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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第12話 「黒陽炎の師」

黒い大剣が振り下ろされた。


空気が裂ける。


いや、空気だけではない。


視界そのものが、黒い陽炎に焼かれる。


ヴェスパーは咄嗟に剣を構えた。


衝突。


重い衝撃が腕を貫き、膝が沈む。


「っ……!」


受け止めた瞬間、分かった。


これは模造体ではない。


剣の重さ。


踏み込み。


熱の揺らぎ。


すべてが、かつて自分を鍛えた男のものだった。


ガルム。


黒陽炎。


師匠。


だが、その瞳は見えない。


顔の周囲を黒い熱が覆い、表情も意思も読み取れない。


「ヴェスパー!」


レイラが横から戦斧を振るう。


だが、ガルムは大剣をわずかに傾けただけで、その一撃を受け流した。


レイラの斧が空を切る。


「速っ……!」


次の瞬間、ガルムの柄がレイラの腹を打った。


レイラの身体が後方へ飛ぶ。


「レイラ!」


アステルが叫ぶ。


だが、ガルムは止まらない。


鎖を引きずりながら、ゆっくりと前へ出る。


その動きは重いはずなのに、奇妙なほど隙がない。


オルディスの声が坑道に響く。


――素体G-00。黒陽炎因子、主核反応。戦闘状態、再起動。


イリスが端末を睨む。


「再起動って……操ってるのか!」


――正確には、残った戦闘記録と条件反射を利用しています。彼の意思は完全には消えていません。だからこそ、美しい。


セレスの声が冷たくなる。


「黙りなさい」


彼女は老人と少女の状態を確認しながら、必死に処置を続けていた。


「ヴェスパーさん、長く戦ってはいけません! 彼の体も限界です!」


ヴェスパーはガルムの足元を見た。


黒い鎖。


腕と背中に打ち込まれた結晶針。


肩から胸にかけて走る青黒い術式管。


ガルムの身体は、黒い翼の装置に繋がれている。


あれが彼を動かしている。


そして、同時に苦しめている。


「イリス」


「見てる!」


イリスは叫びながら端末を操作する。


「背中の結晶針が制御装置! でも近づかないと解除できない!」


レイラが咳き込みながら立ち上がる。


「なら、近づけばいいだろ……!」


「簡単に言うな!」


「簡単じゃないなら、なおさらやるしかないだろ!」


レイラが再び前へ出る。


アステルも震える手を上げた。


「動きを、止めます」


セレスが叫ぶ。


「アステルさん、今は――」


「短く、必要な時だけです」


アステルの瞳が青紫に光る。


重圧がガルムの足元へ落ちる。


だが、黒陽炎が揺れた瞬間、その術式は歪められた。


「っ……!」


アステルの術式が跳ね返り、彼女の身体がよろめく。


ノアが支えた。


「アステル!」


「大丈夫……です。でも、術式が沈む……」


ガルムの周囲だけ、空間が重い。


重圧術式が効きにくい。


黒陽炎が空間の輪郭を焼き、術式の焦点を狂わせている。


ヴェスパーは剣を握り直した。


「俺が正面を受ける」


レイラが即座に言う。


「一人で受けるな」


「一人じゃない」


その言葉に、レイラは一瞬だけ目を見開いた。


ヴェスパーは続ける。


「お前は左から鎖を狙え。イリスは結晶針。アステルは俺たちの足元を支えろ。敵じゃなく、仲間を支えるだけでいい。セレスは救助を続けてくれ。ノア、ガルムの鎖の音を聞け」


