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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第7話 「黒陽炎の影」

黒い大剣が、坑道の空気を裂いた。


ヴェスパーは剣で受ける。


刃と刃がぶつかり、鈍い衝撃が腕から肩へ抜けた。


重い。


ただの力ではない。


黒い陽炎が刃にまとわりつき、視界を歪ませ、距離感を狂わせてくる。


目の前にいるはずの模造体が、半歩遠くに見える。


逆に、まだ間合いの外にあるはずの大剣が、喉元に迫っているように見える。


「目に頼るな」


ヴェスパーは小さく呟いた。


それは、かつてガルムから叩き込まれた言葉だった。


熱を読め。


呼吸を読め。


殺気ではなく、動く前の空気を読め。


模造体が大剣を引く。


次の一撃が来る。


ヴェスパーは横へ跳んだ。


直後、黒い刃が彼のいた場所を叩き割る。


床の結晶管が砕け、青白い液体が飛び散った。


イリスが叫ぶ。


「床の管を壊しすぎないで! 培養槽と繋がってる!」


「無茶言うな!」


レイラが模造体の側面へ回り込み、戦斧を振り下ろす。


だが、模造体は見ずに大剣の柄で受けた。


金属音。


レイラの腕が弾かれる。


「こいつ、後ろも見えてんのかよ!」


「熱で読んでる」


ヴェスパーが答える。


模造体の仮面の奥で、黒い炎のようなものが揺れる。


「黒陽炎……戦闘記録、再現」


壊れた声。


だが、その言葉の奥に、ガルムの影が混じっている気がした。


ヴェスパーの胸がざわつく。


違う。


これはガルムではない。


分かっている。


分かっているのに、身体が一瞬だけ迷う。


模造体の踏み込みが来た。


速い。


大剣が低く払われる。


ヴェスパーは受けきれず、後ろへ滑った。


脇腹に痛みが走る。


セレスが即座に声を上げた。


「ヴェスパーさん、傷が開きます!」


「まだ動ける」


「その返答は禁止です!」


レイラが前に出る。


「セレスに怒られてるぞ!」


「戦闘中だ」


「だからこそ聞け!」


レイラが模造体へ斬り込む。


大斧の一撃が、黒い陽炎を散らす。


だが模造体は体勢を崩しながらも、片手で大剣を振った。


レイラの肩を狙う一撃。


そこへアステルの重圧が落ちる。


模造体の腕がわずかに沈んだ。


斬撃の軌道が下がる。


レイラは間一髪でかわした。


「助かった!」


アステルは息を荒くしながら頷く。


「長くは……止められません」


セレスはアステルの腕を支えた。


「短く、必要な時だけ。それで十分です」


ノアは施設の端で、必死に耳を澄ませていた。


震える足。


握りしめた布包み。


その中には兄の木彫りの狼が入っている。


怖い。


逃げたい。


だが、ヴェスパーは言った。


お前の役目は逃げ道を探すことだと。


だからノアは、音を聞いた。


戦闘音。


培養槽の機械音。


結晶管を流れる液体の音。


遠くから近付いてくる結晶兵の足音。


そして、その奥に。


微かな風の音。


「……ある」


ノアが呟いた。


イリスが端末を操作しながら振り返る。


「何が?」


「逃げ道。右奥の壁の向こう、空洞がある。風が返ってくる」


「地図にはないよ」


「でも、音がある」


イリスは一瞬だけノアを見た。


それから笑った。


「信じる」


ノアの耳がぴくりと立った。


「右奥に古い排気坑があるかもしれない! でも壁で塞がれてる!」


イリスが叫ぶ。


ヴェスパーは模造体の大剣を受け流しながら答えた。


「そこを開けられるか」


「時間がいる!」


「作る」


模造体が再び踏み込んだ。


黒い陽炎が広がる。


坑道の空気が歪む。


青白い培養槽の光が、揺れて、伸びて、砕けて見える。


ヴェスパーの蜃気楼と似ている。


だが、違う。


ヴェスパーの蜃気楼は熱で視界をずらす。


黒陽炎は、視界そのものを焼く。


相手の目を欺くのではなく、世界の輪郭を壊す。


師の技。


その残骸。


その悪用。


ヴェスパーは奥歯を噛んだ。


「ガルムの技を……」


模造体が反応するように首を傾けた。


