49 残された家族
(皇太子ジークフリート視点)
金色の光が消えるより先に、周囲の状況を確認した。
広い石造りの聖堂。
床に倒れ伏す神官と騎士。
剣を手に、立ちはだかるハルト。
その腕の中には、りりがいた。
「我が国の聖女に、一体何をしている」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
返事はない。
フロイラインの者たちは、突然現れた俺たちを呆然と見つめている。
俺の左右には護衛騎士たち。
その後ろには、ゲラルドも立っていた。
女神デメテルによる神性干渉だ。
本来、他国へこれほど多くの人間を一度に転移させることなどできない。
だが、我らの女神デメテルはやってくれた。
自らの聖女を取り戻すために。
「殿下……」
ハルトが、ようやく緊張を解いたように息を吐いた。
その肩には血が滲んでいる。
上着が鋭く切り裂かれ、傷口から流れた血が白いシャツを赤く染めていた。
それでもハルトは、もう片方の腕でりりを抱いたままだ。
「ハルト」
「はい」
「よく守った」
それだけを伝えると、ハルトは一瞬、目を見開いた。
やがて、いつものように静かに頭を下げる。
「……はい」
「ゲラルド、診てやれ」
「承知しました」
「この程度、問題ありません」
「問題があるかどうかは、私が判断します」
ゲラルドに即座に言い返され、ハルトがわずかに顔をしかめた。
その様子を、りりが心配そうに見つめている。
「ジン君……」
顔が青ざめていた。
目には涙が浮かび、唇も小さく震えている。
俺は何も言わず、りりへ両腕を伸ばした。
りりも、すぐに俺の胸へ飛び込んでくる。
ただ、強く抱きしめた。
温かい。
ここにいる。
ちゃんと生きている。
「遅くなってごめんな」
「ううん……来てくれて、ありがとう」
「ああ」
その髪へ頬を寄せる。
「もう大丈夫だ」
りりの背中を撫でながら、ゆっくりと息を吐いた。
大丈夫だ。
間に合った。
わかっているのに、腹の底からは冷たい怒りが湧き上がってくる。
聖堂の外から、風の唸る音が聞こえ始めた。
開け放たれた高窓から、白いものが舞い込んでくる。
雪だった。
りりの感情につられてか、外ではすでに雨が降っていた。
そこへ俺の感情まで加わり、今度は真っ白な雪が激しく降り始めている。
初夏だというのに。
感情と天候。
どうやら、他国であろうと連動するらしい。
「これは……」
フロイラインの大神官が、青ざめた顔で呟いた。
「天候が……なぜ、我が国で……」
知るか。
雪でも雹でも降ればいい。
俺はりりを腕に抱いたまま、正面に立つ男を見据えた。
豪奢な衣装を身にまとい、尊大な表情を崩さない男。
フロイライン王国第一王子、リヒャルト。
こいつが、りりを侮辱した男か。
「なんと、なんと。皇太子自ら乗り込んでくるとは……」
リヒャルトは、聖堂へ舞い込む雪など気にも留めず、俺を見ると鼻で笑った。
「して、聖女とな?」
俺は答えなかった。
「乙女でもないのに、聖女とは……」
腕の中で、りりの身体が強張る。
それを感じた瞬間、氷混じりの雪がステンドグラスを激しく打ち始めた。
「それ以上、口を開くな」
そう告げても、リヒャルトは薄笑いを浮かべたままだった。
「何を怒っている? 貴殿も公爵も、その女を大層気に入っているようだ」
その女……
りりを抱く腕へ、ぐっと力が入る。
「我らの召喚なくして、貴殿はその“聖女”とやらには出会えなかったというのに」
リヒャルトは、大仰に両手を広げて言い放った。
「……ふざけるな」
「事実だろう。魔力も国費も、我が国が出してやったのに――むしろ、感謝すべきだろう」
