第2章 第18話 「潮鳴りの街」
旧水路の奥で、水面が揺れた。
黒い影が三つ。
天井近くを滑るように飛ぶ、小型の黒い翼偵察機。
虫の羽音にも似た機械音が、湿った石壁に反響している。
ノアの耳がぴんと立った。
「上、三つ。真ん中のやつだけ音が重い」
イリスが端末を構える。
「真ん中が通信機持ちだね。逃がすと位置が割れる」
レイラが戦斧を担ぎ直す。
「なら全部壊す」
セレスが即座に言う。
「音を立てすぎないでください」
「難しい注文だな」
「実行してください」
「はい」
ヴェスパーは剣を抜いた。
水路は狭い。
天井は低く、足元には膝下ほどの水。
派手に動けば水音が響き、他の敵を呼ぶ。
だから、最小限。
ガルムが言った言葉を思い出す。
――大きく燃やせば喰われる。小さく、薄く、絶えず動かす。残火のようにな。
ヴェスパーは息を整えた。
熱を燃やすのではない。
流す。
水面に残る冷たさ。
石壁にこもる湿気。
仲間たちの体温。
偵察機の小さな動力熱。
それらを、ほんの少しだけずらす。
水面に映るヴェスパーの影が揺れた。
偵察機の視覚装置が、その揺らぎを追う。
本体ではなく、水面の幻影へ。
「今」
イリスの銃が二発。
右と左の偵察機が火花を散らして落ちた。
中央の通信機持ちが上昇しようとする。
ノアが叫ぶ。
「上に逃げる!」
レイラが足元の水を蹴った。
「逃がすか!」
戦斧を投げるのではなく、柄の先で壁を叩く。
崩れた石片が跳ね、偵察機の進路を塞いだ。
その一瞬。
ヴェスパーの剣が届いた。
通信機を積んだ偵察機は、音もなく二つに割れて水へ落ちる。
じゅ、と小さな火花。
イリスがすぐに拾い上げ、端末で確認した。
「送信前。位置は漏れてない」
セレスは小さく息を吐いた。
「よかったです」
レイラがにやりと笑う。
「音、そんなに立ててないだろ?」
セレスは周囲を見た。
「比較的、です」
「褒められたな」
「褒めてはいません」
ノアが水面を見つめる。
「でも、黒い翼、ここも知ってるんだ」
アステルが静かに言う。
「待ち伏せというより、見張りでしょうか」
イリスは壊れた偵察機から小さな記録部品を外す。
「たぶんね。灰都から海都へ抜ける道を全部見てる。つまり、アズールハーバーで動いてるのは本当っぽい」
ヴェスパーは水路の奥を見た。
かすかに潮の匂いがする。
砂漠の乾いた匂いでも、北の雪の匂いでもない。
湿っていて、重くて、どこか生き物の気配を含んだ匂い。
海。
まだ見えない海が、近付いていた。
「進む」
ヴェスパーが言う。
一行は再び旧水路を進み始めた。
⸻
旧水路は、灰都の地下を南東へ伸びていた。
かつては都市へ水を引くための重要な道だったという。
だが、大災厄の後、水脈は変わり、海風は毒を含み、使われなくなった。
今では商人や情報屋、密輸屋が知るだけの抜け道になっている。
壁には古い水位の跡。
崩れた祠。
錆びた鉄管。
そして時々、黒い翼が残した小型監視装置。
イリスがそれを一つずつ無効化していく。
「海都に着く前から仕事が多いね」
レイラが水を蹴りながら言う。
「情報屋って大変だな」
「今さら気付いた?」
「いつも楽しそうに端末いじってるから」
「楽しい時もあるよ。人の隠し事を暴くのはね」
ハルトが聞いたら嫌な顔をしそうな発言だった。
ヴェスパーは前を歩きながら、そんなことを思った。
灰都に残ったハルト。
ガルム。
ミロ。
グランヴェイルの生存者たち。
守るべきものを残して、彼らは海へ向かっている。
逃げたわけではない。
進むために、灰都を託した。
それでも、胸の奥には重さが残る。
「ヴェスパー」
セレスの声がした。
「歩き方が少し乱れています。脇腹が痛みますか」
「問題ない」
「痛むのですね」
「……少しだ」
「休憩を入れます」
「まだ進める」
「進めることと、進んでいいことは別です」
レイラが笑う。
「また負けてるな」
ヴェスパーは息を吐いた。
「合理的判断だ」
イリスが肩をすくめる。
「便利な言葉になったね」
結局、一行は崩れた水門の前で短い休憩を取った。
セレスはヴェスパーの傷を確認し、薬布を替える。
アステルも座り込み、静かに呼吸を整えた。
ノアは水路の奥をじっと見ていた。
