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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第14話 「帰還の代償」

灰雪の谷を、彼らは南へ歩いていた。


夜は深く、空は厚い雲に覆われている。


月明かりはほとんど届かず、足元を照らすのはイリスの携帯ランタンと、雪に反射するわずかな光だけだった。


ヴェスパーはガルムを支えながら歩いていた。


一歩進むたびに、ガルムの呼吸が乱れる。


熱い。


肩越しに伝わる体温は、普通の発熱ではない。


黒陽炎の残り火が、体の内側で暴れているようだった。


「……重いか」


ガルムが掠れた声で言った。


ヴェスパーは前を向いたまま答える。


「黙って歩け」


「口が悪くなったな」


「師匠譲りだ」


ガルムは少しだけ笑った。


だが、次の瞬間には咳き込み、黒い血を雪に落とした。


セレスがすぐに振り返る。


「止まります」


ガルムは顔をしかめた。


「止まるな。追手が来る」


「あなたが倒れたら、もっと遅れます」


その声に、ガルムは反論しなかった。


いや、できなかった。


ヴェスパーは彼を岩陰へ座らせた。


セレスはすぐに手袋を外し、ガルムの首筋と胸元に触れる。


「熱が上がっています。黒陽炎の使用による反動です」


「少し使っただけだ」


「少しでこれです」


「面倒だな」


「患者が面倒なのではありません。無茶をする患者が面倒なのです」


レイラが横から頷いた。


「分かる」


「お前もそっち側だろ」


ガルムが低く言うと、レイラは胸を張った。


「今はセレス側だ」


「節操がない」


「生き残るためだ」


ガルムは少しだけ目を細めた。


その表情には呆れと、ほんのわずかな安堵が混じっていた。


セレスは薬液の入った小瓶を取り出す。


「応急的に熱を抑えます。ただし、根本治療ではありません」


「根本治療は?」


ガルムが聞く。


セレスは一瞬だけ沈黙した。


「灰都の診療所では限界があります。白砂都市ルミナ級の設備が必要です」


「つまり、面倒だな」


「生きることは、だいたい面倒です」


ガルムは低く笑った。


「良い医者だ」


セレスは淡々と注射器を用意した。


「褒めても治療は痛みます」


「最悪だな」


「必要です」


ガルムは諦めたように腕を出した。


少し離れた場所で、ノアは雪の上に座り込んでいた。


両手で耳を押さえ、目を閉じている。


周囲の音を聞いているのだ。


追手の足音。


風の向き。


遠くの岩が崩れる音。


救助した二人の呼吸。


アステルは彼の隣に腰を下ろした。


顔色は悪い。


重圧術式の使いすぎで、体力はほとんど残っていなかった。


それでも、彼女はノアのそばにいた。


「ノア」


「……何?」


「無理をしていませんか」


ノアは少しだけ迷った。


「してる」


アステルは目を瞬いた。


ノアは小さく続ける。


「でも、今はしないといけない無理だと思う」


「セレスさんが聞いたら、怒られます」


「怒るかな」


「休ませます」


ノアは少しだけ笑った。


「それ、怒ってるのと同じだってレイラが言ってた」


「違うそうです」


二人は小さく笑った。


笑い声は、灰雪の夜にすぐ消えた。


ノアは少し沈黙した後、呟いた。


「僕、兄ちゃんを助けられなかった」


アステルは何も言わなかった。


「カイルさんたちも、すぐには助けられなかった。ミナ姉も、まだ治ってない。今日助けた人たちも……」


ノアの手が震える。


「助けたって言っていいのかな」


アステルはノアの横顔を見た。


その問いは、彼女自身にも分かるものだった。


助けられた。


でも、傷は消えない。


生き残った。


でも、失ったものは戻らない。


アステルは少し考えてから言った。


「私は、助けられたと思っています」


ノアが彼女を見る。


