第2章 第3話 「白い荒野」
暗闇の奥から、足音が近付いてくる。
カン。
カン。
カン。
一定の間隔で鳴る金属音。
獣ではない。
人間の歩き方でもない。
それはまるで、壊れた機械が命令だけで動いているような音だった。
避難区画の中で、五人は息を潜めていた。
レイラは戦斧を両手で握り、扉の横に立つ。
イリスはランタンの光を絞り、小型銃を構えた。
セレスは医療バッグを背負い直し、アステルの肩に手を添えている。
アステルは目を閉じ、通路の奥に広がる圧の乱れを感じ取っていた。
「……来ます」
彼女の声は小さい。
だが、はっきりしていた。
「数は?」
ヴェスパーが問う。
「五……いえ、六体。歩幅が同じです。でも、一つだけ重い」
「重い?」
「他のものより、身体が大きいのかもしれません」
レイラがにやりと笑う。
「なるほど。大きいのがいるんだな」
「嬉しそうにするな」
ヴェスパーが短く言う。
イリスは端末の画面を確認しながら眉をひそめた。
「熱反応が薄い。旧水路の刺客たちに似てる。でも、もっと機械的」
「黒い翼の結晶兵か」
「たぶん。しかも量産型」
その言葉に、セレスの表情が硬くなった。
「また、人を使って……」
怒りを押し殺した声。
ヴェスパーは剣を抜いた。
「止める」
足音が、避難区画のすぐ外で止まった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、扉が内側へ吹き飛んだ。
「来た!」
レイラが叫ぶ。
粉塵の向こうから現れたのは、人型の影だった。
黒い防護服のようなものを着ている。
顔は仮面に覆われ、胸元には青白い結晶核。
腕や脚には金属の補強具が取り付けられ、関節の動きが不自然だった。
人間の兵士ではない。
人間だったものを、黒い翼が兵器として組み直した存在。
結晶兵。
一体目が短剣を構えて飛び込んでくる。
ヴェスパーは剣で受け流し、相手の腕を弾いた。
硬い。
骨ではなく、金属と結晶が混じった感触。
「核は?」
「胸部中央!」
セレスが即座に叫ぶ。
「ただし、外殻が厚いです!」
「なら砕く!」
レイラが横から踏み込み、戦斧の柄で結晶兵の胸を叩いた。
鈍い音。
結晶兵の身体が後方へ飛ぶ。
だが、倒れない。
壁に叩きつけられた反動で、再び前へ出る。
「しぶといな!」
イリスの銃弾が結晶兵の膝を撃ち抜く。
足元が崩れる。
そこへヴェスパーが踏み込み、胸の外殻の隙間へ剣を差し込んだ。
「蜃気楼の牙」
短い斬撃。
核だけを断つ。
青白い光が消え、結晶兵は糸が切れたように倒れた。
だが、外にはまだ五体。
そして、その奥から重い足音が響いていた。
カン。
カン。
ズン。
カン。
カン。
ズン。
レイラが扉の外を睨む。
「重いの、来るぞ」
暗闇の中から現れたのは、他の結晶兵より一回り大きな個体だった。
肩幅が広く、両腕には結晶の盾のような装甲が付いている。
背中には黒い翼の紋章が刻まれた金属板。
頭部は仮面ではなく、ほとんど結晶に覆われていた。
イリスが嫌そうに口を曲げる。
「指揮個体かな」
「倒せば止まるか?」
レイラが聞く。
「期待はできる」
「なら分かりやすい!」
レイラが突っ込む。
戦斧が振り下ろされる。
だが、大型結晶兵は両腕を交差して受け止めた。
衝撃が避難区画に響く。
壁の埃が落ちる。
「っ、硬い!」
大型結晶兵が腕を振るう。
レイラの身体が横へ押し飛ばされた。
「レイラ!」
アステルの瞳が光る。
大型結晶兵の足元へ重圧が落ち、動きが鈍る。
その隙にレイラは体勢を立て直した。
「助かった!」
アステルは小さく頷く。
だが、すぐに息が乱れた。
セレスが支える。
「短く。必要な時だけです」
「はい……」
ヴェスパーは大型結晶兵を見る。
硬い装甲。
正面から斬るのは難しい。
ならば、視界をずらす。
避難区画の中は暗い。
熱源は少ない。
だが、ランタンの光と結晶核の光がある。
そこに、自分の体温をわずかに重ねる。
ヴェスパーの姿が、暗闇の中で二つに揺れた。
大型結晶兵の顔が動く。
片方を追う。
その瞬間、ヴェスパーは別方向へ踏み込んだ。
「背中!」
イリスが叫ぶ。
「金属板の下にケーブル!」
ヴェスパーは低く回り込み、背中の装甲へ剣を走らせる。
火花。
ケーブルが切れる。
大型結晶兵の動きが一瞬止まった。
「レイラ!」
「おう!」
レイラが戦斧を大きく振りかぶる。
