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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第9話 「灰雪の列車」

遠くで、列車の警笛が鳴った。


低く、長く、白い荒野に響く音。


それはもう、かつて人や鉱石を運んでいた頃の明るい音ではなかった。


灰雪の中を進む黒い翼の移送列車。


その中には、グランヴェイルの生き残りたちがいる。


助けを待つ人々。


黒い翼に「被験体」として扱われた者たち。


ノアは、古い信号所の窓から外を見ていた。


灰と雪が風に流れ、遠くの線路の先に黒い影が見える。


小さな光。


青白い前照灯。


そして、重い車輪の音。


ガタン。


ゴトン。


ガタン。


ゴトン。


「来る……」


ノアの声が震えた。


だが、逃げなかった。


彼は線路切替機の前に立っている。


錆びた鉄のレバー。


古い制御盤。


そこにイリスが端末を繋いでいた。


「信号はまだ生きてる」


イリスが言った。


「でも黒い翼の制御が上書きされてる。こっちで止めるには、手動切替と電子制御を同時にやる必要がある」


「つまり?」


レイラが聞く。


「ノアがレバーを動かす。私が制御を奪う。アステルが車両の重さを殺す。レイラが前輪を止める。ヴェスパーが護衛を潰す」


「分かりやすいな」


「かなり雑に言うとね」


セレスは薬品と包帯を並べ、救護用の布を広げていた。


「列車が止まったら、私は車両内の人たちを確認します。無理に動かせない人もいるはずです」


「私は?」


アステルが聞く。


「あなたは術式を短時間だけ使ってください。列車を止める瞬間だけです」


「はい」


セレスはまっすぐアステルを見る。


「その後は休むこと」


「……はい」


「返事が少し遅いです」


「はい」


レイラが笑いそうになったが、すぐに表情を引き締めた。


列車の音が近付いている。


遊んでいる場合ではない。


ヴェスパーは窓の外を見た。


線路は信号所の前で分岐している。


本来なら北部坑道深層へ向かう本線。


その横に、使われていない古い待避線。


待避線は途中で途切れている。


だが、そこへ誘導して減速させれば、列車を止められる可能性がある。


失敗すれば、脱線。


中の人々も危険だ。


「ノア」


ヴェスパーが声をかける。


ノアの大きな耳がぴくりと動いた。


「怖いか」


ノアは少しだけ黙り、それから正直に答えた。


「怖い」


「なら、いい」


ノアは顔を上げる。


ヴェスパーは続けた。


「怖いなら、慎重になれる」


レイラがにっと笑う。


「私の教えだな」


「お前の言葉を借りただけだ」


「いいぞ、どんどん借りろ」


ノアはほんの少しだけ笑った。


けれど、すぐに表情を戻す。


「僕、やる」


「頼む」


ヴェスパーがそう言うと、ノアは強く頷いた。


その時、イリスの端末が警告音を鳴らした。


「護衛がいる。先頭車両に二人、後方に四人。あと、貨物車両の上に結晶兵が三体」


「列車の上か」


レイラが戦斧を担ぐ。


「派手になりそうだな」


セレスが即座に言った。


「派手にしないでください」


「努力する」


「努力ではなく実行してください」


「はい」


ヴェスパーは剣を抜いた。


「俺とレイラで外へ出る。イリスとノアは信号所。セレスとアステルは中で待機、列車が止まり次第救護」


アステルが小さく頷く。


「術式は、合図で使います」


「合図は?」


イリスが聞く。


ヴェスパーは列車の光を見る。


「先頭車両が分岐に入った瞬間」


ノアがレバーに手をかけた。


「分岐音で分かる」


「頼む」


列車が近付く。


黒い車体。


青白い灯り。


前面には黒い翼の紋章。


