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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第15話 「灰都防衛」

非常警鐘が、灰都アッシュベルクに鳴り響いた。


一度。


二度。


三度。


それは火災でも、砂嵐でも、盗賊の襲撃でもない。


城壁都市にとって最も嫌な音。


外敵侵入を知らせる鐘だった。


下層街の人々が顔を上げる。


市場の店主が布を下ろす。


子どもたちが路地へ逃げ込む。


傭兵たちが武器を取り、警備隊が城壁へ走る。


灰都は一瞬で、朝の喧騒から戦場の空気へ変わった。


白砂診療所の前で、ヴェスパーは空を見上げた。


灰色の空に、黒い鳥のような影がいくつも舞っている。


鳥ではない。


小型の飛行装置。


黒い翼の紋章を刻んだ、偵察兼攻撃用の機械。


その下、上層区の屋根の一部から黒煙が上がっていた。


イリスの端末が赤く点滅する。


「上層区、北東塔、商業門、下層第三路地で同時に異常反応。これ、陽動だね」


レイラが戦斧を握る。


「本命は?」


イリスの目が細くなる。


「ここ」


全員の視線が、白砂診療所へ向いた。


中にはガルムがいる。


ミロがいる。


ノアがいる。


グランヴェイルから救出した生存者たちがいる。


黒い翼にとっては、取り戻したい素材。


消したい証拠。


そして、ヴェスパーに選択を迫るための餌。


セレスの表情が冷たくなる。


「患者を戦場にはさせません」


ヴェスパーは診療所の扉の前に立った。


「ここで止める」


レイラが隣に並ぶ。


「正面は任せろ」


イリスは端末を操作しながら屋根を見た。


「私は上へ行く。飛行装置と通信妨害を潰す」


アステルは胸元に手を当て、深く息を吸った。


まだ体調は万全ではない。


北部坑道深層で術式を使いすぎた。


本当なら休ませるべきだった。


それでも彼女は、逃げる目をしていなかった。


「私は、診療所の周囲を支えます。敵を潰すのではなく、壁を作るだけならできます」


セレスは彼女を見る。


「五分以内です。それ以上は認めません」


アステルは頷いた。


「はい。五分で十分にします」


ノアはミロのそばに立っていた。


大きな耳が忙しく動く。


「足音が多い。正面だけじゃない。裏の路地にもいる」


ミロが震えながら言う。


「僕も……何かしたい」


セレスが即座に言った。


「あなたは患者です」


「でも!」


「患者でも、できることはあります」


ミロが顔を上げる。


セレスは薬品棚を指差した。


「軽い薬布と水袋を運んでください。ただし、走らないこと。ノア君、ミロ君のそばにいて異常な音がしたら知らせてください」


ノアは頷いた。


「分かった」


ミロも強く頷く。


「はい!」


ヴェスパーは処置室の方を見た。


奥には、ガルムがいる。


治療を受けたばかりで、まだ立つことも危険な状態だ。


だが、きっとあの男は起き上がろうとする。


そう思った瞬間、処置室の扉が開いた。


包帯を巻かれたガルムが、壁に手をつきながら立っていた。


セレスの目が鋭くなる。


「寝ていてください」


ガルムは掠れた声で言う。


「敵が来てる」


「だから寝ていてください」


「俺も戦える」


「戦えません」


「剣を持てば――」


セレスは無言で注射器を持ち上げた。


ガルムは黙った。


レイラが吹き出しそうになる。


「ガルムさん、無理しない方がいい。セレスは本気でやるぞ」


ガルムは不満そうに眉をひそめる。


「弟子の仲間はろくなのがいないな」


イリスが笑う。


「褒め言葉として受け取るよ」


ヴェスパーはガルムを見た。


「生きろと言ったはずだ」


ガルムはヴェスパーを見る。


少しだけ、昔の師の目が戻っていた。


「なら、お前も死ぬな」


「ああ」


「一人で背負うな」


「分かっている」


「本当か」


「たぶん」


ガルムは鼻で笑った。


「まだまだだな」


そのやり取りの直後、診療所の外で爆発音が響いた。


窓ガラスが震える。


イリスの端末に映る赤点が一気に増えた。


「来る!」


ヴェスパーは剣を抜いた。


「配置につけ」


灰都の空の下、黒い翼の襲撃が始まった。


最初に来たのは、正面だった。


診療所前の広場へ、黒い外套の兵たちが現れる。


