第2章 第16話 「北の残火」
灰都アッシュベルクの朝は、煙の匂いで始まった。
非常警鐘は止んでいた。
だが、街はまだ静かではない。
下層街の路地には割れた石畳が散らばり、白砂診療所の窓は何枚も砕けている。
上層区の北東塔からは、細い黒煙が空へ伸びていた。
黒い翼は撤退した。
だが、傷だけは残していった。
ヴェスパーは診療所の前に立ち、灰都の街を見ていた。
守った。
少なくとも、ここは守った。
けれど、胸の奥に勝利の実感はなかった。
敵は逃げた。
オルディスは生きている。
ドラグニルも遠くにいる。
そして次の舞台は、海。
アズールハーバー。
海霧の向こう。
「浮かない顔だな」
背後からレイラが声をかけた。
彼女の戦斧には、まだ結晶兵の破片が付いている。
ヴェスパーは視線を街から外さずに答えた。
「守り切れていない」
「診療所は残った。患者も無事。黒い翼も追い払った」
「上層区では火が出た。負傷者もいる」
「それでも、全部燃えたわけじゃない」
レイラは隣に立った。
「勝ったって言えなくても、負けてはいない。前にノアに言ってただろ」
ヴェスパーは少し黙った。
「覚えていたのか」
「いいこと言った時くらい覚えてる」
「珍しいな」
「殴るぞ」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
だが、その直後。
重い足音が近付いてきた。
診療所前の広場に、灰色の制服を着た警備隊が数名現れる。
先頭にいた男は、他の隊員より少し年上だった。
三十代前半。
短く刈った黒髪。
左頬に古い傷。
装備は派手ではない。
片手剣。
小型盾。
腰には短銃。
だが、立ち方に隙がなかった。
彼は診療所前の惨状を見て、次にヴェスパーを見た。
「ヴェスパーだな」
「そうだ」
「灰都警備隊、下層区担当副隊長。ハルト・グレイヴだ」
レイラが小さく呟く。
「警備隊のお偉いさんか」
ハルトは眉一つ動かさない。
「偉くはない。現場で走らされる側だ」
それから、彼は診療所を見た。
「白砂診療所周辺は、これより警備隊の管理下に置く。負傷者の搬送、周辺確認、黒い翼の残骸回収を行う」
セレスが診療所の中から出てきた。
白い服は血と煤で汚れている。
しかし、その目はいつも通り冷静だった。
「患者の移動は私の許可なしに行わないでください」
ハルトは即座に頷いた。
「もちろんです、セレス先生。警備隊員にも徹底させます」
レイラが少し驚く。
「セレスには素直だな」
ハルトは淡々と返した。
「この診療所が止まれば、下層区の人間が死ぬ。警備隊が守るべき場所だ」
セレスは小さく頷いた。
「助かります」
ハルトは次にヴェスパーへ向き直った。
その目は、セレスへ向けたものより少し鋭かった。
「お前たちが灰都を守ったことは認める」
「……」
「だが同時に、灰都へ危険を持ち込んだのも事実だ」
レイラの眉が動く。
「おい、それは――」
ヴェスパーが片手で制した。
「分かっている」
ハルトは目を細める。
「反論しないのか」
「事実だからな」
ヴェスパーは静かに続けた。
「だから、次は先に動く」
ハルトはしばらく彼を見た。
そして、わずかに息を吐いた。
「なら話は早い」
イリスが屋根から飛び降りてきた。
「話って?」
ハルトは彼女を見る。
「情報屋イリス。お前にも聞きたいことがある」
イリスは肩をすくめる。
「警備隊の事情聴取ってやつ?」
「半分はな」
「残り半分は?」
ハルトの表情が険しくなる。
「上層区に内通者がいる」
その一言で、空気が変わった。
ヴェスパーの目が細くなる。
「確証は?」
ハルトは懐から小さな記録片を取り出した。
