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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第17話 「海霧の招待状」

白砂診療所に届いた青い機械鳥は、夜が明けても机の上に置かれていた。


羽根には海都アズールハーバーの紋章。


通信筒には、潮の匂いが残っている。


そして中に入っていた紙片には、短くこう記されていた。


『灰都より来たる黒陽炎の弟子へ。

海霧の中で黒い翼が動いている。

アズールハーバーに来るなら、港の鐘が三度鳴る夜を待て。


――潮見屋ノアール』


ヴェスパーはその紙片を見下ろしていた。


海。


黒い翼。


ノアール。


次の道は、もう示されている。


だが、すぐに動ける状態ではなかった。


ガルムは重傷。


アステルは術式疲労。


ノアも精神的に消耗している。


グランヴェイルの生存者たちも、まだ診療所で治療中だ。


セレスは紙片を見た後、静かに言った。


「出発は早くても三日後です」


レイラが腕を組む。


「三日も待つのか?」


セレスの視線がレイラへ向く。


「三日しか待ちません」


「……はい」


イリスが苦笑する。


「今のはセレスにしてはかなり譲歩してるね」


「本来なら一週間は必要です」


セレスは淡々と言った。


「ですが、黒い翼が海都で動いている以上、待ちすぎるのも危険です。だから三日です」


ハルト・グレイヴは壁際に立ち、灰都から海都までの地図を広げた。


「三日あるなら、通行証と補給品は揃える。護衛名目の書類も用意できる」


ヴェスパーが聞く。


「灰都の中は」


「俺が見る」


ハルトは即答した。


「上層区の内通者はまだ特定できていない。だが、襲撃時に警備配置を変更した権限は絞れた」


イリスが端末を覗き込む。


「上層区防衛管理官、交易許可局、あと警備隊本部の一部だね」


ハルトは渋い顔をする。


「警備隊本部にまで手が入っているなら、厄介だ」


「厄介じゃない黒い翼なんていた?」


「いないな」


二人は同時にため息をついた。


レイラがにやりと笑う。


「やっぱり相性いいな」


ハルトとイリスは同時に言った。


「よくない」


その日の午後。


診療所の中庭で、ヴェスパーはガルムと向き合っていた。


本当ならガルムは寝ていなければならない。


だが、セレスの許可を得て、十分だけ外に出ていた。


ただし条件付き。


黒陽炎を使わない。


剣を振らない。


立っている時間は十分以内。


そして、少しでも咳き込めば即終了。


ガルムは不満そうに言った。


「修行じゃなくて散歩だな」


ヴェスパーは答える。


「生きる練習だ」


ガルムは目を細めた。


「言うようになったな」


「誰かの真似だ」


「俺はそんな説教臭くない」


「自覚がないだけだ」


ガルムは小さく笑った。


だが、その笑いはすぐに咳へ変わる。


処置室の窓から、セレスの視線が飛んだ。


ガルムは咳を抑え、何事もなかったように立ち直る。


「……見ていたか」


「見てるに決まってる」


ヴェスパーが言うと、ガルムは面倒そうに息を吐いた。


「いいか、ヴェスパー。お前は黒陽炎を真似るな」


「真似るな?」


「あれは俺の術だ。俺の傷と、俺の生き方に結びついている。お前がそのまま使えば、術に喰われる」


ヴェスパーは黙って聞いた。


「お前にはお前の熱がある。蜃気楼も、感知も、仲間の熱を読む感覚も。それを捨てて黒陽炎に寄せるな」


「だが、ドラグニルには俺の蜃気楼が喰われる」


「だから黒陽炎を使う、では遅い」


ガルムは中庭に落ちていた小石を拾った。


そして、それをヴェスパーへ投げる。


速くはない。


ヴェスパーは簡単に受け止めた。


「今の石を避けるのに、大技はいらん」


「当然だ」


「ドラグニル相手でも同じだ。勝とうとするな。まず喰われない熱を作れ」


ヴェスパーは手の中の石を見る。


「喰われない熱……」


「大きく燃やせば喰われる。なら、小さく、薄く、絶えず動かす。残火のようにな」


ガルムは自分の胸元を押さえた。


「黒陽炎は炎じゃない。相手の距離感、視界、熱の流れを狂わせる“残り火”だ。お前の蜃気楼とも近い。ただし、怒りで燃やすな」


ヴェスパーは静かに頷いた。


「分かった」


「本当か?」


「たぶん」


ガルムは呆れた顔をした。


「まだまだだな」


その時、窓が開いた。


セレスの声が飛ぶ。


「十分です。戻ってください」


ガルムは露骨に嫌そうな顔をした。