「音が変わった」
イリスが顔を上げる。
「敵?」
「違う。もっと大きい音。遠くで、ずっと動いてる」
レイラが笑う。
「波だな」
ノアの耳が少し震える。
「これが?」
「たぶん、まだ入口だ」
「まだ入口でこれ?」
ノアは不安そうに耳当て布を押さえた。
セレスが言う。
「海都に入る前に、音に慣れる時間を作りましょう」
ノアは頷いた。
「うん。でも……」
「でも?」
「ちょっと、すごい」
その顔には、不安だけではなく、好奇心もあった。
アステルが微笑む。
「聞いたことのない音ですか」
「うん。ずっと遠くで、大きな生き物が寝返りしてるみたい」
レイラが腕を組む。
「詩人みたいなこと言うな」
イリスが笑う。
「レイラの“水の肉”よりずっといい表現だね」
「まだ言うか」
短い休憩の後、一行は再び進んだ。
⸻
旧水路を抜けた先には、沿岸街道が広がっていた。
空気が変わった。
乾いた砂風ではない。
湿った風。
塩の匂い。
遠くで鳥が鳴いている。
空は灰色だが、雲の切れ間から鈍い光が差していた。
その下に、海があった。
ノアは出口で足を止めた。
彼の大きな耳が、風を受けて震える。
目の前には、広い水面。
どこまでも続く、灰青色の海。
波が寄せ、砕け、引いていく。
絶えず動き、絶えず鳴っている。
ノアは言葉を失った。
「……これが、海」
アステルも隣で立ち尽くしていた。
「大きいですね」
レイラは伸びをする。
「久しぶりに見たな。海」
イリスは端末を構え、風向きと街道の状況を確認する。
「潮鳴りの街までは半日。アズールハーバーの外縁にある港町だね」
セレスは荷物を確認しながら言う。
「ノア君、耳は大丈夫ですか」
ノアは耳当て布を押さえたまま、少し考えた。
「うるさい。でも、嫌じゃない」
「無理はしないでください」
「うん」
彼は木彫りの狼を取り出し、海へ向けた。
「兄ちゃん。これが海だよ」
その声は風に流された。
だが、きっと届いた。
アステルは何も言わず、ただ隣に立っていた。
ヴェスパーも海を見た。
砂漠で育ち、灰都を拠点にしてきた彼にとっても、海は異質だった。
地平線ではない。
水平線。
果てがあるようで、ない。
そこに黒い翼がいる。
オルディスがいる。
沈んだ記録がある。
「行くぞ」
ヴェスパーが言った。
一行は海沿いの街道を進み始めた。
⸻
潮鳴りの街は、アズールハーバーの外縁にある小さな港町だった。
正式名は、ルオーネ港町。
だが、誰もそうは呼ばない。
潮が岩壁にぶつかる音が一日中鳴っているため、人々はそこを潮鳴りの街と呼んでいた。
灰色の石造りの家々。
青い屋根。
港に並ぶ小型船。
干された網。
魚市場の匂い。
街中を走る水路。
そして、遠くに見える巨大都市アズールハーバー。
海上に張り出した城壁と、幾本もの塔。
港には無数の船が停泊し、蒸気と霧が混ざり合っている。
レイラは市場の匂いを嗅ぎ、目を輝かせた。
「魚だ」
セレスが釘を刺す。
「まず宿と情報収集です」
「分かってる。魚はその後だ」
イリスが端末を閉じる。
「この街で港の鐘が三度鳴る夜を待て、か。問題は、その鐘がいつ鳴るかだね」
アステルが港の方を見る。
「普通の鐘ではないのでしょうか」
「たぶん、海霧が濃くなる時の合図か、夜間の船入れ替えの合図」
ノアは耳を澄ませた。
「鐘、いっぱいある。港にも、灯台にも、船にも」
「聞き分けられる?」
イリスが聞く。
ノアは少し困った顔をする。
「まだ多すぎる。海の音も、船の音も、人の声も混ざってる」
セレスが言う。
「無理に聞かなくていいです。少しずつ慣れましょう」
「うん」
一行は港町の通りを歩いた。
周囲の人々がちらちらと彼らを見る。
砂漠の旅装。
獣人の戦士。
端末を持つ情報屋。
白い医療術師。
術師の少女。
大きな耳の少年。
目立たないはずがない。
だが、港町の人間は詮索に慣れている。
怪しい者を見ても、すぐには声をかけない。
代わりに、店先や窓の陰から視線だけを投げてくる。
イリスが小声で言った。
「見られてるね」
レイラが答える。
「有名人か?」
「珍客だね」
ヴェスパーは視線を周囲に走らせた。
黒い翼の気配は、まだない。
だが、安心はできない。
