第2章 第2話 「白牙トンネル」
灰都アッシュベルクを出てから、半日が過ぎた。
朝方はまだ冷えていた砂漠も、太陽が高く昇るにつれて、いつもの灼熱を取り戻していた。
白く乾いた砂。
歪む地平線。
遠くに見える朽ちた鉄塔。
かつて古代文明が築いた道路は、今では半ば砂に呑まれている。
それでも、道の名残は確かにあった。
砂の下から覗く黒い舗装。
崩れた防護壁。
錆びた標識。
風に削られた古代文字。
その道を、五人は北へ向かって歩いていた。
ヴェスパーは先頭を歩く。
風向き、砂の動き、周囲の熱。
すべてを読みながら進む。
その後ろでは、レイラが不満そうに干し肉を噛んでいた。
「なあ」
「何だ」
「暑い」
ヴェスパーは振り返らない。
「知っている」
「昨日は寒いって言った。今日は暑いって言ってる。つまりこの旅は最悪だ」
イリスが端末を片手に笑った。
「砂漠から北方荒野へ行くんだから、気温差は仕方ないよ」
「仕方ないで済ませるな。体がびっくりするだろ」
セレスが後ろから淡々と言う。
「水分補給をしてください。汗の量が増えています」
「はい」
レイラはすぐに水袋を手に取った。
イリスが小さく笑う。
「本当にセレスには素直だね」
「医者の言うことは聞く」
「ヴェスパーも見習いなよ」
「聞いている」
ヴェスパーが短く答える。
セレスは彼の背中を見た。
「では、次の休憩で包帯を確認します」
「……分かった」
「良い返事です」
レイラがにやにやする。
「お前も素直になったな」
「合理的判断だ」
「それ便利すぎるだろ」
そのやり取りを聞きながら、アステルは小さく笑った。
彼女は厚手の外套を羽織り、青紫の髪留めで髪を軽く留めている。
まだ足取りは少し頼りない。
だが、昨日よりは確かに前を向いていた。
「アステル」
ヴェスパーが声をかける。
「疲れていないか」
アステルは少し考えてから答えた。
「少し、疲れています」
その返答に、セレスが満足そうに頷いた。
「正直でよろしいです」
アステルは不思議そうに瞬きをする。
「疲れていると言うだけで、褒められるんですね」
「大事なことです」
「そうなんですか」
レイラが笑う。
「うちの隊はな、無理するやつが多いからな」
イリスが肩をすくめる。
「主に誰とは言わないけどね」
全員の視線がヴェスパーに向いた。
ヴェスパーは沈黙した。
否定はできなかった。
⸻
日が傾き始める頃。
砂漠の先に、巨大な影が見えた。
最初は岩山のように見えた。
だが近付くにつれ、それが人工物だと分かる。
砂に埋もれた古代道路。
その先に、山脈をくり抜くように巨大な入口が開いていた。
白い岩肌にぽっかりと空いた黒い穴。
左右には朽ちた支柱。
上部には、かすれた古代文字。
イリスが端末を確認しながら言った。
「着いたよ」
レイラが見上げる。
「これが白牙トンネルか」
「うん。正式名称は別にあるみたいだけど、今はそう呼ばれてる」
「白牙って、かっこいいな」
「入口の岩が牙みたいに見えるからだって」
確かに、崩れた岩壁は巨大な獣の口のようだった。
白い牙を剥き、旅人を飲み込もうとしている。
セレスが入口の空気を確認する。
「内部から冷たい風が流れています。湿気もありますね」
アステルが少し身を震わせた。
「中が……重いです」
ヴェスパーも同じものを感じていた。
熱が薄い。
砂漠の外とはまるで違う。
トンネルの奥から流れてくる空気は冷たく、湿っていて、どこか古い血のような鉄の匂いが混じっていた。
レイラは戦斧を担ぎ直した。
「中に何かいると思うか?」
ヴェスパーは暗闇を見つめる。
「いる」
即答だった。
レイラは少しだけ笑った。
「だよな」
「生き物かどうかは分からない」
「そこは分かってほしかったな」
イリスが端末を操作し、携帯ランタンを取り出す。
「白牙トンネルはかなり長い。途中に古い休憩施設や避難区画があるはず。今日はそこまで進んで、内部で一泊する」
レイラの顔がまた嫌そうになる。
「やっぱり中で寝るのか」
「外で野営するより安全かもよ」
「何かいるって今言ったばかりだろ」
「外にも何かいるかもしれない」
「どこも安全じゃないな」
セレスが防塵マスクを配る。
「内部ではこれを着けてください。結晶粉を吸い込むと危険です」