「観測塔から出た後も、怖かったです。痛かったです。何も分からなくて、何度も戻りたくなりました。でも……あの時、皆さんが来てくれなかったら、私は今ここにいません」


彼女は自分の手を見る。


「助けるというのは、全部を元通りにすることではないのだと思います」


ノアは黙った。


アステルは続ける。


「続きがあるようにすること。明日を選べるようにすること。それだけでも……きっと、助けたと言っていいと思います」


ノアの目が揺れた。


彼は布包みから、兄が作った木彫りの狼を取り出した。


不格好な狼。


耳の形は少し変で、足の長さも揃っていない。


でも、確かに誰かが大切に削ったものだった。


「明日……」


ノアは小さく呟く。


「兄ちゃんにも、あったはずなのに」


アステルは静かに言った。


「だから、ノアが生きるんだと思います」


ノアは木彫りを握りしめた。


泣きそうな顔だった。


でも、泣かなかった。


「……うん」


イリスは少し離れた岩陰で端末を操作していた。


通信は不安定だったが、灰都方面へ短い暗号信号は飛ばせている。


ただし、黒い翼に傍受される危険もある。


だから通信は短く、細く、何度も経路を変える必要があった。


「搬送隊とは合流できそうか」


ヴェスパーが近付いて聞く。


イリスは画面を見たまま答える。


「鳴き谷の南で待機中。こっちに近付きすぎると黒い翼に見つかるから、私たちがそこまで戻る必要がある」


「距離は」


「普通に歩けば二時間。今の状態なら三時間以上」


ヴェスパーはガルムと被験者二人を見る。


「追手は」


「今のところ近い反応はない。でも、ドラグニルが本気で追ってきたら端末より先に肌で分かる」


「だろうな」


イリスは少しだけ横目でヴェスパーを見た。


「大丈夫?」


「何が」


「ガルムさんのこと」


ヴェスパーは答えなかった。


イリスは端末を閉じる。


「助けた。でも、元通りじゃない。これ、けっこうきついよ」


ヴェスパーは遠くの暗い谷を見た。


「分かっている」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんか」


イリスは小さく笑った。


だが、その表情はすぐに真面目になる。


「黒い翼の記録、少し読めた」


ヴェスパーが視線を向ける。


「何が分かった」


「ガルムさんは、黒陽炎因子をかなり抜かれてる。でも完全には抜かれてない。むしろ、完全に抜こうとすると黒陽炎そのものが壊れるらしい」


「どういう意味だ」


「黒陽炎は、単なる術式じゃない。ガルムさんの身体、記憶、感情、生存本能に深く結びついてる。だから因子だけを切り離すと不安定になる」


ヴェスパーは拳を握る。


「それで模造体か」


「うん。残滓を他の身体に入れて、安定する形を探してた」


イリスは画面を見せる。


そこには短い記録が映っていた。


【黒陽炎因子は単体で定着せず。

 師弟間の熱反応により再活性化。

 弟子個体の感情負荷が最も高い同期値を示す。】


ヴェスパーは目を細めた。


「俺を怒らせれば、黒陽炎が安定する」


「たぶんね。だからオルディスは、君に選ばせる。怒らせる。失わせる。守らせる」


「俺の反応を見るために」


「そう」


イリスの声は低かった。


「そして、もっと嫌なことがある」


ヴェスパーは黙って続きを促した。


イリスは画面を切り替える。


【器候補群の安定化には、以下の外部因子が有効。

 医療術式による熱制御。

 重圧術式による空間安定。

 高筋力前衛個体による実戦負荷試験。

 高感度聴覚個体による深層索敵補助。

 情報端末適性個体による制御介入。】


レイラ。


セレス。


アステル。


ノア。


イリス。


全員が、黒い翼に記録されている。


ヴェスパーの表情が冷える。


「全員を材料として見ているのか」


「うん。あいつにとって、私たちは仲間じゃなくて、実験装置の部品」


イリスは端末をしまった。


