44 忘れないように
休養二日目。
昨日も今日も、厨房では本当にパン種の確認しかさせてもらっていない。
調理の手伝いはおろか、ちょっとボウルを片付けようとしただけで、マルクさんに追い出される始末。
四六時中、ゲラルド先生に監視できるわけもなし……なんて思った私が馬鹿でした。
どうやら使用人全員で『私を休ませる』ということを共有しているらしい。
だから今日はもう、無駄な抵抗はしないって決めたの。
昨日の夜は、眠くなるまでずっと、これまでの失敗から得た情報をノートにまとめた。
今日は今日で、記憶しているレシピを可能な限り書き起こすことにした。
クロワッサンも、デニッシュも、メロンパンも。
バゲットだって、この先絶対チャレンジするつもり。
でも、やっぱり最優先事項はクロワッサンだよね。
「準強力粉に、バター、砂糖に塩。イーストはないから……」
ぶつぶつ呟きながら、ひたすら分量を記録する。
日本での手順、生地の温度、バターの折り込み方、休ませるタイミング。
思い出せる限り、全部書き出す。
とにかく、記憶がまだ鮮明なうちに全部書き残そう。
でないとここで過ごすうち、絶対少しずつ忘れてしまうから。
正直、それが一番怖い。
この世界にはネットもなければレシピ本もない。
だから、今のうちに。
覚えているうちに。
「……よし、書けた」
思いつくまま一通り書ききって、私はペンを置いた。
顔を上げると、いつの間にかヒューとゲラルド先生が私の手元を見ていた。
二人は私の邪魔をしないように、少し離れた場所で静かにしてくれていたみたい。
「リリー、できた?」
ヒューがぱっと顔を明るくする。
今日は午後から空き時間があるということで、私の近くでずっと本を読んでいたんだよね。
ええと、表紙には……『女神と加護のはじまり』と書かれてる。
ヒューはまだ四歳なのに、すごいなぁ。
「うん。とりあえず、覚えている分は書けたかな」
「では、休憩にしましょうか」
ゲラルド先生が穏やかにそう言った。
「やったー。お外でお茶にしよう!」
ヒューが椅子から飛び跳ねるように立ち上がる。
「お外?」
「うん! 今日はお天気がいいし、リリーはずっと書いてばっかりだったから」
そう言って、ヒューは当然のように私の手を引いた。
その小さな手に導かれるまま、私はゲラルド先生と一緒に庭園へ向かうことになった。
◇◆◇
「ここはね、母上が育てていたバラ園だよ。父上がプレゼントしてあげたんだって」
「そうなんだね。素敵……」
ヒューに案内されたのは、バラの咲き誇る庭園の一角だった。
その中央には、白いガゼボが立っている。
そこからは屋敷全体を眺めることができた。
公爵様と奥様、そしてヒュー。
きっと三人で、こんなふうにお茶を楽しんだ時間もあったんだろうな……
そう思うと、胸が苦しくなった。
まだ幼い目の前のヒューが可哀想で、愛しくて、どうしようもなくなる。
私は立ち上がると、ちょこんとお行儀よく座っていたヒューを抱き上げた。
「リリー?」
「少しだけ、いいかな?」
返事を待たずに、私はヒューを自分の席まで連れていく。
そして膝の上に座らせると、後ろからそっと抱きしめた。
ヒューは驚いたように瞬きをしたあと、すぐに照れたように笑った。
「へへ」
その笑い方があまりにも可愛くて、胸の奥がぎゅっとなる。
私は黙ったまま、ヒューのふわふわした後ろ頭に頬を寄せた。
柔らかな風が吹く。
バラの花と葉が、ほんの少しだけ揺れる。
ただ、静かな時間が流れていった。
「ヒューの母親は、私の姉なんです」
対面に座って、静かに私たちを眺めていたゲラルド先生が、おもむろに口を開いた。
「……え、それじゃあ」
ゲラルド先生は、お姉さんを亡くされたということ?
「はい。だから、私もヒューの叔父なんですよ」
ん?
私も、とは?