海都に近付くほど、敵の目も増えるはずだ。
その時、ノアが足を止めた。
「変な音」
全員が止まる。
「どこだ」
ヴェスパーが聞く。
ノアは港の奥を指差す。
「市場の向こう。水の下から、機械の音がする」
イリスの目が鋭くなる。
「水の下?」
「うん。船じゃない。もっと下。石の下」
アステルが胸元に手を当てる。
「術式の重さも、少しあります」
セレスが顔を険しくする。
「黒い翼でしょうか」
イリスは港の地図を確認する。
「この下、古い海底水路がある。昔の排水施設か、沈んだ区画へ続く道」
ヴェスパーは港の奥を見る。
沈んだ記録。
オルディスの言葉が蘇る。
海霧の向こう。
黒い翼は、すでにこの街の下で動いている。
「確認する」
セレスがすぐに言う。
「街に着いたばかりです。無理に地下へ入るのは危険です」
「見るだけだ」
レイラが笑う。
「その言い方で見るだけで終わったことあったか?」
ヴェスパーは黙った。
イリスが肩をすくめる。
「まず宿を取って、荷物を置いてから。あと情報屋ノアールを探すのが先」
その時だった。
通りの向こうから、子どもが一人走ってきた。
海都の港町らしい、青い布を腰に巻いた小柄な少年。
彼はヴェスパーたちの前で止まり、息を切らせながら一枚の札を差し出した。
「黒陽炎の弟子って、あんた?」
ヴェスパーは目を細める。
「誰から聞いた」
少年は札を押し付けるように渡した。
「潮見屋から。港の鐘が鳴る前に、これを渡せって」
イリスが札を受け取る。
札には、波と黒猫の印。
そして裏には短い文字。
『海霧亭。
二階奥。
潮が満ちる前に。』
レイラが眉をひそめる。
「海霧亭?」
少年が港の奥を指差す。
「宿屋兼酒場。外から来た人はだいたいそこに泊まる」
イリスが少年を見る。
「潮見屋ノアールはそこにいる?」
少年は肩をすくめた。
「いる時もある。いない時もある。見てる時は、だいたい見られてる」
「情報屋らしい言い方だね」
イリスは苦笑した。
少年は最後にノアを見た。
「耳、大きいな」
ノアが少し身構える。
少年は悪気なく言った。
「港の鐘、近くで聞くと頭割れるぞ。布、厚くしとけよ」
ノアは目を瞬いた。
「あ、ありがとう」
少年は走り去っていった。
レイラが腕を組む。
「親切なのか怪しいのか分からんな」
イリスは札を見つめる。
「両方だと思う」
ヴェスパーは港の奥に見える宿を見た。
海霧亭。
灰色の石壁。
青い看板。
二階の窓から、誰かがこちらを見ている気がした。
だが、次の瞬間にはカーテンが揺れるだけだった。
「行くぞ」
一行は海霧亭へ向かった。
⸻
海霧亭の中は、魚の匂いと酒の匂いと煙草の匂いが混ざっていた。
港町の酒場らしく、船乗り、商人、傭兵、漁師、旅人が入り混じっている。
壁には古い船の舵。
天井からは干した海草。
奥には小さな舞台。
昼間だというのに、何人かはすでに酒を飲んでいた。
一行が入ると、一瞬だけ店内が静かになる。
だが、すぐにまた騒がしさが戻った。
イリスが小声で言う。
「全員、こっちを見てないふりして見てる」
レイラが笑う。
「港町っぽいな」
店主らしき大柄な女性が近付いてきた。
「泊まりかい?」
イリスが札を見せる。
「二階奥に用がある」
女性は札を見て、表情を変えなかった。
「なら、魚の煮込みを頼みな」
レイラの顔が明るくなる。
「頼む!」
イリスが小声で言う。
「合言葉かも」
「でも魚も頼むだろ?」
「まあ、頼むけど」
店主はにやりと笑った。
「二階奥。長居するなら、ちゃんと宿代も払ってもらうよ」
イリスは頷いた。
「商売上手だね」
「港で生きるには必要さ」
一行は二階へ上がった。
廊下は狭く、床板が軋む。
ノアは耳を押さえた。
「下の声、床から響く」
セレスが耳当てを調整する。
「少し締めます」
「うん。ありがとう」
二階奥の扉の前に立つ。
中からは、音がしない。
人の気配も薄い。
だが、完全に無人ではない。
ヴェスパーは扉を叩いた。
返事はない。
イリスが札を扉にかざす。
鍵が小さく鳴った。
「開いた」
レイラが戦斧に手をかける。
「罠か?」
「情報屋の招待で罠じゃないことの方が珍しい」
「嫌なこと言うな」
扉を開ける。
