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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第20話 「沈んだ旧区画」

潮猫丸は、海の中へ落ちていった。


沈降路へ突入した瞬間、船体を包んでいた海水が大きく割れた。


青白い光。


渦巻く泡。


激しく軋む木材。


甲板が大きく傾き、ヴェスパーたちの身体が一斉に船尾へ引かれる。


「掴まれ!」


レイラが甲板に突き立てた戦斧を握りしめる。


ヴェスパーは片腕で手すりを掴み、もう片方の腕で救出した子どもの身体を支えた。


船室では、セレスとアステルが残る二人を抱えている。


イリスは舵にしがみつきながら叫んだ。


「これ、船が通っていい道じゃないよ!」


黒い翼の半潜航船なら耐えられる。


だが、潮猫丸は古い木造船だ。


海面を走ることはできても、深海へ潜るようには作られていない。


船の周囲では、不思議な青い膜が水を押し退けていた。


沈降路を維持する古代術式。


黒い翼の船が起動したものだ。


その膜の中を、潮猫丸は滑り落ちている。


「下から何か来る!」


ノアが耳当てを押さえながら叫んだ。


「何だ!」


レイラが問い返す。


「風じゃない! 水が下から押し返してくる!」


次の瞬間。


青い膜の一部が大きく揺れた。


海水が槍のように隙間から噴き込む。


船体の右側面に水が叩きつけられ、木板が割れた。


「浸水!」


イリスの端末に警告が走る。


セレスが船室から顔を出す。


「子どもたちは動かせません!」


「私が押さえます!」


アステルが片手を船体へ向けた。


だが、セレスが即座に止める。


「強い術式は禁止です!」


「でも、このままでは!」


「船全体ではなく、割れた板だけを支えてください!」


アステルは息を整える。


敵を押し潰すのではない。


船を浮かせるのでもない。


割れた木板の周囲だけに、薄い重圧をかける。


水の流入がわずかに鈍った。


「これで……!」


「十分です!」


セレスが布と薬品箱の防水布を押し込み、応急的に穴を塞いだ。


レイラが甲板を見回す。


「まだ落ちるのか!」


ノアは耳を澄ませる。


「もう少し! 下に大きな空洞がある!」


ヴェスパーは船底の先に目を凝らした。


青い闇の奥。


巨大な円形構造物が見える。


海底に沈んだ都市。


塔。


橋。


崩れた建物。


それらすべてが、半透明の青い膜に覆われていた。


まるで海の底に、もう一つの空があるようだった。


アステルが息を呑む。


「あれが、海底旧区画……」


沈降路の終点が迫る。


イリスが舵を強く切った。


「着地するよ! 全員伏せて!」


潮猫丸は青い膜を突き抜けた。


海水の圧力が一瞬で消える。


船体が宙に放り出される。


その下には、旧港湾施設の水路が残っていた。


大量の海水と共に、潮猫丸がそこへ落下する。


激突。


船全体が跳ねた。


甲板の荷物が宙を舞う。


レイラが戦斧ごと転がり、ヴェスパーも手すりに肩を打ちつけた。


船室から子どもの悲鳴が聞こえる。


そして。


潮猫丸は、水飛沫を上げながら旧水路の壁へ衝突し、ようやく止まった。


しばらく、誰も動かなかった。


水が船体を叩く音だけが響いている。


レイラがうつ伏せのまま言った。


「……着いたか?」


イリスは舵に顔を伏せたまま答える。


「たぶん」


「船は?」


「壊れてないと思いたい」


船体のどこかで、木材が小さく割れる音がした。


イリスは目を閉じた。


「聞かなかったことにする」


セレスが船室から顔を出す。


「全員、怪我を確認します!」


レイラが起き上がる。


「敵より先にセレスが来たな」


「当然です」


潮猫丸が落ちた場所は、巨大な地下港だった。


いや、海底港と呼ぶべきかもしれない。


天井には海水を押し返す青い術式膜が広がり、その向こうを巨大な魚の影が泳いでいる。


壊れた桟橋。


錆びた荷揚げ機。


水没した倉庫。


半分まで水に沈んだ石造りの建物。


壁面には、大災厄前の文字と古い観測機器が残っていた。


港の奥には、都市区画へ続く巨大な防水扉がある。


