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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第19話 「海霧の追跡」

港の鐘が、二度目を鳴らした。


低く、深く、腹の底まで沈むような音だった。


潮鳴りの街は、白い霧に包まれ始めている。


昼間は賑わっていた魚市場も、今は人影が少ない。


船乗りたちは灯りを落とし、店主たちは戸を閉め、港の灯台だけが霧の奥でぼんやりと光っていた。


ノアは両耳を押さえていた。


耳当て布をしていても、鐘の音は強い。


海の音。


船の軋み。


波が岸壁を叩く音。


遠くの鎖が揺れる音。


全部が混ざって、頭の中へ押し寄せてくる。


「ノア君、大丈夫ですか」


セレスが膝をついて、彼の顔を覗き込む。


ノアは少し息を乱しながら答えた。


「大丈夫……じゃない。でも、聞ける」


「無理はしないでください」


「うん」


ノアは深く息を吸った。


潮の匂い。


濡れた木の匂い。


古い鉄の匂い。


そして、その奥にある小さな機械音。


黒い翼の船。


「いる」


ノアが呟いた。


ヴェスパーが視線を向ける。


「どこだ」


ノアは霧の奥、港の外れを指差した。


「東の桟橋。音が小さい。普通の船じゃない。水の下で機械が回ってる」


イリスが端末を確認する。


「東の桟橋……貨物船用の古い区画だね。今夜は使用停止のはず」


レイラが戦斧を担ぐ。


「つまり当たりか」


アステルが静かに頷く。


「霧の奥から、術式の重さも感じます」


セレスは薬品袋を持ち直した。


「船に乗る前に確認します。全員、耳栓、酔い止め、薬布。水に落ちた時の浮き具も」


レイラが少し嫌そうな顔をする。


「浮き具までいるのか?」


「海に落ちたら必要です」


「泳げばいいだろ」


イリスが横から言った。


「鎧と斧持ったまま?」


レイラは少し黙った。


「……浮き具、いるな」


ヴェスパーは港の霧を見る。


霧の向こうには、黒い翼の船。


その先には、海底旧区画。


沈んだ記録。


オルディスの罠。


そして、おそらく器計画の次段階。


「行くぞ」


一行は、海霧に沈む港へ踏み出した。


東の桟橋は、港の端にあった。


古い木材で組まれた通路。


錆びた鎖。


使われなくなった荷揚げ機。


霧のせいで、数歩先も見えない。


海は暗く、波の音だけが足元から響いてくる。


ノアは耳を澄ませながら進む。


「近い」


イリスが小声で聞く。


「見張りは?」


「二人。桟橋の先。足音が硬い。黒い翼だと思う」


ヴェスパーは頷いた。


「殺さず止める」


レイラが不満そうにする。


「毎回それだな」


「情報が要る」


「分かってる」


霧の中から、黒い外套の兵が二人現れた。


顔には黒いマスク。


手には短銃。


だが、彼らがこちらに気付く前に、ヴェスパーは動いていた。


足音を殺す。


熱を上げない。


薄い残火だけを水面に流す。


兵の視界に、霧の中で揺れる影が映る。


本体ではない。


水面に映った幻影。


兵がそちらへ銃口を向けた瞬間、ヴェスパーは懐へ入った。


一人目を峰打ち。


二人目の銃を弾き、首筋を打つ。


二人は声を上げる間もなく倒れた。


レイラが小声で言う。


「静かだな」


イリスが倒れた兵の装備を調べる。


「通信機あり。送信前。よし、まだ気付かれてない」


ノアは桟橋の先を見た。


霧の奥に、黒い船影が浮かんでいる。


小型船。


だが普通の帆船ではない。


船体は低く、黒い鉄板で覆われている。


水面の下で、青白い光が時折漏れていた。


イリスが眉をひそめる。


「半潜航型の輸送艇だ。海底旧区画へ行くための船だね」


レイラが顔をしかめる。


「乗るのか? あれに?」


「黒い翼の船には乗らない」