「そこ、開けろぉ!」
戦斧が背中の金属板を叩き割った。
青白い光が漏れる。
セレスが叫ぶ。
「核は胸ではありません! 背中です!」
「黒い翼、趣味悪いね!」
イリスが銃弾を撃ち込む。
核の周囲の結晶が砕けた。
ヴェスパーは走る。
大型結晶兵が振り返ろうとする。
アステルが最後の力で足元を押さえた。
「止まって……!」
ほんの一秒。
それで十分だった。
ヴェスパーの剣が核を貫いた。
青白い光が弾ける。
大型結晶兵の身体が大きく揺れた。
そして、ゆっくりと崩れ落ちる。
その瞬間、残っていた結晶兵たちの動きが乱れた。
指揮を失ったのだ。
レイラはその隙を逃さなかった。
「まとめて倒す!」
戦斧が唸る。
イリスの銃弾が関節を砕き、ヴェスパーの剣が核を断つ。
数分後、避難区画の前には動かなくなった結晶兵の残骸だけが残っていた。
静寂が戻る。
だが、誰もすぐには武器を下ろさなかった。
セレスが倒れた結晶兵へ近付き、仮面を外そうとする。
ヴェスパーが止めた。
「危険だ」
「確認が必要です」
セレスは慎重に仮面の留め具を外した。
その下にあったのは、人の顔だった。
若い男。
目は閉じられ、頬には結晶が薄く浮かんでいる。
すでに命はなかった。
セレスは静かに目を伏せる。
「……やはり、人でした」
レイラが歯を食いしばる。
「黒い翼の連中……」
アステルは震える手を胸元に当てた。
「私も、ああなっていたかもしれないんですね」
誰もすぐには答えられなかった。
それは否定できない事実だった。
セレスが静かに言う。
「でも、今は違います」
アステルが顔を上げる。
「あなたはここにいます。自分の意思で立っています」
アステルの瞳が揺れる。
「……はい」
ヴェスパーは結晶兵の残骸を見つめた。
黒い翼の技術は、確実に進んでいる。
旧水路の異形。
下層街の結晶兵。
そして今の量産型。
人を壊し、兵器に変える。
ガルムの黒陽炎も、同じように利用されようとしているのか。
いや。
すでに利用されているのかもしれない。
「進むぞ」
ヴェスパーは言った。
「ここに長くいるのは危険だ」
⸻
白牙トンネルの奥は、さらに冷えていた。
古代照明はほとんど消え、ランタンの光だけが五人の足元を照らす。
道路には放置された車両が増えていった。
横転したもの。
壁に衝突したもの。
扉が開いたままのもの。
その中には、白く結晶化した人影のようなものが残っている車両もあった。
レイラは何も言わなかった。
イリスも冗談を言わない。
セレスは時折立ち止まり、結晶粉の濃度を確認する。
アステルは黙って前を見つめていた。
ヴェスパーは周囲の熱を読む。
冷たい。
だが、完全な無ではない。
トンネルの奥に、微かな気流がある。
出口が近い。
「風が変わった」
ヴェスパーが言う。
レイラの顔が明るくなる。
「出口か?」
「ああ」
「やっとか!」
イリスが地図を確認する。
「白牙トンネルの北口まで、あと少し。途中の封鎖がなければね」
「言うな。そういうこと言うと出る」
「出る時は言わなくても出るよ」
「嫌な正論だな」
その時、前方に光が見えた。
細い。
けれど確かな外の光。
トンネルの出口だった。
五人は自然と足を速めた。
暗闇の中で長く過ごしたせいか、その光は眩しく感じた。
しかし、出口へ近付くにつれ、空気はさらに冷たくなった。
砂漠の熱はもうない。
代わりに、乾いた冷気が肌を刺す。
レイラが身震いした。
「寒っ」
セレスがすぐに言う。
「防寒具をしっかり閉じてください」
「はい」
アステルは出口の光を見つめていた。
その顔に、不安と期待が混じっている。
黒い翼の施設以外の世界。
灰都の外。
砂漠の先。
彼女にとって、それはすべて初めてに近かった。
そして、五人は白牙トンネルを抜けた。
⸻
そこには、白い荒野が広がっていた。
砂漠ではない。
どこまでも続く白灰色の大地。
ところどころに雪が残り、風が吹くたびに灰と氷の粒が舞い上がる。
遠くには黒い山脈が連なり、その裾野に古い鉄塔や崩れた建物の影が見えた。
空は低く、灰色の雲が重く垂れ込めている。
太陽の光は弱く、世界全体が冷たい色に沈んでいた。
レイラが思わず声を漏らす。
「……砂漠とは全然違うな」
イリスが外套の襟を立てる。
「ここから先が北方荒野。大災厄の後、灰と雪が混ざった土地になったらしいよ」
セレスはアステルの顔色を確認する。
「大丈夫ですか」