レイラはマスクを受け取りながら呟いた。
「飯は?」
「マスクを外せる場所を確認してからです」
「厳しい」
「必要なことです」
「はい」
ヴェスパーは剣の柄に触れた。
「隊列を変える。俺が先頭。レイラは後方。イリスは中央で地図確認。セレスとアステルはその間」
レイラが頷く。
「背後は任せろ」
アステルが小さく言う。
「私も、周囲の圧を見ます」
セレスが彼女を見る。
「無理はしない範囲で」
「はい」
ヴェスパーはトンネルの暗闇へ一歩踏み出した。
冷たい空気が、外套の内側へ入り込む。
まるで巨大な獣の喉へ入るようだった。
⸻
白牙トンネルの内部は、想像以上に広かった。
古代の高速道路。
そう呼ばれていた理由が、入ってすぐに分かった。
左右に何本もの車線があり、中央には錆びた分離帯が残っている。
天井は高く、壁には朽ちた照明器具が等間隔に並んでいた。
その一部が、まだかすかに点滅している。
青白い光。
その光に照らされて、放置された古代車両の残骸が浮かび上がる。
車輪のない鉄の箱。
横転した輸送車。
割れた窓。
中には砂と灰が溜まっていた。
レイラが低く口笛を吹く。
「昔の人間は、こんな道を使ってたのか」
イリスが端末で周囲を照らす。
「大災厄前は、都市間をこの道路で移動してたみたいだね。荷物も、人も、今よりずっと速く」
「便利そうだな」
「その代わり、壊れたらこうなる」
イリスの光が、道路脇に残された古い標識を照らした。
文字はかすれている。
だが、その下に描かれた避難案内だけはまだ読めた。
セレスは壁際に付着した白い粉を見た。
「結晶粉です。触らないでください」
アステルは壁を見つめる。
「……奥から、音がします」
全員が足を止めた。
ヴェスパーも耳を澄ます。
最初は、風の音かと思った。
だが違う。
遠くから、何かが擦れる音がする。
硬いものが地面を引っかくような音。
カリ。
カリ。
カリ。
レイラが戦斧を握る。
「虫か?」
イリスが嫌そうな顔をする。
「その大きさによるね」
セレスが周囲の温度を感じ取る。
「生体反応は薄いです。でも、熱の乱れがあります」
ヴェスパーは前方を見た。
暗闇の奥。
点滅する照明の下を、何かが横切った。
低い姿勢。
四足。
背中に青白い結晶。
「結晶化した獣だ」
その言葉の直後、複数の影が現れた。
狼に似た獣。
だが、毛皮の一部は剥がれ、骨のような結晶が突き出している。
目は白濁し、口元から青い光が漏れていた。
一体。
二体。
三体。
いや、さらに奥にもいる。
レイラがにやりと笑った。
「最初の歓迎か」
「油断するな」
ヴェスパーは剣を抜く。
「普通の獣じゃない」
結晶獣が走った。
硬い爪が古代道路を叩き、暗闇に火花が散る。
一体目がヴェスパーへ飛びかかる。
ヴェスパーは半歩横へずれ、剣の峰で首筋を打った。
だが、獣は止まらない。
体勢を崩しながらも、無理やり爪を振るう。
「痛覚が鈍い」
セレスが叫ぶ。
「首の付け根に結晶核があります!」
「了解!」
レイラが後方から迫った一体を戦斧で叩き伏せる。
結晶が砕け、青白い粉が散る。
「うわっ、粉!」
「吸い込まないで!」
セレスの声が飛ぶ。
イリスは小型銃で獣の足元を撃ち、動きを止める。
「数が多い。長引くと不利だよ!」
アステルが震える手を上げた。
「足を……止めます」
彼女の瞳が淡く光る。
重圧が道路の一部に落ちた。
走っていた結晶獣の足が沈み、動きが鈍る。
「今です」
ヴェスパーは踏み込んだ。
一体目の首の付け根。
セレスが示した核の位置。
剣が走る。
結晶核だけを断つ。
獣はその場に崩れた。
レイラも同じように、動きを止められた二体目へ戦斧を叩き込む。
イリスの銃弾が三体目の結晶核を砕いた。
残りの影が暗闇の奥で唸る。
だが、すぐには近付いてこない。
「引いた?」
レイラが問う。
ヴェスパーは目を細める。
「いや」
暗闇の奥で、別の音がした。
金属音。
獣の爪ではない。
誰かが、古代車両の上に立っている。
イリスがランタンを向ける。
光の先。
横転した車両の屋根に、一人の黒い外套の人物が立っていた。
顔は布で隠されている。
胸元には、黒い翼の紋章。
「監視者だね」
イリスの声が低くなる。
レイラが戦斧を担ぎ直す。
