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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第10話 「北部坑道深層」

灰雪の列車は、低い音を立てながら荒野を進んでいた。


車輪は錆びつき、線路は歪み、いつ止まってもおかしくない。


それでも、列車は動いていた。


黒い翼に奪われかけた九人の命を乗せて。


ノアは貨物車両の中で、ずっと耳を澄ませていた。


車輪の軋み。


管を流れる薬液の音。


簡易培養槽の振動。


そして、横たわる人々のかすかな呼吸。


「右奥の人、呼吸が浅い」


ノアが言う。


セレスはすぐにそちらへ向かった。


「ありがとうございます。薬液の流量を下げます」


ノアは小さく頷いた。


それから、隣の槽に横たわる女性を見た。


ミナ。


ノアの知る、生き残りの一人。


彼女は薄く目を開けて、ノアを見ていた。


「ノア……」


「しゃべらないで。セレス先生が、休めって」


「先生……?」


セレスが少しだけ顔を上げる。


「私は医師です。今は休むことが治療です」


ミナは弱く笑った。


「怒られた……」


ノアは唇を噛みながらも、少しだけ笑った。


「うん。逆らわない方がいいよ」


その言葉に、アステルが小さく頷いた。


「私もそう思います」


セレスは何も言わず、治療を続けた。



列車は鳴き谷の近くで止まった。


イリスが先に外へ出て、周囲の熱反応を確認する。


「今のところ追手なし。通信も通る」


レイラが車両の後方で戦斧を担いだまま周囲を見回す。


「本当に来てないのか?」


「来てない。でも、来ないとは言ってない」


「嫌な言い方だな」


「正確な言い方だよ」


ヴェスパーは列車の先頭から北の空を見ていた。


黒い翼の通信は切れた。


オルディスの映像も消えた。


だが、あの穏やかな声はまだ耳に残っている。


――師を救いたいなら、北部坑道深層へ。


罠だ。


そんなことは分かっている。


だが、ガルムがそこにいる可能性がある。


それだけで、足が北へ向きそうになる。


「ヴェスパー」


レイラが近付いてきた。


「また一人で行く顔してるぞ」


「行かない」


「ならいい」


「……そんな顔をしていたか」


「してた」


即答だった。


イリスも後ろから言う。


「してたね」


セレスまで車両の入口から静かに言った。


「していました」


アステルも小さく頷く。


「少しだけ」


ノアも遠慮がちに手を上げた。


「……してた」


ヴェスパーは沈黙した。


全員に言われては、否定できない。


レイラは少し笑った。


「まあ、行きたい気持ちは分かる。でも先にやることがある」


「分かっている」


「本当に?」


「ああ」


ヴェスパーは救護車両を見た。


中には、助け出した人々がいる。


まだ安全ではない。


ミロと同じように、結晶化の進行を止めるには設備が必要だ。


灰都へ運ぶ。


護衛を呼ぶ。


診療所へ連絡する。


そのすべてが終わるまでは、北へ進めない。


ガルムの声が蘇る。


――追うなら、仲間を捨てるな。


ヴェスパーは小さく息を吐いた。


「まず、この人たちを灰都へ送る」


レイラは満足そうに頷いた。


「よし」



イリスの通信で、灰都から護衛隊と搬送用の車両が来ることになった。


到着までは数時間。


その間、六人は鳴き谷近くの岩場に簡易拠点を作った。


セレスは救出した九人の状態を確認し続けた。


ノアはその手伝いをした。


イリスは黒い翼の通信を妨害し、追手の経路を探った。


レイラは周辺警戒。


アステルは休むように言われ、毛布に包まれて座っていた。


だが、完全に休めているわけではなかった。


彼女は時折、北の方角を見ている。


ヴェスパーはそれに気付いた。


「何か感じるのか」


アステルは少し迷ってから答えた。


「北の方に、術式の重さがあります」


「黒い翼の施設か」


「おそらく。でも……私を縛っていた観測塔の術式とは違います」


「どう違う」


アステルは胸元に手を当てる。


「もっと深いです。地面の下から、世界を押し上げるような……息苦しい重さ」


ヴェスパーは北を見る。


灰色の空。


黒い山脈。


その下に続く、北部坑道深層。


ガルムはそこへ運ばれた。


器計画の中心がある。


「無理に探らなくていい」


ヴェスパーが言うと、アステルは少し驚いたように彼を見た。


「いいんですか」


「ああ。セレスに怒られる」


「それは……確かに」


アステルは少しだけ笑った。


その表情は、第一章の頃よりずっと柔らかい。


守られるだけだった少女が、今は自分の意思で戦い、休み、そして仲間を見ている。