「だからこそ、ここで止まるのは正しい。みんなボロボロの状態で進んだら、オルディスの思う通りになる」


ヴェスパーは静かに頷いた。


「分かっている」


今度は、たぶんではなかった。


一行は再び歩き出した。


ガルムはヴェスパーとレイラが交代で支えた。


老人の獣人は意識が薄く、レイラが背負う。


少女はセレスが抱え、アステルがその横で支えた。


ノアは先頭で道を聞く。


イリスは後方で追跡反応を見ていた。


誰も万全ではない。


足取りは重い。


風は冷たい。


それでも進むしかなかった。


途中、老人の獣人が目を覚ました。


彼はレイラの背中で、かすかに呻いた。


「……ここは」


レイラが声をかける。


「外だ。坑道から出た」


老人はぼんやりと目を開ける。


「グランヴェイルは……」


「まだある」


「そうか……」


セレスが近付いて状態を見る。


「話しすぎないでください。体力が危険です」


老人はセレスを見た。


「医者か」


「はい」


「なら……頼みがある」


セレスは眉をひそめる。


「今は安静に」


「聞くだけでいい」


老人は震える指で、ノアを指した。


「その子を……責めるな」


ノアの耳が震えた。


老人は続ける。


「逃げた子は……悪くない。生き残った子は……悪くない」


ノアの顔が歪む。


「僕……」


「ユアンが……お前を逃がしたなら……それは、あいつが選んだ明日だ」


ノアは木彫りの狼を握りしめた。


老人の声は途切れ途切れだった。


「だから……生きろ。聞こえるんだろう……なら、みんなの声を……忘れるな」


ノアは泣きそうになりながら頷いた。


「うん……うん、忘れない」


老人は安心したように目を閉じた。


セレスがすぐに薬を投与する。


しかし、その表情は厳しかった。


ヴェスパーはそれに気付いた。


「セレス」


セレスは静かに首を横に振る。


「かなり危険です。灰都までもつかどうか……」


その言葉に、全員が黙った。


助けた。


そう思った。


だが、助け出すことと、生かし続けることは違う。


帰還には、代償がある。


それを突きつけられた瞬間だった。


ノアは震える声で言う。


「セレス先生、助けられるよね」


セレスはノアを見た。


簡単に嘘は言えなかった。


「全力を尽くします」


ノアはその意味を理解した。


唇を噛み、涙をこらえる。


「……お願い」


「はい」


セレスは短く答えた。


その返事には、祈りではなく覚悟があった。


鳴き谷の南に着いた頃、空は白み始めていた。


夜明け前の薄い光が、灰雪を青く照らしている。


岩場の向こうに、灰都から来た搬送隊の灯りが見えた。


イリスが安堵の息を吐く。


「合流地点だ」


レイラが肩で息をしながら言う。


「やっとか……」


だが、その瞬間、ノアの耳が跳ねた。


「待って」


全員が止まる。


ノアは耳を澄ませる。


遠く。


搬送隊の灯りの方。


普通の車輪の音。


人の足音。


それに混じって、別の音。


硬い。


規則的。


金属が雪を踏む音。


「搬送隊だけじゃない」


ヴェスパーは剣に手をかける。


イリスの端末も警告を出した。


「熱反応、複数。搬送隊の近くに隠れてる」


レイラが低く言う。


「黒い翼か」


「たぶん、先回りされた」


セレスの顔が険しくなる。


「この状態で戦闘は避けたいです」


ガルムが壁にもたれながら呟く。


「囮だな」


ヴェスパーが彼を見る。


「どういう意味だ」


「搬送隊を襲わず、待っている。お前たちが近付くのをな」


「狙いは俺か」


「それと、俺だ」


ガルムは苦しげに息を吐く。


「オルディスは取り返しに来る。使える素材を簡単には捨てん」


ヴェスパーの目が冷える。


「素材じゃない」


「同感だ」


イリスが地図を確認する。


「迂回できるけど、時間がかかる。老人とガルムさんがもたないかもしれない」


セレスは唇を噛む。