その姿が灰雪の向こうから現れた。


黒い翼の移送列車は、古代の鉱山列車を改造したものだった。


前方には装甲板。


車両の側面には結晶管。


天井には監視用の小型灯。


貨物車両の窓は塞がれ、中の様子は見えない。


車輪が雪と灰を弾き、鉄の線路を震わせる。


ガタン。


ゴトン。


ガタン。


ゴトン。


ノアは耳を澄ませる。


線路の震え。


車輪の重さ。


分岐までの距離。


彼の手がレバーを握る。


「まだ……」


イリスが端末を操作する。


「制御、噛ませた。黒い翼の命令を上書きする」


画面に赤い文字が走る。


警告。


警告。


権限拒否。


イリスは舌打ちした。


「しつこいな」


「できる?」


ノアが不安そうに聞く。


「できる」


イリスは笑った。


「こういう時に“できない”って言う情報屋はいないの」


ノアは目を見開き、それから少しだけ頷いた。


「……かっこいい」


「でしょ?」


レイラが外から叫ぶ。


「来るぞ!」


ヴェスパーとレイラは信号所の外、線路脇に立っていた。


白い荒野の風が外套を揺らす。


列車の先頭が目前に迫る。


その屋根の上で、黒い翼の兵がこちらに気付いた。


「侵入者!」


叫び声。


同時に、貨物車両の上の結晶兵が動く。


青白い核が光る。


ヴェスパーは低く構えた。


「今だ」


ノアが叫ぶ。


「今!」


彼は全身でレバーを引いた。


錆びついたレバーは動かない。


「っ……!」


ノアの腕が震える。


レバーはびくともしない。


古すぎる。


凍りついている。


レイラが気付く。


「ノア!」


イリスが端末から顔を上げる。


「あと少し! ノア、押してから引いて!」


「押して……!」


ノアはレバーを一度押し込む。


がちん、と内部で固まっていた何かが外れた。


「引け!」


ノアは叫びながらレバーを引いた。


金属音。


線路の分岐が動く。


ガゴン。


列車の前輪が待避線へ入った。


「アステル!」


ヴェスパーが叫ぶ。


信号所の中で、アステルが手を伸ばした。


瞳が青紫に光る。


「止まって……!」


重圧が列車全体へかかる。


車輪の回転が鈍る。


鉄が軋む。


列車が悲鳴のような音を上げた。


レイラが線路へ飛び出す。


「おおおおおっ!」


戦斧の柄を車輪の軸に叩きつける。


火花が散る。


ヴェスパーは結晶兵へ向けて走った。


屋根から一体が飛び降りる。


腕に結晶の刃。


ヴェスパーは最小限の蜃気楼で軌道をずらし、すれ違いざまに膝の核を断つ。


結晶兵が線路脇に崩れる。


二体目が背後から迫る。


レイラが斧で受け止めた。


「邪魔だ!」


戦斧が結晶兵を弾き飛ばす。


イリスが信号所の窓から銃を撃つ。


三体目の肩関節が砕け、車両の屋根から落ちた。


列車は待避線へ入り、さらに減速する。


だが、止まりきらない。


このままでは途切れた線路の先へ突っ込む。


セレスが叫ぶ。


「アステルさん、これ以上は!」


アステルの顔色が悪い。


それでも手を下ろさない。


「まだ……少しだけ……!」


ノアは耳を押さえる。


車輪の音。


線路の悲鳴。


その中に、車両内部からの微かな声が聞こえた。


「いる……!」


ノアが叫ぶ。


「中に人がいる! 起きてる人もいる!」


ヴェスパーの目が鋭くなる。


「レイラ、前を止める!」


「おう!」


二人は同時に動いた。


レイラが戦斧を線路に叩き込み、前輪の進路を塞ぐ。


ヴェスパーは先頭車両の横へ走り、車両の連結部へ剣を突き入れた。


熱を読む。


金属の歪み。


車輪の摩擦。


冷たい線路。


そこにわずかな熱の揺らぎを作る。


蜃気楼ではない。


熱膨張による、ほんの小さなズレ。


車輪の噛み合わせが狂う。


列車が大きく揺れた。