イリスは桟橋の反対側を指差した。


そこには、古い漁船が一隻繋がれていた。


小さく、木造で、ところどころ修理跡だらけ。


船名は、かすれた文字でこう書かれていた。


【潮猫丸】


レイラが眉をひそめる。


「大丈夫なのか、これ」


その時、船の上から声がした。


「失礼だね。見た目より走るよ、その子は」


全員が身構えた。


霧の中から、一人の人物が現れる。


長い外套。


深く被った帽子。


顔の下半分は布で隠れている。


肩には黒猫の形をした小型通信器。


声は、海霧亭で聞いたものと同じだった。


「潮見屋ノアール」


ヴェスパーが言う。


ノアールは軽く手を上げた。


「直接会うのは高い情報なんだけどね。今回は特別だ」


イリスが目を細める。


「顔はまだ見せないんだ」


「顔はさらに高い」


「徹底してるね」


ノアールは黒い翼の輸送艇を見る。


「奴らはもうすぐ出る。追うなら、この船を使いなさい」


レイラが潮猫丸を見る。


「これで追いつけるのか?」


「霧の中では、大きい船より小さい船の方が速い。それに、その子は海底水路の入口を知っている」


ノアが首を傾げる。


「船が、知ってるの?」


ノアールは少し笑った。


「正確には、古い海図と潮の流れが知っている」


セレスが一歩前へ出る。


「あなたは同行するのですか」


「しない」


即答だった。


レイラが呆れる。


「案内人なのに?」


「情報屋は、客を入口までは案内する。地獄の中までは付き合わない」


イリスが肩をすくめる。


「分かるけど、嫌な言い方」


ノアールはイリスを見る。


「君なら分かるだろう」


「分かるから嫌なんだよ」


ヴェスパーはノアールを見た。


「なぜ協力する」


ノアールは少しだけ黙った。


霧が彼の外套を濡らす。


「黒い翼が海を荒らしているから」


「それだけか」


「十分な理由だよ。海都の情報屋にとって、海は商売道具であり、家でもある」


ノアールの声が少し低くなる。


「それに、ガルムには借りがある。彼がまだ生きているなら、その弟子に返すのも悪くない」


ヴェスパーはしばらくノアールを見た。


完全には信用できない。


だが、今は使うしかない。


「船を借りる」


「壊さないでくれると嬉しい」


レイラが乗り込みながら言う。


「戦闘になったら保証できないぞ」


ノアールは肩をすくめた。


「なら、せめて沈めないで」


潮猫丸は、小さな船だった。


だが、見た目に反してよく動いた。


イリスが舵を取り、ノアールから渡された海図を端末に読み込む。


レイラは船首で戦斧を抱え、少し落ち着かない様子で海を見ている。


セレスはアステルとノアに酔い止めを飲ませた。


ノアは耳当て布を厚く巻き直し、霧の中の音を聞いている。


アステルはすでに少し青ざめていた。


「揺れますね……」


セレスが背中をさする。


「遠くを見てください。近くの水面を見すぎると酔います」


「はい……」


レイラが振り返る。


「アステル、大丈夫か?」


アステルは口元を押さえながら答えた。


「大丈夫では……ないです」


セレスは頷いた。


「正直でよろしいです」


ノアも少し気持ち悪そうにしていたが、耳は前を向いていた。


「黒い翼の船、前にいる。低い音。水の下を半分進んでる」


イリスが舵を切る。


「霧のせいで見えないけど、追跡はできそう?」


ノアは耳を澄ませる。


「できる。でも、海の音が邪魔」


「無理しないで」


「うん。でも、聞く」


ヴェスパーは船尾で霧を見ていた。


潮風が外套を揺らす。


水面には、灰色の霧と黒い波だけ。


敵の姿は見えない。


だが、確かに前にいる。


黒い翼の船が、海底旧区画へ向かっている。


「ヴェスパー」


レイラが声をかけた。


「海、苦手か?」


「分からない」


「分からないって何だよ」


「初めてだからな」


レイラは少し驚いた。