「最短で突破する必要があります」


レイラが戦斧を握る。


「じゃあ突破だ」


アステルが立ち上がろうとするが、膝が震える。


ノアが支える。


「アステルは休んで」


「でも……」


「僕が聞く。アステルは倒れないで」


アステルはノアを見る。


その目は真剣だった。


アステルは小さく頷く。


「……はい」


ヴェスパーは全員を見た。


敵は待っている。


こちらは疲弊している。


守るべき人もいる。


だが、戻らなければ死ぬ。


選択ではない。


全員で通る。


「イリス、敵の位置」


「搬送隊の左右。岩陰に三体ずつ。たぶん結晶兵。黒い翼の兵も二人」


「レイラ、左を抜く」


「任せろ」


「イリス、右を崩せ」


「了解」


「セレスは搬送隊まで走れ。ノア、危険な足音を聞いたら叫べ」


「うん!」


「アステルは術式禁止。立っているだけでいい」


アステルは悔しそうにしながらも頷いた。


「はい」


ガルムが低く言う。


「俺はどうする」


ヴェスパーは短く答えた。


「運ばれろ」


「屈辱だな」


「生きろと言ったはずだ」


ガルムは少し黙り、それから笑った。


「本当に、口が悪くなった」


レイラが横で言う。


「師匠譲りだってさ」


「だろうな」


突破は一瞬で始まった。


イリスが先に閃光弾を投げる。


白い光が灰雪の中で弾ける。


隠れていた黒い翼の兵が一瞬だけ怯んだ。


「今!」


レイラが左の岩陰へ突っ込む。


戦斧が結晶兵の足を砕く。


ヴェスパーはガルムを支えたまま、中央を走る。


ノアが叫ぶ。


「右から二体! 速い!」


イリスの銃弾が右の結晶兵の膝を撃つ。


もう一体がすり抜ける。


狙いは、セレスが抱える少女。


ヴェスパーは熱を上げかけた。


だが、その前にノアが叫ぶ。


「足音、軽い! 右へ跳ぶ!」


ヴェスパーは最小限の蜃気楼を右へ置いた。


結晶兵が幻影を斬る。


本体は左から入り、核を断つ。


崩れる結晶兵。


その背後から、黒い翼の兵が銃を構える。


アステルが反射的に術式を使おうとした。


だが、ノアが彼女の手を掴む。


「だめ!」


アステルは息を呑んで止まる。


銃声。


弾丸はセレスへ向かう。


レイラが間に入った。


戦斧の柄で弾丸を逸らす。


「させるか!」


イリスが兵の銃を撃ち落とす。


「武器破壊!」


ヴェスパーは兵を斬らずに峰打ちで倒した。


殺すより早く、静かに。


セレスは止まらない。


搬送隊の灯りへ走る。


「受け入れ準備を!」


灰都の傭兵たちが慌てて動く。


「先生! こっちへ!」


あと少し。


その時、老人の獣人の呼吸が乱れた。


レイラの背中で、彼の身体が大きく震える。


「セレス!」


レイラが叫ぶ。


セレスは振り返り、顔色を変えた。


「すぐに下ろしてください!」


搬送隊の灯りの中、老人は雪の上に寝かされた。


セレスが胸元に薬布を当て、注射を打つ。


ノアはその横に膝をつく。


「おじさん……!」


老人は薄く目を開けた。


「ノア……」


「もう着いたよ。助かるよ」


老人は小さく笑った。


「そうか……よかった」


「まだ話しちゃだめだって」


「なら……最後に少しだけだ」


ノアの顔が凍る。


「最後じゃない」


老人は震える手でノアの耳に触れた。


「聞こえるなら……聞いてやれ。死んだ者の声じゃない。生きてる者の声を」


ノアの目から涙がこぼれた。


「やだ……やだよ……」


セレスは処置を続ける。


だが、その手がわずかに止まった。


老人の呼吸が、ゆっくりと弱くなる。


「グランヴェイルを……忘れないでくれ」


それが最後だった。


老人の手から力が抜ける。


雪の上に、静寂が落ちた。


ノアは声を出せなかった。


セレスは深く目を伏せた。


「……申し訳ありません」


ノアは首を横に振る。


「セレス先生は……悪くない」


声が震えている。


「黒い翼が悪い。街を壊したやつらが悪い」