「まだ五分だ」


「八分です」


「細かいな」


「患者の命に関わる時間です」


ガルムはヴェスパーを見た。


「助けろ」


ヴェスパーは即答した。


「戻れ」


「裏切り者め」


「生きる練習だ」


ガルムは舌打ちしながらも、素直に診療所へ戻った。


一方、ノアは診療所の屋根にいた。


隣にはアステル。


二人の前には、セレスが用意した耳当て布が置かれている。


海都へ行くなら、ノアの耳を守る道具が必要だった。


波の音。


船の音。


港の鐘。


ノアにとって、海は未知の巨大な音の塊だ。


ノアは布を耳に当て、不安そうに呟いた。


「これで海の音、小さくなる?」


アステルが答える。


「たぶんなります。セレスさんが作ったものですから」


「じゃあ大丈夫かな」


「完全に大丈夫ではないかもしれません」


ノアは少し固まった。


アステルは慌てて続ける。


「でも、大丈夫じゃない時に、大丈夫じゃないと言えれば大丈夫です」


ノアはしばらく考えた。


「それ、ややこしい」


「私もそう思います」


二人は小さく笑った。


ノアは灰都の外を見た。


砂の向こう。


まだ見えない海。


「海って、兄ちゃんも見たことなかったと思う」


アステルは静かに聞いていた。


「僕が見たら、兄ちゃんに話せるかな」


「はい」


「死んだ人に話すって、変かな」


アステルは首を横に振った。


「変ではありません」


「そっか」


ノアは木彫りの狼を手に取った。


「じゃあ、ちゃんと聞いてくる。海の音」


アステルは微笑んだ。


「私も、一緒に聞きます」


二日目の夜。


ハルトとイリスは、灰都上層区の記録保管庫にいた。


もちろん、正式な調査である。


少なくともハルトの側は。


イリスの端末からは、どう見ても正式ではない画面がいくつも開いていた。


ハルトは低く言う。


「それは許可された閲覧範囲を超えている」


イリスは画面を見たまま答えた。


「じゃあ見なかったことにして」


「できるか」


「でも見ないと内通者を見つけられない」


ハルトはしばらく黙った。


「……三分だけだ」


「五分ほしい」


「三分だ」


「四分」


「三分半」


「決まり」


ハルトは深いため息をついた。


「俺は何をしているんだ」


「街を守ってる」


「便利な言葉だな」


イリスは笑った。


端末の画面に、交易許可局の記録が浮かぶ。


灰都から海都へ向かう荷の一覧。


その中に、不自然な空欄があった。


差出人不明。


受取先不明。


だが、通過許可だけは上層区の正式印で押されている。


ハルトの顔が険しくなる。


「これは……」


イリスが目を細める。


「海都行きの密輸記録。しかも襲撃前日」


「中身は」


「記録上は医療器具。でも重量が合わない。たぶん黒い翼の機材か、結晶化関連の素材」


ハルトは拳を握った。


「許可したのは誰だ」


イリスは画面を拡大する。


そこには、上層区交易許可局の印。


そして署名。


「ローデン・ヴァイス」


ハルトの目が鋭くなった。


「上層区評議補佐官だ」


「大物?」


「かなりな」


「じゃあ当たりっぽいね」


ハルトは記録を保存する。


「まだ証拠としては弱い」


「弱いけど、尻尾ではある」


イリスは端末を閉じた。


「このローデンって人、ヴェスパーたちが出発する前に動くかも」


「なら見張る」


「一人で?」


「警備隊を使う」


イリスは少しだけ笑った。


「内部にも黒い翼がいるかもしれないのに?」


ハルトは彼女を見る。


「だから、信用できる者だけを使う」


「いるんだ?」


「少しはな」


イリスは肩をすくめた。


「いいね。灰都も捨てたもんじゃない」


ハルトは窓の外を見た。


下層区の灯り。


白砂診療所の明かり。


傷ついても動く街。


「捨てさせる気はない」


三日目の朝。


出発の準備が整った。


ヴェスパーたちは、正規交易路ではなく旧水路を使うことになった。


黒い翼が待ち伏せるなら正面道。


ならば、灰都地下の旧水路を抜け、南東の沿岸街道へ出る。


危険ではある。


だが、ハルトの用意した警備隊の通行証と、イリスの裏地図があれば抜けられる可能性が高い。


白砂診療所の前に、荷車と小型の砂走車が並んでいた。


レイラは荷物を見て不満そうに言う。


「食料、少なくないか?」


セレスが即答する。


「薬品を優先しました」


「肉は?」


「保存食に少し」


「少し……」


「旅の目的は食事ではありません」


