51 今だけは……
女神様たちが消えると、聖堂は急に薄暗く感じられた。
しんと静まり返っている。
私たちがずっと日本語でやり取りしていたこともあって、周りはみんな、わけがわからないという顔をしていた。
あの王子も、大神官のおじさんも、呆然と私たちを見つめている。
そこへ――
「りり、足元!」
ジン君の声に、慌てて下を見る。
白い石の床が、淡い黄金色に光り始めていた。
光は瞬く間に広がり、聖堂の床へ大きな魔法陣を描いていく。
これ、ジン君たちが来た時と同じ――
「移動陣だ。帰るぞ!」
ジン君が私の腕を掴み、魔法陣の中央へ引き寄せた。
公爵様やゲラルド先生、護衛騎士の皆さんも、すぐに駆け寄ってくる。
「え、こんな急に!? あの子は?」
振り返る。
あんなに痩せた子を、このままここに置いていっていいの?
思わず手を伸ばした、その瞬間。
彼女の身体が、淡い青白い光に包まれた。
この色は……。
無表情だったけれど、彼女のそばから決して離れなかった、あの女神様の光だ。
きっとこれからも、見守ってくれるってことだよね?
『……じゃあね』
私は彼女に声を掛けた。
少し迷ったけれど、バイバイ、と手も振る。
『……あ、ありがとう』
彼女は気まずそうに呟き、それでも小さく手を振り返してくれた。
『できたら、また――』
彼女が何か言いかけた瞬間、足元の黄金色の光が一気に強くなった。
眩しくて、思わず目を閉じる。
身体がふわりと浮き上がるような、あの不思議な感覚。
その直後、足元が大きく揺れた。
「リリー!」
「りり!」
名前を呼ばれた。
床へ倒れ込む前に、誰かの腕が私の身体を抱き留める。
「リリー!?」
返事をしなくちゃ。
大丈夫だって、言わなくちゃ。
けれど声を出すこともできず、私はそのまま深い眠りへ落ちていった。
◇◆◇
どこまでも続く、金色の麦畑。
穂を揺らす風は温かくて、どこか焼きたてのパンのような香りがする。
その中に、女神デメテル様が立っていた。
『リリー』
女神様が、私の名を呼ぶ。
優しい声。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
『ありがとう』
「え……?」
『あなたは、私の愛しい子を救ってくれました』
あ。
ジン君のことだ。
『それから、フロイラインの聖女も』
でも私は、首を横に振った。
「私はただ……パンを焼いただけです」
『そのパンが、あの子たちの心を救ったのです』
女神様は優しく微笑まれた。
『それに……アルテミスも、あなたに感謝していましたよ』
アルテミス……。
あの、無表情だった女神様だよね。
デメテル様は、私の頬へそっと手を添えられた。
『あなたはずっと、誰かのためにパンを焼いてきましたね』
琥珀色の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
『こちらの世界へ来てからも、誰かの心と身体を癒すことばかりを願って』
女神様の手が、私の頬を優しく撫でる。
『けれど、あなた自身にも癒しが必要です』
「私……?」
『そうです』
女神様は、少し困ったように微笑まれた。
『あなたもまた、大切なものを残してきたのだから』
デメテル様の言葉に、胸が詰まった。
……お母さん。
おじいちゃん、おばあちゃん。
私がいなくなって、どれほど心配しているだろう。
『あなたへ、祝福を授けましょう』
「祝福……?」
女神様は頷き、それから私の斜め後ろを指さした。
振り返ると、麦畑の上に私の仕事バッグが浮かんでいた。
「え?」
女神様の指先から、小さな光が生まれる。
光はふわふわと飛んでいき、浮かんでいる仕事バッグの中へ吸い込まれていった。
「今のは……?」
『目覚めたら、確かめてごらんなさい』
なにを?
そう聞こうとしたのに、女神様の姿がどんどん遠ざかっていく。
「待ってください! 祝福って、なんですか?」
答えはない。
ただ、風に揺れる麦の穂が、さらさらと優しい音を立てていた。
◇◆◇
目を開ける。
部屋は薄暗かった。
カーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいる。
……夜?
