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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第11話 「選択の深層」

北部坑道深層は、音のない場所だった。


足音はある。


呼吸もある。


装備が擦れる音も、剣の鞘が揺れる音もあるはずだった。


だが、それらはすぐに闇へ吸い込まれた。


響かない。


反射しない。


まるで、坑道そのものが音を喰っているようだった。


ノアは両耳を押さえながら、ゆっくりと歩いていた。


「……変」


小さな声が、すぐ近くにいるはずなのに遠く聞こえる。


「音が、返ってこない。壁があるのに、ないみたい」


イリスは端末を見ながら眉をひそめた。


「音波反射がほぼゼロ。自然現象じゃないね」


アステルは胸元に手を当てる。


「空間そのものに術式がかかっています。音だけではなく、感覚も少しずつずらされているかもしれません」


レイラが戦斧を握り直した。


「つまり、迷いやすいってことか」


「かなり」


イリスが答える。


セレスは全員を見た。


「ロープを離さないでください。視界や音が信用できないなら、物理的な繋がりが一番確実です」


六人の腰には、細い鉱山用ロープが結ばれていた。


先頭はヴェスパー。


その後ろにイリス。


中央にノア。


次にセレス。


その後ろにアステル。


最後尾にレイラ。


一人でも闇に飲まれれば、戻れなくなる。


そう感じさせる場所だった。


坑道の壁には、黒紫の鉱山灯が等間隔に灯っている。


その光は温度を持たない。


照らしているはずなのに、闇を濃くしているようにも見える。


ヴェスパーは壁の焦げ跡に触れた。


黒陽炎の痕。


ここにも残っている。


だが、以前のものより荒れていた。


ガルムの技というより、何かに引き裂かれたような跡。


「ガルムは、ここで戦った」


レイラが小さく言う。


「まだ近いのか?」


ヴェスパーは目を細めた。


「痕は新しい。だが……歪んでいる」


「歪んでる?」


「あの人の熱じゃないものが混じっている」


その瞬間、坑道の奥で紫の光が揺れた。


そして、声が響いた。


音ではない。


頭の奥に直接落ちてくるような、穏やかな声。


――正確です、黒陽炎の弟子。


レイラが舌打ちした。


「またこいつか」


イリスは端末を操作する。


「発信源なし。通信じゃない。術式干渉だね」


セレスの声が冷える。


「オルディス」


――はい。あなた方の歩みを観察しています。


坑道の壁に、白銀の髪の男の映像が浮かんだ。


薄く揺れる投影。


眼鏡。


白い研究衣。


黒い翼の紋章。


オルディスは、まるで客人を迎えるように微笑んでいた。


――ようこそ、北部坑道深層へ。ここは器計画の旧試験場。ガルムが最初に壊した場所でもあります。


ヴェスパーの目が細くなる。


「最初に?」


――ええ。彼は一度、ここを破壊しました。多くの被験体を逃がし、研究記録を焼き、黒い翼の部隊を壊滅させた。


レイラが低く笑う。


「やるじゃねえか、ガルムさん」


だが、オルディスの表情は変わらない。


――ですが、彼は失敗しました。


ヴェスパーの手が剣の柄を握る。


「何を失敗した」


――すべてを救うことです。


坑道の光が一斉に揺れた。


壁に映像が流れる。


古い記録。


黒い陽炎。


逃げる鉱山労働者たち。


崩れる坑道。


黒い翼の兵。


大剣を振るうガルム。


そして、閉じ込められた人々。


ヴェスパーは息を呑んだ。


映像の中で、ガルムは二つの道の前に立っていた。