「ガルム……記録名、黒陽炎」


「名前を呼ぶな」


ヴェスパーの声が低くなる。


模造体は大剣を構える。


「弟子個体、反応上昇」


イリスが叫ぶ。


「怒らせて反応を引き出してる! 乗らないで!」


分かっている。


だが、胸の奥の熱は収まらない。


ガルムを素材にされた。


人を培養槽に入れられた。


ノアの兄を、結晶兵にされた。


それでも冷静でいろというのか。


ヴェスパーの周囲で熱が揺れた。


蜃気楼が生まれかける。


模造体の黒陽炎が、それに呼応する。


黒い熱と透明な熱が、地下施設の空気を歪ませた。


イリスの端末が警告音を鳴らす。


「まずい! 黒陽炎の再現率が上がってる!」


セレスが叫ぶ。


「ヴェスパーさん、能力を抑えてください!」


「抑えたら押し切られる」


「そのまま戦えば、相手を強くします!」


ヴェスパーは動きを止めない。


剣を受け、流し、かわす。


だが、模造体の動きが少しずつ変わっていく。


最初はぎこちなかった。


今は違う。


剣筋が滑らかになっている。


足運びが近付いている。


ガルムに。


あの男に。


ヴェスパーの記憶の中にいる師に。


「くそっ……!」


レイラが模造体の足元へ斧を叩き込む。


床が割れ、模造体の体勢が崩れた。


「ヴェスパー!」


レイラが叫ぶ。


「今見てるのは誰だ!」


ヴェスパーは息を呑む。


レイラの声が、黒い陽炎の歪みを突き破って届く。


「あれはガルムさんじゃない! お前を見てるのも、試してるのも、助けようとしてるのも、あれじゃない!」


模造体が大剣を振る。


レイラは戦斧で受ける。


膝が沈む。


「ぐっ……!」


アステルが重圧で支えようとするが、黒陽炎が視界を乱し、術式の焦点が定まらない。


「術式が……ずれる……!」


セレスがアステルの手を握る。


「焦点を敵に置かないでください」


「でも……」


「レイラさんの足元を支えるだけでいいです。敵を止めるのではなく、仲間を支える」


アステルの目が開く。


敵を止めるのではなく。


仲間を支える。


彼女は深く息を吸った。


重圧術式の向きを変える。


模造体ではなく、レイラの足元へ。


床に薄い術式の輪が広がる。


レイラの踏ん張る力が増した。


「おっ……いいぞ、アステル!」


レイラは歯を食いしばり、模造体の大剣を押し返した。


「おりゃあああ!」


戦斧が黒い刃を弾く。


模造体の胸元が一瞬開いた。


ヴェスパーはそこへ踏み込もうとした。


だが、セレスが叫ぶ。


「胸ではありません!」


ヴェスパーは止まる。


セレスの熱診が、模造体の内部を見ていた。


「核は胸ではない。右肩でもない。もっと奥……背骨に沿って複数あります」


「複数?」


イリスが顔をしかめる。


「最悪。ガルムさんの残滓を分散して入れてる」


模造体の背中から、黒い陽炎がさらに漏れる。


まるで背骨そのものが燃えているようだった。


セレスが続ける。


「一撃で止めるのは難しいです。核を順番に断つ必要があります」


レイラが短く笑う。


「つまり、何回もぶっ叩けってことだな」


「正確には違いますが、近いです」


「よし、分かりやすい」


ヴェスパーは呼吸を整えた。


怒りで押すな。


熱を使いすぎるな。


目に頼るな。


仲間を見ろ。


師の影ではなく、今ここにいる仲間を見る。


レイラが前で受ける。


アステルが支える。


セレスが核を読む。


イリスが制御と逃げ道を探す。


ノアが音を聞く。


一人で斬る必要はない。


「セレス、核の位置を順に言え」


「分かりました」


「レイラ、模造体の剣を止めろ」


「任せろ」


「アステル、レイラを支えろ」


「はい」


「イリス、背面装甲を削れるか」


「やるよ」


「ノア、逃げ道を探し続けろ」


ノアは力強く頷いた。


「うん!」


ヴェスパーは剣を構え直した。


模造体が動く。


黒い陽炎が再び広がる。


だが、今度は違う。


ヴェスパーはそれを正面から破ろうとはしなかった。


幻影も、大きくは出さない。


ほんのわずか。


刃先の熱。


足元の温度差。


呼吸の揺れ。