ヴェスパーはそれを見て、少しだけ安心した。



灰都からの護衛隊は、夕方前に到着した。


レイラの知り合いの傭兵たちだった。


粗野だが、腕は立つ。


ミロの護衛についていた者たちとも連携できる。


セレスは救出者一人ひとりの状態を書いた紙を渡し、搬送中の注意を細かく説明した。


傭兵の一人が苦笑する。


「先生、これ全部覚えろって?」


セレスは真顔で答えた。


「覚えられないなら書き写してください」


「……はい」


レイラが横で笑う。


「逆らうな。負けるぞ」


「お前も負けたのか」


「負けた」


即答だった。


ノアはミナの乗った車両のそばに立っていた。


行くべきか。


残るべきか。


その迷いが顔に出ている。


ミナは弱い声で言った。


「ノア……行くの?」


ノアは答えられなかった。


セレスが静かに言う。


「ノア君、あなたは灰都へ戻ってもいいんです」


ノアは首を横に振る。


「でも、僕は……」


「無理に戦う必要はありません」


「戦いたいんじゃない」


ノアは木彫りの狼を握った。


「僕の街が、まだ終わってない。兄ちゃんも、みんなも、黒い翼に勝手に終わらされた。だから……見届けたい」


アステルがそっと言う。


「怖くても?」


ノアは頷いた。


「怖い。でも、逃げっぱなしは嫌だ」


ヴェスパーはノアを見た。


小さな身体。


大きな耳。


震える手。


だが、その目は前を向いている。


「分かった」


セレスがすぐに言う。


「同行するなら条件があります」


ノアは少し身構えた。


「条件?」


「危険な時は、私たちの指示に従うこと。痛い時は痛いと言うこと。無理をしないこと」


ノアは少しだけアステルを見た。


アステルは小さく頷いた。


「大事です」


ノアは深く息を吸った。


「分かった。約束する」


セレスは頷いた。


「では同行を許可します」


レイラが笑った。


「医療隊長の許可が出たな」


ノアは少しだけ安心したように笑った。


ミナは彼を見て、弱く微笑む。


「生きて、帰ってきて」


ノアは力強く頷いた。


「うん。絶対」



搬送隊が灰都へ向かった後、残った六人は再び北を見た。


ヴェスパー。


レイラ。


イリス。


セレス。


アステル。


ノア。


もう一時的な案内役ではなかった。


ノアはこれまでの戦闘、悲しみを乗り越えて、確かに彼らの一部になり始めていた。


イリスが端末に古い坑道地図を映す。


「北部坑道深層へ行く入口は三つ」


彼女は地図に印をつける。


「一つ目は中央鉱区の主坑道。さっきの施設を通る道。危険すぎる」


レイラが頷く。


「あそこはもう黒い翼が警戒してるな」


「二つ目は列車搬送路。さっき止めた線路の先」


「そこも見張られてるだろうな」


「うん。で、三つ目」


イリスはノアを見る。


「ノアが言ってた古い封鎖坑道」


ノアは頷いた。


「街の北の外れにある。昔は深層採掘に使ってたけど、事故が多くて閉じられた。父さんが、“あそこは山の下をずっと北へ続いてる”って」


ヴェスパーが聞く。


「黒い翼は使っているか」


ノアは耳を動かしながら考える。


「分からない。でも、街の中で聞いた足音は、たぶんそっちにも続いてた」


「なら使っている可能性はある」


イリスは頷く。


「ただし、正面入口よりは薄いはず。古い封鎖区画なら、黒い翼も完全には管理できてないかもしれない」


セレスが言う。


「危険は?」


ノアが答えた。


「崩落。毒ガス。結晶粉。あと、音が返ってこない場所がある」


レイラが嫌そうな顔をした。


「音が返ってこないって、怖いな」


「空洞が深すぎるか、何かに音を吸われてる」


「もっと怖くなった」


アステルが静かに言う。


「でも、そこからなら奇襲できるかもしれません」


ヴェスパーは頷いた。


「封鎖坑道から入る」


セレスがすぐに続ける。


「ただし、準備してからです」


「分かっている」


今度は即答だった。


セレスは満足そうに頷いた。


「良い返事です」



グランヴェイル北端。


そこに、封鎖坑道の入口はあった。


雪に埋もれた採掘施設の奥。


半ば崩れた鉄門。


古い警告板。


そこにはかすれた文字でこう書かれていた。


【立入禁止 北部深層採掘区画 崩落危険】


警告板の下には、さらに誰かが新しく刻んだ文字があった。


黒い翼のものではない。


鉱山労働者が残したような、荒い文字。


【ここから先、声が届かない】


レイラが眉をひそめる。


「嫌なこと書くなよ……」


ノアは入口の前で耳を澄ませた。


長い沈黙。


風の音。


雪の音。


遠くの街の軋み。


そして、坑道の奥から返ってくるはずの音。


