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灰の星  作者: ウルフルマル


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第2章 第4話 「鳴き谷の子」

鳴き谷は、白い荒野の底に口を開けていた。


灰と雪に覆われた大地が裂け、細く深い谷となって北へ伸びている。


風が谷の中を通り抜けるたび、奇妙な音が響いた。


ひゅう。


ひゅう。


時に泣き声のように。


時に金属が擦れる音のように。


まるで、谷そのものが誰かの名を呼んでいるようだった。


「……嫌な音だな」


レイラが戦斧を担ぎ直しながら呟く。


白い息が口元から漏れた。


「風の音、だけじゃないね」


イリスは端末を片手に、谷の壁面を調べていた。


「岩の隙間に古い配管が通ってる。風がそこを抜けて音を出してるんだと思う。でも……」


「でも?」


セレスが聞く。


イリスは谷の奥へ視線を向ける。


「それとは別に、確かに足音がある」


アステルは目を閉じたまま、耳を澄ませていた。


青紫の髪留めが、冷たい風に小さく揺れる。


「軽い足音です。大人ではありません」


「子どもか」


ヴェスパーが言った。


アステルは頷く。


「でも、一人ではないかもしれません。追われているような……音が乱れています」


その言葉に、レイラの表情が変わった。


「急ぐぞ」


ヴェスパーは頷き、谷へ下りる道を探した。


崩れた斜面。


凍りついた岩。


雪の下に隠れた金属片。


足場は悪い。


だが、谷底へ続く細い獣道のような道があった。


いや、獣道ではない。


小さな足跡が残っている。


雪と灰の上に、浅く刻まれた足跡。


「新しい」


ヴェスパーはしゃがみ、指先で跡に触れた。


「かなり軽い。子どもだな」


「なら、ますます放っておけないな」


レイラが先に進もうとする。


ヴェスパーは手で制した。


「待て」


「何だよ」


「足跡が一つじゃない」


灰の上に残る足跡。


小さなもの。


それを追うように、別の跡がある。


大きい。


重い。


そして、地面を引きずったような傷。


イリスがそれを見て顔をしかめた。


「結晶兵の足跡に似てる」


「黒い翼か」


「可能性は高いね」


セレスは医療バッグの紐を握り直した。


「子どもが追われているなら、早く見つける必要があります」


「行くぞ」


ヴェスパーが立ち上がる。


五人は谷底へ下りた。



谷の中は、外よりもさらに寒かった。


白い壁に挟まれた細い道。


左右の岩肌には、青白い結晶が霜のように張り付いている。


ところどころに古代道路の残骸が埋もれ、鉄の梁や配管が谷壁から突き出していた。


風がそれらを鳴らす。


ひゅう。


ひゅう。


まるで泣いている。


「鳴き谷って名前、納得だな」


レイラが呟く。


イリスは周囲を見ながら言った。


「この谷、自然にできたものじゃないかも」


「どういうことだ」


ヴェスパーが聞く。


「大災厄の時に地面が裂けて、古代道路の地下施設が露出したんだと思う。ほら、壁の中に古い構造物がある」


イリスのランタンが岩壁を照らす。


確かに、灰色の岩の中に人工的な金属板が埋まっていた。


古代の標識らしきもの。


壊れた通路。


凍りついた制御盤。


白牙トンネルと繋がっていた施設の一部かもしれない。


「つまり、崩れた古代施設の中を歩いてるってことか」


レイラが嫌そうに言う。


「そういうこと」


「ますます嫌だな」


その時、アステルが足を止めた。


「近いです」


全員が黙る。


風の音の合間。


かすかに聞こえた。


小さな息遣い。


雪を踏む音。


そして、誰かが転ぶ音。


「こっちだ」


ヴェスパーは走り出した。


谷が曲がった先。


崩れた古代車両の陰。


そこに、小さな影があった。


白い防寒外套。


厚手のマント。


大きな耳。


青い飾りの付いたフード。


その子は、片手に小型ランタンを握りしめ、もう片方の腕で古い布包みを抱えていた。


年は十二か十三ほど。


雪と灰に汚れた顔には、強い警戒心が浮かんでいる。


「いた!」


レイラが声を上げる。


その瞬間、小さな影はびくりと震えた。


そして、反射的に逃げようとする。


「待て」


ヴェスパーが声をかける。


だが、子どもは止まらない。


壊れた車両の隙間へ身を滑り込ませようとした。


その時、谷の奥から重い足音が響いた。


ズン。


ズン。


ズン。


雪煙の向こうから、結晶化した獣が現れる。


