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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第13話 「竜熱の追跡者」

竜の咆哮が、北部坑道深層を震わせた。


それは獣の声ではなかった。


もっと重く、もっと古い。


大地の底に眠っていた火山が目を覚ましたような音だった。


青い光が、闇の奥から膨れ上がる。


熱が来る。


砂漠の熱でも、黒陽炎の熱でもない。


すべてを喰らい、すべてを押し潰すような、竜の熱。


ドラグニル。


その名を聞いただけで、ヴェスパーの身体は前の戦いを思い出した。


蜃気楼を喰われた。


間合いを潰された。


力の差を見せつけられた。


あの時と同じ熱が、今度は逃げ場の少ない坑道の奥から迫ってくる。


「走れ!」


レイラの声が響いた。


ノアが示した右奥の崩れた通路へ、全員が動き出す。


先頭はノア。


そのすぐ後ろにイリス。


セレスは救出した少女を抱え、アステルがその横で支える。


レイラは年老いた獣人を背負い、ヴェスパーはガルムの肩を担いでいた。


ガルムの身体は重かった。


それは体格のせいだけではない。


全身に刻まれた結晶化の痕。


黒い翼に打ち込まれた針の傷。


黒陽炎を無理やり引き出された負荷。


一歩ごとに、彼の呼吸が乱れる。


「……置いていけ」


ガルムが掠れた声で言った。


ヴェスパーは前を向いたまま答える。


「二度言わせるな」


「俺を担いで逃げ切れる相手じゃない」


「逃げ切る」


「相変わらず、聞き分けが悪い」


「師匠譲りだ」


ガルムは小さく笑った。


だが、その笑いはすぐに咳へ変わった。


黒い血が口元から滲む。


セレスが振り返る。


「ガルムさん、喋らないでください!」


ガルムは苦しげに眉をひそめた。


「医者は……どこでも強いな」


レイラが年老いた獣人を背負ったまま言った。


「だから逆らうなって言っただろ!」


坑道が大きく揺れた。


背後の闇から、青い炎が走る。


一直線ではない。


壁も、床も、天井も舐めるように広がる熱。


黒い結晶が青く光り、砕け、溶ける。


イリスが叫んだ。


「来る! 熱波!」


アステルが反射的に手を上げようとする。


だが、セレスが鋭く言う。


「駄目です! あなたはもう限界です!」


「でも……!」


「私がやる」


ヴェスパーがガルムを一瞬レイラへ預け、後方へ振り返った。


剣を抜く。


逃げながら迎撃する。


勝つためではない。


熱波の向きを逸らすため。


ヴェスパーの周囲で空気が揺れる。


しかし、強く使いすぎればドラグニルに喰われる。


なら、最小限。


熱を押し返すのではなく、流れをずらす。


坑道の冷たい壁。


砕けた結晶の熱。


ガルムの黒陽炎の残り香。


仲間たちの体温。


それらを拾い、一瞬だけ歪める。


青い熱波が迫る。


ヴェスパーは剣を振った。


「蜃気楼の牙――」


刃が熱の流れを切る。


熱波は完全には消えない。


だが、中心が逸れた。


青い炎は彼らの横を通り過ぎ、坑道の壁を焼き裂く。


爆風が全員を押した。


レイラが踏ん張る。


「くっ……!」


アステルが倒れかけたノアを支える。


ノアは震えながらも耳を澄ませていた。


「右! 右の壁の奥、風が強い!」


「道はあるのか!」


イリスが叫ぶ。


「分からない! でも、外の音が混じってる!」


「十分!」


レイラが前へ出た。


「どこだ!」


ノアが指差す。


「そこ! 黒い結晶の下!」


レイラは背負っていた獣人を一度セレスの近くへ下ろし、戦斧を構えた。


「下がれ!」


戦斧が壁を叩く。


一撃。


黒い結晶に亀裂が走る。


二撃。


奥から冷たい風が漏れる。


三撃目で、壁が崩れた。


その向こうには、細い旧排気路が続いていた。


人一人が通れる程度の狭い道。


だが、風がある。


外へ繋がっている。


「入れ!」


ヴェスパーが叫ぶ。


ノアが先に入り、イリスが続く。


セレスが少女を抱えて入り、アステルがそれを支える。


レイラは獣人を背負い直し、身体を横にして通路へ入った。


最後にヴェスパーとガルム。


だが、その直前。


背後の闇が青く光った。


重い足音が近付く。


一歩。


また一歩。


ドラグニルが姿を現した。


巨大な竜人。