部屋の中には、誰もいなかった。
中央に丸い机。
窓際に古いランタン。
壁には海図。
そして机の上に、黒い猫の置物。
イリスが置物を見た瞬間、目を細めた。
「通信器」
黒猫の目が青く光った。
次の瞬間、部屋の中に声が響いた。
男とも女ともつかない、柔らかい声。
『ようこそ、灰都の客人たち』
ノアがびくっとする。
ヴェスパーは剣の柄に手をかけた。
「ノアールか」
『そう呼ばれているね。潮見屋ノアール。海の噂と沈んだ秘密を売る者だ』
イリスが腕を組む。
「顔は見せないんだ」
『情報屋同士なら分かるだろう。顔は高い情報だ』
「なるほど。嫌いじゃない」
黒猫の置物が小さく動く。
『黒い翼はアズールハーバーの下で動いている。海底旧区画。大災厄前の研究施設。彼らはそこから“沈んだ記録”を引き上げようとしている』
ヴェスパーが聞く。
「オルディスはいるのか」
『いる。少なくとも、彼の影はね』
「ドラグニルは」
『海にはまだ来ていない。ただし、竜熱の痕跡が輸送記録にある』
イリスが端末を出す。
「その情報、いくら?」
黒猫の目が細く光る。
『今回の代金は、もう払われている』
「誰が」
『黒陽炎ガルム』
ヴェスパーの表情が変わった。
「ガルムが?」
『昔、彼は私に貸しを作った。正確には、私が彼に借りを作った。今回はその返済だ』
レイラが小声で言う。
「師匠、顔広いな」
セレスが静かに聞く。
「黒い翼の目的は何ですか」
ノアールの声が少し低くなった。
『器計画の次段階。海底旧区画には、大災厄時に沈んだ古代観測炉がある。黒い翼はそれを使って、竜熱、黒陽炎、結晶化、重圧術式を統合するつもりだ』
アステルの顔が強張る。
「重圧術式も……」
『もちろん。君も彼らの記録にある、アステル』
セレスが一歩前へ出る。
「その言い方は控えてください」
ノアールは少し間を置いた。
『失礼。海の情報屋は、時々言葉の塩加減を間違える』
レイラが眉をひそめる。
「なんだその言い方」
『港町では通じる』
「通じるのか……」
ノアールは続けた。
『今夜、港の鐘が三度鳴る。海霧が最も濃くなる合図だ。その時、黒い翼の小型船が海底旧区画へ向かう。君たちはそれを追うといい』
ヴェスパーは問う。
「罠か」
『もちろん』
全員が沈黙した。
ノアールの声は楽しげだった。
『だが、罠ではない道など、今の君たちには用意されていない。問題は、その罠にどの足で踏み込むかだ』
イリスが笑った。
「嫌な情報屋だね」
『君ほどではない』
「会ったことある?」
『情報屋同士、名前だけは潮に流れてくる』
イリスは少しだけ目を細めた。
「いいね。いつか直接会いたい」
『生きて帰れたらね』
黒猫の目の光が弱まる。
最後に、ノアールは言った。
『港の鐘が三度鳴る夜。海霧の中で、黒い翼の船を追え。だが気をつけなさい。アズールハーバーでは、海そのものが秘密を隠す』
通信が切れた。
部屋に静寂が戻る。
窓の外では、潮鳴りの街が騒がしく動いている。
魚市場。
船の鐘。
波の音。
人々の声。
その下に、黒い翼の機械音がかすかに混ざっている。
ノアは耳を澄ませた。
「海の下に、何かいる」
ヴェスパーは窓の外を見た。
霧が出始めている。
港の鐘が鳴る夜。
黒い翼の船。
海底旧区画。
沈んだ記録。
物語は、陸を離れようとしていた。
レイラが戦斧を握る。
「船に乗るのか」
イリスが頷く。
「そうなるね」
セレスは荷物を確認する。
「船酔いの薬を用意します」
ノアが不安そうに耳を押さえた。
「船って、本当に揺れるんだよね」
アステルも少し青ざめる。
「……頑張ります」
レイラが笑った。
「大丈夫だ。海の上で食べる魚はうまい」
セレスが言う。
「今は食事の話ではありません」
「でも大事だろ」
ヴェスパーは窓の外の霧を見つめていた。
黒い翼は待っている。
オルディスも、きっと見ている。
また選ばせようとする。
また誰かを材料として見る。
なら、壊す。
海の底であろうと。
霧の向こうであろうと。
ヴェスパーは静かに言った。
「今夜、船を追う」
潮鳴りの街に、最初の鐘が鳴った。
低く、深く、海へ沈むような音。
ノアの耳が震える。
霧が、港を白く包み始めた。