「やっぱりつけられてたか」
黒い外套の人物は、こちらを見るだけだった。
攻撃してくる様子はない。
ヴェスパーが一歩前へ出る。
「黒い翼か」
相手は答えない。
代わりに、手に持っていた小さな装置を押した。
トンネルの奥で、赤い光が点滅した。
イリスの端末が警告音を鳴らす。
「まずい。古い防火隔壁が動いてる!」
「何だそれ」
レイラが叫ぶ。
「トンネルを区画ごとに閉じる扉!」
前方と後方。
重い金属音が響く。
道路を塞ぐ巨大な隔壁が、ゆっくりと降り始めた。
「閉じ込める気か!」
レイラが駆け出そうとする。
だが、暗闇から結晶獣がさらに飛び出してきた。
足止め。
黒い翼の監視者は、最初から戦うつもりではない。
こちらを閉じ込めるのが目的だ。
「イリス、開けられるか」
ヴェスパーが聞く。
「制御盤まで行ければ!」
「場所は」
「前方、左壁!」
ヴェスパーは判断する。
「レイラ、獣を止めろ」
「任せろ!」
「セレス、アステルを援護」
「分かりました」
「イリス、走れ。俺が道を作る」
「了解」
ヴェスパーの周囲で空気が揺れる。
トンネル内は冷たい。
砂漠ほど熱はない。
だが、古代車両に残る熱。
照明の熱。
自分たちの体温。
結晶獣が発する異常な熱。
使えるものはある。
少しだけ。
視界をずらすには十分だ。
暗闇の中に、複数のヴェスパーが現れた。
結晶獣たちが幻影へ反応する。
その隙に、イリスが低く走り抜けた。
「こっち!」
アステルが手を伸ばし、イリスの前へ飛びかかろうとした獣の足を重圧で押さえる。
セレスが即座に叫ぶ。
「無理しすぎないでください!」
「はい……!」
レイラは後方で暴れていた。
戦斧を振るたび、結晶獣が吹き飛ぶ。
「まとめて来い!」
だが数が多い。
隔壁は少しずつ下がっている。
前方の隙間が狭くなっていく。
イリスは制御盤へ滑り込むように到達し、端末を接続した。
「古い! でも生きてる!」
「上げられるか!」
レイラが叫ぶ。
「やってる!」
黒い翼の監視者は、車両の上からそれを見ていた。
そして、再び装置を押そうとする。
ヴェスパーは動いた。
幻影を三つ出す。
監視者の視線が揺れる。
だが、相手は惑わされなかった。
黒い翼の者は、まるでヴェスパーの蜃気楼を知っているように、幻影ではなく本体へ短剣を投げた。
ヴェスパーは剣で弾く。
「読まれている」
監視者は一言だけ発した。
「黒陽炎の弟子」
その声は女とも男ともつかない、低く抑えた声だった。
「北へ進むな」
「なぜだ」
「戻れなくなる」
ヴェスパーの目が細くなる。
「ガルムを知っているのか」
監視者は答えない。
隔壁がさらに下がる。
イリスが叫ぶ。
「解除、半分!」
「半分って何だ!」
レイラが獣を蹴り飛ばしながら叫ぶ。
「まだ閉まるけど、速度は落とした!」
「十分じゃない!」
「文句は後!」
セレスがアステルの肩を支えながら言う。
「アステルさん、もう術式を止めてください。体温が下がっています」
「でも……」
「止めてください」
アステルは悔しそうに唇を噛む。
だが、術式を解いた。
同時に、押さえられていた結晶獣が動き出す。
ヴェスパーは前へ出た。
「下がれ」
彼は剣を低く構える。
トンネルの照明が点滅する。
青白い光。
暗闇。
光。
暗闇。
その瞬間ごとに、ヴェスパーの姿が増えたように見える。
蜃気楼ではない。
光と影を利用した、本物の位置ずらし。
そこにわずかな熱の揺らぎを重ねる。
結晶獣たちが迷う。
ヴェスパーは走った。
一体。
二体。
三体。
核だけを斬る。
「蜃気楼の牙」
刃の軌跡が暗闇に青く残った。
結晶獣が次々と崩れ落ちる。
レイラが目を見開く。
「今の、かっこいいな!」
「後にしろ」
イリスの端末が音を立てた。
「隔壁、止めた!」
巨大な金属扉は、地面まであと人の背丈ほどのところで停止した。
完全に開いたわけではない。
だが、通れる。
「前へ抜ける!」
ヴェスパーが叫ぶ。
レイラが後方から走る。
セレスがアステルを支える。
イリスが制御盤から端末を引き抜く。
五人は隔壁の下を滑り込むように抜けた。
その直後、監視者がまた装置を操作した。
隔壁が再び動き始める。
ヴェスパーは最後に通り抜けながら、監視者を見た。
隔壁の向こう。
黒い翼の紋章。
