第2章 第5話 「廃坑都市グランヴェイル」
夜が明けても、空は白く濁っていた。
灰と雪が混ざった雲が低く垂れ込め、太陽の光は薄い布越しの灯りのように弱い。
野営地の火は、朝の風に煽られて小さく揺れていた。
ノアは、火の前で膝を抱えて座っていた。
眠れなかったのだろう。
大きな耳は時折ぴくりと動き、遠くの音を拾っている。
視線の先には、白い荒野の向こうに沈むように佇む廃坑都市があった。
グランヴェイル。
かつて鉱石採掘で栄えた北の都市。
今は灰と雪と結晶に覆われた、死んだ街。
「……本当に行くのか」
ノアが小さく言った。
誰に向けた言葉か分からなかった。
自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
ヴェスパーは剣の手入れを終え、鞘へ戻した。
「ああ」
ノアは唇を噛む。
「戻ったら、もう逃げられないかもしれない」
「なら、逃げ道を作ってから入る」
イリスが端末を持ち上げた。
「南側の旧搬入口と、東側の排気坑道。この二つは外へ抜けられる可能性がある。先に確認しておくよ」
レイラが戦斧を肩に担ぐ。
「正面から突っ込まないのか?」
「突っ込む理由がない」
ヴェスパーが答える。
レイラは少し驚いた顔をした。
「成長したなぁ」
「合理的判断だ」
「それ、まだ使うのか」
セレスはアステルの体温を確認していた。
「アステルさん、今日は術式の使用を最小限にしてください」
「はい」
「ノア君も、無理に先行しないでください」
ノアは少しだけ警戒した顔でセレスを見る。
「僕は大丈夫」
「大丈夫かどうかは、確認してから判断します」
「……」
ノアは黙った。
レイラが小声で笑う。
「逆らわない方がいいぞ」
「なんで」
「医者だからだ」
ノアはよく分からないという顔をしたが、セレスの真面目な目を見て、最後には小さく頷いた。
「……分かった」
アステルがその様子を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。
「私も、最初はそう言われました」
「アステルも?」
「はい。大丈夫ではない時に、大丈夫と言ってはいけないそうです」
ノアは視線を落とす。
「……そう」
その返事は小さかった。
けれど、拒絶ではなかった。
ヴェスパーは立ち上がり、白い荒野の先を見た。
グランヴェイルの影。
崩れた建物。
傾いた鉱山支柱。
その奥にある地下坑道。
黒い翼。
器。
黒陽炎。
ガルムの痕跡は、確かに近付いている。
「行くぞ」
五人と一人は、灰雪の荒野を歩き出した。
グランヴェイルの外壁は、半分以上が崩れていた。
かつては鉱山都市を守る堅牢な壁だったのだろう。
黒い石材と鉄骨で組まれた城壁は、今では無数の亀裂を抱え、その隙間から青白い結晶が花のように突き出している。
門は開いていた。
いや、壊されていた。
巨大な鉄扉は片方が外れ、雪に埋もれるように倒れている。
もう片方は斜めに歪み、風が吹くたびに低い音を立てていた。
ぎい。
ぎい。
その音が、死んだ街の入口で彼らを迎えた。
レイラが息を吐く。
「……暗い街だな」
イリスは端末で周囲を確認する。
「熱反応は少ない。でも、完全に無人じゃない」
ノアが小さく言った。
「地下にいる」
「生き残りか?」
ヴェスパーが問う。
ノアは少し迷ってから頷いた。
「何人かは、まだ隠れてると思う。でも、街の中で大きな音を出したら黒い翼に見つかる」
「黒い翼はどこにいる」
「中央鉱区の下。昔の主坑道。その奥に、研究施設がある」
ノアの声が震える。
それでも、彼は逃げなかった。
ヴェスパーは門の内側へ視線を向けた。
「案内できるか」
ノアは深く息を吸った。
「できる」
六人は壊れた門をくぐった。
街の中は、時間が止まっているようだった。
雪と灰に覆われた石畳。
倒れた街灯。
半壊した家屋。
窓ガラスは割れ、扉は開いたまま凍りついている。
道の端には、鉱山用の小型車両がいくつも放置されていた。
荷台には鉱石が積まれたままになっている。
誰かが、仕事の途中でその場から消えたようだった。
しかし、街を最も不気味にしているのは、結晶だった。
家の壁。
井戸の縁。
道路の亀裂。
人の形をしたもの。
それらのあちこちに、青白い結晶が生えている。
レイラが足を止めた。