「そうか。砂漠育ちだもんな」


ヴェスパーは海を見た。


「広すぎる」


「だろ。逃げ場がないようで、どこへでも行ける」


「妙な場所だ」


「まあな」


レイラは笑った。


「でも嫌いじゃないだろ」


ヴェスパーは少し考えた。


「まだ分からない」


「お前らしいな」


その時、ノアが叫んだ。


「止まって!」


イリスが即座に舵を切り、速度を落とす。


「何?」


「前、水の下に鎖がある!」


直後、霧の中で水面が盛り上がった。


黒い鎖が海中から跳ね上がる。


船を絡め取るための罠。


イリスが舌打ちした。


「機雷じゃなくて拘束鎖!」


レイラが船首へ出る。


「任せろ!」


セレスが叫ぶ。


「船を壊さないでください!」


「努力する!」


「実行です!」


レイラは戦斧を振るった。


鎖に刃が食い込む。


火花が散り、船が大きく揺れる。


アステルが悲鳴を飲み込む。


ノアが転びかけ、ヴェスパーが支える。


「大丈夫か」


「うん!」


鎖は一本ではなかった。


左右からさらに二本。


船体を挟むように迫る。


ヴェスパーは剣を抜いた。


熱を上げるな。


水面の冷たさを読む。


鎖の摩擦熱を読む。


小さく、薄く、残火のように。


水面に揺らぎが走る。


鎖の巻きつく位置がわずかにずれる。


その隙に、イリスが船を滑らせる。


「レイラ、右!」


「おう!」


レイラが右の鎖を叩き折る。


左はヴェスパーが剣で連結部を断つ。


最後の一本が船尾に迫る。


アステルが手を上げた。


「少しだけ……!」


重圧が鎖の動きを鈍らせる。


ほんの一瞬。


イリスが舵を切る。


鎖は船尾をかすめ、海中へ沈んだ。


潮猫丸は霧の中を抜ける。


レイラが息を吐いた。


「危なかったな」


イリスが端末を確認する。


「完全に黒い翼の罠。向こうは追われてることに気付いたかも」


ノアは耳を澄ませた。


「黒い翼の船、速度上がった」


ヴェスパーの目が鋭くなる。


「追う」


イリスが舵を握り直す。


「了解」


潮猫丸は霧を裂いて進んだ。


三度目の鐘が鳴った。


港から遠く離れた海上にまで、その音は届いた。


霧が一気に濃くなる。


船の先端すら白く滲むほどだった。


ノアは耳を押さえて膝をついた。


「鐘……大きい……!」


セレスがすぐに寄る。


「耳当てを強くします」


「でも、聞こえなくなる」


「今は守ることが先です」


ノアは唇を噛む。


「でも、僕が聞かないと」


アステルが青ざめながらも、ノアの手を握った。


「全部一人で聞かなくていいです」


ノアは彼女を見る。


「私たちも見ます。イリスさんも調べます。ヴェスパーさんも感じます。だから、全部を耳だけで背負わなくていいです」


ノアは少し震えた。


そして、小さく頷く。


「……うん」


セレスは耳当てを調整した。


「必要な音だけ聞きましょう」


ノアは深く息を吸った。


海の音を全部聞くのではない。


黒い翼の船の音だけを探す。


水の下で回る機械。


青白い動力。


金属の振動。


「前……少し左」


イリスが舵を切る。


霧の奥に、黒い影が見えた。


黒い翼の半潜航船。


水面すれすれを走り、霧に紛れて進んでいる。


その先に、海面が渦を巻く場所があった。


自然の渦ではない。


人工的な入口。


海底旧区画へ続く沈降路。


イリスが息を呑む。


「あれが入口……」


アステルの顔が強張る。


「下から術式の重さが来ています」


レイラが戦斧を握る。


「追いつく前に潜られるぞ」


「なら止める」


ヴェスパーが言った。


イリスが端末を操作する。


「船の後部に動力核がある。壊せば止まるけど、爆発すると海底入口ごと崩れるかも」


「止めるだけでいい」


「簡単に言うね」


「できるか」


イリスは笑った。


「やるしかないでしょ」