いや、獣ではない。


人型。


だが背中が大きく曲がり、片腕だけが異常に膨れ上がっている。


顔の半分は青白い結晶に覆われ、胸元には黒い翼の紋章が焼き付いていた。


「追ってきたか!」


レイラが戦斧を構える。


子どもの顔が青ざめた。


「来るな……!」


その声はかすれていた。


「こっちに来るな!」


それはヴェスパーたちに向けた言葉ではなかった。


結晶兵へ向けた、怯えと怒りの混じった叫びだった。


結晶兵が腕を振り上げる。


狙いは、子ども。


ヴェスパーは踏み込んだ。


剣が結晶の腕を受け流す。


重い。


腕が痺れる。


だが、軌道は逸らした。


結晶の腕が古代車両を叩き、鉄の残骸が大きくへこんだ。


「レイラ!」


「分かってる!」


レイラが横から結晶兵の胴へ戦斧を叩き込む。


しかし、硬い。


結晶兵は数歩よろめいただけだった。


イリスが即座に銃を構える。


「セレス、核は?」


セレスは熱診で結晶兵を見た。


「胸部ではありません。右肩の奥です。子どもを追うために、脚部の術式が強化されています」


「趣味悪いな!」


イリスの銃弾が結晶兵の膝を撃つ。


一瞬、動きが鈍った。


だが、すぐに足を引きずりながら前へ出る。


アステルが震える手を上げた。


「止めます」


「短く」


セレスが支える。


「はい」


重圧が落ちる。


結晶兵の膨れ上がった腕が、地面へ沈むように下がった。


ヴェスパーはその隙に踏み込む。


だが、結晶兵は突然、頭部をこちらへ向けた。


その口から、かすれた声が漏れる。


「ノ……ア……」


子どもの顔が凍りついた。


「……やめて」


結晶兵の声は壊れている。


「ノア……回収……対象……」


「やめろ!」


子ども――ノアが叫んだ。


その声で、ヴェスパーは理解した。


これはただの追跡者ではない。


ノアを知っている。


あるいは、ノアの知っていた誰かだったもの。


レイラも気付いたらしく、表情が険しくなる。


「くそっ……!」


セレスが静かに言った。


「もう、助けることはできません」


その声は苦しかった。


「ですが、止めることはできます」


ヴェスパーは頷く。


「核を断つ」


ノアが叫ぶ。


「待って!」


ヴェスパーの剣が一瞬止まる。


ノアは震える声で言った。


「その人……その人は……」


結晶兵がまた動き出す。


アステルの重圧が解けかけていた。


ノアの目に涙が浮かぶ。


「僕の兄ちゃんなんだ!」


谷の風が、ひゅう、と鳴いた。


誰も何も言えなかった。


その一瞬を、結晶兵は逃さない。


巨腕が振るわれる。


ヴェスパーはノアを抱えて横へ跳んだ。


結晶の腕が地面を砕き、雪と灰が舞い上がる。


ノアはヴェスパーの腕の中で暴れた。


「離せ! 兄ちゃんを斬るな!」


「もう、お前を守れる状態じゃない」


ヴェスパーは低く言った。


「違う!」


「ノア」


セレスが近付く。


その声は優しかった。


「あなたのお兄さんは、今も苦しんでいます」


ノアの目が揺れる。


「そんなの……分かってる……!」


彼は布包みを抱きしめた。


「でも、僕だけ逃げたんだ……兄ちゃんは僕を逃がして……それで……!」


言葉が続かない。


アステルがその姿を見て、胸元を押さえた。


自分も同じだと思った。


黒い翼に利用され、誰かを傷つけたかもしれない。


自分だけ助けられていいのか。


何度もそう思った。


だから、ノアの痛みが少しだけ分かった。


「ノアさん」


アステルが声をかける。


ノアは彼女を見る。


アステルは震えながらも、まっすぐ言った。


「止めることは、見捨てることではありません」


ノアの唇が震える。


「でも……」


「苦しみを終わらせることも、守ることです」


その言葉に、セレスが静かに目を伏せた。


ヴェスパーはノアを下ろした。


「俺がやる」


ノアはヴェスパーの外套を掴んだ。


「痛く、しないで」


それは、子どもが絞り出した精一杯の願いだった。


ヴェスパーは静かに頷いた。


「分かった」


結晶兵が再び立ち上がる。


壊れた声で、ノアの名を呼びながら。


「ノア……ノア……」


レイラが前へ出た。


「動きを止める」


イリスが銃を構える。


「右肩の装甲、削るよ」


セレスが核の位置を見極める。


「肩の奥、やや背中側。そこを正確に」


アステルが手を上げる。


「一瞬だけ、重くします」


ヴェスパーは剣を下げた。


寒い谷。


少ない熱。


だが、そこにはノアの震える体温がある。