ああ、ジン君のことを言ってるのかな。
なるほど。ゲラルド先生はヒューの家庭教師でもあり、叔父さんでもあるってことか。
「ヒューのお母様と、ゲラルド先生はよく似ていらっしゃったんですか?」
先生がヒューのお母様の弟さんなら、きっと面影もあるよね。
「そうですね。髪色も瞳の色も同じでした。ただ……性格は少し、いや、かなり違いましたね」
ゲラルド先生は懐かしそうに目を細めた。
「母上はね、かなり怖かったよ!」
膝の上で、ヒューが楽しそうに言う。
「そうですね。とても勝気な人でしたね。幼い頃から私も泣かされてばかりで……」
「お母様、そんなに怖かったの?」
「うん! ぼくもゲラルドもよく叱られてた!」
ヒューが笑う。
ゲラルド先生も、どこか遠いものを見るように微笑んでいる。
「……そっか。じゃあ、ヒューの見た目はお父さん似で、中身は……やっぱりお父さん似かな?」
「うん! 父上はとっても明るくて、優しい方だったんだよ。でね、父上もよく叱られてた!」
楽しそうに話すヒューが可愛くて、でも切なくて。
私は膝の上のヒューを、もう一度ぎゅっと抱きしめた。
お母様は怖いというか、きっと、かかあ天下ってやつだったのかな。
公爵様って話すの苦手そうだしね。
たしかに、いかにも叱られてそう……。
……ん?
っていうか、今、ヒューはお父様の話を過去形で話していなかった?
”父上は、とっても明るくて、優しい方だった”って。
……あれ?
聞き違いかな?
そう思ったところで、ガゼボの外から明るい声が聞こえた。
「さぁさぁ、どうぞ。大変お待たせしてしまいましたね」
ウッシさんが、紅茶とクッキーを運んできてくださった。
そうそう。
このクッキーはね、誰でも作れるように厨房へレシピを伝えてあるんだ。
「ありがとうございます」
私はヒューを膝に乗せたまま、ウッシさんにお礼を言った。
「やったぁ、今日はリリーのくっきーだ!」
嬉しそうに笑ったヒューが、さっそく一枚手に取って、ぱくりと口に入れる。
けれど――。
「あれれー。前のと違うねー」
ヒューはクッキーをかじりながら、少し残念そうに私を見上げた。
「え、そんなことないよ。レシピ通りに焼いてくださったはずだよ?」
私もクッキーを一枚手に取り、かじってみる。
うん。
味も焼き加減も、私が作ったものとほとんど同じだ。
むしろ形は揃っているくらいなのに。
「……違いますよ。魔力がこもっていないので」
ゲラルド先生が、にこやかにそうおっしゃった。
「魔力、ですか?」
「ええ。以前リリーさんが作られたものには、リリーさんの魔力がこもっていました。ヒューは、その違いを感じ取っているのですよ」
「あー、そっか。リリーが作ってないからかぁ……」
ヒューが納得したように頷く。
いやいやいや。
魔力って、食べただけでそんなにわかるものなの?
「でも、これもおいしいね!」
そう言って、ヒューはもう一枚クッキーを手に取った。
その素直さにほっとして、私は思わず笑ってしまう。
「そうだね。じゃあ、今度また一緒にクッキー作ろっか」
「ほんと!?」
「うん。休養日が終わって、マルクさんに許可をもらってからね」
「やったー!」
ヒューが両手を挙げて喜ぶ。
その拍子に、膝の上で少し身体が跳ねたので、私は慌てて支えた。
「えへへ。ごめんなさい」
ゲラルド先生は、そんな私たちを見て小さく笑っていた。
吹き抜ける風にバラの香りがする。
紅茶は温かくて、ヒューは膝の上で嬉しそうにクッキーを食べている。
まだ少し夢みたいだけど。
こんな休日も、悪くないのかもしれない……
そう思えるくらいには、私もここに馴染んできたのかな。
◇◆◇
その夜。
部屋に戻ってから、私はもう一度ノートを開いた。
クロワッサン。
生地にバターを折り込んで、伸ばして、畳んで、休ませる。
書けばたったそれだけなのに、実際にやるとなると、きっとまた何度も失敗する。
でも、失敗するのは怖くない。
忘れてしまう方が、ずっと怖いから。
まだ頭に、手に、日本での記憶や感覚が残っているうちに作らなきゃ。
私は今日書いたばかりのページに書き足した。
『成功したらまず、公爵様とヒューに食べてもらう』
それから下に、もう一つ付け加える。
『一番綺麗に焼けたものをジン君にあげる』
うん。
絶対、焼いてみせる。
そう思いながらノートを閉じると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
よーし、明日からまたパンを作るぞ。
だってここにも、それを喜んで食べてくれる人たちがいるんだもん。




