41 なんでいるの!?
朝の厨房には、焼きたてのパンの香りが広がっていた。
香ばしい小麦の香りに、ミルクやバターの甘い匂いが混じっている。
「うん、やっぱり違うな」
「いい香りだ……」
ティムと先輩が話している。
もちろん、毎朝マルクさんが焼く黒パンからも、ライ麦の香ばしい匂いは漂っていた。
あちらは、どっしりとした穀物の香り。
焦げた皮の香ばしさに、ほんの少し酸味が混じる。
まさに黒パンというべき、滋味深い香りだ。
でも、今朝の厨房に広がっているのは、それとはまったく違う匂いだった。
今朝はマルクさんの指示で、公爵様たちの朝食に、私の焼いたパンをお出しすることになった。
今朝のパンは、昨日よりまた少し美味しくできたんじゃないかと思ってる。
公爵様にもそう思ってもらえたらいいな。
「ほら」
そう言って、マルクさんがトングとバスケットを渡してくれた。
ああ、なるほど。
これで焼き上がりの良いものを選べってことですね?
「了解です!」
天板に並ぶ、いくつもの丸いパン。
その中から、形や焼き色を見て、より良いものを選んでいく。
そうしてバスケットに蓋をして、配膳担当の人に渡そうと周囲を見回していると、
「何をしている。早くお出ししてこい」
と、マルクさんに急かされる。
「え、私がですか?」
「ほかに誰がいる?」
質問で返されてしまった。
「では、行ってまいります!」
マルクさんに挨拶をして、厨房を出る。
出口には、侍女のウッシさんが待っていた。
「お疲れ様です!」
「あなたもね。ほんと働いてばかりなんだから……」
ウッシさんとは、厨房で働くようになってから何度も顔を合わせている。
もちろん、侍女長のハンナさんにも。
この公爵邸の女性使用人は、この二人だけ。
あとは全員男性だ。
なんでかな、と最初は思ったけど、なんとなく察したよ。
あれでしょ?
奥様を亡くしたばかりの公爵様に、若い女性使用人を近づけるのはよろしくない、みたいな?
じゃあ、私はどうなんだろう……?
ま、あれか。
私、使用人どころか異世界人だもの。そもそも論外だよね。
そんなことを考えながら、私はバスケットを抱えたままダイニングルームへ入った。
室内は、柔らかな朝の光に包まれていた。
磨き込まれた長いテーブルに、白いクロス。
テーブルの上には、摘み取られたばかりなのかな、朝露のきらめく薄紅のバラが飾られている。
そこにはすでに、公爵様とヒューが座っていた。
「リリー!」
私と気づいた瞬間、ヒューがぱぁっと顔を輝かせた。
「おはよう、ヒュー」
まずは笑顔のヒューに挨拶を返す。
それから、
「おはようございます」
と、公爵様にも頭を下げた。
公爵様は「ああ」と短く返してくださった。
うん、いつも通りの対応だ。
そう思ったところで、公爵様の視線が斜め前に向いた。
その先には――
「え、ジン君!?」
「おう、りり。おはよう」
ジン君は、いつもここで朝食を食べています、と言わんばかりの顔でにこやかに手を上げた。
「なんでいるの!?」
「りりのパンが焼けたと聞いてな」
「誰から!?」
「ハルトから」
私は勢いよく公爵様を見た。
けれど公爵様は、静かに目をそらした。
昨日の今日だよ?
いくらなんでも早すぎじゃない?