模造体に餌を与えない最小限の蜃気楼。


黒陽炎が反応しきれないほど小さなズレを作る。


「第一核、左肩甲骨下!」


セレスの声。


イリスの銃弾が背面装甲を撃つ。


火花が散る。


レイラが模造体の大剣を受け止める。


アステルの術式がレイラの足元を支える。


ヴェスパーが横へ抜ける。


刃が背中を走る。


青黒い光が一つ砕けた。


模造体が震える。


「損傷……再構成」


黒陽炎が膨らむ。


ヴェスパーは距離を取る。


乗るな。


追いすぎるな。


「第二核、腰椎右側!」


セレスが叫ぶ。


模造体が大剣を振り回す。


広範囲の一撃。


レイラが正面で受けるのは危険。


「伏せろ!」


ヴェスパーの声に、全員が反応する。


黒い大剣が頭上を通過し、培養槽の一つを掠めた。


透明な槽に亀裂が入る。


中の男の身体が揺れた。


セレスの顔が青ざめる。


「槽が壊れます!」


イリスが制御盤に飛びつく。


「維持圧を下げる! でも長くはもたない!」


ノアの耳が震える。


「右奥の壁、薄い! でも、その下に水の音がする!」


「排気坑じゃなくて排水路か」


イリスが叫ぶ。


「出口に繋がってる可能性は?」


「風もある! 外に繋がってる!」


「十分!」


レイラが模造体を押さえながら叫ぶ。


「壁は私が開ける!」


「その前に模造体を引き離す!」


ヴェスパーは模造体の前に出た。


あえて、自分を見せる。


模造体の仮面が彼を向く。


「弟子個体……優先回収」


「来い」


ヴェスパーは低く言った。


模造体が突進する。


黒陽炎が床を舐める。


ヴェスパーは蜃気楼を使わない。


目を閉じる。


熱を読む。


足音。


刃の軌道。


黒陽炎の揺れ。


ガルムの訓練が、身体の奥から蘇る。


――相手が強い時ほど、見るな。


――感じろ。


大剣が迫る。


ヴェスパーは半身でかわした。


刃が外套を掠める。


そのまま低く潜り、腰椎右側へ剣を突き込む。


第二核が砕けた。


模造体が大きく揺れる。


しかし、止まらない。


黒陽炎がさらに荒れる。


施設全体の光がちらついた。


培養槽の警告音が鳴り始める。


セレスが叫ぶ。


「これ以上ここで戦うと、培養槽がもちません!」


「脱出優先!」


イリスが制御盤から端末を引き抜く。


「データは一部抜いた! 全員、右奥へ!」


レイラが右奥の壁へ走る。


「どこだ、ノア!」


ノアは音を聞く。


戦闘音の中で。


警報音の中で。


自分の心臓の音の中で。


風の返る場所を探す。


「そこ! 黒い配管の下!」


「よし!」


レイラが戦斧を振りかぶる。


一撃。


壁に亀裂が入る。


二撃。


岩と金属板が砕ける。


三撃目で、壁の向こうから冷たい風が吹き込んだ。


「開いた!」


その奥には、狭い排水路が続いていた。


人一人がかがんで通れる程度の暗い通路。


ノアの言った通り、風がある。


外へ繋がっている。


「ノア、アステル、先に!」


セレスが指示する。


アステルはノアの手を取った。


ノアは一瞬ためらう。


培養槽を見た。


そこにはまだ生きている人たちがいる。


カイル。


街の人。


逃げることに罪悪感がある。


セレスが彼の肩に手を置いた。


「必ず戻ります」


ノアは顔を上げる。


「本当?」


「本当です。今ここで全員が倒れたら、誰も助けられません」


ノアは唇を噛み、頷いた。


「……分かった」


アステルとノアが排水路へ入る。


続いてセレス。


イリスが制御盤に小型装置を貼り付ける。


「培養槽の維持を最低限に落とした。しばらくはもつはず」


「しばらくって?」


レイラが聞く。


「長くはないって意味」


「分かりやすく最悪だな」


模造体が再び立ち上がる。


背中の二つの核を失っても、まだ動く。


黒い陽炎は弱まるどころか、不安定に暴れていた。


セレスが排水路の入口から叫ぶ。


「残る核は首の後ろです! そこを断てば停止するはずです!」


ヴェスパーは模造体を見た。


首の後ろ。


最もガルムらしい黒陽炎が漏れている場所。


そこに、残滓の中心がある。


「ヴェスパー!」


レイラが叫ぶ。


