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非処女は聖女にあらず?~追放された私、隣国では聖女として溺愛されてます~  作者: コトリちゃん
本編

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50 聖女の癒し

 

 温かい。


 私を抱きしめるジン君と、ジン君を抱きしめる私。

 それから、私たち二人を優しく包み込む女神様。


 このお方が、女神デメテル様……。


 なんて、お美しいんだろう。


 琥珀色の瞳が、私を見つめていた。

 目が合うと、女神様はふわりと微笑まれる。


 その柔らかな視線が、今度は私の肩へ顔を埋めたままのジン君へ移った。


 すすり泣く声が聞こえる。


 ジン君がこんなふうに泣くところを、私は一度も見たことがなかった。


 彼が亡くなったのは、今の私と同じ二十四歳。


 就職して二年。

 やりたいことも、行きたい場所も、きっとまだたくさんあったはずだ。


 なのに突然、事故で人生が終わってしまった。


 私たち家族を残したまま。


 前世の記憶があるなんて、少し得したようなものなのかなって、これまで漠然と思っていた。


 でも、違った。


 後悔も、残された家族への想いも、胸の奥へ抱えたまま。

 ジン君は、ずっと新しい人生を生きてきたんだよね。


 きっと今日、押し込めていたものが、こうして一気に溢れてしまったんだ。


 そんなことを考えていると、女神様の腕がそっと離れた。


 私はもう一度、女神様を見上げる。


 女神様は何も言わず、私が持ってきたバスケットへ視線を落とされた。

 それから、ジン君を見る。


 ……あ。


 この中には、今日のランチにお出しするはずだったパンが入っている。

 公爵様とヒューに食べてもらうはずだった、焼きたての白パンと試作のクロワッサン。


 ――そういうこと、ですね。


 私は小さく頷いた。


 バスケットを持ち上げる。

 蓋を開ける前に、エプロンのポケットからハンカチを取り出した。


 まずは、自分の涙を拭く。

 それから、そっとジン君の頬へ当てる。


 潤んだ空色の瞳が、ゆっくりと私を見つめた。


「……りり?」


 私は不安そうに瞳を揺らすジン君へ、にっこりと笑いかける。

 そして、日本語で言った。


『ジン君。見て』


 ジン君の目の前で、バスケットの蓋を開ける。

 焼きたてのパンの香りが、ふわりと広がった。


 トングでクロワッサンを一つ取り出し、そっとナプキンへ乗せる。


『焼けたよ』


 一言、そう伝える。

 ジン君の目が、大きく見開かれた。


『……クロワッサン?』


『うん。ほんとはまだ試作なんだけど』


 少し照れくさくなって笑う。


 ジン君は震える手で、ナプキンごとクロワッサンを受け取った。


 しばらくじっと眺め、角度を変えては、また眺める。

 それから、ゆっくりと一口かじった。


 サクッ。


 小気味よい音が、静まり返る聖堂に響く。

 途端に、バターの甘く香ばしい匂いがふわりと広がった。


『……』


 ジン君は何も言わない。


 もう一口。


 また一口。


『……うまい』


 掠れた声だった。


『この味だ……』


 言葉が震える。


『もう二度と、食べられないと思ってた……』


 ぽろり、と涙が零れた。


『何度も夢に見たんだ……この香りも、この食感も……』


 ふにゃりと笑った空色の瞳から、またぽろぽろと涙が溢れ出す。


 私はハンカチで、そっとその涙を受け止めた。


 その瞬間だった。


 ジン君の身体から、金色の光がふわりと溢れ出した。


 優しい光は波紋のように静かに広がり、やがて空中へ溶けるように消えていく。


「わぁ……」


 思わず声が漏れた。


 なに、今の……?


 呆然とする私を見て、傍らの女神デメテル様が、くすりと微笑まれた。



 その穏やかな空気を引き裂くように、掠れた声が響く。


「なによ……」


 びくりとして、声のした方を振り返った。


 女神アルテミス像のそばに、一人の女の子が立っている。

 その身体からは、黒い靄のようなものが、ゆらゆらと立ち上っていた。


「どうして……?」


 俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。

 暗く濁った瞳が、真っすぐに私を捉えた。


「召喚されたのは私なのに!」


 黒い魔力が、床を這うように広がっていく。


「聖女は私なのに、みんなあなたのことばかり――」


「サーラ様、落ち着いてください!」


 神官の一人が、慌てて駆け寄った。


「うるさい、うるさい、うるさい!!」


 女の子が叫ぶと、どす黒い魔力が弾け飛ぶ。

 駆け寄った神官が、吹き飛ばされるようによろめき、その場へ尻もちをついた。


「ずるい……」


 女の子の口元が歪む。


「ずるい、ずるい、ずるい!」


 金切り声が、聖堂に響き渡った。

 黒い魔力が渦を巻き、女の子の身体から勢いよく噴き出す。


 そのとき。

 聖堂正面に立つ女神アルテミス像が、青白い光を放った。

 女の子を覆っていた黒い魔力が、激しく揺らめく。


 眩しさに思わず目を細めると、その光の中から、凛とした一人の女性が姿を現した。


 腰まで届く銀色の髪。

 夜空を映したような瞳。


 背には弓を負い、額には三日月の飾りを戴いている。


 女神様だ。


 デメテル様とは、まったく雰囲気が違う。

 フロイラインの神官たちが、一斉に額を床へつけた。


「女神アルテミス……」


 大神官が、震える声で呟く。

 けれど女神様は、神官たちには一瞥もくれなかった。


 憐れむような静かな瞳で、ただ女の子だけを見つめている。


 この子……あの女子高生だよね。

 私と一緒に、この世界へ召喚された子。


 この国の聖女、のはずだ。

 あのとき見たステータスにも、そう書かれていた。


 なのに、どうしてこんな禍々しいものに包まれているの?