「それ、リリーのパン!?」
「あ、うん。今朝焼いたんだよ」
「うわぁ、いい匂いがするね!」
ヒューは椅子の上でそわそわし始めた。
可愛い。
ものすごく可愛い。
でも、長テーブルの上座には、金髪碧眼の皇太子殿下。
うん、まずはやっぱりジン君からだよね。
「失礼します」
私はなるべく丁寧に、バスケットからパンを取り分ける。
ジン君のお皿にひとつ。
公爵様のお皿にひとつ。
そして、ヒューのお皿にもひとつ。
「いただきます!」
ヒューが小さな手で早速パンを割った。
ふわりと湯気が上がった瞬間、ヒューの目がさらに丸くなった。
「わあ……!」
それから、ぱくりと口に入れる。
次の瞬間、ヒューの頬がゆるんだ。
「おいしい! リリー、これすごくおいしい!」
「ほんと?」
「うん! ふわふわ!」
その言葉に、胸の奥がぱっと明るくなる。
公爵様も黙ってパンを口に運んだ。
昨日と同じように、ゆっくり噛んで、それからもう一口。
何も言わない。
けれど、手は止まらない。
……それはそれで、ものすごく嬉しい。
そしてジン君は、半分に割ったパンをただじっと見つめていた。
「ジン君?」
「……いや」
ジン君は小さく笑った。
「懐かしいなと思って」
そう言って、ひと口食べる。
その瞬間、ジン君の表情が少しだけ崩れた。
「……うん。美味いな」
いつもの軽い調子ではなかった。
たったそれだけなのに、私はなぜか泣きそうになった。
「まだまだだよ……」
「いや」
ジン君は首を横に振った。
「匂いも、食感も。……懐かしい味だ」
……そっか。
そう感じてもらえたなら、よかった。
でも、どうしても言っておきたいことがあった。
「ジン君、あのね……」
傍に立ったまま声をかけると、ジン君が座るように促した。
それも、公爵様の正面の席に。
……いいのかな。
でも、立ったまま話し続けるのも変だし。
私は少し迷ったあと、椅子を引いて腰を下ろした。
「飯は?」
「あとでみんなといただくよ」
「そうか」
それより、私はずっと気になっていたことを口にする。
「ジン君、あのね。クロワッサンへの道のりは、まだまだ遠いかも……」
本当は、すぐにでも作ってあげたかった。
魔法のある世界だから、案外なんとかなるんじゃないかなぁって少しだけ夢を見ていた。
でも、実際にはそんな簡単な話じゃなかった。
やっとシンプルなパンがひとつ、焼けるようになっただけ。
クロワッサンみたいに薄い生地とバターを幾層にも重ねるには、温度管理が必要だ。
パン種だって、もっともっと改良しなきゃいけない。
「……ごめんね」
うつむいてそう言うと、ジン君は小さく息を吐いた。
「そんなことで謝るな」
「でも」
「あれがそんな簡単にできるもんじゃないことくらい、俺にだってわかる」
そう言って、ジン君は少しだけ口元を緩めた。
「クロワッサンには詳しいからな」
……そうだよね。
大好物だもんね。
それでも、胸の奥に残っていた申し訳なさは、すぐには消えなかった。
するとジン君は席を立ち、私のそばまで歩いてくる。
そして、こちらの顔をのぞき込んだ。
「それより、りり」
「な、なに?」
「お前、ちゃんと寝てるか?」
ぎくりとした。
なんで、ここでそれを聞くの。
しかもジン君は、なぜか公爵様の方を見た。
「ハルト」
「はい」
「こいつ、寝てないんじゃないか? 昔から夢中になると時間を忘れるタイプだったんだが」
やめて。
ジン君、ほんとやめて。
私、もう二十四歳だから。
そんな保護者みたいなことを、公爵様の前で言わないでほしい。
けれど公爵様は、あっさり頷いた。
「確かにこのところ、早朝から深夜まで厨房にこもりきりでした」
「……おいおい。りりはお前みたいな脳筋じゃないんだぞ。倒れたらどうする」
「申し訳ありません」
「ちょっと、ジン君。公爵様を責めないで。私が勝手にやってただけだから」
「そこが問題なんだよ」
そう言って、ジン君の大きな手が私の頭に乗せられた。
小さい頃みたいに、ぽんぽんと優しく撫でられる。
「焦らなくていい」
ああ、だめだ。
……ほんとはね、私、暇が怖いんだよ。
何かしてないと、考えちゃうでしょう?
フロイラインのこと。
日本のこと。
家族のこと。
そして、もう戻れないっていう現実を。
だから、ずっと何かに没頭していたかった。
パンのことだけを考えていたかった。
そんなこと、意識したくなかったのに……
ジン君に頭を撫でられているうちに、堪えきれず涙があふれてきた。
「……りり?」
「大丈夫、大丈夫だから……」
手の甲で涙をぬぐいながらも、私はジン君の手に甘えるように、ほんの少しだけ頭を傾けてしまった。
その時だった。
「ねぇ」
斜め前から、ヒューの小さな声がした。
見ると、ヒューはパンを両手に持ったまま、少し不安そうに私たちを見比べていた。
「……リリーは、殿下と結婚するの?」
な、なにそれ!?
その爆弾発言に、思わず涙も引っ込んでったよ!