数は十数人。


その後ろに、結晶兵が三体。


さらに屋根の上には、小型飛行装置が二機。


明らかに、診療所を囲むように配置されていた。


黒い翼の兵が拡声器のような装置を掲げる。


「白砂診療所に告ぐ。黒陽炎素体、グランヴェイル被験体、ならびに弟子個体を引き渡せ」


レイラが戦斧を肩に担いだ。


「丁寧に言ってるつもりか?」


ヴェスパーは前へ出る。


「断る」


兵は無機質に続ける。


「拒否した場合、周辺区画を戦闘区域と見なす」


イリスが屋根の上から叫ぶ。


「もう攻撃してるくせに、今さら交渉みたいな顔しないでほしいね」


黒い翼の兵が手を上げる。


結晶兵が動き出した。


レイラが笑う。


「分かりやすくなったな」


彼女は地面を蹴った。


戦斧が唸る。


先頭の結晶兵と正面から衝突する。


鈍い音。


灰都の石畳が割れる。


「おらぁ!」


レイラの斧が結晶兵の腕を弾き飛ばす。


セレスが診療所の入口から熱診で叫ぶ。


「一体目、核は胸部右! 二体目は左肩! 三体目は腹部中央!」


「了解!」


ヴェスパーはレイラの横を抜ける。


一体目の結晶兵が爪を伸ばす。


だが、その視界の中でヴェスパーの姿が揺れた。


一人。


二人。


三人。


だが大きな蜃気楼ではない。


敵を強く反応させない、薄い揺らぎ。


ヴェスパーは静かに懐へ入り、胸部右の核を断つ。


結晶兵が崩れる。


続く二体目はレイラが肩を砕き、ヴェスパーが核を断つ。


三体目が診療所へ突進しようとした瞬間、アステルの重圧が地面に薄く広がった。


敵を潰すのではない。


足元をわずかに重くする。


結晶兵の踏み込みが鈍る。


その一瞬で、レイラの斧が腹部装甲を割った。


「ヴェスパー!」


「ああ」


剣が走り、三つ目の核が消えた。


広場に青白い結晶片が散る。


だが、黒い翼の兵たちは怯まない。


彼らは最初から、結晶兵が倒されることも計算していたようだった。


後方の兵が装置を起動する。


広場の左右に置かれていた小型の黒い筒が、赤く光った。


イリスが屋根から叫ぶ。


「爆薬じゃない! 音響装置!」


ノアの耳がびくりと跳ねた。


次の瞬間、広場に高周波の音が鳴り響いた。


普通の人間には耳鳴り程度。


だが、ノアには違った。


彼はその場で膝をつき、両耳を押さえた。


「っ……!」


ミロが駆け寄る。


「ノア!」


セレスの表情が変わる。


「ノア君を狙った……!」


黒い翼は、ノアの聴覚を把握している。


音を封じれば、裏路地からの侵入も察知できなくなる。


ヴェスパーは即座に走ろうとした。


だが、正面の兵が一斉に銃を構える。


狙いは、彼ではない。


診療所の窓。


中の患者たち。


「くそっ」


ヴェスパーが足を止める。


選ばせる。


ノアを助けるか。


患者を守るか。


オルディスのやり方だ。


だが、その瞬間、イリスが屋根の上で笑った。


「読めてるよ、そのくらい!」


彼女が端末を弾く。


屋根裏に仕掛けていた妨害装置が起動し、黒い音響筒の周波数を乱した。


高周波がぶつかり合い、装置の一つが破裂する。


二つ目はイリスの銃弾で破壊された。


ノアの耳から圧が消える。


彼は荒く息をしながら顔を上げた。


「聞こえる……!」


ミロが彼を支える。


「大丈夫?」


ノアはすぐに首を横に振る。


「大丈夫じゃない。でも聞ける」


セレスは少しだけ頷いた。


「正直でよろしいです」


ノアは苦しそうに笑った。


そして、すぐに耳を澄ませる。


「裏! 裏路地から四人! 軽い足音、黒い翼の兵!」


ヴェスパーは振り返る。


「レイラ、正面!」


「任せろ!」


「俺は裏へ行く」


アステルが手を上げる。


「正面の壁、あと二分支えます」


セレスがすぐに言う。


「一分半です」


「……はい」


ヴェスパーは診療所の脇を抜け、裏路地へ走った。


裏路地は狭い。


下層街特有の複雑な通路。


積み上げられた木箱。


干された布。


錆びた配管。


そこを、黒い翼の兵四人が走っていた。


彼らの目的は正面突破ではない。


診療所の裏口から侵入し、ガルムか被験者を奪うこと。


ヴェスパーは屋根の熱を読む。


敵の足音。


息遣い。


持っている武器の金属熱。


その中に、妙な気配があった。


一人だけ、熱が薄い。


普通の兵ではない。


「止まれ」