片方には、逃げ遅れた住民たち。


もう片方には、黒い翼に連れて行かれる子どもたち。


ガルムは一瞬だけ迷った。


そして、住民たちを救う道を選んだ。


その間に、子どもたちは連れて行かれた。


映像が消える。


オルディスは穏やかに言った。


――選択とは、そういうものです。片方を選べば、片方は失われる。あなたの師は、それを知っている。


ヴェスパーは黙っていた。


胸の奥が重くなる。


ガルムの言葉。


――ここから先は、俺の失敗だ。


あれは、このことだったのか。


ノアが震える声で言った。


「その子どもたちって……」


オルディスの視線がノアへ向く。


――グランヴェイル孤児群。結晶適性の高い個体。多くは失敗しましたが、数名は有用な結果を残しました。


ノアの顔が青ざめる。


アステルがノアの前に立つ。


「やめてください」


――あなたも同じです、アステル。守られなかったからこそ、こちら側に来た。


アステルの指が震える。


セレスがすぐに彼女の肩に手を置いた。


「聞く必要はありません」


アステルは息を整える。


「……はい」


ヴェスパーはオルディスの映像を睨む。


「俺たちに何を見せたい」


――選択です。


その言葉と同時に、坑道の奥で重い金属音が響いた。


今度は、全員にも聞こえた。


鎖の音。


扉が開く音。


そして、二方向の坑道に光が灯る。


右の道は、黒い陽炎の痕が濃い。


奥から、低い唸りのような熱が伝わってくる。


左の道からは、かすかな声が聞こえた。


助けを求める声。


ノアの耳が跳ねる。


「左に、人がいる!」


セレスが顔を上げる。


「生体反応ですか?」


イリスが端末を向ける。


「熱反応あり。複数。弱いけど、生きてる」


オルディスの声が響く。


――右へ進めば、素体G-00の最新記録に近付けます。ガルムの現在を知ることができる。


ヴェスパーの目が揺れる。


――左へ進めば、残された被験体を救えるかもしれません。ただし、時間は限られています。


レイラが唸る。


「またその選択かよ」


――ええ。あなたは言いましたね。選ばない、と。では証明してください。


坑道の天井から、黒紫の砂時計のような術式が浮かび上がる。


粒子が落ちていく。


時間制限。


イリスが歯を食いしばる。


「最悪。本当にタイマーが動いてる。左の熱反応、どんどん下がってる」


セレスの顔が険しくなる。


「放置すれば死にます」


ヴェスパーは右の道を見た。


黒陽炎の痕。


ガルムへ繋がる手がかり。


ここで逃せば、また遠ざかるかもしれない。


だが、左には生きている人がいる。


選ばせる罠。


オルディスの狙い。


怒りを引き出すため。


反応を見るため。


ヴェスパーは目を閉じた。


一人なら、右へ走っていたかもしれない。


ガルムを追うために。


過去を掴むために。


だが、今は違う。


「イリス」


「何?」


「右の道に記録装置はあるか」


イリスはすぐに端末を走らせる。


「熱反応の奥に、記録媒体らしき動力がある。でも遠い」


「遠隔で抜けるか」


「近くの中継端末があれば可能」


「探せ」


イリスの目が光る。


「了解」


ヴェスパーはレイラを見る。


「レイラ、左へ行く。被験体を救う」


「おう」


セレスも頷く。


「当然です」


アステルが右の道を見る。


「でも、ガルムさんの記録は……」


「捨てない」


ヴェスパーは言った。


「右へ行かずに、右の情報を取る。左で人を救う。選択を壊す」


オルディスの映像が、わずかに揺れた。


――興味深い判断です。ですが、それが可能だと?