「襲撃直前、上層区の警備配置が書き換えられた。北東塔と商業門の警備が薄くなっていた」
イリスが端末を出す。
「外部からの侵入?」
「違う。内部権限で変更されている」
「上層区の誰かが、黒い翼に道を開けたってことか」
ハルトは頷いた。
「そうだ」
レイラが拳を握る。
「ふざけやがって……」
ハルトは淡々と言った。
「怒るのは後でいい。今は証拠が必要だ」
イリスが少し笑う。
「警備隊の報告書より、裏の噂の方が早いかもよ?」
ハルトは彼女を見た。
「腹立たしいが、否定できない」
「いいね。話が分かる人は好きだよ」
「俺は情報屋を信用していない」
「私も警備隊を全面的には信用してない」
「なら、ちょうどいい」
二人の間に、妙な緊張感が生まれた。
敵対ではない。
互いに疑いながら、必要だから組む。
そんな関係だった。
診療所の中では、治療が続いていた。
ガルムは奥の処置室で横になっている。
本人は起き上がろうとしたが、セレスが本当に拘束帯を持ち出したため、大人しくなった。
ノアはミロと一緒に、病室の端で患者の呼吸を聞いていた。
ミナ。
カイル。
グランヴェイルから救われた人々。
全員が安定しているわけではない。
それでも、生きている。
ノアは耳を澄ませながら、小さく呟いた。
「まだ聞こえる」
ミロが横で聞く。
「何が?」
「息。心臓。少し苦しそうだけど、ちゃんと生きてる音」
ミロは病室を見回した。
「僕には、あんまり分からない」
「うん。でも、僕には分かる」
ノアは少しだけ胸を張った。
以前のような怯えだけではない。
自分にできることを、少しずつ見つけ始めている顔だった。
アステルは椅子に座り、毛布をかけられていた。
セレスに術式禁止を言い渡されている。
彼女は少し不満そうだったが、もう反論はしなかった。
「アステル、休めてる?」
ミロが聞く。
アステルは小さく頷いた。
「休めています。休むのも役目です」
ノアが横から言う。
「ガルムさんが言ってたやつだ」
「はい」
アステルは少しだけ微笑んだ。
「意外でした。あの人、怖い方だと思っていたので」
ミロは処置室の方を見る。
「黒陽炎の人?」
「はい」
ノアは木彫りの狼を握る。
「怖いけど、悪い人じゃなさそう」
その時、処置室の中から低い声がした。
「聞こえてるぞ」
三人はびくっとした。
ガルムは寝たまま続ける。
「怖いは余計だ」
ノアが小さく謝る。
「ご、ごめんなさい」
ガルムは少し黙り、それから言った。
「悪い人じゃなさそう、は覚えておく」
ノアは目を瞬いた。
ミロが少し笑う。
アステルも口元を押さえた。
その直後、セレスの声が鋭く飛んだ。
「ガルムさん、会話も休息の妨げです」
処置室は静かになった。
ノアは小声で言った。
「やっぱりセレス先生が一番強いね」
ミロも頷いた。
「うん」
診療所の外では、ハルトが周辺の警備隊に指示を出していた。
「第三路地を封鎖。黒い翼の残骸は素手で触るな。結晶片は布で包んで診療所には入れるな。上層区から来た者は身元確認を二重にしろ」
隊員たちは慌ただしく動く。
その様子を見て、レイラが腕を組んだ。
「ちゃんと指揮できるやつなんだな」
ハルトは横目で見る。
「褒めているのか?」
「まあな」
「なら、もう少し分かりやすく褒めろ」
「真面目で便利そうだ」
「褒め方が下手だな」
「よく言われる」
ヴェスパーが二人のやり取りを聞きながら、広場に残った黒い翼の装置を見下ろした。
音響装置。
ノアを狙ったもの。
小型飛行装置。
診療所の屋根を狙ったもの。
地下からの侵入。
ガルムと被験者の奪還。
どれも同時に仕掛けられていた。
偶然ではない。
診療所の構造も、地下倉庫の位置も、患者の配置も、かなり詳しく知られていた。