ヴェスパーが路地の入口に立った。


黒い翼の兵たちは一斉に足を止める。


一人が言う。


「弟子個体を確認」


「その呼び方はやめろ」


「回収優先順位を変更。弟子個体を捕獲する」


ヴェスパーは剣を構える。


「やれるものなら」


兵たちが散る。


二人が左右の壁を蹴り、上から襲う。


一人は正面。


もう一人は後ろへ回る。


よく訓練されている。


ヴェスパーは熱を上げない。


薄く、短く、揺らす。


左から来た兵の視界をずらし、剣の柄で腹を打つ。


右の兵の短剣を受け流し、膝を蹴る。


正面の兵が銃を構える前に、手首を打つ。


三人を倒す。


だが、四人目。


熱の薄い兵が動かない。


黒い外套の奥から、低い声がした。


「黒陽炎を抑えているな」


ヴェスパーの目が細くなる。


「誰だ」


兵は外套を脱いだ。


その下には、白い仮面。


仮面の縁には、青黒い結晶が埋め込まれている。


黒い翼の指揮官級。


「オルディス博士より伝言だ」


「本人は来ないのか」


「博士は観測する。私は運ぶ」


「何を」


指揮官の背後で、路地の壁が爆ぜた。


隠し通路。


いや、下水路から繋がる侵入口。


そこから小型の結晶兵が二体、診療所の地下へ向かおうとしていた。


ヴェスパーの目が鋭くなる。


本命は正面でも裏口でもない。


地下だ。


白砂診療所の地下倉庫。


そこには、イリスが保管した黒い翼の記録と、グランヴェイル被験者の薬品がある。


そして、処置室の真下にも繋がっている。


「ノア!」


ヴェスパーは叫んだ。


遠くでノアの耳が動く。


声が届いたかどうか分からない。


だが、次の瞬間、診療所の中からノアの声が響いた。


「地下! 下から来る!」


セレスが即座に動いた。


「ミロ君、患者用の扉を閉めて! アステルさん、地下階段を支えてください!」


「はい!」


アステルは重圧を階段の入口へ落とす。


敵を潰すのではなく、階段そのものを重くする。


小型結晶兵の動きが鈍る。


ミロは震えながらも、病室へ続く扉を閉める。


「こっちには来させない……!」


ガルムが処置室の中で起き上がろうとする。


「剣を……」


セレスが振り返らずに言った。


「動いたら本当に縛ります」


ガルムは止まった。


「……くそ」


だが、その手は震えていた。


戦えないことへの苛立ち。


守られる側になった苦しさ。


かつての彼なら耐えられなかっただろう。


しかし今、彼は歯を食いしばって動かなかった。


生きるために。


ヴェスパーの言葉を守るために。


正面広場では、レイラが黒い翼の兵を押し返していた。


「おらぁっ!」


戦斧が地面を叩き、石畳が割れる。


黒い翼の兵たちは散開する。


銃弾が飛ぶ。


アステルの重圧壁がその軌道をずらす。


イリスが屋根の上から飛行装置を撃ち落とす。


一機。


二機。


黒い機械が煙を上げて落ちる。


だが、上層区の方から新たな爆発音が響いた。


イリスの端末に通知が流れる。


「上層区でも火災。警備隊が分散してる」


レイラが叫ぶ。


「こっちに援軍は?」


「期待しない方がいい!」


黒い翼は灰都全体を混乱させている。


診療所を孤立させるために。


そこへ、空から新たな影が落ちた。


大型の飛行装置。


腹部に青白い結晶爆弾。


狙いは診療所の屋根。


「まずい!」


イリスが銃を向けるが、距離がある。


レイラも届かない。


アステルは限界に近い。


その時、診療所の屋根に黒い影が立った。


ガルムではない。


白砂診療所の護衛についていた傭兵の一人が、巨大な弩を構えていた。


イリスが目を見開く。


「あれ、設置してたの忘れてた!」


傭兵が叫ぶ。


「先生の診療所を壊させるかよ!」


弩の矢が飛ぶ。


大型飛行装置の翼を貫く。


機体が傾く。


だが爆弾は落ちる。


レイラが走った。


「アステル!」


アステルは最後の力で、爆弾の落下位置に重圧をかけた。


落下軌道がわずかに変わる。


レイラが戦斧を振りかぶる。


「こっちだぁ!」


斧の一撃が爆弾を横へ弾き飛ばす。


爆弾は診療所の横の空き地で爆発した。


衝撃で窓が割れる。


だが、直撃は避けた。


アステルはその場に崩れ落ちた。


「アステル!」


ノアが駆け寄る。


セレスも走る。


アステルは意識を保っていたが、顔色は真っ青だった。