ヴェスパーは剣を抜いた。


「可能にする」


レイラが笑った。


「いいね。こういう無茶は嫌いじゃない」


セレスが即座に言う。


「無茶ではなく、計画的に行います」


「はい」


ノアが耳を澄ませる。


「左の道、途中で分かれてる。人の声は奥。でも、右の壁の向こうにも機械音がする」


イリスが反応する。


「中継端末かも。ノア、案内できる?」


「音なら分かる」


「最高」


ヴェスパーは全員に指示を出す。


「ロープは切らない。全員で左へ進む。途中でイリスが右の中継端末へ接続。ノアは音で案内。アステルは崩落対策。セレスは救助。レイラは前を開く」


「おう!」


「了解」


「分かりました」


「はい」


「やる」


六人は左の坑道へ駆け出した。


背後でオルディスの声が静かに響く。


――では、見せていただきましょう。選ばないという選択の、限界を。


左の坑道は狭かった。


床は割れ、壁には結晶が浮き出し、天井から古いケーブルが垂れている。


奥からは弱い呼吸音と、機械の警告音が聞こえていた。


ノアは先頭近くで耳を澄ませる。


「右の壁の向こう、機械音が強い! たぶんそこ!」


「レイラ!」


ヴェスパーが叫ぶ。


「任せろ!」


レイラが戦斧を振る。


壁に一撃。


亀裂。


二撃目で、古い金属板が砕けた。


その奥に、小さな管理室が現れる。


黒い翼の端末が生きていた。


イリスが飛び込む。


「当たり!」


端末へ接続する。


画面に黒い翼の紋章。


拒否。


警告。


侵入検知。


イリスは笑う。


「性格悪い鍵かけてるね。でも、こっちも性格悪いから」


彼女の指が走る。


その間にも、坑道の奥から悲鳴が聞こえた。


セレスが走り出す。


「先に行きます!」


「俺も行く」


ヴェスパーが続く。


レイラはイリスの護衛に残る。


「こっちは任せろ!」


アステルは一瞬迷ったが、セレスの後を追う。


ノアも続く。


ロープで繋がれた六人は、二つの動きを同時に進める。


管理室で記録を抜くイリス。


奥で被験体を救うセレスたち。


その無理な連携が、オルディスの選択を壊していた。


坑道の奥にあったのは、小さな実験室だった。


透明な槽が三つ。


そのうち二つには人が入っている。


一人は年老いた獣人。


もう一人は、まだ幼い亜人の少女。


三つ目の槽は空だった。


だが、床には血の跡がある。


セレスがすぐに状態を確認する。


「二人とも生きています。ただし、低温と結晶化が進行しています」


ノアが耳を押さえる。


「奥に何かいる……空の槽の人じゃない。足音が変」


その言葉の直後、実験室の奥の扉が開いた。


現れたのは、細い人型の結晶兵だった。


腕が異様に長い。


顔は布で覆われ、胸には小さな黒い翼の紋章。


だが、その動きはこれまでの結晶兵よりも速かった。


「回収対象、保護妨害」


ヴェスパーは剣を構える。


「セレス、処置を」


「はい!」


アステルがセレスと槽の前に立つ。


「ここは通しません」


結晶兵が走った。


速い。


床を蹴る音すらほとんどない。


ヴェスパーは目に頼らず、熱を読む。


だが、この坑道では感覚が鈍る。


音も、熱も、空間もずらされている。


結晶兵の腕が伸びる。


刃のような指先がノアへ向かった。


「ノア!」


アステルの重圧が一瞬だけ落ちる。


腕の軌道が下がる。


ヴェスパーがその腕を斬り払う。


結晶兵は後退せず、もう片方の腕を突き出した。


「速い……!」


アステルが息を呑む。


セレスは槽の制御を確認しながら叫ぶ。


「核は胸ではありません! 腹部の下、かなり小さいです!」


「了解」


ヴェスパーは踏み込む。


だが、結晶兵は彼の動きに反応して距離を取る。


こちらを足止めするための個体。


殺すことより、時間を奪うことが目的。


オルディスの声がまた響く。


――時間は進みます。黒陽炎の記録も、被験体の生命も。


ヴェスパーは歯を食いしばる。


乗るな。


怒るな。


焦るな。


「ノア」


「何!」


「こいつの足音を聞け。次にどこへ動く」


ノアは震えながらも耳を澄ませる。


音が返らない坑道。


それでも、足元の振動はある。


結晶兵が床を蹴る瞬間。


かすかな重さの偏り。


「左! でも、すぐ右へ跳ぶ!」


ヴェスパーはノアの言葉を信じた。


左へ幻影を置く。


本体は右へ。


結晶兵が右へ跳んだ瞬間、ヴェスパーの剣が待っていた。


「蜃気楼の牙」


刃が腹部の小さな核を断つ。


結晶兵は音もなく崩れた。


ノアは大きく息を吐く。


「当たった……」


「助かった」


ヴェスパーが言う。