その横には、黒い翼が設置した新しい照明と通信装置。


黒い翼は、すでにここを拠点として使っている。


イリスは周囲を調べながら言った。


「近くに敵の反応はない。黒い翼の船は先へ行ったみたい」


ヴェスパーは潮猫丸から降り、剣に手をかけた。


「追えるか」


「追える。でもその前に、船と子どもたち」


セレスも岸へ降りる。


「その通りです。三人とも衰弱しています」


救出した子どもたちは、船室の毛布の上に寝かされていた。


一人目は、人間の少女。


年齢は十歳ほど。


短い灰色の髪。


手首に黒い翼の識別環がつけられている。


二人目は、小柄な獣人の少年。


焦げ茶色の耳と尾。


片足に結晶化の痕が浮かんでいる。


三人目は、頬と腕に青い鱗を持つ亜人の子。


年齢も性別も、まだ判別しにくい。


首元には呼吸補助用らしい小さな器具が埋め込まれていた。


セレスが一人ずつ状態を確認する。


「重度の栄養不足。薬物投与の痕。獣人の子は足の結晶化が始まっています」


アステルが少女の手を握る。


「黒い翼は、この子たちをどこへ連れて行くつもりだったのでしょう」


イリスは三人の識別環を端末で読み取った。


画面に文字が浮かぶ。


【海底観測炉適応試験


 候補体C-12

 候補体B-07

 候補体A-03】


レイラの表情が歪む。


「また番号か」


ノアは子どもたちを見つめた。


「名前は……?」


イリスが識別環の深い階層を探る。


「黒い翼の登録には名前がない。番号だけ」


セレスの声が冷たくなる。


「本人が目を覚ましてから聞きます。この子たちは番号ではありません」


その時、人間の少女の指がわずかに動いた。


アステルが顔を近付ける。


「聞こえますか」


少女の瞼が震える。


ゆっくりと目を開いた。


濁った青い瞳。


彼女はアステルの顔を見ると、怯えて身体を縮めた。


「大丈夫です」


アステルは優しく言う。


「私たちは黒い翼ではありません」


少女の視線が、ヴェスパーやレイラへ動く。


武器。


知らない大人。


海底施設。


どれも彼女を安心させる材料にはならない。


セレスは武器を持たないことを見せるように、ゆっくりと膝をついた。


「私はセレス。医者です。あなたの傷を診ています」


「……医者」


「はい。痛いところはありますか」


少女は少し黙った。


それから、小さな声で答えた。


「全部」


セレスの表情がわずかに揺れる。


「そうですか」


少女は震える手で、隣の獣人の少年を指した。


「フィンを……先に」


「フィン?」


「その子の名前?」


ノアが聞く。


少女は頷いた。


「フィン。足が……ずっと痛いって」


セレスはすぐに獣人の少年を診る。


「分かりました。フィン君を先に処置します」


少女は安心したように目を閉じかける。


アステルが静かに尋ねた。


「あなたの名前を教えてもらえますか」


少女は少し迷った。


黒い翼に名前を聞かれる時は、きっと記録のためだった。


番号へ置き換えるためだった。


だが、アステルの声は違った。


「……リナ」


「リナさんですね」


「さん、いらない」


「では、リナ」


アステルは微笑んだ。


「教えてくれて、ありがとうございます」


リナの顔から、ほんの少しだけ緊張が抜けた。


ノアは青い鱗の子を見る。


「この子は?」


リナは首を横に振る。


「知らない。話せないから。黒い翼の人は、ゼロって呼んでた」


「ゼロ……」


ノアの耳が下がる。


番号よりも、さらに何もない呼び方。


セレスは青い鱗の子の呼吸器具に触れた。


「水中適応処置を受けています。肺と鰓に近い器官の両方がありますが、器具で強制的に調整されているようです」


イリスの目が鋭くなる。


「海底観測炉へ入るための候補体?」


「可能性があります」


リナが震える声で言った。


「炉の中に入れられる」


全員が彼女を見る。


「何を知っている」


ヴェスパーが問いかける。


リナはその低い声に少し怯えた。


ヴェスパーは一歩下がる。


代わりにアステルが優しく聞く。


「ゆっくりで大丈夫です。何をされる予定だったのですか」


リナは毛布を握りしめる。