「伏せろ!」


イリスが叫ぶ。


轟音。


列車は待避線の上で横滑りし、雪と灰を巻き上げながら停止した。


線路の先、あと数歩で途切れる場所だった。


沈黙。


次の瞬間、信号所の中でアステルが膝をついた。


「アステル!」


セレスがすぐに支える。


「術式停止。深呼吸してください」


「はい……」


アステルは苦しそうに息を吸った。


だが、意識はある。


セレスはすばやく体温を確認する。


「低下していますが、危険域ではありません。よくできました」


アステルは弱く微笑んだ。


「止まりましたか」


「はい」


ノアが窓の外を見た。


止まった列車。


黒い翼の兵たち。


貨物車両。


中にいる人々。


彼は震える声で言った。


「止まった……」


イリスが小さく笑う。


「君の耳とレバーのおかげだよ」


ノアは何かを言おうとして、言えなかった。


代わりに、強く頷いた。


列車の護衛は、すぐに態勢を立て直した。


先頭車両の扉が開き、黒い翼の兵が二人飛び出してくる。


顔を覆う黒いマスク。


腕には小型銃。


胸には黒い翼の紋章。


「移送妨害者を排除しろ!」


銃口が向く。


ヴェスパーは走った。


発砲。


弾丸が灰雪を裂く。


ヴェスパーの姿が一瞬揺れる。


薄い蜃気楼。


兵の照準がわずかにずれる。


弾丸は外套を掠めるだけだった。


ヴェスパーは一人目の懐へ入り、剣の柄で腹を打つ。


二人目が銃を向ける前に、イリスの銃弾が武器を弾いた。


「武器は壊す。人は後で尋問」


「了解」


ヴェスパーは二人目を斬らずに蹴り倒した。


レイラは後方車両の護衛とぶつかっていた。


「お前ら!」


戦斧の柄が黒い翼の兵を吹き飛ばす。


「人を荷物みたいに運んでんじゃねえ!」


兵が結晶の短槍を構える。


レイラは正面から受け、力任せに押し返した。


「軽い!」


そのまま肩からぶつかり、兵を車両へ叩きつける。


アステルは信号所の中で休みながらも、外の戦いを見ていた。


自分も出たい。


でも、今は動けない。


その焦りを、セレスが見抜く。


「今は休むことが役目です」


「でも……」


「あなたが倒れれば、後で助けられる人を助けられなくなります」


アステルは唇を噛み、それから頷いた。


「……はい」


ノアは貨物車両の方へ走ろうとした。


セレスが止める。


「一人で行ってはいけません」


「でも、中に人が!」


「一緒に行きます」


セレスは医療バッグを持ち上げた。


「あなたの耳が必要です。中で意識のある人を探してください」


ノアは目を見開く。


「僕が?」


「はい。お願いします」


ノアは大きく頷いた。


「うん!」


二人は貨物車両へ向かった。


イリスがその後ろに続く。


「鍵は私が開ける」


貨物車両の扉には、黒い翼の電子錠がついていた。


イリスが端末を繋ぐ。


「解除に十秒」


レイラが後方の敵を蹴り飛ばしながら叫ぶ。


「十秒もいるか?」


「普通は一分かかるやつを十秒って言ってるの!」


「なら早い!」


ヴェスパーは最後の護衛と対峙していた。


その兵は普通の黒い翼ではなかった。


片腕に結晶化の装甲。


目の奥に青白い光。


完全な結晶兵ではない。


だが、改造されている。


「弟子個体……確保優先」


ヴェスパーは剣を構える。


「またそれか」


兵の結晶腕が伸びる。


鞭のように。


ヴェスパーは一歩下がり、斬撃をかわす。


結晶腕が地面を抉る。


かなり速い。


だが、模造体ほどではない。


怒るな。


反応を上げるな。


淡く、薄く、最小限に。


ヴェスパーは自分の熱を抑えたまま、相手の懐へ入った。


狙うのは核ではない。


関節。


制御部。


結晶腕の根元。


一閃。


結晶腕が鈍く光り、動きが止まる。


兵が呻く。