レイラは深く傷ついた顔をした。


イリスが笑う。


「海都なら魚があるんじゃない?」


レイラの顔が明るくなる。


「魚か!」


ノアが不安そうに聞く。


「魚って肉?」


レイラは真剣に考えた。


「水の肉だな」


イリスが呆れる。


「雑すぎる」


アステルは小さく笑っていた。


ミロは診療所の入口で見送っている。


「ノア、気をつけて」


ノアは頷いた。


「うん。ミロも、ちゃんと休んで」


「セレス先生みたいなこと言うね」


「大事だから」


二人は少し笑った。


ガルムは診療所の入口に立っていた。


当然、同行は許されていない。


セレスが厳しく言った。


「あなたは灰都で治療です」


ガルムは不満そうに腕を組む。


「俺も行くと言ったはずだ」


「行けません」


「戦わん」


「信用できません」


「弟子は行くぞ」


「弟子は歩けます」


ガルムは黙った。


ヴェスパーが近付く。


「灰都で待っていろ」


「命令か」


「頼みだ」


ガルムは少しだけ目を細めた。


「……戻ってこい」


「ああ」


「黒陽炎を追いすぎるな。お前はお前の熱を使え」


「分かっている」


「本当か」


「たぶん」


ガルムは小さく笑った。


「なら、帰ったら続きを教える」


ヴェスパーは頷いた。


「生きていればな」


「それはこっちの台詞だ、馬鹿弟子」


ハルトが通行証を手渡す。


「沿岸街道の中継砦まで行けば、海都の外縁警備に連絡できる」


イリスが聞く。


「内通者の件は?」


「俺が追う。ローデン・ヴァイスを監視する」


「一人で抱えないでよ」


ハルトは少しだけ眉を上げた。


「それは俺の台詞だ」


イリスは笑った。


「言うじゃん」


ハルトはヴェスパーへ向き直る。


「灰都の中は任せろ。お前たちは海都で黒い翼を探れ」


ヴェスパーは短く頷いた。


「頼む」


「頼まれなくても守る」


相変わらずの返答だった。


だが、その言葉は頼もしかった。


旧水路の入口は、下層街のさらに奥にあった。


古い鉄扉。


錆びた紋章。


かつて灰都へ水を引いていた地下路。


今は半分以上が崩れ、使われていない。


だが、沿岸方面へ抜ける隠れ道として、一部の商人や情報屋だけが知っている。


イリスが鍵を開けながら言った。


「ここからしばらく暗いよ。ノア、音は?」


ノアは耳当て布を少しずらし、奥の音を聞いた。


「水の音。遠くで風。あと、小さい虫みたいな機械音」


イリスの顔が少し険しくなる。


「黒い翼の偵察機かも」


レイラが戦斧を担ぐ。


「なら壊す」


セレスが言う。


「音を立てすぎないでください」


「努力する」


「実行してください」


「はい」


アステルは軽く深呼吸した。


「今度は、倒れない範囲で」


セレスが頷く。


「それで十分です」


ヴェスパーは旧水路の奥を見た。


暗い。


だが、北部坑道深層の闇とは違う。


音がある。


水が流れている。


外へ向かう道だ。


「行くぞ」


一行は旧水路へ足を踏み入れた。


水音が響く。


石壁が湿っている。


遠くの出口から、かすかに潮の匂いがした。


ノアが立ち止まる。


「これ……海の匂い?」


イリスが頷いた。


「たぶんね」


ノアは少しだけ目を輝かせた。


「変な匂い」


レイラが笑う。


「最初はそんなもんだ」


ヴェスパーは前を見た。


海霧の招待状。


その先に待つものが、味方か敵かは分からない。


だが、黒い翼がいる。


オルディスがいる。


沈んだ記録がある。


ならば行く。


仲間と共に。


選ばされるためではなく、選択を壊すために。


旧水路の奥で、小さな機械音が近付いてきた。


イリスが端末を構える。


「来るよ」


レイラが笑う。


「出発早々か」


セレスは薬品袋を抱え直す。


「無駄な怪我はしないでください」


アステルが頷く。


「はい」


ノアが耳を澄ませる。


「三つ。上から来る」


ヴェスパーは剣を抜いた。


水面に、黒い影が三つ映る。


小型の黒い翼偵察機。


海へ向かう道にも、敵の目はすでにあった。


ヴェスパーは静かに息を吸う。


大きく燃やすな。


小さく、薄く、残火のように。


彼の周囲で、わずかな熱が揺れた。


水面に映った影が、ほんの少しだけ歪む。


そして次の瞬間。


一行の海への旅が、本当に始まった。

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