「船で下に運ばれて……音を聞けって。光を見ろって。中に入って、どれだけ生きていられるか調べるって」


ノアの顔が青ざめる。


「音を聞く……」


リナはノアの大きな耳を見た。


「あなたも、候補?」


ノアは一瞬、言葉を失った。


黒い翼は彼の聴覚も利用しようとしていた。


もしグランヴェイルから逃げられなければ。


この子たちと同じ船に乗せられていたかもしれない。


ノアは木彫りの狼を強く握る。


「違う」


彼は震えながらも言った。


「僕は、ノア。番号じゃない」


リナはじっと彼を見る。


ノアは続けた。


「君もリナ。フィンもフィン。この子も……名前が分からないなら、一緒に聞けばいい」


青い鱗の子の指が、わずかに動いた。


ノアの耳が反応する。


「声……」


「喋ったのですか?」


セレスが聞く。


ノアは首を傾ける。


「口じゃない。喉の奥で、小さい音」


彼はそっと近付いた。


海の音。


機械の音。


呼吸器具の音。


その下に、弱い振動がある。


意味のない呻きではない。


何かを伝えようとしている。


「……ル」


ノアが呟く。


「ル?」


アステルが聞く。


「もう一回」


ノアは耳を澄ませた。


青い鱗の子の喉が微かに震える。


「ル……カ」


ノアは顔を上げた。


「ルカって聞こえる」


青い鱗の子の瞼がわずかに動いた。


セレスが優しく言う。


「ルカですね」


その呼びかけに、呼吸器具の音が少しだけ穏やかになった。


リナが小さく呟く。


「ルカ……」


番号だけだった三人に、名前が戻った。


リナ。


フィン。


ルカ。


それだけのことで、彼らは研究記録から人へ戻ったように見えた。


「ここに置いてはいけない」


レイラが周囲を警戒しながら言った。


「敵が戻ってきたら危険だ」


イリスは海底港の地図を端末に表示する。


「港の西側に旧職員用の避難室がある。防水扉も残ってる。そこなら隠せるかも」


セレスは子どもたちの状態を見る。


「移動はできます。ただし戦闘には連れて行けません」


「私が残ります」


アステルが言った。


全員の視線が向く。


「アステル?」


ノアが不安そうに呼ぶ。


アステルは静かに続けた。


「三人を守りながら休みます。私はまだ術式を使いすぎています。皆さんについて行っても、足を引っ張るかもしれません」


セレスは彼女を見つめる。


自己犠牲で言っているのではないか。


無理に戦うことから逃げているのでもないか。


アステルの目を見て、やがて頷いた。


「良い判断です」


アステルは少し驚いた。


「止めないのですか」


「休むことも役目だと、もう理解しているのでしょう」


「はい」


アステルはリナたちを見る。


「この子たちのそばにいたいです」


黒い翼に術式核として扱われた彼女だからこそ、番号で呼ばれる恐怖が分かる。


目を覚ました時、知らない場所にいる不安も分かる。


リナはアステルの袖を掴んだ。


「行かないで」


アステルはその手を握る。


「ここにいます」


ノアも言った。


「僕も残る」


ヴェスパーが彼を見る。


「理由は」


「ルカの声、僕にしか聞こえないかもしれない。敵が近付いても分かる」


セレスは少し考える。


「耳への負担は?」


「海の上より静か。大丈夫……じゃなくなったら言う」


その返答に、セレスは頷いた。


「許可します」


レイラが笑う。


「ちゃんと学んでるな」


ノアは少しだけ胸を張った。


避難室までは、港の西側を通る必要がある。


一行は子どもたちを簡易担架に乗せ、慎重に移動した。


旧海底港の街路には、かつて多くの人が暮らしていた痕跡が残っていた。


水に濡れた看板。


閉じた商店。


浮かぶ食器。


錆びた玩具。


海底術式膜の隙間から滴り落ちる水。


大災厄の日、人々が逃げたまま時が止まったようだった。


ノアは周囲の音を聞いていた。


「人はいない」


イリスが聞く。


「黒い翼は?」


「遠くに機械。街の奥。こっちには来てない」


ヴェスパーは壁に残る紋章を見た。


円の中央に目のような印。


その周囲を波と星が囲んでいる。


「何の印だ」


イリスが古代文字を読み取る。