黒い鱗。


角。


青く燃える瞳。


その身体から発せられる熱は、坑道の冷気を完全に押し潰していた。


彼は急いでいなかった。


追い詰めた獲物が逃げるのを、ただ見ているようだった。


「逃げるのか、黒陽炎の弟子」


低い声が坑道を満たした。


ヴェスパーはガルムを支えたまま、ドラグニルを睨む。


「今はな」


ドラグニルの口元がわずかに吊り上がる。


「良い判断だ。以前なら向かってきただろう」


ガルムが掠れた声で言う。


「相手に……するな……」


ドラグニルの視線がガルムへ移る。


「まだ生きていたか、黒陽炎」


ガルムは苦しげに笑った。


「お前に……心配される筋合いはねえ」


「心配ではない。確認だ」


ドラグニルは一歩進む。


その足元で、結晶が溶ける。


「お前はまだ使える。オルディスはそう言っていた」


ヴェスパーの目が鋭くなる。


「誰にも渡さない」


ドラグニルは静かに笑った。


「守れるのか」


その瞬間、彼の青い熱が膨れ上がった。


ヴェスパーの蜃気楼が、使う前から削られていく。


熱を喰われる。


前と同じ。


いや、前より強い。


ヴェスパーの身体が硬直する。


ドラグニルが腕を振る。


青い炎が槍のように伸びた。


狙いは、ヴェスパーではない。


狭い排気路の入口。


逃げ道を焼き塞ぐつもりだ。


「させるか!」


レイラが排気路の中から身を乗り出そうとする。


だが、距離が遠い。


アステルも術式を使おうとしたが、膝が震えて立てない。


その時、ガルムがヴェスパーの肩を掴んだ。


「……貸せ」


「何を」


「熱だ」


ヴェスパーは一瞬だけ迷った。


ガルムは今にも倒れそうだ。


黒陽炎を使えば、さらに身体が壊れる。


だが、今この瞬間、ドラグニルの熱を逸らせるのはガルムだけかもしれない。


ガルムは低く言った。


「使うんじゃねえ。流すだけだ」


ヴェスパーは歯を食いしばる。


「少しだけだ」


「弟子が師匠に指図するな」


「患者が医者に怒られるぞ」


ガルムはかすかに笑った。


ヴェスパーは自分の熱を抑えたまま、ほんの少しだけガルムへ流す。


燃やすのではない。


渡すのでもない。


支える。


ガルムの片目に、黒い光が宿った。


彼の指先から黒陽炎が立ち上る。


弱い。


しかし、鋭い。


ドラグニルの青い炎が迫る。


ガルムは大剣も持たず、ただ手を振った。


黒い陽炎が、青い炎の軌道を歪ませる。


炎は排気路の入口を外れ、坑道の天井へ叩きつけられた。


天井が崩れる。


大量の岩と結晶が落ち、ドラグニルとヴェスパーたちの間を塞いだ。


「今だ!」


ガルムが叫ぶ。


ヴェスパーは彼を抱えるようにして排気路へ飛び込んだ。


背後で岩が崩れ落ちる。


青い光が隙間から漏れる。


ドラグニルの声が、瓦礫の向こうから響いた。


「逃げろ。次に会う時は、逃がさん」


その声に混じって、オルディスの穏やかな声が聞こえた。


――観測継続。選択破壊行動、記録します。


ヴェスパーは振り返らなかった。


ただ前へ進んだ。


狭い排気路の中、全員が這うように進む。



排気路は細く、長かった。


天井は低く、立って歩くことはできない。


壁には凍った水滴が張り付き、ところどころに黒紫の結晶が生えている。


ノアは先頭で耳を澄ませ、道を選ぶ。


「左は行き止まり。右は風がある。でも、水の音が近い」


イリスが後ろから答える。


「右でいい。水の音があるなら排水路に繋がるかも」


セレスは少女を抱えたまま、息を整えている。


「全員、呼吸を浅くしすぎないでください。結晶粉を吸わないよう、マスクを確認」


レイラが獣人を背負いながら言った。


「こんな狭いところで追いつかれたら終わりだな」


「言わないで」


イリスが即答する。


アステルは限界に近かった。


術式の使いすぎで顔色が悪い。


それでも、ノアの後ろで足を止めない。


ノアが振り返る。


「アステル、大丈夫?」


アステルはいつもの癖で「大丈夫」と言いかけた。


だが、セレスの言葉を思い出す。


「……かなり、つらいです」


ノアはすぐに頷いた。


「じゃあ、少し止まれる場所探す」


「でも、急がないと」


「止まれる場所を探すのも、急ぐためだってセレスが言ってた」


セレスが後ろから静かに言う。


「よく覚えていますね」


ノアの耳が少し動いた。


「うん」


少し進むと、排気路は古い点検室へ繋がっていた。