レイラは拳を握りしめた。


イリスは黙って顔を背けた。


アステルはノアの隣に膝をつき、そっと手を添えた。


ヴェスパーは老人を見下ろした。


救えなかった。


いや、坑道からは救った。


言葉を残す時間も作った。


だが、命は繋ぎ止められなかった。


それが帰還の代償だった。


完全な勝利などない。


それでも、歩かなければならない。


ノアは涙を拭いた。


そして、老人の言葉を胸に刻むように、小さく言った。


「忘れない」


朝日が灰雪の谷に差し始めた頃、一行は搬送隊と共に灰都へ向かった。


ガルムは担架に乗せられた。


本人は最後まで嫌がったが、セレスの一言で黙った。


「暴れたら縛ります」


ガルムは大人しくなった。


レイラはそれを見て笑った。


「師匠でも勝てないか」


ヴェスパーは短く言った。


「医者だからな」


ガルムは担架の上でぼそりと呟く。


「弟子までそっち側か」


「生き残るためだ」


その返答に、ガルムは何も言わなかった。


ただ、少しだけ笑った。


灰都への道中、イリスは端末で抜き取った記録を整理していた。


「ガルムさんの移送記録、深層地図、器計画の一部。全部はまだ読めないけど、かなり取れた」


ヴェスパーが聞く。


「オルディスの居場所は」


「第一研究区画。たぶん北のさらに奥。ただ、移動してる可能性もある」


「ドラグニルは」


「分からない。でも、あいつはオルディスの護衛でもあり、監視者でもあるっぽい」


セレスはガルムの状態を見ながら言う。


「今すぐ追うことは不可能です」


「分かっている」


ヴェスパーの返答は早かった。


レイラが少し驚いて笑う。


「本当に変わったな」


「何度も言うな」


「嬉しいんだよ」


ヴェスパーは黙った。


アステルはノアと一緒に搬送車両の後方に座っていた。


ノアは泣き疲れた顔をしている。


それでも、耳は周囲の音を拾い続けている。


「休んでいいんですよ」


アステルが言う。


ノアは首を横に振る。


「今は聞いてたい」


「何を」


「生きてる人の声」


アステルは静かに頷いた。


「はい」


二人は並んで、搬送車両の中で眠る人々の呼吸を聞いていた。


灰都アッシュベルクの城壁が見えたのは、昼前だった。


砂漠の熱が少しずつ戻り、灰雪の冷たさが背後へ遠ざかっていく。


戻ってきた。


だが、出発した時とは何もかも違っていた。


ガルムがいる。


助け出した人々がいる。


失われた命もある。


黒い翼の記録もある。


そして、北の深層にはまだ敵が残っている。


白砂診療所の前には、ミロが毛布を羽織って立っていた。


護衛に止められているが、どうしても待っていたらしい。


「ノア!」


ミロが声を上げる。


ノアは驚いたように顔を上げた。


「ミロ……?」


二人は初対面に近い。


だが、同じ黒い翼の被害者として、何か通じるものがあった。


ミロはノアを見て、それから搬送される人々を見た。


「助けられたんだ」


ノアは少しだけ黙った。


そして、頷いた。


「全員じゃない」


ミロは言葉を失う。


ノアは続けた。


「でも、助けた人もいる」


ミロは小さく頷いた。


「うん」


セレスはすぐに診療所を指揮した。


「ガルムさんを奥の処置室へ。ミナさんと少女は第二病室。カイルさんたちは結晶化進行度ごとに分けます。ミロ君、あなたは立っていないで座ってください」


ミロはびくっとした。


「はい!」


レイラが笑う。


「増えたな、セレスに逆らえないやつ」


「良いことです」


セレスは淡々と言った。


白砂診療所は一気に慌ただしくなった。


薬品。


包帯。


水。


温熱布。


記録端末。


イリスが診療所の通信を封鎖し、黒い翼の盗聴を警戒する。


レイラは搬送を手伝い、アステルはできる範囲で薬品を運ぶ。


ノアはミロと共に、患者の呼吸音を聞き分ける手伝いをした。


ヴェスパーはガルムの処置室の前に立っていた。