「反応……不足……」


「お前たちの実験には付き合わない」


ヴェスパーは剣の峰で兵の首筋を打ち、気絶させた。


その直後、貨物車両の鍵が開いた。


重い扉が、ゆっくりと横へ動く。


中から、冷たい白い霧が漏れた。


セレスが顔を険しくする。


「低温保存……」


ノアは車両の中を見て、息を呑んだ。


そこには、簡易培養槽が並んでいた。


横たえられた人々。


結晶化した腕。


青白く光る胸元。


管に繋がれた身体。


グランヴェイルの住民たちだった。


ノアは震えながら一歩入る。


「カイルさん……」


彼は奥の槽へ駆け寄る。


そこに、先ほど地下で見た鉱山労働者の男がいた。


まだ生きている。


微かに胸が動いている。


セレスがすぐに状態を確認する。


「脈があります。移送中の衝撃で装置が不安定になっていますが、まだ処置できます」


イリスが車両内の制御盤を見る。


「九人いる。記録と一致」


ノアの耳が動く。


「一人、声がする」


「どこ?」


「奥。右の槽」


セレスが駆け寄る。


そこには、若い女性が横たわっていた。


目がわずかに開いている。


唇が動く。


「……ノア……?」


ノアの顔が変わった。


「ミナ姉……!」


女性は弱く微笑もうとした。


だが、顔の右半分には結晶が浮かんでいる。


「生きて……た……」


ノアは槽に手を当てる。


「うん。生きてる。兄ちゃんが逃がしてくれた」


女性の目に涙が浮かぶ。


「ユアンは……?」


ノアの喉が詰まる。


言えない。


すぐには言えなかった。


セレスが静かに女性の状態を診る。


「今は話しすぎないでください。必ず助けます」


女性は目だけで頷いた。


ノアは歯を食いしばる。


「助ける。絶対に」


イリスが制御盤から顔を上げる。


「全員をここから降ろすには時間がかかる。しかも追手が来る」


レイラが車両の外から叫ぶ。


「その追手、もう来てるぞ!」


灰雪の向こう。


グランヴェイルの方から、新たな青白い光が近付いていた。


結晶兵。


数は十以上。


さらにその後方に、黒い翼の兵もいる。


列車停止は成功した。


だが、黒い翼は被験体を奪い返しに来る。


ヴェスパーは車両の前に立った。


「ここで迎える」


セレスが叫ぶ。


「車両に衝撃を与えないでください!」


「分かっている」


レイラが隣に立つ。


「また難しい注文だな」


イリスが車両内から言う。


「救護車両を探す時間がいる。ノア、さっき言ってたやつ、どこ?」


ノアは耳を澄ませる。


「この線路の先。壊れた車庫の中。車輪の音が……残ってる」


「よし、そこへ運ぶ」


「でも、線路が途中で埋まってる」


「なら掘るか、押すか、壊す」


レイラが外で笑う。


「そういうのは任せろ!」


アステルが信号所から出てきた。


セレスが止めようとする。


「アステルさん」


「もう少しだけなら、動けます」


「無理は――」


「無理はしません」


アステルは静かに言った。


「でも、守りたいです」


セレスは一瞬だけ黙る。


それから、短く頷いた。


「三分だけです」


「はい」


アステルは車両の側へ立ち、周囲に薄い重圧の壁を作った。


敵を潰すためではない。


車両を守るため。


銃弾や破片の軌道をずらし、衝撃を外へ流す。


第一章の時とは違う。


塔に繋がれていた術式ではない。


自分の意思で、大切なものを守る術式。


ノアはそれを見て、少しだけ目を見開いた。


「すごい……」


アステルは苦しそうにしながらも微笑んだ。


「長くは、できません」


「でも、すごいよ」


その言葉に、アステルの表情が少しだけ柔らかくなった。


結晶兵たちが近付いてくる。


雪を踏み砕き、線路を越え、貨物車両へ向かって一直線に。


狙いは被験体の奪還。


あるいは、証拠隠滅。