アステルは白い荒野を見つめたまま頷いた。
「はい。寒いですが……綺麗です」
その言葉に、レイラが少し驚いた顔をした。
荒れ果てた土地。
灰と雪の世界。
それを綺麗だと言える感覚。
だが、アステルにとっては、閉じ込められていた塔や地下施設よりも、この広い空の下の方がずっと美しかったのだろう。
ヴェスパーも荒野を見た。
遠くの地平線。
その先に、かすかな黒い影がある。
廃坑都市グランヴェイル。
ガルムの痕跡がある場所。
黒い翼が待つ場所。
「急ぐぞ」
ヴェスパーが言う。
セレスがすぐに返した。
「その前に休憩です」
「出口を出たばかりだ」
「トンネル内で戦闘しました。アステルさんは術式を使い、あなたも能力を使いました。レイラさんもかなり動いています」
レイラが真面目に頷く。
「飯もまだだ」
「それは理由に入れません」
「えっ」
セレスは荒野の風を確認した。
「風を避けられる場所で短時間休みます」
ヴェスパーは反論しようとした。
だが、全員の視線が彼に集まった。
レイラ。
イリス。
セレス。
アステル。
彼は小さく息を吐く。
「……分かった」
イリスが笑う。
「順調に教育されてるね」
「黙れ」
五人はトンネル出口近くの崩れた管理小屋へ向かった。
中は半壊していたが、風は防げる。
そこで短い休憩を取ることになった。
レイラは携帯食を取り出し、アステルへ温かい飲み物を渡した。
「ほら。冷える前に飲め」
「ありがとうございます」
アステルは両手で器を包み込む。
白い息がふわりと上がった。
セレスはヴェスパーの包帯を確認している。
「出血は増えていません」
「なら問題ないな」
「問題がないわけではありません。悪化していないだけです」
「……そうか」
イリスは管理小屋の壁に残された古い地図を見つけた。
埃を払う。
そこには、白牙トンネル北口から廃坑都市グランヴェイルまでの古い道路が描かれていた。
だが、その地図の端に赤い印が付けられている。
手書き。
比較的新しい。
イリスの目が細くなる。
「これ、誰かが最近書き足してる」
ヴェスパーが近付く。
赤い印は、廃坑都市へ向かう道の途中にあった。
小さな文字が添えられている。
――鳴き谷を避けろ。
レイラが眉をひそめる。
「鳴き谷?」
イリスが端末で調べる。
「古い地名にはない。たぶん現地の呼び名」
アステルが静かに顔を上げた。
「音が、聞こえます」
全員が黙る。
風の音。
灰が地面を滑る音。
その奥に、確かに何かがあった。
遠くから響く、細い音。
泣き声のような。
金属が軋むような。
あるいは、誰かが助けを呼ぶような。
レイラが戦斧に手を伸ばす。
「嫌な音だな」
ヴェスパーは外を見る。
白い荒野の向こう。
灰色の風が吹く先に、低い谷が広がっている。
そこから音が来ていた。
「避けろと書かれているなら」
イリスが言う。
「普通は避けるべきだね」
レイラが腕を組む。
「でも、こういうのって、大事なものがある場所なんだよな」
セレスが冷静に言う。
「危険であることは確かです」
アステルは耳を澄ませる。
「……誰か、います」
ヴェスパーが彼女を見る。
「人か?」
「分かりません。でも、音の中に足音があります。軽い足音……子ども、かもしれません」
空気が変わった。
子ども。
白い荒野。
鳴き谷。
避けろと書かれた場所。
イリスは端末をしまった。
「罠の可能性は高い」
レイラが言う。
「でも、本当に子どもなら放っておけない」
セレスも頷いた。
「確認は必要です」
ヴェスパーは一瞬だけ考えた。
ガルムを追う道。
黒い翼の罠。
廃坑都市グランヴェイルへ急ぐべき状況。
だが、目の前に助けを求める可能性があるなら。
無視はできない。
「鳴き谷へ向かう」
ヴェスパーは言った。
「ただし、全員警戒を解くな」
レイラが笑う。
「そうこなくちゃ」
イリスは小さく肩をすくめた。
「絶対面倒なことになるね」
セレスは医療バッグを握り直す。
「それでも行きます」
アステルは白い荒野を見つめ、静かに頷いた。
「私も……音を追います」
五人は管理小屋を出た。
灰と雪を含んだ風が吹きつける。
遠くから、また音が響いた。
細く。
かすかに。
泣き声のように。
白い荒野の中、彼らは廃坑都市へ向かう道を少し外れ、鳴き谷へと足を踏み入れていく。
そこで待つ出会いが、この旅の行方を大きく変えることを、まだ誰も知らなかった。