「一人で行くなよ!」


「ああ」


ヴェスパーは短く答えた。


その返事に、レイラは一瞬だけ笑った。


「ならいい」


レイラが正面から突っ込む。


戦斧が大剣とぶつかる。


重い衝撃。


だが、アステルはいない。


足元の支えはない。


レイラの膝が沈む。


「ぐっ……!」


そこへイリスのワイヤーが飛ぶ。


模造体の腕に絡みつき、横へ引く。


「長くは無理!」


「十分だ」


ヴェスパーは走った。


黒陽炎が視界を焼く。


目の前に、ガルムの背中が見えた。


訓練場。


砂漠。


焚き火。


黒い外套。


――死ぬな。


幻だ。


違う。


それは記録だ。


残滓が見せる影だ。


ヴェスパーは歯を食いしばった。


「お前は、ガルムじゃない」


模造体の仮面が振り返る。


「黒陽炎……」


「その名を、これ以上使うな」


ヴェスパーの身体が揺れた。


蜃気楼ではない。


黒陽炎に呑まれたわけでもない。


ほんの一瞬だけ、彼は自分の熱を消すように沈めた。


模造体が反応を見失う。


熱を追う敵なら、熱を消せばいい。


完全には無理だ。


だが、一瞬なら。


ヴェスパーは模造体の背後へ滑り込んだ。


首の後ろ。


黒い陽炎の中心。


そこへ剣を当てる。


「蜃気楼の牙」


静かな一閃。


刃が残る核を断った。


黒い陽炎が弾けた。


模造体の身体が硬直する。


大剣が床に落ちる。


重い音が、地下施設に響いた。


仮面の奥の黒い炎が、ゆっくりと消えていく。


そして、最後に。


壊れた声ではない、別の声が漏れた。


低く。


遠く。


記録の底から滲み出るような声。


「……ヴェスパー」


ヴェスパーの息が止まる。


レイラも、イリスも動きを止めた。


模造体は崩れ落ちながら、首をわずかに上げる。


「来るなと……言っただろうが」


それは、ガルムの声だった。


完全ではない。


歪んでいる。


だが、確かにガルムの声だった。


ヴェスパーは剣を握ったまま、立ち尽くす。


「ガルム……?」


模造体の仮面に亀裂が走る。


黒い陽炎の残滓が、空気の中へ薄く広がった。


その揺らぎの中に、短い映像が浮かぶ。


黒い翼の地下施設。


拘束されたガルム。


血に濡れた床。


仮面の男。


そして、巨大な影。


ドラグニル。


ガルムは鎖に繋がれたまま、笑っていた。


ひどく疲れた顔で。


それでも、眼だけは死んでいなかった。


――俺の残滓を使うなら、好きにしろ。


――だが、弟子には手を出すな。


仮面の男が言う。


――彼の熱がなければ器は完成しない。


ガルムの黒陽炎が膨れ上がる。


――なら、完成させる前に壊してやる。


映像が乱れる。


最後に、ガルムの顔がこちらを向いた。


まるで、今のヴェスパーを見ているように。


――ヴェスパー。


――俺を追うな。


一瞬、声が途切れる。


そして、続く。


――いや。


――追うなら、仲間を捨てるな。


映像が砕けた。


黒い陽炎が消える。


模造体は完全に動かなくなった。


地下施設には警報音だけが残った。


ヴェスパーは動けなかった。


胸の奥が熱い。


怒りなのか、悲しみなのか、分からない。


ガルムは生きていた。


少なくとも、あの時点では。


そして、黒い翼に囚われていた。


自分を守ろうとしていた。


今も、どこかで。


「ヴェスパー!」


レイラの声で、彼は現実に戻った。


施設の奥から結晶兵たちが迫っている。


培養槽の警告音も強くなっている。


イリスが叫ぶ。


「感傷は後! ここ崩れる!」


ヴェスパーは模造体の残骸を見る。


その首元に、小さな黒い金属片が残っていた。


ガルムの剣の鍔に似た欠片。


彼はそれを拾い上げる。


「行くぞ」


三人は排水路へ走った。


背後で、黒い翼の施設が揺れ始める。


培養槽の青白い光がちらつく。


ノアの知る人々を置いていくことになる。


だが、終わりではない。


戻る。


必ず。


ヴェスパーはそう心に刻んだ。


排水路へ飛び込む直前、彼はもう一度だけ施設を振り返った。


青白い光。


黒い残滓。


人を素材にする黒い翼の実験場。