「内部に情報を流した者がいる」
ヴェスパーが言う。
ハルトは頷く。
「診療所内部ではないだろう。ここにいる者なら、もっと正確に狙えた」
セレスも外へ出てきた。
「では、搬送情報ですか」
イリスが端末を確認する。
「ガルムさんたちの到着予定を知っていた人間は限られる。灰都の搬送隊、警備隊の通信、上層区の許可部門」
ハルトの顔が険しくなる。
「警備隊内部にも、完全に白とは言えない者がいる」
レイラが眉をひそめる。
「自分の隊も疑うのか?」
「疑う」
ハルトは即答した。
「街を守るなら、身内ほど疑う必要がある」
その言葉に、ヴェスパーは少しだけ彼を見る目を変えた。
この男は、ただの堅物ではない。
守るために嫌われる覚悟を持っている。
ハルトはヴェスパーへ視線を戻した。
「お前たちは海都へ行くつもりか」
「いずれは」
「すぐには行けないだろう」
「分かっている。ガルムも、アステルも、ノアも休ませる必要がある」
ハルトは頷いた。
「その間、灰都の中は俺が見る」
レイラが少し笑った。
「任せていいのか?」
「任せるしかないだろう。お前たちは警備隊ではない」
ハルトは診療所、下層街、上層区の煙を順に見た。
「俺は英雄じゃない。警備隊だ」
彼の声は低く、しかしよく通った。
「英雄が街を救う日もあるだろう。だが、英雄がいない日に街を守るのは、俺たちの仕事だ」
ヴェスパーは黙ってその言葉を聞いた。
ハルト・グレイヴ。
正式な仲間ではない。
旅に同行する者でもない。
だが、灰都に残るなら、必要な男だった。
ヴェスパーは短く言う。
「灰都を頼む」
ハルトはすぐには答えなかった。
少しだけ目を細める。
「頼まれなくても守る」
「そうか」
「ただし、お前たちも勝手に消えるな。海都へ向かうなら、灰都側の準備も必要だ」
イリスが笑う。
「警備隊の許可がいる?」
「許可ではない。支援だ」
「へえ」
ハルトは端末を持つ隊員に指示しながら続けた。
「アズールハーバーへ向かうなら、南東交易路か、旧水路を抜けて沿岸街道へ出る必要がある。黒い翼はおそらく先に動いている。灰都の正式な通行証、補給品、海都側への連絡文が必要だ」
レイラが感心したように言う。
「思ったより協力的だな」
ハルトは淡々と返した。
「街の外で黒い翼を止められるなら、その方が灰都の被害は減る」
「言い方が正直だな」
「綺麗事で兵は動かない」
セレスは少しだけ頷いた。
「現実的な判断です」
ハルトは彼女へ軽く頭を下げた。
「先生にそう言われるなら、間違っていないようです」
レイラが小声で言う。
「本当にセレスには弱いな」
ハルトは聞こえないふりをした。
夕方。
灰都の空は赤く染まり始めていた。
上層区の火災は鎮火した。
診療所の応急修理も進み、割れた窓には布と板が張られた。
黒い翼の残骸は警備隊が回収し、イリスが必要な情報だけを抜き取った。
被害は小さくない。
だが、街は動いていた。
市場では、半壊した屋台の横で店主が水を配っている。
傭兵たちは瓦礫を運び、下層街の子どもたちは割れた瓶や破片を拾っていた。
灰都は傷ついても、止まらない街だった。
ヴェスパーは診療所の屋上にいた。
遠くに、上層区が見える。
さらにその先。
砂漠の向こうに、まだ見えない海がある。
背後で扉が開く。
ガルムが来た。
壁に手をつき、ゆっくりと歩いている。
「寝てろと言われただろ」
ヴェスパーが言う。
ガルムは屋上の壁にもたれた。
「少しだけだ」
「セレスに見つかるぞ」
「その前に戻る」
「無理だな」
「なぜ分かる」
「足音が重い」
ガルムは少しだけ笑った。
「少しは成長したか」
「少しはな」
二人はしばらく黙って灰都を見た。
ガルムは低く言った。