狭いが、全員が一度身を起こせる程度の空間がある。


イリスがすぐに簡易警報を仕掛ける。


「追跡反応は今のところなし。でも、長居はできない」


セレスはガルムを壁際へ座らせた。


「診ます」


ガルムは顔をしかめる。


「必要ない」


「あります」


「動ける」


「黙ってください」


ガルムはヴェスパーを見た。


「おい、こいつは何だ」


ヴェスパーは短く答えた。


「医者だ」


「強すぎるだろ」


レイラが笑った。


「だから言ったろ。逆らうなって」


セレスはガルムの傷を確認した。


背中の針跡。


肩の結晶化。


内部の熱の乱れ。


どれも危険だった。


「黒陽炎の使用は禁止です」


ガルムは即答する。


「無理だ」


「禁止です」


「敵が来れば使う」


「では、敵が来ないようにします」


ガルムは少し黙った。


そして、ぼそりと言う。


「妙な医者だ」


セレスは淡々と返した。


「生きたい患者には普通の医者です」


ガルムの表情がわずかに変わった。


生きたい。


その言葉が、彼に刺さったようだった。


彼は小さく息を吐く。


「……俺は、もう長くない」


ヴェスパーが顔を上げる。


「勝手に決めるな」


ガルムは彼を見る。


「身体が分かる。黒陽炎を抜かれすぎた。結晶も入れられた。俺はもう、昔の俺じゃない」


「だから何だ」


「足手まといになる」


「もう聞いた」


ヴェスパーの声は低かった。


「何度言っても置いていかない」


ガルムは目を細める。


その目には、怒りではなく、どこか困ったような色があった。


「お前、変わったな」


「そうか」


「昔なら、俺を担いででも敵に突っ込んでた」


レイラが横から言う。


「それは普通にありそうだな」


イリスも頷く。


「かなりありそう」


アステルが小さく言う。


「否定できません」


ノアまで小声で言った。


「してそう」


ヴェスパーは全員を見た。


「……そこまでか」


レイラは笑った。


「そこまでだ」


ガルムは低く笑った。


咳が混じる、弱い笑いだった。


だが、確かに笑っていた。


「仲間ができたか」


ヴェスパーは少し黙る。


そして、頷いた。


「ああ」


ガルムは目を閉じた。


「なら、俺の失敗を繰り返すな」


その言葉に、点検室の空気が変わった。


ノアが不安そうに耳を動かす。


ヴェスパーはガルムを見る。


「深層で何があった」


ガルムはしばらく黙っていた。


やがて、掠れた声で話し始める。


「グランヴェイルに来たのは、黒い翼の動きを追っていたからだ。結晶化の噂があった。最初は、鉱山病だと思われていた」


セレスが静かに頷く。


「黒い翼が隠していたんですね」


「ああ。俺が来た時には、もう街は半分喰われていた。住民を逃がした。施設も壊した。だが、全部は救えなかった」


ガルムの手が震える。


「選ばされた。右へ行けば子どもたち。左へ行けば坑道に閉じ込められた住民。俺は……人数の多い方を選んだ」


ノアが俯く。


それは先ほど見せられた映像と同じだった。


ガルムは続ける。


「間違いだったとは言わん。だが、失ったものは戻らない」


ヴェスパーは静かに聞いていた。


ガルムの声は、普段の厳しさの奥に、深い後悔を抱えていた。


「黒い翼は、その選択を記録していた。俺が迷った瞬間を。俺が諦めた瞬間を。あいつらはそれを、次の実験に使った」


「俺に同じことをさせるためか」


「ああ」


ガルムはヴェスパーを見る。


「オルディスは、人の心を切り分ける。怒り、後悔、庇護、執着。全部、反応値として見る」


イリスが嫌悪感を隠さずに言う。


「最悪だね」


「最悪だ」


ガルムは短く同意した。


「だが、奴は馬鹿じゃない。必ず次も選ばせる。もっと悪い形でな」


ヴェスパーは拳を握った。


「選ばない」


ガルムは少しだけ笑った。


「簡単に言うな」


「簡単じゃない。だから皆でやる」


ガルムの目が、仲間たちへ向く。


レイラ。


イリス。


セレス。


アステル。


ノア。


そして、救出した二人の被験体。


ガルムはしばらく黙った。


「……そうか」


その声は、少しだけ安心したようにも聞こえた。



休息は長く取れなかった。


イリスの警報装置が小さく震えた。


「来た」


レイラがすぐに戦斧を握る。


「ドラグニルか?」


