたくない。」
ヴェスパーは低く言う。
「でも止める。」
その頃――
避難室。
アステルはリナたちを看病していた。
セレスとレイラは五人の器を運び込んでいる。
ノアだけが突然顔を上げた。
「……聞こえる。」
耳がぴくりと動く。
「何?」
アステルが聞く。
「歌。」
「歌?」
「誰かが歌ってる。」
誰にも聞こえない。
しかしノアだけは、その歌声を聞いていた。
優しい旋律。
どこか懐かしい。
海の底から響いてくる。
リナが震えた。
「……その歌。」
「知ってるの?」
「施設の人が……『歌が聞こえたら逃げろ』って……。」
空気が凍った。
海底観測炉。
S-01の足元に巨大な術式陣が広がる。
青い光。
赤い光。
紫。
白。
黒。
五色の術式が同時に起動する。
イリスの端末が悲鳴を上げた。
「まずい!」
「どうした!」
「この施設そのものが器を補助してる!」
つまり。
彼女は一人で戦っているのではない。
観測炉全体が彼女を強化している。
「熱量上昇。」
S-01が呟く。
黒い陽炎が揺れる。
同時に青い竜熱が腕へ宿る。
足元には重圧術式。
さらに結晶化が始まる。
イリスが青ざめた。
「全部使えるの!?」
「……不完全だけど。」
ヴェスパーは構える。
「なら。」
彼の周囲にも薄い熱が揺らぐ。
残火。
ガルムから教わった新しい戦い方。
「一つずつ崩す。」
S-01が初めて表情を変えた。
僅かに首を傾げる。
「……理解不能。」
彼女の中には感情がない。
だから。
目の前の男が、なぜ命を懸けて他人を救うのか理解できない。
オルディスの声が響く。
「興味深い。」
「黙れ。」
ヴェスパーが言う。
「人を道具にした時点で、お前の研究は間違ってる。」
オルディスは静かだった。
「では質問です。」
光柱がさらに輝く。
「もし、この少女を救うことで世界が滅ぶなら?」
「……。」
「逆に、この少女一人を犠牲にすれば数百万人が助かるなら?」
ヴェスパーは迷わなかった。
「救う。」
「理由は?」
「人を捨てる方法で救われた世界は、もう救われてない。」
観測炉の空気が震えた。
S-01の瞳が僅かに揺れる。
「……救う。」
その言葉に。
彼女の胸の結晶が一瞬だけ弱く光る。
イリスが驚く。
「今!」
「人格が反応した!」
S-01は胸を押さえる。
苦しそうに膝をつく。
「私は……。」
「私は……誰?」
その瞬間だった。
施設全体が激しく揺れる。
警報。
赤い警告灯。
古代文字が壁一面へ流れ始める。
【緊急警告
第一封印解除
適合体 起動】
イリスの顔色が変わる。
「違う!」
「S-01が完成体じゃない!」
ヴェスパーが剣を構える。
「まだいるのか。」
オルディスは静かに笑った。
「ええ。」
光柱の奥。
さらに巨大な扉が開いていく。
海水が左右へ割れる。
暗闇の中から。
巨大な影が立ち上がった。
人型。
だが身長は三メートル近い。
全身を黒い結晶が覆う。
胸には七色の巨大な核。
その姿を見たS-01が震えた。
「……兄。」
ヴェスパーが目を見開く。
「兄?」
オルディスは淡々と告げる。
「統合候補零式。」
「すべての器計画の原型。」
巨大な人影がゆっくり顔を上げる。
感情のない紅い瞳。
しかし、その瞳の奥には――
ほんの僅かな悲しみが宿っていた。
海底観測炉が唸る。
七色の核が鼓動を始める。
そして零式は、低く呟いた。
「……助けて。」
ヴェスパーはその声を聞いた瞬間、剣を下ろした。
「まだ、間に合う。」
イリスが驚く。
「ヴェスパー!?」
「この人も救う。」
その一言で、第二章最大の戦いの幕が切って落とされた。