ぼんやりと天井を見上げて、それから、ここが自分に与えられた部屋だと気づいた。
ベッドの傍らには、公爵様が座っていた。
驚いて身体を動かすと、私の右手がぎゅっと握られる。
「公爵様……?」
いつもは冷たく見えるアイスブルーの瞳が、今は心配そうに揺れていた。
「目が覚めたか」
公爵様の手が伸びてきて、私の目尻を指先でそっと拭った。
私、泣いてたんだ。
そう思った次の瞬間、神殿での出来事を思い出した。
「ケガは?」
慌てて身を乗り出す。
「腕は!? 切られたところは大丈夫でしたか?」
公爵様は私を守るため、あの神殿でずっと剣を振るっていた。
自分の身体を盾にして……。
あんなに血が滲んでいたのに、痛そうなそぶりはひとつも見せなかった。
「もう診てもらった」
「でも――」
「こんなもの、かすり傷だ。それより」
肩を押され、もう一度ベッドへ戻される。
「君は、自分の心配をしろ」
「……はい」
叱られてしまった。
それでも、まだお礼を伝えていない。
「あの……」
私は、公爵様のアイスブルーの瞳を見つめた。
緊張する。
けど、ちゃんと目を見て……。
「助けていただき、ありがとうございました」
ベッドの上で、ぺこりと頭を下げる。
「ああ。君に怪我がなくてよかった」
「……おかげさまで」
そう言ったあとは、すぐに視線を外した。
少し見慣れてきたとはいえ、このイケメンとのアイコンタクトは心臓に悪い。
そんな私に気づいたのか、公爵様がくすりと笑う。
「……っ!」
もう!
急に笑うの、やめてー。
その笑顔、破壊力が半端ないから!
「み、皆さんは?」
とりあえず、全力で話題を変えた。
「無事だ。殿下は君が目を覚ますのを待つとおっしゃっていたが、先ほど皇宮へ戻られた」
ジン君、帰っちゃったんだ。
そういえば、あの王子を思い切り殴ってたけど……大丈夫なんだろうか?
「あの、今回のことって、外交問題になったりは……」
「ならない」
公爵様は、きっぱりと言った。
「召喚には、女神同士の神性干渉が働いていた。今回の件は、国同士の政治的な問題として扱えるものではないそうだ」
「そうなんですね……」
本当に?
あんな風にぶん殴っても、お咎めなしなの?
まあ、私が気にしたってどうにもならないか。
「そうだ。君が昼前に焼いたパンは、マルクが夕食に出してくれた」
「パン……」
そうだった。
ジン君とあの子が食べたぶん以外にも、お屋敷にはまだ残っていたんだ。
「ヒューと一緒に食べた。とても美味かった」
「本当ですか?」
「ああ。特にくろわっさんは、食べると身体が金色に光ってな……」
「えぇ!?」
「ヒューも使用人たちも、かなり驚いていた」
あの現象、神殿だけじゃなかったんだ……。
やっぱりそれって、“聖女の癒し”ってやつだよね。
「おかげですっかり疲れも取れたし、なにより心が満たされた」
公爵様が、いつもより柔らかな表情で私を見る。
「本当に、美味かった」
薄氷色の瞳に、捕まった。
「そ、それなら、よかったです」
私は、さっと目線を外す。
少し視線をさまよわせたあと、仕方なく公爵様の襟元を見つめた。
また笑われた気がしたけど、もう気にしないでおこう。
食べて身体が光るのはどうかと思うけど、公爵様の心が満たされたなら、本当によかった。
それに――美味かった。
その一言を聞けただけで、何度も試行錯誤したことが、全部報われたような気がした。
「ヒューも心配していた。先ほどまで、ここで君を見守っていたんだが、もう寝る時間だとゲラルドが部屋へ連れていった」
「ヒュー……」
また、視界が滲んできた。
ほんと最近、泣いてばかりだ。
ジン君も、ヒューも、公爵様も。
たくさんの人が、私のことを心配してくれた。