ノアは震えながら頷いた。


「鎖の音……」


「あの鎖が引かれる方向で、次の動きが分かるはずだ」


「分かった!」


ガルムが大剣を構える。


その姿を見た瞬間、ヴェスパーの記憶が蘇る。


砂漠の夜。


焚き火。


無愛想な師。


何度も地面に転がされた訓練。


――相手の剣だけを見るな。


――足を見ろ。


――呼吸を見ろ。


――それでも分からないなら、生き残る方へ飛べ。


ヴェスパーは息を吸った。


「行くぞ」


ガルムが踏み込む。


ノアが叫ぶ。


「右の鎖が鳴った! 左に振る!」


ヴェスパーはその声に従い、半歩沈む。


黒い大剣が左から薙がれる。


予測していなければ、胴を持っていかれていた。


ヴェスパーは剣で軌道を逸らす。


その瞬間、レイラが左側から飛び込んだ。


「鎖、もらった!」


戦斧が鎖を叩く。


火花が散る。


鎖は砕けない。


だが、一本に亀裂が入った。


イリスのワイヤーが背後へ飛ぶ。


ガルムの肩に刺さった結晶針へ絡みつく。


「引くよ!」


イリスが力を込める。


だが、黒陽炎がワイヤーを焼くように歪ませた。


「うわ、まずっ!」


ワイヤーが切れる寸前、ヴェスパーが前へ踏み込んだ。


ガルムの視線が彼へ向く。


いや、視線ではない。


黒陽炎の反応が、ヴェスパーの熱を追う。


「俺を見ろ」


ヴェスパーは熱をほんの少しだけ上げた。


餌を撒くように。


ただし、模造体の時のように飲まれない程度に。


ガルムが反応する。


大剣が振り下ろされる。


ヴェスパーは受けずに横へ流した。


背後でイリスが結晶針を撃つ。


銃弾が針の根元を砕いた。


ガルムの身体が一瞬だけ震える。


黒い陽炎が乱れた。


その奥から、掠れた声が漏れる。


「……逃げろ」


ヴェスパーの胸が締め付けられる。


「嫌だ」


ガルムの手がわずかに止まった。


だが、すぐに背中の術式管が青黒く光る。


オルディスの声が響く。


――抵抗反応。制御を上書き。


ガルムの大剣が再び上がる。


今度の一撃は、ヴェスパーではなく、セレスたちの方へ向いていた。


「まずい!」


レイラが叫ぶ。


老人と少女を処置しているセレス。


その前に立つアステルとノア。


このままでは、全員が巻き込まれる。


ヴェスパーは走った。


間に合わない。


距離がある。


熱を上げれば届く。


蜃気楼を強く使えば、加速できる。


だが、それをすればガルムの黒陽炎も反応する。


オルディスの狙い通りになる。


一瞬の迷い。


その瞬間、アステルが前へ出た。


「私が守ります」


「アステル!」


セレスの声が飛ぶ。


アステルは敵を止めようとはしなかった。


重圧を、セレスとノア、被験体たちの周囲に薄く広げる。


壁ではない。


衝撃を流す膜。


大剣が黒陽炎をまとって振り下ろされる。


膜が歪む。


砕ける。


それでも、軌道をわずかにずらした。


刃はセレスたちのすぐ横の床を砕いた。


衝撃で全員が倒れ込む。


だが、直撃は避けた。


アステルはその場に膝をついた。


「っ……!」


ノアが彼女を支える。


「アステル!」


セレスがすぐに叫ぶ。


「今ので終わりです! もう術式は使わないでください!」


アステルは苦しそうに頷いた。


「はい……」


ヴェスパーはガルムの前に戻る。


胸の奥が熱い。


怒り。


恐怖。


悲しみ。


全部が混ざっている。


だが、燃やさない。


燃やせば、敵の餌になる。


ヴェスパーは低く言った。


「ガルム」


黒い陽炎の向こうで、師の影が揺れる。


「俺は逃げない」


ガルムの大剣が止まる。


ほんの一瞬。


「追うなら、仲間を捨てるな。そう言ったのはあんただ」


黒陽炎が揺れた。


「だから、俺は仲間を捨てない。あんたも、捨てない」


レイラが隣に立つ。


「そういうことだ」


イリスが端末を構える。


「感動的なところ悪いけど、次で背中の制御針を抜くよ」


セレスも処置を終え、立ち上がる。


「二人の搬送準備はできました。長くはもちません」


ノアは耳を澄ませる。


「鎖の音が変わった……弱くなってる」


アステルは座り込んだまま、必死に声を出す。


「ガルムさんの周りの術式、少し薄くなっています」