そして、ガルムの声。


――追うなら、仲間を捨てるな。


ヴェスパーは剣を握り直した。


「分かっている」


今度は、一人で走らない。


そう決めた。


排水路の中は狭く、冷たかった。


足元には凍りかけた水が流れ、壁には結晶が薄く張り付いている。


前を行くノアが耳を澄ませながら道を選ぶ。


「左は水が深い。右、風が強い」


「右だ!」


レイラが後ろから叫ぶ。


背後では、結晶兵の足音が排水路に入り込もうとしていた。


だが、通路が狭すぎて大型の個体は入れない。


それでも小型の結晶兵が追ってくる。


イリスが後方に小型爆薬を投げた。


「伏せて!」


爆発。


壁が崩れ、通路の一部が塞がる。


追跡の足音が遠のいた。


セレスが走りながらノアに声をかける。


「あとどれくらいですか!」


「もう少し! 風が冷たい、外に近い!」


アステルは息を切らしながらも、ノアの手を離さない。


「大丈夫です」


ノアが言う。


「僕が、道を聞く」


アステルは頷いた。


「はい。お願いします」


その言葉に、ノアの目が少しだけ強くなった。


やがて前方に、薄い白い光が見えた。


出口。


レイラが笑う。


「見えたぞ!」


六人は排水路を抜け、外へ飛び出した。


そこはグランヴェイルの北側にある、崩れた排水口だった。


白い荒野の風が吹きつける。


遠くには黒い山脈。


背後には廃坑都市。


そして、その地下から低い振動が響いている。


黒い翼の施設が、一部崩れ始めていた。


ノアは街の方を振り返る。


「カイルさんたち……」


セレスが隣に立つ。


「生体維持はすぐには止まりません。イリスさんが時間を稼ぎました」


イリスが頷く。


「完全救出には準備がいる。人数も、機材も、薬もね」


ノアは拳を握った。


「戻るんだよね」


ヴェスパーが答える。


「ああ」


「約束?」


「ああ。約束だ」


ノアは泣きそうな顔で、でも今度は泣かなかった。


「じゃあ、僕も手伝う」


レイラがにっと笑う。


「頼りにしてるぞ、案内役」


ノアは少し照れたように俯いた。


アステルはそんな彼を見て、静かに微笑んだ。


ヴェスパーは手の中の黒い金属片を見る。


そこには、わずかに黒い熱が残っている。


ガルムの残滓。


模造体は倒した。


だが、真実はまだ遠い。


黒い翼の器。


黒陽炎因子。


重圧術式核。


竜熱耐性。


そして、ガルム本人。


すべてが繋がり始めている。


その時、遠くの空で黒い影が動いた。


巨大な翼のような影。


一瞬だけ、灰色の雲の向こうに青い光が見えた。


ドラグニル。


姿ははっきり見えない。


だが、確かに見られている。


ヴェスパーは北の空を睨んだ。


イリスも気付いたらしく、低く言う。


「向こうも、こっちの動きを見てるね」


レイラが戦斧を握る。


「来るか?」


「今は来ない」


ヴェスパーは言った。


「見ているだけだ」


セレスが静かに言う。


「次は、もっと大きく動くでしょう」


アステルは胸元に手を当てた。


「器……黒い翼は、何を作ろうとしているのでしょうか」


誰も答えられなかった。


白い荒野に、冷たい風が吹く。


廃坑都市グランヴェイルは、沈黙したままそこにある。


だが、その地下で見たものは、確かに彼らの進む道を変えた。


ヴェスパーは黒い金属片を握りしめる。


ガルムの声が、まだ耳に残っていた。


――追うなら、仲間を捨てるな。


彼は振り返る。


レイラ。


イリス。


セレス。


アステル。


ノア。


全員がそこにいる。


傷つき、疲れ、それでも立っている。


ヴェスパーは短く息を吐いた。


「一度、体勢を立て直す」


レイラが頷く。


「珍しく冷静だな」


「合理的判断だ」


イリスが笑う。


「それ、気に入ってるでしょ」


ヴェスパーは答えなかった。


ただ、廃坑都市を見つめた。


ここで終わりではない。


むしろ、始まりだった。


黒陽炎の影は消えた。


だが、その奥にいる本当の敵は、まだ姿を見せていない。

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