 女神アルテミス様は、無表情のまま女の子の傍らに立っていた。


 抱きしめるわけでもない。

 声をかけるわけでもない。


 それでも、彼女から離れようとはしなかった。


 ただ静かに、すぐ隣へ寄り添っている。


 ――ザリ。


 石床を踏む音がした。


 女の子が、黒い靄を立ち上らせたまま、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


 ジン君が、私を守るように抱く腕へ力を込めた。


 けれど女神アルテミス様も、女の子と一緒に歩いてくる。


 きっと大丈夫。

 こちらにもデメテル様がいらっしゃるんだから。


 横を見ると、ふわりと微笑んでくださった。


 女の子は、私たちの少し手前で足を止めた。

 それから、私とジン君を交互に見つめる。


『……日本語』


 小さく呟いた。


『……どうして』


 そう聞かれたけれど、私は答えられなかった。


 私とジン君が、どうして知り合いなのか。

 説明しようとしても、どこから話せばいいのかわからない。


 沈黙の中で、彼女を包む黒い靄だけが、ゆらゆらと揺れている。

 すると彼女は、おずおずと片手を伸ばした。


『……それ』


 指の先にあったのは、ジン君が手にしているクロワッサンだった。


 落ちくぼんだ目で、それをじっと見つめている。

 近くで見ると、頬もすっかりこけていた。


 ちゃんと、ご飯を食べさせてもらってないの……?

 聖女なのに、なんで?


 そのときだった。


 ぐぅぅぅ――。


 静まり返った聖堂に、大きなお腹の音が響いた。


 目の前の彼女のお腹だった。

 彼女は、少し気まずそうに俯く。


 私はジン君の腕から抜け出し、バスケットへ手を伸ばした。

 残っていたもう一つのクロワッサンを取り出す。


『食べる?』


 そっと、目の前へ差し出した。


 理由なんてない。

 お腹を空かせた人がいたら、パンを食べさせてあげたい。

 私には、それが当たり前だった。


 彼女は、しばらくクロワッサンを見つめていた。

 それから、女神アルテミス様を見る。


 女神様は、何も言わない。

 けれど、小さく一つ頷かれた。


 やがて彼女は、両手でクロワッサンを受け取った。

 と思ったら、迷うことなくかじりつく。


 パリッ。


 軽やかな音が響いた。


 一口。


 もう一口。


 そして――。


 ぽろり。

 大きな涙が零れた。


『……なんで』


 また一口。


『なんで……』


 声が震えている。


『どうして、あなたは……?』


 その先の言葉が見つからないのか、彼女は唇を噛んだ。

 戸惑ったように視線をさまよわせ、それから、またクロワッサンをかじる。


 もう一口。


『うぅ……』


 そのときだった。

 彼女の身体が、金色に光り始めた。


 次の瞬間、身体を包んでいた黒い靄が、ゆっくりとほどけていく。

 まるで、春の日差しに溶けていく雪のように。


 優しい光はさらに大きく広がり、やがて聖堂全体を金色に染め上げた。

 ジン君のときよりも、ずっと強くて、眩しい光だった。


 しばらくして、スン、と鼻をすする音が聞こえた。


『ごめんなさい……』


 誰に対してなのか。

 彼女は俯いたまま、呟いた。


『ごめんなさい』


 もう一度。

 今度は、少しだけ大きな声だった。


『ママ……』


 震える声。


『パパ……』


 流れる涙を、空いた手の甲で拭っている。


『帰りたいよぉ……』


 彼女はそう言うと、とうとうその場へしゃがみ込んだ。

 しゃくり上げながら、子どものように泣きじゃくる。


 誰一人として口を開かなかった。

 ただじっと、その光景を見守っていた。


 女神アルテミス様も、何も言わない。

 それでも、しゃがみ込んだ彼女のすぐ傍に立ち続けている。


 やがて泣き声がおさまると、聖堂がしんと静まり返った。


 気づけば、ジン君も泣き止んでいた。

 空色の瞳と目が合う。


 ジン君は少し照れくさそうに笑うと、もう一度、私をぎゅっと抱きしめた。

 女神デメテル様が、そんな私たちを見て優しく微笑まれる。

 それから温かな手を伸ばし、私とジン君の頭を、そっと撫でてくださった。


 隣を見ると、彼女はまだ床へしゃがみ込んでいた。


 その傍らには、相変わらず無表情な銀髪の女神様が立っている。

 表情は変わらない。

 けれど女神様は、最後まで彼女の隣を離れなかった。


 しばらくして、彼女がゆっくりと立ち上がる。


 目は真っ赤に腫れていた。

 けれど、さっきまでの生気を失ったような表情は、もうどこにもなかった。


 彼女が、私の正面に立つ。


 お礼を言われるのかな?

 そう思い、私はジン君の腕から離れて向き直った。


 彼女は一度咳払いをすると、真面目な顔で言った。


『……美味しかった』


 ……うん。


 少し照れくさい。

 でも、やっぱり嬉しいな。


 そう思った次の瞬間。


『でも私は、駅前ベーカリーのクロワッサンの方が好きかな』


『はぁ!?』


 思わず叫んでしまった。


『ちょっ、これ、まだ試作だからね!?』


 反射的に言い返したところで、ふと気づく。

 いつの間にか、私たちの傍らにいた二柱の女神様は、静かな光となって姿を消していた。

 




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