彼女の視線の先には、広場の中央に立つ結晶像があった。
人間の女性の形をしている。
腕には、小さな子どもを抱いていた。
二人とも、青白い結晶に覆われている。
表情は見えない。
だが、抱きしめる形だけが残っていた。
「……住民か」
レイラの声は低かった。
セレスは目を伏せる。
「結晶化が一気に進行したのでしょう」
イリスが周囲の結晶を記録する。
「自然発生だけじゃない。広場の周囲に術式装置の跡がある」
「黒い翼か」
ヴェスパーが言う。
「たぶんね。街全体を実験場にした可能性がある」
ノアはその像を見ないようにしていた。
だが、視線を逸らしても、肩が震えているのが分かった。
アステルが彼の隣に立つ。
「知っている人ですか」
ノアは小さく頷いた。
「パン屋のおばさんと、その子」
アステルは何も言えなかった。
慰めの言葉が、簡単には出てこない。
ノアは唇を噛む。
「みんな、普通に生きてたんだ。朝になったら店を開けて、鉱山へ行って、夜は広場で火を囲んで……」
彼の声が細くなる。
「なのに、黒い翼が来てから、全部変わった」
セレスが静かに言った。
「記録します」
ノアは彼女を見る。
「何を」
「ここで起きたことを。なかったことにされないように」
ノアの目が揺れた。
「……そんなこと、できるの?」
「少なくとも、忘れないことはできます」
セレスの言葉は静かだった。
だが、その静けさの中に強い意志があった。
ノアは少しだけ俯き、それから小さく頷いた。
「うん」
ノアは中央通りを避け、細い裏路地を選んだ。
「大通りはだめ。見張りがいる時がある」
「見張り?」
イリスが聞く。
「黒い翼の人。あと、結晶兵」
「今も巡回してるのか」
「うん。でも音で分かる」
ノアの大きな耳がぴくりと動く。
「重い足音は結晶兵。軽くて規則的なのは黒い翼の兵。変な金属音が混じるのは、改造されたやつ」
レイラが感心したように言う。
「すごいな、お前」
ノアは少しだけ肩を縮める。
「すごくない。これができないと死ぬから」
その言葉に、レイラは返す言葉を失った。
ヴェスパーはノアの背中を見た。
小さい。
けれど、彼はこの街で生き延びてきた。
恐怖を知っている。
逃げ方を知っている。
足音の意味を知っている。
それは弱さではない。
生き残るための力だ。
「ノア」
「何」
「お前の耳は、この街で一番役に立つ」
ノアは振り返った。
驚いたような顔だった。
「……そうかな」
「ああ」
ノアは視線を逸らす。
「……じゃあ、ちゃんと聞く」
その声は少しだけ強くなっていた。
裏路地を抜けると、小さな住宅区画へ出た。
ノアはそこで足を止めた。
一軒の家。
屋根は半分崩れ、扉には古い鉱山札が掛かっている。
ノアはしばらくその家を見つめていた。
誰も急かさなかった。
やがて彼は、ぽつりと言った。
「僕の家」
風が吹いた。
壊れた扉が小さく揺れる。
ノアは布包みを抱きしめる。
「兄ちゃんと、父さんと、母さんと住んでた」
セレスが静かに言う。
「入りたいですか」
ノアは首を横に振ろうとした。
だが、途中で止まった。
そして、小さく頷いた。
「少しだけ」
ヴェスパーは周囲を確認する。
「俺とレイラが外を見る。イリス、罠を確認。セレスとアステルはノアと一緒に」
「了解」
イリスは扉の周囲を調べる。
「罠はなさそう。古い鍵だけ」
ノアは腰の鉱山札から小さな鍵を取り出した。
震える手で鍵穴へ差し込む。
かちり、と音がした。
扉が開く。
中は冷え切っていた。
食卓。
古い椅子。
壁に掛けられた作業用の上着。
棚には、使いかけの食器がそのまま残っている。
まるで、家族がすぐに帰ってくるのを待っているようだった。
ノアは奥の部屋へ向かった。
そこには、小さな寝台が二つ並んでいた。
片方はノアのもの。
もう片方は、兄のものだろう。
枕元に、小さな木彫りの狼が置かれていた。
ノアはそれを手に取る。
「兄ちゃんが作った」
アステルがそっと見る。
「上手ですね」
「下手だよ。耳の形、変だし」
そう言いながらも、ノアの声は柔らかかった。
セレスは何も言わず、部屋の入口に立っている。
ノアは木彫りを布包みに入れた。
「持っていくのか」
アステルが聞く。
ノアは頷く。
「うん。置いていけない」
「はい」
アステルは静かに頷いた。
「大切なものは、持っていていいと思います」
ノアはアステルを見た。