潮猫丸が速度を上げる。


黒い翼の船もこちらに気付いた。


船尾から小型の自動砲が展開する。


青白い弾が霧を裂いて飛ぶ。


「伏せろ!」


ヴェスパーが叫ぶ。


弾丸が船の横を掠め、水柱が上がる。


レイラが船首で踏ん張る。


「近付け!」


イリスが叫ぶ。


「言われなくても!」


ヴェスパーは剣を構えた。


海の上では足場が悪い。


蜃気楼も水面に乱される。


だが、霧がある。


水面がある。


揺らぎは作れる。


大きく燃やさず、薄く残す。


ヴェスパーの熱が霧に溶けた。


黒い翼の自動砲の照準が、わずかにずれる。


次の弾が外れる。


「今!」


イリスが潮猫丸を横付けする。


レイラが黒い翼の船へ飛び移った。


「おらぁっ!」


戦斧が自動砲を叩き潰す。


ヴェスパーも続いて飛び移る。


黒い翼の兵が二人、船上に現れた。


「追跡者確認。排除」


ヴェスパーは低く構える。


「排除される気はない」


レイラが笑う。


「船の上で暴れるの、悪くないな!」


「壊すな!」


イリスが潮猫丸から叫ぶ。


黒い翼の兵が短銃を構える。


ヴェスパーは霧を揺らし、照準を外す。


レイラが一人を斧の柄で吹き飛ばす。


もう一人はヴェスパーが峰打ちで倒した。


だが、その間に船は渦へ向かって進み続けている。


イリスが叫ぶ。


「動力を止めて!」


ヴェスパーは船尾を見る。


青白く光る結晶動力核。


ただ斬れば爆発する。


熱を読む。


流れを読む。


結晶の中を回る動力。


それを止める接合部。


ヴェスパーは剣を逆手に持った。


「レイラ、船体を押さえろ」


「押さえるって何を!」


「揺らすな」


「無茶言うな!」


それでもレイラは戦斧を甲板に突き立て、踏ん張った。


ヴェスパーは動力核の横にある制御管を狙う。


小さく、薄く。


熱をずらす。


金属をわずかに膨張させ、固定具を緩める。


そこへ剣を入れる。


制御管が外れ、動力核の光が弱まった。


黒い翼の船が失速する。


だが、完全には止まらない。


渦が迫る。


レイラが叫ぶ。


「戻るぞ!」


ヴェスパーが頷く。


二人は潮猫丸へ戻ろうとした。


その時。


黒い翼の船の甲板下から、声が響いた。


「助けて……」


ヴェスパーの足が止まった。


レイラも振り返る。


「今の……」


セレスが潮猫丸から叫ぶ。


「生存者ですか!」


ノアが耳を澄ませる。


「中にいる! 一人じゃない! 小さい声が三つ!」


イリスの顔が変わる。


「罠かもしれない」


ヴェスパーは黒い翼の船を見る。


失速しているが、渦へ引かれている。


このままでは船ごと海底入口へ沈む。


中に人がいるなら、見捨てられない。


だが、時間がない。


また選択。


船を止めるか。


生存者を助けるか。


自分たちの安全を取るか。


オルディスの声が、通信機から流れた。


『聞こえましたか、黒陽炎の弟子』


ヴェスパーの目が冷える。


船の通信装置が勝手に起動している。


『海の上でも、選択は美しい。追跡を続けるか。中の者を救うか。沈降路はもう閉じ始めています』


レイラが怒鳴る。


「またかよ!」


オルディスの声は穏やかだった。


『さあ、どうしますか』


ヴェスパーは一瞬だけ目を閉じた。


選ばない。


今回も。


彼は叫んだ。


「イリス、船を固定できるか!」


「潮猫丸だけじゃ無理!」


「アステル!」


アステルは青ざめながらも立ち上がった。


「船同士の距離を、少しだけなら」


セレスが支える。


「十秒です」


「はい!」


アステルが重圧を広げる。


黒い翼の船と潮猫丸の間に、見えない重さの橋を作る。


船の揺れが一瞬だけ鈍る。


「ノア、中の位置!」


ノアは耳を澄ませる。


「甲板下、右奥! 鎖の音! 閉じ込められてる!」


「レイラ、扉!」


「任せろ!」