「レイラ、左」


「任せろ!」


「イリス、後ろから援護」


「了解」


「アステルは車両を守れ」


「はい」


「セレスは処置を続けてくれ」


「もちろんです」


「ノア」


ヴェスパーが呼ぶ。


ノアは振り返る。


「中の人たちの声を聞け。苦しそうな人、装置が壊れそうな人をセレスに伝えるんだ」


ノアは強く頷いた。


「分かった!」


結晶兵が突っ込んでくる。


ヴェスパーは正面へ出た。


熱を上げすぎるな。


怒りを使うな。


仲間の動きを読む。


敵の核を読む。


最短で、静かに止める。


「行くぞ」


レイラが吠えた。


「おう!」


戦いが始まった。


レイラは左側の結晶兵二体をまとめて受け止める。


戦斧の柄で一体の膝を砕き、もう一体の腕を弾く。


「セレス! 核!」


「一体目は胸部左、二体目は首の下です!」


「了解!」


レイラの斧が唸る。


ただ破壊するだけではない。


核を狙い、被験者だった身体を必要以上に傷つけないように。


怒りを力にしながらも、力任せではない一撃。


イリスは車両の上に上がり、銃で結晶兵の足を止める。


「ヴェスパー、右のやつ速い!」


「見えている」


ヴェスパーは最小限の蜃気楼で敵の狙いをずらす。


結晶兵の刃が空を切る。


その隙に、核だけを断つ。


一体。


二体。


三体。


だが、敵はまだ来る。


黒い翼の兵が後方から銃を構えた。


アステルの重圧壁が銃弾を逸らす。


弾丸は車両を外れ、雪の中へ消えた。


アステルの膝が震える。


「まだ……」


セレスが車両内から叫ぶ。


「アステルさん、あと一分!」


「はい……!」


ノアは車両内を走り回っていた。


「右奥の槽、音が変!」


セレスがすぐに向かう。


装置の圧が下がっている。


「管が外れかけています。押さえてください」


ノアは小さな手で管を押さえる。


「こう?」


「はい。そのまま」


「この人、助かる?」


セレスは一瞬だけ黙り、それから答えた。


「助けます」


ノアは頷く。


「うん!」


外では、ヴェスパーが最後の大型結晶兵と対峙していた。


大きな腕。


厚い装甲。


胸元に黒い翼の紋章。


そして、背中に小さな装置。


イリスが叫ぶ。


「そいつ、爆薬積んでる!」


「証拠隠滅か」


大型結晶兵は貨物車両へ向かって突進する。


自爆する気だ。


レイラが間に入ろうとするが、他の結晶兵に足止めされている。


アステルも限界が近い。


ヴェスパーは走った。


怒るな。


熱を上げるな。


だが、間に合わない。


大型結晶兵が車両へ迫る。


その時、ノアの声が車両内から響いた。


「右足の音がおかしい! 右足、壊れかけてる!」


ヴェスパーは即座に反応した。


大型結晶兵の右足。


膝の下に小さな亀裂。


そこを狙う。


ヴェスパーの姿が灰雪の中で揺れる。


一瞬だけの蜃気楼。


敵の目が左へ逸れる。


本体は右足へ。


剣が走る。


右膝が砕け、大型結晶兵が崩れた。


だが、背中の装置が赤く点滅する。


爆発まで数秒。


「レイラ!」


ヴェスパーが叫ぶ。


レイラは最後の結晶兵を蹴り飛ばし、走った。


「おおおっ!」


戦斧の柄を大型結晶兵の胴に引っかけ、全力で車両から引き離す。


アステルが残った力で重圧を横へ流す。


大型結晶兵の身体が線路脇へ滑る。


イリスが爆薬装置を撃つ。


「爆発方向、ずらした!」


次の瞬間、轟音が響いた。


爆風が灰雪を巻き上げる。


アステルの重圧壁が車両を守る。


だが、衝撃は完全には消せない。


車両が大きく揺れる。


ノアが倒れかけた管を必死に押さえる。


「まだ……!」


セレスが彼を支える。


「よく押さえました!」


爆風が収まる。


貨物車両は無事だった。