「違う。小型の結晶兵が数体。こっちの通路を探ってる」


ノアが耳を澄ませる。


「足音、三つ。いや、四つ。軽いけど速い」


セレスは少女と老人を見る。


「この二人を連れて戦闘は避けたいです」


アステルが立ち上がろうとする。


「私が――」


「駄目です」


セレスが即座に止める。


アステルは唇を噛む。


「でも、何もしないのは……」


ガルムが低く言った。


「何もしないのも役目だ」


アステルが彼を見る。


「倒れるな。倒れなければ、次に動ける」


それはガルムなりの助言だった。


アステルは少しだけ目を見開き、それから頷いた。


「はい」


ヴェスパーは通路の奥を見る。


「戦わず抜ける」


イリスが端末を出した。


「古い整備シャフトが下にある。そこへ降りれば、追跡を撒けるかも」


ノアが床に耳を近付ける。


「下、水が流れてる。外に近い」


レイラが頷く。


「なら下だな」


点検室の床板を外すと、狭い縦穴が現れた。


古い梯子が下へ続いている。


錆びているが、まだ使えそうだった。


「順番に降りる」


ヴェスパーが言った。


「ノア、イリス、セレス、被験者、アステル、ガルム、レイラ、俺」


レイラが眉をひそめる。


「お前が最後か」


「追手を止める」


「一人で?」


「少しだけだ」


レイラは不満そうだったが、ガルムが先に言った。


「任せろ」


ヴェスパーが振り返る。


「何を」


「俺が最後に残る」


「却下だ」


「弟子が師匠に命令するな」


「患者が医者に逆らうな」


セレスが冷たく言った。


ガルムは黙った。


レイラが笑う。


「ほらな」


結局、ヴェスパーとレイラが最後尾に残ることになった。


ノアたちが梯子を降りていく。


セレスが少女を慎重に降ろし、イリスが下で受け取る。


レイラは獣人を背負ったまま先に降りた。


ガルムはヴェスパーの肩を借りながら梯子へ向かう。


その時、通路の奥に青白い光が見えた。


結晶兵。


四体。


細い身体。


速い足音。


ヴェスパーは剣を抜く。


「先に降りろ」


ガルムは彼を見る。


「死ぬなよ」


「それは俺の台詞だ」


ガルムは小さく笑い、梯子を降りた。


ヴェスパーは一人、点検室の入口に立つ。


結晶兵が迫る。


狭い通路。


数は四。


長く戦う必要はない。


梯子を降りる時間だけ稼げばいい。


ヴェスパーは熱を抑えた。


強い蜃気楼は使わない。


影だけを揺らす。


結晶兵が飛び込む。


一体目の腕を弾き、足を斬る。


二体目の核を剣の峰で打ち、動きを止める。


三体目が天井を蹴って襲う。


ヴェスパーは半歩下がり、結晶の刃をかわす。


その瞬間、四体目が背後へ回ろうとした。


「遅い」


ヴェスパーの姿が一瞬だけ二つに揺れる。


結晶兵の狙いがずれた。


彼は核を断つ。


一体。


二体。


三体。


だが、四体目が自爆装置を点灯させた。


「またか」


ヴェスパーは舌打ちし、蹴り飛ばそうとした。


だが、その前に下から声が飛ぶ。


「ヴェスパー! 伏せろ!」


イリスの声。


彼は反射的に伏せた。


下のシャフトからワイヤーが飛び、結晶兵の足に絡む。


イリスが引く。


結晶兵の身体が点検室の外へ引きずられ、通路の奥へ転がる。


次の瞬間、爆発。


爆風が点検室を揺らす。


ヴェスパーは床に叩きつけられたが、すぐに起き上がる。


下からレイラが叫んだ。


「生きてるか!」


「生きてる」


「早く降りろ!」


ヴェスパーは梯子へ向かい、下へ降りた。


点検室の床板が崩れ、瓦礫が縦穴を塞いでいく。


追手はしばらく来られない。



整備シャフトの下は、古い地下水路だった。


冷たい水が膝下を流れている。


天井は低いが、排気路よりは広い。


遠くから外の風の音が聞こえる。


音が戻っている。


ノアはほっとしたように耳を動かした。


「ここなら聞こえる」


イリスが端末を確認する。


「この水路は山の北側へ抜けてる。たぶんグランヴェイルの外、さらに北の谷へ出る」


レイラが疲れた顔で笑う。


「つまり、また寒い外か」


セレスが言う。


「外の方が治療には適しています。ここよりは」


「そう聞くと外が最高に思えてきた」


アステルは壁に手をつきながら歩いていた。


ノアがそっと隣に並ぶ。


「肩、貸す?」


アステルは少し驚いた。


「ありがとうございます。でも、あなたも疲れているでしょう」