こちらの世界にも、私が無事でいることを願ってくれる人がいる。
それが、嬉しくて。
でも同時に、あちらの世界に残してきた家族のことを思い出してしまう。
その時、夢の中で聞いた女神様の言葉が、頭をよぎった。
祝福。
「あ……」
私は、ベッドの横に置かれた仕事バッグへ手を伸ばした。
身を乗り出すと、公爵様が代わりに取ってくださる。
「ありがとうございます」
バッグを受け取り、中を確認する。
すると、見覚えのない封筒が入っていた。
淡い金色に輝く封筒には、一本の麦の穂が描かれている。
中には、同じ麦の穂が描かれた便箋が数枚入っていた。
「どうした?」
「これ……見てください」
私は公爵様に、淡く光る封筒を見せた。
「さっき夢で、デメテル様が“祝福”を授けたとおっしゃって……目が覚めたら、これが入っていました」
信じられない気持ちのまま、公爵様に尋ねる。
「……手紙を書きなさいってことですよね?」
「ああ。おそらく」
公爵様が、私の手元を覗き込んだ。
「女神様から授けられたものなら、きっと君の望む相手へ届くのだろう」
望む相手……
「お母さん……」
震える指で封筒に触れ、もう一度確認する。
やっぱり、封筒は一枚しかない。
送れるのは、きっと一回だけ。
だったら、私一人で書いちゃ駄目だよ。
ジン君だって、おじいちゃんやおばあちゃん、それから私のお母さんに、伝えたいことがあるはずだから。
あ!
そうだ。
封筒なら、写真も一緒に送れるんじゃない?
ジン君も私も、ちゃんと無事でいること。
こちらの世界で、たくさんの人に支えてもらっていること。
お母さんたちが少しでも安心できるように、みんなと一緒に写ったものを送りたい。
「あの、写真って撮れますか?」
「シャシン?」
公爵様が、不思議そうに首を傾げる。
あ。
もしかして、カメラがない……?
少し不安になりながら、身振り手振りで説明する。
「人や景色を、こうやってパシャッと写したものなんですが……」
「ああ、姿絵のことか? それなら、魔導具で――」
「魔導具で撮れるんですね?」
「ああ。撮れば、すぐに姿絵が出てくる」
公爵様が、安心させるように頷いてくださった。
……よかったぁ。
さすが、魔法大国リッツェンだ……。
封筒を胸に抱き、女神様へ感謝する。
ありがとうございます。
デメテル様、本当にありがとうございます。
「……これ、ジン君と一緒に書きます」
「ああ。それがいい」
公爵様は、また頷いてくださった。
これで、ようやく伝えられる。
私は無事だよって。
ジン君も、ここにいるよって。
きっと、もう帰れない。
声を聞くこともできない。
それでも――
「うぅ……」
今まで堪えていたものが、一気に溢れ出した。
「会いたいです……」
俯くと、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
公爵様は無言で立ち上がると、そのまま私の隣へ腰を下ろした。
そして、そっと腕を伸ばし、私の肩を抱き寄せてくださる。
フロイラインの神殿で、ずっと私を守ってくれた時のように。
大きな胸へ、額が触れた。
「……うぅ」
静かな部屋に、私の泣き声だけが響いている。
肩に置かれた大きな手が、何度も、慰めるように撫でてくれる。
この腕の中は、とても居心地がいい。
ずっとこうしていたいと思ってしまうくらいに。
でも。
……勘違いするな、自分。
本当なら、こんなふうに縋ってはいけない人だ。
公爵様には、亡くなった奥様がいらっしゃるんだから。
今夜だけ。
今夜だけ、どうか許してください。
だって、温かいんだもん……。
明日からは節度を守るから。
ちゃんと、身の程をわきまえるから。
だって――
この人は、好きになってはいけない人でしょう?