アステルはその場に膝をつき、肩で息をしている。


レイラも雪の上に片膝をついた。


「今のは……危なかったな」


ヴェスパーは剣を下ろす。


「ノアが気付かなければ間に合わなかった」


ノアは車両の中から顔を出した。


「僕?」


「ああ」


レイラが親指を立てる。


「大手柄だ」


ノアの顔が少し赤くなる。


「……たまたま聞こえただけ」


イリスが笑った。


「その“たまたま”で皆助かったんだよ」


ノアは俯いた。


けれど、その耳は嬉しそうに少しだけ動いていた。


戦闘が終わっても、休む時間はなかった。


黒い翼の増援が来る前に、被験者たちを移さなければならない。


ノアの案内で、信号所の北側にある古い救護車両庫へ向かう。


レイラが埋まった線路を掘り起こし、イリスが古い車両の制御を確認する。


セレスは一人ずつ状態を見て、搬送できる順に指示を出す。


アステルは座って休みながら、軽い荷物だけを手伝う。


ヴェスパーは周囲を警戒していた。


ノアは車両と信号所の間を何度も走った。


疲れている。


怖い。


それでも、足を止めない。


「次、ミナ姉を運ぶ!」


「ゆっくりです」


セレスが言う。


「揺らさないように」


「うん!」


ミナと呼ばれた女性は、意識が薄いままノアを見る。


「ノア……大きく、なったね……」


ノアは涙をこらえる。


「そんなに変わってないよ」


「強く……なった」


ノアは答えられなかった。


ただ、彼女の手を握った。


救護車両は古く、完全ではなかった。


だが、応急搬送には使える。


イリスが端末を接続し、なんとか動力を通す。


「動くよ。ただし、速度は出せない」


「どこへ運ぶ?」


レイラが聞く。


セレスが答える。


「一度、鳴き谷近くの安全な場所へ。そこから灰都へ連絡を送ります」


イリスが頷く。


「私の通信機で診療所に連絡する。護衛と搬送隊を呼べるはず」


ノアが不安そうに聞く。


「黒い翼に見つからない?」


「見つからないようにする」


イリスは笑った。


「情報屋の仕事だからね」


ヴェスパーは北の線路を見た。


本来、列車が向かうはずだった先。


北部坑道深層。


第一研究区画。


そこに、ガルムがいるかもしれない。


だが、今は追わない。


今は助けた人々を守る。


それが、ガルムの言葉だった。


そして、自分の選択でもあった。


レイラが隣に来る。


「行きたいんだろ」


「ああ」


「でも行かない」


「ああ」


レイラは笑った。


「いい判断だ」


「合理的判断だ」


「それ、便利だけどさ」


レイラは少しだけ真面目な顔になる。


「今回は、ちゃんとお前の判断だと思うぞ」


ヴェスパーは何も言わなかった。


ただ、北の線路から視線を戻した。


救護車両へ。


仲間たちへ。


ノアへ。


助けた人々へ。


黒い翼は、師を追うか仲間を守るかを選ばせようとしている。


ならば、その選択そのものを壊す。


師も追う。


仲間も守る。


そのために、一人ではなく皆で進む。


救護車両が動き出す頃、空は暗くなり始めていた。


灰雪の中、古い車両がゆっくりと線路を進む。


中には九人の生存者。


セレスが処置を続け、ノアが耳で異常音を聞き分ける。


アステルは窓のそばで休みながら、外の気配を見ている。


イリスは通信機を調整し、灰都へ暗号通信を飛ばした。


レイラは車両の後方で戦斧を持ち、追手に備える。


ヴェスパーは先頭に立ち、白い荒野を見ていた。


その時。


通信機に、ノイズが走った。


イリスが眉をひそめる。


「何?」


通信ではない。


割り込み。


黒い翼の信号。


車両の古い投影機が勝手に起動する。


空中に青白い映像が浮かんだ。


白銀の髪。


細い眼鏡。


黒い翼の紋章が入った白い研究衣。


オルディス。