「街を守ったな」
「完全には守れていない」
「完全に守れる戦いなんてない」
ヴェスパーは黙る。
ガルムは続けた。
「失ったものばかり数えるな。残せたものも見ろ」
「……あんたがそれを言うのか」
「俺が言うから意味がある」
ガルムの声には、疲れた重みがあった。
グランヴェイルで選ばされ、失敗を抱えた男。
それでも今、生きている男。
ヴェスパーは灰都を見下ろした。
ノアがミロと一緒に水袋を運んでいる。
アステルは椅子に座らされながら薬品の数を確認している。
レイラは瓦礫を運びすぎてセレスに怒られている。
イリスは警備隊の端末を勝手に調整し、ハルトに睨まれている。
セレスは患者の間を休まず歩いている。
そこに、確かに残ったものがあった。
「海へ行く」
ヴェスパーが言った。
ガルムは頷く。
「だろうな」
「オルディスを追う。器計画を止める。ドラグニルとも、いずれ戦う」
「今のお前では勝てん」
「分かっている」
ガルムは少し驚いたように彼を見た。
「分かっているのか」
「ああ」
「ならいい」
ガルムは屋上の縁に視線を落とした。
「黒陽炎を教え直す必要がある」
ヴェスパーは彼を見る。
「体は大丈夫なのか」
「大丈夫ではない」
「なら休め」
「だから教えるだけだ。戦わん」
「信用できない」
「弟子が師匠を信用しなくてどうする」
「セレスの方を信用する」
ガルムは顔をしかめた。
「本当に変わったな」
ヴェスパーは少しだけ口元を緩めた。
「悪いか」
「いや」
ガルムは静かに言った。
「良いことだ」
その時、屋上の扉が開いた。
セレスが立っていた。
無言。
ガルムはわずかに顔を引きつらせる。
ヴェスパーは一歩横へずれた。
「俺は止めた」
「裏切ったな、馬鹿弟子」
セレスは静かに言った。
「処置室へ戻ります」
ガルムは何か言い返そうとしたが、セレスの視線を受けて諦めた。
「……分かった」
ヴェスパーはその背中を見送った。
黒陽炎の師。
かつて絶対の存在に見えた男。
今は傷つき、怒られ、支えられながら生きている。
それでも、戻ってきた。
その事実が、胸の奥に静かな火を灯していた。
北の残火。
それは消えかけたものではない。
次へ繋がる火だった。
夜。
白砂診療所の会議室に、主要な面々が集まった。
ヴェスパー。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
ノア。
ガルムは処置室からの参加を許されず、代わりに扉の向こうで聞いている。
ミロも病室から顔を出そうとしてセレスに戻された。
そして新たに、ハルトがいた。
机の上には地図が広げられている。
灰都。
南東交易路。
沿岸街道。
そして、海都アズールハーバー。
イリスが地図を指差す。
「オルディスの言った“海霧の向こう”は、ほぼ間違いなくアズールハーバー。黒い翼の輸送記録にも、海都方面の暗号が残ってる」
ハルトが続ける。
「灰都から海都へ行くには三つの道がある。一つは正規交易路。安全だが、監視されやすい。二つ目は旧水路。早いが危険。三つ目は砂丘を南から迂回する道。時間がかかりすぎる」
レイラが腕を組む。
「黒い翼が待ってるのは正規交易路か」
「おそらく」
イリスが頷く。
「でも旧水路にも罠はあるかも。黒い翼ならそっちも読んでる」
ノアが地図をじっと見る。
「海って、どんな音?」
その場が少し静かになった。
レイラが笑う。
「でかい水の音だ」
イリスが言う。
「雑だね」
「じゃあ説明してみろよ」
「波が寄せて返す音。風が水面を撫でる音。船の軋み。港の鐘。たぶん、ノアにはすごくうるさい」
ノアは少し不安そうに耳を押さえた。
「うるさいのか……」
セレスが言う。