レイラの怒りの熱。


セレスの静かな祈り。


アステルの決意。


イリスの研ぎ澄まされた集中。


そして、自分の中に残る、黒陽炎の記憶。


ヴェスパーはそれらを感じ取りながら、一歩踏み出した。


レイラの戦斧が結晶兵の腕を弾く。


イリスの銃弾が右肩の装甲を砕く。


アステルの重圧が足元へ落ちる。


結晶兵の動きが止まる。


セレスが叫ぶ。


「今です!」


ヴェスパーの姿が、白い谷の風の中で揺れた。


一人。


二人。


三人。


幻影が結晶兵の周囲を回る。


だが、それは惑わせるためではない。


ノアに見せないためだった。


ヴェスパーの本体が、結晶兵の背後へ回る。


剣が青く、静かに揺れる。


「蜃気楼の牙」


刃が走った。


音はほとんどなかった。


核だけを断つ。


結晶兵の身体が大きく震えた。


そして、ゆっくりと膝をつく。


青白い光が消えていく。


結晶に覆われていた顔の一部が、ほんのわずかに崩れた。


そこから、人間の瞳が覗いた。


ほんの一瞬だけ。


壊れた声が、最後に言葉を作る。


「ノア……生き……」


それきり、結晶兵は動かなくなった。


ノアは立ち尽くしていた。


涙だけが、頬を伝って落ちる。


彼は声を出さなかった。


泣き叫ぶこともできなかった。


ただ、小さな身体で布包みを抱きしめ、兄だったものを見つめていた。


セレスがそっと近付き、彼の前に膝をついた。


「ノア君」


ノアは答えない。


セレスは無理に言葉を重ねなかった。


ただ、隣にいた。


アステルも静かにそばへ来る。


「……ごめんなさい」


ノアは震える声で言った。


「助けてくれたのに……僕、怒鳴って……」


アステルは首を横に振る。


「怒っていいと思います」


ノアは彼女を見る。


「悲しい時も、怖い時も、怒っていいと……教えてもらいました」


それは、セレスがアステルへ教えたことだった。


アステルはそれを、今度はノアへ渡していた。


ノアの顔が歪む。


「兄ちゃん……」


そこで初めて、彼は声を出して泣いた。


鳴き谷の風が、その泣き声をさらっていく。


ひゅう。


ひゅう。


谷が一緒に泣いているようだった。



しばらくして、ノアは少しだけ落ち着いた。


セレスが温かい飲み物を渡し、レイラが外套をかける。


ノアは警戒しながらも、それを拒まなかった。


近くで見れば、彼はかなり小柄だった。


大きな耳は寒さで赤くなり、白い防寒服はあちこち擦り切れている。


ベルトには小さなランタン、古い方位石、鉱山札のような金属片が下がっていた。


イリスが屈んで視線を合わせる。


「君がノア?」


ノアは小さく頷いた。


「……ノア。ノア・リッツ」


「グランヴェイルの子?」


その名を聞いた瞬間、ノアの目が鋭くなった。


「どうして知ってる」


「私たちはそこへ向かってる」


ノアは顔をこわばらせた。


「行っちゃだめだ」


ヴェスパーが聞く。


「なぜ」


「黒い翼がいる」


ノアは布包みを握りしめる。


「街の地下で、まだ何かしてる。連れていかれた人たちもいる。戻ってきた人は、みんな……ああなる」


彼は兄の亡骸へ視線を向けた。


レイラが静かに拳を握る。


「お前は逃げてきたのか?」


ノアは頷いた。


「兄ちゃんが、逃がしてくれた。鳴き谷を抜ければ白牙トンネルに出られるって……でも、追いつかれて……」


「それで、ここに」


セレスが言う。


ノアは俯いた。


イリスが地図を取り出す。


「グランヴェイルの地下施設の場所、分かる?」


ノアはすぐには答えなかった。


警戒している。


無理もない。


大人に裏切られ、黒い翼に追われ、兄を失ったばかりなのだ。


ヴェスパーは膝をつき、ノアと視線を合わせた。


「俺たちは黒い翼を追っている」


ノアは睨むように見る。


「信じろって言うの」


「無理に信じなくていい」


「じゃあ何で聞くの」


「助けたい者がいる」


ノアの目が揺れた。


「そこにいるかもしれない。俺の師匠だ」


「師匠……?」


「ああ」


ヴェスパーは手の中の焼けた布切れを見せた。


「黒陽炎と呼ばれた人だ」


ノアの表情が変わった。


「黒陽炎……」


イリスが反応する。


「知ってるの?」


ノアは小さく頷いた。


「地下で、黒い火を見た」


ヴェスパーの目が細くなる。


「どこで」


「坑道の一番奥。黒い翼の人たちが“器”って呼んでた場所」


空気が凍る。


器。


ガルムの残滓。


黒陽炎因子。


ヴェスパーは静かに聞いた。


「案内できるか」


ノアは震えた。


怖いのだ。