映像の中の男は、穏やかに微笑んでいた。


『見事です、黒陽炎の弟子』


ヴェスパーの目が鋭くなる。


レイラが戦斧を構える。


「こいつ……!」


オルディスは静かに続けた。


『師を追わず、被験体を救う選択をした。実に興味深い反応です』


セレスの声が冷える。


「人命救助を実験のように語らないでください」


映像のオルディスは、彼女を見たように微笑む。


『医療術師セレス。あなたの判断も有用です。器計画において、安定化役として興味深い』


レイラが怒鳴る。


「黙れ!」


『前衛個体レイラ。高い筋力、熱耐性、感情反応。実戦データとして良好』


イリスが端末を操作する。


「発信源を逆探知する」


『情報屋イリス。解析速度は予想以上。ですが、その端末では私には届きません』


イリスの画面が一瞬で黒く染まる。


「……性格悪いね」


オルディスの視線が、最後にアステルへ向く。


『重圧術式核アステル。やはりあなたは、まだ不完全ながら美しい術式を扱う』


アステルの顔が青ざめる。


ノアが彼女の前に立つように一歩出た。


小さな身体で、映像から守ろうとするように。


オルディスはそれを見て、わずかに目を細めた。


『そして、ノア・リッツ。よく戻ってきました。あなたの聴覚適性も、まだ利用価値があります』


ノアの身体が震える。


ヴェスパーが前へ出た。


「黙れ」


低い声。


映像のオルディスは微笑みを深めた。


『怒りを抑えていますね。素晴らしい。模造体との交戦で学習したようだ』


「お前はどこにいる」


『それを知りたいなら、北へ来なさい』


「ガルムはそこか」


オルディスは一瞬、間を置いた。


『素体G-00は、まだ完全には壊れていません』


ヴェスパーの瞳が揺れる。


まだ。


完全には。


つまり、生きている。


だが、その言い方はあまりにも冷たかった。


オルディスは続ける。


『ですが急いだ方がいい。黒陽炎因子は不安定です。師を救いたいなら、北部坑道深層へ』


レイラが叫ぶ。


「罠だろうが!」


『もちろん』


オルディスは平然と言った。


『ですが、来るでしょう?』


ヴェスパーは黙った。


オルディスの言葉は続く。


『次の選択負荷を用意しています。師か、仲間か。どちらを選ぶか楽しみにしています』


ヴェスパーは剣を握る。


だが、熱は上げない。


静かに。


冷たく。


彼は言った。


「選ばない」


オルディスの表情が、ほんのわずかに変わった。


「師も追う。仲間も守る。お前の用意した選択には乗らない」


沈黙。


映像の向こうで、オルディスが初めて興味深そうに目を細めた。


『……面白い』


映像が乱れる。


『では、その答えがどこまで保つか見せてください』


通信が切れた。


車両の中に静寂が戻る。


灰雪の音だけが窓の外で響いている。


ノアは小さく震えていた。


アステルが彼の肩に手を置く。


「大丈夫です」


ノアは首を横に振る。


「怖い。でも……」


彼はヴェスパーを見る。


「僕も、選ばせられるの嫌だ」


ヴェスパーは頷いた。


「なら、壊しに行く」


レイラが笑う。


「いいね。分かりやすい」


セレスは救護車両の中の人々を見回す。


「まず、この人たちを安全な場所へ」


イリスは端末を再起動しながら言った。


「その後、北部坑道深層の入口を探す」


アステルも静かに頷く。


「今度は、準備して行きましょう」


ヴェスパーは北の闇を見た。


そこに、ガルムがいる。


オルディスがいる。


黒い翼の器計画がある。


そして、選択を強いる敵が待っている。


灰雪の列車は、ゆっくりと荒野を進む。


助けた命を乗せて。


新たな決意を乗せて。


北の深淵へ続く道は、まだ閉ざされていない。

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