ヴェスパーは頷く。


「次で止める」


オルディスの声が、少しだけ冷たくなった。


――不安定化。素体G-00、出力を上げます。


ガルムの背中の術式管が強く光る。


黒陽炎が爆発的に広がった。


視界が焼ける。


距離が壊れる。


上下も前後も分からなくなる。


レイラの姿が遠く見え、イリスの声が歪む。


ノアの音も消える。


完全な黒陽炎。


ヴェスパーの知る技よりも、さらに深く歪んだもの。


「ヴェスパー!」


誰かが呼んだ気がした。


だが、声が遠い。


目の前にガルムがいる。


いや、十人いる。


どれが本物か分からない。


黒い大剣がいくつも迫る。


目に頼るな。


熱を読め。


だが、熱も乱されている。


なら。


仲間を読む。


レイラの踏み込みの熱。


イリスの銃口の小さな火薬熱。


セレスの薬瓶の温度。


アステルの術式の残り香。


ノアの震える体温。


守るべき命の、かすかな呼吸。


それらは黒陽炎の中でも消えていなかった。


ヴェスパーは目を閉じる。


黒い陽炎の中で、仲間の位置だけを頼りにする。


ガルムの大剣が迫る。


その瞬間、ノアの声が届いた。


本当に声だったのか、ロープを伝わる震えだったのか分からない。


「鎖……右後ろ!」


ヴェスパーは動いた。


右後ろ。


そこに、ガルムの本体。


ヴェスパーは剣を振るわない。


まず、踏み込む。


ガルムの大剣をかいくぐり、懐へ入る。


そのすぐ後ろで、レイラが鎖へ戦斧を叩き込んだ。


「砕けろ!」


亀裂の入っていた鎖が弾け飛ぶ。


イリスの銃弾が結晶針の根元を撃つ。


一発。


二発。


三発。


「ヴェスパー、針が浮いた!」


ヴェスパーは剣を逆手に持ち替えた。


狙うのはガルムではない。


背中の結晶針。


剣先を針の根元に差し込み、てこのように弾く。


黒い結晶針が抜けた。


ガルムの身体が大きく仰け反る。


黒陽炎が一気に乱れる。


「ぐ……ぁ……!」


それはガルムの声だった。


苦痛の声。


だが、同時に、生きている声だった。


背中の術式管が暴走する。


イリスが叫ぶ。


「まだ一本残ってる! 首の後ろ!」


ガルムが暴れた。


大剣を振り回し、坑道の壁を砕く。


天井が崩れ始める。


アステルは反射的に手を上げようとしたが、セレスに止められた。


「駄目です!」


「でも……!」


「あなたが倒れれば終わります!」


アステルは悔しそうに手を下ろした。


代わりに、ノアが走り出した。


「ノア!」


セレスが叫ぶ。


ノアはガルムの背後へ回ろうとしていた。


小さい身体だからこそ、崩れた岩と鎖の隙間を抜けられる。


「首の後ろの針、音が鳴ってる! そこだけ震えてる!」


「戻れ!」


ヴェスパーが叫ぶ。


だがノアは止まらない。


怖い。


怖くて足が震える。


でも、聞こえた。


苦しんでいる音。


ガルムの身体を縛る、嫌な震え。


兄が結晶兵にされた時と同じ、命を道具にされる音。


「嫌だ……」


ノアは小さく呟いた。


「もう、そういう音は嫌だ!」


ガルムの黒陽炎がノアへ向かう。


ヴェスパーは飛び込んだ。


ノアの前に立ち、黒い熱を受ける。


視界が焼ける。


脇腹の傷が開く。


血の匂いがした。


セレスが叫ぶ。


「ヴェスパーさん!」


ヴェスパーは歯を食いしばる。


「ノア、場所を言え!」


ノアは震えながら指差す。


「首の後ろ、左寄り!」


「イリス!」


「見えた!」


イリスの銃口が上がる。


だが、角度が悪い。


ガルムの肩が邪魔で撃てない。


レイラが気付く。


「肩を下げる!」


彼女はガルムの大剣に戦斧を絡め、全身の力で引いた。


「おおおおおっ!」


ガルムの肩がわずかに下がる。


ほんの一瞬。


イリスが撃つ。


銃弾が首の後ろの結晶針を砕いた。


針が半分浮く。


ヴェスパーが踏み込む。


ガルムの黒陽炎が彼を焼く。


だが、止まらない。


剣を振るわない。


手を伸ばす。


首の後ろに刺さった結晶針を、直接掴んだ。


手の皮膚が焼けるように痛む。


黒陽炎が指を裂く。


それでも、引き抜く。


「抜けろ……!」


結晶針が軋む。


ガルムの身体が震える。


そして。