だが、何も返ってこない。


「……変」


ノアが呟く。


「奥が空っぽみたいなのに、風はある。でも、音が消える」


アステルの顔も強張った。


「術式があります。音を吸っているというより、空間が沈んでいるような……」


イリスは端末を向ける。


「内部から微弱な動力反応。黒い翼の装置もあるね」


「待ち伏せか?」


レイラが戦斧を握る。


「可能性はある」


ヴェスパーは鉄門に残る焦げ跡を見つけた。


黒く滲む、視界をわずかに歪ませる跡。


黒陽炎。


ガルムの痕跡。


ここにもある。


ヴェスパーはその跡を見つめた。


触れようとした瞬間、黒い熱が揺れた。


短い幻。


ガルムの背中。


血のついた大剣。


低い声。


――ここから先は、俺の失敗だ。


映像はすぐに消えた。


ヴェスパーは息を止めた。


「失敗……?」


レイラが顔を向ける。


「何か見えたのか」


「ああ。ガルムの記録だ」


イリスが真剣な顔になる。


「何て?」


「ここから先は、俺の失敗だと」


沈黙が落ちた。


ガルムの失敗。


それが何を意味するのか。


黒い翼に捕まったことか。


器計画を止められなかったことか。


それとも、もっと別の何かか。


ノアが不安そうに言う。


「入るの?」


ヴェスパーは鉄門を見た。


「入る」


セレスが言う。


「全員、防塵マスクを確認。ロープを繋ぎます。ノア君は中央、アステルさんはその後ろ。先頭はヴェスパーさん、後方はレイラさん」


レイラが頷く。


「背中は任せろ」


イリスは端末とランタンを構える。


「地図は信用しない。ノアの耳とアステルの術式感覚を優先」


アステルは静かに頷く。


「はい」


ノアは少し震えながらも、前を見た。


「音、聞く」


ヴェスパーは剣を抜き、鉄門へ手をかけた。


重い。


錆びついている。


レイラが横に来る。


「一人で開けるなよ」


「開けられる」


「そういう意味じゃない」


ヴェスパーは一瞬黙り、それから手を離した。


「頼む」


レイラは満足そうに笑った。


「任せろ」


二人で鉄門を押す。


ぎぎぎ、と嫌な音を立てて、封鎖坑道の入口が開いた。


中から、冷たい風が流れ出す。


だが、その風には音がなかった。


普通なら聞こえるはずの、空気が通る音。


それがない。


まるで、音だけが闇に食われている。


ノアの耳がぴんと立つ。


アステルが胸元を押さえる。


セレスは薬品を確認する。


イリスはランタンを灯す。


レイラは戦斧を担ぐ。


ヴェスパーは前を見る。


黒い坑道。


音のない闇。


その奥に、ガルムがいるかもしれない。


その奥に、黒い翼の器計画がある。


ヴェスパーは一歩踏み出した。


すると、壁に設置された古い鉱山灯が、ひとつ、またひとつと灯った。


青白い光ではない。


黒に近い紫の光。


黒陽炎の残滓に似た、不気味な灯り。


坑道の奥から、かすかな声が聞こえた。


本当に聞こえたのか。


それとも、頭の中に響いたのか。


分からない。


だが、確かにその声は言った。


――来たか、黒陽炎の弟子。


ヴェスパーは足を止めた。


レイラがすぐに横へ立つ。


「聞こえたか」


「ああ」


イリスが端末を確認する。


「通信じゃない。音波でもない」


アステルが青ざめる。


「術式で、直接意識に……」


ノアが震える。


「この声、地下で聞いた……」


セレスが静かに言う。


「オルディスですか」


闇の奥で、紫の灯りが揺れた。


そして、また声が響く。


――選択の準備は整っている。


ヴェスパーは剣を握る。


「選ばないと言ったはずだ」


声は、穏やかに笑った。


――では、証明してください。


その瞬間。


坑道の奥で、重い音がした。


鎖の音。


何か巨大なものが動く音。


そして、黒い陽炎が闇の奥に揺れた。


ガルムのものに似ている。


だが、それだけではない。


もっと深く、もっと歪んだ何か。


レイラが低く言う。


「歓迎って感じじゃないな」


イリスが端末を構える。


「完全に罠だね」


セレスが静かに返す。


「それでも、進むしかありません」


アステルは手を胸に当てる。


「一人ではありません」


ノアも震えながら言った。


「僕が、道を聞く」


ヴェスパーは振り返った。


全員がそこにいる。


誰も退かない。


ならば、進む。


彼は前を向いた。


「行くぞ」


六人は、北部坑道深層へ足を踏み入れた。


音のない闇が、彼らを飲み込んでいく。


その奥で、黒陽炎の残滓が静かに燃えていた。

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