「僕は耳係だから、まだ歩ける」


「では、少しだけ」


アステルはノアの肩に軽く手を置いた。


二人はゆっくりと歩き始める。


セレスはそれを見て、少しだけ安心したように目を細めた。


ヴェスパーはガルムを支えながら、水路を進む。


ガルムは息が荒い。


だが、意識はある。


「ヴェスパー」


「何だ」


「ドラグニルを今は追うな」


「分かっている」


「オルディスもだ。奴は追わせるために餌を撒く」


「分かっている」


「本当か」


ヴェスパーは少し黙り、それから言った。


「たぶん」


ガルムは低く笑った。


「まだまだだな」


「だから、仲間がいる」


ガルムは何も言わなかった。


ただ、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


やがて、水路の先に白い光が見えた。


出口。


外の冷たい風が流れ込む。


六人と二人の被験者、そしてガルムは、崩れた水路の出口から外へ出た。


そこは、グランヴェイルよりさらに北の谷だった。


白い荒野ではない。


黒い岩山に囲まれた、深い灰雪の谷。


空は暗く、雲の切れ間からわずかに月光が落ちている。


遠くには、青い光が微かに揺れていた。


北部坑道深層のさらに奥。


第一研究区画。


黒い翼の本当の拠点が、あの先にある。


だが今は、そこへ向かうことはできない。


仲間は疲弊している。


ガルムは重傷。


被験者二人も危険な状態。


ここで進めば、全滅する。


ヴェスパーはその事実を見つめた。


悔しい。


だが、分かる。


今は退く時だ。


レイラが隣に立つ。


「戻るか?」


「ああ」


イリスが頷く。


「救護隊と合流できる場所まで南へ戻ろう。通信が通れば、灰都から追加搬送を呼ぶ」


セレスは即座に言う。


「ガルムさんと被験者二名は緊急処置が必要です。長距離移動は危険ですが、ここに留まる方が危険です」


アステルは空を見上げる。


「黒い翼は、追ってきますか」


ヴェスパーは北の青い光を見る。


「来る」


ガルムが低く言った。


「だが、すぐには来ない」


「なぜ」


ガルムは苦しげに息を吐いた。


「ドラグニルは、命令だけで動く奴じゃない。今のあいつは見ている。お前がどう選ぶかを」


ヴェスパーは眉をひそめる。


「趣味が悪い」


「同感だ」


その時、北の空で青い光が一瞬強くなった。


まるで、こちらを見ている目のように。


そして、遠くからドラグニルの声が響いた気がした。


――牙を研げ、黒陽炎の弟子。


ヴェスパーは黙って北を睨む。


ガルムを救った。


被験者も救った。


だが、黒い翼の本体には届いていない。


オルディスは生きている。


ドラグニルも健在。


器計画も止まっていない。


それでも、今日一つだけ壊したものがある。


オルディスの用意した選択。


師か、仲間か。


ヴェスパーは、そのどちらも捨てなかった。


完全な勝利ではない。


だが、確かな一歩だった。


ノアが隣に来た。


「ヴェスパー」


「何だ」


「僕たち、勝ったの?」


ヴェスパーは少し考えた。


「まだだ」


ノアは俯きかける。


だが、ヴェスパーは続けた。


「でも、負けてはいない」


ノアは顔を上げる。


「じゃあ、次は勝つ?」


「ああ」


レイラが笑った。


「そうだな。次は殴り返す番だ」


イリスが肩をすくめる。


「その前に治療と情報整理ね」


セレスが強く頷く。


「その通りです」


アステルも静かに言った。


「生きて戻るまでが、今日の勝ちです」


ガルムが小さく笑った。


「良い仲間だ」


ヴェスパーは彼を見る。


「だろ」


ガルムは少し驚いたように目を開き、それから静かに目を閉じた。


「……ああ」


灰雪の谷に、冷たい風が吹いた。


一行は南へ向かって歩き出す。


背後には、青い光を宿す北の深層。


前方には、戻るべき場所。


灰都アッシュベルク。


白砂診療所。


治すべき命。


整理すべき記録。


そして、再び北へ向かうための準備。


ヴェスパーはガルムを支えながら歩く。


今度は、自分が師を生かす番だった。


北の闇はまだ終わらない。


だが、黒陽炎の師は戻ってきた。


その事実だけで、灰雪の夜は少しだけ明るく見えた。

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