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非処女は聖女にあらず?~追放された私、隣国では聖女として溺愛されてます~  作者: コトリちゃん
本編

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40 パンの匂い

 こねて、休ませて、また様子を見る。

 生地の張りを確かめて、発酵の進み具合を見て、何度も何度も手を洗っては作業台へ戻った。


 夕食の支度が終わり、片づけも終わると、あたりは少しずつ静かになっていった。

 残っているのはもう、私とマルクさんだけ。


 それでも私は、パンから目を離せなかった。


「……膨らんでる」


 布をそっとめくった瞬間、思わず息を呑んだ。


 今までより、ずっといい。

 酸っぱい匂いも控えめで、ふわりと小麦の甘い香りがする。


 そっと指で押すと、生地がゆっくり戻ってくる。


 ああ。

 これ、今までと違う。


「マルクさん……!」


「焼け。俺が見届けてやる」


 力強く言われた。


 私はうなずいて、生地を分割し、丸め直す。

 手が震えそうになるのを必死でこらえた。


 失敗したくない。

 今度こそ。

 今度こそ、ちゃんと焼き上げたい。


 成形した生地を並べ、最後の発酵を待つ。

 それから、熱した窯へ入れた。


 扉を閉めた瞬間、胸の前でぎゅっと手を握る。


 お願い。

 お願いだから、膨らんで。


 何度も窯の前を行ったり来たりしていると、後ろから呆れたような声がした。


「そんなに見つめたところで、出来は変わらねえぞ」


「わかってますけど!」


 マルクさんが笑う。


 やがて、厨房に香りが広がり始めた。


 香ばしい小麦の匂い。

 酸味ではなく、甘くて、やわらかくて、懐かしい匂い。


 私は思わず口元を押さえた。


「……パンの匂い」


 この世界に来てから、ずっと探していた匂い。


 日本のパン屋さんで、毎朝当たり前のように嗅いでいた匂い。

 焼き上がりの時間になると、お店いっぱいに広がっていた、あの匂い。


 窯の扉を開ける。


 そこには、丸く膨らんだ白いパンが並んでいた。


「……できた」


 声が掠れた。


 ふわふわ、というにはまだ少し足りないかもしれない。

 日本で作ってたパンみたいに完璧ではない。


 でも、今までとはまるで違う。

 ちゃんと膨らんでいる。

 ちゃんと、パンになっている。


「できた……!」


 そう言った瞬間、目の奥が熱くなった。


「おう。ようやくか」


 マルクさんの声も、どこか嬉しそうだった。


 私は焼きたてのパンをひとつ手に取ろうとして、慌てて指を引っ込める。


「あつっ」


「当たり前だ」


 マルクさんに笑われながら、布を使ってそっとパンを持ち上げた。


 その時だった。


「……まだやっていたのか」


 低い声が、厨房の入り口から聞こえた。


 振り返ると、公爵様が立っていた。


 いつものように少し疲れた顔。

 でもその目は、作業台の上のパンをまっすぐ見ていた。


「公爵様……」


 どうしよう。


 胸がどきどきする。

 まだ味見もしていない。

 成功かどうかも、ちゃんとはわからない。


 でも。

 私はこのパンを、一番にこの人に食べてもらいたいって思った。


「あの……」


 私は布に包んだ焼きたてのパンを、そっと差し出した。


「よかったら、食べていただけませんか」


 公爵様は一瞬、私の顔を見た。

 それから、差し出したパンへ視線を落とす。


「……いいのか?」


「はい。公爵様が、粉を用意してくださったから焼けたんです」


「……俺は、取り寄せただけだ」


「でも、嬉しかったんです。すごく」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 公爵様は何も言わず、パンを受け取った。

 そして、まだ湯気の立つそれを半分に割る。


 ふわり、と白い湯気が上がった。

 中は、今までで一番やわらかそうだった。


 公爵様はしばらくそれを見つめてから、ひと口食べた。


 私は息を止める。

 マルクさんも静かにその様子を見守っていた。


 公爵様はゆっくりと咀嚼して、それからもう一度パンを見た。


「……美味い」


 たったそれだけ。

 でも、その一言で、胸の奥がいっぱいになった。


「本当、ですか?」


「ああ」


 公爵様は、もうひと口食べた。

 それから、さらにもうひと口。


 気づけば、半分に割ったパンの片方はすっかりなくなっていた。


「……前のも、悪くはなかった」


「はい」


「だが、これは違うな」


 公爵様は少しだけ言葉を探すように黙った。


「……これは、また食べたいと思う味だ」


 その瞬間、我慢していたものがこみ上げてきた。


 泣くな。

 泣くな、私。


 まだ完成じゃない。

 もっとふわふわにできる。

 もっと美味しくできる。


 それでも。


 ここで、この世界でもちゃんとパンを焼けた。


「あ、ありがとうございます……!」


 頭を下げると、ぽたりと涙が落ちた。


 慌てて顔を上げる。


「あっ、すみません! 泣くところじゃないですよね。まだまだ改良しないといけないし、これで満足してる場合じゃなくて」


「満足していないのか?」


 公爵様が少し驚いたように尋ねる。


「はい。だって、もっと美味しくできます」


 そう言うと、マルクさんが腹の底から笑った。


「ハハハ! やっぱりお前はパン職人だな!」


 厨房に笑い声が広がる。


 公爵様も、ほんの少しだけど口元を緩めた。

 その顔を見た瞬間、なぜだかまた胸が熱くなった。


 私はもう一度、焼きたてのパンを見下ろす。


 異世界でのパン作り。

 失敗ばかりで、何度も心が折れそうになった。


 それでも、私の失敗作を食べてくれる人たちがいた。

 がんばれって声を掛けてくれる人たちがいた。

 必要なものを、黙って用意してくれる人がいた。

 そして、最後まで見届けてくれる人がいた。


 だから、これは私ひとりで焼けたパンじゃない。


 なのに――


「……よくやったな」


 公爵様はそう言って、私を見ると静かに目を細めた。

 そのアイスブルーの瞳には、もう冷たさなんて微塵も感じられなかった。


 胸の奥がぎゅっと熱くなる。


 また泣きそうになって、慌てて笑おうとした。

 けれど、うまく笑えたかどうかはわからない。


 公爵様が、こちらへ一歩近づいた。

 そして、手を伸ばしかける。


 まるで、頭を撫でようとするみたいに。


 けれどその手は、途中でぴたりと止まった。


 公爵様は自分の手元にあるパンを見下ろし、それから、そばにいるマルクさんへちらりと視線を向けた。


 そして何事もなかったように、残りのパンをちぎって口へ運ぶ。


「……明日も焼くのだろう」


「はい」


「なら、今日はもう休め」


 ぶっきらぼうな声だった。

 けど、その言葉から公爵様の優しさがにじんでいた。



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