中ではセレスが治療している。


ガルムの命は、まだ安定していない。


師を取り戻した。


だが、まだ救い切れていない。


その現実が重くのしかかる。


イリスが隣に来た。


「一つ、嫌な知らせ」


ヴェスパーは顔を向ける。


「何だ」


イリスの表情は険しかった。


「灰都上層区で動きがあった。私たちが北にいる間に、黒い翼の通信が何度も飛んでる」


「内通者か」


「たぶん。それと、もう一つ」


イリスは端末を見せた。


そこには、差出人不明の短い文章が表示されていた。


『黒陽炎を灰都に戻したな。

 次は、街が選ぶ番だ。』


ヴェスパーの目が細くなる。


「オルディスか」


「可能性は高い」


イリスは声を落とす。


「黒い翼は、ガルムさんを取り戻しに来るだけじゃないかもしれない。灰都そのものを使って、次の選択を仕掛けてくる」


ヴェスパーは処置室の扉を見た。


中にはガルム。


病室にはノアやミロ、助け出した人々。


街には守るべき場所がある。


黒い翼が次に狙うものは、明らかだった。


戻ってきたことは終わりではない。


むしろ、新しい危機の始まりだった。


レイラが廊下の向こうから歩いてきた。


「どうした」


ヴェスパーは端末の文章を見せる。


レイラの表情が鋭くなる。


「上等だ」


セレスも処置室から出てきた。


疲れた顔だったが、目は強い。


「ガルムさんは当面、絶対安静です。命は繋ぎました」


ヴェスパーは深く息を吐く。


「そうか」


「ただし、黒陽炎の使用は命に関わります」


「使わせない」


「あなたもです」


「……分かった」


セレスはそれを聞いて頷いた。


アステルとノアも廊下へ来た。


ミロも扉の陰から顔を出している。


イリスが全員を見る。


「黒い翼が次に動く。灰都上層、診療所、ガルムさん、被験者。狙える場所は多い」


レイラが戦斧を担ぐ。


「じゃあ守る」


ノアが小さく言う。


「僕も聞く。変な音がしたら、すぐ言う」


アステルも頷く。


「私は、倒れない範囲で守ります」


セレスが少しだけ満足そうに言う。


「その範囲を守ってください」


「はい」


ヴェスパーは仲間たちを見た。


帰還の代償は大きかった。


失った命がある。


傷ついた者がいる。


追うべき敵は遠い。


守るべきものは増えた。


だが、それでも。


彼らは戻ってきた。


師を連れて。


生き残った人々を連れて。


次に進むための記録を持って。


ヴェスパーは静かに剣の柄に触れた。


「次は、灰都を守る」


レイラが笑う。


「いいね。今度はこっちのホームだ」


イリスが端末を起動する。


「情報戦なら負けないよ」


セレスは処置室を振り返る。


「患者を戦場にさせません」


アステルは静かに手を握る。


「今度は、私も支える側に立ちます」


ノアは木彫りの狼を胸に抱いた。


「生きてる人の声を、聞き逃さない」


ミロも小さく頷く。


「僕も、できることをする」


ヴェスパーは窓の外を見た。


灰都アッシュベルク。


騒がしく、傷だらけで、それでも生きている街。


黒い翼が選択を仕掛けるなら。


今度こそ、その選択を壊す。


師か、仲間か。


街か、過去か。


命か、真実か。


そんなものを選ばされるつもりはない。


全部守る。


全部取り戻す。


そのために、仲間がいる。


その時、灰都の上層区から鐘の音が鳴った。


一度。


二度。


三度。


それは非常警鐘だった。


イリスの端末が赤く光る。


「来た」


レイラが戦斧を握る。


セレスが患者たちのいる病室を振り返る。


アステルとノアが息を呑む。


ヴェスパーは診療所の扉へ向かった。


灰都の空に、黒い鳥のような影がいくつも舞っている。


黒い翼の襲撃が始まった。


帰還の代償は、まだ終わっていない。

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