その奥に見えた瞳は、敵意というより、警告に近かった。
「北へ進むな」
監視者はもう一度言った。
「黒陽炎は、お前を待っていない」
隔壁が完全に閉じた。
重い音が、トンネル内に響く。
⸻
隔壁の向こう側は、さらに暗かった。
先ほどまでの古代照明も、ほとんど消えている。
イリスがランタンを掲げる。
「閉じ込められたわけじゃない。地図上では、この先に避難区画がある。そこで休めるはず」
レイラが肩で息をする。
「その前に飯だ」
セレスが即答する。
「まず全員の状態確認です」
「飯は?」
「確認後です」
「はい」
アステルは壁に手をつき、呼吸を整えていた。
ヴェスパーが近付く。
「大丈夫か」
アステルは少しだけ迷った。
以前なら、大丈夫だと答えていただろう。
だが、彼女はセレスの言葉を思い出した。
痛い時は痛いと言う。
休みたい時は休む。
「……少し、つらいです」
セレスがすぐに頷く。
「では休憩します」
アステルは驚いたようにセレスを見る。
「言って、いいんですね」
「もちろんです」
レイラが笑う。
「よし、休憩だな。飯も食える」
「軽食だけです」
「はい」
イリスは隔壁の方を見つめていた。
「さっきの監視者、妙だったね」
「ああ」
ヴェスパーも頷く。
「殺意が薄かった」
「むしろ警告してた」
「黒い翼の者がか」
レイラが眉をひそめる。
「仲間割れか?」
「分からない」
ヴェスパーは閉ざされた隔壁を見た。
北へ進むな。
黒陽炎は、お前を待っていない。
その言葉は、ガルムの「来るな」と重なっていた。
敵の罠か。
本当の警告か。
あるいは、その両方か。
セレスがヴェスパーの顔を見る。
「考え込む前に、傷を見せてください」
「今か」
「今です」
「……分かった」
レイラがまた笑った。
「いい流れだな」
ヴェスパーは反論しなかった。
⸻
避難区画に着いたのは、それから一時間ほど後だった。
トンネルの壁沿いに作られた古い休憩施設。
扉は半分壊れていたが、中は比較的安全だった。
ベンチ。
古い給水装置。
壁に貼られた避難地図。
床には砂と埃が積もっていたが、結晶粉は少ない。
イリスが内部を確認し、簡易警報装置を仕掛ける。
セレスはアステルとヴェスパーの状態を確認する。
レイラはようやく携帯食を取り出した。
「飯だ」
「少量です」
セレスが言う。
「はい」
アステルは温めた携帯食を両手で持ち、少しずつ食べていた。
レイラが隣で干し肉を噛みながら聞く。
「トンネル、嫌いか?」
アステルは少し考えた。
「少し怖いです」
「私もだ」
「レイラさんも?」
「狭いし暗いし、飯がうまく感じない」
アステルは瞬きし、それから小さく笑った。
「そこなんですね」
「大事だぞ」
イリスは端末を見ながら言った。
「明日の昼までには抜けられるはず。何もなければ」
レイラが眉を上げる。
「何もあるんだろうな」
「たぶんね」
ヴェスパーは避難地図を見ていた。
白牙トンネルは、ただの一本道ではなかった。
途中に整備通路、非常階段、旧管理室、地下排水路が枝分かれしている。
そして、その奥。
地図の一部が黒く塗りつぶされていた。
イリスが隣に来る。
「そこ、気になる?」
「何がある」
「地図上は記録なし。でも黒い翼がトンネルを利用しているなら、隠し通路があってもおかしくない」
「北の廃坑都市へ繋がる道か」
「あるいは、別の施設」
ヴェスパーは黙った。
黒い翼の監視者。
結晶獣。
防火隔壁。
そして、地図にない区画。
ただの移動路ではない。
白牙トンネルにも、何かが隠されている。
その時。
避難区画の外で、遠くから音がした。
カン。
カン。
カン。
金属を叩くような音。
規則的に。
こちらへ近付いてくる。
レイラが静かに戦斧を手に取る。
「また獣か?」
アステルが目を閉じる。
「違います……足音が、揃っています」
イリスの端末が小さく震えた。
「複数の熱反応。人型。こっちへ向かってる」
セレスがランタンの光を落とす。
ヴェスパーは剣を抜いた。
「休憩は終わりだ」
暗闇の奥。
古代道路の先で、青白い光がいくつも揺れた。
それは結晶獣の目ではない。
人の形をした何かの胸元に灯る、結晶核の光だった。
白牙トンネルの闇が、静かに彼らへ近付いてくる。