ノアは目を見開いた。


そして、小さく頷いた。


「うん」


一方、管理室。


イリスは端末と格闘していた。


レイラは入口で結晶兵二体を押さえている。


「イリス! まだか!」


「今いいところ!」


「敵もいいところまで来てるぞ!」


レイラの戦斧が結晶兵の腕を砕く。


もう一体が横を抜けようとする。


レイラは足で蹴り飛ばした。


「通すか!」


イリスの画面に、黒陽炎記録の文字が浮かぶ。


【素体G-00 深層移送記録

 黒陽炎残滓 主核反応

 ドラグニル監視下

 適合試験 最終段階】


「抜けた……!」


だが、その瞬間、端末が赤く点滅する。


自壊処理。


「やっぱり爆破か!」


イリスは記録を携帯端末へ転送する。


残り数秒。


レイラが叫ぶ。


「逃げるぞ!」


「あと三秒!」


「三秒は長い!」


「二秒!」


「長い!」


「一秒!」


転送完了。


イリスは端末を引き抜く。


「走って!」


レイラはイリスの襟首を掴み、ほとんど抱えるように走った。


直後、管理室の端末が爆発する。


爆風が坑道を揺らした。


天井から岩が落ちる。


アステルが反応する。


「崩れます!」


彼女は術式を広げる。


敵を潰すのではなく、天井を支えるために。


重圧を逆向きに流し、落ちる岩の速度を殺す。


だが、負荷が大きい。


アステルの顔色が一気に悪くなる。


セレスが叫ぶ。


「アステルさん、十秒だけです!」


「はい……!」


セレスは二人の被験体を槽から切り離す準備を急ぐ。


「ヴェスパーさん、年配の方を。ノア君、少女の呼吸を見てください」


「分かった!」


ヴェスパーは老人を抱え上げる。


軽い。


軽すぎる。


まるで命がほとんど削られているようだった。


ノアは少女のそばで耳を澄ませる。


「息、ある。でも弱い!」


「この薬布を胸元に当ててください」


「うん!」


レイラとイリスが合流する。


「記録は?」


ヴェスパーが問う。


イリスは端末を掲げる。


「取った!」


「なら出る」


坑道全体が揺れた。


紫の光が点滅する。


オルディスの声がまた響く。


――記録と命。両方を取ったつもりですか。


レイラが怒鳴る。


「取ったんだよ!」


――では、次です。


その言葉と同時に、奥の扉が開いた。


そこには、黒い鎖で繋がれた影が立っていた。


人型。


大きな体。


黒い外套。


片手に古い大剣。


仮面はない。


だが、顔は黒い陽炎でぼやけて見えない。


ヴェスパーの呼吸が止まった。


「ガルム……?」


レイラが息を呑む。


「本物か?」


イリスが端末を向ける。


「熱反応が……一致率、高い。でも、ノイズが多すぎる!」


セレスが叫ぶ。


「近付かないでください! 生体反応が不安定です!」


黒い影は、一歩進む。


鎖が床を引きずる。


そのたびに、黒い陽炎が坑道を歪ませる。


ノアは震えながら後ずさる。


「音が……ない。足音がしない……」


アステルは顔を青くする。


「この人の周りだけ、空間が沈んでいます」


ヴェスパーは剣を握ったまま動けなかった。


目の前の影は、ガルムに見える。


いや、ガルムそのものかもしれない。


だが、あまりにも歪んでいる。


黒い翼に繋がれ、黒陽炎を抜き取られ、器計画に使われた師。


影が口を開いた。


声は、掠れていた。


「……ヴェスパー」


その瞬間、ヴェスパーの中の時間が止まった。


模造体ではない。


記録でもない。


この声は。


本物だ。


「ガルム……!」


ヴェスパーが一歩踏み出そうとした。


その瞬間、レイラが彼の腕を掴んだ。


「待て!」


ヴェスパーは振り返る。


レイラの表情は真剣だった。


「今のあの人が、本当に自分の意思で立ってるか分からない」


ヴェスパーは言葉を失う。


黒い影――ガルムは、ゆっくりと大剣を持ち上げた。


その刃は、ヴェスパーたちへ向いている。


オルディスの声が、静かに響いた。


――次の選択です。


坑道の奥で、鎖が鳴る。


ガルムの黒陽炎が膨れ上がる。


背後では、救出した二人の被験体が弱く息をしている。


坑道は崩れ始めている。


前には、師。


後ろには、守るべき命。


オルディスは囁くように言った。


――師を止めますか。命を運びますか。


ヴェスパーの手が震える。


ガルムの声が、もう一度聞こえた。


かすかに。


苦しげに。


「……来るな」


そして、次の瞬間。


ガルムの大剣が黒陽炎をまとい、ヴェスパーたちへ振り下ろされた。

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