戻りたくないのだ。


当然だった。


レイラが口を開こうとしたが、セレスが手で制した。


急かすべきではない。


ノアは布包みを見下ろした。


その中身は、小さな工具と、古びた鉱山札だった。


兄のものかもしれない。


彼はそれを強く抱きしめる。


「……行く」


小さな声だった。


だが、確かに言った。


「僕が案内する」


セレスが心配そうに言う。


「無理をしなくてもいいんです」


ノアは首を横に振った。


「僕、逃げた。でも、まだ街に残ってる人がいる。助けたい」


アステルが静かに見つめる。


その言葉は、彼女自身の願いにも似ていた。


守られるだけではなく、誰かを守りたい。


ノアはヴェスパーを見た。


「でも、約束して」


「何を」


「もし、兄ちゃんみたいになった人がいたら……苦しまないようにして」


ヴェスパーは少しだけ沈黙した。


重い願いだった。


子どもに言わせるには、あまりにも重すぎる。


だが、目を逸らすわけにはいかない。


「約束する」


ノアは頷いた。


その瞳には涙の跡が残っている。


けれど、もう逃げるだけの目ではなかった。



鳴き谷を抜ける頃、空は灰色に沈み始めていた。


ノアは先頭近くを歩き、谷の中に残る細い道を案内した。


大きな耳がわずかに動くたび、彼は足を止める。


「右はだめ。岩の下が空洞」


「左の壁、結晶が鳴ってる。崩れるかも」


「この先、風の音が変。古い換気穴がある」


その感覚は驚くほど正確だった。


イリスが小声で言う。


「すごいね、あの子」


「耳がいいだけじゃないな」


ヴェスパーも頷く。


「音と振動を読んでいる」


レイラは感心したように笑った。


「立派な案内役だな」


ノアはそれを聞いて、少しだけ肩を縮めた。


褒められ慣れていないのだろう。


アステルがその隣に並んだ。


「ノアさん」


「……何」


「さっきは、ありがとうございました」


ノアは怪訝そうに見る。


「僕、何もしてない」


「道を教えてくれました」


「それだけ」


「それが助かります」


ノアはしばらく黙った。


そして、小さく言った。


「……ノアでいい」


アステルは少し驚き、それから頷いた。


「では、私もアステルでいいです」


「うん」


二人の間に、不器用な沈黙が落ちた。


だが、それは悪いものではなかった。


白い荒野の中で、新しい小さな繋がりが生まれようとしていた。


やがて、谷の出口が見えた。


そこから先は、再び広い荒野。


灰雪の向こうに、黒い影が浮かんでいる。


壊れた塔。


崩れた建物。


斜めに傾いた鉱山用の巨大支柱。


廃坑都市グランヴェイル。


ノアの足が止まった。


彼はその街を見つめたまま、唇を噛んだ。


「……あそこが、僕の街」


その声は震えていた。


レイラが隣に立つ。


「戻るの、怖いか」


ノアは頷いた。


「怖い」


「よし」


「え?」


「怖いって分かってるなら大丈夫だ。無茶しに行くわけじゃない」


レイラは戦斧を肩に担ぐ。


「怖い場所へ、ちゃんと怖がりながら行く。それが生き残るコツだ」


ノアは少しだけ目を見開いた。


イリスが微笑む。


「珍しくいいこと言うね」


「珍しくは余計だ」


セレスは全員を見た。


「今日はここで野営しましょう。ノア君も休む必要があります」


ヴェスパーは廃坑都市を見つめた。


焦りはある。


ガルムの手がかりは近い。


黒陽炎の残滓が、あの街のどこかにある。


だが、今は夜が近い。


ノアも疲れている。


アステルも長くは歩けない。


「ここで休む」


ヴェスパーは言った。


「明朝、グランヴェイルへ入る」


レイラが頷く。


「賛成」


イリスも端末を確認する。


「周囲に熱反応なし。今のところはね」


セレスはすぐに野営の準備を始めた。


アステルはノアの隣に座り、温かい飲み物を渡す。


ノアは一瞬迷ってから、それを受け取った。


「……ありがとう」


「はい」


遠くで、廃坑都市グランヴェイルが静かに沈んでいる。


雪と灰に覆われた、死んだような街。


だが、その地下ではまだ何かが動いている。


黒い翼。


器。


黒陽炎。


ガルム。


すべての答えへ繋がる入口が、目の前にあった。


ヴェスパーは剣の柄に触れる。


風が吹く。


鳴き谷の音が、背後で細く響いていた。


泣き声のように。


警告のように。


それでも彼らは進む。


白い荒野の先、廃坑都市グランヴェイルへ。

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