「海洋環境観測庁。大災厄前、海の温度や地殻、空気中の灰を観測してた組織みたい」


セレスが眉をひそめる。


「観測施設が、なぜ器計画に使われるのでしょう」


「観測だけじゃなかったのかも」


イリスは端末を操作する。


「大災厄の環境を予測して、生き残る方法を研究してた。黒い翼の器計画は、その研究を引き継いでる可能性がある」


レイラが周囲を見回す。


「昔の研究者も、人を実験に使ってたのか?」


「まだ分からない」


イリスは短く答えた。


だが、その声には嫌な予感があった。


避難室は、旧職員居住区の地下にあった。


厚い防水扉。


非常用空気循環装置。


古い医療箱。


黒い翼がまだ使っていない場所だった。


イリスが鍵を解除し、室内を確認する。


「安全。少なくとも今は」


セレスはリナたちを寝かせ、必要な薬と道具をアステルに渡す。


「フィン君の足は一時間ごとに確認してください。結晶化が膝を越えたら、この薬を使います」


「はい」


「リナは高熱に注意。ルカの呼吸器具は外さないこと」


「分かりました」


セレスは次にノアを見る。


「敵の音を聞くために、ずっと集中してはいけません。十分聞いたら五分休んでください」


「うん」


「アステルさんが止めたら従うこと」


「分かった」


レイラが担いでいた荷物を床へ置く。


「何かあったら、扉を閉じて籠もれ。私たちが戻るまで開けるな」


アステルが頷く。


「皆さんも、戻ってきてください」


ヴェスパーは短く答える。


「ああ」


リナが毛布の中から彼を見る。


「どこへ行くの」


「黒い翼を止める」


「炉に行くの?」


「そうだ」


リナの顔が強張る。


「行かない方がいい」


「なぜ」


「炉の近くに、“空っぽの人”がいる」


室内の空気が変わった。


レイラが眉をひそめる。


「空っぽの人?」


リナは震えながら言う。


「生きてるけど、何もない。声も、名前も、痛いもない。黒い翼の人が、器って呼んでた」


イリスの顔が険しくなる。


「未完成の器候補……」


「一人か」


ヴェスパーが聞く。


リナは首を横に振った。


「分からない。でも、夜になると歩く音がする。鎖がなくても、命令されると動く」


ノアが耳を下げる。


「結晶兵と違うの?」


「違う」


リナの声は小さかった。


「結晶兵は苦しそう。でも、空っぽの人は、何も聞こえない」


ヴェスパーはその言葉を胸に刻んだ。


黒い翼が作ろうとしている器。


熱。


重圧。


結晶化。


竜熱。


そして、人の感情や名前を削り取った空の身体。


それが完成形だとしたら。


絶対に止めなければならない。


アステルがリナの手を包む。


「大丈夫です。あなたたちは、もうここにいます」


リナは不安そうに尋ねた。


「戻ってくる?」


アステルではなく、ヴェスパーが答えた。


「戻る」


「本当に?」


「仲間を置いていかない」


リナは少しだけ目を閉じた。


その言葉を信じようとするように。


避難室を出たのは、ヴェスパー、レイラ、イリス、セレスの四人だった。


アステルとノアは子どもたちを守る。


戦力は分かれた。


だが、それは弱くなったという意味ではない。


守る場所と進む者を分けただけだ。


イリスは端末に旧区画の地図を表示する。


「海底観測炉は、この都市の中心。ここから東へ三つ区画を抜ける」


レイラが戦斧を握る。


「黒い翼の船は?」


「港の先で反応が消えた。地下搬送路へ入ったみたい」


セレスが言う。


「子どもたちを乗せた船は囮だったのでしょうか」


「半分はね」


イリスは苦い顔をする。


「私たちに追わせるための餌。でも、あの子たちも本当に観測炉へ運ぶ予定だった。オルディスは、どっちに転んでも実験になるようにしてる」


ヴェスパーは歩きながら言う。


「なら、実験そのものを壊す」


海底都市の大通りを進む。


足元には浅い海水が流れている。


頭上の膜の向こうでは、巨大な影がゆっくり泳いでいる。


遠くで、低い機械音が響いた。


街の灯りが一斉に点灯する。


青白い光。


黒い翼が、彼らの侵入を察知した。


通りの両側にある古い拡声器から、声が流れる。


『ようこそ、海底旧区画へ』