針が抜けた。


黒い陽炎が爆ぜた。


坑道全体が揺れる。


紫の鉱山灯が次々と砕ける。


ガルムの身体から黒い鎖が外れ、床へ落ちた。


重い音。


今度は、はっきりと響いた。


音が戻った。


坑道に、呼吸音が戻る。


足音が戻る。


瓦礫の崩れる音が戻る。


そして、ガルムが膝をつく音が響いた。


ヴェスパーは彼を支えた。


重い。


ひどく熱い。


ガルムの顔を覆っていた黒い陽炎が薄れていく。


そこに現れたのは、記憶の中よりもずっと疲れた男の顔だった。


片目は白く濁り、頬には結晶化の痕が走っている。


それでも、確かにガルムだった。


「……馬鹿弟子」


ガルムが掠れた声で言った。


ヴェスパーの喉が詰まる。


「生きてたのか」


「見りゃ……分かるだろ」


「分からなかった」


ガルムはわずかに笑った。


「相変わらず……面倒な奴だ」


レイラが肩で息をしながら近付く。


「それ、師匠に言われたくないと思うぞ」


ガルムはレイラを見た。


「……誰だ」


「レイラ。ヴェスパーの相棒」


「そうか」


ガルムは小さく息を吐いた。


「こいつを……よく止めた」


レイラは少しだけ驚き、それから笑った。


「何回も止めた」


「だろうな」


セレスがすぐに近付く。


「会話は後です。治療します」


ガルムは彼女を見る。


「医者か」


「はい。患者は黙ってください」


ガルムは一瞬だけ目を細めた。


そして、小さく笑った。


「強いな」


レイラが頷く。


「逆らわない方がいい」


イリスが端末を見ながら叫ぶ。


「和んでる場合じゃない! 坑道、崩れる!」


オルディスの声が再び響く。


今度は、明らかに冷たかった。


――制御解除を確認。素体G-00、想定以上の残存意思。実に興味深い。


ヴェスパーは怒りを抑えながら言った。


「もうお前の実験にはさせない」


――いいえ。実験は続いています。


坑道の奥で、巨大な音がした。


鎖ではない。


獣の足音。


いや、竜の足音。


空気が熱を帯びる。


青い光が闇の奥に灯る。


レイラが戦斧を構える。


「まさか……」


イリスの端末が警告音を鳴らす。


「高熱反応。来る!」


ガルムの顔が険しくなる。


「……逃げろ」


ヴェスパーが彼を見る。


「何が来る」


ガルムは苦しそうに息を吐いた。


「ドラグニルだ」


その名を聞いた瞬間、空気が変わった。


奥の闇から、青い炎のような光が漏れる。


重い足音。


圧倒的な熱。


黒陽炎とは違う、喰らう熱。


ドラグニル。


第1章で彼らを圧倒した古龍種。


オルディスの声が、静かに告げる。


――次の段階です。師を救ったあなたが、今度はその師を守れるか。


ヴェスパーはガルムを支えながら、奥の闇を睨んだ。


背後には救出した被験体。


隣には仲間たち。


腕の中には、やっと取り戻した師。


そして前方から、竜が来る。


レイラが隣に立つ。


「今度は逃げるんだろ?」


ヴェスパーは頷いた。


「ああ」


イリスが驚いたように笑う。


「いい判断」


セレスが即座に言った。


「全員撤退。ガルムさんと被験者二名を最優先で搬送します」


アステルは立ち上がろうとしたが、セレスに支えられる。


ノアは震えながらも、耳を澄ませた。


「右の奥に、風! 崩れた通路の先、外に繋がってるかも!」


ヴェスパーはガルムをレイラに預けかけた。


だが、ガルムが彼の腕を掴む。


「ヴェスパー」


「何だ」


「俺を……置いていけ」


その言葉に、ヴェスパーの目が鋭くなる。


「断る」


「足手まといだ」


「黙れ」


ガルムが一瞬、目を見開いた。


ヴェスパーは低く言った。


「あんたが教えたんだ。生きろと」


ガルムは何かを言おうとした。


だが、言えなかった。


ヴェスパーは続ける。


「今度は俺が言う。生きろ、ガルム」


黒い坑道の奥で、竜の咆哮が響いた。


青い光が迫る。


六人と一人は、崩れゆく深層を走り出した。


師を抱え、命を背負い、仲間と共に。


オルディスの選択を壊すために。


そして、黒い翼の深層から生きて戻るために。

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