彼女の髪に留められた青紫の髪留めが、薄暗い部屋で小さく光っている。
ノアはそれを見て、少しだけ納得したように頷いた。
「うん」
家を出た時、ヴェスパーは屋根の上の影に気付いた。
一瞬。
灰色の布が揺れた。
黒い翼ではない。
だが、誰かがこちらを見ている。
ヴェスパーは剣へ手を伸ばす。
「待って」
ノアが小声で言った。
「あれは、たぶん生き残り」
「知り合いか」
「分からない。でも、黒い翼なら隠れ方が違う」
イリスが小さく笑う。
「いい観察眼だね」
ノアは少しだけ眉をひそめた。
「褒めても何も出ない」
「出なくていいよ」
屋根の影はすぐに消えた。
こちらに近付く気はないらしい。
セレスが周囲を見回す。
「生き残りがいるなら、探した方が」
ノアは首を横に振る。
「今は無理。知らない大人が来たら、みんな逃げる」
「そうですね」
セレスは苦しそうに頷いた。
「まず黒い翼の施設を止めることが先です」
ヴェスパーは中央鉱区の方角を見る。
街の奥。
鉱山へ続く巨大な巻き上げ塔が見える。
その下に、主坑道の入口があるはずだ。
「中央鉱区へ向かう」
ノアは頷いた。
「こっち」
中央鉱区は、街の中でも特に荒れていた。
鉱石を運ぶための線路が雪に埋もれ、巨大な滑車やクレーンが折れたまま放置されている。
鉱山労働者の詰所は焼け落ち、壁には黒い翼の紋章が赤黒く描かれていた。
レイラの目が鋭くなる。
「胸糞悪いな」
「わざと見せてる」
イリスが言う。
「恐怖で支配するための印だね」
ノアはその紋章を睨んだ。
「みんな、あれを見ると黙るようになった」
「今は?」
「今は、腹が立つ」
レイラはにっと笑った。
「いい反応だ」
セレスが即座に言う。
「怒りで突っ走らないように」
「私に言った?」
「全員にです」
レイラは素直に黙った。
主坑道の入口は、巨大な黒い穴だった。
山肌をくり抜くように作られた坑道。
入口の左右には、古い鉱山灯が並んでいる。
そのうちのいくつかは、まだ青白く光っていた。
黒い翼が動力を通している。
中にいる。
ヴェスパーは坑道の入口へ近付いた。
その瞬間、彼の足が止まった。
熱がある。
古い熱。
黒く焼けたような、視界の奥に残る熱。
「……ガルム」
彼は低く呟いた。
レイラが振り返る。
「痕跡か?」
ヴェスパーは坑道入口の壁を見た。
そこには、普通なら見逃してしまうほど薄い焦げ跡があった。
炎で焼けた跡ではない。
煤もない。
ただ、岩の表面が黒く滲み、視界がわずかに歪む。
黒陽炎の痕。
ガルムの術式が通った証。
ヴェスパーは指先を近付ける。
触れる直前、視界に一瞬だけ幻が走った。
黒い外套。
大剣。
低い声。
――来るな。
ヴェスパーは目を細める。
「ここにいた」
イリスが端末で焦げ跡を記録する。
「かなり前?」
「分からない。だが、意図的に残した跡だ」
セレスが言う。
「警告でしょうか」
「おそらく」
ノアが坑道の奥を見た。
「黒い火は、この中で見た」
アステルは胸元を押さえる。
「奥に、重い術式があります」
「黒い翼の施設か」
ヴェスパーが言った。
「たぶん」
イリスは端末をしまい、小型ランタンを取り出した。
「ここから先は地下。地図も信用しすぎない方がいい」
レイラが戦斧を担ぐ。
「分かりやすくなってきたな」
「分かりやすいか?」
「中に敵がいる。倒して進む」
セレスがため息をつく。
「単純化しすぎです」
「でも間違ってないだろ?」
ヴェスパーは坑道の闇を見つめる。
その奥に、黒陽炎の残滓がある。
ガルムの真実に繋がるものがある。
そして、黒い翼の実験場がある。
「入るぞ」
ノアが小さく息を呑む。
アステルが彼の隣に立った。
「大丈夫です」
ノアは彼女を見る。
「怖くないの?」
アステルは少し考えた。
「怖いです」
「じゃあ、なんで」
「一人ではないので」
ノアは驚いたように目を開いた。
それから、小さく頷いた。
「……そっか」
六人は主坑道へ足を踏み入れた。
暗闇が、彼らを飲み込んでいく。
背後の白い荒野の光が、少しずつ遠ざかる。
前方には、青白い結晶の光。
そして、岩壁に残る黒い陽炎の跡。
地下の奥で、何かが待っている。
ガルムの影か。
黒い翼の罠か。
あるいは、その両方か。
ヴェスパーは剣の柄に触れた。
冷たい坑道の空気の中で、黒い熱だけが微かに揺れていた。