感謝。
その言葉を聞いた瞬間。
何かが切れた。
りりの肩から腕を離し、前へ出る。
「ジン君?」
心配そうな声が聞こえた。
だが、もう止まれなかった。
大股でリヒャルトへ近づく。
リヒャルトは、まだ笑っていた。
「どうだ、私にも一度――」
最後まで言わせなかった。
右の拳を、リヒャルトの顔面へ叩き込む。
鈍い音がした。
リヒャルトの身体が横へ吹き飛び、石床へ倒れ込む。
「殿下!」
フロイラインの騎士たちが声を上げた。
俺は倒れたリヒャルトの襟を掴み、その身体を引き起こす。
「感謝、だと?」
「な、何を……」
リヒャルトの鼻から血が流れている。
俺は、もう一度拳を握った。
「お前たちは、俺を失った家族から――」
声が震えた。
怒りだけではない。
自分でも触れないようにしてきた痛みが、胸の奥から一気に溢れ出してくる。
「今度は、りりまで奪いやがったんだ!!」
聖堂内が、静まり返った。
リヒャルトが、何を言われたのかわからないという顔をする。
「……は?」
大神官も、神官たちも、護衛騎士たちも同じ顔をしていた。
当然だ。
こいつらには、わからない。
俺が何者なのかも。
俺の家族が、何を失ったのかも。
俺が死んだ日。
父さんと母さんと姉ちゃんは、俺を失った。
きっと泣いた。
きっと苦しんだ。
それでも、前を向いて生きてきたはずだ。
なのに、こいつらは。
何も知らず。
何も考えず。
今度は、うちの家族からりりまで奪いやがった。
「貴様らにとっては、ただ女が二人現れた――」
リヒャルトの襟を掴む手へ、さらに力が入る。
「それだけだったのだろう」
「何を、言って……」
「りりには家族がいる!」
自分の声が、聖堂中へ響いた。
「待っている家族がいるんだ! 突然いなくなって、どこにいるのかも、生きているのかもわからないまま、今も……」
リヒャルトが言葉を失う。
「……それをお前らは、感謝しろだと?」
拳を振り上げる。
だが、その腕に誰かがしがみついた。
「ジン君」
りりだった。
いつの間にか、足元へバスケットを置いている。
俺の振り上げた腕へ両腕を回し、そのまま身体を寄せてきた。
「もういいよ」
「でも……」
「ジン君……」
りりは泣いていた。
静かに涙を流しながら、それでも俺に笑いかけようとしている。
「もう、大丈夫だよ」
その一言で、全身から力が抜けた。
俺はリヒャルトの襟から手を離した。
床へ崩れ落ちるリヒャルトには目も向けず、りりを抱きしめる。
「……ごめん」
視界が滲む。
俺自身も、感情が溢れ出して止められなかった。
「ジン君は何も悪くない」
「……うん」
りりも、俺の背中へ腕を回した。
「ジン君がここにいてくれて、私は救われたの」
りりの声が震える。
「ジン君がいてくれて、よかった」
その言葉に応えるように、温かい風が吹いた。
俺たちの足元へ、金色の光が広がっていく。
やがて、黄金色の麦が芽吹くように、無数の光が石床から立ち上った。
風が頬を撫でる。
次の瞬間。
俺とりりのすぐそばに、一人の女性が立っていた。
豊かな金色の髪。
大地のように深く、優しい琥珀色の瞳。
女神デメテルだった。
女神は俺たちを見つめ、慈しむように微笑んだ。
そして、俺とりりを包み込むように両腕を広げる。
温かい。
懐かしいような。
ずっと昔から知っていたような。
母親に抱きしめられたような、そんな温もりだった。
女神は何も言わない。
ただ、俺とりりをそっと抱きしめている。
外を吹き荒れていた風が、少しずつ弱まっていく。
ステンドグラスを打っていた音も、やがて止んだ。
俺は目を閉じた。
そしてただ静かに、その腕へ身を委ねた。