「五分……超えましたか」


セレスは彼女を支えながら言った。


「超えました。説教は後です」


「はい……」


ノアが涙目で言う。


「倒れないって言ったのに」


アステルは苦しそうに微笑んだ。


「まだ、倒れてはいません」


セレスが即答する。


「横になります」


「はい」


地下では、ヴェスパーが小型結晶兵と指揮官を同時に相手していた。


狭い通路。


敵は三。


後ろには診療所の地下階段。


ここを抜かれれば終わる。


指揮官は直接戦うより、ヴェスパーを足止めする動きに徹していた。


「弟子個体、反応低下。怒りの抑制を確認」


「観察するな」


「抑制は成長か。あるいは恐怖か」


ヴェスパーは答えず、結晶兵の一体を斬り伏せる。


だが、もう一体が地下階段へ走る。


ミロの悲鳴が上から聞こえた。


「来る!」


ヴェスパーは熱を上げかける。


だが、指揮官が待っていたように装置を構えた。


熱反応を記録する装置。


また利用する気だ。


ヴェスパーは奥歯を噛んだ。


その瞬間、下水路の奥から別の足音が聞こえた。


軽い。


速い。


ノアではない。


イリスでもない。


誰かが、黒い翼の後ろから現れた。


「そこ、邪魔」


声と共に、ワイヤーが飛ぶ。


結晶兵の足が絡め取られ、地面に倒れた。


現れたのは、下層街の子どもたちをまとめる細身の獣人少年だった。


以前、ミロの護衛役としてイリスが雇った下層街の連絡係。


イリスの情報網の一人だ。


「イリス姉から、地下道見張れって言われてた」


ヴェスパーは一瞬だけ目を見開く。


「助かった」


少年はにっと笑う。


「礼は飯で」


ヴェスパーは頷いた。


「レイラに言え」


「肉多め?」


「たぶん」


その間に、ヴェスパーは倒れた結晶兵の核を断つ。


残るは指揮官一人。


指揮官は無感情に言った。


「予測外の介入」


「仲間が多いんでな」


ヴェスパーは剣を構える。


指揮官が短剣を抜く。


動きは速い。


だが、迷いがない分、読みやすい。


ヴェスパーは踏み込む。


蜃気楼は使わない。


剣と体捌きだけで間合いを詰める。


指揮官の短剣が首を狙う。


ヴェスパーは半身でかわし、肘を打つ。


短剣が落ちる。


続けて腹部へ峰打ち。


指揮官が膝をつく。


ヴェスパーは剣先を首元へ向けた。


「オルディスはどこだ」


指揮官は沈黙する。


その仮面の内側で、青黒い結晶が光った。


自壊。


ヴェスパーは即座に後ろへ跳ぶ。


指揮官の身体から黒い煙が上がり、仮面が砕けた。


爆発ではない。


記憶と情報を焼く術式。


証拠隠滅。


指揮官はその場に倒れた。


ヴェスパーは舌打ちした。


「またか」


下層街の少年が怯えた顔で言う。


「黒い翼、怖すぎだろ」


「ああ」


ヴェスパーは地下階段を見上げた。


「上へ戻る」


広場の戦闘は終わりに近付いていた。


結晶兵は倒れ、飛行装置も落ちた。


黒い翼の兵たちは撤退を始めている。


だが、それは敗走ではなかった。


予定時間が終わったから引く。


そんな動きだった。


イリスが屋根から降りてくる。


「追う?」


レイラが戦斧を握り直す。


「追いたい」


セレスが即座に言う。


「追いません。負傷者確認が先です」


レイラは悔しそうに息を吐いた。


「はい」


ヴェスパーも頷いた。


「追わない」


イリスが少しだけ驚いた顔をした。


「本当に冷静になったね」


「合理的判断だ」


レイラが笑う。


「出た」


その時、診療所の端末が勝手に起動した。


イリスの顔が変わる。


「割り込み!」


空中に青白い映像が浮かぶ。


白銀の髪。


細い眼鏡。


白い研究衣。


オルディスだった。


『灰都防衛、お見事です』


レイラが怒鳴る。


「出てこい!」


オルディスは微笑む。


『直接戦う役目は、私には向いていません』


セレスの声が冷える。


「患者を狙う卑劣さは向いているようですね」


『必要な観測です』


「必要ありません」


オルディスは薄く笑ったまま、ヴェスパーを見る。


『今回も選ばなかった。ノア・リッツを救い、患者を守り、地下侵入も防いだ。実に興味深い』


ヴェスパーは剣を握る。


だが、熱は上げない。


「お前の実験は失敗だ」


『いいえ。成功です』


空気が冷えた。


オルディスは続ける。