レイラが甲板下への扉を戦斧で叩き割る。


ヴェスパーが中へ飛び込む。


暗い船室。


そこには三人の子どもがいた。


手足を拘束され、口を布で塞がれている。


種族はばらばら。


人間の少女。


小さな獣人の少年。


鱗を持つ亜人の子。


黒い翼の被験体候補。


ヴェスパーの胸に冷たい怒りが走る。


だが、燃やさない。


「助ける」


彼は拘束具を斬る。


一人。


二人。


三人。


その間にも船は渦へ近付いている。


レイラが入口から叫ぶ。


「急げ!」


ヴェスパーは子どもたちを抱え、甲板へ戻る。


潮猫丸が横で大きく揺れている。


アステルの術式が限界に近い。


「もう……!」


セレスが叫ぶ。


「アステルさん、解除!」


「でも!」


「解除です!」


アステルが術式を解く。


船同士の距離が崩れる。


その瞬間、レイラが子ども二人を潮猫丸へ投げ渡した。


セレスとイリスが受け止める。


ヴェスパーは最後の一人を抱えたまま跳ぶ。


黒い翼の船が渦へ引かれて沈み始める。


足場が崩れる。


跳躍が足りない。


「ヴェスパー!」


レイラが手を伸ばす。


届かない。


その時、ノアが叫んだ。


「右! 波が来る!」


ヴェスパーは信じた。


空中で身体を捻り、来る波に合わせる。


大きな波が黒い翼の船と潮猫丸の間に盛り上がった。


一瞬だけ、足場のように水面が持ち上がる。


ヴェスパーはそこを蹴る。


普通ならありえない。


だが、熱をほんの少しだけ水面に流し、霧と波の揺らぎを利用した。


残火の踏み込み。


彼の身体が潮猫丸へ届く。


レイラが腕を掴み、引き上げた。


「無茶しやがって!」


「助かった」


「礼はノアに言え!」


ヴェスパーはノアを見る。


ノアは震えながらも、強く頷いた。


「聞こえたから」


「助かった」


その言葉に、ノアの耳が少しだけ動いた。


しかし、安心する間もなかった。


黒い翼の船は完全に渦へ沈んでいく。


その下に、巨大な円形の扉が見えた。


海面の下。


青白い光。


沈降路。


海底旧区画への入口。


イリスが叫ぶ。


「入口が閉じる!」


オルディスの声が通信機から響く。


『見事です。子どもたちを救い、追跡も続ける。ですが、入口は待ってくれませんよ』


ヴェスパーは海面の光を見る。


このままなら、入口は閉じる。


黒い翼の本隊は奥へ逃げる。


だが、子どもたちは助けた。


船も残っている。


まだ終わっていない。


「イリス」


「分かってる!」


イリスは潮猫丸の舵を握り、沈降路へ向ける。


レイラが驚く。


「突っ込むのか!?」


「今なら黒い翼の船が開けた通路に滑り込める!」


セレスが叫ぶ。


「子どもたちは!」


「船室へ! 固定して!」


アステルは青ざめながらも、子どもたちに毛布をかける。


ノアは耳当てを押さえ、叫んだ。


「下から大きな水の音! 落ちる!」


ヴェスパーは船首へ立った。


海面に開いた青い穴。


そこへ潮猫丸が向かっていく。


霧が渦に吸い込まれる。


波が高くなる。


船体が軋む。


レイラが笑った。


「海ってすごいな!」


イリスが叫ぶ。


「感想言ってる場合じゃない!」


セレスが薬品箱を抱えながら言う。


「全員、掴まってください!」


アステルが子どもたちを守るように抱える。


ノアは目をぎゅっと閉じる。


ヴェスパーは前を見る。


逃げない。


選ばない。


救った命を抱えて、敵の入口へ飛び込む。


潮猫丸は、閉じかけた沈降路へ滑り込んだ。


海が割れる。


青白い光が全員を包む。


次の瞬間、船は海面から消えた。


潮鳴りの街の霧の下。


誰にも見えない海の底へ。


一行は沈んでいく。


黒い翼が待つ、海底旧区画へ。

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