オルディス。


穏やかで、感情の薄い声。


レイラが戦斧を構える。


「顔を出せ!」


『今は観測炉の準備中です。直接のお相手はできません』


イリスが端末を操作する。


「音声回線から位置を探る」


『無駄ですよ、イリス。ここには数百の古い通信端末があります』


イリスは舌打ちした。


『救出した三名を、避難区画へ置いたようですね。良い判断です』


セレスの目が冷える。


「見ているのですか」


『もちろん。海底旧区画全体が観測装置です』


ヴェスパーは周囲を見る。


壁。


床。


古い照明。


すべてが目なのかもしれない。


『黒陽炎の弟子。あなたは今回も、追跡と救助を両立させた。実に興味深い』


「興味を持つな」


『不可能です。あなたは、器計画の理想を次々と証明している』


通りの先に、巨大な扉が見えた。


扉には海洋環境観測庁の紋章。


その上から、黒い翼の紋章が刻まれている。


扉の前には、五人の人影が立っていた。


全員、白い服。


武器を持っていない。


結晶化も見えない。


だが、動かない。


呼吸しているのかも分からない。


セレスが熱診を使い、息を呑んだ。


「生きています」


レイラが顔をしかめる。


「でも、人の顔じゃない」


五人の顔には表情がなかった。


目は開いている。


だが、何も見ていない。


首元には黒い装置。


胸にはそれぞれ違う色の核。


黒。


青。


紫。


白。


灰。


オルディスの声が響く。


『海底観測炉へようこそ』


五人が同時に顔を上げた。


『彼らは失敗作です。しかし、失敗にも価値がある』


ヴェスパーは剣を抜いた。


「人を失敗作と呼ぶな」


『では、彼らの名前をご存じですか』


ヴェスパーは答えられなかった。


オルディスは静かに続ける。


『名前も、過去も、感情も失った。残っているのは、器としての機能だけ』


セレスの拳が震える。


「あなたが奪ったのでしょう」


『不要なものを除いただけです』


レイラの戦斧が石畳を削る。


「お前、本当に一度殴らせろ」


『いずれ機会はあるでしょう』


五人の胸の核が光る。


黒陽炎の揺らぎ。


竜熱の青。


重圧術式の紫。


結晶化の白。


そして、正体不明の灰色の熱。


すべてが不完全に混ざっている。


イリスの端末が激しく警告を鳴らした。


「複合反応……こいつら、一人ずつ別の因子を入れられてる!」


オルディスは告げる。


『古代観測炉へ到達したいなら、彼らを越えてください』


「殺させる気か」


ヴェスパーが言う。


『止め方は自由です。ただし、彼らの核を壊せば生命維持も停止します』


また選択。


倒せば死ぬ。


倒さなければ進めない。


オルディスの作った道。


ヴェスパーは五人を見る。


名前を奪われた者たち。


空っぽにされた人間。


だが、まだ生きている。


セレスが熱診を続ける。


「生命維持装置は胸の核だけではありません。首元の装置が制御を行っています」


イリスが端末を向ける。


「なら首を狙う?」


「破壊すれば、暴走する可能性があります」


レイラが低く聞く。


「どうする」


ヴェスパーは剣を構えた。


五人がゆっくりと前へ進む。


熱が混ざり、街路の空間が歪む。


黒陽炎のようで違う。


竜熱のようで弱い。


アステルの重圧術式にも似ている。


歪んだ寄せ集め。


ヴェスパーは仲間たちを見た。


「殺さず止める」


レイラが笑う。


「難しい方を選ぶんだな」


「選んでいない」


ヴェスパーは前を向く。


「両方やる」


イリスが端末を構える。


「制御装置の解除方法を探す」


セレスは医療バッグを開く。


「動きを止められれば、生命維持を安定させます」


レイラは戦斧を低く構えた。


「なら、壊さないように殴る」


ヴェスパーの周囲で、薄い熱が揺れる。


大きく燃やさない。


怒りに任せない。


残火のように。


五人の空っぽの器が、同時に地面を蹴った。


海底旧区画に、黒と青と紫の光が走る。


海底観測炉へ続く最初の戦いが始まった。

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