『あなたが選択を壊そうとするほど、仲間との同期値は上がる。守る対象が増えるほど、あなたの熱は複雑になる。器として、より理想に近付いている』


レイラが歯を食いしばる。


「どこまでも気持ち悪いな」


オルディスの目が、ガルムのいる処置室の方向へ向く。


『黒陽炎素体も回収には失敗しましたが、生存確認はできました。十分です』


ガルムの低い声が処置室から響く。


「オルディス……」


彼は立ってはいない。


だが、その声だけは鋭かった。


オルディスは微笑む。


『お久しぶりです、素体G-00』


ヴェスパーの声が低くなる。


「その呼び方をやめろ」


『では、ガルム。あなたの弟子は、よく育っています』


ガルムは答えない。


奥で、拳を握る音だけがした。


オルディスは最後に言った。


『次の舞台は、北ではありません』


イリスが眉をひそめる。


「何?」


『グランヴェイルの記録はすでに移しました。第一研究区画も、あなた方が来る頃には空でしょう』


「逃げる気か」


ヴェスパーが言う。


『移動です。器計画は次段階へ移ります』


映像の背景に、一瞬だけ海のような青い光が映った。


イリスが目を細める。


「海……?」


オルディスは微笑む。


『灰の星には、砂と雪だけではない。海にも、沈んだ記録があります』


ヴェスパーの脳裏に、海都の名が浮かぶ。


アズールハーバー。


第一章の終わりに、いつか向かうはずだった海側都市。


オルディスは告げた。


『次に会う時は、海霧の向こうで』


映像が乱れる。


最後に、彼は静かに言った。


『それまで、守るものを増やしておくといい。選択は、多いほど美しい』


通信が切れた。


診療所の前に、沈黙が落ちる。


黒い翼の兵たちは撤退していた。


灰都の警鐘も、少しずつ遠くなっていく。


だが、勝利の空気はなかった。


敵は去った。


しかし、次の場所を示していった。


海。


アズールハーバー。


沈んだ記録。


器計画の次段階。


レイラが戦斧を下ろす。


「今度は海か」


イリスが端末を見つめる。


「たぶんね。海都アズールハーバー。黒い翼の輸送記録にも名前があった」


セレスは病室を見る。


「ですが、すぐには行けません。ガルムさん、アステルさん、ノア君、救出者たち。全員治療と休息が必要です」


ノアは俯いていた。


自分がまた狙われた。


ミロも狙われた。


患者も狙われた。


それでも彼は、逃げるとは言わなかった。


「僕、もっと役に立てるようになりたい」


ミロが隣で頷く。


「僕も。守られるだけは嫌だ」


アステルは座ったまま、静かに言った。


「まず、倒れないことからです」


セレスが頷く。


「その通りです」


レイラが笑う。


「セレスの教えが広まってるな」


イリスが肩をすくめる。


「良い宗教みたいになってきたね」


「宗教ではありません」


セレスは淡々と返した。


ヴェスパーは処置室の扉を見る。


ガルムは生きている。


だが、まだ治ってはいない。


灰都は守った。


だが、黒い翼は逃げた。


ノアの街は救い切れていない。


グランヴェイルの傷も残ったまま。


完全な勝利ではない。


それでも、今日も選ばされなかった。


仲間と共に、選択を壊した。


ガルムの声が処置室の中から聞こえた。


「ヴェスパー」


ヴェスパーは扉の方を見る。


「何だ」


「海へ行くなら……準備しろ」


「分かっている」


「それと」


ガルムは少し間を置いた。


「俺も行く」


セレスが即座に言った。


「行けません」


ガルムは黙った。


レイラが腹を抱えて笑いそうになる。


イリスも口元を押さえた。


ヴェスパーは少しだけ息を吐く。


「まず治せ」


ガルムは不満そうに言う。


「弟子まで医者側か」


「生き残るためだ」


その言葉に、ガルムは小さく笑った。


「ああ。そうだったな」


灰都の空に、朝の光が差し始める。


黒い翼の影は消えた。


だが、戦いは終わっていない。


砂漠から雪へ。


雪から灰都へ。


そして次は、海へ。


ヴェスパーは剣を鞘に収めた。


守るものは増えた。


追うべき敵も増えた。


それでも、もう一人ではない。


だから進める。


灰の星の物語は、次の場所へ向かおうとしていた。

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