「耳を守る布を用意しましょう」
「うん」
アステルは静かに地図を見ていた。
「海都にも、黒い翼の施設があるのでしょうか」
イリスは表情を引き締める。
「沈んだ記録って言ってた。昔の研究所か、海底遺跡か、沈没した施設かもしれない」
ハルトが資料を置く。
「アズールハーバーは灰都と違って、水運と海上採掘で成り立つ都市だ。上層区よりも商会の力が強い。黒い翼が入り込んでいても不思議ではない」
ヴェスパーは地図を見つめた。
次に向かう場所。
砂漠でも雪でもない。
海。
未知の場所。
そこに、黒い翼の次の計画がある。
「出発はすぐではありません」
セレスが強く言った。
全員の視線が向く。
「最低でも数日。ガルムさん、アステルさん、ノア君、救出者たちの状態を見ます。ヴェスパーさんも脇腹の傷を確認します」
「俺は――」
「確認します」
「……分かった」
レイラがにやりと笑う。
「成長したな」
「うるさい」
ハルトは地図を畳みながら言った。
「その数日の間に、俺は上層区の内通者を洗う。警備隊内も調べる」
イリスが端末を掲げる。
「私も手伝う。というか、私の方が早い」
ハルトはため息をついた。
「違法な手段は使うな」
イリスは笑った。
「聞こえなかったことにする?」
「使うな」
「善処する」
「それは使うという意味か」
「さあ?」
レイラが笑う。
「相性いいな、お前ら」
二人は同時に言った。
「よくない」
会議室に少しだけ笑いが生まれた。
それは小さなものだった。
だが、確かにあった。
灰都は傷ついた。
だが、まだ笑える。
まだ立てる。
まだ次へ進める。
その時、診療所の外で一羽の機械鳥が落ちてきた。
黒い翼のものではない。
古い伝書機械。
羽根は青く、海都の紋章が刻まれている。
ハルトが即座に剣へ手をかける。
イリスが機械鳥を拾い上げ、慎重に中を確認した。
「通信筒が入ってる」
「差出人は」
ヴェスパーが聞く。
イリスは小さな紙片を取り出した。
そこには、潮の匂いが染み込んでいるようだった。
短い文章。
『灰都より来たる黒陽炎の弟子へ。
海霧の中で黒い翼が動いている。
アズールハーバーに来るなら、港の鐘が三度鳴る夜を待て。
――潮見屋ノアール』
ノアが首を傾げる。
「ノアール……?」
イリスの表情が少し変わった。
「知ってる名前?」
レイラが聞く。
イリスは紙片を見つめたまま答えた。
「噂だけ。海都の情報屋。潮の流れと人の嘘を読むって言われてる」
ハルトが眉をひそめる。
「信用できるのか」
イリスは肩をすくめた。
「情報屋を信用するかって聞く?」
ハルトは即答した。
「しない」
「正解」
ヴェスパーは紙片を見た。
海霧。
黒い翼。
港の鐘が三度鳴る夜。
アズールハーバーは、すでにこちらを待っている。
敵か。
味方か。
罠か。
道か。
まだ分からない。
だが、物語は確かに海へ向かっていた。
ヴェスパーは静かに言った。
「準備を進める」
レイラが笑う。
「今度は海か。肉、あるかな」
イリスが呆れる。
「そこ?」
セレスは真面目に言う。
「船酔いの薬も必要ですね」
ノアの耳が不安そうに動く。
「船って揺れるの?」
アステルが少し青ざめる。
「私も、それは不安です」
ハルトは地図を指で押さえた。
「浮かれている場合ではない。出発までにやることは山ほどある」
ヴェスパーは仲間たちを見た。
そして、ほんの少しだけ頷いた。
「分かっている」
灰都の夜に、まだ煙は残っている。
北の戦いの残火も、胸の奥で燃えている。
だが、その火はもう過去だけを照らしてはいなかった。
次の道を照らしている。
砂漠から雪へ。
雪から灰都へ。
そして、海へ。
灰の星は、潮の匂いを帯び始めていた。




